「睦月《むつき》。ここに座れ」
どこか険しい顔をした冬玄《かずとら》に呼ばれ、睦月は戸惑いながらも指示された椅子に座る。
何故呼ばれたのか。睦月には心当たりがなかった。
正確には、呼ばれ叱られるほどのことはなかったと思っている。
しかし、と。睦月は落ち着きなく視線を彷徨わせながら不安に思う。
もしも、これ以上一緒には暮らせないと言われたとしたら。
睦月は元々ここではない、雪深い村の出身だ。燈里《あかり》たちの好意でこの家に世話になっているだけでしかない。
冬玄の隣に座る燈里を見る。いつもの微笑みが浮かんでいないことがさらに不安を煽り、睦月は膝に置かれた手を強く握りしめた。
「睦月」
普段は呼ばない名を冬玄が呼ぶ。
せめて目は逸らさないようにと、睦月は真っ直ぐに冬玄の目を見返した。
「ヒガタのことを、何故黙っていた?」
ぱちりと、睦月の目が瞬く。
首を傾げ冬玄を見つめ、そして困ったように燈里を見た。
「ヒガタのことは、話したよ……?」
ヒガタとは、睦月の生まれ育った村に伝わる来訪神のことだ。
泣かない子供を連れていく。その話の詳細を聞きに燈里たちは睦月の村を訪れ、最後には来訪神の概念と神仏習合した地蔵菩薩を解放した。
その時に、睦月は自身が知る限りのヒガタの知識を伝えていた。黙っていることはないはずであった。
「睦月」
燈里もまた困ったように、あるいは戸惑った様子で睦月の目を見返す。
暫しの沈黙。それを破ったのは冬玄の重苦しい溜息だった。
「最初から近いとは思っていた。血筋によるものと、お前自身がヒガタに引かれていたことが原因だろうと然程気にも留めていなかったが、前回、お前を守るためにヒガタは現れた……地蔵菩薩から来訪神の概念を切り離したにも関わらずに、だ」
前回。それは鬼となった神から身を隠すため逃げ込んだ蔵にヒガタが現れたことを指しているのだろう。
睦月の眉が寄る。確かに、ヒガタは来訪神としての在り方からは解放された。しかしヒガタはヒガタでしかないのだと、睦月は思っている。
「そして今回。お前は俺たちが屋敷に入った後で、同じように屋敷に入り込んできた……まるで来訪神のように、入ってくることに誰にも違和感を覚えさせずに」
全てを見透かすかのような冬玄の静かな視線に、睦月は落ち着かなくなる。
睦月には冬玄が何を言いたいのかが分からなかった。ただ、先日の繩手《なわて》の祖父の屋敷に行った際、待てと指示されたことを守らなかったことが原因なのだろうかと落ち込んだ。
どうしても待てなかったのだ。苦しみ、泣く子供の声が聞こえた気がして、足が屋敷へと向かっていた。
冬玄たちのいた部屋で見た無数の目。どれもが無理矢理繋ぎ留められ、苦しんでいた。
だからヒガタは子供たちを連れて行ったのだが、それがいけなかったのだろうか。
「無駄だよ。自覚がないからね」
呆れた声と共に、楓《かえで》が部屋へと入ってくる。
その表情は、呆れよりも苦笑に近い。睦月の横に立つと、肩を竦めて冬玄を見た。
「それほどに馴染んでしまっているともいえる。この子にとってヒガタがいるのが当たり前なんだ。ヒガタと自分自身の境界も曖昧なんじゃないかな」
「境界?わたしはわたしで、ヒガタはヒガタだよ?」
そう言って首を振るものの、睦月は自信なく胸に手を当てた。
楓が立つのとは逆の方へ視線を向ける。いつの間にか側で佇んでいたヒガタを見つめ、睦月は自身とヒガタの間にあるだろう見えない境界線を探して目を細めた。
「――つまり、私と楓みたいなもの……かな?」
「いや多分、もっと根が深い気がするよ。鍵のかかった扉は開き、屋敷にいた人間の誰も睦月を気にかけることがない……ほぼ同化しているといってもいいんじゃないかな」
その時のことを思い出し、楓の目が遠くなる。
最初は大人しく待っていたはずの睦月が急に屋敷へと近寄り、閉ざされたはずの門扉を開けたのだ。それに驚く間もなく玄関に向かい、同じように玄関扉を開けて室内に入っていく睦月を慌てて追いかけたのだが、その後も家人の誰にも見咎められないことに、楓は次第に顔が引きつっていくのを感じていた。
