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1/31/2024, 9:59:43 AM

手紙

町のタイムカプセルが開けられたのは、当初の予定通り、封印の20年後であった。

町制50周年記念のイベントの一つとして、町民から集めた手紙を、カプセルに入れる。

タイムカプセルは地面に入れたりせず、役場庁舎のガラスケース入りで展示し続けられた。
展示には、「20年後に開封予定」と明記されていた。

そのかいあって、忘れられることなくきっちり20年後に開封され、中の手紙を郵送することとなったのだ。

「これ、切手足りませんね。これもだ。」

去年入庁したばかりの若手職員が、開封したカプセルの中身を見て不思議そうにしている。
切手が足りないとは、郵便料金のことだ。

「当時はそれで届いたんだ。郵便料金が上がったからな。」
年嵩の職員は、これがジェネレーションギャップか、と内心思った。しかし、顔には出さない。

「足りないのはどうするんですか?」
「予算から切手を購入して追加するしかないだろ。あと、そもそも宛先が今もあるかどうかって問題もあるぞ。」

「え〜。そんなの一つずつ対応していくんですか?」
「 いや、この仕事、何だと思っていたんだよ。」
「 フタを開けて、ポストに投函したら終了かと。」
「 そんなわけ無いだろ。宛先だって変わっているかもしれないのに。」

若手職員と年嵩の職員は手分けして封筒から分かる住所、宛名、切手を表計算ソフトに入力していく。

一覧にして、不足した料金を集計し、支払の伺いを立てるのだ。

「 これで、昔の手紙をもらって、何か意味あるんですかね?」
「 手が止まってるぞ。」

若手職員は、この作業が好きではないのか、文句を溢す。

結局、この作業を終え、切手を購入して全ての手紙を送り終えると、タイムカプセルを開けてから1週間は経っていた。




若手職員も、役場を離れると一人の若者だ。
アキラと言う。
そして、家に帰ると長男であり、夜中まで帰ってこない両親に代わり、年の離れた弟妹の面倒を見ている。

( いくら年が離れていても、そろそろ夕飯くらい交代制にならないかね。 )
内心思いつつも、そういえば、自分が子どもの時は祖母がまだ生きていたから、料理などしたことがないことに思い至り、黙った。


「 兄貴、手紙入ってたよ。」
弟が手渡してきたのは、切手を追加貼りされた封筒。

裏を見ると、10年以上前に亡くなった祖母の名。
宛名は、自分だった。

( これは、タイムカプセルか。先輩、黙っていたな。)
おそらく年嵩の職員が担当した手紙の山に、自分宛ての手紙が混ざっていたのだ。
すぐそばに本人がいるのがわかっているのだから手渡せばいいのに、知りながら黙っていたに違いない。

( 夜に読もう。)

料理しながら読むのもどうかと思い、弟妹が寝てから開けようと、ポケットに入れた。



手紙。

両親には、手紙のことは、まだ黙っていた。
両親宛の手紙がなかったからかもしれないし、まだ内容を知らないからかもしれない。

夜、弟妹が寝入り、両親も帰宅したので、布団に潜りつつ封を開ける。

行儀は良くないが、誰も見ているものはいないのだ。

『 大きくなったアキラへ』

( そうだ、こういう字だった。)
字を見て、小さな頃を思い出す。

『 この手紙は、20年後に開けると聞いたので、アキラはもう立派な大人になっていると思う。

なんと書いていいか迷ってしまう。

まだ、私は頭もハッキリしているが、20年後はかなり怪しい。
死んでいるかもしれないし、生きていてもボケているような気がする。
私は今65だが、父、つまりお前の曾じいさんはは80で死んだからだ。

そうだ。野球選手にはなれたか?

