ブランコ
山際の小さな公園にブランコがあった。
二ヶ月前にペンキの塗り直しをして見た目だけ新しくなったが、中々の年代物だ。
小さな子供にとっては、生まれる前からあり、初めて遊んだときから鎖はキイキイと音を立てていたし、腰掛け部分はミシミシ言っていた。
その公園しか知らない子どもは、何ならブランコとは「そういうものだ」とすら思っていた。
小学生低学年までの子どもはルールに沿って楽しむ。
それ以上の子ども達は、ブランコを危ない遊びに使いはじめる。
一つ。靴飛ばし。
深くこぎ、ちょうどいい時点で履いている靴を片方飛ばし、どこまで飛ぶか競う。飛ばす際に片足立ちになり、勢いをつけて蹴るような形になるため、そのままの勢いで踏み台を踏み外して転落する事故が起きやすい。
一つ。ブランコで一回転。深く漕ぎ、そのまま支柱を中心に一回転する。転落事故の元であるし、一回転すると鎖も一回り支柱に巻き付き、安定性も極端に悪くなる。そもそも一回転できずに失速して転落するリスクもある。
一つ。ブランコから飛び降り。深く漕ぎ、靴飛ばしの要領で「自分が飛ぶ」。もはや転落のリスクどころの話ではなく、自分から飛び降りる。着地に失敗すると、もちろん怪我をする。
今回の話は、飛び降りの話。
*
その日、小学校中学年の数人の男子が、度胸試しで順番にブランコから飛び降りをすることになった。
理由はわからない。
誰かが言い出し、度胸試しが故に「やめよう」と言えない。
あとから聞いた大人にしてみれば、「『臆病だ』と言われても「やめよう」という勇気があることこそ本当の度胸なんだ。」とでも説教するところだが、そんな高尚なことは誰も思いつきもしない。
ただ、断れば勇気がないと言われるのが怖い。
あるいは、そうやって「つまらない空気を作ったから」グループから外されるのが怖い。
今回、気弱で鈍いコタロウが断りきれなかった理由は、結局、「度胸がなかった」からであった。
コタロウは気は優しかったが、同時に気弱で、運動神経も良くなかった。
運動神経も気も強い「友人」たちが順番に飛んでいき、着地していく。
終わった「友人」から「思い切りだ」と言われ、コタロウは言われるがまま、なんの心の準備もしないまま、飛んだ。
この極めて危険な「遊び」は、危険な運動であるからして、怪我をせずに乗り切るにはある種の対応が必要だ。
それは、言葉にするなら、「放物線はなるべく高くせず」「枠に足を取られないように」「足から着地する」といったところか。
コタロウは何も考えず、思い切りだけで飛んだ。
結果、飛び降りた際に腕を体の一番下にした体勢にしてしまい、左手から接地した。
「痛い」
飛んだことでグループから一定の評価は得たが、失敗である。
そのまま次の子の番になっていた。
コタロウはあまりの腕の痛みに、途中で家に帰ることにした。
*
コタロウは腕を抱えたまま玄関の扉を開けた。
腕の痛みに耐えかねて、そのまま玄関に座り込む。
「あんた、帰ってくるの夕方じゃなかったの。部屋、まだ使ってるんだけど。」
3つ年上の姉からこちらを見ずに言われる。
コタロウと姉は同じ子ども部屋を共有しており、姉が友達を呼んだときは、コタロウはよく家を出ていた。
今日は友だちを連れてきていたようだ。
子ども部屋は姉と友達の空間として占拠しているので、居間でテレビでも見ていろ、という意であったが、そもそもコタロウは腕の痛みでそれどころではない。
玄関先で腕を抱えて声なく泣くだけであった。
「こんなんで泣くなんて今日は特に弱いわね。」
いつも嫌なことがあると、気弱な弟に嫌味や口撃をする姉だが、今日は姉的にはそんな事は言っていない。
繰り返すが、コタロウは腕の痛みで姉の心持ちなど考える余裕はない。
「?母さーん。コタロウがおかしい。」
不審に思った姉が母を呼び、母は台所から手を拭きながら玄関に来る。
「コタロウどうしたの」
「腕が痛い」
母は、コタロウの腫れた左手を見て顔色を変える。
「何があったの」
「ブランコから落ちた。手が痛い。」
コタロウは病院へ行った。
*
すぐ近くの外科に駆け込み、医者は腕をひと目見て言った。
「ああ、折れているね。」
