積み上げられたモノを崩すのは一瞬だ。
幸せも実績も信頼も⋯⋯積み上げるのは簡単なのに、崩れたモノをもう一度同じ様に積んでいくのは難しい。
それはきっと人生や私(じぶん)という人格も同じなのだと思う。
だから私は全てを失ったこのタイミングこそ、絶好のチャンスだと思った。
幼い頃からずっと考えていた――――――“死なない自殺”を試すチャンスだと。
そも、自殺と言う言葉を使いながら死なないとはどういう事かと思うだろう。
まず前提として、人の死には種類がある。
1つ目は誰もが思い付く物理的な死。
これは事故や自殺・病死等の事象により体が崩れて生命活動がなくなる事と私は定義している。
心肺停止状態である事が絶対条件の分かりやすい死だ。
2つ目は精神的な死。
これは心と呼ばれる不確定要素が絡むもので、その人物を知る者がかつての面影がないと言う程精神崩壊を起こした状態であると定義している。
そして最後は記憶上の死。
これは1つ目の物理的な死の後に起こるもので、死者を思い出す人がいる限りその人は本当に死んだ事にはならないと私は思うのだ。
人が本当に死ぬ時、それは誰の記憶からも抹消された時であると⋯⋯私は思っている。
そして私の言う“死なない自殺”とは、先に上げた定義の中の2つ目。精神的な死を自身で行う事を指す。
これは私の持論だが、この方法を成功させれば生きながら転生出来る画期的な方法だと自負している。
やり方は簡単。精神崩壊を起こすと言われている鏡に向かって「あなたは誰?」と毎日問い続ける方法を使用し、精神崩壊を誘発させるだけ。
ただし前準備としてあらかじめノートに自身の理想像をさも自分の事の様に書いておき、崩壊した後にそれを読める様に目に付く場所に置いておかなければならない。
これは精神的な死をむかえて、真白になった状態の自身にインプリンティングを行う大事な工程になる。
ここで失敗した場合、元に戻れないどころか狂人と化してしまう為、大変危険な状態となる。
制御するのも難しく周りに迷惑がかかるため、確実に成功させなければならない。
私は何度も読み返して理想像を作り上げ、それを自分の事の様に何とかまとめて書き切った。
それを枕元に置き、ベッドの中で毎日手鏡に映る自分を見つめながら「あなたは誰?」と何度も問いかける。
1日に5分から10分程度を寝る前に部屋を暗くしてやり続けた。
段々自分という存在が、鏡に映るその顔が歪に見えて恐怖を覚えてくる。
コイツは誰だ? 私とは何なのだ?
疑問や猜疑心が生まれ、常に恐怖と不安を抱くようになった。
それでも続ける。理想の自分に生まれ変わるために、自己崩壊を起こして新しい私に生まれ変わってみせる!
ゲシュタルト崩壊を起こすまで、私は不安と恐怖と戦いながらそれを続けた。
◇ ◇ ◇
アラームの音で起きる。酷く頭が痛く、倦怠感で起き上がる事は愚か⋯⋯手を動かすのも難しい。
一体私に何があったと言うのだろうか?
昨日の事を思い返してみても、全く思い出せなくて少し困惑する。
痛い頭をおさえて何とか体を動かすと、開いたままのノートが目に映る。
私はそれを緩慢な動きで手繰り寄せると、そこには私のプロフィールが書かれていた。
多分筆跡が自分のものなので、自分で書いたものだと思うけど⋯⋯何故こんなものを書いたのだろう?
