恋愛無能
私は共感性がない。らしい。
恋愛らしいものも、ほぼしたことがない。
粘膜を交換するキスなんて、ちょっと考えられないくらいハードルが高い。
*
それでも、少しだけ、ほんの少しだけ親しくなった人がいた。
誤解するなかれ、付き合ってなどいない。
ただ、私としては、他の人より少し多く話をする。それだけの関係だった人だ。
相手は友達も多く、私はその中のひとりだったというだけだろう。
というか、人より多く話をする人だから友人が多く、人より多く話をする人だから、あまり話をしない私から見ると「 話をする人」なだけなのだ。
なんの不思議もない。
論理的だ。筋が通っている。
そして、別の日に、私の行動が、彼女の口から密やかに語られるのをたまたま聞いてしまった私は、密やかにショックをうけたのである。
そのとき私がやったのは1つ。
飲み会の帰り道に一緒になった彼女を、私が二人での飲みに「 誘わなかった」。
単に話をして、分かれ道で分かれた。それだけ。
それが、何故か悪い事のように言われていた。
お付き合いどころか、話をするだけで、影で一挙手一投足が「 複数人に」評価されている。
しまいには、相手はそれで傷ついたと涙ながらに語って別の男に慰めてもらっていた。
理解できなかった。
恋愛って、心の交流であると思っていたのは勘違いだったのか。
私はその時、そっと心の扉を閉め、一つの悟りを得たのである。
1人の人間に多くを期待するべきではない。
他人は自分とは違う。
自分が望むような交流を、相手もしたがっているとは言えないのだ。
高いコミュニケーション能力がない人間が、相手の察する能力で「 わかってもらおう」というのが甘えなのだ。
そしてもう一つ。
相手にとって見れば、私は真実、女を傷つけたワルイヤツなのだ。
*
そして、何年も経ち、結婚した彼女は今も色んな人と話をしているようだ。
曰く、夫への不満。
曰く、仕事場で同僚に不満がある。
愛想の良い彼女が周囲にこういう伝えることで、彼女の夫や同僚は少しずつ気まずい思いをするのだろう。
とまあ、ここまで彼女の悪口を書いてしまったが、つまり、何が言いたいかと言うと、こんなことを書いている私は、「すっぱいブドウの話をしているキツネ」と同じで、こんなことを繰り返しているから、恋愛無能なのである。
古来から、手を伸ばさないものに得られるものはないのである。
いわんや、欲しがりもしないなら、なおさらである。
というか、つぶやくアプリの愚痴を見ると、そういう人は珍しくないことが分かる。
身内への不満をばらまく人も、それを見て絶望する人も。
両方、珍しくない。
結婚が減り、子どもが減った原因がこんなところにもあった。
いやいや。
それも一緒だ。
できない原因を探しても、それだけでは解決にはならないのだ。
見つけた原因を解決する行動に出なければ。
心も唇も、自分から欲しがり、近づかないと得られるものなどないのである。
「 本当にほしいか?」を考えてしまうと、私のように思考の迷宮に入る。
多分、深く考えてはいけないことなのだろう。
「 ほしいと思ったときが、チャンス。
自分から動き、あとのことは考えてはいけない。
幸せになりたいならね。 」
あれ?何だか高額商品を売りつける詐欺師の語り口みたいになってしまった。
いや、きっと気のせいだろう。
こんなだから、私は恋愛無能なのだ。
そして、今日も夜中までの仕事に出るのだ。
放課後対話篇 永年に生きていきたい・・・。
西暦2000年前後の、日本の、学校での、学生の、心の中の話。酷く狭い範囲の話。
*
埃っぽい、小さな長細い部室。
文芸部の部室だ。
新品で購入したものなど何一つないであろう、中古品でもらってきただろうソファ。同じく中古品だろう本棚に、部員が持ち寄った本が並んでいる。
今日、私のクラスは少し早く授業が終わったので、他の部員が来るまでの1時間ほど、私は、イマジナリーフレンドと哲学的な談義をするのだ。