「同化?わたしと、ヒガタが同じ……?」
楓の言葉が聞こえたのか、睦月はますます困惑した表情をする。
燈里や冬玄、楓を見つめ、ふと何かに気づいたのか、小さく声を上げてそういえば、と呟いた。
「一番最初に見たヒガタの夢で、ヒガタの割れた面の一部を貰ったけど、もしかしてそれかな……?」
「もしかしなくてもそれが原因だろうけど、何で渡されることになったんだか」
「えっとね……」
思い出そうと考え込む睦月に、ヒガタがそっと手を差し伸べる。目を瞬きながらその手を取り、睦月はあぁと笑みを浮かべた。
「わたしとね、咲子さんの誕生日が一日違いだったみたい。それとヒガタを作ったご先祖様のこととか、泣けなくなったこととか、色々合わさって繋がっちゃったみたい」
咲子というのは、一番初めにヒガタに連れて行かれた子供のことだ。
笑顔の睦月とは対照的に、燈里たちは何とも言えない表情をする。互いに目を合わせ、これ以上の話は意味がないと結論付けた。
「なんでこんなに危機感がないんだ。こいつは」
「仕方ないんじゃないかな?睦月はそれが普通だったみたいだし。私も、楓や冬玄と一緒にいても、そんなに危険だって感じないし」
「燈里は自覚しているんだから、もっと危機感を持ってほしいんだけどな。まあ、何かある前に僕たちが守るけどさ」
「確かに守るがな。危機感は持ってくれ」
疲れたように息を吐いて、冬玄は立ち上がり台所へと向かう。冷蔵庫から何かを取り出し居間に戻ると、それを睦月の前へと置いた。
「え?これ……?」
白の生クリームと乗せられた苺の赤。
店で売られているものに勝るとも劣らない一人用の可愛らしいショートケーキを前に、睦月は何度もケーキと冬玄を交互に見た。
「言いたいことはいくつかあるが、今回頑張っていたからな。ご褒美だ」
睦月の驚きように苦笑しつつ、冬玄は言う。
その優しい声音に、睦月は驚きから次第にぱっと輝くような笑顔を浮かべた。
「ありがとう!冬玄にぃ!」
いただきます、と丁寧に手を合わせ、フォークを手に取る。
フォークを入れた断面ですら美しいケーキにほぅと吐息を溢しながら、味わうようにゆっくりとケーキを口にする。
「おいしい!さすが神様!」
「おだてても、これ以上何もでないぞ」
そう言いながらも、冬玄は再び台所へと足を向ける。
「じゃあ次もたくさん頑張るから、今度はチョコレートケーキが食べたい!神様、どうかお願いします!」
「ちゃっかりしてんな。それから、無茶はするなよ」
呟いて、冬玄は冷蔵庫から今度は牛乳を取り出し、鍋に入れると火にかけた。チョコレートを刻みつつ、変わっていく自分自身に少しだけ呆れる。
「まあ、燈里のためにも賑やかなのは悪くはないか」
右手の薬指に嵌る指輪を撫で、一人笑う。
聞こえてくる楽しげな会話を聞きながら、チョコレートを鍋に入れた。
途端に広がる、甘やかな香り。
その濃厚さに胸焼けがしそうだと、自身が甘い自覚がないまま冬玄はぼやいた。
閉じていた部屋に、強く風が吹き込んだ。
その中にふわりと花の香りを感じて、繩手《なわて》は目を開ける。
「灯り……?」
部屋が明るい。
外からの光が差し込んでいることを不思議に思い、繩手はまだはっきりとしない意識の中、視線を向ける。
「え……?」
壁に、大きく穴が開けられていた。
「な、なんで?」
意味が分からず、繩手は目を瞬いた。しかし外で待つ人影に、すぐに事情を理解する。
燈里《あかり》や冬玄《かずとら》。そして睦月《むつき》や楓《かえで》、東。
繩手と共にここまで来てくれた人たちだった。ここに来た理由を思い出し、繩手は部屋へと視線を向ける。
「あぁ……」
祭壇とも呼べぬ粗末な台の上で、四肢を繋がれている女性。それに纏わりつき今もなお繩手に噛み付く一匹の黒い蛇。
その痛ましさに、繩手の唇から嘆きとも取れぬ声が漏れた。
女性と蛇と。この部屋で行われていた悍ましい儀式とも呼べぬ凶行を理解し、繩手は強く奥歯を噛み締めた。
「麗《うらら》」
