僕達はただの鼠(ラット)だ。
治験や臨床試験の為に作られたデザイナーベイビーというものらしい。
その為だけに作られたから、僕らは物心が付く頃から薬や注射の毎日だった。
体調の良い日なんて数える程度で、何を作っているのかわからないまま⋯⋯言われるがままに様々なものを投与される。
治験の為にわざとウイルスを投与されて、死んだ子達も居たけど⋯⋯明日は我が身なんて当たり前の環境だから、殆どの子達はこの地獄から救われて良かったねと話していた。
僕達にはそれぞれ担当の人が居る。端的に言うと僕達のお世話をしてくれる人だ。
勿論僕にもそういう人が居て、僕はそのお姉さんが大好きだった。
いつも申し訳なさそうに困ったような顔で笑い、治験から帰ってきた僕を迎えてくれる。
体調を崩せば直ぐに医師を呼んでくれるし、調子が良い時は僕のやりたい事を一緒にやってくれた。
他の子達が言うお世話係はそういう事してくれないらしいから、僕は彼女との事をあまり周りに言わないようにしている。
バレて彼女が怒られないように、僕から離れていかないように。
僕は彼女が大好きだから彼女の為になるならこの間、死んでしまった子の様になっても良いかなって思っている。
そもそも、遅かれ早かれ僕達はみんなそういう結末を迎える運命なのだから、選択肢なんてはじめからありはしないけど。
そんなある日、僕は新しい治験に呼ばれた。
その治験が行われる日の朝。彼女がとても悲しそうな顔で僕を見ていたから、何となく⋯⋯僕はもう彼女の元(ここ)には帰って来れないんだなって察する。
だから僕は最後のわがままとして、彼女にぎゅってしてもらった。
はじめて抱き締めた彼女は温かくてフワフワして、とてもいい匂いがする。凄く安心して、ずっとこの中に居たいと思ったけど⋯⋯それは無理だから時間になる前に離れた。
そうして医師達に連れて行かれて、何かを注射される。数分と経たずに視界がグニャリと歪んで⋯⋯僕は体調不良を医師に訴えるも直ぐには来てくれなかった。
グルグルとまわる視界に吐き気を覚え始め、誰かに助けて欲しくて咄嗟にあのお姉さんを思い浮かべる。
でも、その記憶の中の彼女は顔だけ思い出せなくて⋯⋯さっきの記憶を辿っても温もりはおろか匂いや服の感触も全て思い出せなかった。
僕の記憶が消えていると理解するのに時間は掛からなかった。覚えていたい思い出を振り返ろうとする度に、泡のように消えていく。その恐怖に僕は思わず叫んだ。
すると今まで呼んでも来なかった医師達がやって来て、僕を拘束する。
嫌だ! 僕の記憶をとらないで!
消えないで! 嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ!
パニックを起こす僕を見つめるだけの医師達に、徐々に失くなっていく僕の大切なもの。
そうして思い出と共に僕自身も溶けていき⋯⋯混乱よりも悲しみが上回った時。
もう二度と思い出せないそれらに、諦観と守り切れなかった悔しさが胸を締める。
次の瞬間には―――頭が真っ白になって僕は僕を認識出来なくなった。
◇ ◇ ◇
白い部屋の中で目覚めた僕を、知らない人が眺めている。
酷く胸が締め付けられる感覚に襲われて、何かが欠けているような変な感じがした。
『おはよう、P-667。気分は如何ですか?』
やけに胸が苦しくなる様な顔でそう言うその人を見て、僕の両目は凄く熱くなりそこから流れた水滴に⋯⋯やっぱり変な喪失感を覚えながら、はじめて会ったその人に笑顔で挨拶をした。
その日は灰色の空だった。
いつもよりも気分が良くて、窓を開け外の景色を眺めるも、生憎のくもり空で少し残念だったのを覚えている。
午後には晴れるだろうかと期待していたが、何故か急に行われる事になった私の緊急手術のせいで⋯⋯その日の午後、空は晴れたのかどうか、結局は分からずじまいだった。
手術の後、私は数日間昏睡していたらしいがその事実も定かではなく⋯⋯目覚めた後の世界は前よりも暗く淀んで見えた。
