放課後対話篇
これは、我々が「灰色の青春時代」と読んでいた、特に色恋のない高校生活の時の話。
放課後、文芸部の部室で読書して時間を潰していた私は、同じく時間を潰していた友達と話をする。
ちなみに、彼はイマジナリーフレンド、いわゆる私の想像上の存在であり、実在しない。
友達いないわけではないんだけど、哲学的な話ができるような間柄ではないのだ。
特に、今日のはかなり繊細な話題だ。仲が深いわけではない他人には言いたくない。
私は聞く。
「『優しさ』って、何だと思う?」
「……その人を思って行動することかな。何でそんなことを?」
「昨日さ、姉が親に恋人がいるって話をしたとき、親が『絶対連れてこい』って聞かなくて、姉は涙ながらに抗議してたわけ。親は『見せられないような人間なのか』、姉は『娘のことが信用できないのか』と。」
それはそれは大喧嘩であったわけだ。
あまり言い争うことのない我が家で、珍しく声を荒げて。
「で、それが優しさなのかどうかってこと?」
「親が娘の彼氏を絶対に連れて越させるのは優しさか? また、姉はおそらく生まれて初めてできた彼氏に『両親に会って欲しい』と言って彼氏に負担をかけることを防ぎたい、というのは優しさか? っていうこと。」
「それだけでは何ともね。親は、自分の気に入らない男を別れさせるワガママかもしれないし、娘は彼氏にそんなことを言って振られるのが怖いのかもしれない。特に、そんなことで振られた噂が広まったら『アイツと付き合うと結婚前提になる(笑)』とか、『厳しい両親に制裁される』とか言われて、もう彼氏できないかもしれないし。」
イマジナリーフレンドは、厳しい、嫌なことを言う事が多い。ほかでもない、私が、内心で思ったゲスな感情を他人として言わせているからだ。
しかし、話は止まった。
そこから先は、憶測しかないからだ。答えは出ない。
故に、少し矛先を変える。
「別に、この話でなくとも、桃太郎でもいい。桃太郎が犬猿雉にきびだんごをあげたのは、鬼と戦うのに戦力が必要だったからなら、それは優しさではないのではないか、とか。そもそも鬼退治は、村人への優しさなのか、宝物を奪うための山賊行為なのか、とか。」
イマジナリーフレンドは腕を組む。これなら、現実ではないのでもう少し遠慮のない仮定話もできるだろう。
「犬猿雉については、絵本はともかく、話としては家来だから、主従契約だね。鬼退治はどうだろうね、社会正義を守るためとか。優しさとは違うような気がする。優しさはむしろ浦島太郎でしょ。」
「浦島太郎が亀を助けたのは、最初は見返りもないし、あまり議論の余地なく優しさかと思って。あえて桃太郎にしてみました。」
「それだよ。見返り。つまり、うまく行っても得しないのかどうか。」
「では、利害関係があると、どんな行為も優しさじゃないってこと?」
「見分けはつかないねってこと。あるいは、逆に損を被っているかどうか、とか。」
「鬼退治行為にはリスクが伴っているから、リスクを損と考えると、損しているってこと?」
「実際には、鬼退治がどのくらいの難易度か、得られる報酬がどのくらい見込めるか、のバランスで決まるんじゃない?」
ここまで言って、件の話を思い出す。
姉は親に嫌われるリスクを取り、彼氏に嫌われるリスク、あるいは彼氏の心理的負担を避けた。
親は娘に嫌われるリスクを取り、将来的に娘が不幸になるリスクを避けたかった。
こう並べると、親の方が、なんというか、あまり利を得られないが、親とは子どもを不幸にしたくないと思うので、子どもを不幸にしないのは、直接的に親のメリットなのかもしれない。
逆に考えてみる。
親には、リスクを取らずに「連れてこい」と言わない選択肢もあった。それも優しさなのか。
短期的には姉の負担を減らすだろう。しかし、もし悪い男なら、姉は不幸になる。
それとも、そこまで考えずに口から出たことか。
