待って。
その一言が言えなかった。
伸ばしかけた手を握り締め、唇を噛んで俯く。
――待ってて。
いつも言われる言葉。重く苦しいだけの呪い。
後ろを振り向くことのない彼は、気づくことはないのだろう。
待つことの苦しさを、不安を。待たせる側はいつだって気づくことはないのだ。
小さく息を吐いた。
顔を上げれば、彼の姿はもうどこにも見えない。いつもと変わらないこと。そしてこれからも変わることはないのだろう。
潮時なのかもしれない。
待つのは嫌いではなかったはずだった。それなのに、今は彼の姿が見えなくなるだけで息がし難くなっていく。
まるで浜に打ち上げられた魚だ。彼という波がなければ呼吸もままならない。
ぽつり。
不意に雨の滴が頬を濡らした。
見上げた空は、黒い雲に覆われている。見ているうちに、ぽつり、ぽつ、と大粒の雨が落ちてくる。
視線を下ろし、手にしていた傘を広げ差した。
途端にざあざあと勢いを増す雨に隠れるように、踵を返す。
待ってて。
その言葉を振り切るように、歩き出す。
もう待たない。会うこともこれきりにしよう。潮が満ちるのを待ち続けては、いつか呼吸ができずに死んでしまう。
傘を差し、俯きながら歩いていく。
お気に入りの長靴が、傘の中で降る雨の滴に濡れていた。
会わないと決めてしまえば、幾分か呼吸が楽になった気がした。
日常の中に、彼がいないだけ。最初は苦しかったそれも、次第に慣れて何も感じなくなっていく。
天気予報は今日も快晴。バターを塗った食パンを齧りながら、テレビに映る晴れのマークを見るともなしに見ていた。
彼を待たなかったあの日、夜中に土砂降りの大雨が降った後は雨は降っていない。窓越しに見える澄んだ青空に、今日はどこに行こうかとぼんやり考える。
公園を気ままに散歩してみようか。街に行ってお店を見て回るのでもいい。
それとも今日は、家の中でゆっくり過ごそうか。
一日の予定をいろいろと考えながら食べ終わった皿を片付け、洗い物を済ませていく。
込み上げる寂しさも、じくじくとした胸の痛みも、もう少しすれば気にもならなくなるはずだ。忘れてしまえば、最初からなかったことと同じになる。
呪文のように何度も自分に言い聞かせて、痛みを吐き出すように深く息を吐いた。
不意に玄関のチャイムが鳴った。
「誰だろ?」
首を傾げながら玄関に向かう。心当たりのない来客に、押し売りだったら嫌だなと少し眉が寄った。
「どちらさまですか?」
玄関越しに声をかけるが返事はない。
誰だろうか。どうすればいいのか分からず立ち竦んでいると、微かに音が聞こえた気がした。
そっと扉に近づき、耳を澄ませる。聞こえた啜り泣く声に、咄嗟に扉を開けていた。
「何で……」
呆然と呟く。伸ばされた腕に引き寄せられ、強く抱きしめられても何も反応ができない。
どうして。何で。疑問がぐるぐると頭の中で回り、体が凍り付いたように動かない。
「――のに」
啜り泣きの合間に聞こえた声に、のろのろと顔を上げる。泣き腫らした赤い目と視線が合って、ずきりと胸の痛みを覚えた。
「待っててって、言ったのに」
泣きながら彼は言う。そのか細い声の響きを、どこかで聞いたことがあるような気がした。
幼い頃、よく聞いていたように思う。腕を伸ばし、滔々と流れ落ちる彼の涙を拭いながら記憶を巡らせる。
確かあの時もよく彼は泣いていた。その涙を止めたくて、約束したのではなかっただろうか。
「待ってるって言ったのに。ちゃんとここにいるよ、置いていかないよって、いつも待っててくれたのに」
「あ……」
涙を拭う手を取られ、彼は小指を絡ませた。
その瞬間、思い出す。行きたくない、置いていかれたくないとぐずる彼に、小指を差し出して約束したのは自分だった。
空を見上げる。晴れ渡る空には雨の気配はない。もう何日も雨は降っていなかった。
「雨を……」
「やだ。もう行かない。離れたくない」
しがみつくように抱き込まれ、息が詰まる。小指が絡んだままの手を解いて彼の胸を叩いて訴えれば、ほんの少し腕の力が緩みほっと息を吐いた。
けれど相変わらず彼が離れていく様子はない。約束を忘れて待たなかった選択を後悔しながら、もう一度彼の頬を伝う涙を拭ってみる。
「ごめん」
彼の目を見ながら謝る。
