sairo

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2/16/2026, 8:44:32 AM

――拝啓、十年前の私。

夕暮れの図書館。偶然見つけた手紙の書き出しに、目を瞬いた。

「十年後じゃないんだ」

思わず声に出てしまい、慌てて辺りを見回した。
今日は珍しく、図書館には誰もいない。私語を咎められないことに安堵して、手にした紙に視線を落とす。。
読んでいた本の最後のページに挟まっていた四つ折りの紙。誰かが挟んだまま忘れたのだろうそれに何が書いてあるのかが気になって、つい開いてしまった。
丸みを帯びた字は女子のものだろうか。どこかで見たことがあるような気がするその字を不思議に思いながら、もう一度書き出しの文字を見る。
十年前。何度見ても、その文字は変わらない。
書き間違いだろうか。それとも過去の自分に当てた手紙なのだろうか。色々と考えながら、続きの文字を指で追い始める。
誰かの手紙を盗み見ることの罪悪感は、好奇心に負けて萎んでしまっていた。

――まず最初に、友チョコという流行りには乗らない方がいい。肝心の想いを伝えたい人に、正しく伝わらなくなってしまうから。

自分自身に当てた手紙だからなのか、最初から遠慮をしない文字が心を抉る。昨日友達とチョコを交換し合い、その流れで彼に本命のチョコをあげたけれど反応がいまいちだったことを思い出した。
この手紙の主も、同じだったのだろうか。恥ずかしくて誤魔化したチョコに込めた想いが、相手に届かなかったのだろうか。
切ない気持ちに眉を寄せ、続く文字を追っていく。

――次に、相手の優しさを当然だと思わないで。彼が優しいのは、あなたを大切に思っているから。誰にでも優しい訳じゃない。

きゅっと唇を噛み締める。
彼はいつだって優しかった。他の人にもそうなのだと、自分が特別だからではないのだと、そう思い込もうとしていた。
自分に宛てられた手紙ではない。それは分かっていても、どうしても彼のことが思い浮かんでしまう。
もしも彼の優しさが特別なのだとしたら。期待しても、いいのだろうか。

――自分の気持ちを誤魔化して手を離していると、本当に彼が離れていく日がくる。それが嫌なら、勇気を出して向き合わないといけない。

文字を追っていた手を握り締めた。
彼が離れていってしまう。その言葉の意味を、すぐには理解できない。
彼とはいつも一緒だった。幼い頃、いつも遊んでいたのは彼とで、学校で他に友達ができた後でも、彼と会わない日はなかった。
いつも一緒の帰り道を、一人で帰る時がくる。
当たり前だ。変わらない関係はないのだから。この先も無条件で彼の隣にいられるはずはない。
別れの予感が胸を苦しくさせる。息がうまく吸えず、頭がくらくらした。

「勇気を出せば……」

言葉にしてみるものの、それはとても困難なことのように思えてしまう。途方に暮れながら最後の文字に視線を落とした。

――最後に、後悔はしないで。未来なんて、きっといくらでも変えられるのだから。だから何でもすぐに諦めて、後悔するのだけは止めてほしい。

後悔の文字から目が離せない。
自分もこの先、後悔するのだろうか。そして過去の自分に宛てて、手紙を書くのかもしれない。
深く息を吐いた。手紙を戻そうと四つ折りにして、本に挟む。

「――あれ?」

手紙の隅に、小さく殴り書きのような少し乱れた文字が書かれているのに気づく。この手紙の文字とは違う、見慣れた字。
目を見開いて、文字に触れようとした時だった。

「ここにいたんだ。そろそろ閉館時間だよ」

彼の声がして、咄嗟に本を閉じ振り返る。いつもと変わらない笑顔を浮かべて、彼が近づいてきていた。

「それ、借りるなら早く手続きに行かないと」
「ううん、大丈夫。丁度読み終わった所だから」

曖昧に笑って、本を返しに棚に向かう。心臓が煩いくらいに跳ねて、落ち着かない。
ちらりと見る彼に、変わった所はない。少なくとも自分にはそう見える。それなのにこんなにも苦しいのは、手紙を読んでしまったからだろうか。

「どうしたの?」

本を返しても戻らない自分を不思議に思ったのか、彼が首を傾げて近づいてくる。図書館の静けさがやけに重たく感じる。まるで世界に二人だけ取り残されてしまったような心細さに慌てて頭を振り、何でもないと笑って彼に駆け寄った。

「こら、図書館では走らない」
「ごめん。早く帰りたくなっちゃって」

溜息を吐く彼が手を差し出し、それに迷いなく自分の手を重ねる。繋いだ手が温かい。いつもと同じ、彼との距離。
そう思うのに、息苦しさは続いている。不安が消えなくて、いつもより少しだけ強く彼の手を握った。
彼がこちらを見る。笑顔で誤魔化しながら、繋いでいない手をこっそりと握り締めた。