『別に哲学じゃないよね。単なる欲求だよね。「永遠に生きていたい」とか、漫画の悪役みたい。』
「そうは言っても、人間の寿命は短すぎると思わない?私が生まれてから今までも、コンピュータがすごく発達してきているし、携帯も普及したし、ゲームもどんどんグラフィックとかすごくなってるし。もっと先を見たい、と思ってもいいじゃん。車が空を飛ぶようになるかもしれないし。」
『そういえば、小学校の図書室に「100年前の人が考えた100年後の世界」とかいう本、読んだよね。台風を大砲で消すとか予想しているやつ。』
「ああ、読んだよね。タイトルはうろ覚えだけど。面白かったから覚えてる。」
イマジナリーフレンドの良いところはこういうところだ。
経験をすべて共有しているため、話が早い。
『そこにも車は空を飛ぶってあった気がするけど。まだ車、空飛んでない。』
「・・・つまり?」
『どんなに未来でも無理なんじゃない?いいところヘリコプターでしょ。』
*
イマジナリーフレンドの反論は続く。
『そもそも、永遠に生きていれば、他の知人・家族は全員寿命で死んでいくんだよ。あなたを知っている人はだれもいなくなる。そんな状態で、一人で生きていたいわけ?』
「知ってるでしょ。私、友達少ないから。家族との関係もそんなに良くない。」
自分で言ってて悲しくなるが、勢いで言ってしまう。
「成績も良くない。今の状態でも十分に孤独だよ。」
『じゃあ、孤独でなくなって、仕事もうまく行って、奥さんと子どもができたら?それでも、奥さんと子どもを見送って、一人だけ生き続けるの?』
遠慮のない意見。
他人に言われたらきっと腸が煮えくり返ってしまう。
できないことを、言われているから。
イマジナリーフレンドだから、落ち着いて話せる。
「それは全く想像できない。・・・幸せな自分を想像できない。」
『火山で埋もれたポンペイの街の落書きにさ、「愛する者は誰でも死んでしまえ」っていうのがあるんだよね。たぶん、今の君と同じような境遇の人じゃないかな?』
ポンペイは、西暦2桁の時に起こった火山の噴火によって、一夜で消滅したと言われている古代ローマ帝国の街だ。
長年閉じ込められていた遺跡から、落書きなどが多く発見されている。
「同じ境遇の人となら、仲良くなれるかも?ってこと?」
『ノー。2,000年前の人も同じ悩みを持っていたし、人間は進化しないってこと。君は人の表情やしぐさから自分への悪意や興味を察知する能力に長けている。だから自分が「嫌われている」と気がついたら自然に離れていく。だから友達がすくない。』
えぐるえぐる。容赦ないイマジナリーフレンド。
『もし、永遠の命が手に入っても、嫌われ続ける自分に嫌気が差して、200年くらいで自殺しそうってこと。』
*
「厳しい。もう少し優しくしてくれてもいいじゃん。」
『性格を責めているんではなくて、自分の人生の主役になれって言ってんの。人から言われるがままに生きて、その合間にマンガ読んだりゲームしたりするだけの人生じゃなくて。そうしないと、何歳まで生きたって一緒。』
「・・・」
横に置いて直視しないようにしていた現実を目の前に置き直される。他ならない自分自身であるため、走って逃げようが、イマジナリーフレンドからは、逃げられない。
それでも臆病者の私は、話を曲げてしまう。
「それでも、面白いゲームは出てくると思うんだよ。漫画や小説も。もしかしたら新しいメディアによる娯楽も。」
『えー。ゲームのために長生きするってわけ?』
「いいじゃん。ガン◯レみたいなゲームが進化してきたら、AIと友だちになれるかも。そうだ、AIは死なないから、寂しくないかも。」
(ガン◯レード・マーチは少し前に発売されたプレ◯テのゲームだ。AIがNPCを動かしており、NPCに好感度や判断や作業があるのが特徴だった。)
勢いで口から出た話だが、意外に悪くないように思えた。要はドラ◯もんと一緒に歴史を見ていこうっていう感じだ。
うん。悪くないように思う。
小学校の時は好きだったんだ、ドラ◯もん。