「約束を忘れてた。だから段々待つのが苦しくなってたの」
一度言葉にしてしまえば、もう止まらない。言いたくて、でも言えなかった思いをぶつけるように言葉が次々と溢れてくる。
「本当は待ってって言いたかった。待っててって言われる度に何も言えなくて、それがとっても寂しかった」
彼は何も言わない。涙はいつの間にか止まり、静かに話を聞いている。
ずっとこのままなら、苦しくも寂しくもないのだろう。ふとそんな滑稽なことを考えてみる。
ただの夢物語。なんだか可笑しくなってきて、小さく笑いながら彼の胸を押した。
「でももう大丈夫。約束を思い出したから、今度はちゃんと待てるよ。だからいってらっしゃい」
けれど彼は離れない。
どうすれば分かってもらえるだろうか。戸惑いながら空を見上げた瞬間、視界が暗転した。
「え……?」
見えない不安に、咄嗟に彼にしがみつく。体の感覚がおかしくなっているのか、やけに体が軽く感じられた。
まるでふわふわとどこかを漂っているみたいだ。それが怖くてさらに強くしがみつけば、彼が小さく笑う気配がした。
「大丈夫。もう目を開けてもいいよ」
言われて、いつの間にか目を閉じていたことに気づいた。だから目の前が暗くなったのだろうか。
そんなことを考えながら、恐る恐る目を開ける。何度か瞬きをして辺りを見回せば、そこは一面真っ白な世界だった。
正確には白というよりも灰色だろうか。困惑して彼を見れば、さっきまでとは違い上機嫌でどこかに向かって進んでいく。
「離れるのは嫌だしね……最初からこうして一緒に行けばよかった」
何も分からない自分を置き去りに、彼はどこまでも進んで行く。鼻歌でも歌い出しそうなほど楽しげで、戸惑うばかりの自分のことなど見えていないようだ。
思わず溜息を吐く。もう一度辺りを見るが、灰色の世界に変化はない。
そっと手を伸ばしてみる。灰色に飲み込まれていく手と触れる冷たい水の感覚に、もう一度溜息が溢れ落ちた。
湿った空気の流れを感じる。よく目を凝らせば、灰色の奥から光が差し込んでいるのが分かる。
ここは雨雲の中だ。
そう理解して、彼の頬に手を伸ばし力任せに抓る。
「痛っ!何、急に」
「急にはこっちのセリフ。待ってるって言ったのに」
「だってもう待たせるのは嫌だし。離れたくないし」
子供のような言い訳に、何度目かの溜息が漏れる。
文句を言いたいが、そうさせたのは自分なのだからあまり強く言うこともできない。
彼に支えられているとはいえ、雲の中にいるという不安が落ち着かなくさせる。きゅっと彼の服を握り締めると、彼が笑う声がした。
――待ってて。絶対に待っててね。ちゃんとここにいてね。
ふと思い出す。彼の最初の待っててという言葉を。
泣きながら何度も繰り返していた。その時の不安そうな声の響きが、さっきの言葉と重なって、ふふと笑みが浮かぶ。
幼い頃、初めて会った時から彼は変わらない。人一倍寂しがりやで泣き虫な、頑固者。
きっとこれから先も、雨が降る時にはこうして連れて行かれることになるのだろう。なるべく早く、彼と自分を安心させる案を考えなければ。
梅雨時が来たら、四六時中彼に連れまわされる未来を予想して、笑みが引きつった。
何があるだろうか。どうすれば待っててという言葉に不安を覚えなくなるだろうか。
考えて、一つだけ思いつく。思いついて、頬が熱くなるのを感じた。
待つ場所を家にすれば。戻ってくる場所を、帰る場所にしてしまえば。
ちらりと彼を見る。上機嫌な彼はまだこちらには気づいていない。
彼はどんな反応をするだろうか。不安と期待を抱きながら、一つ深呼吸をする。
「どうしたの?」
気づいた彼がこちらを向く。
恥ずかしい。けれど言いたい。
もう一度深呼吸をして、彼の服を握り締める。
そして、ゆっくりと口を開いた。
20260213 『待ってて』
居間から聞こえる賑やかな声に、燈里《あかり》は小さく溜息を吐いた。
無言で戸を開ける。途端にはっきりと聞こえる二人分の声に痛む頭を抑えた。
「だから迷惑だと言ってるだろうが!」
「意地悪だわ。燈里はそんなこと一言も言わないもの。そんな甲斐性なし、きっとすぐに捨てられてしまうわね」
「燈里が俺を手放す訳ないだろうが。お前みたいな優しさにつけ込もうとする賤しい奴と一緒にするな」