疑問はつきないけれど、分からないものはいくら考えても分からないと結論づけてもう一度ベッドに重い体を預けた。
本当にキツくて、このまま二度寝する事にして目を閉じる。
何か大切な事を忘れている様な⋯⋯むしろ自身の手で大切な何かを殺してしまったような―――そんな変な錯覚すらしたけど、それらを頭の片隅に追いやって全部忘れて眠る事にした。
眠りに落ちる間際。何故かとても悲しくなって、自然と涙がこぼれ落ちる感覚がした。
私は恋バナが嫌いだ。厳密に言えば恋心に恐怖を抱く。
それは幼い頃のトラウマが原因で、それ以来私は恋愛に関する事を遠ざけるようになった。
高校生になった今でも、正直怖いけど⋯⋯恋バナとか恋愛系ドラマの話とか、女子の好きそうな話のネタはしっかりおさえておかないと友達付き合いは難しいから―――またあの地獄の日々を過ごすのが嫌で、日々恐怖を抑えながらそう言った情報を仕入れていた。
「ねぇ、美智はあんまこういう話しないけどさ? なんかないの? 好きな人とか気になってる人とかさ!」
放課後の教室で支度しながらこれからどこ行こうと相談してて、話が脱線し結局恋バナになって教室の一角で長話していた時だった。
1人の友人がそう私に振ってくる。
「話をしないって言うより出来ないだけだよ。好きな人も気になる人も今のところいないから」
そう返すと「えぇ~、ちょっとくらい良いかもって思う男子くらいいるでしょ?」とか食い下がられて、もう正直怖すぎて頭が真っ白になりかけてた。
どうしてそんなに聞こうとするの?
大丈夫だよ。あなたの好きな人なんて私好きにならないから、安心して攻略してください!
心の中で念じたところで相手に通じる訳もなく⋯⋯どう返答しようかと悩んでいると「黒須さん」と呼ばれ、そちらに向くと同じ委員会の葉桐君がいた。
「話してるのにごめんね。今日担当の子が休みだから、急で悪いんだけど委員の仕事やってもらえないかな? でも、無理なら断ってくれて大丈夫だからね」
申し訳なさそうに言う彼。私は友人達に向き直るとごめんと謝って委員会に出ることにした。
そういう理由ならと快く送ってくれた事に安堵しつつ、彼と図書室へと向かう。
図書室につくと担当しているはずの子が誰一人居なくて、2人共休んだのかと驚いたが⋯⋯荷物を置いて早速仕事に取り掛かる。
今日は確か新刊が入る日だから、それを処理すればいいのかなと思い、とりあえず図書準備室に入り新刊を確認する。
結構な量がありこれは1人だとキツイだろうなと、あの時教室に残ってて良かったと心底思った。
多分1日では終わらないだろうけど⋯⋯1人で捌くよりかは幾分かマシだろう。そう思いつつ私は早速新刊処理をしていく。彼も同じ様に作業しているがちょくちょく返却と貸し出しに呼ばれるので、手が空いた方が対応しつつ黙々と作業し続けた。
気付けば下校時刻になっていて、結局終わらなかったけどそれは明日の担当に任せてさっさと戸締まり確認して荷物を持ち図書室の鍵を閉めて鍵を返却し学校を出る。
その間も私達はあまり会話せずにいたけど、自然と一緒に帰っていることに気付く。
そういえば、葉桐君って帰り道こっちだったっけ?
と少し疑問に思っていたら彼から話しかけられる。
「今日はいきなりだったのに、手伝ってくれてありがとう。もう遅いから送っていくよ」
流石に暗くて危ないからね。
そう付け足した彼の言葉に甘えることにする。正直、いくつになっても暗闇は怖いのだ。これもトラウマのせいなのだけど⋯⋯なるべく明るく賑やかな通りを行くようにしていても、家の周辺になると住宅街の為、人通りは減ってしまうからとてもありがたかった。
「こっちこそ、あの時正直返答に困ってたから話しかけてくれて助かったよ。それに遠回りになるのに⋯⋯ありがとう」
そう返した私に少し悩むような素振りを見せた彼。
「⋯⋯こういう事ってあんまり聞かない方が良いと思うんだけどさ。黒須さんは恋愛の話とか苦手なのかなって思って、本当は急ぎでもないし1人でやろうと思ってたんだけど、偶々通りかかった時に困ってそうだったから話しかけちゃったんだ」
少し申し訳なさそうに困り顔で笑う彼を見て、私は何となくこの人になら話しても大丈夫かも知れないと思い、かい摘んでトラウマの事を説明した。
昔、友人達に無理矢理好きな人を言わされて、それがリーダー格の好きな人と被ってたらしくて酷いイジメにあった事。
その時に暗いところに閉じ込められたことがあり、少し夜が怖い事もその時から恋心を抱くのも抱かれる事も怖いのだと。
彼は真剣に聞いてくれて「そんな事があったら確かに怖くなると思う」と私の心に寄り添ってくれる。
はじめてそんな風に言ってもらえて、それだけで嬉しくなった。
だからだろうか?