レントゲンをとり、シンプルな骨折であることがわかってからは、淡々とギプスをつくった。
「まあ骨がくっつくまで二ヶ月くらいだろう」との診断であった。
コタロウは生まれて初めての骨折で、この後の手が使えない不便が続く生活を想像できず、単に多少マシになった痛みに一息ついただけであった。
コタロウは気弱だけでなく鈍い子どもであった。
一方母は、今後の2ヶ月の間、息子をどうフォローしたらいいか、頭を回転させていた。
*
次の日、学校に腕を吊って現れたコタロウに教室はざわついた。
特に度胸試しをしたグループの男子達は、自分たちがやったことで気まずい空気になる。
しかし、当のコタロウは気にせずグループに混ざった。
「いや、腕折れちゃってたよ。ノート書きにくくって。」
コタロウは鈍かったっが、今は鈍さが幸いして、気弱だが、呑気で明るい状態に戻っていた。
鈍さも武器だし、喉元過ぎれば熱さを忘れるのだ。
骨折するより、いじめられたり、無視されたりするほうがこの年代ではつらいのだ。
男子グループも、数分は気まずかったが、やがて好奇心からギプスの硬さを触ってみたりしているうちに、誰も気にしなくなった。
公園のブランコは特にその後も変わりなく使われ続けていたが、数年後になにか別の事件でもあったか、老朽化のせいか、別の遊具と一緒に撤去されてしまった。
昭和の時代の、放任の空気の中の話である。
青山
旅には二種類ある。
行って帰る旅と、行ったっきりの旅だ。
前者の代表はいわゆる旅行で、観光旅行だったり、仕事の出張なんかもそう。
大げさに言えば毎日の通勤もそうかもしれない。
後者の代表は誰もが同じく歩き続けている時間という道をゆく旅、人生だ。
*
現代日本の旅には、準備はいらない。
旅先で誰かに渡すお土産はいるかもしれないが、着替え、食べ物、さらには鞄だって、自分にお金があり、旅先に店さえあれば調達は容易だ。
新幹線に乗れば東京から九州まで行くのも簡単だ。
ただ座っていればいい。
私はお土産と風呂敷包の箱を持って、新幹線に乗った。
*
九州でさらに別の新幹線へ乗り換え、途中の駅からローカル線に乗り換えて、そこからバスに乗り換えた。
やがて見えてきたのは、店もまばらな田舎町だ。
ここまで行くと、お金があっても何でも揃うなんて無理で、途中の大きな駅に隣接したデパートを利用すべきだろう。
( 泊まるのは大きな駅近くのホテルにしよう。花やお酒を買ったあの駅がちょうどいい。)
帰りのことを考えながら、抱えた風呂敷を見る。
中にはやや縦に長い立方体の木箱が入り、さらに中には陶器の壺が入っている。
しばらく歩くと、あまり手入れがされていないのだろう、やや草が茂った墓地が見えてきた。
時間より少し早く来たのに、そこにはすでに寺のお坊さんと石材屋が待っていた。
「 本日は、よろしくお願いします。」
お互いに頭を下げる。
御経を上げてもらい、手を合わせる。
自分の手で抱えてきた母の骨壺を墓に入れた。
納骨。
母の納骨は、葬儀からしばらく日が経っていた。
葬儀の後、しばらく自宅にお骨を置いていたが、忌引から職場に戻ると仕事詰めで休みが取れなかったのだ。
線香の匂いとお経の声、それに虫の羽音が墓地の音の全てだった。
見送るのは、自分一人だ。
父は先にこの中に入った。
その時は母と一緒に納骨した。
もう家族のいない、独り身の私では、見送る人はいないだろう。
今日の天気がいいことが、私にとってせめてもの救いであった。
( 自分が死んだら、葬式から納骨までしてもらい、墓の永代供養とか、頼めるんだろうか。)
手を合わせて母のことを思いながらも、自分のことばかり考えてしまう。
( 納骨のときにこんなことまで考えるのは良くない。)
思い直して、母の旅路を思う。
母の実家側の両親は広島で、そこの墓に入っている。
広島に生まれ、東京に来て、死んだらお墓は夫の実家である九州の墓に入る。
行ったり来たりだ。
自分が死んだら、誰が東京からここまで運んでくれるのか。
( いっそ、墓参りしやすい近くに墓地を移すか。)
その思いつきは、存外いいことに思えた。
( しかし、この墓の中にいるご先祖様たちは、亡くなって何十年も経ってから、更に旅をするのか。)
