自分を変えたい、変えるためなんだ。
そう言って列に並んだ彼は、列が進むにつれて決意を浮かべていた顔は表情を失い、色も心なしか白くなっているようだった。
「……あのさ、本当に大丈夫なのか?」
隣に立つ僕の方がいたたまれなくなって、彼に問う。
そもそも、意味がわからない。
自分を変えるために、忌避していた何かに挑戦する。
それはわからなくはない。
だがなぜ、いきなりこれなのか。
「だ、大丈夫だ。これをやりきれば、俺はきっと……」
「もうちょっとさ、段階を踏んだら? 例えばさ——」
僕の意見を、自らの迷いごと振り切るように。
彼はシャンプー後の大型犬めいて、勢いよく首を横にブルブルと振った。
「いいや、僕は最難関たるこれを、一回で克服する! たとえ、この選択が間違いだったとしても、挑戦してやり切った事実は残るのだから!」
——あっそ……。
震える声の決断に、僕は二の句もつげず息を吐いた。
のろのろと進む蛇行する列に並ぶ人々はみな楽しげで、彼のような決死の表情の者はいない。
僕は皆のその雰囲気が、彼の行動によって台無しになってしまわないことを切に祈った。
順番が、やってくる。
この様子だと、前列付近だ。
後ろより前の方が怖くないというし、良かったな——と彼を見やると。
いよいよ彼は蒼白で、足なんかも内股で、目に見えて震えている。
「……止めよう」
「は——?」
僕は彼の腕を引っ張って、無理矢理に列から引き離した。
「ちょ! な、何なんだよ!? 何で——!」
「そんなんで乗るもんじゃないだろ、ジェットコースターなんて」
平日の、遊園地。
ピーク時よりずっと少ないとはいえ、あえてそういう日に来る人達だ。
皆、今日という日を楽しみに。
遠方から来ている人だって、いるだろう。
「無理に乗って、失神するぐらいならまだいいけどさあ……」
気分悪くなったり何なりで、周りに被害が及んでしまったら。
それは、やり切ったという事実より重い、罪悪感やら黒歴史やらが残るだけじゃないのか。
「う……」
僕の言葉に、彼は呻いて怯む。
グッと唇を噛んで俯く姿は、まるで幼子のようだ。
最近、幼稚園に上がったばかりの姉の子の姿が重なって、僕は溜息をついた。
「『たとえ間違っても、この道を突き進む』——とかさ、決意の強さを感じるけど。
やっぱそういうのは、現実には向かないよ。
違うかもと思ったら立ち止まって考えた方が、絶対いいって」
言いながら、ふと横を向けば。
可愛らしいテナントから出てきた白い割烹着姿のオヤジさんがのぼりを立てていた。
「へ〜、○○ラーメンだって。あれ食って帰ろうぜ」
「……いや、食欲ねぇし……」
「じゃ、お前は財布で見てれば。俺は食うから」
「は? 財布って何だ!」
「お礼するって言っただろ」
「言ったけど! ちょ待て! 俺も食う!!」
——たとえ間違えでも。
行動は起こした方が、多分、いい。
間違いかも、無理かも、と思ったら
止まればいい。
止まって、こんな風に寄り道すれば。
別の何かが見つかるかも。
見つからなくても、いいじゃないか。
正解なんて、きっと何処にもないんだから。
頬に描く、その雫は
白く塗りつぶして気取らせない感情を
象徴するのだという
笑いながら、泣き
泣きながら、笑う
遠い昔、
生きることすべてが演じることだった
人々がいたのだという
演じることなく生きれることは
きっと、幸せ
でも
演じる場もなく
それでいて
本心を気取らせない仮面をつけて
気持ちの欠片たる象徴も描けず
ほんの時折
苦しさに、天を仰ぐ
雨粒を頬に受けて
すぅと流れ落ちる感触に
忘れかけた何かを取り戻した気がして
眠るように、目を閉じた
何もいらない、と
もう十二分に得たから、と
微笑んで逝けたら
それは幸せの最高値なのではと思うけれど
きっとそんな風にはなれないかな
『心』に形があるのなら
パリンと真っ二つになって
どこぞの底で粉々になって
ああこれはもう二度と元に戻らない
もう何にもいらない
何も欲せないし望めない
靄になって
朝には跡形もなく
消えてしまえればいいのに
そんな風に思ったことなら
山のようにあるのだけれど
あれおかしいな
消えたいと願う時点で
それは望みになっているじゃないか
何もいらない
そんな、空虚さに飲まれ切ることも
できなかったのか
元には戻らなくても
何かしらか、また『心』の器ができて
繰り返す
何度でも
いつしか壊れきることもなくなって
傷だらけ穴だらけだけれど
辛うじて『形』は残っている
十二分でなくても
這いずって
時に戦って
そうして得た何かがあるから
未練はあっても
もういらないと——
いえる最期を迎えられたら、いいな
……え、今?