そっと呼びかける。
今度は想いを込めて。あの日名に託した意味を言葉と共に告げる。
噛まれた腕の痛みは、不思議と感じなかった。蛇の頭をゆっくりと撫でれば噛みつく力が弱まり、やがて静かに離れていく。
輪郭が解け消えていく蛇を見つめ、繩手は泣くのを堪え女性へと視線を向けた。
「麗、帰ろう」
女性の四肢を繋ぐ縄を解いていく。頬を撫で、繩手は優しく微笑んだ。
「帰ろう。今度こそ、ずっと一緒にいよう」
外へ視線を向け、見守る燈里と冬玄を見つめる。
燈里の婚約者だと紹介された冬玄は人ではないことを、繩手はここに来る前に教えられた。
とある村で祀られていた、シキという存在の一柱。それが燈里の家の守り神となり、そして今は彼女の婚約者として隣にいる。
二人の存在は、繩手にとって希望となった。人と人ならざるモノは同じように隣で寄り添えると、信じさせてくれた。
だから、と。
繩手は祈るような気持ちで女性に向き直り、想いや願いの全てを込めて、呼びかけた。
「麗」
ざあ、と穴から風が吹き込んだ。
風は桜の花びらを部屋中に散らし、女性の体に降り注いでいく。
そして――。
「――し、き」
閉じた瞼が震え、麗はゆっくりと目を開けた。
麗を抱き上げ外に出た繩手を囲う燈里たちから離れ、冬玄は一人部屋の中へと足を踏み入れた。
扉を開け、繩手の祖父の横たわる部屋に入る。
そこに這いつくばる男の姿はなく、代わりに見知らぬ男が佇んでいた。
「これで、満足か?」
問いかければ、男は微笑みを浮かべたまま首を傾げてみせた。
「あんたの主人の目的は満たされたのかってことだ」
あぁ、と男は頷く。足元に散らばる布団を一瞥し、笑みを深めた。
「そうだね。ようやくここの仕事が片付いたんだ。そこに関しては満たされたし、感謝しているよ」
ぴしり、と冬玄の足元が凍る。それはじわりと広がり、男の足元の布団を凍らせていく。
男は動かない。冬玄も何も言わず、布団を凍らせた冷気も、それ以上に広がる様子はなかった。
「偶然とはいえ、彼に関われそうな人間の中に君たちがいてくれて助かった……シキに見初められた女性。異類婚。どちらが欠けても、主が望んでいたこの結果には到達できなかったからね」
けれど。
鋭くなる冬玄の気配とは裏腹に、柔らかな声音で男は続ける。
「君たちにとっても、今回の件は悪くはなかっただろう?求めている答えの一欠片にはなったはずだ」
「――感謝しろというのか?」
ゆるりと男は首を振る。
どこまでも穏やかに、底の知れない笑みを湛え、告げる。
「僕としては褒めてあげて欲しいけれど、主は感謝されるためにしている訳ではないからね……僕の主は優しい子だから、少しでも君たちの手助けになれればと思っているんだよ」
まるで親のような言葉だ。
冬玄は警戒を緩めることなく、そう思った。
「さて、そろそろ行かなければ」
男の姿が揺らぐ。
入口の戸が開け放たれ、光と風が吹き込んだ。
「また会うことになると思う。さっきも言ったように、僕の主は優しい子だからね」
「できれば二度と会いたくはないがな」
顔を顰め吐き捨てた冬玄は、金の毛並みを持つイタチを一瞥し、背を向けた。
ぱりんと氷が割れる音を背後に、扉まで戻る。しかし扉の前に立つ東の前で足を止めた。
「北」
翁の面を付けた東が冬玄を呼ぶ。
それに冬玄は気配のなくなった背後を一瞥し、首を振った。
「必要ない。またあちらから接触するそうだ」
「そう」
それ以上はお互いに何も言わず。
燈里たちの元へと、足早に戻っていく。
「厄介ごとが増えたな」
溜息と共に吐き出し、冬玄は空を仰いだ。
快晴。
全ての終わりにも、始まりにも適した、青い空。
その青に彩りを加えるように散る桜を見ながら、これから先起こるであろう出来事を思い、冬玄は憂鬱に眉を顰めた。
娘が選ばれたのは女であり、かつ不義の子だったからという、ただそれだけの理由だった。
男であれば、労働力として使い道はあっただろう。女であったとしても、この家に生まれさえしなければ、まだ人として生きられたのかもしれない。