「何かあった?いつもと違う気がする」
「そう?変わらないと思うけど……ちょっといつもと違うジャンルの本を読んだからかな」

偶然手に取った本の内容など、とっくに頭から抜けている。
代わりに頭の中を占めているのは手紙の内容と、殴り書きの一文だった。
右上がりの少し崩れた字。それは確かに自分の字だった。
書いた覚えはない。そもそもあの手紙も、偶然本を手に取らなければ気づくこともなかっただろう。

――嘘つき。

たった一言。それが何を差しているのかは分からない。
十年前の自分自身に宛てたということか。手紙の内容自体が嘘なのか。
誰が嘘つきで正直なのか。何も分からないから、何も言えない。

「あの、ね。聞いてほしいことがあるの」

ならば嘘つきを探すよりも、嘘にしたくないものを本当にすればいい。

「昨日あげたチョコなんだけどね――」

勇気を出して彼に告げる。そうすれば、少なくとも自分の想いは伝わるから。

誰もいない、夕暮れの帰り道。
いつもと変わらないはずの彼との関係に、一歩だけ踏み込んだ。



20260215 『10年後の私から届いた手紙』

2/15/2026, 5:12:02 PM

――どうしよう。

不安げな聲に、顔を上げた。
時計を見れば、夜の十一時を過ぎている。何かあったのかと、意識を集中させる。
彼女の心の聲は、日に日に強く感じられるようになってきていた。今更意識を集中させる必要はないが、いつの間にか癖になってしまっている自分に苦笑する。
本当ならば、聞くべきではないのだろう。彼女が助けを必要としている時にだけ聞き取れるのならそれが一番だ。そうは思うのに自分のこの生まれ持った能力は儘ならず、それでいいとすら思うようになってしまった。

――割れちゃった。

今にも泣き出しそうなか細い聲。眉を寄せ、カレンダーに視線を向けた。

二月十四日。
明日は土曜日で学校はない。そんなどうでもいいことを思いながらも、日付から目を逸らせない。

「バレンタインか」

思わず呟いた。口の端が持ち上がるのを止められない。
彼女とは明日会う約束をしている。果たして気づかない振りができるのか、彼女が切り出す前に余計なことを言ってしまわないかと、浮ついた思考が止まらない。
割れたというのは、きっとチョコレートのことだろう。また作り直すのか、それとも割れたままのチョコを渡されるのだろうか。
きっと落ち込んでいるのだろう。今すぐ気にするなと連絡をしたいが、それでは聲を聞いていたことが丸わかりだ。バレンタインチョコを楽しみに盗み聞きをしていたようで、恰好がつかない。スマホに伸びようとする手を握り締め、必死に衝動を抑え込む。
もう寝てしまおう。どちらになるのか分からない楽しみはあった方がいい。彼女の聲から意識を逸らしつつ、電気を消してベッドに横になる。
遠足前の子供のように浮かれながら、目を閉じた。

――食べちゃった……どうしよう。

聞き逃せない聲が聞こえた。反射的に目を開け、体を起こす。

「食べた……?」

嫌な予感が胸を過ぎた。

――仕方ないから、忘れた振りをしよう……大丈夫。ずっと忘れてたって思ってれば、きっとバレないはず。

浮かれていた気分が一気に萎む。彼女らしいと言えば彼女らしいが、それでもどうしてという不満が込み上がる。

「明日、どんな顔して会えってんだよ」

苛立ちを溜息と共に吐き出せば、空しさが残ってしまう。
彼女は自分が心を覚れると理解して、忘れた振りをしようとしている。それなら自分も聞いていない振りをしなければ、彼女の努力が台無しになってしまう。
もう一度大きく溜息を吐いて布団を被る。目はすっかり冴えてしまったが、無理矢理に眠ることにした。



「ごめん!待った?」
「別に」

駆け寄る彼女を一瞥し、一言返す。
内心で舌打ちする。機嫌が悪いと思われていないだろうか。いつもならば気にならないことがやけに気になってしまう。

――怒ってる?でもいつもと変わらなそうだし……もしかしてまだ気づいてないのかな。

聞こえてくる聲と、そわそわと落ち着かない彼女の気配に眉が寄る。溜息を吐いて、彼女に視線を向けた。

「あからさまに何かありますみたいな雰囲気を出されても困るんだけど」
「あ、えっと、その……」

途端に視線が彷徨う彼女に、もう一度溜息を吐いてみせる。びくりと肩を揺らすが何かを話す様子はない。彼女の聲もどうしようと繰り返すばかりだ。
このままでは、いつまで経っても何も進まない。仕方がないとポケットに手を入れ、小さな箱を取り出した。

