残業後対話篇 ~過去の美しさとは~(テーマ 過ぎ去った日々)
1
これは、西暦2020年を超えた日本の、ある会社での、一人の会社員の、残業が終わってから帰宅するまでの心の中の話。ひどく狭い範囲の話。
私には、人に言えない癖がある。
『イマジナリーフレンド』と呼んでいる想像上の友人と、内心で話し合う癖だ。
もう40も過ぎだ独身男の、痛い行為。蘇った中二病、とでも言おうか。
イマジナリーフレンドは、私の想像上の存在だからして、私の内心は言葉にしなくてもわかるし、イマジナリーフレンドの考えることももちろん分かる。
なにせ、私が考えているからだ。
『何の意味があるのかは、わからないけどね』
イマジナリーフレンドは、だいたいいつも余計なことを言う。
2
残業を続けていると、他の社員が皆帰り、私だけになる時間がある。
もちろん、私が先に帰るときもあるが、しばしば、そういうこともある。
PCを閉じ、タイムカードを切って、後は机を片付けて帰るだけ、と時計を見ると、だいたい22時前後だ。
(学生の頃はよかったな。)
そう。社会人になってから、『早く帰る』なんて全くのレアケース。逆に、休みに出てくるのはよくある。コモンケースだ。
『そうかな?学生の頃より良くなったこともたくさんあるだろう。』
(そんなのある?)
『例えば、宿題がない。』
(まあ、ないけど、家の時間もないからね。22時に会社から出て翌日は8時までに家を出るんだから、宿題なんてあってもできないよ。)
『お金はある。』
(使う時間がないよ。)
『アマ◯ンで電子書籍を大人買いしている。』
(それはある。)
仕事のストレスから、面白い漫画などを見つけたら即買いしてしまうことも少なくないのだ。
そういえば、本屋に行かなくなって久しい。
学生の頃はお金がないので古本屋を巡って本を買い集めた事もあった。
そういう、有り余った時間で、お金がない分を工夫したことも、学生の楽しさだったのかもしれない。
『では、アルバイトで生活したら、学生と同じような生活になるのでは?』
(それは・・・。ある程度の稼ぎがないと、行きていけない。老後とか。)
40を超えて独身だと、確かに考えることはある。
結婚も子育てもしない、ということであれば、そこまでお金は必要なのではないか。
アルバイトや非正規雇用で程々に働きつつ、日々を暮らしていけば、人間らしい生活が送れるのではないか、と。
(しかし、だ。人間らしい生活が送れるかは疑問だ。)
おそらく、『一人で行きていくなら十分稼ぎ』は非正規雇用やアルバイトでは無理だ。
(例えば、50歳で死ぬことがわかっていれば、やるかもね。)
『あたかも一万年も生きるように行動するな。という言葉があるよね。今のきみはそれを考えるべきでは?』
(何歳で死ぬことを予定して、その分に必要なだけお金を稼ぐってやつ?)
『そう、それ。病気になるかも。貧乏するかも。そう不安を煽って貯蓄や投資を言うけれど、独り身で行きていくなら、子どもがいないなら、今日死んでも明日死んでもあまり変わりはない。』
(まあ、親より先に死ぬ不孝はしないつもりだけどさ。)
結局、お金が大事なのは、不安を消すためなのだ。だから、ゴールが決まっており、それに必要なだけのお金があれば、お金より大事なものはたくさん出てくる。
『すでに近い境地だとは思うけどね。結婚するかもしれない年齢の時は、マンガの大人買いとかで発作的に数万円使うとか、きみ、しなかったじゃん。』
そうかもしれない。
(現在から過去を思う時、過去の自分が不安だったことまで思い出すのは難しい。だから、過去を思い出すと美しかったことだけ思い出してしまうのかも。)
『本当に記憶を持ったまま学生に戻ったとしたら、「まともに稼げる会社に就職できるか」「単位を落として留年したらどうしよう」とかの不安と、再び付き合っていくことになるってわけ。』
3
昔が良くなかったことは他にもある。技術進歩だ。
(そもそも携帯電話だってかろうじて高校の途中から持っていたくらいで、それまでは電話もなかった。スマホは社会人4年目くらいからだった。)
『そう。昔の不便さにも鈍感になるよね。本当によかったことだけ、楽しかったことだけ覚えてる。』
PCも遅いし、大したこともできなかった。ゲームばっかりしてた気もするけど。
同時に、毎日を過ごすのに精一杯だった気もする。
「なんだ。今と対して変わらないか。」
『でも、一つだけ大きな違いがある。あの頃のきみには可能性があった。将来への希望といってもいい。何者にもなることができた可能性。』
(今の私にはない。)
『ないこともない。いつだって、今日が人生で一番若い日なんだから。』
4
話がだれてきた。
『だれてきても、誰も咎めないよ。』
(自分の心は咎める。)
だから、イマジナリーフレンドはしゃべるのだ。
『結局、今の状態も、きみは10年したら「あの頃はよかった」って言ってるよ。自信がある。』
そうかもしれない。
今も、過ぎ去るのだ。
何もしなくても、なにかしても。
(だから、何か行動を起こしたくなる、というわけだ。)
『きみは、結果的には「あの頃はよかった」という気持ちがもっと大きくなるよう行動すべきだと思うね。』
(どういう意味?)