「酷いわ!燈里に言いつけてやるんだからっ!」
「いい加減にして、二人とも」
白熱する冬玄《かずとら》と東の面の言葉の応酬に、燈里は堪らず声を上げる。
途端に静かになる二人を前に、燈里はもう一度疲れたように溜息を吐いた。
あれから数日が過ぎた。
西の面の接触は一度もない。燈里たちの前から姿を消した西の面は、その後祀られていた社に籠ってしまったのだという。
社は柊で囲われ、完全に外界との接触を断ってしまっている。その社の四方に方相氏は柊の枝を立て、二重に閉じたらしい。
この先当分は、西の面が出てくることはない。先日訪れた夏煉《かれん》がそう言っていた。
日常が戻ってくる。それは喜ばしいことなのだろうが、燈里の心境は複雑だった。西の面は堕ちたまま、共にいる鈴《すず》という名の少女も、方相氏たちも解放されることはないからだ。そして当分という曖昧な期間も、燈里を不安にさせる。それはいつまでなのだろうか。一年か、十年か。あるいはそれ以上か、それ以下なのか。夏煉は詳細を語らず、燈里も聞くことはしなかった。
聞かずとも、それほど長い時間ではないのだろうと、燈里は理解している。誰も足を踏み入れなかったはずの山奥が人の手によって切り開かれ、方相氏たちの施した封が解けたように、いつかあの社も人の手によって取り壊される時がくるのだろう。
社を失った後、西の面がどこに行くのか、燈里には検討がつかない。そしておそらく、それは夏煉たちも同じだろう。その時が来たとしたら、西の行方は今度こそ分からないままとなるのだろう。
「燈里!北が酷いことを言うのよ。私のことをのけ者にするの」
「許可なく家に上がり込んでいるからだろうが。というか、なんで当然のようにここにいるんだよ」
燈里に迫る勢いで東の面が近寄ろうとするのを、冬玄が眉を顰めながら引き留める。
日常に戻り始めた日々に落とされた変化。あれから事あるごとに、東の面が燈里の家を訪れるようになっていた。
「だって燈里のことが気に入ったのですもの。仲良くなりたいだけなのに、どうして北は邪魔をするのかしら」
腰に手を当て、東の面が不機嫌に声を上げる。
今の彼女は面だけでなく、着物姿の長い黒髪の少女の姿を取っていた。ひび割れあちらこちらが欠けていた面は、燈里と過ごし彼女との縁を深めるにつれ、修復が進んでいるようだ。
「燈里の信仰を糧にしているのを、気に入ったの一言で誤魔化そうとするな。初対面で燈里を夢に引きずり込んだだけでなく、危害を加えようとしたこと、忘れたとは言わせんぞ」
「あら、気に入ったのは本当のことよ。それに私は、燈里になら神でなくただの妖として認識されても文句は言わないわ」
信仰は燈里の元にくる理由ではないと暗に告げ、東の面は冬玄の腕を振り解いて燈里の腕に抱き着いた。
「今日は何を見てきたんですか」
苦笑しつつ、燈里は東の面に問いかける。
西の面を追って外に出た東の面にとって、この辺りは初めて見るものばかりのようだ。しばらくは長年繋ぎ留めていたことによる消耗と、西の面の抵抗で出来た傷により動けなかったようだが、最近では周囲を自由に見て回っているらしい。
鉄の馬を見た。空を飛ぶ鉄の鳥を見た。土や石ではない大地。行き交う人々が身に纏っているのは和装ではなく洋装だった。
事あるごとに家を訪れる東の面を燈里が拒めないのは、目を煌めかせながら無邪気に語るその様をとても可愛らしいと思ってしまっているからだ。幼い子供の目線で世界を見て、それを誰かに伝えたいという東の面の純粋さに羨ましさすら感じてしまう。
だが、今回は違うらしい。どこか悲しげに微笑み、東の面はゆるゆると首を振る。
「今日はお別れを言いに来たのよ。私、南の手伝いであちこちに行くことにしたから」
燈里は思わず息を呑んだ。
南の手伝い。つまりは堕ちてしまった西の面を元に戻す方法を探しに行くのだろう。
燈里は暫く東の面を見つめ、そっと微笑んだ。
「さよならは言いません。きっとすぐに会えるでしょうから」
「そうね。燈里は鈴《すず》に約束してくれたものね……ありがとう」
夢という媒介を通して燈里は鈴と出会い、終わりを望む彼女にささやかな可能性という名の希望を伝えた。
