名無しの夜

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『夜空を見上げていると
 星が降る音が、聞こえるんだよ』


 病院の屋上で出会った彼女は、そう言って。

 フェンスにもたれかかって目を閉じた。



 暖かくなった夜には、色んな音が溢れている。

 苦手な虫の音は、あまりに近くで聞こえるとやっぱり怖い。


 彼女ならどう感じただろう、なんて思ってみる。


 ふざけっこして階段から落ちて、頭を打ってしまったゆえに念の為と入院していた僕と違って、彼女は病院に長くいるようだった。

 幽霊かと思ってしまったくらい青白い顔色だったから多分、病気だったのだろうけれど。

 僕と同じく、巡回の合間を縫ってベッドを抜け出して屋上にやって来れたのだから、違うのかもしれない。


 といっても。
 屋上で、彼女と会えたのは二回だけ。

 僕は彼女と会ってから、ほぼ毎日屋上に行ってみたけれど、彼女はいなかった。

 退院する前夜に会えたのは、僕の祈りが通じたのかもしれない。


『良かったね。——いいなあ』


 僕の退院を喜んでくれていたけれど。

 眩しいものを見るような目で。

 羨ましそうに添えられた言葉と声が、耳の奥から離れない。


 名前を聞くとか、病室の部屋番号を訊くとかは、なぜだか出来なかった。


 気恥ずかしかったのか。

 ……申し訳なく、思ったのか。


 街明かりが薄まる河川敷に立って、夜空を見上げる。


 風の音、虫の声。
 ひっきりなしに橋を渡る、車の通過音。

 星が降る音があったとしても、とても聞き取れやしない。


 だけど僕は、目を閉じて耳を澄ます。


 きっと彼女なら、この静寂とはほど遠い中でも、聞き取れるのではないかと思うから。


 そして、もしかしたら。


 僕もいつか、星が降る音を聞き取って。


『ね、聞こえたでしょ』


 そう言う、彼女の声が。

 いつの日にか、聞こえるかもしれないから。

5/5/2024, 7:09:35 AM