「こんちわ。おや?1人?」
文芸部室に新たに人が来た。先輩二人組だ。
私はこの二人はよく一緒なので付き合っていると思っている。
「優しさが何か考えていました。特に、表面的でないところで。」
「ワン◯ースみたいなこと?」
彼氏先輩が言う。ワン◯ースの初期には、主人公が無茶苦茶なことをしたが、実は誰かを思ってしたことだ、という展開がいくつもあった。逆に、善人面の悪人もいた。それのことだろう。
「いや、結局、優しさかどうかは本人にしかわからないし、もしかしたら本人も優しさと思っているだけで、実際には分からないことだな、と。」
自分の他の人が来たので、イマジナリーフレンドは消えた。
ただ、結論的には、口から出た今のくらいが着地点だったろう。
つまり、本人が、優しさの定義をし、自分の心の中のエゴを取り払ったうえでしか、正確には判断できない。
そういうものなんだろう。
だから、伝わるときも、伝わらないときもある。
ふむ。
今夜、親と姉に、別々に、都合の良い側面を伝えて仲の修復を図ってみるか、と考えてみる。
親には姉のクラス内での社会的死のリスクを、姉には親が娘に嫌われる覚悟をしても不幸になってほしくないと思っていることを。
結局、真実は私にはわからないのだ。
家庭内平和のために動いてもいいだろう。
この行動は、自分の住環境のためであり、優しさではない。
自分の内心のことだから、これだけは真実だろう、きっと。
人は真夜中に寝ている時、力を蓄える。
昼間に、起きている時間は植物で言うと「収穫」の時だ。
仕事が忙しいからと言って、眠る時間を削って起きてばかりいると、体力や気力を蓄えない、小さくやせ細った実しかつけない枯れ木のようになってしまう。
植物は目を覚まさない。
植物は常に眠ることで実をつける。常に眠り、土と水と太陽の光で力を蓄え、そのまま実をつける。
動物は眠りと眠りの間に「起きている時間」を作ることで、他者の命を奪い、単に眠り続けるよりも効率よくエネルギーを得ることを覚えた。
夜は蓄える時間。
基本、眠るべき。
真夜中の楽しい夜遊びと冒険は、ごく偶にする程度にするべきだ。
毎日では楽しさも薄れる。
安心が欲しい人は、不安が消えない。
不安を覚えない人は、そもそも安心を欲しがらないから。
私達は、子どもの頃から不安を友だちにして生きている。
学校。
友だちができなかったらどうしよう。
いじめの標的にされたらどうしよう。
勉強について行けなかったらどうしよう。
進学も不安だ。
浪人したらどうしよう。
成績が悪かったら留年することも考えられる。
就職も不安だ。
どこにも内定をもらえなかったらどうしよう。
就職してもブラック企業かもしれない。
結婚できないかも、子どもが生まれないかも、生まれてもきちんと育てられないかも。
不安はいくらでも湧いてくる。
不安への対処は、行動だ。
考え続けていても悩みは晴れない。
話し方を覚えた。
笑顔を練習した。
勉強に打ち込んだ。
空気を読めるように練習した。
仕事に没頭した。
何かに打ち込んでいるときだけ、不安を忘れられた。
そう、忘れただけ。
不安を忘れているとき、私は忙しい。
忙しいとは、心を亡くすと書く。
まるで、不安を感じないかのように働いていたときの私は、不安に打ち勝ったのではない。
単に、心を亡くしていただけだった。
やがて時が経ち、時間が不安の種を回収していく。
学校を卒業することで、学業の不安は去った。
適齢期を過ぎることで、結婚は諦めた。
それでも、不安は尽きない。
親の介護はどうするか。
仕事を辞めないと面倒を見られない。
数年して、老親は旅立ち、心配はまた一つ減った。
そして自分が老年期になり、不安はほとんどなくなった。
子どもも配偶者もいない私にあるのは、いつ死ぬかの選択肢だけだ。
ふと、不安が底をついて、初めて気がつく。
不安とは、可能性と同義であった。
