名無しの夜

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 ……あの日。
 あの一言さえ、言わなければ。



 広い庭に散らばる落葉を、彼女は大きな竹箒で履いている。

 置いた三つ手ちりとりに落ち葉を押し込め、麻袋に押し込める。

「奥さん、精が出ますね」

 散歩中と思しき老夫婦に声を掛けられ、彼女は微笑する。

「風の吹き溜まりなのか、すぐ溜まってしまって……」

 言いつつ、背後の。
 少し古めかしい、けれど小洒落た佇まいの邸宅を振り仰ぐ。

 邸宅の窓辺には、彼女と同年代ぐらいの男性が立って彼女を見下ろしていた。

「まあ、いつの間に。
 主人が呼んでいるようです、失礼しますね」

 会釈して邸宅へと戻る彼女に、話しかけた老夫婦も談笑しながら足を進める。

「まだお若いのに。病気の旦那さんのお世話を熱心になさられて、家もしっかり守って——」

 偉いものだ、大したものだ、と褒めちぎる声を彼女は背中で聞いて、唇を噛みしめる。


 玄関を通り抜けると、ゆったりとした螺旋階段から『主人』たる男性が降りてくる。

「庭のお手入れを、されていたのですか」
「ええ。落ち葉がすごいものですから。
 ——お食事に、なさいます?」
「ああ。その前に、コーヒーを頂こうかと」
「私がお持ちしますから、お部屋に戻られては」
「……では、そうさせてもらいます」

 二階の自室へ戻る男性の背中を眺め、彼女はキュッと両手を握りしめる。


 ——どうして、こんなことに。

 そして、あの日のことを思い出す。



 あの日、彼女は。

 少し遠出した、買物帰りに。
 爽やかな初夏の風に誘われて、ドライブがてら、いつもと違う道で帰ろうと思っただけだった。

 郊外の住宅地を抜けて、整備された林道を進む。

 木々の切れ間で見えた、小洒落た邸宅に目が止まった。

「あら、あのお宅って……」

 近郊地域に越してきた際。
 不動産屋で中古物件の相場も確認していて、その時に写真だけ目にした家だった。

 すぐすぐ手に入れられるような金額ではなかったものの、広さや外観の状態からするとむしろ安めの設定で、少しだけ物件について尋ねたところ。

 仲良しの老夫婦が大切に住んだ家で、二人揃って施設に移り住んだために売りに出している——という経緯だった。

「これも、何かの縁かも」

 もっと近くで見てみようと、彼女は邸宅の方向へとハンドルを切った。


 邸宅をぐるりと取り囲む高めの外壁と大きな門の近くに車を止め、彼女は洋風な造りの邸宅を仰ぎ見た。

「やっぱり、素敵ね……」

 呟いて、門の鉄柵に手をかける。

 ギィ、と軋んだ音を立てて、門が開いた。

「えっ……」

 驚いて柵から手を離した時。

 邸宅の玄関から出てきた男性が、慌てたように駆け寄ってきた。

「戻られましたか。今開けますので、どうぞ中へ。お車も」


 不動産屋の人かしら、と彼女は思った。

 誰かと勘違いしているようだが、慌てた態度から察するに、もしかしたら路駐が禁じられている地域なのかもしれない。

 誤解はあとでとけば良いと考え、彼女は車に戻って、邸宅の敷地内へと動かした。


「お出掛けは、お近くに?」
「え——私、買物の帰りで」
「荷物はキッチンへ、私が運びましょう」
「え? あの、でも私……」


 流されるように邸宅に入り。

 彼女は次第に察した。


 ——この男性は、私を自分の『妻』だと信じ込んでいる……!