『まあ、君がいいならいいけどさ。どうせ永遠の命なんて無理だし。』
あ。今、自分に見捨てられた気がした。
*
「そういえば、枕草子にも「最近の若い者は・・・」っていう愚痴があったね。」
『言葉を勝手に短くするとかなんとか。』
「そう、それ。で、今も聞くじゃん。」
『よく聞くね。特にうちの授業とか。それが?』
「千年前からずっと言われてて、今からも多分言われ続けると思うんだ。」
『そうだろうね。現代でそれがなくなるとも思えない。』
「そ。それはさ、意味は2つあると思うわけ。」
先輩方のおしゃべりが聞こえてきた。
そろそろ今日のイマジナリーフレンドとの話は終わりだ。
『2つって?』
「一つは、人間は1000年前から変化し続けている。ダーウィン曰く、『最も強いものが生き残るのではない。最も変化に敏感なものが生き残る』。『最近の若い者は』って言われているうちは、人間もきっと生き残るだろうってこと。」
ちょっといいこと言った感を出してみる。どや。
『もう一つは?』
「世界はすべからく、後から生まれてきた者によって変化・革新されていく。つまり、おいて行かれた老齢の個体は常に時代遅れになっていく。だから、嫉妬からあんな愚痴が出る。我々もそうだし、今子どもだったり若者だったりする者も、いつかは置いていかれる。だから置いていかれないように、生きていたいんだよね。」
若い人は、後から生まれたってだけで、相当のチートなのだ。もちろん、環境の差は否定しないけど。
『・・・それはさ、こうも言えるんじゃない?』
イマジナリーフレンドは、チッチッチッと指を揺らしているように思えた(もちろん私の気の所為だ)。
『どんなに生まれてすぐの生き物も、直後にどんどん生き物が生まれてくる世界。だから、自分が主役の時間は、人生においてそんなに長くない。結局は、自分が叫びたいことを叫び、愛や友情が欲しければ伝えるべきだと思うよ。』
「・・・。」
なんだか、イマジナリーフレンドにうまく締められた気がする。
でも、個人的な結論としては、新しいゲームや、友だちになれるAIが出るかもしれないし、やっぱり永遠に生きていたいのだ。
口に出すと狂人なので、イマジナリーフレンド以外には言わないけど。
*
ギーッと音をたて、建付けの悪い金属製のドアが開く。
「おー、今日も早いね。」
「お疲れ様です。そろそろ原稿締切なので、ちょっと頑張ろうと思って。」
「関心関心。」
文芸部では、私はちょっと生意気で変だけど、基本的には素直ないい子ちゃん後輩なのである。
勿忘草
1
適齢期を過ぎてからの婚活は、当然苦戦する。
特に、私のような、まともに女性と付き合ったことがない人間は、ほとんどの相手から「地雷」と見られているのだ。
なので、最初に会ったときは、なるべく話を途切れさせないように、相手が喋らないならこちらから喋るように努力する。
日時を決めて落ち合ってから、予約していた店に、二人で少し歩いて向かう。
今日の人は落ち着いた雰囲気の女性だが、道沿いの花壇に咲いた小さな水色の花を指さした。
「あ、勿忘草ですよ。」
「ワスレナグサ、ですか。名前は聞いたことがあったんですけど、見たのは初めてです。青い花だったんですね。」
「色は色々です。白いのもピンクのもあります。」
「花言葉、知っていますか?」
「あいにくと、知らないです。その辺は疎くて。」
「当ててみてください。」
「・・・では。言葉通り、私を忘れないで、とか。」
「あたりです。まあ、そのまんまですね。」
(なんだか、今日は会話が続いているぞ。)
彼女は草花と由来に詳しい人だった。
店に着いて、食事をともにしている間も、気性が穏やかで好ましい人だった。
だめなのは私の方だった。
仕事の話ばかりしてしまい、相手の顔が、若干無表情になり、( あ、しまった)と気がつくが、時すでに遅く、その後の顔は愛想笑いだと私にもわかった。
作り笑いには詳しいんだ、私は。作り笑いには。
当然、二度目はなかった。
2
翌日、選挙準備の仕事をしながら、職場の後輩の谷に、昨日の話をしてしまう。
