一ノ瀬

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「お月さまって、なんでひとつしかないんだろう」
 遠くを見つめて先輩は言った。その一言だけで、僕は宇宙を旅する猫みたいな気分になった。月って、ふたつ以上ほしいものだろうか。
 月は北極星なんかと違って動くから、道しるべには向かないけれど、それでも、行き場のない暗闇を照らしてくれる光ではあるはずだ。縋れるものがいくつもあったら、どれを頼りにしていいかわからない。
 そんな夜をこれっぽっちも知らない先輩は、言う。
「だってふたつあったら、三日月の夜は笑ってるみたいに見えるでしょ?」
 屈託なく笑うその顔を見て、僕は知る。夜空が笑っていると、先輩は嬉しいのだ。それなら月がふたつあったっていい。満月の夜はぱっちりおめめだし、新月の日はどこに目があるのかすらわからないけど、空も笑う日があるというだけで、明るくなる心もきっとある。
「右の月には私が住むから、左の月は君にあげよう」
「当然のように所有権持ってますね、先輩」
「地球が滅んだら移住する予定なんだ」
 目に住んでしまったら、笑っている夜空を自分では見られなくなる。そういう細かいことをきっと先輩は何も考えていない。先輩はいつも適当だ。
 そして先輩はひどい人でもある。とてもひどい先輩は、僕と一緒の月には住んでくれないらしい。月と月の間を行き来するロケットが、その頃には出来上がっていてくれないと少し困る。

1/9/2026, 1:22:14 PM