いや無理
まだ猫ちゃんいるから無理です絶対
お世話が終わったら
終活するんで今は勘弁して下さい
(未練だらけ)
「……完全に想定外——でもよくよく考えればありえない質問じゃなかったのよ」
それを見越せなかったことが悔しいと、彼女は整えられた短い髪をグチャグチャにしながらソファーに突っ伏した。
そこ、あんまり掃除していないんだけどなぁと彼は胸に独りごちる。
父から引き継いだ、完全に趣味なアトリエの一室だ。
埃ぐらいは払っているが、寛ぐような部屋ではない。
「ああもう、未来が見えていたら……!」
ガジりと、親指の爪を噛む。
昔からの彼女の癖だが、キレイに塗られた控えめな薄ピンクのマニュキュアが台無しだ。
「見えていたら、完璧に出来ていた?」
「当たり前でしょ! 失点といえるのはあれだけだったんだから、これ以上ないくらい完璧になっていたわよ!」
間髪入れずの返答は毎度そんなに変わらない。
苦笑まじりの心境をおくびにも出さず、彼はうんうん、と頷いてみせる。
「そっか……、残念だったね」
「全っ然、感情がこもってない」
ギロリと睨まれ、彼はすまなそうに頭を垂れた。
「うん、ゴメン。でも——僕にはどうしても、わからないから」
昔から優秀だった彼女は、常に完璧を求めている。
毎度、なにがしかの失敗やら失態やらで今一歩掴めないらしいが、それはあくまで彼女の基準。
世間一般の基準では、失点にもならないような些細なことだった。
「わからないって、私が完璧さを求めるゆえん?」
あんなに、いっつも説明したのに? と続きそうな表情に、彼は首を横に振った。
「理由は、よくわかっているよ——理屈はね。
でも納得できないというか、したくないというか」
絵筆を取り、パレットに鮮やかな絵の具を置く。
「例えば君が未来を見て、『完璧』を成し遂げてしまったら……、
キミは確実に、ここには来ないだろうから」
「それは——そうね。確かに」
躊躇いもなく頷く彼女に彼は微笑み、彼女は首を傾げる。
「どういうこと? 私が来なくなるのはキミにとって好ましくないわけ?」
「そうだね、寂しく思うかな」
年に数回も会わない幼馴染なだけなのに? と彼女は合点しかねる顔で立ち上がり、彼が向き合うキャンバスを覗きこんだ。
光が、あるいは炎が弾けるような、活性力のある色彩と躍動感。
「……抽象画って、私にはよくわからないけれど」
キミの絵を見ていると、何だかパワーが湧いてくるのよね、と彼女は呟く。
「それは、良かった」
——だってこれは、キミだし。
事実は口にせず、キミの力になれたのなら本望、などと彼は言う。
「そうね、次こそ——完璧な成果をおさめてみせるわ!」
ガッツポーズする彼女に合わせて、彼もエールを送る。
未来なんか、見えなくていい。
飽くことなく完璧な未来を目指す彼女を見ていたいから。
でも……、
完璧を掴んだ彼女も描いてみたいから。
一瞬だけなら。
そんな未来を、見てみたいかもしれない。
子供の頃
受け止めきれない哀しみに
視界は色を失った
すべてがモノクロームに
古い再生機のように
カクカクとコマ送りされる情景は
音も、遠くでくもぐっているように
世界から取り残されてる
そんな感覚が
消え去ってしまいたい心情を加速化させた
何も、誰も、いらなかった
母親の付き合いで通った、喫茶店
アンティークなサンルームめいた店内には
深いコーヒーの匂いが漂っていた
ふと、耳に届いたピアノの旋律
柔らかくて
湖面に散らばる陽光のような
繊細で美しい旋律
何故だか、その音だけは
はっきりと耳に、正確に届いて
ああ、綺麗だ
そう感じてしまった時に
視界はゆるりと、色を取り戻していった
……でも、だけど
色のない
世界から切り離されかけた
私だけの場所から
抜け出したかった訳じゃ、なかったの
あのまま、浸りきってしまえていたなら
今、あの場所に還れたなら
ふと思いつつ
それでも
ひとりではない日常のために
たゆたう無色の世界を心に沈める