不安とは、未来の裏返しであった。
分からないこと、定まらないことを、恐れるのではなく楽しみにできなかったのか。
逃げるのではなく抱きしめていれば、現実は変わらなくとも、心は異なったのではないか。
老いが進む日々で、不安に正面から向き合ってみる。
明日、病気が悪化するかもしれない。
いや、朝起きて、胸に痛みがなかったら喜ぼう。
散歩に行こう。
川辺の道を歩けば、誰かと会えるかもしれない。
残りの人生は少ないけれど、今からでもいい。
不安から逃げるのではなく、不安に打ち勝つのでもなく、可能性を楽しみにしてみよう。
そうすれば、少なくとも、今夜、気持ち良く眠ることはできるから。
眩しいばかりに有能で、人気者の親友。
共に歩くと街は友達ばかりで、ワイワイガヤガヤ、楽しい時間ばかり。
隣を歩くと、気分は太陽と歩いているかのよう。
「俺は〇〇になるんだ」
夢を大きな声で語るその姿に、自分も魅了された。
光あふれる未来が、自分にもあると錯覚するような感覚。
時が経ち、大人になったと自認してからすでに10年を超えた。
若者のカテゴリから外れた自分と親友。
しかし、親友は相変わらず人に囲まれた太陽だった。
変わったのは自分だ。
忙しいとは、心を亡くすと書く。
毎日夜中まで仕事。
休日もよく潰れる。
時間があるときは祖母の介護をして、老老介護の両親に僅かな自由時間をプレゼントする。
自分がやりたかったことも、何一つなし得ないまま、ただ糊口を凌ぐだけの日々。
そんな中でも、年に一回親友と会うのは、数少ない楽しみであった。
そんな親友との飲みの場で、諍いになった。
時間を確保できて子育てをしている親友と、仕事と実家で日々1人で生きているだけの自分。
価値観が違うのだ。
疲れ果てている自分に、親友は不思議そうに、だが少しイライラしていた。
あの表情は、あれだ。
出来の良くない部下に、内心のいらつきを隠して対応するときの上司の顔だ。
その後、「時間は作るものだ」と言われ、その言葉に、ああ、私は自分の時間を作る能力すらないから、結婚も子育てもできずにこんなに差ができてしまったのか、と納得してしまった。
そのとき、自分は親友と明らかに違う立ち位置にいて、その眩しい光を正面から直視した。
眩しい。
目を開けていられないほどの光。
自分はその光に照らされて、自分の能力というものが白日の元に晒される。
そう。
私は、光のそばにいて、自分も光ることができると勘違いしていたのだ。
だから、正面から光を浴び、見たくない自分の姿を知ってしまった。
ああ。
私は、心理的に孤独になった。
ただ、一方で、このときようやく、私は自分の身の丈を知れたのだ。
光と対峙し、自分の影を見ることで。
それは、惨めなようで、スッキリしたような、形容しがたい気分であった。
親友と別れ、夜の道を酔っ払いながら歩く。
たまに、道端に座り込む。
そして、時間が経つとまた歩き始める。
みっともない、どこにでも居る酔っ払い。
昔の私が見たら「情けない」と言うに違いない姿。
(とりあえず、歩き始めるか。)
しかし、立ち上がる。
ようやく、自分で進む道を自分で歩くのだ。
惨めでみっともなくとも、それが私の等身大。
いつもと一緒の夢。
特に変わったこともない、仕事場で仕事をこなす日。
職場では同僚が手を動かしながらも仲良く軽口を叩き、たまに笑いが出る。
上司も珍しくずっと席にいて、話に加わる。
程々に忙しく、程々に働く。
デスクは綺麗で、窓から青空が見える。
何の変哲もない、仕事をする夢。
何もなく、朗らかな日の夢。
しかし、目が覚めたら、「いつもと一緒の夢」と思ったことが勘違いだったことに気がつく。
夢の中では仕事が嫌だと言い合っていても、その時間すら宝物であった。
目が覚めると、普通の日は貴重であることを実感する。
今日も職場は戦場なのだ。
気を引き締めていこう。
こんな夢を見た。