そう思うと、いいことに思えた改葬案が、途端に不謹慎なことに感じられた。
むしろ、自分ひとりになったのだから、仕事を辞めてこの辺りに引っ越したらどうか。
体も無理が効かなくなってきたし、もう何年かしたら、定年前早期退職も不自然ではない歳だ。
お墓を引っ越すか、自分が引っ越すか。
(御経が終わったら、改葬 についてはお坊さんに聞いてみよう。)
判断には情報が足りないと、仕事のように考える。
手を合わせたまま、今度は本当に母の冥福を祈った。
自分の旅路の果ては、まだ来ない。
ただ、そろそろ考える時期にはなってきたのだ。
手紙
町のタイムカプセルが開けられたのは、当初の予定通り、封印の20年後であった。
町制50周年記念のイベントの一つとして、町民から集めた手紙を、カプセルに入れる。
タイムカプセルは地面に入れたりせず、役場庁舎のガラスケース入りで展示し続けられた。
展示には、「20年後に開封予定」と明記されていた。
そのかいあって、忘れられることなくきっちり20年後に開封され、中の手紙を郵送することとなったのだ。
「これ、切手足りませんね。これもだ。」
去年入庁したばかりの若手職員が、開封したカプセルの中身を見て不思議そうにしている。
切手が足りないとは、郵便料金のことだ。
「当時はそれで届いたんだ。郵便料金が上がったからな。」
年嵩の職員は、これがジェネレーションギャップか、と内心思った。しかし、顔には出さない。
「足りないのはどうするんですか?」
「予算から切手を購入して追加するしかないだろ。あと、そもそも宛先が今もあるかどうかって問題もあるぞ。」
「え〜。そんなの一つずつ対応していくんですか?」
「 いや、この仕事、何だと思っていたんだよ。」
「 フタを開けて、ポストに投函したら終了かと。」
「 そんなわけ無いだろ。宛先だって変わっているかもしれないのに。」
若手職員と年嵩の職員は手分けして封筒から分かる住所、宛名、切手を表計算ソフトに入力していく。
一覧にして、不足した料金を集計し、支払の伺いを立てるのだ。
「 これで、昔の手紙をもらって、何か意味あるんですかね?」
「 手が止まってるぞ。」
若手職員は、この作業が好きではないのか、文句を溢す。
結局、この作業を終え、切手を購入して全ての手紙を送り終えると、タイムカプセルを開けてから1週間は経っていた。
*
若手職員も、役場を離れると一人の若者だ。
アキラと言う。
そして、家に帰ると長男であり、夜中まで帰ってこない両親に代わり、年の離れた弟妹の面倒を見ている。
( いくら年が離れていても、そろそろ夕飯くらい交代制にならないかね。 )
内心思いつつも、そういえば、自分が子どもの時は祖母がまだ生きていたから、料理などしたことがないことに思い至り、黙った。
「 兄貴、手紙入ってたよ。」
弟が手渡してきたのは、切手を追加貼りされた封筒。
裏を見ると、10年以上前に亡くなった祖母の名。
宛名は、自分だった。
( これは、タイムカプセルか。先輩、黙っていたな。)
おそらく年嵩の職員が担当した手紙の山に、自分宛ての手紙が混ざっていたのだ。
すぐそばに本人がいるのがわかっているのだから手渡せばいいのに、知りながら黙っていたに違いない。
( 夜に読もう。)
料理しながら読むのもどうかと思い、弟妹が寝てから開けようと、ポケットに入れた。
*
手紙。
両親には、手紙のことは、まだ黙っていた。
両親宛の手紙がなかったからかもしれないし、まだ内容を知らないからかもしれない。
夜、弟妹が寝入り、両親も帰宅したので、布団に潜りつつ封を開ける。
行儀は良くないが、誰も見ているものはいないのだ。
『 大きくなったアキラへ』
( そうだ、こういう字だった。)
字を見て、小さな頃を思い出す。
『 この手紙は、20年後に開けると聞いたので、アキラはもう立派な大人になっていると思う。
なんと書いていいか迷ってしまう。
まだ、私は頭もハッキリしているが、20年後はかなり怪しい。
死んでいるかもしれないし、生きていてもボケているような気がする。
私は今65だが、父、つまりお前の曾じいさんはは80で死んだからだ。
そうだ。野球選手にはなれたか?
