親友の彼女は、何事もどこか抜けててトロい私に比べて、何でもテキパキこなす『出来る学生』だった。
仲良くなったきっかけは、たまたま席が前後になっただけで。
正直ウザがられるだろうと思っていたのに、さにあらず。
彼女に比べて数歩——どころか周回遅れじゃないかと思う私を、なぜだか彼女はいつもそばにいて、何かと世話を焼いてくれた。
「世話焼きキャラじゃないわよ、私。
どうしてかアンタは放っておけないし。それにアンタのそばって、落ち着くのよね」
要領悪い人見ると大体イラついちゃうのに何でかしらね、と首を傾げるのが彼女の常だった。
就職して、進路が決定的に分かれてしまっても。
彼女は、定期的に連絡をくれていた。
だから。
『結婚して引っ越したから、良かったら遊びに来て』
という突然の報告には、心底驚いた。
「彼女、お付き合いしていた人がいたんだ? 結婚式は——内々で済ませたのかな?」
という私の夫の疑問も当然だった。
「お見合いでもしたのかしら。式は、招待されなかったし、やらなかったのかも」
電車で二駅、それから二十分ほど歩いて、彼女の新居に辿り着く。
「いらっしゃいませ」
出迎えてくれたのは、彼女の夫だった。
物腰が低く、ニコニコして表情も柔らかい人だ。
「ああゴメンねー、仕事の電話入っちゃってさ」
スマホを耳から離しながら現れた彼女は、昔と変わらずキリッとしていて格好良かった。
歓談中のお茶も、ランチも。
彼女の夫がすべてそつなく用意してくれる。
「すごいな、ホテルに来たみたいだ」
私の夫が感嘆して、私も頷く。
「本職?」
尋ねると、彼女は眉間に皺を寄せて首を振った。
「違うわよ。あの人はこういうこと長けているれけど、知り合い筋の前でしか出来ないの。
本職は——我社の資料室の主、の手伝いよ」
私と同期なのよ、信じられる?
しかも一ヶ月で、お荷物部屋の資料室に飛ばされたのよ、信じられないでしょ!
とまくしたてる。
「全然、出来ない訳じゃないんだけど。噛み合わないと、とんでもなく何もかもズレていくのよね。びっくりしちゃう」
ケラケラ笑う彼女に、私は私の夫と顔を見合わせた。
「そんなところが気に入った、という——?」
馴れ初めかと、夫が言葉を繋ぐと。
彼女は片頬に指を当てた。
「ん……、何だったかな」
ああ、そうだ。
と彼女は手を打った。
「入社三ヶ月目ぐらいにね、同期で飲み会やって——あの人も来たのよ」
一ヶ月目で閑職に追いやられた、彼女の夫になる彼に構う者は誰もいなかったのだが。
彼はニコニコと周りの話を聞きながら、料理の取り分けや飲み物の注文などを、誰の目に障ることなくこなしていたのだという。
その有り様に、彼女は何となく感心して。
「帰り際にね、『また明日ね』って言っちゃったのよ、私——平日と勘違いしちゃって」
そしたら、あの人。
フフッと彼女は思い出し笑いをもらす。
「明日も、お会いして下さるんですか? 嬉しいなあ、って……」
彼女の、照れ笑いに。
……あぁそういえば、と私も過去を思い出していた。
『——何か、今日は色々ありがとう……。
また、明日ね』
私の言葉に。
キョトンと目を丸くした、少女時代の彼女の姿が重なる。
『え——う、うん。また、明日……』
そうだ。
彼女は。
人望もあって、彼女の周りにはたくさんの人がいたけれど。
あまりに出来が良すぎたせいで。
『用がなければ、誰も私の所になんて来ないわよ』
そんな自虐をこぼしたことが、一度だけあった。
何を言っているのだと、あの頃は流してしまったけれど。
『……だから、アンタは新鮮だったのよね』
そう——そうだった、と。
十数年の時を経て、染み入るように私は納得した。
「またね」
「近いうち、うちにも来てね」
次の大型連休にでもと約束を交わして、彼女の家からおいとまする。
フゥと吐き出した呼気に、私の夫が笑う。
「妬くな妬くな」
「うるさいな、妬いてませんー!」
精一杯、虚勢を張りつつ。
けれど彼女の一番の位置は失ったのだなぁと。
少しだけ寂しく、思うのだった。
透明
生まれたばかりの頃の心はきっと
透明で、キレイ
