目が覚めたら、(先輩の)体が縮んでしまっていた!
……なんてことはなく、僕はこの状況が夢だとわかっている。現実に幼児化する毒薬は存在しないし、さっきから先輩に顔を容赦なく引っ張られているがこれっぽっちも痛くないからだ。普通、人間の頬はこんなに伸びない。
おおよそ3歳くらいと見られる先輩は、縦横無尽に跳ね回る怪獣のようだった。床を蹴り、壁を蹴り、僕を蹴って飛び上がる。夢の中だからってそんなに超人にならなくても。現実の先輩もかつてはこんな感じだったという可能性には目をつむる。だって怖いので。
それでもなんとか先輩をあやし、なだめすかして膝の上に乗せて抱きかかえる。これで一安心だ。先輩は僕の膝がお気に召したらしく、ここが玉座であるかのようにふんぞり返っている。なんというか、今の先輩とは違うけど、これはこれで先輩らしい。
いかにも夢らしく、理由はないがそろそろ朝になるとわかったので、小さな先輩を床に下ろし、ばいばいと手を振る。すると先輩はくりくりの瞳と同じくらい大きな涙をぼろぼろとこぼし、「いかないで」と消え入りそうな声で言った。
その破壊力と言ったら! ちっぽけな先輩を抱きしめて、僕は「どこにも行かないよ」と囁く。ひとりではとても生きてはいかれない小さな命が、とくとくと僕の腕の中でうごめいている。叶うなら、ずっとこうしていたかった。ずっとこの夢に溺れていたかった。
そんなことが許されるはずもなく、無慈悲にも僕は目を覚ます。手のひらに小さな温度が残っている気がした。僕はあの小さな怪獣のような先輩が、無事に今の神様みたいな先輩へと成長してくれることを祈る。
ところで、昼休みに顔を合わせた先輩に「君がひとりで巨人みたいに大きくなるから羨ましくて大暴れする夢を見た」と言われた。先輩の方が小さくなってたんですよ、と言いたくなるのを僕は既のところで堪える。僕が一瞬でも今の先輩より小さい先輩を選んだと知ったら、先輩は小さくなくたって大暴れすることだろう。
何事も無限なんかじゃないってこと、すべては有限なんだってこと、時間は平等だってこと。子供でも知っている。嫌というほど。
「ずっとこのままでいようか。時間も全部止めちゃってさ」
だけど先輩はそんなのお構いなしで、いつもどおりの笑顔で魔法みたいな言葉を吐く。夕焼けを背にした先輩は震えるほどに美しい。たまたま人の形をしているだけの神様のようだ。
時間を止めるなんてどうやるんだろう。わからないけど、先輩なら本当にできてしまいそうだと思った。だから聞くと、「簡単だよ」と先輩は笑う。いたずらっ子の笑み。それを見て初めて、僕は万能な神様といたずら好きな子供が紙一重であると知る。
「学校中の時計を止めちゃえばいい」
「時計を止めたって時間は止まりませんよ」
「でも、今すぐ帰らなくちゃいけない理由はひとつ減る」
ああ、なんで先輩は気づいてしまうんだろう。普段は何も考えていないような顔をして、適当ばかり言うくせに。こういうときだけ間違えずに救いの手を差し伸べるから、僕はいつまでもこの人の向こうに神様を見る。
「ね、ずっとだよ。ずっとこのまま。いいでしょ」
何がいいのか、もはやわからなくて。それでも、先輩の言葉は耳に馴染んだ。ずっとこのまま。ずっとこのまま。
それでもいいかな。それでもいいよ。先輩の声が優しく答える。この無邪気で完璧な神様の誘いを、拒める人がこの世にいるのか。わからないまま目をつむる。隣に寄り添ってくれる熱が、ずっとこのまま、離れないことを祈っている。
ひどく寒さが身に染みる。こんな放課後は寄り道である。
学校から少し離れた公園には、さまざまな屋台が日替わりで出る。今日はこの寒さにふさわしいたこ焼きだった。僕は定番のソースを、先輩はチーズたっぷりを頼む。
