名無しの夜

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「……完全に想定外——でもよくよく考えればありえない質問じゃなかったのよ」

 それを見越せなかったことが悔しいと、彼女は整えられた短い髪をグチャグチャにしながらソファーに突っ伏した。

 そこ、あんまり掃除していないんだけどなぁと彼は胸に独りごちる。

 父から引き継いだ、完全に趣味なアトリエの一室だ。
 埃ぐらいは払っているが、寛ぐような部屋ではない。

「ああもう、未来が見えていたら……!」

 ガジりと、親指の爪を噛む。

 昔からの彼女の癖だが、キレイに塗られた控えめな薄ピンクのマニュキュアが台無しだ。

「見えていたら、完璧に出来ていた?」

「当たり前でしょ! 失点といえるのはあれだけだったんだから、これ以上ないくらい完璧になっていたわよ!」

 間髪入れずの返答は毎度そんなに変わらない。

 苦笑まじりの心境をおくびにも出さず、彼はうんうん、と頷いてみせる。

「そっか……、残念だったね」

「全っ然、感情がこもってない」

 ギロリと睨まれ、彼はすまなそうに頭を垂れた。

「うん、ゴメン。でも——僕にはどうしても、わからないから」

 昔から優秀だった彼女は、常に完璧を求めている。

 毎度、なにがしかの失敗やら失態やらで今一歩掴めないらしいが、それはあくまで彼女の基準。

 世間一般の基準では、失点にもならないような些細なことだった。

「わからないって、私が完璧さを求めるゆえん?」

 あんなに、いっつも説明したのに? と続きそうな表情に、彼は首を横に振った。

「理由は、よくわかっているよ——理屈はね。
 でも納得できないというか、したくないというか」

 絵筆を取り、パレットに鮮やかな絵の具を置く。

「例えば君が未来を見て、『完璧』を成し遂げてしまったら……、
 キミは確実に、ここには来ないだろうから」

「それは——そうね。確かに」

 躊躇いもなく頷く彼女に彼は微笑み、彼女は首を傾げる。

「どういうこと? 私が来なくなるのはキミにとって好ましくないわけ?」

「そうだね、寂しく思うかな」

 年に数回も会わない幼馴染なだけなのに? と彼女は合点しかねる顔で立ち上がり、彼が向き合うキャンバスを覗きこんだ。

 光が、あるいは炎が弾けるような、活性力のある色彩と躍動感。

「……抽象画って、私にはよくわからないけれど」

 キミの絵を見ていると、何だかパワーが湧いてくるのよね、と彼女は呟く。

「それは、良かった」

 ——だってこれは、キミだし。

 事実は口にせず、キミの力になれたのなら本望、などと彼は言う。

「そうね、次こそ——完璧な成果をおさめてみせるわ!」

 ガッツポーズする彼女に合わせて、彼もエールを送る。



 未来なんか、見えなくていい。

 飽くことなく完璧な未来を目指す彼女を見ていたいから。


 でも……、

 完璧を掴んだ彼女も描いてみたいから。

 一瞬だけなら。
 そんな未来を、見てみたいかもしれない。

4/19/2024, 11:45:46 PM