『きみは学生の頃のことを思い出すけど、その頃付き合っていた女性もいないし、トモダチとつるんでいたくらいだ。女性とのお付き合いやデートなんかの思い出があれば、もっと「あの頃はよかった」と思っただろう、ということさ。10年後、50歳を過ぎたきみが「まあ今と変わらないか」と思うのであれば、人生を楽しむ「かい」がないということだよ。40歳でなにかを初めてやる?結構なことじゃないか。』
(今が人生で一番若い日、か。)
『過ぎ去った日々を思うのは、懐かしむだけではなく、今日明日をより良くするためだよ。』
今日のイマジナリーフレンドは、何だか良いことを言い過ぎだと思う。
そして、会社の電気を消して、私は帰途についた。
何をしようか、と考えながら。
月のありがたみについて(テーマ 月夜)
昔は月明かりで歩く人も多く、月は照明代わりになっていた。
もちろん、現代の街灯ほどの明るさはないので、十分とは言えない。
それでも、月のない夜というのは、街灯がない田舎では足元どころか手元も見えないありさまだったのだ。
あまりにも何も見えないので、どこに何があるかわかっている家の中ならともかく、外は歩くというよりも『泳ぐ』と表現する方が適切なくらいだ。
視覚が完全に塞がれている状態だから、不用意に走ったりなんかできない。足だけでなく両手も聴覚もフルに使いながら手探りで進まなくてはならない。
そんな具合だから、月明かりによって何となくでも『近くになにかある』とわかることは大きな違いであり、お月さまとは、大変にありがたい存在だった。
今は、街灯なしの道は少なくなり、夜間でも歩くのに不便は少なくなった。
『お月さま』のありがたみも、日常ではだいぶ減った。
明るすぎ、近すぎなので、天体観測では邪魔者扱いされることもしばしばだ。
しかし、その代わり月の効能は学校で皆が習う。
潮の満ち欠け。
宇宙からの隕石を代わりに引き受けてくれる。
月の質量が地球の地軸の傾きを長期間維持するために寄与しており、月がなくなると、いずれは季節の移ろいもなくなる、なんて話もある。
我々がこうして日々を送れているのは、第一に地球の大地と水と空気のおかげ。
第二に太陽のエネルギーのおかげ。
そして、第三に月の効能のおかげ、というわけだ。
目に刺さるようなLEDライトの街灯が夜を明るく照らす現代の夜でも、その事実は変わらない。
そして、日本人は満月にかこつけて団子を食べたりもするのである。
ダイエットについて( テーマ たまには)
*
「たまにはいいじゃん。」
ダイエット中のはずの彼は言い、お菓子をバクバク食べた。
(この前もそう言ってた。)
「あなたのコレステロール値は悪化している。太っているようにも見えないので、体質でしょう。なので、今後は一生、この薬を毎日飲み続けてください。」
そう言って医者から告げられた知り合いは、しばしば薬を飲むのをサボっている。
彼の言い分も「一生飲み続けないといけないんだから、たまには、ね。」だ。
「1日練習を休んだら、取り返すのに2日かかるから」
他方、スポーツに打ち込んでいる友人は、そうして雨の日もどこかで体を動かしている。
「習慣づけないといけないから」
このアプリで、毎日欠かさずに文章を書いている人もいるでしょう。
*
世の中のほとんどは、後者のように「欠かさずに習慣づけないと維持できないもの」ばかりなんだろう。
だからダイエットした人はリバウンドするし、薬を飲まなくなった知り合いの健康状態は悪化した。
しかし、多くの人は「これから一生〇〇してください」と言われると反発する。
『一生歩行器を使って』と言われた祖母は、家の中では平気で杖も歩行器もなしで歩き、そして転んで骨折する。
話がずれた。
ダイエットも続かないし、スポーツもうまくならない人で世の中は溢れている。
1つは諦めてしまうから。
もう一つは「たまにはいい」と思ってしまうから。
そして「たまに」の頻度は人によって違う。
一年に一回?いやいや一ヶ月に一回?それとも、週に一回?
