手を繋いで
誰かと手をつないだ時のことはよく覚えている。恋人、ではないけれど。
黄色の学生帽子をかぶっていた懐かしい帰り道、おばけ屋敷、休み時間、テーマパークでお互いに気持ちが最高潮になったあの時、旅先神社の急な階段で咄嗟に手をとって降りきるまで握っていた。どれも私からじゃなく、相手からだった。自分から手を握った記憶はそこにない。
人が苦手な私にはそれくらい特別だった。自分が認められたような気がした。自分と手を繋いでくれた、人のことは絶対に忘れないし、その時を覚えている。
しかしもうその人たちと繋ぐことはないのだ。相手が離れていったのだ、と思っていたが、自分からだった。気づけなかった。仲良くしようとしてくれていたことに。
みんな心の底ではきっと自分が嫌いなんだ、些細なことで気を落として変な意地をはって心は知らず離れた。好きでさえいれば、信じ続ければ良かったのに。
これから先、誰かと手を繋いだ新しい記憶は更新されないかもしれない、と後悔と寂しさが胸につたう。
手を繋いだときの感触と温度は正直覚えていない、あんなんだったなと想像のうちで生きている。あたたかくて、緊張で手が汗でびっしょりになって笑いあったあの眩しい日を。
部屋の片隅で
部屋の片隅でただ漠然と転がっているほこりで良い。
彼らはただそこに存在しているだけの無だ。誰かに大人になれ、成長しろ、夢を持て、などと言われることはない。ほこりはほこりで、それ以上の何かにはならない。なろうとは微塵も思っていない。ちりとりでそそくさと集められ、焼却されて消えるその瞬間までほこりはほこりで、いる。それが世界のあたりまえだと認められているように。
変えない、変わらないことになんだか安心するんだ。
眠れないほど
眠れないほど「終わり」について考えたことがある。
人はどんな顔をして、どんな話をするだろう。燃やされたらどこへ行ってしまうんだろう。大事にしていたぬいぐるみたちはどうなるんだろう。捨てられてしまうのだろうか。片時も離れなかった自身の骨さえもココにとどまる。
そんな未知が終わりの先にあふれてとまらないのだ。けっきょく答えなんてでない。でなくていいのかもしれない。なんとなくあれが食べたい、あの映画が見たい、あの作品の続きが見たい、あの場所に行きたい、小説が書きたい、まだ知らない誰かに会ってみたい。そんな小さくたくさんのなんとなくな楽しみを腕いっぱいに抱えながら生きていく。
あらがえない必ず来る終わりというものに震えながら、果のない遠くのことのように考えられている。それは終わりを想像したときに無数の楽しみたちがこちらに向かって手をのばしてくれるからだ。必ずどこかでひきとめてくれる。だから眠れないほど終わりを考えたっていいんだ。眠たくなったらあとは身をゆだねて眠ればいい。
夢と現実
夢はどこか現実の苦しかった一場面を舞台に描き出す。夢さえ過去の現実を残酷なほど綺麗になぞるのだ。こうだったら良かった、ああすれば良かった、そんな声は夢には届かない。
目覚めたときには汗をびっしょりかいて涙なんか小さく流している。たかが夢だ、たかが夢なのに。頭はそんなことも覚えていたのか、とどこか他人事のように関心して夢を受け入れる。頭の見えない場所で忘れないように保管している。忘れていいのに、そんな記憶捨ててしまえばいいのに。
夢は過去との戦いなのだろう。いつだって現実に過去からはなれた今に、生きている世界に嫌でももどる。生きてきた日の数だけが勝ちだ。必ず覚めるものだから大丈夫なのだ。いつかとてつもない大きな記憶をつめこんで保管場所から過去の居場所をなくしてしまおう。そのくらいの気持ちで夢から覚める。悪が一番嫌うのはきっと希望だ。
さよならは言わないで
さよなら、と最後に言ったのはきっと学校の放課後の挨拶くらいだ。またね、じゃあね、そんな言葉で人とは別れている。
何度会って何度別れたか、はかりしれない。別れの言葉に、また会うための魔法なんてかかっていないことを知りながらすがっている。
会えれば、会えたらいいな、そんな曖昧で頼りない気持ちで私たちの心は繋ぎ止められている。会わない時間の想像が会えないきっかけをつのらせ、会えない理由をつくりだす。
会わないほうがいいのかもしれない、そんな考えが私たちを優しく包み込んで臆病を慰める。
どうか、明日、今すぐじゃなくていいから。また10年後でも50年後でも良いからあのお別れした日みたいな気持ちで会いましょう。
さよならとは絶対に、言わないから。その代わり何年分かのまた会おう、を送るから。