 逃げなくちゃ、と思うのに。


「車のキーは、こちらに入れておきますので」

 リビングのキーボックスに、これみよがしに入れられる。

「買物? 大丈夫ですよ。インターネットで注文すれば、配達してくれますから」

 穏やかで丁寧な男性の態度が、逆に。

 たまらなく恐ろしくて、威圧感で身動きが取れなくなってしまう。


 確実に、逃れられる機会を得るまで。

 身の安全を第一にするしかない、と彼女は心の中で自分に言い聞かせ続ける。



 ……今日も、ダメだった。

 二階の部屋に戻らざるを得なかった彼は、深くうなだれる。

 珍しく『外』の人間と会話していたから、その隙に出ようと思ったのに。

 あの《妻》は、めざとくこちらの動きを察知する。



 ——あの日。
 同業の不動産屋に行って、この邸宅の情報を見つけてしまったのが運の尽きだった、と彼は思う。


「何だこれ、随分古い家だな」
「親父の代からの受け継ぎだよ——親族も売却を急いでないらしく、ほとんど放置状態なんだ」

 いい家だけど、富豪は見向きもしないし庶民には手が高い、半端な物件なんだよな。

 そんな説明を聞いて。

 いやそれは客の探し方が下手なだけだろうと彼は思い。

 帰りがてら邸宅の状態を見ようと、赴いてしまった。


 近くで見ると、写真よりずっと状態が良いと感じた。

 試しに門の鉄柵を押すと、簡単に開く。

 不用心だな、内覧のあとに施錠を忘れたのか——あとで教えてやらなくてはと試しに玄関扉にも手をかければ、こちらもまた簡単に開いた。

 好奇心が芽生え。
 室内の異常がないか確認しておくのも親切だろうと言い訳して、彼は邸宅内に足を踏み入れた。

 定期的に清掃されているのだろう、空家にしては随分キレイだ。

 軽く一階を流し見て、二階へ伸びる螺旋階段に足をかけた、その時。

 車の停車音が、聞こえた。

 リビングの窓に駆け寄ると、女性が門扉に手をかけて、少し戸惑ったように固まる姿が目に飛び込んできた。

 この家の、親族か!

 きっと定期的な手入れに訪れたのだろう、と彼は慌てて外に出た。


「戻られましたか」

 まさか今日が来訪日とは知らず——と彼が続けようとすると、女性は少し困ったように微笑んだ。

 門を開け、車をガレージに停車させるのを見届ける。

 車から荷物を下ろす女性は、この家の近所に住んでいるのだろうかと、彼が疑問を口にすると。

「えぇ。私、買物の帰りで」

 女性の曖昧な返答に、彼は次の言葉を探す場繋ぎとして、ぎっしり詰まった重そうな帆布の買物袋へと手を差し出した。

「荷物はキッチンへ? 私が運びましょう」
「え? あの、でも私……」

 不審者と騒がれては大変と、彼は恭しく女性を邸宅へとエスコートした。


 キッチンに入ると。
 女性はぎこちなさげに、しかし大型の冷蔵庫へと、買物袋の品物を詰めていく。

 不動産屋が来ることに慣れているのだろうか、さてどう自己紹介しようかと彼は思案したが。

「お茶、お飲みになりますか?」

 買ってきたペットボトルの物ですけれど。

「え——ああ、ありがとうございます」

 微笑とともに差し出され、戸惑いつつも彼は受け取る。

 女性の片手に握られた車のキーが小刻みに揺れていて、彼は思わずリビングのキーボックスを指差した。

「車のキー、お預かりしましょうか? あちらのキーボックスに、入れておきますので」
「えぇ、お願いします」

 彼女は、まるでそれが当然のことのように。
 ニッコリ笑って、彼に車のキーを彼に差し出してきた。


 強烈な違和感に、彼は自分のことも語れず。

 次第に、悟った。


 ……この女性は、俺を《夫》だと思い込んでいる……!


 隙をついて、この家から出なくては。

 そう、思うのに。

「そろそろ、買物に出なくてはいけないのだけれど……」

 いつもの、曖昧な微笑とともに告げられて、彼は身を竦ませる。

 その隙に逃げようと考えるだろうと、見越されているようだった。

「大丈夫ですよ、インターネットで注文すれば……」
「そうよね、その方が楽で良いですよね」

 壁際の、ネット回線のボックスへと目を向ける女性に、彼は身震いしそうになる。

 やはり、通信内容もチェックする機能があるのだろう。

 自分のスマホで不用意に外部と連絡をとらなくて良かった、と彼は彼女に気取られないよう息をつく。


 とにかく、安全第一に。

 自分も、周りの人も、誰にも何事もなく済むように——機会をうかがうしかない。


 多分、もう少し辛抱すれば。

 チャンスは必ずあるはずだと、彼は自らに言い聞かせ続ける。



「あのお宅のご家族は、本当に仲が良いのね」

 散歩中の老夫婦は、同時に邸宅を振り返った。

「そうだねぇ。先代も穏やかな夫婦だったが、息子夫婦も優しそうで」
「あら、娘さんのお婿さんでしょう?」
「ん? そうだったかね……?」

 我が家も代々仲良しといきたいねぇと、老夫婦は笑い合った。

5/24/2024, 8:15:46 AM