……なのだと思う。
善悪も知らないからこそ——
かも、しれないけれど
透明で綺麗なままの心で
生きていきたかった
現実は厳しくて、汚泥まみれ
綺麗なところが残っているのかすら、
おぼつかない
だけど
綺麗でいたかった、と。
綺麗とはどんなだろうと、
想像して、考えて。
そういった努力をすることだけは、
ずっと願望とともに、忘れずにいたい。
これからも、ずっと。
道行く人はみな、スラリとしたモスグリーンの幻影。
他の人から見れば、自分もまたそんなようなものだろう、と彼女は思う。
待ち合わせ場所の前にある大きなビルに設置されたディスプレイには、新製品のフルフェイスゴーグルの宣伝動画が延々と流れている。
ゴーグルのデザインなんて、どれだけ洗練されていようとも、結局つけてしまえば自分では見れないし、他人も見ることがないのだから意味がないはずなのに。
それでも時代と多くの人々の好みに合うような物が売れるのは、いつの時代も変わらないらしい。
——デザインはともかく、やっぱり軽いのはいいよね。
あと素材も。
あの新素材は、気になるから試着予約してみようかな。
そんなことを考えるうち、こめかみの当たりから小鳥のさえずりの音が鳴った。
《○○さんが到着、接近まで約5メートル》
彼が来る方角へ顔を向けると、ゴーグル越しの視界で『彼』の姿がくっきりと浮かび上がる。
あ、やっぱりかっこいいな、と思う。
ちょっと下向き加減になった時の伏せた目元の陰影は、ゴーグル投影用のデフォルト素材にはないものだから、彼の調整によるものだ。
そういった細かな調整の仕方が、彼女の好みに実に合う。
……でもちょっと、今日の服のチョイスは違うかも。
あと、前髪のセットはもう少し——
彼女の思考を読み取って、彼の服装はナチュラル系の色合いのタウンカジュアルなものから、モノトーン調のシックなものへと変わり。
少し眉毛にかかるくらいの前髪の分け目位置が調整された。
彼女の、視界の中では。
『待たせちゃったね、ごめんね』
「まぁまぁ、待ってたよ」
ゴーグルの中で呟やかれた彼女の言葉は、
『1本早い電車に乗ったせいでほんの少し待っただけだから、気にしないで』
と発言されているが、彼女がそれを聞くことはない。
どのみち、ゴーグルが変換した発言だって、彼がそのまま聞くとは限らないのだ。
今日のデートのためと、彼女が思案して着てきた軽やかなベージュのワンピースと薄桃色のヒールという格好ですら。
彼の容姿を、彼女が、彼女の視界上で調整したように。
彼も、ゴーグル内の視界で、彼女をどんな風に設定して眺めているのか、知るよしもない。
姿も、喋る言葉も、声の起伏も、態度すら。
万人が身に付けるフルフェイスゴーグルが、その人それぞれに合わせて、不快感ないように変換してくれる。
そして互いの意思同意が重なれば、彼らのように、互いをより細かく設定することができる。
『あなたと一緒に過ごせる時間は、本当に幸せ』
『僕もだよ。もっと一緒に過ごせるように、隣同士の家にしない?』
『素敵! 大賛成!!』
変換された彼らの会話を、そのまま聞く者は誰一人としていない。
……徹底的に膨大な情報を積み込まれ調整され尽くした、AIだけが、唯一。
彼らの元の発言から変換された発言、そして各個人が微調整しているものから、気分の周囲の波長まできっちり読み込んで、今この瞬間も、学習し続けている。
おかげで、ここは。
誰一人傷つくことがない世界。
理想は、自分で作れる世界。
……が、実現した。
だからこそ。
フルフェイスゴーグルを外す唯一の場所である家だけは。
誰かと共有することは、ない。
彼女は、にっこり微笑む。
『じゃあ今日は、住みたい街を選びながらランチしましょうか』
職場や利便性などで候補地が視界の片隅にババっと出てくる。
彼も同じだろう。
あとは互いのAIが、二人の最適解を選んでくれる。
彼女は、ゴーグルの中でゆったりと流れるロマンティックな音楽を聞きながら、彼との散策を楽しむのだった。
お題を見て、息が止まる。
あの子のことが、
あの日のことが、瞼の裏で再生される。
