「来週のこの曜日、空いてる? 付き合ってほしい所があるんだ」
律儀に玄関チャイムを鳴らしてやって来た隣人の彼が、珍しくそう言った。
どこに連れて行かれるのだろうと内心ドキドキしていた彼の幼馴染たる彼女は、しかし。
馴染みすぎる近所の駅へと伴われ、跨線橋に並んで立ち竦む図に、ハァと溜息をついた。
「えっと……、わざわざ連れて来るくらいだから、特別な電車が来るのだろうけれど。
何回も言っている通り、私は君と違って別に電車に興味ないのよ」
「知ってるよ、そんなこと」
彼は線路の先を見据えたまま答えた。
細い黒縁フレームのメガネが窓越しの陽光でキラリと光る。
キチッとアイロンのかかった白いシャツと濃紺のトラウザーズ。
見るからに理系という彼の風体は、校章が入った黒いランドセルを背負っていた頃から変わらず。
そして中味はそれ以上に——というより、より突き詰めた感がある。
『知っている』の肯定が、まるで通じていない、暖簾に腕押し、としか思えないのは長年の付き合いゆえだと彼女は天を仰いだ。
……でも。
彼のどこかずれた、一方的に近いような行動に付き合うのもこれが最後かもしれない、と考え。
彼女も彼と同じく、線路の果てへと目を向けた。
そうしていると。
『ほら来たよ、あれが……』
幼い頃の彼の声が、よみがえる。
カタカナと数字で何系と言われても、彼女にはさっぱり意味がわからなかったし、彼がキラキラ目を輝かせて語る違いの魅力はもっと理解できなかった。
あぁ懐かしいな、と思ううち、振動と独特の音が響いてきた。
「良かった、来た……!」
嬉しそうな彼の声は、記憶で再生されたものよりずっと低かったけれど、滲み出る感情は同じだった。
さて、何が来たのかと彼女も目を凝らす。
「あれって……!」
知らず、彼女は驚嘆の声をあげていた。
昔、一度だけ見た。
あまりに印象的で一目でわかる、真っ黄色な新幹線。
「イエロードクター!」
「ドクターイエロー」
即座に彼が訂正を発する。
やや白けたような声だったが、彼女は全く気にせず手を叩いてその場で跳ねた。
「えっ、すごいすごい!!
これを見せてくれるつもりだったの!?」
確か予想だけで時刻表はなかったよね、よくわかったね! と彼女は絶賛する。
彼は彼女の喜びように半ば引きつつも。
予想的中できて良かった、と彼は頷いた。
「これだけは、喜んでくれていたから——見せたかったんだ」
君が、旅立つ前に。
添えられた言葉に、思わず彼女は涙ぐむ。
「……ありがとう……」
見れば、幸せになれると言われる新幹線。
初めて見た時は本当に偶然、長期休暇を利用した隣家同士のキャンプの帰り道だったか。
『スゲェ!! あれを見れるなんて——僕達みんな、幸せになれるぞ!!』
小難しい説明ばかりの少年だった彼が、珍しく単純明快に叫び。
思わず少女の彼女も手を叩いて喜んだ。
「どうか、幸せに」
差し出された手を、彼女は目端の涙を拭って握り返した。
「……うん」
あの、日。
心底嬉しそうに黄色い新幹線を見つめていた少年の彼が、物凄く輝いて見えた。
『幸せになれる』と言った彼の隣に、いつまでもいたいと——そんな風に、思った。
淡い想いに、心の中でリボンをかけて。
彼女は黄色い新幹線が通過したあとの、線路の先に。
自らが乗り込む形のない列車を垣間見たのだった。
「もしも最後の食事になるなら、これかなぁ」
あぁ美味しい、といいながら彼女はたこ焼きを頬張る。
こないだは、おでんだったなと彼は思う。
その前は何だったかな。
「例えば本当に、明日が最後の食事になるとしてさ。
今食べた物を明日も食べたいって、なる?」
しばらく食べてない物が欲しくなるんじゃないの、と彼は問う。
「うーん、確かにそうかもだけど」
彼女は一つ箸で取ったたこ焼きにフーフーと息を吹きかけながら考える。
「でもね。このたこ焼きだってすごく美味しいけれど、今二皿目を食べようとは思わないのね。
食べたいけれど、途中でお腹いっぱいになって食べきれないだろうから。
