勿忘草
1
適齢期を過ぎてからの婚活は、当然苦戦する。
特に、私のような、まともに女性と付き合ったことがない人間は、ほとんどの相手から「地雷」と見られているのだ。
なので、最初に会ったときは、なるべく話を途切れさせないように、相手が喋らないならこちらから喋るように努力する。
日時を決めて落ち合ってから、予約していた店に、二人で少し歩いて向かう。
今日の人は落ち着いた雰囲気の女性だが、道沿いの花壇に咲いた小さな水色の花を指さした。
「あ、勿忘草ですよ。」
「ワスレナグサ、ですか。名前は聞いたことがあったんですけど、見たのは初めてです。青い花だったんですね。」
「色は色々です。白いのもピンクのもあります。」
「花言葉、知っていますか?」
「あいにくと、知らないです。その辺は疎くて。」
「当ててみてください。」
「・・・では。言葉通り、私を忘れないで、とか。」
「あたりです。まあ、そのまんまですね。」
(なんだか、今日は会話が続いているぞ。)
彼女は草花と由来に詳しい人だった。
店に着いて、食事をともにしている間も、気性が穏やかで好ましい人だった。
だめなのは私の方だった。
仕事の話ばかりしてしまい、相手の顔が、若干無表情になり、( あ、しまった)と気がつくが、時すでに遅く、その後の顔は愛想笑いだと私にもわかった。
作り笑いには詳しいんだ、私は。作り笑いには。
当然、二度目はなかった。
2
翌日、選挙準備の仕事をしながら、職場の後輩の谷に、昨日の話をしてしまう。
谷は、年齢だけ重ねた私と違い、才能に溢れて努力も惜しまない、エース職員だ。後輩だが、すでに職位は並んでおり、もう少ししたら追い越されるだろう。
数年同じ職場にいるので、割と何でも話す間柄になっていた。
「先輩、バカですね。」
「・・・。」
「仕事の話ばかりするとか、分かってないです。今まで女と付き合ったことないでしょ。」
「・・・。」
「そういうの、女には分かるんスよ。」
何でも話す間柄故に、遠慮がない。
私は、黙って手を動かしていた。
一般的にイメージされづらいが、選挙というものは基本的に激務だ。
うちの町では、選挙期間中は8:30〜20時まで役場で期日前投票ができる。
窓口で選挙をしつつ、投票日当日、町6ヶ所の投票所で投票ができるよう、準備をしていく。
また、投票日は同時に開票日でもあるので、開票の準備もする。
投票日当日に投票所の運営をする職員への説明、開票事務をする職員への説明も行う。
立候補者陣営からの質問や、入場券が届かないといった問い合わせ、さらには「 寝たきりの家族の投票を家族ができないのはおかしい」といった制度へのクレーム対応など。なお、選挙制度は法律で決まっているので、制度上の多くのことは、町の役場の職員では逆立ちしてもできることがない。国会議員が法律を変えないと、こちらが法律違反になるのだ。
説明責任を果たすのみである。
数限りなく仕事はある。
土日も期日前投票所は解説するため、自然、この期間はブラックな職場になる。
今やっているのは「県議会議員選挙」の事前準備で、任期は四年に一回。統一地方選挙だ。
「そういえば、前回選挙の時、先輩の友達が物見市の市議会議員選挙に出てたッスよね。今回も出てます?」
私が見合いの話に応えなくなったので、谷は話を変えた。
木倉のことだ。
「あいつは出ない。病気で死んでた。」
3
木倉との付き合いは、主に高専5年次の研究室だ。
高専は中学卒業時から進学できる高等専門学校で、高校と違って5年間ある。
卒業時には「準学士」つまり短大卒と同じ扱いになる。
大抵の高専は「工業高等専門学校」とか「商業高等専門学校」とかが前に付き、高校の授業+就職時に必要とされやすい専門的な内容を学ぶことができる、という学校だ。
学校側も、卒業生の就職先と強く関係ができており、就職先側が求めるスキルを授業に反映するなどして学生を育て、即戦力とまではいかなくても、優秀な専門知識と技能を持った学生として「企業が欲しい人材」にしていく。
と、ここまではいいことばかり書いたが、物事には裏側も当然ある。
専門知識が学べるが、入ってくるのは中学校を卒業したばかりの15歳。
世の中のことなんて全くわかっていない子どもだ。何が言いたいかというと、入ったはいいが、水が合わない人間が入り込むのだ。
私なんかがモロにそうだった。工業高専に入ったくせに、文系の科目に惹かれ、当然に必要となる理数系の成績は散々であった。今でもお情けで卒業させてもらったと思っている。
高校と違って5年間である。15歳の子どもが20歳の若者になる期間だ。水があっていないが我慢して卒業するというには、長い。
生徒会室の窓に貼ってあった「そのまま腐っていくだけなのか」という殴り書きは、そんな停滞感を感じていたのは自分だけではないことを示していたと思う。