小さなお前には、難しいことを言いたくなかったから言わなかったが、スポーツ選手になるのは、難しい。
どこかで諦めていたとしても、それは不自然なことじゃない。

例え諦めたとしても、それまで努力した事実は消えない。
ともに頑張った友達は消えない。

夢を追った時期は、仕事に疲れたときの、お前のかけがえのない財産になるだろう。
他でもない、私がそうだったからだ。

もし、本当に野球選手になっていたら、こんなことを書いてすまない。
心から称賛する。


私からお前に、何か残せていたらいいと思うが、息子ほどには孫とたくさん話ができていないのが、最近の悩みなんだ。

もし私まだ生きて元気だったら、この手紙を見せて話をしてほしい。

孫に話をされて、不機嫌になることはないはずだ。

最後に、何を書こうか。

息子もいい年だし、お前には兄弟ができないだろうから、せめて家族を大切にしてほしい。

仲良く元気に暮らしてほしい。

たぶん、それがいちばん大事なことだ。』





翌日、年嵩の職員は、若手職員、アキラが妙に積極的になっているように思った。

何か喋りたいような、ウズウズしているような、浮ついているような。

何か言いたいことでもあるのだろう。

「 先輩、タイムカプセル、またやりませんか?」
これは、仕事に楽しみを覚えた顔だ。
「 何だかやる気じゃないか」
「 おれ、この仕事、好きかもしれません。」
「 そうか」

年嵩の職員は、しかし、あれは50周年記念行事なので、もしかすると次は100周年記念かも、とは、口に出さない分別を弁えた。

1/29/2024, 9:10:38 PM

「月が綺麗ですね」という言葉が、愛の告白だと知ったのは、いつのことだったか。

当時、学生だった私は、正直、意味が分からなかった。

月が綺麗であれば、何故愛の告白になるのか。
海が綺麗ではだめなのか。景色が美しいではどうなのか。

もっとも、夏目漱石が言っただけなので、一般的な日本の慣用句とは言い難いかもしれない。

夏目漱石にしたところで、『日本人は「I love you」を直訳した「私はあなたを愛している」なんて直接的には言わない。』と言いたかっただけであり、日本人の当時の奥ゆかしさを、日本語訳というより、日本人の言葉として文章を訳したかった、というところなのであろう。

そう、当時の日本人は、愛の告白などしなかったのである。
そもそも、現代的な意味での「愛」は、主に明治時代に翻訳で入り、一般化したのは昭和に入ってからだという。(聞いた話で根拠もない)


そういう知識を知り、歳をとった今なら、分かる気がする。
ただ、同じ時を過ごす中で、日々の喜びの感情を共有したい。それを表現するだけだから、「私は愛している」などと言葉にしないのだ。

だから、「月が綺麗ですね」と言うのだ。
海辺であれば海が綺麗でもいいのだ、花が美しい、でもいいのだ。

要は、「あなたと一緒にいる今、美しいものを見つけてそう感じている私がいます。」と伝えたいから。


どこかの物語で、共感性の低い主人公に、挨拶の意味を言葉にするシーンがある。

「こんにちは、今日はいい天気ですね」という挨拶には、『あなたに会えて、嬉しい』という気持ちを伝える意味がある。
と言うのだ。

当時は、『素敵な解釈(言語化)だ』と思っていたが、これは、一昔前の日本人にとっては、これこそが普通の感覚だったのかもしれない。



これまた学生の時、修学旅行で気のおけない友人と夜通し話をしたときだ。
『もっとも恥ずかしいのは、告白の言葉だよな』と言った彼の言葉を、私は覚えている。

全く同感だった。

しかし、歳を経た今は、未だ(多分ずっと)独身の私と、結婚して子どもも作った彼との違いを考えることがある。


彼は、恥ずかしい「直接的な愛の告白」をしたのか。
それとも、月が綺麗だと思うその言葉に共感してくれる素敵な女性と添い遂げられたのか。

私がそう思うことも、日本人的には、下衆な勘ぐりであろう。


私は、恥ずかしい「直接的な愛の告白」などできるとも思えない。

しかし、朝の挨拶はできるのだ。

「おはようございます。今朝も寒いですね」

と。

1/28/2024, 12:57:58 PM

街へ戻る


「よく帰ってきたね。東京で就職したときは、もう帰って来ないかと思って、寂しくしていたから。」

そう言って父と母は暖かく歓待してくれた。

大学卒業後、東京のブラック企業でSEをして3年。毎日0時過ぎまで働き、休みは月に1度。
プロジェクトは毎回遅れ、トラブルは収まらず。
いつも働き詰めでクタクタになって年末と盆に里帰りするだけの息子。