だから私は、今日一皿食べてとっても満足だけれど、満足しきっているわけではないの」
たこ焼きを口に放り込み、あつあつ! と彼女は忙しなく口の中を手の平で扇ぐ。
彼はペットボトルのお茶を差し出すが、彼女は大丈夫、と手を振った。
「えぇと、つまり。満足しきってないから、最後になるならもう一皿食べておきたい、ということ?」
「うん、そう! そういうこと!」
パン、と手を鳴らして彼女は何度も頷く。
なるほどねぇ、と彼は笑みをもらした。
……最後の食事なんて何でもいいけど、と彼は思う。
もしも——明日世界が終わるなら。
食べ歩きが好きな彼女に合わせて。
家でゆっくり過ごしたいという望みは叶わないだろうな、と彼は胸の中で呟いた。
君と出逢って
私は『母』から自由になれた
君が産まれて
強く、しっかりしなければ、と思った
『君』があの人と出逢って
家に連れてきて
私は、『君』と出逢った
君は、
手のひらに乗るほど小さくて
片目も鼻も膿で塞がっていて
それでも可愛らしい口を開けて
声なき声で鳴いて
擦り寄ってくれたね
慌てて病院に連れて行って
その夜は、私の胸の中で眠ってくれた
君はいつでも、ひたすら可愛くて
ただただ愛おしくて
目が回るほど忙しい日も
気がおかしくなるほど悩んだ日も
何もかも嫌になるほど辛い日も
君がいてくれたから、頑張れた
君は私に
無上の愛を、くれました
私は君に、
愛を届けられていただろうか
もっともっと
ずっとずっと
この世で、一緒にいたかった
家族や、
今まで一緒に暮らしてくれた
ふわふわな子たちは
今でも
みんなみんな大好きだし大事だけれど
君は、特別だった
喪った痛みは消えないけれど
君がくれた愛を
ほかの子たちに届けて
広げていけるように、頑張るね
『夜空を見上げていると
星が降る音が、聞こえるんだよ』
病院の屋上で出会った彼女は、そう言って。
フェンスにもたれかかって目を閉じた。
暖かくなった夜には、色んな音が溢れている。
苦手な虫の音は、あまりに近くで聞こえるとやっぱり怖い。
彼女ならどう感じただろう、なんて思ってみる。
ふざけっこして階段から落ちて、頭を打ってしまったゆえに念の為と入院していた僕と違って、彼女は病院に長くいるようだった。
幽霊かと思ってしまったくらい青白い顔色だったから多分、病気だったのだろうけれど。
僕と同じく、巡回の合間を縫ってベッドを抜け出して屋上にやって来れたのだから、違うのかもしれない。
といっても。
屋上で、彼女と会えたのは二回だけ。
僕は彼女と会ってから、ほぼ毎日屋上に行ってみたけれど、彼女はいなかった。
退院する前夜に会えたのは、僕の祈りが通じたのかもしれない。
『良かったね。——いいなあ』
僕の退院を喜んでくれていたけれど。
眩しいものを見るような目で。
羨ましそうに添えられた言葉と声が、耳の奥から離れない。
名前を聞くとか、病室の部屋番号を訊くとかは、なぜだか出来なかった。
気恥ずかしかったのか。
……申し訳なく、思ったのか。
街明かりが薄まる河川敷に立って、夜空を見上げる。
風の音、虫の声。
ひっきりなしに橋を渡る、車の通過音。
星が降る音があったとしても、とても聞き取れやしない。
だけど僕は、目を閉じて耳を澄ます。
きっと彼女なら、この静寂とはほど遠い中でも、聞き取れるのではないかと思うから。
そして、もしかしたら。
僕もいつか、星が降る音を聞き取って。
『ね、聞こえたでしょ』
そう言う、彼女の声が。
いつの日にか、聞こえるかもしれないから。
弟を、見ていてね。
毎日毎時間、何十何百回、言われたことだろう。
三つ年下の、弟は。
絵本とお絵かきが大好きで、どこでも大抵は『大人しい、いい子ね』といわれる姉たる少女からすると、信じ難いほど向こう見ずのやんちゃで、乱暴な子供だった。
今日だって。
姉が学校の宿題をやっている時に、弟は一人でトイレに行った。
弟は、もうすぐ小学生になる子だ。
