天国、地獄
上か下か、右か左か
対極の狭間が、現世——だとか
日々、
ちょっとしたことで舞い上がったり
落ち込んだり
気持ちは、天国地獄を行ったり来たり
誰かの言葉や存在で
嬉しくなったり、救われたり
その逆で
苦しくなったり、心が壊れたり
躁鬱の時は
まるでジェットコースターに
乗っているようだった
天国地獄の、終わらない周回
「普通で、いいんですよ」
そう言われて、余計混乱したっけ
普通って何だ
普通がわからない自分は、普通じゃないのか
思考の袋小路は、地獄の迷宮
普通じゃない私は特別! と吹っ切れる時は
蝋の翼を得たイカロスの如く
天上に達した気分、だったり
時を経て
多分だけれど
普通らしきものを、知り
狭間の世界を
ぼちぼち、サボりながらも歩いて
時々、天国と地獄を垣間見て
また狭間へと、心を戻す
みんなみんな、そんな一面はあるだろう
大切な存在を失ってしまったから
今はまだ、灰色
でも地獄では、ないの
思い出が、あるから
あの子と出会えたこの世界は、
やっぱり素敵だったと思うから
簡単に揺らいでしまう、狭間の世界
すべての万物が——
なんて、無理なのだろうけれど
でも
すべてが穏やかに健やかに過ごせるよう
狭間の端っこで、小さく祈っているよ
「あーもう、今日で残業10日目ですよ! やってられないです!!」
オフィスビルを出るなり。
彼女は膨らませた頬の空気を一気に吐き出すように口火を切って、疲れきっていたはずの私は吹き出してしまった。
「今、うちの部署は一番忙しい時期だからねぇ」
どちらかといえば事務的で、縁の下の力持ちたる地味な部署だ。
一年後輩な彼女は当初うちの部署に配属されたものの。
三ヶ月目にして花形な営業部署に異動となったものだから、うちの部署に繁忙期があることすら知らないのも無理はなかった。
「もう疲れすぎました——こんな日は、もう!」
先輩、行くしかないですよ! とガッシリ腕を掴まれる。
「えぇ? もしかして、あのお店……?」
「そうです! 先輩、行ってみたいって言ってましたよね!
むしろ今日行かずして、いつ行くんだ!? ——です!」
「わからなくもないような……。でも疲れているから自信ないよ、食べきれないかも」
「心配ご無用です! その時は私がフォローしますから!」
言い放って。
彼女は早速、鞄から髪留めを取り出して長い髪を一つにまとめている。
「フォローって。あなた、ダイエットしてるんじゃなかったの?」
「してますよ! でもこんなに疲れていますから、ちゃんとカロリー摂らないと逆に不健康です——それに!」
彼女は、ビル横にうっすら光る三日月を指差した。
「欠ける月にお願いすれば、大丈夫です!」
疲れすぎてテンションがおかしくなっているのか、彼女は両手を胸の前で組んで。
……ニンニクマシマシ・ヤサイマシ・アブラ・カラメを食べても太りませんように、と真顔で呟いた。
「そんなお祈り、初めて聞いたわ」
「そうですか? 私はよくやりますよ」
彼女オリジナルなのだろうか。
よくやる——ということは、彼女なりに効果を実感しているのだろう。
「ちなみに、月が満ちる時は、どうしているの?」
「少量でも満腹感が得られますように、ですね!」
にっこり笑う彼女に、私も自然と笑みが浮かんでくる。
「いいね、それ。私もマネしようかな」
「ぜひぜひ! 効きますよ〜!」
さあ行きましょう、と彼女に促され。
点滅する信号に負けないよう、駆け足で交差点を走り抜けた。
建物の窓の外は、大雨。
「神様の、怒りなんだって」
「大人がケンカばっかりしている、から」
ゼェハァと荒い息を吐きながら、赤いリュックを背負った少年が言う。
青いポンチョをまとった幼い男の子を手を引きながら、黄色いシャツの少年はうんうん、と赤いリュックの少年に頷き返す。
動かない、金属の階段を三人の少年は延々と登る。
「大昔にも、あったんだって。こういう、洪水が」
一つ上のフロアに辿り着いて、誰ともなくペタリと座り込む。
近くの窓から、外が見える。
黒い空の下も、真っ黒だ。
雲より凶暴に荒れ狂う黒い水の渦が、建物を取り囲んでいるのが見える。
ずっと。
ほぼ休みなく上へ上へと登ってきているのに、眼下の水は一向に遠くならないことに恐ろしさを覚え。
やはり誰ともなく、また階段を登り始める。