小さなお前には、難しいことを言いたくなかったから言わなかったが、スポーツ選手になるのは、難しい。
どこかで諦めていたとしても、それは不自然なことじゃない。
例え諦めたとしても、それまで努力した事実は消えない。
ともに頑張った友達は消えない。
夢を追った時期は、仕事に疲れたときの、お前のかけがえのない財産になるだろう。
他でもない、私がそうだったからだ。
もし、本当に野球選手になっていたら、こんなことを書いてすまない。
心から称賛する。
私からお前に、何か残せていたらいいと思うが、息子ほどには孫とたくさん話ができていないのが、最近の悩みなんだ。
もし私まだ生きて元気だったら、この手紙を見せて話をしてほしい。
孫に話をされて、不機嫌になることはないはずだ。
最後に、何を書こうか。
息子もいい年だし、お前には兄弟ができないだろうから、せめて家族を大切にしてほしい。
仲良く元気に暮らしてほしい。
たぶん、それがいちばん大事なことだ。』
*
翌日、年嵩の職員は、若手職員、アキラが妙に積極的になっているように思った。
何か喋りたいような、ウズウズしているような、浮ついているような。
何か言いたいことでもあるのだろう。
「 先輩、タイムカプセル、またやりませんか?」
これは、仕事に楽しみを覚えた顔だ。
「 何だかやる気じゃないか」
「 おれ、この仕事、好きかもしれません。」
「 そうか」
年嵩の職員は、しかし、あれは50周年記念行事なので、もしかすると次は100周年記念かも、とは、口に出さない分別を弁えた。
「月が綺麗ですね」という言葉が、愛の告白だと知ったのは、いつのことだったか。
当時、学生だった私は、正直、意味が分からなかった。
月が綺麗であれば、何故愛の告白になるのか。
海が綺麗ではだめなのか。景色が美しいではどうなのか。
もっとも、夏目漱石が言っただけなので、一般的な日本の慣用句とは言い難いかもしれない。
夏目漱石にしたところで、『日本人は「I love you」を直訳した「私はあなたを愛している」なんて直接的には言わない。』と言いたかっただけであり、日本人の当時の奥ゆかしさを、日本語訳というより、日本人の言葉として文章を訳したかった、というところなのであろう。
そう、当時の日本人は、愛の告白などしなかったのである。
そもそも、現代的な意味での「愛」は、主に明治時代に翻訳で入り、一般化したのは昭和に入ってからだという。(聞いた話で根拠もない)
そういう知識を知り、歳をとった今なら、分かる気がする。
ただ、同じ時を過ごす中で、日々の喜びの感情を共有したい。それを表現するだけだから、「私は愛している」などと言葉にしないのだ。
だから、「月が綺麗ですね」と言うのだ。
海辺であれば海が綺麗でもいいのだ、花が美しい、でもいいのだ。
要は、「あなたと一緒にいる今、美しいものを見つけてそう感じている私がいます。」と伝えたいから。
どこかの物語で、共感性の低い主人公に、挨拶の意味を言葉にするシーンがある。
「こんにちは、今日はいい天気ですね」という挨拶には、『あなたに会えて、嬉しい』という気持ちを伝える意味がある。
と言うのだ。
当時は、『素敵な解釈(言語化)だ』と思っていたが、これは、一昔前の日本人にとっては、これこそが普通の感覚だったのかもしれない。
*
これまた学生の時、修学旅行で気のおけない友人と夜通し話をしたときだ。
『もっとも恥ずかしいのは、告白の言葉だよな』と言った彼の言葉を、私は覚えている。
全く同感だった。
しかし、歳を経た今は、未だ(多分ずっと)独身の私と、結婚して子どもも作った彼との違いを考えることがある。