そして、木倉も、成績はどうだったかまでは知らないが、心情的には明らかにそっち側だった。
4
高専では、最終学年である5年次に、一年かけて研究をする。大学で言うゼミみたいなものだ。
それまで授業をしていた教授の研究室を選ぶのだが、当然、人気に違いが出る。そして、研究室への生徒割当数は決まっているからして、学生は、人気の研究室は取り合い、不人気な研究室は避けられた。
そして、じゃんけんで負け続けた私と木倉は、一番不人気の教授の研究室になった。
期待されていなかったからか、内容も大した事ない。むしろ教授はほとんど研究室に来なかった。
ボチボチやっていると、研究は進まない割に与太話だけははずんだ。
私は、おおむねいつも1人で、教室内では何をやっているか分からない「ワケワカラン奴」という評価だった。
しかし、皆が知らない漫画を持ってきていくつも回し読みに回したことで、かろうじてクラス内の居場所を得ていた。
一方の木倉は社交的で、歌がうまく、ダンスをやっていた。クラスでも交友が広い方だ。
なんだか話が合わなそうだが、木倉が子どもの頃に見た「時◯の旅人」というアニメを私が知っていたことで、よく話をするようになり、研究室の時間はある程度快適な空間となった。
木倉は三国志が好きだったが、私はそれまで読んだことがなかったので、私は勧められて三国志を読んでみた。
木倉は横山光輝を勧めてくれたが、何故か私が選んだのは北方◯三の三国志だった。
しかし、これも結果的には悪くなかった。
漫画とは違う内容、目線であり、読んだあとは木倉に回し、「呂布が渋くてカッコいい」という話で盛り上がった。
なお、こんなことばかりしていたので、当然、研究ははかどらなかった。
卒業後は、私は全くの別業種の大学に編入し、高専とは縁が切れた。
5
木倉とも当然縁が切れたが、現代はネット社会だ。
以前の時代ならそれが今生の別れとなっていたが、実名SNSというものが台頭してきて、以前の縁をつなぎやすくなった。
特に、私のように学歴においても職歴においても何度か経歴ルートを変えている人間にとっては、業種を変えると知り合いがすべて切り替わるので、昔の知り合いとつながるためには、このような場がありがたかった。
私は大学を出て社会人になり、一度の転職を経て小さな町役場で働いているとき、SNSに友達申請があった。
木倉だった。彼はダンス講師となっていた。
(私も彼も、結局工業高専の勉強は活かせなかったかな。)
一年間、二人で研究室の研究を乗り越えたのだ。名前を覚えてくれていたようで、懐かしい気持ちで友だち登録をした。
6
そんな役所勤めも10年を超え、30代半ばになった私は、選挙事務に勤しんでいた。
統一地方選挙と呼ばれる選挙がある。
一つの選挙を指すのではなく、四年に一回、4月に日本中の多くの自治体で同時に選挙が行われるときの選挙の総称だ。
これは、終戦後、日本国憲法の制定から最初の選挙が一斉に行われ、この時に行った選挙が4年毎に任期を迎えるので毎回同じ時期になる、という寸法だ。もちろん、県知事や市長が任期途中で辞任したりして、タイミングがずれるとこの時期から外れることになるが、今でも多くの選挙がこの時期に統一されていた。
何が言いたいかというと、うちの町で県議会議員選挙の事務をしていたとき、同時に物見市では県議会議員選挙に加えて市議会議員選挙、更には市長選挙もあったのだ。
物見市の職員はうちとは比べ物にならないくらいブラックであったろう。
そして、SNSのタイムラインに、木倉の選挙活動が流れてきたのだ。
物見市で生まれ育って、ダンス講師となっていた木倉は、物見市議会議員選挙に立候補していた。
心情としては応援したかったが、統一地方選挙だ。同時にこちらでも選挙事務があり、休むこともできなかった。
(頑張れ、木倉。)
10年以上前の研究室の日を懐かしみ、内心で応援した。
職場の後輩の谷と選挙事務をしながら、物見市に友人が出ていることを伝えてみる。
「へえ、知り合いが議員になるような年なんスね。」
「最近は議員も若年化しているから。」
「うちの町の議員は高齢者ばっかりっスけど。」
「それは言うな。」
議員が高齢化すると何が問題なのか。
議会の改革が進みづらいのだ。
例えば、タブレットが使えないのでペーパーレス化が進まない。ペーパーレス化が進まないので、資料は全部印刷してホッチキス止めして議員一人分をセットしていく手間がかかる。印刷ミスがあればやり直しだ。
話が逸れた。
木倉の立候補者としてのプロフィールを見ると、「読書。北方◯三の歴史ものなど。」と書いてあった。
(まさかあのときの三国志のことじゃないよな?)
