名無しの夜

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「あーもう、今日で残業10日目ですよ! やってられないです!!」

 オフィスビルを出るなり。
 彼女は膨らませた頬の空気を一気に吐き出すように口火を切って、疲れきっていたはずの私は吹き出してしまった。

「今、うちの部署は一番忙しい時期だからねぇ」

 どちらかといえば事務的で、縁の下の力持ちたる地味な部署だ。

 一年後輩な彼女は当初うちの部署に配属されたものの。

 三ヶ月目にして花形な営業部署に異動となったものだから、うちの部署に繁忙期があることすら知らないのも無理はなかった。

「もう疲れすぎました——こんな日は、もう!」

 先輩、行くしかないですよ! とガッシリ腕を掴まれる。

「えぇ? もしかして、あのお店……?」

「そうです! 先輩、行ってみたいって言ってましたよね!
 むしろ今日行かずして、いつ行くんだ!? ——です!」

「わからなくもないような……。でも疲れているから自信ないよ、食べきれないかも」

「心配ご無用です! その時は私がフォローしますから!」

 言い放って。
 彼女は早速、鞄から髪留めを取り出して長い髪を一つにまとめている。

「フォローって。あなた、ダイエットしてるんじゃなかったの?」

「してますよ! でもこんなに疲れていますから、ちゃんとカロリー摂らないと逆に不健康です——それに!」

 彼女は、ビル横にうっすら光る三日月を指差した。

「欠ける月にお願いすれば、大丈夫です!」

 疲れすぎてテンションがおかしくなっているのか、彼女は両手を胸の前で組んで。


 ……ニンニクマシマシ・ヤサイマシ・アブラ・カラメを食べても太りませんように、と真顔で呟いた。


「そんなお祈り、初めて聞いたわ」

「そうですか? 私はよくやりますよ」

 彼女オリジナルなのだろうか。
 よくやる——ということは、彼女なりに効果を実感しているのだろう。

「ちなみに、月が満ちる時は、どうしているの?」

「少量でも満腹感が得られますように、ですね!」

 にっこり笑う彼女に、私も自然と笑みが浮かんでくる。

「いいね、それ。私もマネしようかな」

「ぜひぜひ! 効きますよ〜!」

 さあ行きましょう、と彼女に促され。

 点滅する信号に負けないよう、駆け足で交差点を走り抜けた。

5/27/2024, 9:36:26 AM