写真(テーマ ハッピーエンド)
一枚の写真がある。
写真屋で撮ったと思われる、家族の集合写真だ。
祖父祖母、父母、姉と弟に挟まれたワタシ。
ワタシも姉もまだ小学生で、弟に至っては乳飲み子だ。
祖父祖母は和服、両親は洋装、ワタシ達姉弟は小学校の制服。
乳飲み子の弟は和服風。
笑顔の家族。
幸せを予感させる写真だ。
このときはきっと幸せであったのだろう。
写真は時を切り取る。
そのときの風景だけを切り取る。
ハッピーエンドとは、写真と同じだ。
*
こうして、王子様と結婚したお姫様は、末永く幸せに暮らしましたとさ。
それは、果たしてハッピーエンドなのか。
ハッピーな瞬間ではあったろう。
しかし、そのままお姫様の人生は終わるわけではない。
マナーと勉強でひたすら知識を詰め込む。
相応しくない仕草は矯正される。
嫉妬や陰謀はいくらでもあろう。
毒殺を恐れて暖かい食事は食べられないかもしれない。
結婚したお姫様は、王子がやがて王になったとき、妃として王とともに国を支える重責を担う。
子宝に恵まれないと針のムシロ。
反乱を起こされて処刑されるかもしれない。
物語の幸せと、私たち自身の幸せとは、実は別のところにある。
私たちが物語のようなハッピーエンドを体験すると、実のところ、結構不幸なのではないか、あるいは試練なのではないかと思ってしまう。
また、『切り取った瞬間』の後、という意味でも、ハッピーエンドは希少だ。
子ども向けの三国志は、劉備3兄弟が曹操を退けて、やがて彼らは国を作った、で終わり。
その後の彼らの悲惨な最期は語られない。
幸せな終わりとは、一体何か。
*
一つには、後を託してから逝けることだろうか。
子どもに後を託して、不安はない。
後顧の憂いなく過ごし、眠るように逝去する。
今日は死ぬにはいい日だ。
これはハッピーエンドかもしれない。
とはいえ、物語を楽しむ子ども達は、そんなことは求めていないのだろう。
だから、幸せなところを切り取った『写真エンド』が、ハッピーエンドとされるのだ。
二人は幸せなキスをして終了。
しかし、我々の本当の幸せは、別の所にあるのだろう。
例えば、給料は安くとも、毎日定時に帰って家族と美味しいご飯を食べられる。とか。
物語にはならないかもしれないけれど。
ねだるな(テーマ ないものねだり)
「ないものねだり」は何が問題か。
自分にないものを求めるのは人の常。
「できないことをできることにしたい」というのは多くの人が求めること。
しかし、「ないものねだり」の「ないもの」とは、存在しないものを指す。
つまり、「できないことをできるようにする」のは、この場合無理なのだ。
さらに、『ねだる』。
自分で努力するのではなく、他人に要求する。
無理なことであっても、自分が黙って努力する分には、特に人に迷惑も掛けない。努力によって得られるものもあるだろう。
錬金術の研究が、科学発展の基礎となったように。
しかし、他人に要求すると、要求された人は実現のために努力することになる。あるいは、断る労力をかけることになる。
世の中にいらぬ摩擦を生むのである。
秦の始皇帝は存在しない『不老不死の薬』を求め、臣下はさぞ困ったろう。
そして、徐福に詐欺られるのである。
かように、ないものねだりとは、『自分の愚かさを他人に強烈に教え込む』ことになる。
「私は実現できないことを判断できず、人にやらせようとする愚か者です」と大声で言っているのと同じだから。
関係ないが、『ねだる』と『ゆする』は同じ『強請る』と書く。
「ねだる」とは、そもそもいい意味ではない。
また、『足るを知る』という言葉があるように、限度のない要求は嫌われるし、身の丈を超えると破滅する。
まとめると、ないものをほしがることは成長の原動力になることもあるし、自分でやる分には迷惑もかけないので否定しないが、他人にねだらず自分で手に入れよう。
また、ほしがることも限度を超えると、金銭的にも人間関係的にもうまくいかなくなるので、ほどほどにしましょう。
残業後対話篇 地球は毎日、ところにより雨~不寛容な社会について~
(天気予報が当たらない。)
現在時刻は23時。
会社から出ようとすると、本降りの雨だ。
(昨日見た天気予報アプリでは曇りで降水確率10%だったはずなのに。)
『今は?』
内心で問いかけてくるのはイマジナリーフレンド。
40代独身の悲しい寂しさが生んだ想像上の人格である。
(100%。昼に見たら60%になっていたからいやな予感したんだよね。)
『あー。つまりあれか。昨日の夜時点では降水確率10%だったけど、夜間から朝、昼と時間が経つうちに雲行きがかわって、天気予報アプリもそれに伴ってジワジワと降水確率が上がり、夜には100%になったと。』
(多分そう。)
少しずつ変わる天気予報に何の意味があるのか。
『いや、雲行きがかわっていくのに、かたくなに降水確率10%を維持するのは、そっちの方が問題でしょ。』
(当たれば問題ない。)
そう。天気予報がコロコロと確率を修正していくのが問題なのではなく、当たらないことが問題なのだ。
『何かさ。』
(何さ)
『不寛容じゃない?』
(・・・そうかな。)
言われてみれば、気が短くなっているというか、過激になっているような気もする。
(23時まで残業して、疲れているから。ここで雨にも降られるなんて、さらに気が滅入ることを増やしたくないのかも。)
