安心が欲しい人は、不安が消えない。
不安を覚えない人は、そもそも安心を欲しがらないから。
私達は、子どもの頃から不安を友だちにして生きている。
学校。
友だちができなかったらどうしよう。
いじめの標的にされたらどうしよう。
勉強について行けなかったらどうしよう。
進学も不安だ。
浪人したらどうしよう。
成績が悪かったら留年することも考えられる。
就職も不安だ。
どこにも内定をもらえなかったらどうしよう。
就職してもブラック企業かもしれない。
結婚できないかも、子どもが生まれないかも、生まれてもきちんと育てられないかも。
不安はいくらでも湧いてくる。
不安への対処は、行動だ。
考え続けていても悩みは晴れない。
話し方を覚えた。
笑顔を練習した。
勉強に打ち込んだ。
空気を読めるように練習した。
仕事に没頭した。
何かに打ち込んでいるときだけ、不安を忘れられた。
そう、忘れただけ。
不安を忘れているとき、私は忙しい。
忙しいとは、心を亡くすと書く。
まるで、不安を感じないかのように働いていたときの私は、不安に打ち勝ったのではない。
単に、心を亡くしていただけだった。
やがて時が経ち、時間が不安の種を回収していく。
学校を卒業することで、学業の不安は去った。
適齢期を過ぎることで、結婚は諦めた。
それでも、不安は尽きない。
親の介護はどうするか。
仕事を辞めないと面倒を見られない。
数年して、老親は旅立ち、心配はまた一つ減った。
そして自分が老年期になり、不安はほとんどなくなった。
子どもも配偶者もいない私にあるのは、いつ死ぬかの選択肢だけだ。
ふと、不安が底をついて、初めて気がつく。
不安とは、可能性と同義であった。
不安とは、未来の裏返しであった。
分からないこと、定まらないことを、恐れるのではなく楽しみにできなかったのか。
逃げるのではなく抱きしめていれば、現実は変わらなくとも、心は異なったのではないか。
老いが進む日々で、不安に正面から向き合ってみる。
明日、病気が悪化するかもしれない。
いや、朝起きて、胸に痛みがなかったら喜ぼう。
散歩に行こう。
川辺の道を歩けば、誰かと会えるかもしれない。
残りの人生は少ないけれど、今からでもいい。
不安から逃げるのではなく、不安に打ち勝つのでもなく、可能性を楽しみにしてみよう。
そうすれば、少なくとも、今夜、気持ち良く眠ることはできるから。
眩しいばかりに有能で、人気者の親友。
共に歩くと街は友達ばかりで、ワイワイガヤガヤ、楽しい時間ばかり。
隣を歩くと、気分は太陽と歩いているかのよう。
「俺は〇〇になるんだ」
夢を大きな声で語るその姿に、自分も魅了された。
光あふれる未来が、自分にもあると錯覚するような感覚。
時が経ち、大人になったと自認してからすでに10年を超えた。
若者のカテゴリから外れた自分と親友。
しかし、親友は相変わらず人に囲まれた太陽だった。
変わったのは自分だ。
忙しいとは、心を亡くすと書く。
毎日夜中まで仕事。
休日もよく潰れる。
時間があるときは祖母の介護をして、老老介護の両親に僅かな自由時間をプレゼントする。
自分がやりたかったことも、何一つなし得ないまま、ただ糊口を凌ぐだけの日々。
そんな中でも、年に一回親友と会うのは、数少ない楽しみであった。
そんな親友との飲みの場で、諍いになった。
時間を確保できて子育てをしている親友と、仕事と実家で日々1人で生きているだけの自分。
価値観が違うのだ。
疲れ果てている自分に、親友は不思議そうに、だが少しイライラしていた。
あの表情は、あれだ。
出来の良くない部下に、内心のいらつきを隠して対応するときの上司の顔だ。
その後、「時間は作るものだ」と言われ、その言葉に、ああ、私は自分の時間を作る能力すらないから、結婚も子育てもできずにこんなに差ができてしまったのか、と納得してしまった。
そのとき、自分は親友と明らかに違う立ち位置にいて、その眩しい光を正面から直視した。
