名無しの夜

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 道行く人はみな、スラリとしたモスグリーンの幻影。

 他の人から見れば、自分もまたそんなようなものだろう、と彼女は思う。

 待ち合わせ場所の前にある大きなビルに設置されたディスプレイには、新製品のフルフェイスゴーグルの宣伝動画が延々と流れている。

 ゴーグルのデザインなんて、どれだけ洗練されていようとも、結局つけてしまえば自分では見れないし、他人も見ることがないのだから意味がないはずなのに。

 それでも時代と多くの人々の好みに合うような物が売れるのは、いつの時代も変わらないらしい。


 ——デザインはともかく、やっぱり軽いのはいいよね。
 あと素材も。
 あの新素材は、気になるから試着予約してみようかな。


 そんなことを考えるうち、こめかみの当たりから小鳥のさえずりの音が鳴った。

《○○さんが到着、接近まで約5メートル》

 彼が来る方角へ顔を向けると、ゴーグル越しの視界で『彼』の姿がくっきりと浮かび上がる。


 あ、やっぱりかっこいいな、と思う。

 ちょっと下向き加減になった時の伏せた目元の陰影は、ゴーグル投影用のデフォルト素材にはないものだから、彼の調整によるものだ。

 そういった細かな調整の仕方が、彼女の好みに実に合う。


 ……でもちょっと、今日の服のチョイスは違うかも。

 あと、前髪のセットはもう少し——

 彼女の思考を読み取って、彼の服装はナチュラル系の色合いのタウンカジュアルなものから、モノトーン調のシックなものへと変わり。

 少し眉毛にかかるくらいの前髪の分け目位置が調整された。

 彼女の、視界の中では。


『待たせちゃったね、ごめんね』

「まぁまぁ、待ってたよ」

 ゴーグルの中で呟やかれた彼女の言葉は、

『1本早い電車に乗ったせいでほんの少し待っただけだから、気にしないで』

 と発言されているが、彼女がそれを聞くことはない。


 どのみち、ゴーグルが変換した発言だって、彼がそのまま聞くとは限らないのだ。


 今日のデートのためと、彼女が思案して着てきた軽やかなベージュのワンピースと薄桃色のヒールという格好ですら。

 彼の容姿を、彼女が、彼女の視界上で調整したように。

 彼も、ゴーグル内の視界で、彼女をどんな風に設定して眺めているのか、知るよしもない。


 姿も、喋る言葉も、声の起伏も、態度すら。

 万人が身に付けるフルフェイスゴーグルが、その人それぞれに合わせて、不快感ないように変換してくれる。


 そして互いの意思同意が重なれば、彼らのように、互いをより細かく設定することができる。


『あなたと一緒に過ごせる時間は、本当に幸せ』
『僕もだよ。もっと一緒に過ごせるように、隣同士の家にしない?』
『素敵! 大賛成!!』


 変換された彼らの会話を、そのまま聞く者は誰一人としていない。

 ……徹底的に膨大な情報を積み込まれ調整され尽くした、AIだけが、唯一。

 彼らの元の発言から変換された発言、そして各個人が微調整しているものから、気分の周囲の波長まできっちり読み込んで、今この瞬間も、学習し続けている。


 おかげで、ここは。

 誰一人傷つくことがない世界。

 理想は、自分で作れる世界。

 ……が、実現した。


 だからこそ。

 フルフェイスゴーグルを外す唯一の場所である家だけは。

 誰かと共有することは、ない。


 彼女は、にっこり微笑む。

『じゃあ今日は、住みたい街を選びながらランチしましょうか』

 職場や利便性などで候補地が視界の片隅にババっと出てくる。

 彼も同じだろう。

 あとは互いのAIが、二人の最適解を選んでくれる。

 彼女は、ゴーグルの中でゆったりと流れるロマンティックな音楽を聞きながら、彼との散策を楽しむのだった。

5/21/2024, 2:09:06 AM