夏煉のように、西に面を戻す方法を探すのだと。あるのか分からないそれを、けれども鈴は信じ、今も西の腕の中で眠っているのだろう。
「さて、そろそろ行かなくてはね。時間は待ってはくれないもの」
そう言って、満面の笑顔で東は抱き着いていた燈里の腕を離す。
「またね!」
数歩離れ大きく手を振ると東の面の姿は柔らかな風と共に揺らぎ、霞んで見えなくなってしまった。
風が燈里の髪を揺らし、外へと駆け抜けていく。途端に静かになった居間で、冬玄が疲れたように溜息を吐いた。
「ようやくいなくなったか。最後まで煩いやつだった」
「そんなこと言わないの」
側に来て抱きしめる冬玄を窘め、燈里は息を吐く。
東の面の騒々しさを嫌っているような態度を見せながらも、その実ただ冬玄は燈里を取られてしまうのが嫌なのだ。以前楓《かえで》に言われたことを思い出し、頬を軽く染めながら燈里は冬玄の背に腕を回す。
「燈里」
愛おしげな囁き。目を細め、冬玄は燈里の頬を包み目を合わせた。
顔が近づく。燈里は静かに目を閉じ、唇が触れ合う。
その瞬間。
「そこから先は、お子様がいない時とか、寝た後にやってくれないかな」
呆れた楓の声に、燈里と冬玄は反射的に距離を取った。
「か、楓っ!?」
「わたしもいるけど?」
「睦月《むつき》!」
学校帰りなのだろう。睦月がどこか不機嫌そうにただいまと声をかける。固まる二人を一瞥し、足音荒く二階へと上がっていってしまった。
「ただでさえ、子供に聞かせたくない底辺の言い争いをしている奴らがいて足止めを食らってたっていうのに、そのまま二人の世界を作らないでほしいな。時と場所を考えてくれるかい?」
「別に……気にしなきゃいいだろうが」
眉を寄せ呟いた冬玄を、楓は目を細めて見つめる。そのまま燈里へと視線を向け、態とらしく小首を傾げ笑ってみせた。
「燈里はいいの?睦月に見られても、本当に気にしない?」
「――っ!」
一瞬で燈里の顔が真っ赤に染まる。睦月に見られた後の気まずさを想像しただけで、声にならない悲鳴を上げた。
「時と場所を考えようね」
繰り返されて、燈里は涙目になりながらも頷いた。八つ当たり気味に冬玄を睨み、居間を出ていく。
階段を駆け上がる足音を聞きながら、楓は呆れたように溜息を吐いた。
「確かに暦の上では春が来ているけどさ。ちょっと気が緩みすぎているんじゃないかい」
何も言えずに冬玄は視線を逸らす。
偶然見た窓の外は、雪の白が木々や大地を染めている。
立春は過ぎたが、春はまだ遠い。春告げ鳥は鳴かず、目覚めには至らない。
消える直前の、小さく丸まった西の面の背を思い出しながら、冬玄は無意識に右の薬指に嵌るリングに触れていた。
20260212 『伝えたい』
「ふざけるな」
低く押し殺したような声がした。
感じるのは強い怒り。伝わる感情と共に刺すような冷気を感じ、燈里《あかり》は目を開けた。
「楓《かえで》……?」
顔を覗き込む楓と目が合う。燈里が目を覚ましたことで表情を幾分か和らげた楓は小さく息を吐いた。
「少しの間、意識を失っていたよ。穢れに当てられたようだけど、目覚めてよかった」
体を起こす燈里の背を支え、楓は言う。まだ意識がはっきりとしないのか、燈里はぼんやりと頷きながら、視線を彷徨わせた。
傍らには、未だに目を覚まさない睦月《むつき》の姿。楓の背後、蔵の入口に立ち塞がるようにヒガタがいた。
「楓」
目覚める直前に聞いた声を思い出しながら、燈里は楓を呼ぶ。彼女の声ではなかった。聞き馴染んだあの声の主は、外にいるのだろう。
「駄目だよ、燈里」
立ちあがろうとする燈里を押し留め、楓は首を振る。
「また穢れに当てられて倒れるだけだ。今は大人しくここで待つしかない」
「楓」
「駄目だ。燈里がまた倒れたら、今度こそアレがどうなるか分からない」
背後を一瞥し、楓は苦く呟いた。燈里も外へと視線を向け、眉を顰める。
ほんの一部しか見えないものの、外は明らかに様子が変わっていた。白一色。空も地面も変わらないその白は、雪なのだろうか。
ここにくる前には、雪は然程積もってはいなかった。硬い土や枯れた木々の燻んだ色を思いながら雪に染められた理由を考え、息を呑む。
同時に外で声がした。
