三人でゆっくりと朝食を摂ったあと、父はふらっと散歩に出かけ、母と私はキッチンで洗い物を片付けていた。
「明日からお父さんと二人きりになって、寂しくなっちゃうね」
「そうね…でも、お父さんを独り占めできるから、実は楽しみなのよね」
フフフ、と娘の前で惚気る母の手は食器用洗剤で泡々だ。
研究職として働く父は、よく一人で散歩に出かける。いつも難しそうな顔をしている父は、何故か無口な人に思われがちだが、普通に笑って普通に喋る。母のほうがよく笑いよく喋るから、敢えて黙っているんだと父はよく強がっている。
「お父さんはね、きっと…あなたと歩くバージンロードのことを考えすぎて、緊張しちゃっているのよ」
「お父さんの隣を歩いた記憶があまりないから、私はかなり嬉しいけどね」
私は明日、父のエスコートでバージンロードを歩く。
だから今日は、三人でゆっくり過ごそうと思っていたのに、父はさっと出かけていった。
私が小さかったころ、手を繋いで隣を歩いていたのはいつも母で、父はいつも後ろを歩いていた。
このころのぼんやりとした記憶を、彼との何気ない会話の中で少しだけ話したことがあった。
『隣にいないって物理的なことでしょ。お父さんの気持ちとしては、ずっとそばで寄り添って、ずっと隣で見守っていた、って思うよ』
彼が言ってくれた言葉を伝えると、母はずっと嬉しそうに頷いていた。
「じゃあ、私もとっておきのお父さんの話」
洗い物を終えたあと、父がいない隙に父の好きな緑茶を飲みながら、母が楽しそうに話し始めた。
「小さいころのあなたは、よく物を落とす子だったの」
小さな手で握りしめていたはずの、砂場で遊んだおもちゃのスコップやお気に入りのぬいぐるみをすぐ落としていたらしい。そして、それを拾っていたのが父で、渡したあともまたすぐに落としてしまうから、いつも父は私の後ろを歩いていたのだと、まるで昨日のことのように、母は鮮明に覚えていて、私に話してくれた。
「そうだったの?全然覚えてない」
「そのときのお父さんの顔が今でも大好き」
「どんな顔していたの?」
「まだ、教えない」
「えー、ケチ」
思わず大きな声で笑い合った瞬間、外のドアが開く音がした。父が帰ってきたようだ。
「明日…お父さんと手を繋いで歩こうかな、バージンロード」
「あら、いいじゃない。楽しみだわ」
「お父さんには内緒ね」
人差し指を口元に当てて、小さく笑ってみせた。
「ただいま。大きい笑い声が聞こえたけど何かあった?」
「別に何でもないわよ。それよりお父さんも何か飲む?」
父の答えを聞く前に、母はちゃっちゃっとキッチンに向かう。私たちと同じ緑茶を淹れるのだろう。いつものことだ。
やれやれという表情をしながら、父は私の隣のいつもの場所に座る。
父の肩越しに、少し開けていた窓から風がそっと舞い込んだ。レースのカーテンが優しく揺れて、その隙間からは泣けるほど青く澄んだ空が見えた。お散歩日和だ。
私は父の隣でずっとニコニコと笑っていた。
【ずっと隣で】
ワクワクすることに出会いたい。
知らない何かをもっと知りたい。
そんな好奇心というものに形があるのなら、だんだんと小さくなっていて、色があるなら薄くなってきている、今はそんな感じ。
どんな感じだよ、思わず自分にツッコミを入れてしまう。
若いころは勝手に向こうからやって来ていた好奇心が、大人になればなるほど、向こうからは来てくれなくなった。
好奇心がなくなったわけではない。たぶん、気力と時間がないだけだ。
学生のころの私はどんな感じだったっけ?
ふとぼんやり、そんなことを考え始めた。
英語の時間に英和辞書を捲って気になった単語をノートに書き写していた。
国語の授業中には辞書を頭から読んでいた。
確か、歳時記も読んでいた。小春日和が秋とか冬のことだと知ったのは歳時記を読んでいたからだ。
スーパーに菜の花が並び始めると春が来たなと思うのは、歳時記を読んでいたことと繋がっている気がする。
新しい何かを急に始めることは難しいから、学生時代を思い出して、歳時記を読み返してみることにした。
春の季語と言えば、やっぱり桜。
桜餅も春の季語だよね。
春の季語の中に、草餅もある。よもぎっていいよね。
春になると、おばあちゃんがよく草餅を食べていたなあ。
祖母は緑色がとても好きで、草餅も綺麗な緑色をしているから好きなのだと子供ながら思っていた。
そういえば、宝石にも季語はあるのかな?