だが娘はこの家の当主の子として生まれ、そしてその当主のため、愛の代わりに絶え間ない苦痛と永遠という名の絶望を与えられることとなった。
娘には名がない。ヤシロと呼ばれることもあったが、それは自身の身の内に入れられた憑き物のための社であり、廟という意味でしかなかった。
永い年月の間に、娘はかつての娘としての形を失った。ほんの一時、穏やかな日々を過ごしていたような気もするが、暗く湿ったこの場所では、すぐにそんな光は搔き消えていく。
ぞわり、と中の憑き物が蠢くのを感じて、娘は目を開ける。
誰かが扉を開こうとしている。またあの子を傷つけようとしている。
あの子が誰なのか、娘の記憶にはない。だがあの子という存在が、無為に過ごしていた娘に唯一の衝動を与えてくれた。
守るために排除する。近づくものは誰であれ、皆破壊する。
衝動に突き動かされるように、娘の内の憑き物が鎌首を擡《もた》げる気配がした。
重厚な扉に閉ざされていた部屋。その奥にある台の上に一人の女性が繋がれていた。
「麗《うらら》……!」
名を呼び、近寄ろうとする繩手《なわて》の足を、蛇の低い威嚇の声が止める。
暗闇の中、女性の体が歪に蠢いている影が見える。それは細長く、持ち上がる細い影の形は蛇の頭に似ていた。
「迎えに来たんだ。こんな暗い場所から早く出よう」
繩手の声に女性の反応はない。四肢はわずかにも動かず、生きているのかすら分からない。
「麗」
名を呼ぶ。
教えられた通りに。繰り返し呼び続ける。
一歩、足を踏み出した。
「麗、帰ろう」
また一歩、近づき。
そして、手を伸ばす。
「麗」
その手が女性に触れる瞬間。
蠢く蛇が腕に絡みつき、突き立てられる牙の痛みと共に、繩手の意識は黒く塗りつぶされていった。
幼い頃の夢を見ている。
そう感じたのは、視線の先に本を読んでいる子供の頃の自身の姿が見えたからだ。
何を読んでいるのだろうか。その表情はとても真剣でありながら、どこか楽しげに微笑みを浮かべている。
「また読んでるのか。物好きだな」
聞き覚えのない声がした。
瞬きの間に、子供の側に見知らぬ男がいて、本を覗き込んでいた。
「だってここなら、何でも本が読めるんだもん!目が覚めたら、難しくて何が書いてあるのか分からないし」
「まあ、夢の中だからな」
そうか。ここは幼い頃に見た夢の中で、今はその夢の中にいる夢を見ているのか。
ぼんやりとおかしなことを考えながら、辺りを見回した。
室内にいるのかと思っていたが、そうではない。
満開の桜の木の下にいることに、今更ながらに気づいて目を瞬いた。
「ねぇ」
子供が、幼い自分が男を呼ぶ。笑顔の中に悲しみを浮かべて問いかける。
「お姉さんね。名前がないんだって。でもずっとお姉さんって呼ぶのは嫌だから、名前をあげようかなって思ったんだけど」
男は何も言わない。表情の読めない目をして、言葉の続きを待っている。
「たくさん本を読んで、いっぱい考えて……うらら、ってどうかなって思ったの。春うららって暖かくて、優しくて……お姉さんに一番似合う気がする」
くすり。
男が小さく笑みを漏らした。くすくすと堪え切れなかった笑いが溢れ、困惑する。
そんなに笑う程おかしな名前だっただろうか。彼女を思い浮かべ、自然と眉が寄った。
「悪くないんじゃないか。でもせっかくだし、いいことを教えてやろう」
笑いながらそう言って、男は地面に何かを書き始めた。
少しだけ近寄り、書いているものに視線を向ける。男の言動には似合わず達筆な字で一文字、書かれていた。
――麗。
思い出す。
うららという言葉の響きに、形と意味を持たせてくれた人がいたことを。
「漢字では、うららはこう書く。美しく、穏やかで……そして並び連なるという意味を持つ」
「ならび、つらなる?」
「まあ、ちょっと違うが一緒にいるってことだ」
あぁ、と思わず声が漏れた。
視線の先では、幼い自分が何度も一緒と繰り返している。笑われたことで不安だった表情は次第に満面の笑顔に変わり、勢いよく立ち上がった。
「それがいい!お姉さんに伝えてくる!」