空はずっと灰色で、私の瞳を通して見る世界は古い写真の様なモノクロの色彩。
それは寝ても覚めても同じで、まるで悪い夢を見ているようだと感じる。
あの日。あの時。私は何の手術を受けたのか⋯⋯両親に聞いても教えてもらえず、医師ははぐらかすだけ。
そも、私は何の病を患っていたのかすら理解しておらず、その状態で理解できない手術を敢行されたのだ。
本人の私が不調を訴えても聞き入れてもらえず、あの日以降調子の良い日が訪れる事もなくなっていた。
何もわからないままリハビリをやらされて、色の無い世界に退院と称して放り出されるも空と海の違いすら曖昧になっている現状で⋯⋯何を指標にすれば良いのかすらわからない。
砕けた空はあの日からずっと灰色の雲に覆われていて、何処までも広がる地平線に大きな銅鏡が飲み込まれていく様をぼーっと見つめる毎日。
リハビリは続けているものの、日に日に両親や医師の言葉が分からなくなり⋯⋯そこでようやく自身がおかしな事になっていると気がついた。
あの日を境に私の世界が歪み、正しく認識できていないのだとようやく理解する。
この歪みを治すためにどうすれば良いのか、私は医師ではないし学もないから考えても分からないまま。
助言を仰いでも、両親も医師もきっとはぐらかすだけだと思うから⋯⋯ならいっそ、あの砕けた空に飛び込んでみようと思った。
朝も昼もわからない、モノクロの世界で大きな銅鏡が飲み込まれているのか、海へ泳ぎに出ているのかも分からない中で⋯⋯私は最後の日記を書き綴っている。
きっとこの日記が読まれる頃には、私はあの砕けた空の中を飛ぶ―――名もなき鳥になっているだろう。
でも、それはそれで幸せなのかもしれないと⋯⋯これを書きながら思っている。
さて、お別れの時間だ。
生まれてからずっと共にあった大地と、そして一緒に過ごしてきた家族に心の底から愛していると言いたい。
けれども私は、あの砕けた空へと旅立つ事にしたから。
私の事は忘れて幸せに生きてください。
私もあの空の彼方を目指して飛んでいこうと思います。
ぱたりと日記帳を閉じて、昔良く読書していた木の根元に置いた。
お気に入りのワンピースに身を包み、大好きな鞄と靴も履いて髪にはお気に入りの飾りもして準備万端だ。
砕けた空の向こうに地平線が見える。その向こう側を目指して旅立とうと⋯⋯私は空へと飛び込んだ。
◇ ◇ ◇
先生からの急な打診で行われる事となった手術。
娘がそれで良くなると熱弁されて、わけも分からず承諾してしまった事を後悔することになるとは⋯⋯あの時の私達には知り得なかった。
娘は軽度のうつ病と診断されていた。調子の良い時は自ら外へ出たりもしたし、その日あった楽しい事や綺麗だと思ったものを私達に教えてくれる。
それが、あの手術をしてから一切なくなった。それどころか笑うことすらなくなって、どういう事かと医師に問いただしたが、リハビリで良くなるの一点張りで取り合ってはもらえない。
結局何も改善しないまま退院させられ、数カ月後―――娘は海に身を投げ自殺した。
そこは娘のお気に入りの場所で、大きな木の下で読書するのが好きだと言っていたのを覚えている。
その大きな木の根元に、娘の日記帳が置いてあり、私達は読んだが自分達の選択が間違っていたのだと後悔した。
そして例の手術を調べると一部改善が見られることがあるが、殆どの場合術後に死亡するか⋯⋯生き残っても廃人になるか。どちらにもならなくても、大抵の場合は何らかの後遺症が出ると言う。
同意する前にちゃんと調べておけばと、後悔しながら娘の分も苦しみながら生きていく。
せめて旅立った娘の魂が、彼女の望む場所へとたどり着けるよう⋯⋯祈りながら。
夜が訪れればいずれ朝がくる様に、夢見がどうであれ眠れば必ず目を覚まし⋯⋯そして私は今日も目覚めてしまった事を後悔しながらベッドから這い出るのだ。
いつも通りに朝を迎え、決められた通りに全てをこなしてまた夜を迎えて眠りにつく。
特別な事など何もなく、ただただ機械のように行動を繰り返す。