「何を荒ぶる。鈴《すず》の望みに応えることを、咎められる理由はないだろう」
「いい加減にしろ!」
感情の乏しい声に、怒りを露わにした声が叫ぶように答える。
「死者を冒涜し、生者を手にかけるなど許される訳がないと、何度言えば分かる!?」
「鈴のためだ。望みに応えるには必要なことだ」
「いい加減にしろと言っている!その腕にあるのは、もはや人間ではないだろうが」
冬玄《かずとら》と西の面の声だと気づいた瞬間、燈里は夢で交わした約束を思い出した。
「っ、燈里!」
楓を押し除け、立ち上がる。ヒガタの隣に歩み寄り外を見れば、一面雪と氷に覆われた世界で冬玄と西の面が対峙していた。
しゃん、とヒガタが錫杖を鳴らす。これより先には出るなということだろう。燈里は頷いて、一歩だけ後ろに下がる。
それを見て、楓はそれ以上燈里を止めることはなかった。外の二人を警戒しながらも何も言わず、燈里の背後に控える。
「人間は人間と共に在るのが良い。故に鈴も人間と共に在らねばならない。鈴の生まれ育ったこの場所で、友と過ごせば寂しくはなくなるだろう」
淡々と告げる西の面の言葉に、燈里は眉を寄せた。
先程から会話が噛み合っていない。言葉を交わしているというのに、言葉が届いていないように思えた。
「どうすれば……」
このままでは堂々巡だ、冬玄もそれを感じているのか、険しさの中に焦りが浮かんでいる。
西の面に言葉を届ける方法を考えながら、燈里は声を上げようとした時だった。
――鬼は外。
子供の声と共に、四人の方相氏が西の面を取り囲んだ。
皆傷だらけで、方相氏の四つ目の面も割れている。特に西の面の正面に立つ方相氏の傷は誰よりも深く、面が半分に割れてしまっていた。
「また西の邪魔をするのか」
苛立ちを露わにした声音。西の面から伸びる影が歪に蠢いた。
「何故、鈴を厭う。何故、故郷から追い出し封じる。貴殿らも、東も、南も……北も。何故」
呟く言葉は剣呑さを孕み出す。蠢く影が鋭い棘となり形を成し始める。
「やめて……」
方相氏たちを傷つけたのは誰なのかを理解して、燈里は呻くように呟いた。方相氏の面が割れ、子供たちの素顔が見えていても西の面の反応はない。腕に抱く少女とよく似た顔をした目の前の方相氏のことも見えていないのだろう。
止めなければならない。だが、言葉は届かない。
歯痒さにきつく手を握りしめる。無意識に手のひらに爪を立て、じくりとした痛みを覚えた。
「え……?」
ふと、痛みが違和感に変わる。
握りしめた手を解く。爪痕の代わりに白い花が一輪、潰れることなくそこにあった。
「っ、ヒガタ!」
弾かれたように燈里はヒガタを呼ぶ。
それだけで全てを察し、ヒガタは燈里へと手を差し伸べた。
燈里は迷わずヒガタの手に白い花ごと手を重ね、息を深く吸う。
しゃん、と錫杖が鳴る。
手の中で花が熱を持つのを感じながら、燈里は西の面を見据え、声を上げた。
「これ以上、子供たちを泣かさないでっ!」
「――泣かせる?」
西の面の動きが止まった。
困惑した声。蠢く影が形を解かし、沈んでいく。
「鈴を泣かせるのは西ではない。方相氏や東たちだ。鈴を一人にし、この場所から追い遣り泣かせている」
ゆるゆると頭を振り、燈里の言葉を否定する。だがその言葉には覇気がない。
言葉が届いている。それを確信し、燈里は逸る気持ちを抑えながらゆっくりと口を開いた。
「その子のお姉さんの名前を覚えていますか?」
「鈴の姉?覚えている。西は忘れない」
そう言いながらも、それ以上言葉は紡がれない。戸惑いに気配が揺れ、次第にそれは焦燥感に変わっていくのが目に見えて分かった。
「何故……あの子を覚えている。忘れてはいないというのに、名が言葉にならない」
「社務所の奥の部屋に、四つ目の方相氏の面と四つの黒塗りされた木札のことは知っていますか?」
びくり、と西の面の肩が震えた。視線が彷徨い、正面に立つ方相氏の割れた面から覗く素顔を認め、小さく呻く。
「ようやく気づいたか」
呆れたように冬玄は呟いた。深く溜息を吐き、纏う激情は周囲の氷と共に溶けていく。
「皆が変わったのだと思っていた。だが変わっていたのは西の方か……鬼は西だったのか」
呟いて西の面は崩れ落ちた。