「昔も、僕達みたいに——こうやって登ったのかな」
「昔は、船があったから大丈夫だったらしいよ。水に浮く、乗り物があったんだって」
「そうなんだ。じゃあてっぺんに、船があるんだね、きっと」
「かもね。あのお婆さんが『もしかしたら』って言ってたから——わかんないけど」
「きっとあるよ、頑張ろ」
励まし合い、少年達は文句も言わずに登り続ける。
そして、ようやく。
最上階と思しき、窓一つないひんやりとした薄暗いフロアに辿り着いた。
「何だろう、ここ……」
少年達の背と同じくらいの高さの、タマゴ型のポッドが幾つも並んでいる。
ポッドと繋がっている機械のボタンを叩いてみても、何の反応もない。
「壊れてるのかな」
順番にポッドの上部にある、覗き穴めいた窓を覗き込みながら、機械のボタンを押していく。
「あ、見て! 女の子が入っているよ!」
ポッドの中で、女の子が眠っている——ように見えた。
女の子が入っているポッドの機械は、中央のボタンが緑色に光っていて、その隣の数字のメーターがゆっくりと回っている。
緑に光るボタンを押してもビーッと耳障りな音が一時的に鳴るだけだった。
「何だろうね?」
黄色いシャツの少年が首を傾げると、赤いリュックを背負った少年は指を鳴らした。
「わかった! これ、ベッドだよ。
この中に入っていれば、ここが水の中に沈んでも大丈夫なんだ、きっと!」
「そっか! じゃあこれに入れば、僕達助かるんだね!」
「うん、絶対そうだよ! 動く機械を、探そう!」
二人の少年はそれぞれ走りだし。
青いポンチョの男の子はポツンと、女の子が眠るポッドの前に座り込んだ。
やがて。
「……これ、一つだけかぁ」
僅かに軋みながら開いたポッドを見つめ。
二人の少年は、顔を見合わせた。
「僕達には、小さいね」
「うん。でも——あの子なら」
青いポンチョの男の子を呼び。
二人の少年は、怖がる男の子をなだめながら中に入れた。
「寝るだけだよ、大丈夫」
「僕達も、近くにいるから」
「これ——抱っこしていれば怖くないよ」
赤いリュックを抱きかかえさせ。
ボタンを押して、ポッドを閉める。
どういう仕掛けなのか。
ポッドが閉まると、中の男の子は即座に眠り込んでしまった。
それを見届け。
二人の少年は手をつないで、男の子が入ったポッドに寄りかかって目を閉じた。
どこからともなく、光が差し込んでいる。
ギィと音を立ててポッドが開き、青いポンチョの男の子はゆっくりと目を開けた。
「あ、起きたんだ」
髪の長い少女が笑う。
見たことがある子だ、と男の子は思う。
……でも、どこで見たんだっけ……?
「ね? ちょっとその荷物、見せてよ」
女の子は、青いポンチョの男の子の疑問など気付いた風もなく、男の子が抱きかかえていた赤いリュックをひょいと取り上げた。
ガサゴソ、と中を探り。
赤い果物の絵柄がある袋を見つけて、ニンマリと笑った。
「アンタを助けた人は、気が利いてるわね!
あたし、お腹空いてるの。ちょっとだけちょうだい」
ピリ、と袋を歯で破り。
女の子は甘い香りがする乾物を、口に放り込んだ。
「ん〜、美味し!
ね、アンタ名前は? あたしは、イブっていうのよ——」
15歳の誕生日を迎える年は、
嫌で嫌で仕方がなかった
誕生日の夜は、ベランダでこっそり泣いた
もう子供ではない
私の子供時代は、終わってしまったから
どうして15歳? と驚かれるのだけれど
倍にしたら、30歳
当時の私が考える30歳は
もう、いい大人
おじさん、おばさん
……と感じる年齢だった
大人になんか、なりたくなかった
当時住んでいた街は、
都心に直行する電車の開通工事真っ最中の
ニュータウン
『24時間戦えますか』のCMを
まさに地でいっているような大人が
わんさかといた
ビシッとしててもみんな疲れ果てていたし、
軋轢でどこか歪んでいる人も、多かった
訳のわからない、何の意味もない
マウントの取り合いも
そこかしこで見受けられた
自分も、ああなるのだと
取り立てて才覚もない自分は
母がいう通りに生き、
あのようになるしかないのだろう……
そう、否応なく思い知らされる日々だった
進路を決める時期だったけれど
夢も希望も、あったものではなかった
灰色の、アスファルトの一本道
自分の将来は、ただ道があるだけの
無為で、つまらないものに違いない
では、なぜ生きているのか