彼は、恥ずかしい「直接的な愛の告白」をしたのか。
それとも、月が綺麗だと思うその言葉に共感してくれる素敵な女性と添い遂げられたのか。
私がそう思うことも、日本人的には、下衆な勘ぐりであろう。
私は、恥ずかしい「直接的な愛の告白」などできるとも思えない。
しかし、朝の挨拶はできるのだ。
「おはようございます。今朝も寒いですね」
と。
街へ戻る
「よく帰ってきたね。東京で就職したときは、もう帰って来ないかと思って、寂しくしていたから。」
そう言って父と母は暖かく歓待してくれた。
大学卒業後、東京のブラック企業でSEをして3年。毎日0時過ぎまで働き、休みは月に1度。
プロジェクトは毎回遅れ、トラブルは収まらず。
いつも働き詰めでクタクタになって年末と盆に里帰りするだけの息子。
そんな里帰りをしたとき、母に就職先を紹介され、採用試験を受けてみると、あっさりと合格した。
拍子抜けするような、転職によるUターン。
戦場から帰ってきたような、そんな気分だった。
就職先は、そこまで厳しい職場環境ではなかった。長い勤務時間でもない。
結婚はしていないが、和やかな仕事先と、定年になったばかりの両親。
なんとなく、大学進学で実家を出る前の若い頃に戻ったようだった。
いや、高校のときは、大学受験と親との不仲で、もっと空気が悪かった。
社会に出て、ガムシャラに働いた期間で、私の心の角は丸くなっていた。
親とも適切な距離感で話ができていた。
理想的なUターン生活。
ただ、母の口うるささは、相変わらずだった。
*
10年後。
入ったときは和やかであった職場は、度重なる不況と物価高騰、そして感染症流行によって徐々に環境が厳しくなり、その厳しさに人が去っていくことで更に厳しくなる負のスパイラルになり、完全なるブラック企業となった。
長時間労働に、休日出勤。残業代がある程度出るのだけが救いだった。
そう、本当に救いであった。
お金が必要になったのだ。
定年から10年、まず高齢の祖母が、次に父が認知症を発症し、母はその二人の世話に追われて、荒れた。
戻ってきた息子(私だ)は結婚せず、遅くまで家に帰らない。休日も仕事。
認知で勝手に外に出ては度々行方不明になる祖母。その度に警察に連絡し、捜索された。母は何度も頭を下げた。
父は記憶が曖昧になったからか、不機嫌になることが多くなった。
車の運転もおぼつかなくなった。
母は、二人の面倒を見るためによく悲鳴を上げるようになり、次に怒鳴り声を上げる様になった。
私は仕事が忙しいのか、地獄のようになった実家に帰りたくなくなったのか、もう区別がつかなくなった。
しかし、母の疲弊が酷くなった段階で、私は職場に相談し、休日は職場に出ず、実家で介護ができるようになった。
私という戦友ができ、休日だけでも負担が2分の1になり、母の機嫌は、一時的によくなった。
*
更に10年、祖母が亡くなり、父の認知が進んできた頃、母もまた、足を悪くして寝たきりになった。
(こんなに早く、認知や老化は進むものなのか。もう少し緩やかに進むのではないのか。)
私は、職場に相談して介護休暇を取った。無給で3年間。
今度は、私が一人で介護する番だ。
結婚もしていないし、もうする気もなかった。
今、結婚相手を探しても、その条件は「両親の介護をしてくれる人」として見てしまう。
それは相手の人生を犠牲にすることに他ならなかったからだ。
学生か、社会人になって早いうちに結婚しておくべきであった、とも思ったが、一方で、「もしここで子育てもしていたら、果たして自分は耐えられていただろうか」とも思った。
まあ、今更のことである。考えてもあまり意味のない仮定だ。