その様子を見ていた方相氏たちは、しばらくして柊を手に持ち西の面に近づいていく。
「鬼は外。鬼は外」
正面の方相氏が声を上げる。それに続いて他の方相氏たちも声を上げた。
「村から外へ、遠くへ追いやれ」
「柊立てて、転じて内へ」
「四方を打ちて、閉じ込めよ」
柊を掲げる。
正面の方相氏がもう一度声を上げようとした時だった。
「すまない。だが、鈴を死なせる訳にはいかない」
俯いていた西の面が顔を上げた。
息を呑む方相氏たちの目の前で、その姿は影に沈んでいく。
気づき止めようとした時にはすでに遅く。
西の面の姿は、影と共に跡形もなくその場から消え去っていた。
20260211 『この場所で』
誰かが泣いている。
声を押し殺して泣く声に、燈里《あかり》はゆっくりと目を開けた。
「誰かいるの?」
広がる暗闇の奥へ問いかけるが答えはない。辺りを見回すが、見えるものは何もなかった。
きゅっと手を握り締める。震える体に力を入れ、声の聞こえる方へと足を進める。
このまま立ち竦んでいても何も変わらないのだろう。動かなければ、手遅れになってしまう。
込み上げる衝動的な思いに突き動かされているかのように、燈里の足取りに迷いはない。奥を見据える目に怯えもなく、強い意志を湛え声のする方へと歩いていく。
ふと、泣き声に紛れるように声が聞こえた。
話声だろうか。声は聞こえるものの言葉として認識できないそれに、燈里は足を止め眉を寄せる。
目を凝らし辺りを見るが、暗闇に閉ざされやはり何も見えない。
「そこにいるの?」
泣き声が止んだ。
雑音としてしか聞こえない声が、波のようにうねる。
――どちら……ても……約束……
時折明瞭になる声は、何かを伝えている気がした。耳を澄ませば声がうねりを増す。
耳元を過ぎる声の中で、燈里は幾度となく繰り返される言葉に気づいた。
「約束?」
言葉にした瞬間、うねり広がる声が光となった。一瞬で暗闇を染め上げる白い閃光に、燈里は咄嗟に目を閉じる。
瞼の向こう側では、光が飽和してすべてを飲み込んでしまいそうだ。目を閉じて尚感じる強すぎる光に顔を顰めながらも、燈里は取り乱すことなく声を上げる。
「約束とは何?そこにいるなら、伝えてほしい」
その言葉に光が一瞬途切れた。再び差し込む光は、どこか柔らかく穏やかだ。
ゆっくりと目を開ける。白の世界の中心に一人の少女の姿が見えた。
腕に花束を抱き、燈里を見つめている。その眼差しは強く、一瞬前の光を思い起こさせた。
「約束。守らないと」
「その約束とは何ですか?」
少女と対峙し、燈里は問いかけた。それに少女は何も答えずただ燈里を見つめ続け、ややあって背後を見せるかのように数歩脇へと移動する。
「――っ」
景色が変わる。
白一色の世界は薄暗いどこかの室内に変化し、目の前に二人の少女の姿を浮かばせる。
まだあどけなさを色濃く残す少女たちは姉妹だろうか。同じ巫女装束はどちらも煤け、所々が破れてしまっている。よく似た二人の顔も、破れた装束から覗く肌にも無数の傷が刻まれている。
「約束」
片方が手を差し出す。震える手を、もう片方が傷だらけの手で包み込んだ。
「約束する。どちらが戻れても、戻れなくても、皆のことは絶対に守り通す」
「約束する。生きられても、死んだとしても、巫女としての在り方は歪まない」
痛みに顔を歪ませながら、けれどどちらも強い目をしている。視線を合わせ頷いて、同時に手を離した。
その途端に二人の姿が消える。辺りは再び白だけの空間が広がり、燈里は詰めていた息を吐きながら花束を抱いた少女に向き直った。
「約束を守りたいの?」
燈里の問いかけに少女は頷く。その顔は、先程手を差し出した少女のものだ。
「私は、守りたい」
燈里の目を見ながら少女は告げる。
「姉様との約束を守りたい。皆を守りたい……だから力を貸してほしい」
「どうすればいいの?」
燈里はさらに問いかける。少女は口を開きかけ、腕に抱いた花束に視線を落とし逡巡する。
ほんの一瞬、その目が泣くように揺らいだ。だが目を閉じ、次に開いた時には、その揺らぎはどこにも見えなかった。
「私たちを終わらせて」
迷いなく少女は告げる。
燈里は何も答えなかった。ただ花束を抱きしめる腕の震えや真っすぐな少女の眼差しの奥に沈む痛みを見つめていた。