『異常気象は近年言われていることだし、予想が難しくなっているんでしょ。そして、何より。君はいつもカバンに折りたたみ傘を入れてるでしょ。』
(そうだったね。)
カバンから傘を出す。
(心の余裕がないと、不寛容になる、か。)
余裕のないときに寛容であろうとすることが難しいことがよく分かった。
(仕事が詰まってプライベートがないから、これ以上わずかな不幸も許せそうにない。)
『自分がわずかなミスも許されないから、相手のミスを許したくないとかね。』
そういうことも、あるかもしれない。
不寛容さは、自らの不幸と比例する。
恋なんて(テーマ バカみたい)
薬物中毒にでもなったみたいで。
バカみたいなことをしたり、勝手に苦しんだり、勝手に幸せになったり。
『人間は恋と革命のために生まれて来たのだ』という言葉がある。太宰治の『斜陽』の中の言葉だ。
恋とは、子を残すための、人の個の動物としての本能。
革命とは、現状を改善して進化するための、人の集団としての、『人間』としての本能。
両方とも本能。
『寄生獣』で、『人間はもう一つ脳を持っている』という台詞がある。
人間とは、個々の人とは別に、組織、集団として別の生き物を構成しているのだ。
その集団としての生き物の本能が『革命』だったり、あるいは国家の維持だったり、経済活動だったりする。
集団としての人間を維持するための行為。
ルールを決め、集団を壊す個を『犯罪者』として排除して、ルールが現実に合わなくなるとルールを見直す。
そして、ルールを管理する『脳』にあたる集団と組織そのものが現実と適合しなくなり、『集団を維持するのに適切でない』と判断すると成り代わる。これが革命。
もちろん、これが正しく機能するときばかりではない。
病には、体の持つ元々の機能がうまく働かないために起こるものもたくさんある。そういう革命もある。
何が言いたいかというと、恋も革命も、本能に基づくものであり、『そのために生まれてきた』というのは間違いではないが、それが正しいかというと、それに限らないと言うことだ。
恋に夢中になる人が端から見ると浮かれてバカみたいに見えるように、革命家は夢みたいなことに人生をかけるバカみたいに見える。
ただし、一方で、その本能に基づく行動がなければ、革命は起きないし、恋も成就することはない。
『バカなことを』と笑っていた求愛行動ができず、生涯独身は現代では珍しくない。
『生活が苦しいのに、誰も国を変えようとしない』と嘆くばかりで、皆が我慢するばかり。
なぜなら、革命なんてバカみたいなことをしない、利口で忍耐強い国民ばかりになったから。
そしてますます苦しくなる。
バカみたいと思っていても、素直にバカをやる必要がある場面が、人生にはある。
祖母の見守り(テーマ 二人ぼっち)
1
毎週日曜日に、両親が家を出て、合唱団の発表の練習をする。
歌は仕事を退職した両親の趣味、生きがいと言っていい。
その間、私は90を超える祖母と二人で留守番だ。
祖母はまだ歩ける。
食事もトイレも自分でできる。
いわゆる介護はそこまで必要ない。
しかし、認知が進み、火が扱えない。食事の準備ができないし、今何をしていたかを忘れてしまう。
また、この前は転倒して肋骨を折った。
歩行器を使うようにしたが、これも忘れてしまう。
見守りがいるのだ。
2
私の生活は仕事中心で、土曜日も休日出勤している。
日曜日もしていたが、祖母の見守りをするようになってからは、不可能になった。
その分、平日勤務を遅くまでしている。
日曜日は、朝、24時間空いているスーパーに行き、お昼の惣菜を買って、9時前に実家へ向かう。
私が実家についたら両親は外出する。
祖母はあまりしゃべる方ではない。
私もしゃべる方ではない。
母はその分喋り始めると止まらない方だが、今はいない。
祖母の見守りは、おおむね静かな時間だ。
3
寒い、と祖母がいう。
祖母は座っているが、足が固まるのか、立ち上がるのも歩くのもかなり時間がかかる。
私はお茶を淹れる。
綿入れを持ってきて掛ける。
ストーブの温度を上げる。
寒いと言わなくなったら、私は持ってきた仕事をして、祖母は新聞をずっと読んでいる。
静かな二人の時間だ。
4
平日も休日も仕事。
私の人生は仕事ばかりだ。
一方、祖母の人生はどうか。
結婚して子育てをして、子どもも結婚して孫(私)を生み、その孫は大きくなって仕事をしている。
私から見たら、人生、頑張ってうまくやったように思う。
独身で、今後も一生独身だろう私と比べると特に思う。
結婚しないことも、非正規雇用も、給料が上がらないことも珍しくない現代とは条件が違うのだろうけれど。
そもそも、現代の高齢者はほとんど『そう』なのだ。
みんな結婚している。
5
寒い寒い、とまた祖母は言った。
口癖のように。
寒いとは、気温ももちろん低かったが、それだけだろうか。
孫たちは結婚せず、ひ孫の望みがない。
お寒い我が家の末期に思わず出た台詞なのかもしれない。
ただ、まだこうしてその言葉を聞く私はいるのだ。
私がさらに歳をとって高齢者になった時、私の言葉を聞く相手は居ないのだろう。
そのときは一人ぼっちだ。
まだ、今は二人ぼっち。
とりあえず、私は仕事を片付けつつ、お昼に何を食べるか考えるのだ。