ありがとうと言いながら駆け出して、その背は霞んで消えていく。
目が覚めたのだろう。消えた自分を見送って、男に視線を向けた。
「最後のヒントだ。しっかりと思い出しただろう?」
楽しげに男は笑う。
「名を呼ぶのは坊主にできる、唯一で最良の手段だ。ただ意味を持たせないと、ただの音の響きでは届かない」
「意味……」
「響かせる方法もあったが、坊主が段取りを忘れて先に進んだからな。気持ちは分からなくもないが、感情だけで行動するとこうして痛い目をみるぞ」
思わず視線を逸らした。
この屋敷に入る前、確かに言われていたことだ。
通された部屋から動かないこと。それが祖父の部屋であっても、彼女が閉じ込められていた部屋でも関係なく、指示があるまでは動かないと約束していた。
今更ながらに思い出して、迷惑をかけてしまっただろうことを申し訳なく思う。ただでさえ巻き込んでしまっているのだ。考えなしの行動のせいで、もしも危険な目に合わせてしまったらと思うと気が気でない。
そう内心で慌てていると、ぽんと頭に手が置かれている感覚がした。
「式貴《しき》」
視線を向けると、男が柔らかく微笑んでいた。頭を撫でられ、軽く叩かれ、手が離れていく。
「お前は決まり事を大切にできる子だ。足りなかったものは思い出した。後は行動に移すだけ。名を呼んでどうしたいか考えるだけだよ」
ざああ、と風が強く吹き抜けた。桜の花が風に舞い、遠くの空へ消えていく。
目を細めて空を仰ぐ。桜色に染まる視界が、子供の頃に交わした約束を思い起こさせる。
名を呼んだ、その後。彼女と何がしたいか。
思わず笑みが溢れた。したいことがたくさんありすぎて、順番を決めるのが難しい。
けれども、まずは。
「麗と一緒に、桜の花が見たいな。子供の頃のように桜の花びらを追いかけて、そして好きな所へ自由に行ってみたい」
どこでもいい。彼女と二人、一緒にどこまでも、それこそ桜を追って遠い空の下まで追いかけたい。
「ならば、その願いを全部ぶつけるつもりで名を呼んでやれ。それだけでいい」
桜が視界を覆う。声が遠く、感覚が薄くなっていく。
目が覚めるのだろう。
「ありがとう。――」
礼を言い、そういえば、男の名を知らないことに気づいた。
「あの、名前……」
問いかければ、答えの代わりに笑う声。
「夢じゃなく、現《うつつ》で会えた時にでも、教えてやるよ」
年上だというのに、子供のような無邪気さで告げた言葉。
楽しげな声音を聞きながら、視界が桜色から白へと染まり。
そこで、目が覚めた。
空気が澱んでいる。
村の奥。広大な敷地に建つ屋敷を見て、燈里《あかり》はそう感じた。
「ここが……俺の、祖父の家……?」
隣に立つ繩手《なわて》の表情は暗く、落ち着きなく視線を辺りに彷徨わせている。
記憶が閉じられている今でも、何か感じるものがあるのだろう。微かに震える体は、屋敷に近づくことすら拒んでいるようだ。
「繩手くん。辛いなら、無理はしなくても……」
「だ、大丈夫。怖いけど、行かないといけない気がするんだ」
きつく拳を握り締め、震える足を前に出す。
「この屋敷の中で、誰かが俺を待っている。だから、行かないと」
「そうだな。ここで逃げ帰っても何も進展しない。今更忘れたままにはできないだろう」
繩手を一瞥し、冬玄《かずとら》は無感情に告げた。
繩手の本心としては、憑き物に関して何も思い出したくはないのだろう。
それは恐怖からの逃避であり、記憶にはないが封を施した両親に対する思いでもある。
だがそれは、燈里に助けを求めた時点で否定された。燈里を巻き込んだことにより、全てを曝け出される方向へと向かってしまったのだ。
そして繩手にとっては幸か不幸か。こうして元凶と対峙させられるまでに至っている。
「それに、引き返せそうにもないしな」
そう言って、冬玄が視線を向けた先。
閉ざされていたはずの屋敷の扉が、開かれていた。
「お帰りなさいませ、式貴《しき》様。ご友人の方もようこそおいで下さいました」
出迎えた初老の男性の後に続き、屋敷の中へと足を踏み入れる。