「これやる」
「え……?」

軽く放り投げれば、彼女は慌てたように両手でその箱を受け取った。一応綺麗にラッピングされている箱とこちらを交互に見て、戸惑うように眉を下げた。

「開けてみれば?」
「え、いいの?」
「好きにすればいいだろ」

また不愛想に返してしまった。だが彼女は箱の方が気になる様子で、迷いながらもリボンを解いていく。
丁寧に包装紙を剥がし、箱を開ける。中に入っていた蝶の髪留めを見て目を見開いた。

「これって……」
「この前遊びに行った時、ずっと見てただろ」
「っ、ありがとう」

微笑む彼女からさりげなく視線を逸らす。聞こえる聲はとても嬉しそうで、気を抜けば口元が緩んでしまいそうだ。
折角のバレンタインを何もなく終わらせるのが嫌で別に用意していたものを持ってきたが、喜んでもらえたようで安堵する。別にチョコレートにこだわる必要はなかったと、一人満たされた気持ちで彼女を見た。

「何?気に入らなかった?」
「そんなことはないよ!ただ……」

慌てて否定するものの、さっきまで笑っていた彼女の眉が寄っている。何故プレゼントを貰えたのかが分からず、戸惑っている聲が聞こえてきた。
確かに急すぎただろうか。バレンタインのプレゼントだと伝えてもいなかったと思い出し、やってしまったと密かに息を吐いた。

「今日、バレンタインデーだろ。元々誕生日プレゼントにしようかと思ってたやつだったけど、チョコ代わりにいいかなって持ってきたんだよ」
「え……」

一瞬不思議そうに目を瞬いた彼女は、次の瞬間には泣きそうに顔を顰めて持っていた鞄を漁り始めた。そして中から手のひらサイズの袋を取り出した。

「これっ!」

押し付けられるような形で袋を渡される。可愛らしいピンク色のリボンの巻かれた透明な袋の中には、少し形の崩れたチョコレートやクッキーが入っていた。
明らかに手作りのお菓子に目を瞬く。昨日食べたと言っていたはずなのに、いつ作ったのだろうか。

「ハッピーバレンタイン。驚かそうと思って必死に忘れたとか頭の中で考えてたのに、全然うまくいかなかった」

俯きがちに彼女が言う。何故そんな反応をするのだろうか。訳も分からず手にしたバレンタインのプレゼントを見ていると、泣きそうな彼女の聲が聞こえてきた。

――どうしよう。変なことを考えてたから、私のお誕生日に一緒に過ごしてもらえなくなっちゃった。このまま嫌われちゃったりとかするのかな……。

予想もしていなかった聲に硬直する。嫌うはずなどないのに、彼女は何を考えているのだろうか。
思わず溜息を吐く。びくりと肩を揺らす彼女は、今にも泣き出してしまいそうだ。

「馬鹿なことを考えるのを止めろ。それを覚る俺の気持ちにもなれ」
「でも……」
「まず、俺がお前を嫌いになる訳はないし、お前の誕生日は一か月も先だろうが。その時には別のプレゼントを用意してちゃんと祝ってやるから、それ以上嫌われたくないとか繰り返すな」

手を伸ばして彼女の頭を撫でる。それだけで泣きそうだった顔がふわりとした笑みに変わった。
頭を撫でていた手を取られ、繋がれる。そのまま軽く手を引かれ、隣に並んで歩き出した。

「今日はどこに行くんだ?」
「公園、とかかな。一応味見はしたから大丈夫だとは思うんだけど、チョコとクッキーの感想が聞きたいから」

何気ない振りをしているが、味の感想が気になって仕方がないのだというのが態度から分かる。
相変わらず分かりやすい。堪え切れなかった笑みが浮かんで、袋を見た。

「正直な感想しか言わないから、覚悟しとけよ」

そう言いながら、きゅっと繋いだ手を握る。
素直になれない自分も相変わらずだ。
本当は自分のために作ってくれたお菓子を食べるのがもったいないと思っていることを、いつ彼女に言えるだろうか。



20260214 『バレンタイン』

2/15/2026, 1:23:57 AM

待って。
その一言が言えなかった。
伸ばしかけた手を握り締め、唇を噛んで俯く。

――待ってて。

いつも言われる言葉。重く苦しいだけの呪い。
後ろを振り向くことのない彼は、気づくことはないのだろう。
待つことの苦しさを、不安を。待たせる側はいつだって気づくことはないのだ。

