「窓は閉めちゃダメ!」
ベッドから鋭く幼い妹の声が飛んできて、兄はビクリと窓枠に伸ばした手を止める。
「えぇ、何でだよ? 寒いじゃん」
「窓閉めちゃったら、妖精さんが来ても入ってこれないから、ダメ!」
あぁティンカーベルね、と兄は肩を竦める。
あれ、訪ねてきたのはピーターパンだったっけ?
あれは単なる物語で現実にはならないことぐらい、兄はわかっている。
けれど妹は言い出したら頑として引かないから。
兄は窓を締めるのを諦めて、畳に敷いた布団に潜り込む。
「もし妖精さんが来たら、起こしてね」
「はいはい」
それは起きていろということなのか、と兄は思いつつ生返事する。
ちょっと前までは、クローゼットからお化けが出てくるかもしれない、と怖がって。
結果、兄は妹の部屋に布団を敷いて寝る羽目になったのだ。
怖がったり、期待したりするわりには。
兄が布団に入った途端、妹は寝息を立てて朝まで目覚めることがない。
一体、兄を何だと思っているのか。
問い詰めてやりたい気もするのだが、多分その答えの『言葉』はまだ、妹の中にはないだろう。
「まったく、おーぼーだよなぁ」
妹の寝息を聞きながら。
覚えたばかりの言葉を乗せて、兄はそっと窓辺に立ってみた。
今なら。
妖精か、永遠の少年が来たら。
妹は起こさず、自分だけこっそり誘いにのってしまうだろうな、なんて思ってみる。
ふと、傍らの机を見ると。
『妖精さんへ』と書かれたガラスの小瓶があった。
中身は、優しい色合いの金平糖だ。
妹が、母親に妖精に来てもらうにはどうしたらいいとしつこく尋ねていたのを思い出す。
角砂糖とか、甘い物が好きだったはず——と母親が用意したものが、これらしい。
「役得っつーか? 夢を見続けさせてあげるのも務めっていうか?」
兄はニマッと笑って。
金平糖を一つ、口の中に放り込んだ。
君のためなら何でもできる。
……本気で、そう思っていたよ。
両腕で抱きかかえられるほど小さかった頃は、君が欲する物が何かなんて、的確にわからなかった。
あげられるものは、ほんのわずかで。
君が欲しがる物も、少なくて。
当てはまらず泣きじゃくる君に途方に暮れきって疲れ果てた時間は、思い出したくもないけれど。
それは君のお仕事だったんだから、仕方がなかったね。
どんどん大きくなって、意志の疎通が取れるようになって。
……いや。
言葉は通じても互いの意思疎通は、はかれてなかったや。
とんでもない欲求を押し通しされ、うんざりしきって諦めるしかなかったことも——笑い話にもならないようなことも多くて、これまたあまり思い出したくないな。
やっと我慢や常識、良識を覚えてくれたかなと思った頃には、反抗期的な自己欲求の押し通しが始まり。
この時代は、さすがに『パパ』が叱ってくれて本当に助かった。
……暴れる子じゃなかったけれど、パワー系父子の相撲みたいな押し合いへし合いで家が壊れるのではと思ったのも、この頃だ。
趣味やその時の遊びまでは、全部満たすなんて到底無理だったけれど。
スポーツや進路は、出来うる限り、取り組めるよう努力したつもり。
感謝してると言ってくれたから、及第点はとれたのだと思う、多分。
本人なりに、悩むことはもちろんあったのだろうけれど。
私のように、大きく病むことは、なかった模様。
君が就職して、ああこれで一段落ついたんだな、と。
ホッとした、矢先。
「あのさ〜。
初給料全額ガチャに突っ込んで爆死したから、明日から弁当と夜ご飯、用意してくれ」
——ハァ!!?
仲間とついノリでやっちまった、じゃねぇわ!!!
初給料つったら、花束くれたりしてもいいんじゃないの!?
別になくたっていいけど、そーゆーのもあるかなって夢見ちゃてましたよ悪い!!?
それが、何?
ガチャ!?
おまフザケンナよ!!!
何で今更、ご飯1日10合炊き、おかず約6人前分作るような時代に戻らにゃならんのよ!!!
中高生の時よりだいぶ減ったけどなーって、そういう問題じゃないの!
こっちだってその分、年くってヘタれとるんじゃ更年期障害ナメてんじゃねーぞっっ!!!
ホントに、フザけんじゃねーぜ、ですわ。
「ヒデェ、俺のこと可愛くねーのかよぉ」
……じゃありません。
いつまでも何でもしてあげるお母さんでいてたまるかって話。
しっかり自活して生きていってくれなきゃ、君だってゆくゆく困ることになるんだからね!
