sairo

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待って。
その一言が言えなかった。
伸ばしかけた手を握り締め、唇を噛んで俯く。

――待ってて。

いつも言われる言葉。重く苦しいだけの呪い。
後ろを振り向くことのない彼は、気づくことはないのだろう。
待つことの苦しさを、不安を。待たせる側はいつだって気づくことはないのだ。

小さく息を吐いた。
顔を上げれば、彼の姿はもうどこにも見えない。いつもと変わらないこと。そしてこれからも変わることはないのだろう。

潮時なのかもしれない。
待つのは嫌いではなかったはずだった。それなのに、今は彼の姿が見えなくなるだけで息がし難くなっていく。
まるで浜に打ち上げられた魚だ。彼という波がなければ呼吸もままならない。

ぽつり。
不意に雨の滴が頬を濡らした。
見上げた空は、黒い雲に覆われている。見ているうちに、ぽつり、ぽつ、と大粒の雨が落ちてくる。
視線を下ろし、手にしていた傘を広げ差した。
途端にざあざあと勢いを増す雨に隠れるように、踵を返す。

待ってて。
その言葉を振り切るように、歩き出す。
もう待たない。会うこともこれきりにしよう。潮が満ちるのを待ち続けては、いつか呼吸ができずに死んでしまう。
傘を差し、俯きながら歩いていく。
お気に入りの長靴が、傘の中で降る雨の滴に濡れていた。



会わないと決めてしまえば、幾分か呼吸が楽になった気がした。
日常の中に、彼がいないだけ。最初は苦しかったそれも、次第に慣れて何も感じなくなっていく。

天気予報は今日も快晴。バターを塗った食パンを齧りながら、テレビに映る晴れのマークを見るともなしに見ていた。
彼を待たなかったあの日、夜中に土砂降りの大雨が降った後は雨は降っていない。窓越しに見える澄んだ青空に、今日はどこに行こうかとぼんやり考える。
公園を気ままに散歩してみようか。街に行ってお店を見て回るのでもいい。
それとも今日は、家の中でゆっくり過ごそうか。
一日の予定をいろいろと考えながら食べ終わった皿を片付け、洗い物を済ませていく。
込み上げる寂しさも、じくじくとした胸の痛みも、もう少しすれば気にもならなくなるはずだ。忘れてしまえば、最初からなかったことと同じになる。
呪文のように何度も自分に言い聞かせて、痛みを吐き出すように深く息を吐いた。

不意に玄関のチャイムが鳴った。

「誰だろ?」

首を傾げながら玄関に向かう。心当たりのない来客に、押し売りだったら嫌だなと少し眉が寄った。

「どちらさまですか?」

玄関越しに声をかけるが返事はない。
誰だろうか。どうすればいいのか分からず立ち竦んでいると、微かに音が聞こえた気がした。
そっと扉に近づき、耳を澄ませる。聞こえた啜り泣く声に、咄嗟に扉を開けていた。

「何で……」

呆然と呟く。伸ばされた腕に引き寄せられ、強く抱きしめられても何も反応ができない。
どうして。何で。疑問がぐるぐると頭の中で回り、体が凍り付いたように動かない。

「――のに」

啜り泣きの合間に聞こえた声に、のろのろと顔を上げる。泣き腫らした赤い目と視線が合って、ずきりと胸の痛みを覚えた。

「待っててって、言ったのに」

泣きながら彼は言う。そのか細い声の響きを、どこかで聞いたことがあるような気がした。
幼い頃、よく聞いていたように思う。腕を伸ばし、滔々と流れ落ちる彼の涙を拭いながら記憶を巡らせる。
確かあの時もよく彼は泣いていた。その涙を止めたくて、約束したのではなかっただろうか。

「待ってるって言ったのに。ちゃんとここにいるよ、置いていかないよって、いつも待っててくれたのに」
「あ……」

涙を拭う手を取られ、彼は小指を絡ませた。
その瞬間、思い出す。行きたくない、置いていかれたくないとぐずる彼に、小指を差し出して約束したのは自分だった。
空を見上げる。晴れ渡る空には雨の気配はない。もう何日も雨は降っていなかった。

「雨を……」
「やだ。もう行かない。離れたくない」

しがみつくように抱き込まれ、息が詰まる。小指が絡んだままの手を解いて彼の胸を叩いて訴えれば、ほんの少し腕の力が緩みほっと息を吐いた。
けれど相変わらず彼が離れていく様子はない。約束を忘れて待たなかった選択を後悔しながら、もう一度彼の頬を伝う涙を拭ってみる。

