サワサワと梢を揺らす、気持ちの良い風。
何かに呼ばれた気がして、頭上の枝葉から視線を下ろし、小山の周囲を見渡せば。
群生したススキの間から、Tシャツ半ズボン姿の少年が現れた。
「見っけ! こんな所まで登ってきたのか。——は、健脚だな」
呼ばれた名前は、馴染みがないような気がする。
そもそもこの少年は誰だろうと思うのに、笑みが上る。
「ここなら、絶対見つからないと思ったのに」
言いながら少年の近くに寄ると。
どこからともなく、年も近そうな子供たちが駆け寄ってきた。
「やっと全員見つかったの」
「かくれんぼ、もう飽きたよ」
「違うの、しよう」
「鬼ごっこする?」
最後まで隠れていた——が鬼ね、となぜだか決められ、子供たちは散り散りに駆けていく。
「何で俺が鬼なんだよー! ズルいぞ!」
文句を言いながら。
笑いながら走って、追いかける。
子供たちの笑い声に、一際大きく吹いた風の音が混じって。
ハッ、と目を覚ます。
小山の遊歩道を登り切った先の樫の木にもたれ座って。
いつの間にか、眠っていたらしい。
彼は目元を拳で擦りながら身を起こす。
放り出した鞄からはみ出した封筒と校舎の写真が載ったパンフレットをしまいながら、夢の情景を脳裏で再生させる。
山で遊んだことはないけれど。
幼稚園の園庭で、同じように遊んでいた。
毎日毎日、同じことを繰り返して。
それでも不思議と、同じ日々が楽しかった。
……今は。
毎日同じで、つまらなくて、苦しい。
もう一度、ここで眠ったら。
あの夢の中に帰れるだろうか。
そんなことを思って、目を閉じようとした時。
「——クン? 何してるの?」
同じクラスの女生徒に声をかけられた。
「……え、いや——何も……」
バツが悪くなり、彼は鞄を持って立ち上がった。
「ここ、風が気持ちいいよね。
私、気分が塞ぐとよくここに来るんだ」
邪魔しちゃったかな、ゴメンねと謝る女生徒に向けて、首を横に振る。
「そういえば、今日の進路説明会でさ——」
女生徒の声を聞きながら。
彼は横目でチラと、樫の木を見上げる。
……きっと、もう。
ここに来ても、あの夢は見れないのだろうな、と。
脈絡もなく、確信した。
声の限り
叫んで伝わるなら
いくらでも叫ぼう
……なんて思う人、
どれくらいいるのかな
叫んでも届かないことがあると
そう気付くのは
一体いつからなのだろう
そもそも
叫んで伝えたい対象もいない
そういうことも、あるだろうな
でもね
多分、みんな
叫んだことはあると思うよ
歩き始めた小さい頃
保育園、幼稚園ぐらいの頃
幼かった私も
父が帰宅する道を二階の窓から眺めて
姿が見えると、叫んでいたよ
世間体が大事で
いつでも
『綺麗なお母さん』でいたかった
母親には、
子供心でも察するものがあって
なかなかできなかったけれど
幼稚園で熱を出して
迎えに来てくれた時には、
嬉しくて泣きながらすがったなぁ
あれも、叫びだったな
大声を出すのが楽しい時期だからか
その声で
伝えることができることも、喜びだったのか
小さかった息子も
お迎えするたびに叫んでくれたなぁ
大好きが詰まった、叫び
声は、出さなくても
心の中で、叫ぶよ
大好きな、みんなに
虹の向こうの、あの子たちと
大切な、あの子に
白い翅に黒い斑点があるチョウがモンシロチョウ。
畑の間をふわりふわりと舞っている姿は遠目なら愛らしい。
近くに寄られるのは——ご勘弁。
どうにも苦手なのだのだから仕方ない。
昔。
子供だった息子は、農家たる義祖父母宅周辺で様々な虫を捕まえては飼育したり育成したり、していたようだ。
……その様子を目の当たりにせず、語りのみで済ませられたのは本当に幸い、義祖父母さまさまである。
苦手であっても、息子の話についていける程度にはと、うっすらと上辺知識を追ってはみたものの——
彼ら、ムシの世界は恐ろしい。
喰うか、喰われるか。
自然界の摂理、とはいえ。
私の尺度では恐ろしさが先立つ、どうしても。
モンシロチョウの前身はいわるゆるアオムシで、農家にとっては害虫らしい。
キャベツなんか食い荒らされちゃうのですって。
けれどそのアオムシだって、生き残ってチョウになれるのはごく僅か。
時期によっては、半数以上が何たらハチというのに寄生されて蛹にもなれず絶命してしまうのだとか……。
そのハチがなぜ、アオムシを見つけられるのかというと。
アオムシがキャベツを食べて。
その唾液と、齧られた野菜のお汁の化学反応によって、そのハチは近くにアオムシがいることがわかるのですって。
……これ。
キャベツなりの、自衛手段なのだとか。
ただでは食われないぞ! という感じなのかな……。
昨今はヴィーガン、という言葉もよく聞くようになったけれど。
そりゃあ、命を犠牲にせず、健康的に生きていける生物になれたらいいなとは思うけども。
動物を食べるのは野蛮!
