「——ここでダベってくのも、今日で最後かぁ」
住宅街の、ほんの隙間。
それなりに由緒はあったらしい、寂れた神社に寄り添うように立つ小ぶりな桜の木を見上げ、彼は言った。
感慨も何もない。
どちらかといえば、せいせいとした、というべき声色だった。
誰彼に褒められずとも。
今年もひっそりと、やや貧相で不格好な枝ぶりであろうとも、美しく花を咲かせた桜。
……とはいえ。
ランドセルを背負った頃から、この忘れ去られたような場所で数えきれないほどの時を過ごしてきたのは、何も桜を眺めるためではない。
別段、拘束されるような境遇でもなかったが、さりとて特別に目をかけられることもなく。
何とはなしに何処にも行き場がないような子供ふたりを、この廃れた神社が、やはり空虚なまま留めさせた。
様々な季節をこの場所で過ごしたが。
この淡い桜が咲く頃だけは、持ち込んだゲームや漫画に没頭しきることはなく。
時折、視線を上げては桜を眺めていた気がする。
——どちらともなく。
「まるで、今日が最後みたいに」
茶化すように笑みを混ぜて言う。
肺のあたりが、なぜだかギュッとする。
(会えなくなる訳でもあるまいし)
言い聞かせるように心で呟き、込み上げそうな何かに蓋をする。
「いや——最後かな。まだ荷造り終わってねーのよ。明日トラック来ちまうのに」
「ヘッ……!?」
変な声が出た。
「引っ越し、来週じゃなかったのか?」
「いやそれが、業者決まんなくて——会社に言ったら、先輩? 同僚? だかが、やってくれることになってさァ……」
ありがてーけど、こっちの都合とかガン無視よ、と顔をくしゃっとして笑う。
困っている時の顔では、なかった。
……嬉しそう、な。
「おいおい——んじゃ、こんなとこでのんびりしてる場合じゃねえじゃんかよ」
「まあなぁ。でもなんつーか……、一応?」
「一応って何だよー。ダチに最後の挨拶ってか。義理難てぇ」
ワハハ、と笑うと。
彼もくしゃっと眉を下げ、笑った。
「イイ奴だろ、俺って。忘れんなよー」
「ヘェヘェ。……忘れんなってんなら、たまにはこの時期にこっち来いよな。
ここで、花見しよーぜ」
「うっへ——俺らだけの花見とか寒すぎだろ」
さして可笑しくもないのに、ゲラゲラ笑って。
彼はいつものように。
じゃーな、と一度だけ振り返って、去って行った。
……あれから。
彼に会ったことは、ない。
年に何度かのやり取りをした連絡先は、いつの間にやら繋がらなくなり。
彼が就職した会社もまた、いつの間にやらなくなっていた。
「……どうしているかな」
地域の何十周年祭だかで、ほんの少しだけ手入れが入ったものの、訪れる人はあまりなく——
あの頃と同等ぐらいに廃れた拝殿に腰を降ろし、小さな桜の木を見上げる。
昔より小ぶりになったような、木。
それでも、伸びる枝に淡く可憐に咲いた桜も——盛りは過ぎた。
持ち込んだワンカップの蓋を開け、軽く掲げる。
春風に柔く散る桜の花弁を眺め。
ひとひらが、ワンカップに落ちるのを、ただ待つ。
「お前と、ここで飲んでみたかったけどなぁ」
今年も叶わなかったか、と。
あの頃の、彼のように。
感慨も何もなく闊達と呟き、酒を飲み下した。
目が覚める。
めっぽう朝に弱い私が目覚める時間じゃない。
だから。
『朝だよ』と起こしに来ていた気配を探す。
でもそこには、誰もいなくて。
いなくても。
朝が好きだったあの子のために、カーテンを開けて。
窓も少し開いて、ひんやりした風を通す。
代わり映えしない風景に、あの子は何を見ていたのだろう。
何も変わらなくても。
日々の風の匂いは違うか。
鳥の声も、きっと。
眠気まなこでカーテンと窓を開けて
「はい、どうぞ」とベッドに戻ろうとすると
なぜだか不満顔をするものだから。
一緒に並んで外を見て、風を浴びたね。
時折、顔を上げて見上げてくるから。
「楽しいね」
と言えば、これまた『何が?』みたいな顔をして。
楽しいは正解じゃないのかーとボヤけた頭でボヤいたものだ。
一緒に同じことをすることが、大切だったのかな。
うっすらと差し込む朝日に目を閉じて。
あなたが、隣にいる
そんな幻のような夢を、今日も心に描いている。
敷地内の駐輪場を囲う垣根辺りからゼンマイが巻き戻るような、けたたましい虫の音が響き渡っている。
昨今は朝夜の寒暖差が激しくて季節感に乏しかったが、いつの間にやらどっしりと春が訪れているのだと実感した。
スーパーでぎっしり詰めた買物袋を肩にかけ、エントランスに向かう。
日差しが強い。
緩やかな暖かさになごむ間もなく、額にうっすらと汗が浮いて顔をしかめた。
唐突に喉の乾きを覚える。
何か、冷たい物が飲みたいな。
冷蔵庫の中を思い出す。
常備している、晩酌用の無糖の炭酸水がある。
そしてキッチンには、愛飲しているピーチティーのティーパックも。
そうだ! 買い出し品を片付ける前に、ピーチティーの炭酸割りを飲もう。
ほのかな甘さと炭酸の涼やかさを想像して、肩の荷物の重さも気にせず軽やかに足を運ぶ。
鍵を開け、手洗いうがいを済ませて。
まずはお茶を入れて。
冷たすぎるのも体によくないよね、なんて呟きつつ、冷蔵庫の炭酸ペットボトルに手を伸ばす。
——ガッ!