それはすでに「サボることを習慣づけている」とも言える。
そして、彼は一向に痩せないのだ。
*
「そんなのロボットじゃん。」と言われそうだ。
しかし、考えてみてほしい。
『たまには信号や踏切を無視してみよう』とか『たまには町を裸で走り回ってみよう』とかやる人はほぼいないはずだ。
……いないよね?
そして、信号を守るから、服を着ているから「お前はロボット」だとは言われない。
つまり、人には『一生守るのが当たり前』のことと『そうでないこと』があるのだ。
ダイエットも薬も、本来そうなのだろう。
『 一生守るのが当たり前のこと』のグループに入れて、「 たまには」の活躍の場は別のグループに委ねる。
即ち『守っても守らなくてもいいこと』のグループだ。
(まあ、そうは言っても美味しいものは食べたいんだけどね。)
だから、世の中にはダイエット本が溢れているのだ。
残業後対話篇 今の私なら(テーマ 大好きな君に)
これは、西暦2020年を超えた日本の、ある会社での、一人の会社員の、残業が終わってから帰宅するまでの心の中の話。ひどく狭い範囲の話。
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『もう君は恋とかしないのかな?』
私の頭の中の想像上の友人、イマジナリーフレンドは、たまに、私がとても言えない恥ずかしいことを言い出すことがある。
(私の想像上の存在なのに。)
「もう40過ぎだ。そんな歳じゃない。卒業だよ、卒業。」
『何だろーね。卒業って。君、恋愛履修してないじゃん。むしろ退学じゃない?』
( 反論はしない。)
『あの頃の君はすごかった。脳内麻薬がドバドバ出ていて、むちゃくちゃ気持ちよくなっていたと思うよ。』
そう。中学校で初恋なるものを体験したとき、私はあまりにも強い恋の痛みに、私の頭はどうかしてしまっていた。
まあ、現実的には「 ろくに話もできなかった」というだけだけど。
その頃、イマジナリーフレンドは私の頭には生まれておらず、影も形もいなかったはずだが、私の想像上の存在である以上、私の記憶には当然アクセスできる。
人に言えないような経験や思いも全てオープンというわけだ。
(脳内麻薬って……。すごい表現するね。あと、それだと、別に彼女自身は必要なくて、脳内麻薬が必要だったって言っているみたい。)
『そう言っている。だから、君がもし彼女と付き合えたとしても、脳内麻薬が出なくなったら、自然消滅していたのでは?』
今日のイマジナリーフレンドはひどい。
全然フレンドリーじゃない。
(……。付き合っているうちに、愛に変わるとか。)
『家族になるって奴だね。そうかもしれない。そうすると、恋心はそこに至るためのスタートダッシュってわけだ。』
そういう解釈も、まあ、あるかもしれない。
『そうすると、恋心は退学しても、何らかの心のエンジンがあれば、家族は作れる、ということかな。』
(たぶん。)
*
今日のイマジナリーフレンドは、何がいいたいのか。
『あれだよ。それが君に分かっていないということは、君自身にも私自身にもわかっていない。話題の方向性がないってことだ。』
( ……。じゃあ、この話題はこれでおしまい、ということで。)
『いや、ちょっと待ち給え。』
( 何か?)
『偶然の産物から何かが生まれることもある。もう少しだけ続けよう。』
今日のイマジナリーフレンドはしつこい。
『恋に代わるエンジンとは、即ち『利』があるのではないか。』
( 利?)