言葉の真意を見定めるような静けさに、少女はきゅっと唇を噛んだ。無意識にだろう、一歩前に足を踏み出し、声を上げる。
「私は父様が守ろうとしていた皆を同じように守りたい。母様が愛したこの地を穢したくはない。私は、私は……!」
ぱさりと花束が揺れ、花びらが地に落ちた。少女は気づかず、叫ぶように願いを口にする。
「私は、私のせいで堕ちたアキシロ様を、鬼のままにしたくない!姉様たちを方相氏のお役目から解いて、名前を返したいっ!だから、だからっ……終わらせるしか……」
真っすぐだった少女の目が揺らぐ。水面のように煌めいて、決壊した滴が頬を伝い流れ落ちていく。
手を伸ばし、燈里はそっとその滴を拭った。そのまま頭を抱き寄せ、静かに髪を撫でる。
「ごめんね。それはできないよ」
「――っ!」
「終わらせることを誰も望んでいないから」
顔を上げた少女に微笑み、燈里は後ろを指さした。
「あ……」
振り返る少女の視界を、風に舞う色とりどりの花びらが覆う。
無邪気に笑う声がする。花びらが高く舞い上がり、開けた視界には一面の花畑が広がっていた。
遠く、花畑に埋もれるように小さな影が二つ見えた。座る影が手にした花冠を、その隣で様子を伺う影の頭に乗せる。
「可愛い!ありがとう、姉様」
「どういたしまして。ずっと一緒にいられるように願いを込めて編んだから、大切にしてね」
「ずっと一緒?」
「そう、ずっと一緒。私たちも神様たちも、皆ずっと一緒」
楽しげな笑い声が響く。互いに手を繋ぎ立ち上がって、花畑の向こう側へと駆けていく。
影が見えなくなるにつれ、花畑が揺らいでいく。花束から落ちた花びらをその場に残して、
霞むように消えていく。
「ずっと……一緒……」
噛み締めるように、少女は呟いた。
誰もが皆変わらず幸せでいられると信じていた遠い日々。それを思い出して、新たに涙が溢れ落ちていく。
「今、南方《みなかた》編集長が、堕ちた神を戻す方法を探し求めているの。だからもう少しだけ待ってあげてほしい」
燈里の言葉に、少女は困惑する。
元に戻す方法など本当にあるのか、それはいつになれば見つかるのか。
もう少しとは、あとどれくらいなのだろうか。
ただの夢物語のような言葉に、少女は燈里の目を見つめる。燈里も少女を見つめふわりと微笑んだ。
「私も探すから……誰もがみんな、笑えるように」
だからもう少しだけ。
そう願う燈里の目を見つめたまま、少女はまた一筋涙を溢す。
答えはない。
それでも少女は燈里と目を合わせ、はっきりと頷いた。
20260210 『誰もがみんな』
風が通り過ぎていく。
鼻腔を掠めた匂いに、燈里《あかり》は眉を顰めた。
鼻をつく、甘い匂い。腐った果実のような不快なそれに、冬玄《かずとら》も眉を寄せ舌打ちする。
「燈里。あまり吸い込むな」
燈里の体を引き寄せる。冬玄の周りで薄い氷の膜が張り、陽の光を反射して煌いた瞬間、澄んだ音を立てながら砕け散った。
不快な匂いは感じられない。息を吸い込めば、冬の冷気が肺を満たしていく。その中に仄かな蝋梅の香りを感じ取り、燈里はほぅ、と吐息を溢した。
「燈里」
冬玄に呼ばれ、燈里は徐に腕を上げる。道の先、木々の間から僅かに見える建物を指さし、静かに告げた。
「あそこ。あの蔵の中」
目を凝らすものの、冬玄にはその蔵らしい建物がぼやけて見えた。異様に気配が薄い。いくつもの膜に覆われているような、目を逸らした途端に認識できなくなるような、そんな違和感に眉が寄る。
「随分と目が滑るな。結界か?」
「行こう。二人が待ってる」
燈里に促され歩き出す。だがいくら近づけど、蔵の気配は霞んだままだ。
その奥からは昏く沈んだ気配が揺蕩っている。冷たい痛みが全身を貫く錯覚に息が詰まる。燈里を守るように、冬玄は震える肩を抱き寄せた。
「ここか?」
蔵の前で立ち止まる燈里に、冬玄は戸惑いの表情を浮かべた。
目の前には両開きの重厚な蔵戸。だが冬玄には見えていないのだろう。その視線が戸を注視することはなく、蔵やその周囲を彷徨っている。
「燈里」
「大丈夫。ここだよ」
燈里の声に迷いはない。その目は真っすぐに蔵戸を見つめ、取っ手に手をかけた。