谷は、年齢だけ重ねた私と違い、才能に溢れて努力も惜しまない、エース職員だ。後輩だが、すでに職位は並んでおり、もう少ししたら追い越されるだろう。
数年同じ職場にいるので、割と何でも話す間柄になっていた。
「先輩、バカですね。」
「・・・。」
「仕事の話ばかりするとか、分かってないです。今まで女と付き合ったことないでしょ。」
「・・・。」
「そういうの、女には分かるんスよ。」
何でも話す間柄故に、遠慮がない。
私は、黙って手を動かしていた。
一般的にイメージされづらいが、選挙というものは基本的に激務だ。
うちの町では、選挙期間中は8:30〜20時まで役場で期日前投票ができる。
窓口で選挙をしつつ、投票日当日、町6ヶ所の投票所で投票ができるよう、準備をしていく。
また、投票日は同時に開票日でもあるので、開票の準備もする。
投票日当日に投票所の運営をする職員への説明、開票事務をする職員への説明も行う。
立候補者陣営からの質問や、入場券が届かないといった問い合わせ、さらには「 寝たきりの家族の投票を家族ができないのはおかしい」といった制度へのクレーム対応など。なお、選挙制度は法律で決まっているので、制度上の多くのことは、町の役場の職員では逆立ちしてもできることがない。国会議員が法律を変えないと、こちらが法律違反になるのだ。
説明責任を果たすのみである。
数限りなく仕事はある。
土日も期日前投票所は解説するため、自然、この期間はブラックな職場になる。
今やっているのは「県議会議員選挙」の事前準備で、任期は四年に一回。統一地方選挙だ。
「そういえば、前回選挙の時、先輩の友達が物見市の市議会議員選挙に出てたッスよね。今回も出てます?」
私が見合いの話に応えなくなったので、谷は話を変えた。
木倉のことだ。
「あいつは出ない。病気で死んでた。」
3
木倉との付き合いは、主に高専5年次の研究室だ。
高専は中学卒業時から進学できる高等専門学校で、高校と違って5年間ある。
卒業時には「準学士」つまり短大卒と同じ扱いになる。
大抵の高専は「工業高等専門学校」とか「商業高等専門学校」とかが前に付き、高校の授業+就職時に必要とされやすい専門的な内容を学ぶことができる、という学校だ。
学校側も、卒業生の就職先と強く関係ができており、就職先側が求めるスキルを授業に反映するなどして学生を育て、即戦力とまではいかなくても、優秀な専門知識と技能を持った学生として「企業が欲しい人材」にしていく。
と、ここまではいいことばかり書いたが、物事には裏側も当然ある。
専門知識が学べるが、入ってくるのは中学校を卒業したばかりの15歳。
世の中のことなんて全くわかっていない子どもだ。何が言いたいかというと、入ったはいいが、水が合わない人間が入り込むのだ。
私なんかがモロにそうだった。工業高専に入ったくせに、文系の科目に惹かれ、当然に必要となる理数系の成績は散々であった。今でもお情けで卒業させてもらったと思っている。
高校と違って5年間である。15歳の子どもが20歳の若者になる期間だ。水があっていないが我慢して卒業するというには、長い。
生徒会室の窓に貼ってあった「そのまま腐っていくだけなのか」という殴り書きは、そんな停滞感を感じていたのは自分だけではないことを示していたと思う。
そして、木倉も、成績はどうだったかまでは知らないが、心情的には明らかにそっち側だった。
4
高専では、最終学年である5年次に、一年かけて研究をする。大学で言うゼミみたいなものだ。
それまで授業をしていた教授の研究室を選ぶのだが、当然、人気に違いが出る。そして、研究室への生徒割当数は決まっているからして、学生は、人気の研究室は取り合い、不人気な研究室は避けられた。
そして、じゃんけんで負け続けた私と木倉は、一番不人気の教授の研究室になった。
期待されていなかったからか、内容も大した事ない。むしろ教授はほとんど研究室に来なかった。