いつもなら絶対に思いもしない言葉が自然と口をつく。
「いつかこの記憶が風化して、私もちゃんと誰かを好きになれれば良いんだけどね」
そう自嘲気味に笑う私に「全ての人がそういう酷い人ばかりじゃない。だからきっとそういう日が来るよ。案外近い内に来るかも知れない」と最後は少し冗談めかして言ってくれた。
そうこうしている内に家に着いていて、私は彼にお礼を言い「気をつけて帰ってね」と伝えて家に入った。
後日学校に行くと先日恋バナで食い下がってきた友人に謝られ、私の事情をなぜ知っているのかと疑問に思っていたら、なんと葉桐君は彼女の幼馴染である事が判明。
その時になぜ恋バナをさせたがったのか理由も話してくれて、今度は私が赤面する事になる。
「お! その反応は満更でもない感じかな? 幸也に報告しとこうっと!」
なんて嬉しそうに、けれど悪戯が成功した子供の様に無邪気にはしゃぎながらスマホでメッセージを打つ彼女に、小さな抗議をする事しか出来なかった。
凍てつく空気の中で、いつも部活に勤しむ彼を見つめていた。放課後の部室で窓側を陣取り、こっそりと風景を描くフリをして君の背中を追っている。
コンクールに向けて描くように言われていたが、私はモチーフが決まらなくてそれを決める為にも風景や花などをデッサンして構想を練っていた。
それでも全く決まらなくて、その理由は何かと考えた時にある事に気付き⋯⋯そこから自身が知らず知らずの内に恋していた事に気付く。我ながら鈍すぎると失笑したが、これに気付いてからなぜ構想が決まらないのかも見えてきた。
絵の構想を考えていると彼が頭の中にちらついて、集中できなくなるのだ。困った事にこれは授業中や友人の話を聞いている時にも起こり、正直日常生活に支障をきたすレベルであると自覚する。
事は急を要し事態は深刻。しかし友人に話すのは、どこからこの想いが広まるか分からないため憚られた。そして私が出した結論が、近所に住むめちゃ可愛いくて優しいで有名なおばあちゃんのお多麻さん。
たまたま下校中に会えたので、少し話をした時にお多麻さんが「週末、家においで」と言ってくれたので、早速帰宅後にお母さんにその旨を話、翌日にお多麻さんが好きそうなお菓子を買いに行く。
そして週末まで何とか乗り切りお多麻さんのお家にお邪魔する。
その時に持ってきた手土産を渡したら、お多麻さんは喜んでくれてお茶と一緒に出してくれた。
そして私は今悩んでいる事を全て話した。
コンクールの絵の構想が思い浮かばなくて、その原因を模索してたら恋していた事に気付き、今現在⋯⋯何してても彼の事が頭にちらついて集中出来ないと。
話を聞いたお多麻さんは「あらあら、まあまあ!」と嬉しそうに聞いていた。
そして彼女は少し考えてからこう言ったのだ。
「頭から離れないなら、もういっそ彼を題材に絵を描いてみたら?」と。
青天の霹靂だった。まさに雷に打たれるような感覚に陥り、驚き固まっている私を他所に「お菓子(これ)美味しいわね! どこのかしら?」と呑気にお茶を飲みつつ私の持ってきたお菓子を食べている。
その発想は無かった。
そうか、いっそ頭から離れないなら彼を描いてしまえば良いのか!