眩しい。
目を開けていられないほどの光。
自分はその光に照らされて、自分の能力というものが白日の元に晒される。
そう。
私は、光のそばにいて、自分も光ることができると勘違いしていたのだ。
だから、正面から光を浴び、見たくない自分の姿を知ってしまった。
ああ。
私は、心理的に孤独になった。
ただ、一方で、このときようやく、私は自分の身の丈を知れたのだ。
光と対峙し、自分の影を見ることで。
それは、惨めなようで、スッキリしたような、形容しがたい気分であった。
親友と別れ、夜の道を酔っ払いながら歩く。
たまに、道端に座り込む。
そして、時間が経つとまた歩き始める。
みっともない、どこにでも居る酔っ払い。
昔の私が見たら「情けない」と言うに違いない姿。
(とりあえず、歩き始めるか。)
しかし、立ち上がる。
ようやく、自分で進む道を自分で歩くのだ。
惨めでみっともなくとも、それが私の等身大。
いつもと一緒の夢。
特に変わったこともない、仕事場で仕事をこなす日。
職場では同僚が手を動かしながらも仲良く軽口を叩き、たまに笑いが出る。
上司も珍しくずっと席にいて、話に加わる。
程々に忙しく、程々に働く。
デスクは綺麗で、窓から青空が見える。
何の変哲もない、仕事をする夢。
何もなく、朗らかな日の夢。
しかし、目が覚めたら、「いつもと一緒の夢」と思ったことが勘違いだったことに気がつく。
夢の中では仕事が嫌だと言い合っていても、その時間すら宝物であった。
目が覚めると、普通の日は貴重であることを実感する。
今日も職場は戦場なのだ。
気を引き締めていこう。
こんな夢を見た。
誰にでも訪れる、特別な夜。
それは最期の夜。
虫にも、植物にも、もちろん人にも。
その命が尽きる、最期の夜。
ほとんどの者は、それが特別だと気が付かない。
仕事に疲れて倒れ込むように眠ったまま、目を覚まさないかもしれない。
修学旅行を楽しみにした学生の夜。次の朝、交通事故で亡くなるかもしれない。
妻と口喧嘩をして別々のベッドで眠り、翌日口を利かないまま外出して亡くなるかもしれない。
介護に疲れて夕飯を用意しなかった日の夜、祖父が亡くなるかもしれない。
今日が人生最期の、特別な夜だと思って、生きていこう。
生きている限り、いつかはその日が来るのだから。
そう思いながら生きると、好きな人に好きと、伝えられる。
やりたいことをやることができる。
自分を偽って、自分を誤魔化して、無為な人生を送らずに済むかもしれない。
少なくとも、死ぬときに後悔はしにくい。
「やらなきゃ良かった」より「やれば良かった」の後悔のほうが、死ぬときにはきっと、つらい。
そうして、自分の人生に真摯に生きていきながら、大事な人に「また明日」と言うのだ。
今日が最期だと思いながら言うから、その言葉は「当たり前」ではなく「奇跡を期待した心からの言葉」になる。
どうか、明日もまた、あなたも私も生きている、という奇跡が続きますように。
今日が特別な夜ではありませんように。
海の底にいる深海魚、あるいは蟹。
水面は遥か天の上。
彼らは、水面の上の世界のことをどう思っているのだろうか。
別世界?
捕食者が住む地獄?
彼らの世界は海の底。
海藻もプランクトンも、海底には山も海溝もある。頭の上を魚が動き回り、食べられないように警戒しながら餌を探し、交尾して子を残し、死ぬ。
それらが世界の全てで、水面の上は別世界。
私達も「空の底」に住む生き物。
頭の上の空は鳥の世界、その上の宇宙は死の世界と思っている。
大多数の人間は、「空の底」で多くの生を過ごし、宇宙に出ることはない。
もしかすると、鳥は別のことを思っているかもしれない。
もし宇宙に知性体がいるなら、大気の底をうろついている私達は、海の底の蟹と同じように見られているのかもしれない。
「見ろよ、大気の底にへばりついている生き物が、あんなに増えてるぜ。」