ボチボチやっていると、研究は進まない割に与太話だけははずんだ。
私は、おおむねいつも1人で、教室内では何をやっているか分からない「ワケワカラン奴」という評価だった。
しかし、皆が知らない漫画を持ってきていくつも回し読みに回したことで、かろうじてクラス内の居場所を得ていた。
一方の木倉は社交的で、歌がうまく、ダンスをやっていた。クラスでも交友が広い方だ。
なんだか話が合わなそうだが、木倉が子どもの頃に見た「時◯の旅人」というアニメを私が知っていたことで、よく話をするようになり、研究室の時間はある程度快適な空間となった。
木倉は三国志が好きだったが、私はそれまで読んだことがなかったので、私は勧められて三国志を読んでみた。
木倉は横山光輝を勧めてくれたが、何故か私が選んだのは北方◯三の三国志だった。
しかし、これも結果的には悪くなかった。
漫画とは違う内容、目線であり、読んだあとは木倉に回し、「呂布が渋くてカッコいい」という話で盛り上がった。
なお、こんなことばかりしていたので、当然、研究ははかどらなかった。
卒業後は、私は全くの別業種の大学に編入し、高専とは縁が切れた。
5
木倉とも当然縁が切れたが、現代はネット社会だ。
以前の時代ならそれが今生の別れとなっていたが、実名SNSというものが台頭してきて、以前の縁をつなぎやすくなった。
特に、私のように学歴においても職歴においても何度か経歴ルートを変えている人間にとっては、業種を変えると知り合いがすべて切り替わるので、昔の知り合いとつながるためには、このような場がありがたかった。
私は大学を出て社会人になり、一度の転職を経て小さな町役場で働いているとき、SNSに友達申請があった。
木倉だった。彼はダンス講師となっていた。
(私も彼も、結局工業高専の勉強は活かせなかったかな。)
一年間、二人で研究室の研究を乗り越えたのだ。名前を覚えてくれていたようで、懐かしい気持ちで友だち登録をした。
6
そんな役所勤めも10年を超え、30代半ばになった私は、選挙事務に勤しんでいた。
統一地方選挙と呼ばれる選挙がある。
一つの選挙を指すのではなく、四年に一回、4月に日本中の多くの自治体で同時に選挙が行われるときの選挙の総称だ。
これは、終戦後、日本国憲法の制定から最初の選挙が一斉に行われ、この時に行った選挙が4年毎に任期を迎えるので毎回同じ時期になる、という寸法だ。もちろん、県知事や市長が任期途中で辞任したりして、タイミングがずれるとこの時期から外れることになるが、今でも多くの選挙がこの時期に統一されていた。
何が言いたいかというと、うちの町で県議会議員選挙の事務をしていたとき、同時に物見市では県議会議員選挙に加えて市議会議員選挙、更には市長選挙もあったのだ。
物見市の職員はうちとは比べ物にならないくらいブラックであったろう。
そして、SNSのタイムラインに、木倉の選挙活動が流れてきたのだ。
物見市で生まれ育って、ダンス講師となっていた木倉は、物見市議会議員選挙に立候補していた。
心情としては応援したかったが、統一地方選挙だ。同時にこちらでも選挙事務があり、休むこともできなかった。
(頑張れ、木倉。)
10年以上前の研究室の日を懐かしみ、内心で応援した。
職場の後輩の谷と選挙事務をしながら、物見市に友人が出ていることを伝えてみる。
「へえ、知り合いが議員になるような年なんスね。」
「最近は議員も若年化しているから。」
「うちの町の議員は高齢者ばっかりっスけど。」
「それは言うな。」
議員が高齢化すると何が問題なのか。
議会の改革が進みづらいのだ。
例えば、タブレットが使えないのでペーパーレス化が進まない。ペーパーレス化が進まないので、資料は全部印刷してホッチキス止めして議員一人分をセットしていく手間がかかる。印刷ミスがあればやり直しだ。
話が逸れた。
木倉の立候補者としてのプロフィールを見ると、「読書。北方◯三の歴史ものなど。」と書いてあった。
(まさかあのときの三国志のことじゃないよな?)