そんな里帰りをしたとき、母に就職先を紹介され、採用試験を受けてみると、あっさりと合格した。

拍子抜けするような、転職によるUターン。

戦場から帰ってきたような、そんな気分だった。

就職先は、そこまで厳しい職場環境ではなかった。長い勤務時間でもない。
結婚はしていないが、和やかな仕事先と、定年になったばかりの両親。
なんとなく、大学進学で実家を出る前の若い頃に戻ったようだった。

いや、高校のときは、大学受験と親との不仲で、もっと空気が悪かった。

社会に出て、ガムシャラに働いた期間で、私の心の角は丸くなっていた。
親とも適切な距離感で話ができていた。

理想的なUターン生活。
ただ、母の口うるささは、相変わらずだった。



10年後。
入ったときは和やかであった職場は、度重なる不況と物価高騰、そして感染症流行によって徐々に環境が厳しくなり、その厳しさに人が去っていくことで更に厳しくなる負のスパイラルになり、完全なるブラック企業となった。

長時間労働に、休日出勤。残業代がある程度出るのだけが救いだった。
そう、本当に救いであった。
お金が必要になったのだ。

定年から10年、まず高齢の祖母が、次に父が認知症を発症し、母はその二人の世話に追われて、荒れた。
戻ってきた息子(私だ)は結婚せず、遅くまで家に帰らない。休日も仕事。

認知で勝手に外に出ては度々行方不明になる祖母。その度に警察に連絡し、捜索された。母は何度も頭を下げた。
父は記憶が曖昧になったからか、不機嫌になることが多くなった。
車の運転もおぼつかなくなった。

母は、二人の面倒を見るためによく悲鳴を上げるようになり、次に怒鳴り声を上げる様になった。

私は仕事が忙しいのか、地獄のようになった実家に帰りたくなくなったのか、もう区別がつかなくなった。

しかし、母の疲弊が酷くなった段階で、私は職場に相談し、休日は職場に出ず、実家で介護ができるようになった。
私という戦友ができ、休日だけでも負担が2分の1になり、母の機嫌は、一時的によくなった。



更に10年、祖母が亡くなり、父の認知が進んできた頃、母もまた、足を悪くして寝たきりになった。

(こんなに早く、認知や老化は進むものなのか。もう少し緩やかに進むのではないのか。)

私は、職場に相談して介護休暇を取った。無給で3年間。
今度は、私が一人で介護する番だ。

結婚もしていないし、もうする気もなかった。
今、結婚相手を探しても、その条件は「両親の介護をしてくれる人」として見てしまう。
それは相手の人生を犠牲にすることに他ならなかったからだ。

学生か、社会人になって早いうちに結婚しておくべきであった、とも思ったが、一方で、「もしここで子育てもしていたら、果たして自分は耐えられていただろうか」とも思った。
まあ、今更のことである。考えてもあまり意味のない仮定だ。

私は、日々、買い物をして料理をして洗濯をして両親の面倒を見た。
体を拭いて、下の世話をして、話をした。
皮肉にも、私は自分の話をこんなに長く聞いてもらうことは初めてだった。
両親はよく喋る人だったが、自分たちの話をするのが好きな人で、息子の心の在りようを長く聞いてくれる人でもなかった。
そこまで暇でもなかったのだろう。
しかし、今は時間が有り余っていた。


父も母も、私が結婚せず、子どももいないことを悲しんでいた。
それは、私が幸福に見えないからか、それとも、自分たちに孫がいないからか。

私には分からなかった。

SEの戦場とも、今の職場のブラックさとも違う介護地獄の日々。
いや、忙しく、両親の機嫌が悪いと怒鳴り声や泣き声が来るが、地獄というほどではない。むしろ、私は、指図する人間が極端に少なくなった今の状態に、奇妙なストレスの軽減を感じていた。

仕事は辞めた。指図されない。
両親からは、炊事洗濯のやり方をいちいち指図されなくなった。
やることは多く、自由な時間もないが、細かいやり方は自分で考えて自分で決めることができた。

父や母には申し訳ないが、妻や子どもがいたら、おそらく妻に指図され、子どもの面倒を見るために心を砕き、職場で働きながら妻には老親の介護をさせ、妻の愚痴を聞く生活で、私の心はストレスでやられていたのではないだろうか。

