紅月 琥珀

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 その日は灰色の空だった。
 いつもよりも気分が良くて、窓を開け外の景色を眺めるも、生憎のくもり空で少し残念だったのを覚えている。
 午後には晴れるだろうかと期待していたが、何故か急に行われる事になった私の緊急手術のせいで⋯⋯その日の午後、空は晴れたのかどうか、結局は分からずじまいだった。

 手術の後、私は数日間昏睡していたらしいがその事実も定かではなく⋯⋯目覚めた後の世界は前よりも暗く淀んで見えた。
 空はずっと灰色で、私の瞳を通して見る世界は古い写真の様なモノクロの色彩。
 それは寝ても覚めても同じで、まるで悪い夢を見ているようだと感じる。
 あの日。あの時。私は何の手術を受けたのか⋯⋯両親に聞いても教えてもらえず、医師ははぐらかすだけ。
 そも、私は何の病を患っていたのかすら理解しておらず、その状態で理解できない手術を敢行されたのだ。
 本人の私が不調を訴えても聞き入れてもらえず、あの日以降調子の良い日が訪れる事もなくなっていた。

 何もわからないままリハビリをやらされて、色の無い世界に退院と称して放り出されるも空と海の違いすら曖昧になっている現状で⋯⋯何を指標にすれば良いのかすらわからない。
 砕けた空はあの日からずっと灰色の雲に覆われていて、何処までも広がる地平線に大きな銅鏡が飲み込まれていく様をぼーっと見つめる毎日。
 リハビリは続けているものの、日に日に両親や医師の言葉が分からなくなり⋯⋯そこでようやく自身がおかしな事になっていると気がついた。
 あの日を境に私の世界が歪み、正しく認識できていないのだとようやく理解する。
 この歪みを治すためにどうすれば良いのか、私は医師ではないし学もないから考えても分からないまま。
 助言を仰いでも、両親も医師もきっとはぐらかすだけだと思うから⋯⋯ならいっそ、あの砕けた空に飛び込んでみようと思った。

 朝も昼もわからない、モノクロの世界で大きな銅鏡が飲み込まれているのか、海へ泳ぎに出ているのかも分からない中で⋯⋯私は最後の日記を書き綴っている。
 きっとこの日記が読まれる頃には、私はあの砕けた空の中を飛ぶ―――名もなき鳥になっているだろう。
 でも、それはそれで幸せなのかもしれないと⋯⋯これを書きながら思っている。
 さて、お別れの時間だ。
 生まれてからずっと共にあった大地と、そして一緒に過ごしてきた家族に心の底から愛していると言いたい。
 けれども私は、あの砕けた空へと旅立つ事にしたから。
 私の事は忘れて幸せに生きてください。
 私もあの空の彼方を目指して飛んでいこうと思います。

 ぱたりと日記帳を閉じて、昔良く読書していた木の根元に置いた。
 お気に入りのワンピースに身を包み、大好きな鞄と靴も履いて髪にはお気に入りの飾りもして準備万端だ。
 砕けた空の向こうに地平線が見える。その向こう側を目指して旅立とうと⋯⋯私は空へと飛び込んだ。

 ◇ ◇ ◇

 先生からの急な打診で行われる事となった手術。
 娘がそれで良くなると熱弁されて、わけも分からず承諾してしまった事を後悔することになるとは⋯⋯あの時の私達には知り得なかった。
 娘は軽度のうつ病と診断されていた。調子の良い時は自ら外へ出たりもしたし、その日あった楽しい事や綺麗だと思ったものを私達に教えてくれる。
 それが、あの手術をしてから一切なくなった。それどころか笑うことすらなくなって、どういう事かと医師に問いただしたが、リハビリで良くなるの一点張りで取り合ってはもらえない。
 結局何も改善しないまま退院させられ、数カ月後―――娘は海に身を投げ自殺した。
 そこは娘のお気に入りの場所で、大きな木の下で読書するのが好きだと言っていたのを覚えている。
 その大きな木の根元に、娘の日記帳が置いてあり、私達は読んだが自分達の選択が間違っていたのだと後悔した。

 そして例の手術を調べると一部改善が見られることがあるが、殆どの場合術後に死亡するか⋯⋯生き残っても廃人になるか。どちらにもならなくても、大抵の場合は何らかの後遺症が出ると言う。
 同意する前にちゃんと調べておけばと、後悔しながら娘の分も苦しみながら生きていく。
 せめて旅立った娘の魂が、彼女の望む場所へとたどり着けるよう⋯⋯祈りながら。



3/23/2025, 1:18:12 PM