名無しの夜

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 弟を、見ていてね。

 毎日毎時間、何十何百回、言われたことだろう。


 三つ年下の、弟は。

 絵本とお絵かきが大好きで、どこでも大抵は『大人しい、いい子ね』といわれる姉たる少女からすると、信じ難いほど向こう見ずのやんちゃで、乱暴な子供だった。


 今日だって。

 姉が学校の宿題をやっている時に、弟は一人でトイレに行った。

 弟は、もうすぐ小学生になる子だ。
 さすがにトイレくらい一人で行けるだろうと、姉は解けない問題のドリルに集中していると。

 隣の仏間から、ガシャンドシンと不穏な音が鳴り響いた。

 姉が慌てて駆けつけると。

 仏壇のお供えである落雁を手に、弟はひっくり返った香炉の灰を頭からかぶって、畳にペタンと座り込んでいた。

 そして姉の、動揺した表情を目にした途端、弟は火がついたように泣き出した。


 その日のおやつとジュースはいつも通り、姉が宿題をやっていた座卓に出しておいた。

 仏壇の落雁は、もう何日も前から置いてあったもので、目新しい物ではないはずだ。

 それなのに、どうして。

 よりにもよって、今。


 ギャン泣きする弟の頭上にある時計は16時を指し。

 ガラガラと乱暴に開かれたらしい玄関扉から、パート帰りの母親が廊下を走ってやってきた。

「だからいつも『見ていてね』って、言っているじゃない!」

 弟の泣き声より甲高い声で、母親は姉に怒鳴りを散らした。


 ……いつも、って。

 小さく『ごめんなさい』と母親に謝りつつ。

 姉は小さな両手を震わせて、拳を作る。

 もやもやと胸に湧くどす黒い気持ちは、どうしたって消すことはできず。

 姉は家の外へ飛び出した。


 裏山の山道を、駆け上がる。

 息が切れてクラクラしそうになっても、なお走る。


 涙が滲む顔のまま、ふと姉の足が止まったのは。

 雑木林が切れた、少し開けた場所に広がる藪の合間一面に、深紅の花が咲いていたからだった。


 ……彼岸花。


 生前、祖母が教えてくれた花の名前を思い出す。

 夕陽に照らされた、地上に花火を縫い止めたような花々の光景は、怖いような美しさに満ちていた。

 姉は荒い息のまま、射られたようにその場に立ち竦む。


「弟が、嫌い?」


 不意に間近で聞こえた声にギョッとして、姉は背後を振り返った。

 そこには。

 数十歩程度の距離を置いて。
 彼岸花と同じような色合いの着物を纏った、姉と同年代とおぼしき、日本人形のような少女が立っていた。


「え——……、嫌い……?」

 戸惑って、姉は曖昧に返す。

 着物姿の少女の存在の方がよほど不可解だったが、少女と周囲の光景があまりに似つかわしすぎて、疑念がわかなかった。


「大変でしょ、子守。あなただって、まだ子供なのに、ね」

 痛ましそうに少女は少し目を伏せる。


 ……子守。

 言われて。

 姉は、胸の奥で常にわだかまる黒い気持ちが一つの形にまとまっていくのを感じた。

 少女が、クスッと小さく笑う。


「ね——あなたの願い、叶えてあげよっか……?」

「願い……?」


 またもやオウム返しして、姉は気圧されたように半歩下がった。


「そう、願い事。
 ……あなたが何を願うのか、私にはわからないけれど」

 クスクス、と少女は綺麗に笑う。

「そうね……。明日もこのぐらいの時間に、またここにおいでよ。

 そしたら、あなたの願い——ひとつだけ叶えてあげる」

 笑みを深くした薄い唇に、少女は自らの人差し指を添えた。

「でもこれは、内緒よ。
 私たち、二人だけの秘密……」


 必ず、おいでよ。


 その、少女の言葉だけを聞いて。


 少女が木々の間へと歩き去ったのか。

 姉が、逃げるように家へと駆け戻ったのか——

 とんと、記憶がない。



 翌日は、あいにくの雨だった。


 一週間ほど経って。

 怖れの気持ちをねじ伏せて、姉は裏山へ行ったものの。

 山道の先の開けた場所に、藪一面に咲いた彼岸花の光景は何故だか——なく。


 姉が再び、着物姿の少女と出会うことも、なかった。



 弟が小学校に上がっても、姉は親のいいつけで常に弟とセットで過ごす時は、まだ多く。

 姉が幾百と、黒い気持ちに飲まれそうになるたびに。

 姉は——少女の言葉を思い出す。


『弟が、嫌い?』


 情感を欠いた、問いかけだった。

 いうなれば、『このお菓子、嫌い?』と尋ねるような。


 もしもあの翌日。

 天候など無視して、少女に会いに行っていたら——どうなっていたのだろう。


 果たされなかった秘密事と。

 映えすぎて空恐ろしいような琴線に、姉の疑問も黒い気持ちも。

 ただぼんやりと、霞のように溶けていくのだった。


5/4/2024, 8:40:26 AM