なぜ生きていかなくてはならないのかと
何もかもが
嫌で嫌で、仕方がなかった
——それなのに
生きて、もうじき半世紀になる
母が歩ませようとしたレールは
確かにあったけれど
私はそこから脱してしまったから
その道が
どこまでも先が続いていたのかどうかは、
知らない
これしかない、と思い込んでいた道は
外れてしまえば
実は無数にあって
むしろ選ぶことすら、困難だったり
舗装されていると思って進んでいたのに
気付けば、道なんてどこにもなく
自分や、周りの人に手伝ってもらって
切り開く以外、なかったこともあった
生きている意味は、未だにわからないけれど
意味がないことの方が多いのではと、思う
無為といえば、無為なのだろう
今は、猫ちゃんがいるし
たとえいなくても
終わらせる勇気もないし
多分、命ある限り
これまで通り、生きるのだろう
でもそれが別段、苦痛ではない
……嫌なときは、たまにあるけれどね
色んなことが、あったよ
これからも、それなりにあるだろう
『何にもない、苦痛なだけ』
——ではないよ
あの頃の、私……
……あの日。
あの一言さえ、言わなければ。
広い庭に散らばる落葉を、彼女は大きな竹箒で履いている。
置いた三つ手ちりとりに落ち葉を押し込め、麻袋に押し込める。
「奥さん、精が出ますね」
散歩中と思しき老夫婦に声を掛けられ、彼女は微笑する。
「風の吹き溜まりなのか、すぐ溜まってしまって……」
言いつつ、背後の。
少し古めかしい、けれど小洒落た佇まいの邸宅を振り仰ぐ。
邸宅の窓辺には、彼女と同年代ぐらいの男性が立って彼女を見下ろしていた。
「まあ、いつの間に。
主人が呼んでいるようです、失礼しますね」
会釈して邸宅へと戻る彼女に、話しかけた老夫婦も談笑しながら足を進める。
「まだお若いのに。病気の旦那さんのお世話を熱心になさられて、家もしっかり守って——」
偉いものだ、大したものだ、と褒めちぎる声を彼女は背中で聞いて、唇を噛みしめる。
玄関を通り抜けると、ゆったりとした螺旋階段から『主人』たる男性が降りてくる。
「庭のお手入れを、されていたのですか」
「ええ。落ち葉がすごいものですから。
——お食事に、なさいます?」
「ああ。その前に、コーヒーを頂こうかと」
「私がお持ちしますから、お部屋に戻られては」
「……では、そうさせてもらいます」
二階の自室へ戻る男性の背中を眺め、彼女はキュッと両手を握りしめる。
——どうして、こんなことに。
そして、あの日のことを思い出す。
あの日、彼女は。
少し遠出した、買物帰りに。
爽やかな初夏の風に誘われて、ドライブがてら、いつもと違う道で帰ろうと思っただけだった。
郊外の住宅地を抜けて、整備された林道を進む。
木々の切れ間で見えた、小洒落た邸宅に目が止まった。
「あら、あのお宅って……」
近郊地域に越してきた際。
不動産屋で中古物件の相場も確認していて、その時に写真だけ目にした家だった。
すぐすぐ手に入れられるような金額ではなかったものの、広さや外観の状態からするとむしろ安めの設定で、少しだけ物件について尋ねたところ。
仲良しの老夫婦が大切に住んだ家で、二人揃って施設に移り住んだために売りに出している——という経緯だった。
「これも、何かの縁かも」
もっと近くで見てみようと、彼女は邸宅の方向へとハンドルを切った。
邸宅をぐるりと取り囲む高めの外壁と大きな門の近くに車を止め、彼女は洋風な造りの邸宅を仰ぎ見た。
「やっぱり、素敵ね……」
呟いて、門の鉄柵に手をかける。
ギィ、と軋んだ音を立てて、門が開いた。
「えっ……」
驚いて柵から手を離した時。
邸宅の玄関から出てきた男性が、慌てたように駆け寄ってきた。
「戻られましたか。今開けますので、どうぞ中へ。お車も」
不動産屋の人かしら、と彼女は思った。
誰かと勘違いしているようだが、慌てた態度から察するに、もしかしたら路駐が禁じられている地域なのかもしれない。
誤解はあとでとけば良いと考え、彼女は車に戻って、邸宅の敷地内へと動かした。
「お出掛けは、お近くに?」
「え——私、買物の帰りで」
「荷物はキッチンへ、私が運びましょう」
「え? あの、でも私……」
流されるように邸宅に入り。
彼女は次第に察した。
——この男性は、私を自分の『妻』だと信じ込んでいる……!
