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「よく帰ってきたね。東京で就職したときは、もう帰って来ないかと思って、寂しくしていたから。」

そう言って父と母は暖かく歓待してくれた。

大学卒業後、東京のブラック企業でSEをして3年。毎日0時過ぎまで働き、休みは月に1度。
プロジェクトは毎回遅れ、トラブルは収まらず。
いつも働き詰めでクタクタになって年末と盆に里帰りするだけの息子。

そんな里帰りをしたとき、母に就職先を紹介され、採用試験を受けてみると、あっさりと合格した。

拍子抜けするような、転職によるUターン。

戦場から帰ってきたような、そんな気分だった。

就職先は、そこまで厳しい職場環境ではなかった。長い勤務時間でもない。
結婚はしていないが、和やかな仕事先と、定年になったばかりの両親。
なんとなく、大学進学で実家を出る前の若い頃に戻ったようだった。

いや、高校のときは、大学受験と親との不仲で、もっと空気が悪かった。

社会に出て、ガムシャラに働いた期間で、私の心の角は丸くなっていた。
親とも適切な距離感で話ができていた。

理想的なUターン生活。
ただ、母の口うるささは、相変わらずだった。



10年後。
入ったときは和やかであった職場は、度重なる不況と物価高騰、そして感染症流行によって徐々に環境が厳しくなり、その厳しさに人が去っていくことで更に厳しくなる負のスパイラルになり、完全なるブラック企業となった。

長時間労働に、休日出勤。残業代がある程度出るのだけが救いだった。
そう、本当に救いであった。
お金が必要になったのだ。

定年から10年、まず高齢の祖母が、次に父が認知症を発症し、母はその二人の世話に追われて、荒れた。
戻ってきた息子(私だ)は結婚せず、遅くまで家に帰らない。休日も仕事。

認知で勝手に外に出ては度々行方不明になる祖母。その度に警察に連絡し、捜索された。母は何度も頭を下げた。
父は記憶が曖昧になったからか、不機嫌になることが多くなった。
車の運転もおぼつかなくなった。

母は、二人の面倒を見るためによく悲鳴を上げるようになり、次に怒鳴り声を上げる様になった。

私は仕事が忙しいのか、地獄のようになった実家に帰りたくなくなったのか、もう区別がつかなくなった。

しかし、母の疲弊が酷くなった段階で、私は職場に相談し、休日は職場に出ず、実家で介護ができるようになった。
私という戦友ができ、休日だけでも負担が2分の1になり、母の機嫌は、一時的によくなった。



更に10年、祖母が亡くなり、父の認知が進んできた頃、母もまた、足を悪くして寝たきりになった。

(こんなに早く、認知や老化は進むものなのか。もう少し緩やかに進むのではないのか。)

私は、職場に相談して介護休暇を取った。無給で3年間。
今度は、私が一人で介護する番だ。

結婚もしていないし、もうする気もなかった。
今、結婚相手を探しても、その条件は「両親の介護をしてくれる人」として見てしまう。
それは相手の人生を犠牲にすることに他ならなかったからだ。

学生か、社会人になって早いうちに結婚しておくべきであった、とも思ったが、一方で、「もしここで子育てもしていたら、果たして自分は耐えられていただろうか」とも思った。
まあ、今更のことである。考えてもあまり意味のない仮定だ。

私は、日々、買い物をして料理をして洗濯をして両親の面倒を見た。
体を拭いて、下の世話をして、話をした。
皮肉にも、私は自分の話をこんなに長く聞いてもらうことは初めてだった。
両親はよく喋る人だったが、自分たちの話をするのが好きな人で、息子の心の在りようを長く聞いてくれる人でもなかった。
そこまで暇でもなかったのだろう。
しかし、今は時間が有り余っていた。


父も母も、私が結婚せず、子どももいないことを悲しんでいた。
それは、私が幸福に見えないからか、それとも、自分たちに孫がいないからか。

私には分からなかった。

SEの戦場とも、今の職場のブラックさとも違う介護地獄の日々。
いや、忙しく、両親の機嫌が悪いと怒鳴り声や泣き声が来るが、地獄というほどではない。むしろ、私は、指図する人間が極端に少なくなった今の状態に、奇妙なストレスの軽減を感じていた。

仕事は辞めた。指図されない。
両親からは、炊事洗濯のやり方をいちいち指図されなくなった。
やることは多く、自由な時間もないが、細かいやり方は自分で考えて自分で決めることができた。

父や母には申し訳ないが、妻や子どもがいたら、おそらく妻に指図され、子どもの面倒を見るために心を砕き、職場で働きながら妻には老親の介護をさせ、妻の愚痴を聞く生活で、私の心はストレスでやられていたのではないだろうか。

ただ、収入はなくなった。
無給の3年はすぐに過ぎ、私はそのまま退職して無職となった。

あとは、目減りしていく貯金とにらめっこしながら、介護の日々だ。



更に10年。

父が亡くなり、母も病を得てしまい病院へ入院し、そこで数年の闘病生活の末、亡くなった。

私は母が長期入院になった段階で再就職先を求めたが、若くなかったため、高額な給料など望むべくもなかった。
わずかばかりのお金を得ては、母の病院に支払った。

母は最期まで、私に子どもがいないことを残念がっていた。

私も残念がっていたが、それは表面的なものだったかもしれない。
やはり、妻や子どもを、自分を縛る鎖だと感じていたのだと思う。


母の葬儀は、家族葬を行った。
祖母、父、母。三度目ともなると、もう慣れてしまった。

葬儀屋と馴染みとなった僧に対応をお願いし、ついでに奥地にあって墓参りに苦慮していた墓地を実家近くの墓地へ改葬した。

一人になった。

毎朝線香を上げ、手を合わせると、その時が自分を見つめ直す時間になった。



もう何も残っていない。

結婚もしてないし、子どももいない。

親がいなくなったことで、自分は孤独になった。しかし、一方で自由にもなった。

あとはいつ、どうやって死ぬか。それだけだ。

それがいいことなのかどうかは、わからない。
若い頃の自分なら、絶対に認められなかっただろう。
可愛い奥さんとの生活とか、憧れていたから。

母も、きっと子どもを残してほしかったのだろう。血が、家が絶えることを嫌がっていた。
しかし、皮肉なことに、そうして母が怒鳴る度に、逆に自分は「こんな血が残らなくて良いかもしれない」と思ってしまった。


ただ、あとは自分の心の赴くままに、流れていこう。

何ができるかはわからない。

ただ、東京に、街に行ってみることにした。

文字通りの意味で、他に何もなくなった自分にとって、自分を最後に試してみるために。

これが人生のはじまりなのか。それとも、最期の旅への最初の一歩か。

わからないけれど。

明日誰かと出会うかもしれない。
出会わないかもしれない。


親が死んで、悲しかったけれど、疲れ切っていたけれど。
同時に、肩の荷が降りた。

明日、自分は、右に歩くのも左に走るのも自由だ。

街へ、行ってみよう。

1/28/2024, 12:57:58 PM