祖母はエメラルドの指輪を大切に持っていた。
今は、私が譲り受けたけれど、まだ似合わない気がして、着けて外出をしたことはない。
とても綺麗な緑色をした、祖母の宝物。
エメラルドの和名でも探してみたけど歳時記には載っていなかった。
エメラルドの和名「翠玉」はカワセミの羽の色からきているらしい。
綺麗な色の小さな鳥。
カワセミは載っていた…夏の季語だ。
好奇心というやつは、こっちから迎えに行かないと顔を出してくれないのかもしれない。
今度、本物のカワセミを見に行こうかな。
羽の色をこの目で確かめにいこう、あのエメラルドの指輪を着けて。
せっかく歳時記があるから、17音の俳句に挑戦してみようかな、
なんてことを考え始めている。
よかった、もっと知りたいという気持ちが私の中にちゃんと残っていた。
『カワセミを倣いて 祖母のエメラルド』
…なんてね。
【もっと知りたい】
2匹の恐竜が起きてくるところから朝は始まる。
「起きてー、朝ごはんだよ」
「ギャハハ、まだおきないよ」
「ギャハハ、ボクもおきないよ」
布団の中で二人して暴れ回っている。
こんなにも騒がしい朝が毎日続いていて、平穏な日常とは遠く離れた別世界に吹き飛ばされている感覚だ。
ようやく…本当にようやく、朝ごはんを食べたと思っても、次から次へと何かが起こる。
「ママー、でんしゃのがいい」
「電車のお洋服は洗濯だよ、昨日着たからね。こっちにしようか」
「いやだー」
下の子は駄々をこねる。
「ねぇママー、パパは?」
「お仕事に出かけたよ。起こしたけど起きなかったじゃん」
「じゃあ、おうちにいる。パパが帰ってくるの待つ」
「パパはすぐには帰ってこれないから、幼稚園行こうか」
「いやだー」
お兄ちゃんまで駄々をこね始める。
兄弟揃って朝から騒がしい。
しかし、騒がしいのは朝だけとは限らない。
幼稚園から帰ってきてからも二人で大騒ぎ。
仲良く遊んでいたかと思えば、急にケンカが勃発したりする。
「お兄ちゃんだけズルい!」
「これは僕のだ、触るな!」
ドンっと、音がしたと思った瞬間、下の子が「ギャー」と泣き出した。
ひとつのおもちゃを取り合いして、手が出てしまったようだ。
「僕は悪くないもん」
そう言うと、お兄ちゃんも泣き出した。
こんなことが日常茶飯事。
しばらくしたらケロッと仲直りして、二人で仲良く昼ごはんを食べ始めるのだ。
「こらっ!ご飯で遊ばないっ!」
ママの怒号も飛び交う、そんな賑やかすぎる昼ごはんが終わり、後片付けをしていると、急に二人が静かになった。
リビングをのぞいたら、二人が重なり合うように丸まって寝息を立てていた。
とんでもない体勢で寝てる…身体は痛くないのかしら。
そっと二人に近づき、スマートフォンで連写する。
泣き声笑い声が毎日ひっきりなしに響いているけど、二人の寝顔はたまらなく愛おしい。
二人が大きくなって、今日みたいな日を振り返ったときに、かけがえのない平穏な日常だって、思い出すのかもしれない。
二人のほっぺを押してみる。
大丈夫、まだ寝てる。
もっと二人に近づいて、ドアップの寝顔を写真に収めた。
【平穏な日常】
ふらりと入った雑貨店には、いくつもの皿やマグカップなどが並んでいた。
全国各地の作家さんたちのさまざまな器が並ぶ中で、コロンとしたフォルムの白い小鉢に惹き寄せられた。
真っ白ではない白、ところどころに見える地の色…飾り気のない力強さと優しさが感じられた。
北海道の陶芸家さんの作品で、大地に降り積もる雪をイメージしている、と店員さんが丁寧に説明してくれた。
探している食器があるというわけではなかった。
そもそも一人暮らしだし、料理が得意というわけでもないので、どちらかといえば、必要最低限の食器があれば十分だと考えるタイプだ。
それでも、小鉢を一つ買って帰った。
使い始めてすぐに、ちょっとした窪みが実は、使いやすくなるためのさりげない気遣いだと知る。
その日から、今まで興味のなかった食器を気にして見るようになった。
今更ながら、陶磁器といっても、模様が入っていたり、少しずつ色の出方が違ったり、本当にいろいろあるということを知れて、何だか楽しみが増えた。