私は、日々、買い物をして料理をして洗濯をして両親の面倒を見た。
体を拭いて、下の世話をして、話をした。
皮肉にも、私は自分の話をこんなに長く聞いてもらうことは初めてだった。
両親はよく喋る人だったが、自分たちの話をするのが好きな人で、息子の心の在りようを長く聞いてくれる人でもなかった。
そこまで暇でもなかったのだろう。
しかし、今は時間が有り余っていた。
父も母も、私が結婚せず、子どももいないことを悲しんでいた。
それは、私が幸福に見えないからか、それとも、自分たちに孫がいないからか。
私には分からなかった。
SEの戦場とも、今の職場のブラックさとも違う介護地獄の日々。
いや、忙しく、両親の機嫌が悪いと怒鳴り声や泣き声が来るが、地獄というほどではない。むしろ、私は、指図する人間が極端に少なくなった今の状態に、奇妙なストレスの軽減を感じていた。
仕事は辞めた。指図されない。
両親からは、炊事洗濯のやり方をいちいち指図されなくなった。
やることは多く、自由な時間もないが、細かいやり方は自分で考えて自分で決めることができた。
父や母には申し訳ないが、妻や子どもがいたら、おそらく妻に指図され、子どもの面倒を見るために心を砕き、職場で働きながら妻には老親の介護をさせ、妻の愚痴を聞く生活で、私の心はストレスでやられていたのではないだろうか。
ただ、収入はなくなった。
無給の3年はすぐに過ぎ、私はそのまま退職して無職となった。
あとは、目減りしていく貯金とにらめっこしながら、介護の日々だ。
*
更に10年。
父が亡くなり、母も病を得てしまい病院へ入院し、そこで数年の闘病生活の末、亡くなった。
私は母が長期入院になった段階で再就職先を求めたが、若くなかったため、高額な給料など望むべくもなかった。
わずかばかりのお金を得ては、母の病院に支払った。
母は最期まで、私に子どもがいないことを残念がっていた。
私も残念がっていたが、それは表面的なものだったかもしれない。
やはり、妻や子どもを、自分を縛る鎖だと感じていたのだと思う。
母の葬儀は、家族葬を行った。
祖母、父、母。三度目ともなると、もう慣れてしまった。
葬儀屋と馴染みとなった僧に対応をお願いし、ついでに奥地にあって墓参りに苦慮していた墓地を実家近くの墓地へ改葬した。
一人になった。
毎朝線香を上げ、手を合わせると、その時が自分を見つめ直す時間になった。
*
もう何も残っていない。
結婚もしてないし、子どももいない。
親がいなくなったことで、自分は孤独になった。しかし、一方で自由にもなった。
あとはいつ、どうやって死ぬか。それだけだ。
それがいいことなのかどうかは、わからない。
若い頃の自分なら、絶対に認められなかっただろう。
可愛い奥さんとの生活とか、憧れていたから。
母も、きっと子どもを残してほしかったのだろう。血が、家が絶えることを嫌がっていた。
しかし、皮肉なことに、そうして母が怒鳴る度に、逆に自分は「こんな血が残らなくて良いかもしれない」と思ってしまった。
ただ、あとは自分の心の赴くままに、流れていこう。
何ができるかはわからない。
ただ、東京に、街に行ってみることにした。
文字通りの意味で、他に何もなくなった自分にとって、自分を最後に試してみるために。
これが人生のはじまりなのか。それとも、最期の旅への最初の一歩か。
わからないけれど。
明日誰かと出会うかもしれない。
出会わないかもしれない。
親が死んで、悲しかったけれど、疲れ切っていたけれど。
同時に、肩の荷が降りた。
明日、自分は、右に歩くのも左に走るのも自由だ。
街へ、行ってみよう。