小さく息を吐いた。
顔を上げれば、彼の姿はもうどこにも見えない。いつもと変わらないこと。そしてこれからも変わることはないのだろう。

潮時なのかもしれない。
待つのは嫌いではなかったはずだった。それなのに、今は彼の姿が見えなくなるだけで息がし難くなっていく。
まるで浜に打ち上げられた魚だ。彼という波がなければ呼吸もままならない。

ぽつり。
不意に雨の滴が頬を濡らした。
見上げた空は、黒い雲に覆われている。見ているうちに、ぽつり、ぽつ、と大粒の雨が落ちてくる。
視線を下ろし、手にしていた傘を広げ差した。
途端にざあざあと勢いを増す雨に隠れるように、踵を返す。

待ってて。
その言葉を振り切るように、歩き出す。
もう待たない。会うこともこれきりにしよう。潮が満ちるのを待ち続けては、いつか呼吸ができずに死んでしまう。
傘を差し、俯きながら歩いていく。
お気に入りの長靴が、傘の中で降る雨の滴に濡れていた。



会わないと決めてしまえば、幾分か呼吸が楽になった気がした。
日常の中に、彼がいないだけ。最初は苦しかったそれも、次第に慣れて何も感じなくなっていく。

天気予報は今日も快晴。バターを塗った食パンを齧りながら、テレビに映る晴れのマークを見るともなしに見ていた。
彼を待たなかったあの日、夜中に土砂降りの大雨が降った後は雨は降っていない。窓越しに見える澄んだ青空に、今日はどこに行こうかとぼんやり考える。
公園を気ままに散歩してみようか。街に行ってお店を見て回るのでもいい。
それとも今日は、家の中でゆっくり過ごそうか。
一日の予定をいろいろと考えながら食べ終わった皿を片付け、洗い物を済ませていく。
込み上げる寂しさも、じくじくとした胸の痛みも、もう少しすれば気にもならなくなるはずだ。忘れてしまえば、最初からなかったことと同じになる。
呪文のように何度も自分に言い聞かせて、痛みを吐き出すように深く息を吐いた。

不意に玄関のチャイムが鳴った。

「誰だろ?」

首を傾げながら玄関に向かう。心当たりのない来客に、押し売りだったら嫌だなと少し眉が寄った。

「どちらさまですか?」

玄関越しに声をかけるが返事はない。
誰だろうか。どうすればいいのか分からず立ち竦んでいると、微かに音が聞こえた気がした。
そっと扉に近づき、耳を澄ませる。聞こえた啜り泣く声に、咄嗟に扉を開けていた。

「何で……」

呆然と呟く。伸ばされた腕に引き寄せられ、強く抱きしめられても何も反応ができない。
どうして。何で。疑問がぐるぐると頭の中で回り、体が凍り付いたように動かない。

「――のに」

啜り泣きの合間に聞こえた声に、のろのろと顔を上げる。泣き腫らした赤い目と視線が合って、ずきりと胸の痛みを覚えた。

「待っててって、言ったのに」

泣きながら彼は言う。そのか細い声の響きを、どこかで聞いたことがあるような気がした。
幼い頃、よく聞いていたように思う。腕を伸ばし、滔々と流れ落ちる彼の涙を拭いながら記憶を巡らせる。
確かあの時もよく彼は泣いていた。その涙を止めたくて、約束したのではなかっただろうか。

「待ってるって言ったのに。ちゃんとここにいるよ、置いていかないよって、いつも待っててくれたのに」
「あ……」

涙を拭う手を取られ、彼は小指を絡ませた。
その瞬間、思い出す。行きたくない、置いていかれたくないとぐずる彼に、小指を差し出して約束したのは自分だった。
空を見上げる。晴れ渡る空には雨の気配はない。もう何日も雨は降っていなかった。

「雨を……」
「やだ。もう行かない。離れたくない」

しがみつくように抱き込まれ、息が詰まる。小指が絡んだままの手を解いて彼の胸を叩いて訴えれば、ほんの少し腕の力が緩みほっと息を吐いた。
けれど相変わらず彼が離れていく様子はない。約束を忘れて待たなかった選択を後悔しながら、もう一度彼の頬を伝う涙を拭ってみる。

「ごめん」

彼の目を見ながら謝る。

「約束を忘れてた。だから段々待つのが苦しくなってたの」

一度言葉にしてしまえば、もう止まらない。言いたくて、でも言えなかった思いをぶつけるように言葉が次々と溢れてくる。

「本当は待ってって言いたかった。待っててって言われる度に何も言えなくて、それがとっても寂しかった」

彼は何も言わない。涙はいつの間にか止まり、静かに話を聞いている。
ずっとこのままなら、苦しくも寂しくもないのだろう。ふとそんな滑稽なことを考えてみる。
ただの夢物語。なんだか可笑しくなってきて、小さく笑いながら彼の胸を押した。

