この世界は誰かの作った理想郷だ。
暗く閉ざされた空。無風の街中。すぐ傍にある世界の最果てと⋯⋯時々見えるたくさんの泡。
私達の世界は最果てにある透明な板1枚で守られていて、どうやって酸素を維持しているのかとか、何故こんな場所に街を作ったのかとか。疑問は尽きないけど⋯⋯この狭い箱庭(せかい)が私達の全てだった。
昔はもっと世界は広くて、空は色を変えながらその日その日を彩っていたらしい。
その世界には風が吹き、雨が振り、雷が落ちたり雹という氷の粒が降ってきたり。不思議な事がたくさんあったと先生は言っていた。
私達のこの世界は、先人達が技術を結集させて作ったもので、先の未来で起こるであろう事象から人類を守る為に作られたらしい。
そして数百年前に先人達が想定していた通りの事が起こって、今私達はこの場所で生きている。
どんな事が起こったのかはまだ習っていないけど⋯⋯私は昔の世界を見てみたかった。
色が変わる空だとか、様々な事象が起こる自然とか、風が運んでくるという様々な匂いとか。その全てを感じてみたいと思ってしまう。
叶わない願いだと分かっていても⋯⋯知ってしまった美しい世界に焦がれてしまうのは悪い事なのだろうか?
願わくばいつか、先人達の想定した事象が解決して、また昔の世界に⋯⋯あの遥か遠くの空を見れる日が来て、このガラス張りの世界から出られますように。
睡眠という行為が怖かった。
否、今でも怖くはある⋯⋯けれども、君が居てくれるから僕は少しだけ眠るのも良いかもしれないと思えた。
夜が苦痛だった。
両親の顔色を伺いながら夜を明かす地獄の時間。
だから幼少期はまともに眠れなかったし、それが普通だと思っていた。
けれど他人(ひと)は夜に寝て朝活動する。家から出て明るく暖かな場所にいると、途端に眠くなって意識をなくすけど⋯⋯すぐに目覚めてしまう。
だから僕は睡眠は嫌いで、人の三大欲求なんて言われる睡眠(それ)を嫌悪していた。
一人暮らしを始めてもそれは変わらず、ようやく安心して眠れる環境になったのに⋯⋯眠ってはすぐに目覚めてを繰り返す。
原因は明白で、眠ると必ず悪夢を見るからだ。
幼い時の夢。両親達からの罵声や物を投げられたり叩かれたりする夢を、毎回見てしまうから⋯⋯僕は恐怖で目が覚める。
だからいつも目には隈が出来ていて、人と関わるのも苦手だったから友人と呼べる人もいない。
でも1人は楽で、怖い事も嫌なことも起こらないから快適だった。
そんな日常に突然君がやってきて、僕の読んでいた本の話だとか、好きな事やら食べ物やらを聞いてきて、挙句放課後に手を引かれて街へと繰り出す事になる。
はじめて入ったお洒落なカフェでケーキ食べたり、コーラフロートっていう物を飲んだり、ショッピングモールで何故か僕の服を選んでくれて、ゲームセンターにも初めて行って遊んだ。
それは夢の様な体験で、とても楽しくて気付いたら帰る時間になっていて彼女にお礼を言ってその日は帰った。
それから彼女は僕と絡むようになって、色んなところに連れて行ってくれて、様々な体験をさせてくれる。
アミューズメント施設から食べ歩きまで、美容院とかやったことなかった事全部教えてもらった。
彼女と過ごした日は何故か悪夢を見ることなく眠れるから、翌朝とてもスッキリして起きれるし、体調も良好で快適に過ごせるから本当に助かっている。
眠るのも悪くないと初めて思えた瞬間だった。
相変わらず悪夢は見るけど、唯一僕を気にかけてくれる君が一緒なら、いつかこの悪夢も見なくなるんじゃないかって⋯⋯そんな事すら思うようになっていた。
他のモノなんて要らない。これ以上なんて望まないから⋯⋯どうか神様、彼女だけは僕から奪わないでください。
なんて、柄にもなく神に祈りを捧げた。
様々な船が大海原を進んでいく。それを私はただ見守っていた。
ゆっくりと進む船。猛スピードで駆け抜けていく船。小さなモノも、大きなモノも一様に自身のペースで前へと進んでいく。
けれども、その途中で止まってしまう船や嵐に見舞われて転覆しそうになる事も⋯⋯否、転覆してしまうモノもあるだろう。
それでも、各々が工夫を凝らしてこの海原をゆく様はとても尊く、私は見守るのをやめられなかった。