さすがにトイレくらい一人で行けるだろうと、姉は解けない問題のドリルに集中していると。
隣の仏間から、ガシャンドシンと不穏な音が鳴り響いた。
姉が慌てて駆けつけると。
仏壇のお供えである落雁を手に、弟はひっくり返った香炉の灰を頭からかぶって、畳にペタンと座り込んでいた。
そして姉の、動揺した表情を目にした途端、弟は火がついたように泣き出した。
その日のおやつとジュースはいつも通り、姉が宿題をやっていた座卓に出しておいた。
仏壇の落雁は、もう何日も前から置いてあったもので、目新しい物ではないはずだ。
それなのに、どうして。
よりにもよって、今。
ギャン泣きする弟の頭上にある時計は16時を指し。
ガラガラと乱暴に開かれたらしい玄関扉から、パート帰りの母親が廊下を走ってやってきた。
「だからいつも『見ていてね』って、言っているじゃない!」
弟の泣き声より甲高い声で、母親は姉に怒鳴りを散らした。
……いつも、って。
小さく『ごめんなさい』と母親に謝りつつ。
姉は小さな両手を震わせて、拳を作る。
もやもやと胸に湧くどす黒い気持ちは、どうしたって消すことはできず。
姉は家の外へ飛び出した。
裏山の山道を、駆け上がる。
息が切れてクラクラしそうになっても、なお走る。
涙が滲む顔のまま、ふと姉の足が止まったのは。
雑木林が切れた、少し開けた場所に広がる藪の合間一面に、深紅の花が咲いていたからだった。
……彼岸花。
生前、祖母が教えてくれた花の名前を思い出す。
夕陽に照らされた、地上に花火を縫い止めたような花々の光景は、怖いような美しさに満ちていた。
姉は荒い息のまま、射られたようにその場に立ち竦む。
「弟が、嫌い?」
不意に間近で聞こえた声にギョッとして、姉は背後を振り返った。
そこには。
数十歩程度の距離を置いて。
彼岸花と同じような色合いの着物を纏った、姉と同年代とおぼしき、日本人形のような少女が立っていた。
「え——……、嫌い……?」
戸惑って、姉は曖昧に返す。
着物姿の少女の存在の方がよほど不可解だったが、少女と周囲の光景があまりに似つかわしすぎて、疑念がわかなかった。
「大変でしょ、子守。あなただって、まだ子供なのに、ね」
痛ましそうに少女は少し目を伏せる。
……子守。
言われて。
姉は、胸の奥で常にわだかまる黒い気持ちが一つの形にまとまっていくのを感じた。
少女が、クスッと小さく笑う。
「ね——あなたの願い、叶えてあげよっか……?」
「願い……?」
またもやオウム返しして、姉は気圧されたように半歩下がった。
「そう、願い事。
……あなたが何を願うのか、私にはわからないけれど」
クスクス、と少女は綺麗に笑う。
「そうね……。明日もこのぐらいの時間に、またここにおいでよ。
そしたら、あなたの願い——ひとつだけ叶えてあげる」
笑みを深くした薄い唇に、少女は自らの人差し指を添えた。
「でもこれは、内緒よ。
私たち、二人だけの秘密……」
必ず、おいでよ。
その、少女の言葉だけを聞いて。
少女が木々の間へと歩き去ったのか。
姉が、逃げるように家へと駆け戻ったのか——
とんと、記憶がない。
翌日は、あいにくの雨だった。
一週間ほど経って。
怖れの気持ちをねじ伏せて、姉は裏山へ行ったものの。
山道の先の開けた場所に、藪一面に咲いた彼岸花の光景は何故だか——なく。
姉が再び、着物姿の少女と出会うことも、なかった。
弟が小学校に上がっても、姉は親のいいつけで常に弟とセットで過ごす時は、まだ多く。
姉が幾百と、黒い気持ちに飲まれそうになるたびに。
姉は——少女の言葉を思い出す。
『弟が、嫌い?』
情感を欠いた、問いかけだった。
いうなれば、『このお菓子、嫌い?』と尋ねるような。
もしもあの翌日。
天候など無視して、少女に会いに行っていたら——どうなっていたのだろう。
果たされなかった秘密事と。
映えすぎて空恐ろしいような琴線に、姉の疑問も黒い気持ちも。
ただぼんやりと、霞のように溶けていくのだった。