ただ、収入はなくなった。
無給の3年はすぐに過ぎ、私はそのまま退職して無職となった。

あとは、目減りしていく貯金とにらめっこしながら、介護の日々だ。



更に10年。

父が亡くなり、母も病を得てしまい病院へ入院し、そこで数年の闘病生活の末、亡くなった。

私は母が長期入院になった段階で再就職先を求めたが、若くなかったため、高額な給料など望むべくもなかった。
わずかばかりのお金を得ては、母の病院に支払った。

母は最期まで、私に子どもがいないことを残念がっていた。

私も残念がっていたが、それは表面的なものだったかもしれない。
やはり、妻や子どもを、自分を縛る鎖だと感じていたのだと思う。


母の葬儀は、家族葬を行った。
祖母、父、母。三度目ともなると、もう慣れてしまった。

葬儀屋と馴染みとなった僧に対応をお願いし、ついでに奥地にあって墓参りに苦慮していた墓地を実家近くの墓地へ改葬した。

一人になった。

毎朝線香を上げ、手を合わせると、その時が自分を見つめ直す時間になった。



もう何も残っていない。

結婚もしてないし、子どももいない。

親がいなくなったことで、自分は孤独になった。しかし、一方で自由にもなった。

あとはいつ、どうやって死ぬか。それだけだ。

それがいいことなのかどうかは、わからない。
若い頃の自分なら、絶対に認められなかっただろう。
可愛い奥さんとの生活とか、憧れていたから。

母も、きっと子どもを残してほしかったのだろう。血が、家が絶えることを嫌がっていた。
しかし、皮肉なことに、そうして母が怒鳴る度に、逆に自分は「こんな血が残らなくて良いかもしれない」と思ってしまった。


ただ、あとは自分の心の赴くままに、流れていこう。

何ができるかはわからない。

ただ、東京に、街に行ってみることにした。

文字通りの意味で、他に何もなくなった自分にとって、自分を最後に試してみるために。

これが人生のはじまりなのか。それとも、最期の旅への最初の一歩か。

わからないけれど。

明日誰かと出会うかもしれない。
出会わないかもしれない。


親が死んで、悲しかったけれど、疲れ切っていたけれど。
同時に、肩の荷が降りた。

明日、自分は、右に歩くのも左に走るのも自由だ。

街へ、行ってみよう。

1/27/2024, 12:53:34 PM

放課後対話篇

 これは、我々が「灰色の青春時代」と読んでいた、特に色恋のない高校生活の時の話。

 放課後、文芸部の部室で読書して時間を潰していた私は、同じく時間を潰していた友達と話をする。

 ちなみに、彼はイマジナリーフレンド、いわゆる私の想像上の存在であり、実在しない。

 友達いないわけではないんだけど、哲学的な話ができるような間柄ではないのだ。
 特に、今日のはかなり繊細な話題だ。仲が深いわけではない他人には言いたくない。

 私は聞く。
「『優しさ』って、何だと思う?」

「……その人を思って行動することかな。何でそんなことを?」


「昨日さ、姉が親に恋人がいるって話をしたとき、親が『絶対連れてこい』って聞かなくて、姉は涙ながらに抗議してたわけ。親は『見せられないような人間なのか』、姉は『娘のことが信用できないのか』と。」
それはそれは大喧嘩であったわけだ。
あまり言い争うことのない我が家で、珍しく声を荒げて。


「で、それが優しさなのかどうかってこと?」

「親が娘の彼氏を絶対に連れて越させるのは優しさか? また、姉はおそらく生まれて初めてできた彼氏に『両親に会って欲しい』と言って彼氏に負担をかけることを防ぎたい、というのは優しさか? っていうこと。」

「それだけでは何ともね。親は、自分の気に入らない男を別れさせるワガママかもしれないし、娘は彼氏にそんなことを言って振られるのが怖いのかもしれない。特に、そんなことで振られた噂が広まったら『アイツと付き合うと結婚前提になる(笑)』とか、『厳しい両親に制裁される』とか言われて、もう彼氏できないかもしれないし。」
イマジナリーフレンドは、厳しい、嫌なことを言う事が多い。ほかでもない、私が、内心で思ったゲスな感情を他人として言わせているからだ。