ある時は手を差し伸べ、ある時は背中をおした。
良縁を繋ぐ事もあったが、厄を祓う事もあった。
様々なモノ達の力を借りて、各々が目指す先をいく。
この船達の行く先には、まだまだ暗い夜が待つだろう。
己が答えに辿り着こうと、これからも足掻きながら進み続けるこの船達に、どうかこの光が―――私の導きが届く様に、そっとこの夜を照らし続けるのだった。
それは悪夢のような出来事だった。
本当の事を言っても誰一人信じてくれない、味方の居ないそんな地獄の様な場所へ連れ戻されて、家に無理矢理入れられ両親に罵倒されながら殴られ続ける。
いつまでそうしていたのか、もう分からないくらいずっと痛みに耐え続けていた時、ふと感じるふわふわと暖かな感覚。
それは私を包み込むような感じで、同時にふわふわした何かに顔を少し揺らされている感じがした。
その感覚のお陰で、これは悪夢(ゆめ)であると気付く。私は目覚めようとその暖かい感覚に意識を向けた。少しすると両目に少しずつ光が見えてきて―――私はようやく目を覚ました。
「あぁ、良かった。おはよう優羽。
何だか魘されていたみたいだから起こしてしまったんだ。
大丈夫かい? まだ眠いなら寝てても良いんだよ」
そう優しく声をかけてくれる不思議な生物を見て、私は心底安心する。
「おはようエレムルス。ちょっと悪夢を見てたんだ。だから起こしてくれて助かったよ、ありがとう」
そう言って彼の首に抱きついた。彼は何も聞かず静かに私の好きなようにさせてくれる。少しそうしているとようやく落ち着いてきて、私は彼から離れ身支度をした。
彼が作ってくれた朝食を食べて、彼と一緒に森の中に行き、今日必要な分の食料や薪を調達する。
その合間に少し遊んだり探検したりして、私はこの森での生活を満喫していた。
基本的にお祈りをしに来る人以外は、この場に訪れる事がなく⋯⋯とても静かで平穏な森だ。
人を襲う動物もいない、私を責め立てる人もいない。
エレムルスとの生活は、毎日が穏やかで安心する日々だ。
それなのに、眠りについた途端⋯⋯見るのはあの日の続きばかり。もっと幸せな夢が見たかった。出来ることなら全て忘れて、ここで暮らしていきたいと―――私は思い始めている。
あの場所での全てを捨てて、そしたらずっとここで穏やかで、暖かな幸せに包まれて暮らしていけるのに⋯⋯と。
「何かあるなら祈ってごらん。叶えられるモノなら私が叶えるよ」
そんな私の思いを察したのか、エレムルスはそう言った。
出来るかどうかは私には判断できないけど⋯⋯やってみる価値はあるかもしれない。
そう思った私は先程の願いを強く念じた。
また光が何かを成形していく。それが終わって出てきたのは黒いチューリップだった。
「おや、これはまた⋯⋯凄いものを出してきたね」
そう言ってその花をパクリと食べたエレムルスは、どこか納得したように頷くと私に顔を擦り付けてくる。
私はくすぐったくて笑ってしまったが、そうしている間に「本当に良いのかい?」と少し悲しそうに問われた。
けれど私は「うん、お願い」とだけ答えると、彼は「今夜は安心して眠りなさい。明日の朝には過去は全て無くなるよ」と言ってくれた。
そうして私達は家に帰り、夕食とお風呂を済ませて眠りについた。
翌朝、とてもスッキリした朝を迎える。ここに来てはじめて彼よりも早く目覚めたのが嬉しくて、早々に身支度を整えて朝ごはんを作った。
「おはよう、優羽。今日は早起きだね」
よく眠れたかい? と問う彼に「うん! 凄く良く眠れたよ。ありがとう!」と答えて、さっき出来上がったばかりの朝食を盛り付けてテーブルに並べると、2人で今日は何をしようかと話し合いながら食べた。
この世界には変な理がある。
皆は当たり前だと思っているみたいだけど⋯⋯私には何故そうなるのか理解できなかった。
それは―――“人は死ぬと泡になって消える”というものだ。
人以外の生物は何故か死体が残るのに、何故人間だけ泡になるの? と昔両親や先生に聞いたが、誰もが「それが当たり前だから」と言うだけだった。
その当たり前に起こる出来事が何故、どういう原理でそうなるのかを聞いているのに、誰もがそれを説明できず⋯⋯時には怒鳴りつけてくる人もいる。
当たり前の事を疑問に思う事っていけない事なの?