これだって愛だと思うの。
愛しているから何でもやってあげるなんて、ただのダメ人間製造機だと私は思う!!!
——あう、これじゃ表現悪いな。難しい。
「猫には何でもしてやるクセに」
……お猫様と比べるんじゃないよ、おこがましい。
あの子達の可愛さに並ぶわけないでしょ。
そもそも基準というか指標というか——が、違うのだし。
ああでも、そうだね。
猫ちゃんやふわふわな子達のためなら、何でもしてあげたい……、けど。
やっぱり——できうる限り、になってしまうな。
だって、自分が倒れたら猫ちゃんやふわふわな子達が困ってしまうから。
自分が倒れないことを前提にすると、『何でも』とは言い難いな……。
すべてを捧げるなんて、自活できる『人』に対してしか出来ないことなのかもしれないね。
そんな対象に出会えるのは——幸か不幸か。
散々自我を叩き潰されてきたせいか。
自分で必死に自我を何度も再構成した私は、もう誰にも殉じたくない気持ちが強すぎるのかもしれない。
『愛する対象のためなら何でもできるよ』
もし、そんな言葉を躊躇なく言える人と出会ったら。
……かつて若かった日の自分を見るように、思うのかな。
感動するのか、ひいてしまうのか。
想像、つかないなあ。
まあ愛、は。
何かしてあげることだけのものではないものね。
そんなことでは、はかれないから、愛なのでしょう。
私の、結論は。
『愛があっても、何でもは、できない』
これで、いーのだ。
思い出してはいけない。
深く深く、心の奥底に沈めて。
蓋をして、鍵を掛けて。
戻ってはいけない。
悔いるほどに、落ちてしまうから。
ありえない未来を幾重幾百と描いて
すべてが
昏い思考の渦に飲まれてしまうから。
『後悔することのないように』
いうだけなら、容易い。
どれだけそう思って動いても
真に何も思わず——となるのは
極めて難しい。
今、自分にあるすべてを
選べる手段の中で、できることを
あるいは、静観を。
『あの時に、できることはやりきった』
『選べる手段の中で、最善と思うことを選んだ』
そう、思えるのが最上。
たとえ、もっと何かがあったと気付いても
それはもう、未来にいかすしかない。
悔いても、戻れないから。
どうにもならないことが、あるから。
深みにとらわれる前に。
進まなくては、ならない。
全部を抱えて進む先に、きっと
よりよい未来があることを、信じて。
真夜中にこっそり、家を抜け出して。
自転車に乗って、市街地を駆け抜けるのが好きだった。
ひっそりと静まった家、2階だけ明かりがついた家、光が絶えることのないマンション群。
国道に出れば、テールランプの帯は切れることなく。
信号機で止まる車を横目に、ひとけのない歩道を突っ走った。
息が上がって、汗が吹き出す。
夜だから、そんな風体も気にする必要はなく。
この状況がたまらなく楽しく感じて、笑い出したい気持ちでペダルをこぎ、もっとスピードを上げる。
風と、同化できるような。
そんな気すら、した。
誰もいない陸橋で、ひとやすみ。
風に吹かれながら、自販機で買った缶ジュースを喉に流す。
さあ、次はどこへ行こう。
……といっても、明るくなる前に帰らなければならないから、選択肢はないようなものだけれど。
でも、もう少しだけ。
ふわりと吹いた、風に従って。
あと少しだけ、この夜を走ろうか。
私の母は
今でいう『毒親』だった
……まあ、母の生い立ちや境遇を追うと
仕方がないというか
おそらく脳の障がい的な、
病気だったのではと思うから
恨んだりとかはないけれど——
その母の影響を被って
私も精神的に病んで
多大な時間を無駄にした
と感じることは、多々あった
○○でさえ、なければ
昔は随分、そんなことを思ったけれど
結局のところ
そういった時間の積み重ねも
『自分』を形成するもので
それがなかったら違う自分に
なってしまうのだろう
その、違う『自分』が
今の自分より理想に近いものだとしても
そうなっていたら
今の『自分』は、いない訳で
どれだけ無駄で無為だとしても
その時間を消費したのは『自分』
こんな風に過ごしたかった、
そんな理想は、心の夢手帳にしたためて
そう過ごせなかったと
心の片隅で縮こまって泣く
小さい自分と手をつないで
同じようにはできないけれど、と
少しでも似た何かを、
今できる何かを探して
無駄でも無為でも、構うことなく
ゆっくりのんびり、生きていく