ぎぃ、と重く軋んだ音を立て、戸が開かれていく。そこで蔵戸の存在に気づき、冬玄は慌てて手を添え力を込める。
「何だ?」
細く開いた戸の前で何かが佇んでいるのを認め、冬玄は目を細めた。一度手を止めると、燈里の手を戸から離させる。
纏う空気が張りつめていく。視線を戸の隙間から離さず燈里を背後に下がらせると、一気に戸を引き開けた。
「――見えないわけだ。まさかあの時の地蔵がいるとはな」
目を閉じ。微笑みを浮かべて立つヒガタ。息を呑み、次いで深く息を吐いて、冬玄は警戒を少しだけ緩めた。
「ありがとうございました」
冬玄の横を燈里が通り抜け、燈里はヒガタの前に立つと深く礼をする。答えの代わりにしゃんと錫杖を鳴らし、ヒガタの微笑みが深くなる。
「燈里ねぇ!」
「睦月《むつき》!楓《かえで》!」
その後ろ、近づく睦月と楓の姿に、燈里は安堵の息を吐く。
駆け寄る睦月の体をしっかりと抱き留め、よかったと小さく呟いた。
見た所、睦月と楓に怪我はないようだ。それならばすぐにでもここから離れた方が良いのだろう。
そう思い、燈里が後ろにいる冬玄を振り返ろうとした時だった。
「――っ、冬玄!?」
突然冬玄に背を押され、燈里は睦月と共に蔵の床に倒れ込んだ。
咄嗟に身を捩ったことで睦月を圧し潰さずに済んだものの、冬玄の行動の意図が分からない。身を起こし後ろを向くが、視界を塞ぐように楓が蔵戸との間に立ち塞がった。
「楓?」
一体何が起きているのか。
こちらに背を向けているため、楓の表情は見えない。呼びかけても返事がないことに底知れぬ不安が込み上げ、燈里は倒れたまま動かない睦月へと視線を向けた。
睦月、大丈夫?」
意識がないのか反応はない。抱き起そうと肩に触れ、手から伝わる異様な熱に息を呑んだ。
酷く熱い。膝に頭を乗せ、赤い顔をしてうなされている睦月の汗を拭う。
誰も言葉を発しない。それが不気味で、燈里は楓の背を食い入るように見つめた。蔵の外に何があるのか見透かそうと目を細め、不意に感じた匂いに体が硬直する。
甘い香り。どろりと粘つき、吸い込んだ者の内側から腐らせるかのような悍ましさに燈里の眉が寄る。息苦しさに視界が滲み、頭の奥が鈍く痛み始める。
これは、穢れだ。
厄という名の、死の穢れ。夏に足を踏み入れた、荒れた墓地の匂いに似ている。
気づいた瞬間、燈里の脳裏にある姿が浮かぶ。長い金の髪に、翁の面。腕に抱かれた日本人形の腕には枯れた花束が握られていた。
「久しいな、北」
低くもなく、高くもない声が冬玄を呼ぶ。対峙する冬玄は言葉を返さず、その目は鋭く相手を睨みつけている。
「通してくれ、北よ。その蔵の中にいる娘たちに用がある」
冬玄は何も言わず、微動だにしない。だがその影は揺らぎ、対峙する相手と酷似した翁の面を冬玄の前へ浮かばせた。
「北も他と同じく、西の障害となる選択をするというのか。なれば押し通るが構わぬか」
「――理由くらいは聞いてやる。何の用だ?何故接点のないはずの人間に執着する?」
低い冬玄の声に相手の動きが止まる。首を傾げ、腕に抱いた人形へ視線を落とした。
「鈴《すず》が一人を寂しがる。かつての友は封じられていた間に絶えた故、新しい友が必要だ」
当然と言わんばかりの声音だった。腕の中の人形のために、新しい友を宛がう。そこに相手の意思はどこにも存在しない。
「断る。貴様の人形遊びに付き合わせるつもりはない」
冬玄の影が揺れ動き、相手の足元に鋭い氷に棘を生じさせた。相手と冬玄とを隔てる棘は、だがしかし、西の面が一歩踏み出したと同時に音もなく粉々に砕け散ってしまう。
冬玄の気配が鋭さを増す。面に手を伸ばしながら、辺りを無差別に凍らせていく。
「人形……」
ぽつりと落ちた言葉。
冬玄が気にする様子はなかった。しかし浮かぶ映像として見ていた燈里は、その不思議そうな響きが酷く気にかかった。
西の面に抱かれているそれに意識を集中する。
赤子よりかは大きなその姿。枯れた花束。漂う甘い匂い。
それは枯れた花の匂いではない。
「何を言っている。鈴は人形などではない」
虚ろに開いた目が、ほんの僅か動いた気がした。
まだ、生きている。
ふと浮かんだ言葉。虚ろな目が瞬き、こちらに向けられる。
視線が交わる瞬間。
燈里の意識は暗転した。
20260209 『花束』