『恋心は退学ということだから、容姿以外で……例えば、料理がうまい。掃除が得意。両親の面倒を見てくれる。』
退学とか言わないでほしい。
イマジナリーフレンドの言う、それらは確かに利ではある。
(いや、こちらに利があっても、向こうがこちらと一緒になる理由がないじゃん。)
『それはほら、給料とか。』
(つまりATM)
『いや、キチンと対価を提供するならATMではないでしょ。利害の一致。それはそれでいいと思うけど。昔多かったお見合いなんて、大体そういうギブアンドテイクでしょ。』
話はそこで終わり。
そのはずであった。
*
翌日の昼休憩。
『あ、脳内麻薬。』
会社近くの道で、件の初恋の人と、バッタリと顔を合わせてしまった。
「やあ、久しぶり。」
(しかも覚えられてるし。)
ほとんど話したことがない私を、彼女はきっちり覚えていた。
さらに言うと、彼女の足元には小さな女の子がつかまっていた。
昔の彼女の面影がある。
「久しぶり。元気?」
何か、話してみる。
(若い頃の私では口に出せない、軽口。)
『いや、今のは挨拶だよ。軽口とかじゃないよ。硬すぎ。』
「ボチボチね。この辺に勤めてるの?」
「ああ。あのビルなんだ。」
世間話はほどほどに捗った。
*
『楽しかった?』
(正直に言って、すごい楽しかった。)
仕事に疲れていたはずなのに、いや、むしろ仕事に疲れていたからか、実に久しぶりに胸が暖かくなり、表現しがたい恥ずかしさともどかしさがある。
『君の恋心は退学じゃなくて休学だったね。』
表に出ないイマジナリーフレンドは気楽なものだ。
(いや、彼女の子ども見たろ。結婚してるのも知ってるし。)
『いいじゃん。家庭を作るわけじゃないけど、君の幸せについて、「利」以外の答えだ。』
(不倫が?)
『いや、不倫じゃないよ。単にたまにあって立ち話するだけさ。何の後ろめたいこともない。』
(それだけでいいわけ?)
『いいんじゃない?脳内麻薬は出てたし。』
(いやでも、彼女に迷惑が)
『向こうから話しかけてきたろ。退屈な日常の中で、たまに昔の知り合いと話をするのも、1つの楽しみなのでは?』
それでいいのだろうか。
*
人間関係は1か100かではない。
80でいい。それもだめなら70で、それも無理なら60でもいいのだ。
人と人との関係だ。
夫婦だって、親子だって、100点満点とはいかない。
それでも、100点が取れなくても生活は、人生は続く。
だから、どうせ一緒にいるなら好きな人といたい。
100点が取れないからという理由で好きな人を諦めたのに、好きでもない人と60点の家庭を築く?
実に馬鹿な話じゃないか。
たったそれだけのことを悟るのに、長い年月が必要だった。
成長して、挫折して、諦めて。
そして悟る。
相手と自分の気持ちの中間点を見つけて、そこに気持ちの仮設基地を置く。
慌ててはだめだ。
少しずつ気持ちを確認して、少しずつ相手にも気持ちを開示して。
相手が受け入れてくれるようなら、受け入れてくれるところまで、距離を近づけていく。
どこかで「これ以上は嫌」と言われるのであれば、そこで終わり。
それだけでも、話すことすら稀だった昔とは、大きく違うはずだから。
『まあ、この年になると、そういう着地点しかないよね。』
お父さんのひなまつり(テーマ ひなまつり)
1
「今日、3月3日なんだけど。」
久しぶりの休日で、昼間で寝るつもりだった俺は、妻のやけに冷たい声に起こされた。
(3月3日。・・・何の日だったか。そうだ、ひなまつりだ。)
雛祭りの人形などは用意していない。
そう言えば、少し前から妻がなにか相談しようとしてきたが、仕事が佳境でロクに睡眠時間も取れていなかった俺は、まともに聞くことができていなかった。
土曜日の昼で仕事が一段落し、帰ってから寝続け、居間に至る。
「真子は?」
「朝ご飯食べて、テレビ見てる。」
娘の真子はすでに起きているようだ。
(日曜日の朝のアニメは偉大だ。親に貴重な時間をくれる。)
「ひな祭り、なしでよくないか?夕飯やおやつで少しそれっぽいものを出すくらいで。」
適当に答えると、妻の気分が一段悪くなったのが目に見えた。
「仕事が忙しいのはわかるけど、親としてどうなの?それ。」