「でももう大丈夫。約束を思い出したから、今度はちゃんと待てるよ。だからいってらっしゃい」

けれど彼は離れない。
どうすれば分かってもらえるだろうか。戸惑いながら空を見上げた瞬間、視界が暗転した。

「え……?」

見えない不安に、咄嗟に彼にしがみつく。体の感覚がおかしくなっているのか、やけに体が軽く感じられた。
まるでふわふわとどこかを漂っているみたいだ。それが怖くてさらに強くしがみつけば、彼が小さく笑う気配がした。

「大丈夫。もう目を開けてもいいよ」

言われて、いつの間にか目を閉じていたことに気づいた。だから目の前が暗くなったのだろうか。
そんなことを考えながら、恐る恐る目を開ける。何度か瞬きをして辺りを見回せば、そこは一面真っ白な世界だった。
正確には白というよりも灰色だろうか。困惑して彼を見れば、さっきまでとは違い上機嫌でどこかに向かって進んでいく。

「離れるのは嫌だしね……最初からこうして一緒に行けばよかった」

何も分からない自分を置き去りに、彼はどこまでも進んで行く。鼻歌でも歌い出しそうなほど楽しげで、戸惑うばかりの自分のことなど見えていないようだ。
思わず溜息を吐く。もう一度辺りを見るが、灰色の世界に変化はない。
そっと手を伸ばしてみる。灰色に飲み込まれていく手と触れる冷たい水の感覚に、もう一度溜息が溢れ落ちた。
湿った空気の流れを感じる。よく目を凝らせば、灰色の奥から光が差し込んでいるのが分かる。

ここは雨雲の中だ。
そう理解して、彼の頬に手を伸ばし力任せに抓る。

「痛っ!何、急に」
「急にはこっちのセリフ。待ってるって言ったのに」
「だってもう待たせるのは嫌だし。離れたくないし」

子供のような言い訳に、何度目かの溜息が漏れる。
文句を言いたいが、そうさせたのは自分なのだからあまり強く言うこともできない。
彼に支えられているとはいえ、雲の中にいるという不安が落ち着かなくさせる。きゅっと彼の服を握り締めると、彼が笑う声がした。

――待ってて。絶対に待っててね。ちゃんとここにいてね。

ふと思い出す。彼の最初の待っててという言葉を。
泣きながら何度も繰り返していた。その時の不安そうな声の響きが、さっきの言葉と重なって、ふふと笑みが浮かぶ。

幼い頃、初めて会った時から彼は変わらない。人一倍寂しがりやで泣き虫な、頑固者。
きっとこれから先も、雨が降る時にはこうして連れて行かれることになるのだろう。なるべく早く、彼と自分を安心させる案を考えなければ。
梅雨時が来たら、四六時中彼に連れまわされる未来を予想して、笑みが引きつった。
何があるだろうか。どうすれば待っててという言葉に不安を覚えなくなるだろうか。
考えて、一つだけ思いつく。思いついて、頬が熱くなるのを感じた。

待つ場所を家にすれば。戻ってくる場所を、帰る場所にしてしまえば。

ちらりと彼を見る。上機嫌な彼はまだこちらには気づいていない。
彼はどんな反応をするだろうか。不安と期待を抱きながら、一つ深呼吸をする。

「どうしたの?」

気づいた彼がこちらを向く。
恥ずかしい。けれど言いたい。
もう一度深呼吸をして、彼の服を握り締める。
そして、ゆっくりと口を開いた。



20260213 『待ってて』

2/13/2026, 4:10:07 PM

居間から聞こえる賑やかな声に、燈里《あかり》は小さく溜息を吐いた。
無言で戸を開ける。途端にはっきりと聞こえる二人分の声に痛む頭を抑えた。

「だから迷惑だと言ってるだろうが!」
「意地悪だわ。燈里はそんなこと一言も言わないもの。そんな甲斐性なし、きっとすぐに捨てられてしまうわね」
「燈里が俺を手放す訳ないだろうが。お前みたいな優しさにつけ込もうとする賤しい奴と一緒にするな」
「酷いわ!燈里に言いつけてやるんだからっ!」
「いい加減にして、二人とも」