生まれつき、腎臓が弱かった私の猫姫。
初めて出会った日のことから、
最期の時まで——
全部ぜんぶ、記憶に焼き付いている。
もう長くないことは、わかっていたけれど。
でももう少しはと、思ってしまっていた。
そう思い込んでしまうほど、
あの子は、頑張ってくれていた。
心は、魂は一緒と、信じる。
信じていたい。
だけどやっぱり
姿も声もなく、触れ合えないことは、
ただただ、哀しい。
今生最後かもと
心のどこかで思って接したところもあるのに
全然、足りなかった。
永遠なんて、どこにもないから。
約束を、信じる。
この世では、お別れになってしまったけれど。
ずっと心と魂は一緒だと、
あの子に告げた、約束を。
「そこ、めちゃくちゃ地元だよ」
その日。
いつもは何とはなしに集まってくるはずのサークルの部室には、彼ら二人しかいなかった。
現代文芸サークル、という名称はあったものの。
中身は『浅いレベル』で、漫画やゲーム好きが集まっただけのサークルだ。
最近、サークル内でやっているパソコンのオンラインゲームを二人で軽くプレイしつつ。
雑談の中で、最近ハマっている漫画はある? という彼の質問に彼女がとあるタイトルを告げた。
「すごく面白い訳じゃないんだけど、絵が好きなんだよね」
「あ〜、○○で連載している漫画だっけ。ちょっと見たことあるな」
そして。
その漫画の舞台は自分の地元だと、彼が言った。
「え、本当に!?」
驚きで、彼女の声が一際大きくなる。
「本当に、あんな防波堤があって?」
「うん。あの道、通学で——チャリで通ってたよ」
「えー、何それ。すっごい青春!」
「一人で通ってただけで何もなかったけど」
「もったいない!」
ひとしきり、そんな会話が続いて、ふと。
「行って、みる?」
「ん?」
「だから、そこ。——案内しても、いいけど」
彼の提案に、彼女は一息だけ置いて。
「え、いいの!?」
「うん。今週は、暇だし」
ちょっと横を向いた彼の顔に、彼女はドキリと心音が高まり。
それを隠すように、マウスをギュっと握りしめた。
「……じゃあ、お願いしようかな……」
翌々日。
彼らは午前の早い時間から待ち合わせをして、電車に乗り込んだ。
いつもの部室でオンラインゲームをプレイするように。
軽口を交わしながら、彼の通学路でもあった海岸沿いの道をともに歩いた。
晴天で、初秋にしては気温が高く。
海風はベタつくものの、心地良かった。
ややきつめの長い坂を登って、展望台がある公園にも赴いた。
金網のフェンスいっぱいに吊り下げられた南京錠にギョッとしつつ、彼女は笑った。
「うわ、本当にあるんだ! すごい数」
「ここいらじゃ、結構有名だからね。漫画には出てこなかった?」
「恋愛漫画じゃないから、いわれまでは出てこなかったね。だから何でだろ、と思ってたの」
愛にロックをかける、か。
最初に思いついた人はすごいね、と彼女はまた笑った。
「南京錠は、あんまり可愛くないけどさ」
展望台に登って、二人してベンチに座り、自販機で購入したジュースを飲む。
「ね——あそこに鍵をかけようって思ったこと、ある?」
彼女の問いかけに。
彼は一瞬だけ止まって、首を横に振った。
「いや、ないよ。……まだ」
「……まだ?」
いつかは、あるかも? とからかうように彼女が尋ねると、彼は頷いた。
「この先は、あるかもしれない」
「そっかぁ」
その時に流れた空気を。
多分、彼らは忘れることはないはずだ。
確かに——同じものを感じたはず、なのに。
もし違っていたら、と。
今の関係が失われてしまうかもしれない可能性を、恐れて。
ただ風に、沈黙を乗せた。
「ポストの鍵、買ってきたよ」
ホームセンターから戻ってきた連れ合いから、小さな南京錠を受け取る。
いつか見た、菱型金網のフェンスがひしゃげるほどに取り付けられた南京錠のどれよりも、小さい。
「ありがとう」
言い、ながら。
……もしもあの日。
南京錠を用意していたら、どんな未来になっていたのだろうかと。
淡く苦い思いを、笑みで飲み下して。
新居のポストに、南京錠を取り付けた。