頻繁に昔を懐かしむようになると、要するにおっさんになったということだろう。
その後、木倉の惜敗を知った。SNSには、悔しさがにじみ出るようなタイムラインが載っており、再出馬を予想させた。
7
更に数年。
SNSを見て、妙なことに気がつく。
木倉自身の発言は相当昔で止まっていたが、「木倉さんは〇〇さんと〇〇にいます」というタイムラインが流れていたので、活動は続けているのだろうと思っていた。
しかし、よくよく読むと、そのタイムラインは「木倉先生、見ててください」とか、「子どもが大きくなりましたよ」とか書いているのだ。
SNSの木倉関係のページを調べてみる。
この数年の間に病死していた。
私が木倉のタイムラインと思っていたものは、全て、彼を懐かしみ、心は一緒だ、と思った彼の知人・関係者が投稿したものであった。
8
ガンは一般的な病気だ。
日本人の3人に1人はがんで死ぬとまで言われている。
しかし、私は、自分は若くはないものの、死が近いとまでは思っていなかったため、衝撃であった。
そのまま調べて見ると、木倉は、私が伝染病対策として10万円を給付する仕事をしているとき、病院で亡くなっていた。
「次の選挙のときに部署異動していれば時間が取れるので応援に行こう」と思っていた私の密かな希望は、永遠に叶わなくなった。
更に調べると、木倉がガンの闘病時に雑誌に寄稿していたことを知り、取り寄せてみた。
『ガンは生活習慣で治せる』『むしろ前より健康になった』『親より早く死ぬ不孝をしたくない』
そこには、活動的で情熱的なかつての木倉を思わせる文章が踊っていた。
(生きているうちに会えばよかった。)
後悔しても、もちろんどうしようもない。
9
木倉は死んでしまって、もう何をすることもできない。
一方で、私は生きてはいるが、40代になっても独身で、ブラックな職場環境に追われ、夢を追うどころではない。
夢。
そういえば、研究室で就職の話をしたことがあった。
工業高専の就職は、基本的には夢がない。現実の会社の話だからだ。
そんな話だけだとうんざりするので、好きだったゲーム会社に入るなんて、夢があっていいよね、といった話もしたことがあった。私はファ◯コムゲーが好きで、木倉はア◯ラスゲーが好きだった。
もちろん、工業高専で習ったことはゲーム制作とはなんの関係もないので、就職先としては現実味がなかったが、気分転換の話題としては華やかなものだった。
10
道の途中に咲いている勿忘草を、お墓代わりにして拝んでみる。
木倉とは学校のみの付き合いだったので、家も墓も知らないので、墓参りにも行くことができないのだ。
(こうして墓標代わりにしていくと、墓の場所も知らない故人が増える度に、大変になりそうだ。)
「あれ、先輩。何してんスか。それ、花っすよ。」
後ろから後輩の声が聞こえた。我に返る。
「知ってるよ。変だったか?」
「変だったっス。」
気にするな、後輩。
私は昔からこういうやつなんだ。そっとしておいてくれ。
ブランコ
山際の小さな公園にブランコがあった。
二ヶ月前にペンキの塗り直しをして見た目だけ新しくなったが、中々の年代物だ。
小さな子供にとっては、生まれる前からあり、初めて遊んだときから鎖はキイキイと音を立てていたし、腰掛け部分はミシミシ言っていた。
その公園しか知らない子どもは、何ならブランコとは「そういうものだ」とすら思っていた。
小学生低学年までの子どもはルールに沿って楽しむ。
それ以上の子ども達は、ブランコを危ない遊びに使いはじめる。
一つ。靴飛ばし。
深くこぎ、ちょうどいい時点で履いている靴を片方飛ばし、どこまで飛ぶか競う。飛ばす際に片足立ちになり、勢いをつけて蹴るような形になるため、そのままの勢いで踏み台を踏み外して転落する事故が起きやすい。
一つ。ブランコで一回転。深く漕ぎ、そのまま支柱を中心に一回転する。転落事故の元であるし、一回転すると鎖も一回り支柱に巻き付き、安定性も極端に悪くなる。そもそも一回転できずに失速して転落するリスクもある。