白熱する冬玄《かずとら》と東の面の言葉の応酬に、燈里は堪らず声を上げる。
途端に静かになる二人を前に、燈里はもう一度疲れたように溜息を吐いた。


あれから数日が過ぎた。
西の面の接触は一度もない。燈里たちの前から姿を消した西の面は、その後祀られていた社に籠ってしまったのだという。
社は柊で囲われ、完全に外界との接触を断ってしまっている。その社の四方に方相氏は柊の枝を立て、二重に閉じたらしい。
この先当分は、西の面が出てくることはない。先日訪れた夏煉《かれん》がそう言っていた。
日常が戻ってくる。それは喜ばしいことなのだろうが、燈里の心境は複雑だった。西の面は堕ちたまま、共にいる鈴《すず》という名の少女も、方相氏たちも解放されることはないからだ。そして当分という曖昧な期間も、燈里を不安にさせる。それはいつまでなのだろうか。一年か、十年か。あるいはそれ以上か、それ以下なのか。夏煉は詳細を語らず、燈里も聞くことはしなかった。
聞かずとも、それほど長い時間ではないのだろうと、燈里は理解している。誰も足を踏み入れなかったはずの山奥が人の手によって切り開かれ、方相氏たちの施した封が解けたように、いつかあの社も人の手によって取り壊される時がくるのだろう。
社を失った後、西の面がどこに行くのか、燈里には検討がつかない。そしておそらく、それは夏煉たちも同じだろう。その時が来たとしたら、西の行方は今度こそ分からないままとなるのだろう。


「燈里!北が酷いことを言うのよ。私のことをのけ者にするの」
「許可なく家に上がり込んでいるからだろうが。というか、なんで当然のようにここにいるんだよ」

燈里に迫る勢いで東の面が近寄ろうとするのを、冬玄が眉を顰めながら引き留める。
日常に戻り始めた日々に落とされた変化。あれから事あるごとに、東の面が燈里の家を訪れるようになっていた。

「だって燈里のことが気に入ったのですもの。仲良くなりたいだけなのに、どうして北は邪魔をするのかしら」

腰に手を当て、東の面が不機嫌に声を上げる。
今の彼女は面だけでなく、着物姿の長い黒髪の少女の姿を取っていた。ひび割れあちらこちらが欠けていた面は、燈里と過ごし彼女との縁を深めるにつれ、修復が進んでいるようだ。

「燈里の信仰を糧にしているのを、気に入ったの一言で誤魔化そうとするな。初対面で燈里を夢に引きずり込んだだけでなく、危害を加えようとしたこと、忘れたとは言わせんぞ」
「あら、気に入ったのは本当のことよ。それに私は、燈里になら神でなくただの妖として認識されても文句は言わないわ」

信仰は燈里の元にくる理由ではないと暗に告げ、東の面は冬玄の腕を振り解いて燈里の腕に抱き着いた。

「今日は何を見てきたんですか」

苦笑しつつ、燈里は東の面に問いかける。
西の面を追って外に出た東の面にとって、この辺りは初めて見るものばかりのようだ。しばらくは長年繋ぎ留めていたことによる消耗と、西の面の抵抗で出来た傷により動けなかったようだが、最近では周囲を自由に見て回っているらしい。
鉄の馬を見た。空を飛ぶ鉄の鳥を見た。土や石ではない大地。行き交う人々が身に纏っているのは和装ではなく洋装だった。
事あるごとに家を訪れる東の面を燈里が拒めないのは、目を煌めかせながら無邪気に語るその様をとても可愛らしいと思ってしまっているからだ。幼い子供の目線で世界を見て、それを誰かに伝えたいという東の面の純粋さに羨ましさすら感じてしまう。
だが、今回は違うらしい。どこか悲しげに微笑み、東の面はゆるゆると首を振る。

「今日はお別れを言いに来たのよ。私、南の手伝いであちこちに行くことにしたから」

燈里は思わず息を呑んだ。
南の手伝い。つまりは堕ちてしまった西の面を元に戻す方法を探しに行くのだろう。
燈里は暫く東の面を見つめ、そっと微笑んだ。

「さよならは言いません。きっとすぐに会えるでしょうから」
「そうね。燈里は鈴《すず》に約束してくれたものね……ありがとう」

夢という媒介を通して燈里は鈴と出会い、終わりを望む彼女にささやかな可能性という名の希望を伝えた。
夏煉のように、西に面を戻す方法を探すのだと。あるのか分からないそれを、けれども鈴は信じ、今も西の腕の中で眠っているのだろう。

「さて、そろそろ行かなくてはね。時間は待ってはくれないもの」

そう言って、満面の笑顔で東は抱き着いていた燈里の腕を離す。

「またね!」

数歩離れ大きく手を振ると東の面の姿は柔らかな風と共に揺らぎ、霞んで見えなくなってしまった。
風が燈里の髪を揺らし、外へと駆け抜けていく。途端に静かになった居間で、冬玄が疲れたように溜息を吐いた。