美しく整えられた庭。鮮やかな花が咲き乱れる光景は、しかしどこか虚ろで空恐ろしく感じられた。
屋敷のあちらこちらから気配がする。だが誰かとすれ違うことはなく、辺りは不気味に静まり返っていた。
「ご友人の方は、こちらをお使い下さい」
「ありがとうございます」
「勿体ないお言葉にございます。何かあれば遠慮なくお申しつけ下さい」
通された客間はとても豪奢な作りだった。
広大な室内には真新しい畳が敷き詰められ、黒々と磨き上げられた柱は底知れぬ威圧感を醸し出している。金箔が鈍く煌めく襖絵。床の間に飾られた水墨画。見上げた天井は格式高い格天井が広がっている。
踏み入れた瞬間、伽羅の香が鼻腔を掠めた。僅かに眉を顰め、冬玄はさりげなく燈里の肩を抱き寄せる。
「冬玄?」
「何かあれば呼ぶ。遠出で疲れているから、しばらく休ませてくれ」
有無を言わさず、燈里を伴い室内に入る。言外に邪魔をするなと告げ、それを察して男性は恭しく頭を下げた。
「承知いたしました。では、式貴様。参りましょうか」
「え?あ、はい……」
一人離されることに、繩手は不安を感じ燈里を見つめた。それに燈里は何かを言いかけたが、その前に男性によって戸が閉められる。
遠ざかる足音。戸を見つめたまま動けない燈里の手を引き座らせると、冬玄は華奢なその体を強く抱きしめた。
「っ、冬玄!?」
「燈里。少しの間、動かないでいてくれ」
囁かれる声に、燈里の動きが止まる。頬を赤く染め、戸惑いに泣きそうな表情をする燈里の頭を優しく撫で、冬玄は安心させるように微笑みかけた。
ふわり、と強く蝋梅が香る。部屋を満たす伽羅の香を掻き消すかのように、冷気と共に広がっていく。
「どうやら、俺たちのことも逃がすつもりはないようだな。ここまで厳重に監視されるのは気分が悪い」
忌々しいと言わんばかりに吐き捨てた。燈里を抱く腕の力を僅かに弱め、それでもその目は鋭く室内に向けられている。
冬玄の言葉に燈里は眉を寄せた。どういうことなのか身じろぎ、室内を見回して。
燈里は声にならない悲鳴をあげた。
無数の目が、燈里と冬玄を見ていた。
襖。天井。畳。隠していた伽羅の香が消えたことで露になった目のどれもが、瞬き一つせず燈里と冬玄を凝視している。
酷く虚ろな目だ。人形のように意思のない、それでいて妙な生々しく、濡れた質感を持った目。そのいくつかは作り物のようであり、獣のようであり、そして人の、幼い子供のもののように見えた。
「大丈夫だ。見ているだけで、こちらに干渉するほどの力はない。正しく俺たちを見ているかも分からないほど微弱なモノだ」
かたかたと震える背を撫で、落ち着かせるように冬玄は囁く。これ以上何も見えないようにと、燈里の頭を引き寄せた。
「この、目……これって……」
震えながらも、燈里は問いかける。間違っていてほしいと願いながらも、頭ではある一つの答えが浮かんで消えない。
背を撫でる手が一瞬止まる。殊更優しく撫でられ、燈里はそっと目を伏せた。
「分け与え、取り込む……いや、取り込むことこそが目的か。定着しようとしまいと、どうでもよかったのかもしれないな」
直接の答えではない呟き。
しかしそれは、これ以上ないほどの答えだった。
「祀る方法を間違っている程度の話ではないな。欲を満たし、叶えるための外法だ」
敬い、畏れ、鎮める祈りはそこに存在しない。ただひたすらに醜悪で、自己中心的な人間の業の果てがそこにあった。
震える手で服を掴み、燈里は力なく冬玄に凭れかかる。
何を言えばいいのか分からない。
ただ悲しく、痛みを伴う思いが燈里の胸の内で渦巻いている。
言葉にできない感情が溢れ、それは一筋の涙となって燈里の頬を伝い落ちていった。
繩手が通されたのは、屋敷の一番奥にある暗い部屋だった。
足を踏み入れた途端に感じたのは、澱み滞った泥のような空気。まるで底なし沼に沈んでいくように、四肢に絡みつき離れない。
そんな錯覚を覚えながらも目を凝らすと、部屋の中心に布団が敷かれていることに気づいた。誰かが横たわっている。深く眠っているのか、動きはない。