何も変わらない世界。全ては予定調和であり、なにもかもが設定されたプログラムの様な世界なのに、誰一人としてその事実に気付かず⋯⋯これが当たり前だと思っている。
平穏という名の狂気の中で、作り笑いを浮かべて幸せだと宣(のたま)う彼等の中で、擬態しながら生きる私も結局は同じ穴の狢なのだ。
それを理解しながらも止められないのは⋯⋯異端として排されるのが怖いから。
この心理さえ捨てられれば、もっとずっと自分らしく生きられるのにと何度も思う。それでも捨てられず、いまだ自身を縛り付ける枷となっていた。
全てのルーティンを終えた放課後の校内を、そんな下らない事を考えながら足早に歩いていく。
目指すは屋上―――柵を越えた向こう側。
空に近くて最も遠い場所であるそこに、手荷物の鞄と靴を揃えて置いて今⋯⋯吹き荒ぶ風を感じながらその手を放した。
重力に沿って落下していく最中、物凄い風圧と共に酷く耳障りな風の音を聞かされた刹那―――かなりの衝撃が走り、それと同時に激痛が全身を巡る。その痛みも少しずつ感じなくなっていく最中、周りの喧騒も徐々に遠ざかっていった。
自身の意識が途切れる直前、上手く回らないその口で呟く。
“さよなら世界、またあう日まで”
◇ ◇ ◇
夜が訪れればいずれ朝はくる。
夢見がどうであれ、必ず目覚めなければいけないから⋯⋯そうして私は、また目覚めてしまった事を自嘲しながら小さく呟く。
『さよなら昨日の世界⋯⋯そしてはじめまして、今日の世界。本日限りでよろしくどうぞ』
たくさんの星が見える場所が好きだった。
キラキラと煌めいて、でもその輝きは気が遠くなる程昔の輝きだと聞いて⋯⋯より一層、星に興味を持った。
星を見るのは、とても幸せな時間だった。どんなに寒くてもあの瞬く星々を見ていると、心が晴れやかになるから。
それが⋯⋯大好きな君と見るものならより一層そう思えたんだよ。
夢の為に君から離れた事を、あの日からずっと後悔していた。
星が好きな事に変わりはない筈なのに⋯⋯あの日から何か欠け落ちたような、少しくすんで見える星空(そら)。その答えはきっと、隣に君がいなかったからなんだと思う。
君と共に見る景色は、星空でなくてもいつも煌めいて美しいものだったから直ぐに理解できたんだ。
あの日、君の手を迷わず取っていたら今日この日を2人で迎えられたのだと思うと、とても悔しく思います。
だからこそ、銀河鉄道が私を見つけてくれるように―――この場所を死に場所に選びました。
私か君、どちらが先に乗れるのかは分からないけど⋯⋯同じ鉄道に乗れたらなんて祈りながらこの手紙を書いてます。
でも、本当は君だけでも生き残って欲しいなって思っています。私がダメでも、きっと他にも生き残れた人が何処かに居るはずだから、その人と仲良く楽しく人生を謳歌して欲しいと⋯⋯そう思う私を、どうか許してください。
身勝手に夢を追い、君を置いていった私が―――また、君を置いていく選択を取ろうとしている事を、どうか嘲笑(ゆる)して下さい。
◇ ◇ ◇
その人は高台に設けられた展望台のベンチで眠るように息を引き取っていた。
有名な小説を大事そうに抱えていたから、一言断りを入れてその本を手に取り中を拝借。すると彼女の遺書が見つかり、以前に見かけた男性の遺書と似通った記述を発見する。
私は鞄から彼の遺書を取り出し、その本の中に彼女の遺書と共に挟むと元の位置に戻す。
『あなたの大切な人から預かった手紙です。2人とも銀河鉄道に乗れてると良いけど⋯⋯私には確認のしようがないから、一応渡しておくね。また2人で星を見られるように、私も願っておくよ』
そう言って彼女の亡骸に手を合わせてから、私はその高台を後にする。
少し先に野宿出来そうな所を見つけて、今日はそこで寝ることにした。
夜を迎えたその場所は、高台程ではないのだろうけど⋯⋯とても綺麗な星空で、きっと彼女はこの景色をあの男性と共有したかったんだろうなって思う。
2人がもう一度この星空を一緒に見られれば良いなと思いながら、その日は眠りにつくのだった。