「ごめん」

彼の目を見ながら謝る。

「約束を忘れてた。だから段々待つのが苦しくなってたの」

一度言葉にしてしまえば、もう止まらない。言いたくて、でも言えなかった思いをぶつけるように言葉が次々と溢れてくる。

「本当は待ってって言いたかった。待っててって言われる度に何も言えなくて、それがとっても寂しかった」

彼は何も言わない。涙はいつの間にか止まり、静かに話を聞いている。
ずっとこのままなら、苦しくも寂しくもないのだろう。ふとそんな滑稽なことを考えてみる。
ただの夢物語。なんだか可笑しくなってきて、小さく笑いながら彼の胸を押した。

「でももう大丈夫。約束を思い出したから、今度はちゃんと待てるよ。だからいってらっしゃい」

けれど彼は離れない。
どうすれば分かってもらえるだろうか。戸惑いながら空を見上げた瞬間、視界が暗転した。

「え……?」

見えない不安に、咄嗟に彼にしがみつく。体の感覚がおかしくなっているのか、やけに体が軽く感じられた。
まるでふわふわとどこかを漂っているみたいだ。それが怖くてさらに強くしがみつけば、彼が小さく笑う気配がした。

「大丈夫。もう目を開けてもいいよ」

言われて、いつの間にか目を閉じていたことに気づいた。だから目の前が暗くなったのだろうか。
そんなことを考えながら、恐る恐る目を開ける。何度か瞬きをして辺りを見回せば、そこは一面真っ白な世界だった。
正確には白というよりも灰色だろうか。困惑して彼を見れば、さっきまでとは違い上機嫌でどこかに向かって進んでいく。

「離れるのは嫌だしね……最初からこうして一緒に行けばよかった」

何も分からない自分を置き去りに、彼はどこまでも進んで行く。鼻歌でも歌い出しそうなほど楽しげで、戸惑うばかりの自分のことなど見えていないようだ。
思わず溜息を吐く。もう一度辺りを見るが、灰色の世界に変化はない。
そっと手を伸ばしてみる。灰色に飲み込まれていく手と触れる冷たい水の感覚に、もう一度溜息が溢れ落ちた。
湿った空気の流れを感じる。よく目を凝らせば、灰色の奥から光が差し込んでいるのが分かる。

ここは雨雲の中だ。
そう理解して、彼の頬に手を伸ばし力任せに抓る。

「痛っ!何、急に」
「急にはこっちのセリフ。待ってるって言ったのに」
「だってもう待たせるのは嫌だし。離れたくないし」

子供のような言い訳に、何度目かの溜息が漏れる。
文句を言いたいが、そうさせたのは自分なのだからあまり強く言うこともできない。
彼に支えられているとはいえ、雲の中にいるという不安が落ち着かなくさせる。きゅっと彼の服を握り締めると、彼が笑う声がした。

――待ってて。絶対に待っててね。ちゃんとここにいてね。

ふと思い出す。彼の最初の待っててという言葉を。
泣きながら何度も繰り返していた。その時の不安そうな声の響きが、さっきの言葉と重なって、ふふと笑みが浮かぶ。

幼い頃、初めて会った時から彼は変わらない。人一倍寂しがりやで泣き虫な、頑固者。
きっとこれから先も、雨が降る時にはこうして連れて行かれることになるのだろう。なるべく早く、彼と自分を安心させる案を考えなければ。
梅雨時が来たら、四六時中彼に連れまわされる未来を予想して、笑みが引きつった。
何があるだろうか。どうすれば待っててという言葉に不安を覚えなくなるだろうか。
考えて、一つだけ思いつく。思いついて、頬が熱くなるのを感じた。

待つ場所を家にすれば。戻ってくる場所を、帰る場所にしてしまえば。

ちらりと彼を見る。上機嫌な彼はまだこちらには気づいていない。
彼はどんな反応をするだろうか。不安と期待を抱きながら、一つ深呼吸をする。

「どうしたの?」

気づいた彼がこちらを向く。
恥ずかしい。けれど言いたい。
もう一度深呼吸をして、彼の服を握り締める。
そして、ゆっくりと口を開いた。



20260213 『待ってて』

2/15/2026, 1:23:57 AM