ゆっくりと歩み寄る。恐怖に震える足は、それ以上の何かの強い意思に突き動かされ止まることはない。
暗闇に慣れ始めた目が、横たわる誰かの横顔を明確にしていく。
老年の男性だ。肉が削げ落ちた頬に、落ち窪んだ眼窩。死相が色濃く浮かぶ横顔は、およそ生者のものとは思えない。
傍らで膝をつき、繩手は眠り続ける男性を見下ろした。見覚えのないこの男性が誰であるのか。
誰かに教えられずとも、繩手はよく理解していた。
「祖父さん」
ぽつり、と落とされた言葉。
消え入りそうな程微かな声は、静謐に満たされた部屋にやけにはっきりと響いた。
「――っ!」
その瞬間。
それまでただの骸と変わらぬ死を纏っていた祖父の目が見開かれた。
白濁し、何も映すことのない目。しかし底のない我欲を孕んで、繩手を捉えようと蠢いている。
布団の中から痩せて枯れ木のような腕が伸ばされる。もはや持ち上げる力すら残されていないのだろう。ずるずると畳を這う腕はまるで弱り切った蛇のようだった。
「ひっ……」
後退り、恐怖に震えながらも、繩手は恐怖とは違う感情が自身の内に沸き上がるのを感じていた。
正反対のそれは、怒りや憎しみに近い。戸惑いに動きが止まり、眉を寄せながら繩手はそっと自身の胸に手を当てた。
正しく言葉にできないその激情が出口を求めるかのようにぐるぐると渦を巻いているようだ。繩手が意識を向ける程それは強くなり、やがてそれは固く閉ざした記憶の蓋をこじ開け始めた。
「あぁ……」
繩手から表情が抜け落ちていく。服の裾から覗く腕、そして首筋に、何かが巻き付いているかのような黒い痣が色濃く浮かび出す。
「行かないと」
閉じた蓋は開け放たれ、繩手は呟き立ち上がった。這いずる祖父などないもののように通り過ぎて部屋の一番奥へと進んで行く。
そこには和室の部屋には似つかわしくない、重厚な金属の扉があった。重たい錠で閉ざされた扉は、しかし繩手が扉に触れた瞬間に錠が外れ開いていく。
「あなたの欲は多くを苦しめた」
扉に手をかけたまま、繩手は呟いた。
「俺はあなたの新しい体にはならない。けれどあなたは死ぬこともない……永遠に、あなたはそのまま。死んだ体で生きるしかない」
感情の乗らない声。
ただ事実だけを告げて、扉を開け放つ。
「それが、今までしてきたことの報いだ」
祖父の動きが止まる。ひゅう、と掠れた吐息が答えるのを聞かず、繩手は扉の向こう側へと足を踏み入れた。
春疾風が薄紅の花びらを舞い上げていく。
桜吹雪。幻想的な光景に少年は見入り、そして腕を伸ばして舞う花びらを手にしようと追いかけ始めた。
一年前熱で魘され、生死の狭間を彷徨っていたとは想像もできぬ程元気だ。少し離れた場所で様子を伺っている女も、そう思っているのかもしれない。
やがて舞う花びらを手にすることができたのか、少年が歓声を上げる。満面の笑みを浮かべ、女の元へと駆け寄った。
「これ、あげる!」
戸惑う女に手にした花びらを渡す。
七つを過ぎても女が見えるとは、どうやらうまく定着ができたようだ。
「いつも守ってくれているおれい!あと、もうひとつ」
そう言って少年は屈み込み、手近にあった石を持ち何かを地面に書き始めた。
何を書いているのか。その表情はとても真剣だ。
やがて書き終わったのか、少年は顔を上げて女を見た。どこか誇らしげに書いたものを指さし、口を開く。
「あのね、名前がないのはやっぱりよくないと思うんだ。だから僕、たくさん本を読んで調べてね、これが一番似合うと思ったの!」
立ち上がり、地面に書かれたものから目を逸らせないでいる女の手を両手で包み込む。地面から少年へと視線を移した女と目を合わせ、輝かんばかりの笑顔でそれを口にした。
「麗《うらら》……どうかな?僕、今からお姉さんのこと、麗って呼んでいい?」
「あ……」
小さく声を上げ、女はゆっくりと目を瞬いた。
ぱたり、と女の頬を伝い落ちた滴が手に落ち、流れて地面を濡らしていく。
声もなく涙を流す女に、少年の表情が次第に不安そうなものへと変わっていった。