僕はどんなものでも定番が好きなのだが、先輩が食べているとろとろのチーズがかかったたこ焼きはとてもおいしそうだった。ひとつ交換してほしいと先輩に頼むも、先輩はカフェオレを飲みながらニヤリと笑って聞こえないふりをする。いつも思うのだけど、たこ焼きとカフェオレって合うのだろうか。
風がしのげる場所に座って、あつあつのたこ焼きを食べながら、なんでもないことをだらりと喋る。それだけの放課後が僕は好きで、だから僕は先輩と一緒にいるのだった。
ところで、先輩は寄り道の最後に決まってこう言う。
「私の家こっちだから。また明日ね」
そして手を振って去っていく。その方向が定まったことは一度もない。同じ場所に寄り道をしたとしても、必ず違う方角を指差し、毎回違う道に向かうのだ。そんな先輩の背中を見ながら、僕はいつも少し不安になる。
先輩はひどくいい加減で、どこまでも気ままな人だ。そのとき行きたい方向を指して、家まで遠回りして歩いているのだろう。そうは思うのに、時々疑ってしまう。先輩なんて、本当に存在するのだろうか。
先輩を見送りながら、僕は心にまでこの寒さが染みているような気がして、さっき食べたたこ焼きの熱を必死に思い出そうとする。そして、先輩の言う「また明日」だけを信じていようと思う。
先輩は先輩で、僕は後輩だから、先輩の方が一足先に20歳になる。だけど、お酒を飲んでいる先輩も、煙草を吸っている先輩も、なんだかうまく思い描けない。先輩はシャンメリーの入ったグラスを回しながら、ココアシガレットを指先で弄んでいるのがよく似合うのだ。最大限カッコつけて、大人のふりをしている子供。だからこそ自由で、だからこそ美しい。
ひとりだけ先に大人になった先輩の隣に、子供の僕はいられるのだろうか。せめて、僕が大人になるまで、時間を止めて待っていてくれたらいいのに。
「先輩、1年くらいコールドスリープする気ないですか?」
「君も一緒に寝てくれるなら別にいいよ」
僕まで眠ってしまったら、その間に先輩に追いつく計画が台無しだ。「それだと意味ないんですよ」とぼやけば、先輩は残念そうな顔をした。
「夢の中でココアシガレットくわえながらジープ乗り回して、シャンメリータワーで乾杯したかったんだけど」
「……僕と一緒に?」
「君と一緒に」
単純な僕はそれだけで満足して、「いつか現実でやりましょうね」と約束を取り付ける。先輩は約束を破らないから、僕達は大人になっても馬鹿げた夢みたいなことで大真面目に遊び続けるのだ。
「お月さまって、なんでひとつしかないんだろう」
遠くを見つめて先輩は言った。その一言だけで、僕は宇宙を旅する猫みたいな気分になった。月って、ふたつ以上ほしいものだろうか。
月は北極星なんかと違って動くから、道しるべには向かないけれど、それでも、行き場のない暗闇を照らしてくれる光ではあるはずだ。縋れるものがいくつもあったら、どれを頼りにしていいかわからない。
そんな夜をこれっぽっちも知らない先輩は、言う。
「だってふたつあったら、三日月の夜は笑ってるみたいに見えるでしょ?」
屈託なく笑うその顔を見て、僕は知る。夜空が笑っていると、先輩は嬉しいのだ。それなら月がふたつあったっていい。満月の夜はぱっちりおめめだし、新月の日はどこに目があるのかすらわからないけど、空も笑う日があるというだけで、明るくなる心もきっとある。
「右の月には私が住むから、左の月は君にあげよう」
「当然のように所有権持ってますね、先輩」
「地球が滅んだら移住する予定なんだ」
目に住んでしまったら、笑っている夜空を自分では見られなくなる。そういう細かいことをきっと先輩は何も考えていない。先輩はいつも適当だ。
そして先輩はひどい人でもある。とてもひどい先輩は、僕と一緒の月には住んでくれないらしい。月と月の間を行き来するロケットが、その頃には出来上がっていてくれないと少し困る。