頻繁に昔を懐かしむようになると、要するにおっさんになったということだろう。
その後、木倉の惜敗を知った。SNSには、悔しさがにじみ出るようなタイムラインが載っており、再出馬を予想させた。
7
更に数年。
SNSを見て、妙なことに気がつく。
木倉自身の発言は相当昔で止まっていたが、「木倉さんは〇〇さんと〇〇にいます」というタイムラインが流れていたので、活動は続けているのだろうと思っていた。
しかし、よくよく読むと、そのタイムラインは「木倉先生、見ててください」とか、「子どもが大きくなりましたよ」とか書いているのだ。
SNSの木倉関係のページを調べてみる。
この数年の間に病死していた。
私が木倉のタイムラインと思っていたものは、全て、彼を懐かしみ、心は一緒だ、と思った彼の知人・関係者が投稿したものであった。
8
ガンは一般的な病気だ。
日本人の3人に1人はがんで死ぬとまで言われている。
しかし、私は、自分は若くはないものの、死が近いとまでは思っていなかったため、衝撃であった。
そのまま調べて見ると、木倉は、私が伝染病対策として10万円を給付する仕事をしているとき、病院で亡くなっていた。
「次の選挙のときに部署異動していれば時間が取れるので応援に行こう」と思っていた私の密かな希望は、永遠に叶わなくなった。
更に調べると、木倉がガンの闘病時に雑誌に寄稿していたことを知り、取り寄せてみた。
『ガンは生活習慣で治せる』『むしろ前より健康になった』『親より早く死ぬ不孝をしたくない』
そこには、活動的で情熱的なかつての木倉を思わせる文章が踊っていた。
(生きているうちに会えばよかった。)
後悔しても、もちろんどうしようもない。
9
木倉は死んでしまって、もう何をすることもできない。
一方で、私は生きてはいるが、40代になっても独身で、ブラックな職場環境に追われ、夢を追うどころではない。
夢。
そういえば、研究室で就職の話をしたことがあった。
工業高専の就職は、基本的には夢がない。現実の会社の話だからだ。
そんな話だけだとうんざりするので、好きだったゲーム会社に入るなんて、夢があっていいよね、といった話もしたことがあった。私はファ◯コムゲーが好きで、木倉はア◯ラスゲーが好きだった。
もちろん、工業高専で習ったことはゲーム制作とはなんの関係もないので、就職先としては現実味がなかったが、気分転換の話題としては華やかなものだった。
10
道の途中に咲いている勿忘草を、お墓代わりにして拝んでみる。
木倉とは学校のみの付き合いだったので、家も墓も知らないので、墓参りにも行くことができないのだ。
(こうして墓標代わりにしていくと、墓の場所も知らない故人が増える度に、大変になりそうだ。)
「あれ、先輩。何してんスか。それ、花っすよ。」
後ろから後輩の声が聞こえた。我に返る。
「知ってるよ。変だったか?」
「変だったっス。」
気にするな、後輩。
私は昔からこういうやつなんだ。そっとしておいてくれ。
2/3/2024, 10:06:59 AM