野菜ならOK!
……は、乱暴な考え方なのではと思ったり。
野菜だって、食べられるのは嫌だから、そういう仕組みがあるのでしょう。
悲鳴だって、あげてるらしいし。
人間には、届きもしない周波数で。
あまり深く考えてしまうと生きていけないやね。
『いただきます』と手を合わせる文化は、改めて凄いなと思う。
残酷な命の連鎖の中で生きるしかないから。
その重みを意識しつつ感謝しつつ。
蝶々が舞う、ように。
のどかに軽やかに——過ごせたら、いいな。
キラキラ光るような、素敵なことも
マグマのような怒りに満ちたことも
夜の帳さえ凍るような悲しいことも
みんなみんな
その箱に詰めていく
形のないその箱を覗きこめば
いつでも『その時』を見ることができる、
のだけれど
箱に
たくさんたくさん詰めるほどに
形が変わってしまうものも、
出てきてしまう
順不同で
本当に忘れたくないものは
上澄みに
そのまま残しておきたいのに
なかなか、思い通りにはいかない
——だから。
「このこと、忘れないで。覚えていて」
……いつまでも。
無期限のタグを貼り付けて、ディスプレイ越しに告げる。
『かしこまりました。
その他、カテゴリー分けのタグはいかがいたしますか?』
受付嬢とも執事ともとれるグラフィックが滑らかに動き、問う。
問われるまま、流れるように手続きして。
これで安心とばかりに、軽やかな足取りで、記憶保護センターから出ていく。
一度だけ、足を止めて振り返る。
年を取ったら、ここに入り浸る人もいるらしいし、顧みない人もいる、とか。
自分はどうなるのかな、なんて、少し思いながら。
また新しい日々を重ねるために。
歩幅を広げて、歩き出す。
ここ数年
新年だーなんて、世間一般並みに
おめでとうを口ずさんでも
実のところ、さして
年が開ける前と変わりない気分だったし
日常は気分以上に、代わり映えしなかった
変化はそれなりにあったけれど、
根本は変わらない、という感じ
変わらない日々
それで、良かったの
でも今は
とても大切な存在を喪ってしまって
変わらずにいられた日々の根幹も
絶たれてしまった
あの子は写真嫌いだったから
あまり撮れなかったけれど
それでも
ガラケーからリンゴなスマホになってからの
写真アプリには
あの子の写真がいっぱい
もう、それも増えることはないんだね
この先、増えるのは弟分の子の写真だけ
『最近の項目』から
あの子が遠くなってしまうと思ってしまって
まだ撮れない
弟分の子だって大事だし可愛いし
やっぱり永遠に一緒にはいられないから
撮れる時に撮らないとだけど
一年後
写真アプリの『最近の項目』は
どうなっているのかな
写真の中のあの子に見せてあげられるように
綺麗な風景とか
撮れるようになろう
もちろん弟分の子も、ね