しかし、話は止まった。
そこから先は、憶測しかないからだ。答えは出ない。

故に、少し矛先を変える。

「別に、この話でなくとも、桃太郎でもいい。桃太郎が犬猿雉にきびだんごをあげたのは、鬼と戦うのに戦力が必要だったからなら、それは優しさではないのではないか、とか。そもそも鬼退治は、村人への優しさなのか、宝物を奪うための山賊行為なのか、とか。」

イマジナリーフレンドは腕を組む。これなら、現実ではないのでもう少し遠慮のない仮定話もできるだろう。
「犬猿雉については、絵本はともかく、話としては家来だから、主従契約だね。鬼退治はどうだろうね、社会正義を守るためとか。優しさとは違うような気がする。優しさはむしろ浦島太郎でしょ。」

「浦島太郎が亀を助けたのは、最初は見返りもないし、あまり議論の余地なく優しさかと思って。あえて桃太郎にしてみました。」

「それだよ。見返り。つまり、うまく行っても得しないのかどうか。」

「では、利害関係があると、どんな行為も優しさじゃないってこと?」

「見分けはつかないねってこと。あるいは、逆に損を被っているかどうか、とか。」

「鬼退治行為にはリスクが伴っているから、リスクを損と考えると、損しているってこと?」

「実際には、鬼退治がどのくらいの難易度か、得られる報酬がどのくらい見込めるか、のバランスで決まるんじゃない?」

ここまで言って、件の話を思い出す。
姉は親に嫌われるリスクを取り、彼氏に嫌われるリスク、あるいは彼氏の心理的負担を避けた。
親は娘に嫌われるリスクを取り、将来的に娘が不幸になるリスクを避けたかった。

こう並べると、親の方が、なんというか、あまり利を得られないが、親とは子どもを不幸にしたくないと思うので、子どもを不幸にしないのは、直接的に親のメリットなのかもしれない。


逆に考えてみる。
親には、リスクを取らずに「連れてこい」と言わない選択肢もあった。それも優しさなのか。

短期的には姉の負担を減らすだろう。しかし、もし悪い男なら、姉は不幸になる。

それとも、そこまで考えずに口から出たことか。



「こんちわ。おや?1人?」

文芸部室に新たに人が来た。先輩二人組だ。
私はこの二人はよく一緒なので付き合っていると思っている。

「優しさが何か考えていました。特に、表面的でないところで。」

「ワン◯ースみたいなこと?」
彼氏先輩が言う。ワン◯ースの初期には、主人公が無茶苦茶なことをしたが、実は誰かを思ってしたことだ、という展開がいくつもあった。逆に、善人面の悪人もいた。それのことだろう。

「いや、結局、優しさかどうかは本人にしかわからないし、もしかしたら本人も優しさと思っているだけで、実際には分からないことだな、と。」

自分の他の人が来たので、イマジナリーフレンドは消えた。

ただ、結論的には、口から出た今のくらいが着地点だったろう。

つまり、本人が、優しさの定義をし、自分の心の中のエゴを取り払ったうえでしか、正確には判断できない。
そういうものなんだろう。

だから、伝わるときも、伝わらないときもある。



ふむ。

今夜、親と姉に、別々に、都合の良い側面を伝えて仲の修復を図ってみるか、と考えてみる。

親には姉のクラス内での社会的死のリスクを、姉には親が娘に嫌われる覚悟をしても不幸になってほしくないと思っていることを。

結局、真実は私にはわからないのだ。

家庭内平和のために動いてもいいだろう。

この行動は、自分の住環境のためであり、優しさではない。
自分の内心のことだから、これだけは真実だろう、きっと。

1/27/2024, 4:26:29 AM

人は真夜中に寝ている時、力を蓄える。


昼間に、起きている時間は植物で言うと「収穫」の時だ。


仕事が忙しいからと言って、眠る時間を削って起きてばかりいると、体力や気力を蓄えない、小さくやせ細った実しかつけない枯れ木のようになってしまう。

植物は目を覚まさない。
植物は常に眠ることで実をつける。常に眠り、土と水と太陽の光で力を蓄え、そのまま実をつける。

動物は眠りと眠りの間に「起きている時間」を作ることで、他者の命を奪い、単に眠り続けるよりも効率よくエネルギーを得ることを覚えた。

夜は蓄える時間。
基本、眠るべき。

真夜中の楽しい夜遊びと冒険は、ごく偶にする程度にするべきだ。
毎日では楽しさも薄れる。

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