逃げなくちゃ、と思うのに。
「車のキーは、こちらに入れておきますので」
リビングのキーボックスに、これみよがしに入れられる。
「買物? 大丈夫ですよ。インターネットで注文すれば、配達してくれますから」
穏やかで丁寧な男性の態度が、逆に。
たまらなく恐ろしくて、威圧感で身動きが取れなくなってしまう。
確実に、逃れられる機会を得るまで。
身の安全を第一にするしかない、と彼女は心の中で自分に言い聞かせ続ける。
……今日も、ダメだった。
二階の部屋に戻らざるを得なかった彼は、深くうなだれる。
珍しく『外』の人間と会話していたから、その隙に出ようと思ったのに。
あの《妻》は、めざとくこちらの動きを察知する。
——あの日。
同業の不動産屋に行って、この邸宅の情報を見つけてしまったのが運の尽きだった、と彼は思う。
「何だこれ、随分古い家だな」
「親父の代からの受け継ぎだよ——親族も売却を急いでないらしく、ほとんど放置状態なんだ」
いい家だけど、富豪は見向きもしないし庶民には手が高い、半端な物件なんだよな。
そんな説明を聞いて。
いやそれは客の探し方が下手なだけだろうと彼は思い。
帰りがてら邸宅の状態を見ようと、赴いてしまった。
近くで見ると、写真よりずっと状態が良いと感じた。
試しに門の鉄柵を押すと、簡単に開く。
不用心だな、内覧のあとに施錠を忘れたのか——あとで教えてやらなくてはと試しに玄関扉にも手をかければ、こちらもまた簡単に開いた。
好奇心が芽生え。
室内の異常がないか確認しておくのも親切だろうと言い訳して、彼は邸宅内に足を踏み入れた。
定期的に清掃されているのだろう、空家にしては随分キレイだ。
軽く一階を流し見て、二階へ伸びる螺旋階段に足をかけた、その時。
車の停車音が、聞こえた。
リビングの窓に駆け寄ると、女性が門扉に手をかけて、少し戸惑ったように固まる姿が目に飛び込んできた。
この家の、親族か!
きっと定期的な手入れに訪れたのだろう、と彼は慌てて外に出た。
「戻られましたか」
まさか今日が来訪日とは知らず——と彼が続けようとすると、女性は少し困ったように微笑んだ。
門を開け、車をガレージに停車させるのを見届ける。
車から荷物を下ろす女性は、この家の近所に住んでいるのだろうかと、彼が疑問を口にすると。
「えぇ。私、買物の帰りで」
女性の曖昧な返答に、彼は次の言葉を探す場繋ぎとして、ぎっしり詰まった重そうな帆布の買物袋へと手を差し出した。
「荷物はキッチンへ? 私が運びましょう」
「え? あの、でも私……」
不審者と騒がれては大変と、彼は恭しく女性を邸宅へとエスコートした。
キッチンに入ると。
女性はぎこちなさげに、しかし大型の冷蔵庫へと、買物袋の品物を詰めていく。
不動産屋が来ることに慣れているのだろうか、さてどう自己紹介しようかと彼は思案したが。
「お茶、お飲みになりますか?」
買ってきたペットボトルの物ですけれど。
「え——ああ、ありがとうございます」
微笑とともに差し出され、戸惑いつつも彼は受け取る。
女性の片手に握られた車のキーが小刻みに揺れていて、彼は思わずリビングのキーボックスを指差した。
「車のキー、お預かりしましょうか? あちらのキーボックスに、入れておきますので」
「えぇ、お願いします」
彼女は、まるでそれが当然のことのように。
ニッコリ笑って、彼に車のキーを彼に差し出してきた。
強烈な違和感に、彼は自分のことも語れず。
次第に、悟った。
……この女性は、俺を《夫》だと思い込んでいる……!
隙をついて、この家から出なくては。
そう、思うのに。
「そろそろ、買物に出なくてはいけないのだけれど……」
いつもの、曖昧な微笑とともに告げられて、彼は身を竦ませる。
その隙に逃げようと考えるだろうと、見越されているようだった。
「大丈夫ですよ、インターネットで注文すれば……」
「そうよね、その方が楽で良いですよね」
壁際の、ネット回線のボックスへと目を向ける女性に、彼は身震いしそうになる。
やはり、通信内容もチェックする機能があるのだろう。
自分のスマホで不用意に外部と連絡をとらなくて良かった、と彼は彼女に気取られないよう息をつく。
とにかく、安全第一に。
自分も、周りの人も、誰にも何事もなく済むように——機会をうかがうしかない。
多分、もう少し辛抱すれば。
チャンスは必ずあるはずだと、彼は自らに言い聞かせ続ける。
「あのお宅のご家族は、本当に仲が良いのね」
散歩中の老夫婦は、同時に邸宅を振り返った。
「そうだねぇ。先代も穏やかな夫婦だったが、息子夫婦も優しそうで」
「あら、娘さんのお婿さんでしょう?」
「ん? そうだったかね……?」
我が家も代々仲良しといきたいねぇと、老夫婦は笑い合った。