「ようやくいなくなったか。最後まで煩いやつだった」
「そんなこと言わないの」

側に来て抱きしめる冬玄を窘め、燈里は息を吐く。
東の面の騒々しさを嫌っているような態度を見せながらも、その実ただ冬玄は燈里を取られてしまうのが嫌なのだ。以前楓《かえで》に言われたことを思い出し、頬を軽く染めながら燈里は冬玄の背に腕を回す。

「燈里」

愛おしげな囁き。目を細め、冬玄は燈里の頬を包み目を合わせた。
顔が近づく。燈里は静かに目を閉じ、唇が触れ合う。
その瞬間。

「そこから先は、お子様がいない時とか、寝た後にやってくれないかな」

呆れた楓の声に、燈里と冬玄は反射的に距離を取った。

「か、楓っ!?」
「わたしもいるけど?」
「睦月《むつき》!」

学校帰りなのだろう。睦月がどこか不機嫌そうにただいまと声をかける。固まる二人を一瞥し、足音荒く二階へと上がっていってしまった。

「ただでさえ、子供に聞かせたくない底辺の言い争いをしている奴らがいて足止めを食らってたっていうのに、そのまま二人の世界を作らないでほしいな。時と場所を考えてくれるかい?」
「別に……気にしなきゃいいだろうが」

眉を寄せ呟いた冬玄を、楓は目を細めて見つめる。そのまま燈里へと視線を向け、態とらしく小首を傾げ笑ってみせた。

「燈里はいいの?睦月に見られても、本当に気にしない?」
「――っ!」

一瞬で燈里の顔が真っ赤に染まる。睦月に見られた後の気まずさを想像しただけで、声にならない悲鳴を上げた。

「時と場所を考えようね」

繰り返されて、燈里は涙目になりながらも頷いた。八つ当たり気味に冬玄を睨み、居間を出ていく。
階段を駆け上がる足音を聞きながら、楓は呆れたように溜息を吐いた。

「確かに暦の上では春が来ているけどさ。ちょっと気が緩みすぎているんじゃないかい」

何も言えずに冬玄は視線を逸らす。
偶然見た窓の外は、雪の白が木々や大地を染めている。

立春は過ぎたが、春はまだ遠い。春告げ鳥は鳴かず、目覚めには至らない。

消える直前の、小さく丸まった西の面の背を思い出しながら、冬玄は無意識に右の薬指に嵌るリングに触れていた。



20260212 『伝えたい』

2/12/2026, 1:17:05 PM

「ふざけるな」

低く押し殺したような声がした。
感じるのは強い怒り。伝わる感情と共に刺すような冷気を感じ、燈里《あかり》は目を開けた。

「楓《かえで》……?」

顔を覗き込む楓と目が合う。燈里が目を覚ましたことで表情を幾分か和らげた楓は小さく息を吐いた。

「少しの間、意識を失っていたよ。穢れに当てられたようだけど、目覚めてよかった」

体を起こす燈里の背を支え、楓は言う。まだ意識がはっきりとしないのか、燈里はぼんやりと頷きながら、視線を彷徨わせた。
傍らには、未だに目を覚まさない睦月《むつき》の姿。楓の背後、蔵の入口に立ち塞がるようにヒガタがいた。

「楓」

目覚める直前に聞いた声を思い出しながら、燈里は楓を呼ぶ。彼女の声ではなかった。聞き馴染んだあの声の主は、外にいるのだろう。

「駄目だよ、燈里」

立ちあがろうとする燈里を押し留め、楓は首を振る。

「また穢れに当てられて倒れるだけだ。今は大人しくここで待つしかない」
「楓」
「駄目だ。燈里がまた倒れたら、今度こそアレがどうなるか分からない」

背後を一瞥し、楓は苦く呟いた。燈里も外へと視線を向け、眉を顰める。
ほんの一部しか見えないものの、外は明らかに様子が変わっていた。白一色。空も地面も変わらないその白は、雪なのだろうか。
ここにくる前には、雪は然程積もってはいなかった。硬い土や枯れた木々の燻んだ色を思いながら雪に染められた理由を考え、息を呑む。
同時に外で声がした。

「何を荒ぶる。鈴《すず》の望みに応えることを、咎められる理由はないだろう」
「いい加減にしろ!」

感情の乏しい声に、怒りを露わにした声が叫ぶように答える。

「死者を冒涜し、生者を手にかけるなど許される訳がないと、何度言えば分かる!?」
「鈴のためだ。望みに応えるには必要なことだ」
「いい加減にしろと言っている!その腕にあるのは、もはや人間ではないだろうが」