一つ。ブランコから飛び降り。深く漕ぎ、靴飛ばしの要領で「自分が飛ぶ」。もはや転落のリスクどころの話ではなく、自分から飛び降りる。着地に失敗すると、もちろん怪我をする。
今回の話は、飛び降りの話。
*
その日、小学校中学年の数人の男子が、度胸試しで順番にブランコから飛び降りをすることになった。
理由はわからない。
誰かが言い出し、度胸試しが故に「やめよう」と言えない。
あとから聞いた大人にしてみれば、「『臆病だ』と言われても「やめよう」という勇気があることこそ本当の度胸なんだ。」とでも説教するところだが、そんな高尚なことは誰も思いつきもしない。
ただ、断れば勇気がないと言われるのが怖い。
あるいは、そうやって「つまらない空気を作ったから」グループから外されるのが怖い。
今回、気弱で鈍いコタロウが断りきれなかった理由は、結局、「度胸がなかった」からであった。
コタロウは気は優しかったが、同時に気弱で、運動神経も良くなかった。
運動神経も気も強い「友人」たちが順番に飛んでいき、着地していく。
終わった「友人」から「思い切りだ」と言われ、コタロウは言われるがまま、なんの心の準備もしないまま、飛んだ。
この極めて危険な「遊び」は、危険な運動であるからして、怪我をせずに乗り切るにはある種の対応が必要だ。
それは、言葉にするなら、「放物線はなるべく高くせず」「枠に足を取られないように」「足から着地する」といったところか。
コタロウは何も考えず、思い切りだけで飛んだ。
結果、飛び降りた際に腕を体の一番下にした体勢にしてしまい、左手から接地した。
「痛い」
飛んだことでグループから一定の評価は得たが、失敗である。
そのまま次の子の番になっていた。
コタロウはあまりの腕の痛みに、途中で家に帰ることにした。
*
コタロウは腕を抱えたまま玄関の扉を開けた。
腕の痛みに耐えかねて、そのまま玄関に座り込む。
「あんた、帰ってくるの夕方じゃなかったの。部屋、まだ使ってるんだけど。」
3つ年上の姉からこちらを見ずに言われる。
コタロウと姉は同じ子ども部屋を共有しており、姉が友達を呼んだときは、コタロウはよく家を出ていた。
今日は友だちを連れてきていたようだ。
子ども部屋は姉と友達の空間として占拠しているので、居間でテレビでも見ていろ、という意であったが、そもそもコタロウは腕の痛みでそれどころではない。
玄関先で腕を抱えて声なく泣くだけであった。
「こんなんで泣くなんて今日は特に弱いわね。」
いつも嫌なことがあると、気弱な弟に嫌味や口撃をする姉だが、今日は姉的にはそんな事は言っていない。
繰り返すが、コタロウは腕の痛みで姉の心持ちなど考える余裕はない。
「?母さーん。コタロウがおかしい。」
不審に思った姉が母を呼び、母は台所から手を拭きながら玄関に来る。
「コタロウどうしたの」
「腕が痛い」
母は、コタロウの腫れた左手を見て顔色を変える。
「何があったの」
「ブランコから落ちた。手が痛い。」
コタロウは病院へ行った。
*
すぐ近くの外科に駆け込み、医者は腕をひと目見て言った。
「ああ、折れているね。」
レントゲンをとり、シンプルな骨折であることがわかってからは、淡々とギプスをつくった。
「まあ骨がくっつくまで二ヶ月くらいだろう」との診断であった。
コタロウは生まれて初めての骨折で、この後の手が使えない不便が続く生活を想像できず、単に多少マシになった痛みに一息ついただけであった。
コタロウは気弱だけでなく鈍い子どもであった。
一方母は、今後の2ヶ月の間、息子をどうフォローしたらいいか、頭を回転させていた。
*
次の日、学校に腕を吊って現れたコタロウに教室はざわついた。
特に度胸試しをしたグループの男子達は、自分たちがやったことで気まずい空気になる。
しかし、当のコタロウは気にせずグループに混ざった。
「いや、腕折れちゃってたよ。ノート書きにくくって。」