そして私は気がついた。
あの小鉢をきっかけに食器を集めたいのではなく、あの小鉢を作った作家さんの食器を使いたいのだということに。
心地よく晴れた日曜日、あの雑貨店へ足を運んだ。
真っ白ではない白い器の中に、前回はいなかった白い鳥の形をしたお皿が置かれていた。
『身近な人の毎日が愛に溢れ、心に平和が続きますように…そんな願いが込められた作品です』
添えられた手書きの商品説明には、こう書かれてあった。
大皿というほどではないサイズ感。だけど、置く場所がない。
何より、私にはこのお皿に盛り付ける料理が思いつかない。
結局、何も買わずに帰宅したが、家に着いてからもずっと、あの白い鳥が頭から離れなかった。
やっぱり買いに行こう。
明日仕事が終わったら、すぐ買いに行こう。
どこに置くかは、買ってから考えよう。
次の日の仕事終わり、急いでお店へと向かったが、他の誰かの手に渡った後だった。
たぶん、今じゃなかったんだ。
愛と平和を願っているお皿を、こんなガツガツした感じで手に入れちゃだめなんだ、きっと。
少し強がって、呟いてみる。
自分のその声に深く相槌を打ちながら、前へと向き直す。
ひとまず部屋の掃除をしよう。
あの白い鳥のお皿をいつでも迎え入れることができるように、少しずつ準備を始めてみよう。
【愛と平和】
ハッピーなことも、アンハッピーなことも、聞いてくれる人が、私には一人いる。
高校からの友達で、言うなれば親友だ。
高校3年間クラスが同じだったこともあって、いつも一緒にいた気がする。
どんな話をしても、ポジティブな言葉に速攻変換してくる親友のワードセンスが面白くて、元気の出ないときも二人で話していたら調子が戻ってくる、そんな感じでいつも笑い転げていた。
あまりの騒がしさに、二人して先生に呼び出しを受けたこともあった。
「そんなことあったね。何で私たち呼び出されたんだっけ?」
高校卒業後は別々の大学に進み、会う回数は減ってしまったけど、就職してからも、時々こうして会っている。
最近はこの店で食事するのが定番で、ここのレモネードが相当お気に入りの親友は、今日もレモネードを飲みながら、学生時代の記憶を辿っている。
「えー、覚えてないの?箸が転んでもおかしいとは本当のことなのか、実際にやってみようってなって、箸を転がしていたらツボに入っちゃって。二人とも笑いが止まらなくなって大騒ぎしたんだよ」
「あったあった!くだらないなあ」
「あーあ、楽しいことばかりで、あのころは良かったな」
ストローをコップの中でクルクルと回しながら、頬杖をつく親友はやれやれと言わんばかりに私の顔を覗きこむ。
「大人になって良かったことあるでしょ?」
「例えば?」
私はストローを口にくわえたまま、親友に問いかけると、反動でコップの中のコーヒーと氷が少し動いた。
「急いでいるときの移動手段にタクシーを選べるようになったとか、美味しい食べ物にお金をかけられるようになったとか」
「それね…働き始めたって大きいよね。でも、働くって大変。嫌なことも嫌な人もめっちゃ増えたし。学生のころは気楽で良かったな」
くわえたままのストローでシロップたっぷりのアイスコーヒーを吸い上げると、コップの中で氷がカランと鳴った。
「まあ、なかなか状況は変えられないけど、見る角度を変えればいいんだよ。楽しかった日々はもう戻らないって嘆くより、過ぎ去った日々がカラフルな砂みたいになって、心の中で積もっていく…って私なら思うけどね」
「さすが。何でもポジティブにしてくれるね」
「だって、楽しんだもん勝ちでしょ」
親友はそう言い切って、残り少なくなってきたレモネードを名残り惜しそうに飲んでいる。
お互いに何となく気づいている。
二人で話すことで、本当の自分を取り戻そうとしているんだってことに。
今日という他愛もない日も、過ぎ去ってしまうけど、キレイな色の砂になって、心の中に積もっていくのだろうか…
二人のコップの中で氷がカランカランと綺麗な音を響かせた。
【過ぎ去った日々】