冬玄《かずとら》と西の面の声だと気づいた瞬間、燈里は夢で交わした約束を思い出した。

「っ、燈里!」

楓を押し除け、立ち上がる。ヒガタの隣に歩み寄り外を見れば、一面雪と氷に覆われた世界で冬玄と西の面が対峙していた。
しゃん、とヒガタが錫杖を鳴らす。これより先には出るなということだろう。燈里は頷いて、一歩だけ後ろに下がる。
それを見て、楓はそれ以上燈里を止めることはなかった。外の二人を警戒しながらも何も言わず、燈里の背後に控える。

「人間は人間と共に在るのが良い。故に鈴も人間と共に在らねばならない。鈴の生まれ育ったこの場所で、友と過ごせば寂しくはなくなるだろう」

淡々と告げる西の面の言葉に、燈里は眉を寄せた。
先程から会話が噛み合っていない。言葉を交わしているというのに、言葉が届いていないように思えた。

「どうすれば……」

このままでは堂々巡だ、冬玄もそれを感じているのか、険しさの中に焦りが浮かんでいる。
西の面に言葉を届ける方法を考えながら、燈里は声を上げようとした時だった。

――鬼は外。

子供の声と共に、四人の方相氏が西の面を取り囲んだ。
皆傷だらけで、方相氏の四つ目の面も割れている。特に西の面の正面に立つ方相氏の傷は誰よりも深く、面が半分に割れてしまっていた。

「また西の邪魔をするのか」

苛立ちを露わにした声音。西の面から伸びる影が歪に蠢いた。

「何故、鈴を厭う。何故、故郷から追い出し封じる。貴殿らも、東も、南も……北も。何故」

呟く言葉は剣呑さを孕み出す。蠢く影が鋭い棘となり形を成し始める。

「やめて……」

方相氏たちを傷つけたのは誰なのかを理解して、燈里は呻くように呟いた。方相氏の面が割れ、子供たちの素顔が見えていても西の面の反応はない。腕に抱く少女とよく似た顔をした目の前の方相氏のことも見えていないのだろう。
止めなければならない。だが、言葉は届かない。
歯痒さにきつく手を握りしめる。無意識に手のひらに爪を立て、じくりとした痛みを覚えた。

「え……?」

ふと、痛みが違和感に変わる。
握りしめた手を解く。爪痕の代わりに白い花が一輪、潰れることなくそこにあった。

「っ、ヒガタ!」

弾かれたように燈里はヒガタを呼ぶ。
それだけで全てを察し、ヒガタは燈里へと手を差し伸べた。
燈里は迷わずヒガタの手に白い花ごと手を重ね、息を深く吸う。
しゃん、と錫杖が鳴る。
手の中で花が熱を持つのを感じながら、燈里は西の面を見据え、声を上げた。

「これ以上、子供たちを泣かさないでっ!」
「――泣かせる?」

西の面の動きが止まった。
困惑した声。蠢く影が形を解かし、沈んでいく。

「鈴を泣かせるのは西ではない。方相氏や東たちだ。鈴を一人にし、この場所から追い遣り泣かせている」

ゆるゆると頭を振り、燈里の言葉を否定する。だがその言葉には覇気がない。
言葉が届いている。それを確信し、燈里は逸る気持ちを抑えながらゆっくりと口を開いた。

「その子のお姉さんの名前を覚えていますか?」
「鈴の姉?覚えている。西は忘れない」

そう言いながらも、それ以上言葉は紡がれない。戸惑いに気配が揺れ、次第にそれは焦燥感に変わっていくのが目に見えて分かった。

「何故……あの子を覚えている。忘れてはいないというのに、名が言葉にならない」
「社務所の奥の部屋に、四つ目の方相氏の面と四つの黒塗りされた木札のことは知っていますか?」

びくり、と西の面の肩が震えた。視線が彷徨い、正面に立つ方相氏の割れた面から覗く素顔を認め、小さく呻く。

「ようやく気づいたか」

呆れたように冬玄は呟いた。深く溜息を吐き、纏う激情は周囲の氷と共に溶けていく。

「皆が変わったのだと思っていた。だが変わっていたのは西の方か……鬼は西だったのか」

呟いて西の面は崩れ落ちた。
その様子を見ていた方相氏たちは、しばらくして柊を手に持ち西の面に近づいていく。

「鬼は外。鬼は外」

正面の方相氏が声を上げる。それに続いて他の方相氏たちも声を上げた。

「村から外へ、遠くへ追いやれ」
「柊立てて、転じて内へ」
「四方を打ちて、閉じ込めよ」

柊を掲げる。
正面の方相氏がもう一度声を上げようとした時だった。

「すまない。だが、鈴を死なせる訳にはいかない」

俯いていた西の面が顔を上げた。
息を呑む方相氏たちの目の前で、その姿は影に沈んでいく。
気づき止めようとした時にはすでに遅く。

西の面の姿は、影と共に跡形もなくその場から消え去っていた。



20260211 『この場所で』

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