1リットルペットボトルの予想外の軽さに、持ち上げた手が上部の棚にぶち当たる。
「痛っ、たぁ……」
えぇ? とペットボトルを見やれば。
残量は、底のくぼみに僅かに残るのみ。
「……あンの、野郎……!」
ギリッと奥歯を噛みこする。
漫画だったら青筋も立って、怒りのオーラが炎のように燃え立っているに違いない。
どうしてこう、何度言っても伝わらないのか。
残量にして多く見積もっても50mlもない、空に等しいようなペットボトルを、なぜに冷蔵庫に戻すのか。
飲みきって捨てて新しいペットボトルを補充しろよ!!
基本、オマエが飲むモンだろーが!!
……期待した飲料が飲めないことに苛ついて、胸底で毒づく。
冷凍庫を探り。
これまたロックアイスの名残というに相応しい氷の粒をグラスにふりかけ、袋をシンクに投げ捨てる。
これでは到底、あつあつのお茶は冷やせない。
溜息が落ちる。
片付けるのが面倒なのか。
そんな面倒事を、好きだという相手に平然と押し付ける無神経さは何なのか。
「——こういう些細なことから、愛はすり減っていくのよねぇ……」
耐熱グラスに注がれた熱いお茶の湯気を口息で吹き飛ばし、煮え湯めいたお茶を飲み込む。
気に入っていたはずの、ほのかなお茶の甘さが。
やけに鬱陶しく、感じた——
——本格的な闘病介護が、唐突に終わってしまった。
いつか遠くないうちに終わりが来ることはわかっていたけれど。
こんなに突然とは、思わなかった。
間欠泉のように悲しみが湧き、泣く。
……どうして、どうして。
どうして、こんな急に。
ひどいよ、ひどすぎるよ。
でも、よくよく振り返れば、予兆はあったんだ。
もうダメかと思った一ヶ月前が、きっと。
奇跡は、あの時に起きていたんだね。
この一ヶ月はエンジェル・タイムだったと思うと……、
恵まれていた、のかもしれない。
ああ、でも。
もうあの子が、辛い思いをしなくて良いのだと、そう思うけれど。
あの子がいないことは、
すごくすごく
さびしく、悲しい。
神様、ひどいよ。
どうしてあの子に、こんな過酷な運命を背負わせたの。
どうして今、あの子を連れ去ってしまったの。
私、まだ頑張れた。
あの子だって、私をずっと見ててくれた。
最後の最後だって、
ぐっ、とびっくりするような力で
お顔を、私の手のひらに埋めてきた。
別れたくないと、
あの子も思ってくれていたんだよ。
……でも、うん。
わかってる。
あの子の病気は、
種族全体の持病のようなもので
あの子は、たまたま生まれつき発病していたけれど
ケアが必須となる機能低下域になったのは近年で、進行はわりと遅めといえたから
あの子だけが、格別に『過酷』だったわけではない。
そして別れは——
形は違えど、生きとし生けるもの
すべてに等しく訪れるもの。
だから、どうしようもないこと。
ああ、だけど……。
——悔いが、残らないように。
そう思って、駆け抜けた日々だったけれど。
何をどうしたって、悔いは出る。
あの時、こうしていたら。
ああしていたら、もしかしたら。
どうして、あんなことしちゃったんだろう……。
反芻しては——
空に、かみつく。
神様、どうして……。
愛していた。
愛して、くれていた。
神様、
あの子と会わせてくれて、ありがとう。
あの子は、
とっても優しくて、ずっと可愛い、
そして
とても頑張り屋さんでした。
頑張って、生きてくれました。
とても頑張って、最後まで私のそばにいてくれました。
どうかどうか
たくさん褒めてあげてください。
そして永久の安らぎと幸せを、
どうかあの子にあげてください。
私があの子を迎えに行く日まで、
どうかどうか、よろしくお願いします。
……迎えに、行かせてくださいね?
会わせてくださいね!
でなかったら、この拳でブン殴……(略
——時間に追われるようになって
このアプリを開かなかった期間が三ヶ月、か。
あの子の時間軸だと、一年分。
よく、頑張ってくれた本当に。
……そしてあまりにタイムリーすぎるお題……
何なの、何の因果なの。
一日最後のお世話をとハッと目覚め、
……ああ、もうすることはないのだと——
ガランとした空虚さに落ちていきそうだったから、
ありがたいけれど。
不思議なものだ。
身が裂けるような
さびしさも、悲しみも。
今だけの、もの。
それらはいつしか、一抹の思いに変わり。
ただ、愛しさだけが残ることを知っている。
でも。
ずっとあなたの気配を、記憶を、
この家でリピートし続けることでしょう。
ずっとずっと。
誰よりも、何よりも、愛しているよ。
どうかどうか。
あなたの魂に幸せを。
また会う日まで。
どうか、ゆっくり待っていてね。
ここはあの時の、あの場所
この角を曲がれば
この道を進めば
あの時のあの局面に辿り着けるはず
急いて、走るように行こうとしても
なかなか進めず辿りつけない
行けたと思っても、そこは違う場所
もう一度あの瞬間を
せめて夢の中だけでも
辿り着けないのなら、いっそ
永遠に終わらないで
そう思う頃に、目が覚めてしまう
何を望んでいたのか
何を見たかったのか
何処に辿り着きたかったのか
それすら、わからないまま