そう思うと今まで湧いてこなかったインスピレーションが湯水のように湧き上がってくる。
ああでもない、でもこのモチーフは入れたい等など⋯⋯たくさんのアイディアと構想が思い浮かぶ。
その事を伝えお礼を言うとお多麻さんは嬉しそうに笑い「お役に立てたなら嬉しいわ。その絵が完成したらぜひ見せてね!」と言ってくれた。
その後は構想についても相談にのってもらった。終始楽しそうにでも私では思い付かない方法でモチーフを組み合わせたりして、とても面白く勉強にもなった。
あっという間に夕方になり家へと帰る。お多麻さんのお家から出る際にもう一度お礼を言い「お邪魔しました!」と伝えて帰宅した。
その後は夕食とお風呂を最速で終わらせて、お多麻さんと話して得た構想をスケッチブックに描いていく。
色鉛筆を使って軽く色の配色を決めつつ、塗るのはアクリル絵の具なので自分の想像通りに濡れるか少し検証して、その日は終わった。
翌日の休みは忘れていた課題を即終わらせて、昨日の続きをする。
概ね構想通りの色合いに出来たので、これを部活の時間にキャンバスに描いて行くことにした。
それから冬休み中に完成させて何とかコンクールには出せた。
その事をお多麻さんに伝えて、手元に帰ってきたら見せに行ってもいいか聞いたら即OKしてくれて「楽しみにしてるわね!」と笑顔で言ってくれる。
それから学校に飾る期間を経て戻ってくるのだが⋯⋯その時が一番大変だった。
なんと飾られた絵が原因で私の恋心がバレて、友人どころか学年中がその話で持ち切りになったのだ!
人のゴシップ―――特に恋愛には目敏くハイエナの如く齧りついてくるのが学生というものであると、忘れていた私がバカだった!
後悔先に立たず、覆水も盆には返らず。気持ちなんて1ミリも伝えようと思ってなかったのに、どうしようと頭を抱えながら過ごし何とか放課後を迎えられた。
部活を休むとその話が本当だったと、またきゃあきゃあ言われそうで嫌だし⋯⋯かと言って行ったら行ったで根掘り葉掘り尋問されるのも嫌だ!
途方に暮れながら、教室内でお気に入りの窓辺に佇み綺麗な冬茜を見つめていた時。
ふと、窓ガラスに薄っすらと彼が映った気がした。流石に幻だと思ってそのまま空を眺めていたら、急に後ろから抱きしめられて声を上げようとしたけど、出す事は出来なかった。
私の耳元で囁かれたその言葉に、頭が真っ白になって声なんて上げられなかったのだ。
私は熱くなった顔を隠すように、少し俯きながら目の前の窓ガラスに視線を向ける。
ガラスに薄っすらと映った彼の顔は真剣で、さっきの言葉が本気なのだと分かった。
私は精一杯の返事として頷くと、彼は私への拘束を解き向かい合う形にする。
そうして私が呆けている間に、唇に少しの違和感を覚え気付いたら彼の顔が目の前にありすぐに離れた。
その顔は焼けた空と同じ色をしていて、まるで空が溶け出して色をうつした様で―――とても綺麗だと思った。
早く大人になりたいと思っていた。
でもそんな事、無理なのは分かっていたからせめて君に近づけるように背伸びする。
本当の大人がどんなものかは分からないけど、私の思う大人になるための努力をした。
例えば、間食を甘いお菓子からミックスナッツに変えたり。朝食を和食に変えてもらったり、お母さんに家事―――特に料理を教えてもらって、少しでも大人に近付けるように努力する。
苦手な珈琲を砂糖少なめで、ミルクも入れずに飲む練習したりとか。きっと他人から見たら笑われるような努力だとしても、私にとっては必死に考えて藁にも縋る思いでやった精一杯の背伸びだった。
でも、そんな努力は無駄なんだというように、君は違う人を婚約者として選んだらしい。
お母さんから聞いた話。
でも、彼のお母さんから直接聞いたって言ってたからきっと本当の事なんだろう。