コタロウは鈍かったっが、今は鈍さが幸いして、気弱だが、呑気で明るい状態に戻っていた。
鈍さも武器だし、喉元過ぎれば熱さを忘れるのだ。
骨折するより、いじめられたり、無視されたりするほうがこの年代ではつらいのだ。
男子グループも、数分は気まずかったが、やがて好奇心からギプスの硬さを触ってみたりしているうちに、誰も気にしなくなった。
公園のブランコは特にその後も変わりなく使われ続けていたが、数年後になにか別の事件でもあったか、老朽化のせいか、別の遊具と一緒に撤去されてしまった。
昭和の時代の、放任の空気の中の話である。
青山
旅には二種類ある。
行って帰る旅と、行ったっきりの旅だ。
前者の代表はいわゆる旅行で、観光旅行だったり、仕事の出張なんかもそう。
大げさに言えば毎日の通勤もそうかもしれない。
後者の代表は誰もが同じく歩き続けている時間という道をゆく旅、人生だ。
*
現代日本の旅には、準備はいらない。
旅先で誰かに渡すお土産はいるかもしれないが、着替え、食べ物、さらには鞄だって、自分にお金があり、旅先に店さえあれば調達は容易だ。
新幹線に乗れば東京から九州まで行くのも簡単だ。
ただ座っていればいい。
私はお土産と風呂敷包の箱を持って、新幹線に乗った。
*
九州でさらに別の新幹線へ乗り換え、途中の駅からローカル線に乗り換えて、そこからバスに乗り換えた。
やがて見えてきたのは、店もまばらな田舎町だ。
ここまで行くと、お金があっても何でも揃うなんて無理で、途中の大きな駅に隣接したデパートを利用すべきだろう。
( 泊まるのは大きな駅近くのホテルにしよう。花やお酒を買ったあの駅がちょうどいい。)
帰りのことを考えながら、抱えた風呂敷を見る。
中にはやや縦に長い立方体の木箱が入り、さらに中には陶器の壺が入っている。
しばらく歩くと、あまり手入れがされていないのだろう、やや草が茂った墓地が見えてきた。
時間より少し早く来たのに、そこにはすでに寺のお坊さんと石材屋が待っていた。
「 本日は、よろしくお願いします。」
お互いに頭を下げる。
御経を上げてもらい、手を合わせる。
自分の手で抱えてきた母の骨壺を墓に入れた。
納骨。
母の納骨は、葬儀からしばらく日が経っていた。
葬儀の後、しばらく自宅にお骨を置いていたが、忌引から職場に戻ると仕事詰めで休みが取れなかったのだ。
線香の匂いとお経の声、それに虫の羽音が墓地の音の全てだった。
見送るのは、自分一人だ。
父は先にこの中に入った。
その時は母と一緒に納骨した。
もう家族のいない、独り身の私では、見送る人はいないだろう。
今日の天気がいいことが、私にとってせめてもの救いであった。
( 自分が死んだら、葬式から納骨までしてもらい、墓の永代供養とか、頼めるんだろうか。)
手を合わせて母のことを思いながらも、自分のことばかり考えてしまう。
( 納骨のときにこんなことまで考えるのは良くない。)
思い直して、母の旅路を思う。
母の実家側の両親は広島で、そこの墓に入っている。
広島に生まれ、東京に来て、死んだらお墓は夫の実家である九州の墓に入る。
行ったり来たりだ。
自分が死んだら、誰が東京からここまで運んでくれるのか。
( いっそ、墓参りしやすい近くに墓地を移すか。)
その思いつきは、存外いいことに思えた。
( しかし、この墓の中にいるご先祖様たちは、亡くなって何十年も経ってから、更に旅をするのか。)
そう思うと、いいことに思えた改葬案が、途端に不謹慎なことに感じられた。
むしろ、自分ひとりになったのだから、仕事を辞めてこの辺りに引っ越したらどうか。
体も無理が効かなくなってきたし、もう何年かしたら、定年前早期退職も不自然ではない歳だ。
お墓を引っ越すか、自分が引っ越すか。
(御経が終わったら、改葬 についてはお坊さんに聞いてみよう。)
判断には情報が足りないと、仕事のように考える。
手を合わせたまま、今度は本当に母の冥福を祈った。
自分の旅路の果ては、まだ来ない。
ただ、そろそろ考える時期にはなってきたのだ。