ある日突然影の世界に迷い込んだ私は、あの日からずっとそこでの生活を余儀なくされていた。
放課後には後輩(かれ)の声を追い掛けて、彼の呼び掛けにここだよって返事をする毎日。
とりあえず、食事も授業も滞りなく出来ているのだけは有り難かった。
いつも通りに過ごす一人ぼっちの世界で、相変わらず影達は犇(ひし)めき合いながら和気藹々としている。
やる事のない私はそれをぼんやりと眺めて時間を潰し、授業を受けてを繰り返す。
そうして本日の授業を終えて、また後輩(かれ)との問答が始まる。必死に捜してくれる後輩(かれ)とそれに答え続ける私。
でも今日は、鏡の側に行っても後輩(かれ)の声は聞こえなかった。何処の鏡に行ってもそれは同じで、酷く胸が苦しくなる。
遂に彼は諦めてしまったのだろうか、と。
そうしたら私はどうなってしまうのかと、不安と恐怖が一気に押し寄せてその場にへたり込んで⋯⋯声を殺して泣いた。
拭っても拭っても止まらない涙に、最終的には諦めてそのまま止まるまで流し続ける。
そうして気付いたら疲れて眠っていたらしくて、起きた頃には真暗になっていた。
正直、怖くないと言ったら嘘になるけど⋯⋯もう何もかもどうでも良くなってて、体も怠くてその場でもう一度寝直そうかと思い始めた時だった。
『先輩!』
そう聞こえて、私が振り向こうとした瞬間―――衝撃と共に体を締め付けられる。
自分が抱き締められてると理解するまでに、少し時間は掛かったけど⋯⋯ここで過ごして始めて感じた温もりに、夢じゃないとようやく分かって泣きそうになるも何とか堪えた。
先輩、先輩って繰り返す後輩(かれ)の声に、まともに返事する事も出来ずにただギュッと抱きしめる。
ようやく離れて、見えたその顔は泣きそうで⋯⋯でもどこか安堵するような表情をしていた。
『ずっと、捜してたんすよ。声だけ聞こえるのに、全然姿見えねぇし⋯⋯だから色々調べて一か八かで試して―――ほんとに、見つかって良かった。』
そう言って私の目元を指で拭う。あれだけ泣いたのにまだ流したりなかったのか⋯⋯私の目にはまた涙が溜まっていたらしく、拭われると同時にポタリと1滴落ちた。
『私の声⋯⋯届いてたの?』
『俺には聞こえてましたけど、他の奴には分かんないっす。あと、俺こっちに来る方法は知ってても、戻る方法分かんないっす』
すんません。
そうバツの悪そうな顔で謝る彼。
『帰り方分かんないのに、一か八かで来ちゃったの? なんでそこまで』
してくれるの? って言い終わる前に、その言葉は彼によって飲み込まれた。
直ぐに離れた温もりに驚いていると、もう一度抱き締められて『そんなの、アンタの事好きだからに決まってるでしょ。いい加減気付いて下さい。』なんて言われて、もう我慢できなくてふふっと笑ってしまう。
『ごめんね、笑ってる場合じゃないって分かってるんだけど⋯⋯嬉しくて、止められそうにないや。』
それだけ伝えて彼に抱きつきながら笑う私を、どんな顔で受け止めてたのかは分からない。
でも、この影の世界で彼と2人きりで生きるのも悪くない。
そう思ってしまったのだから、もう認めるしかないと彼に向き直る。
『私も君の事、好きみたい。だから⋯⋯帰る方法がわからないなら、この世界で私と一緒に生きてくれる?』
そう言った私に一瞬驚いた顔してから、彼はふわりと嬉しそうに笑った。
『そんなの聞いたらもう離す気ないっすわ』
そう言いながら立ち上がった彼は私に手を差し伸べながら、とりあえず帰りましょう、先輩。と言ったので、私も頷きながらその手を取り彼に立たせてもらうと昇降口を目指す。
その道中で私がどっちのお家に帰るのかと聞いたら、真っ赤になりながら動揺した彼。
可愛いと思ってつい笑ってしまったら、不貞腐れた彼に家来ても良いっすよって言われて、今まで凄く寂しい思いをしたのでお言葉に甘えることにした。
そうして彼と手を繋いで歩く帰り道は、いつも通り影が犇(ひし)めくだけの景色なのに⋯⋯何故か凄く煌めいて見えた。