気持ちは伝えてた。でも、本気にされた事は一度もない事も知っていた。
だから少しでも意識してもらおうと頑張ってたんだけど、全部無駄だったんだ。
せめてちゃんと断って欲しかったなと、傷心しながら癖で頼んでしまった微糖の珈琲を一口飲む。
相変わらず苦くて、珈琲の味なんてよく分からないけど⋯⋯今の私にはこの苦い珈琲くらいが丁度いいと、少し自嘲しながら大嫌いな苦味と一緒に私の初恋をのみ干した。
◇ ◇ ◇
彼女に好きな人がいる事は知っていた。
それが自分の手の届かない様な大人の男性であることも。
でも、諦めきれなくて⋯⋯ずっと彼女に寄り添いながら自分自身も変わろうと努力した。
彼女はその人の為にたくさんの努力をしていた。それが他人から笑われるような事でも一生懸命で、大嫌いな珈琲を好きになろうとも頑張っていたのも知っている。
でも、その人は彼女を選ばなかったらしい。
元々告白してても本気には取られず、親愛としての好きを言われ続けていたのだと。
失恋が分かって直ぐに連絡をくれたらしい彼女と入ったお洒落で静かな雰囲気の喫茶店で、微糖の珈琲を飲みながらそう話された。
「それなら、もう背伸びしない相手にするのはどうかな? 僕なら昔の君も今の君も尊敬してるし、可愛いってずっと思ってる。失恋してこういう事言うのズルいって分かってるけど⋯⋯僕は君の事ずっと好きだった。だから少しでも考えてくれると嬉しい」
僕はズルいと分かっていたけど、ずっと留めていた気持ちを彼女に吐露した。
驚いた顔をしてこちらを見つめる彼女に、僕は少し困ってしまったけど⋯⋯この気持ちをこれ以上留めてはおけないから、お互いに前に進むためにも伝えたかった。
ダメで元々。それならそれで良いから答えだけは教えてね。
そう言った僕に彼女は困惑しつつも、状況を理解したように顔を少し赤らめながら頷いてくれた。
その後は何事もなかったかのように僕が振る舞い、他愛のない話をして彼女を家に送ってから帰路につく。
後日、彼女から「不束者ですがよろしくお願いします」とメッセージが送られてきて、まるで婚約でもするかのような文面だと、クスリと笑いながらも愛おしさが溢れて⋯⋯彼女への愛情を再確認してしまったのはまた別のお話。
季節外れの雨に降られて、私はずぶ濡れになりながらも何とか近くのバス停に逃げ込んだ。
そこは既に廃止された場所だが、まだ待合室は機能していて突然振られて雨宿りする人に重宝されている。
私が小さい頃に良くこのバス停に家族や友達と来ていたが⋯⋯数年前に廃止されてからはこの辺に来ることもなくなり、あの頃よりも活気はなくなっていた。
濡れた体や荷物を拭きながら、もう来る事のないバスの待合室で雨が止むのを待っている。
どうせ来る人は私の様に運悪く降られた人だけだ。
濡れた教科書やノートを広げて乾かしても問題ないだろうと荷物を広げる。割と中身は無事なようで、乾かす物は少なかったが⋯⋯鞄を乾かすために中身は全て出して、なるべく乾くようにと気合で雑巾絞りをした。
びちゃびちゃと流れ落ちる水に辟易としながら、私は制服も絞れるところは絞ってあとはタオルでなるべく水気を取り、一段落した所で1つ溜息を零す。
季節外れの雨は土砂降りと形容するのが相応しいほどの勢いで降っている。その光景を待合室のガラス戸越しに眺めていると、1人の男の子が走りながら待合室に入ってきた。
私は急いで広げていた荷物を退けると、その子は会釈で答えて自身を持っていたハンカチで拭き始める。
何の会話も無かったが、何故か私は変な安心感と懐かしさを感じていた。はじめて会うはずなのに、どこかで会ったような⋯⋯そんな違和感を覚えた。
「お互いに災難でしたね」
急に話しかけられて驚いたが「そうですね、季節外れも良いところです」と咄嗟に返す。