どうしてそうなるのか、理解しようとするのは変な事なの?
幼心にそう思っていた。
だから私は、試してみることにしたんだ。自分自身の死をもって、その事象がどんなモノなのかを体験する。
これで調べるのはどの程度までいくと死亡扱いになり泡になるのか。そして可能ならその泡の正体を突き止められたら尚良しとそう考えていた。
それは一度限りの挑戦、失敗しても成功しても泡になるのは確定していて、私のその後は跡形も無く消えその場に残るのは大量の血液のみとなるだろう。
それでも、好奇心・探究心は抑えられなかった為、早速準備に取り掛かる。
お風呂に湯をはり、その間によく切れるダイヤモンドカッターを用意しておく。それから防水対策をしたスマホでメールを立ち上げて、ちゃんと文字が打てるか動作確認してから、血液処理は大変面倒なので、湯船の側面から床と壁の下の方にブルーシートで覆い、防水テープで固定する。排水溝の所だけちゃんと流れるように切り取り、その部分も防水テープで止めておく。
お湯は半身浴で十分なので然程溜めずに40度以下で、のぼせないように⋯⋯でも血行はちゃんと良くなる様にと色々考えてこうなった。
準備がすべて終わる頃にお風呂が沸き、私は早速半身浴を始めると手首を思いきり切った。
狙うのは出血死。けれどショック死してしまう可能性も考慮して切るときの力配分を決めたので、ここまでは問題なく進んだ。
少しずつぽかぽかと温まっていく体とじくじくとした痛みを伴いながらも、ブルーシートの上に投げ出した腕の傷から流れていく血液。
初めの方は余裕であったが⋯⋯時間が経つにつれ段々と頭がクラクラしてきた。血行が良くなるにつれて出血量も増えてるのか、少しずつ目眩がひどくなっていく。
『これは⋯⋯意識をなくした後に、泡になる感じかな? だとしたら私の死は無駄になるな』
そう考えた時、視界に何かが映る。
ハッとしてそれに、焦点を合わせると泡が飛んでいた。
ふわふわと上へ上へと飛ぶ泡は、その内天井に当たって割れてしまう。
傷口をみるが、あの割れた泡以外には現れる様子がなかった。
『どういう事だ? 何が原因で泡が出た? さっきまでは何も⋯⋯』
そう考え始めるとまた視界に泡が見えた。
もしかして――――――この泡は私達の思考から生まれているのか?
そう考えたらまた1つ泡が出た。それが答えだったらしい。
私は急いでスマホを手に取ると、この実験の詳細と泡の正体について全てその中に書き込んだ。
つまるところ、私達人間が死ぬと泡になるのは、走馬灯のようなものが作用して、それが泡になっていたらしい。
その記憶や想いが膨大で、それにより1人の人間が消えてしまうほどの泡が発生していたのだ。
この泡は私達の体を糧に作られているのだろう。たくさんの思い出とか強い願いみたいなのがあればある程、大量に出るから消費も激しくて“泡になって消えた”様に見えたのだと。
それなら私は、最後に何を思おうか、と血液の流出で鈍くなった思考で考える。
そうしてもう一つ今浮かんだ実験に使おうと、またスマホにその実験内容を描き記しクラウド保存した後に、検証実験を開始した。
私のやりたかった事を、この実験の真実を明かしたいと、全力で仮定等を考え続けた。
その度に大量の泡が私の腕の傷から飛び出し、そのうち二の腕や掌からも出てきて段々と私の体は泡に食い尽くされていく。
私の仮定は合っていたんだ! と嬉しくなる。書ける内にと実験結果も記してクラウド保存し、私は凄い満足感の中で一息吐く。
もう片腕1本無くなっている状態だ。出血量も酷い為、助かる見込みはほぼないに等しい。
けれども、自分の知りたかった事を知れて⋯⋯原理は暴けなかったけど、少なくとも泡の正体は理解できたから満足していた。
だから最後は、自分の為にその泡を作り出そうと思う。
ひどい目眩と倦怠感の中で、私は一呼吸置いてから⋯⋯大して回らなくなってきた思考をフル稼働させて、死ぬその瞬間まで――――――幸せな夢を描き続けた。