「・・・でも、当日に雛人形とか買えないだろ。」
「スルーはしない。真子に嫌な思い出を作っちゃだめ。こういうの、悪いことは一生覚えてるわよ。」
こうして、仕事で神経をすり減らす日々の間のたまの休日も、朝から難問に取り組むことになった。
2
俺の実家は男兄弟しかいないので、雛祭りの人形はない。
妻の実家にはあったようだが、立派すぎて家には飾れない。
「とは言え、買うのもなぁ。」
物が何もかも高くなっている昨今だ。1年に1回、飾るだけのものに高い金を払うのは痛い出費だ。
「こういうの、一生物だと思うんだけど。」
「でも、適当に安いのを買うのも中途半端だし、高いものを買うくらいなら、真子の進学のための費用に充てておいたほうがいいんじゃないか。」
金を貯めることも難しくなっているが、学費は意地でもためていかないと、真子が高校・大学に行くときに辛い選択をさせることになる。
それは避けたかった。
「友達に自慢できるとまではいかなくても、何もしなかったっていうのはないと思うわよ。」
しばらく悩んだ末に、覚悟を決める。
金の覚悟ではない。
「よし。作ろう。」
手探りで休日を潰す覚悟だ。
3
「おかあさん。次、どうするの?」
「ちょっとまってね。次はここを折る感じね。この画面よ。ねえ、ひな壇を作るにはどうしたらいいかな。本を重ねて、シーツかける?」
「それで作ったら本が読めなくなる。空の菓子箱がいくつかあっただろうから、切り貼りして作ってみよう」
全部手作りでやろう、ということになると、その後はおしゃべりしながら細々作業をした。
スマホで折り紙を調べて、雛人形を作ってみる。
妻の人形はできが良く、次に娘。最後に俺の出来損ない。
大人しく菓子箱の厚紙を切り刻み、ひな壇を作ることに専念した。
しばらく紙と格闘し、折り紙のひな壇が出来上がった。
「やった」
娘は、最初は立派な人形ではないことを気にしていたが、折り紙で一緒に作り始めたときから切り替えたのか楽しそうにし始め、出来上がったらスマホで撮影をはじめた。
俺のスマホで、雛祭りのBGMを流してみる。
少し、様になった気がした。
「ね。やってよかったでしょ?」
妻の声が気持ち、得意そうだ。
「まあ、真子が喜んだならよかった。」
「あなた、最近帰ってきて寝るだけだし。こういう時に一緒になにかしておかないと、そのうち、口を利いてもらえなくなるわよ。」
(なんて恐ろしいことを。)
次のイベントはホワイトデーか。
こちらは手作りは難しいかもしれない。
(大人しく何か買おう。)
4
そも、今の形のひな祭りは、江戸時代からあったらしい。
それ以前の原型となった行事を含めるなら更に遡る。
厄災避けの「守り雛」として、本人の代わりに厄を受けてもらったり、厄を払ってもらうための儀式
子どもの死亡率が今より遥かに高く、子どもが健やかに成長するために「祈る」ことしかできない時代。
人間の「科学知識」という力が今より遥かに少なく、その分「運命」やら「神」やらが幅を効かせていた時代の行事だ。
今は、それに頼らなくても日本では多くの子どもが健やかに成長できる環境がある。
だから、忙しいからやらなくても、多分問題ない。
(しかし)
行事がないと、日々の暮らしに精一杯の日々。
毎日、同じことを繰り返す日々だ。
忙しいからと言って、そのイベントたちを全部すっ飛ばしていくと、心を亡くして毎日毎日働くだけの日々が延々と続くだけになる。
そう。ボス戦なし、イベントなしのRPGのようなものなのだ。
人生には「ハレの日」というものが必要なのであろう。
昼間、菓子箱の厚紙と折り紙で作ったひな壇を見る。できの良いものも、悪いものもある。世界に一つだけの、不揃いのひな壇。
(娘と一緒に折り紙をする休日というのも、悪くなかった。)
そう考えると、今日の日は、良い思い出と言ってよかった。
(面倒だからと、辞めてしまっては自分の心までなくなる。忙しいからと、家庭まで効率化・省力化。・・・おかしくなっていたんだろう。)
明日の仕事がより億劫になったが、真子の寝顔を見て、気合を入れ直した。
そして、明日のために、さっさと寝た。
また長い仕事との格闘時間が始まるのだ。