「あの日もこんな雨の日でしたから、少し懐かしくもありますよ」
彼がそんな事を言った。まるで私達ははじめて会った訳では無いと言うような―――そんな語り口で私の心が少しざわつく。
何か大切なことを忘れているような、そんな焦燥感を覚えつつ⋯⋯私は彼に先を促す。
「あなたと僕はあの日、この場所でバスを待っていたんです。一緒に出掛ける約束をしていて、でもその日は生憎の雨で少しバスが遅れていました」
そう話す彼の言葉を、聞いてはいけないと脳が警笛を鳴らす。ズキリと頭が痛くなっていき、呼吸も荒くなる。
「ここはバス以外にも車の通りが多かったんです。色んな場所に行く通り道でしたから、その車もきっと急いでいたのでしょうね。結構なスピードで走っていて、雨でスリップしてしまい何とかブレーキを踏んで止まろうとしたけれど、この待合室に突っ込んできたんです。
僕は咄嗟にあなたを庇いました。それが功を奏したのか、あなたは何とか一命を取り留めた。
僕はあなたが生き延びてくれて良かったと、心底思いました。それは今でも変わりません。」
その言葉と同時にバチンと何かが弾ける感覚がして、今まで忘れていた記憶が波のように押し寄せてくる。
大好きだった彼とはじめて出掛ける日だった。何日もかけてその日着ていく服を選び、バッグや靴もそれに合わせて選んだ。
その日は生憎の雨だったけど、彼とバスの待合室の中。2人きりで過ごせるのは幸せで、今日一日はきっと素敵な日になるんだって思い疑わなかった。
ガラス戸越しに止まない雨を見つめながら話していた時、猛スピードで車が通り過ぎようとしてスリップし、こちらに突っ込んできたのが見えた。
でも私は動けなくて、ただ彼が自分のいた場所と私の座っていた場所を交換したのを覚えている。
狭い待合室だったから、位置を交換しても2人共車に潰されたけど⋯⋯突っ込んで来たのは私の居た場所だったから、彼は帰らぬ人となった。
私は何とか一命を取り留めるも、その事実に耐えられずその記憶と彼に関する記憶を封印してしまったというわけだ。
なんて薄情な話だろうか。
大切で大好きだった彼は、私の命の恩人でもあるのに⋯⋯私のせいで死んだも同然なのに、私はその辛さから目を背け忘れる事を選んだ。
自然と涙が溢れて止まらない私に、彼は優しく頭を撫でながら続ける。
「僕はあなたを恨んでないです。ただ、僕はとても我儘だから、あなたに⋯⋯大切なあなたに忘れられたままなのが辛かった。自分の気持ちを、伝えられなかったのも後悔しています」
そう言って彼は私と目を合わせると、優しい⋯⋯大好きだった笑顔でこういった。
“愛しています”と。
そうして涙でぐちゃぐちゃの私を置いて、彼はふわりと消えていった。
成仏したのか、まだこの場所に居るのかは分からない。
待ってと言いたかったのに、言う前に消えてしまった。でも言い逃げなんて許さないし、私に記憶を思い出させたからには覚悟して欲しいとも思うのだ。
私は自分の荷物を手早く片付けて家路につく。
帰るなりお母さんに詰め寄って彼のご実家の住所と電話番号を聞き出し、週末にアポを取って両親と訪問。
そこで私が彼と冥婚したいと抜かしたものだから、双方てんやわんやになり必死に止められるも私の決意は変わらず⋯⋯結局私の両親の方が折れた。
それから私は彼の写真を彼の両親に頂いて、その筋で有名な場所へ行き、自ら事情を話して冥婚をした。
その日の晩に夢に出てきた彼が、それはもう慌てていたが知った事ではない。
「あなたが私を愛しているように、私もあなたを愛していたの。自分のせいであなたを亡くして、それが辛くて忘れてしまったけど⋯⋯思い出させたのはあなたなんだから、その責任を取って。
私が死んでも、生まれ変わったとしてもずっと愛してよね」
そう言った私に少し困った様な⋯⋯けれど嬉しそうに彼は笑った。