「あ、えっと……気に入らないなら……」
「ありがとう」
言いかけた少年の言葉は、強く抱きしめられたことで止められる。
何度も繰り返される、ありがとうの言葉。
女の在り方が、新しく名付けられたことで変わっていくのを感じる。
思わず、苦笑が漏れた。可能性を考えていなかったわけではない。むしろ、こうなることは見ていて容易に想像がついていた。
けれどここまで平穏に変化を与え、受け入れるとは。まだ幼い純粋さが眩しく感じられた。
在り方は少しばかり変わってしまったが、これならばこの先も二人は問題なく過ごせるだろう。
そう思い、戻ろうと踵を返して。
不意に、手を引かれた。
びくり、と肩を震わせ、燈里《あかり》は目を瞬いた。
目の前には庇うように立つ楓《かえで》の背。その背越しに、見知らぬ男が立っているのが見える。
きゅっと手を繋ぐ温もりを感じ、視線を向ける。そこには燈里と手を繋ぎながら、真っすぐに男を見つめる睦月《むつき》の姿があった。
「おじさんは、どうして燈里ねぇに色々見せるの?」
睦月の問いかけに、男は薄く笑みを浮かべた。
「ヒントがなきゃ、求める答えを出すことができなさそうだったから」
「ヒントねぇ……答えは教えてくれないってわけか」
気に入らないとばかりに、楓が吐き捨てた。男はそんな楓の態度に肩を竦め、溜息を吐いた。
「与えられた答えなんて正誤も、況してやそれが最適解かも判断がつかないだろ?同業者ならまず間違いなく、あの子供ごと封じるか消滅させるかの判断を下す」
お前にそれができるのか。
男は言外にそう告げている。男の背後で幸せそうに笑う少年と女性の姿が視界に入り、燈里は思わず目を伏せた。
「おじさんは、燈里ねぇに答えを出させたいの?」
「いや?答えが出せるのは当事者だけだ。でもあいつは夢見の才能はないから、巻き込まれてたあんたたちの方に干渉してるってだけ」
「情報だけ与えて、そちらは高みの見物を決め込むってつもりかい?随分な趣味だね」
楓の嫌味を意に介さず、男は足元に視線を落とした。
舞い散った桜の花弁が影に落ち、そのまま飲み込まれていく。影が盛り上がり一匹の獣を形作っていく。
「ここまでか。あちらさんが気づいて荒れ始めているみたいだから、戻った方がいいな」
金の毛並みを持つイタチに姿を変えた影。それを見て、楓は僅かに顔を顰めた。
「飯綱《いづな》……ある意味同じ憑き物でありながら、祓い屋か。一番面倒な類の人間だね」
「別に敵対するつもりはない。あんたたちを無理に祓う理由が俺にはないからな」
それは嘘ではないのだろう。楓の目を真正面から見つめ男は断言する。
そしてイタチと目配せをして、男は呟き燈里に視線を向けた。
「どんな行動を起こすのか、何を選択するのかは自由だ。ただ経験上、後悔しないように動き回れば、大体はうまく転がっていく。周りがそれを可能にしてくれるから、心配するな」
柔らかく微笑む男の姿がイタチと共に霞んで消えていく。
「待って――!」
一際強い風が吹いた。桜を散らし、視界を薄紅色に染めていく。
穏やかな日差し。満開に咲き乱れる桜の花。
春爛漫。失われた幸せの記憶が、男が姿を消したことで次第に色褪せ消えていく。
遠くで楽しそうに笑いはしゃぐ声を聞きながら、沈む意識に身を委ねた。
「燈里」
優しく呼び起こされて、燈里は目を覚ました。
繋ぐ手の感覚に視線を向けると、眠りながらも手を離さない睦月の姿。
「燈里」
呼ばれて、燈里はベッドサイドに座る冬玄《かずとら》を見た。安堵が滲む目を見て、そっと手を伸ばす。
「冬玄」
触れる愛しい熱。鼻腔を擽る蝋梅の香りに、目を細めた。
夢の内容を思い起こす。幼い繩手《なわて》と、麗と名付けられた憑き物。名付けの瞬間に、きっと二人の関係は変わった。
憑き物から、守り神へ。そしてそれはもしかしたら、燈里と冬玄のような関係へとなっていったのかもしれない。
だから、堕ちた。繩手を奪われそうになり、執着が麗を堕としてしまったのだろう。
「冬玄は、例えば私の中に封じられたとして、その封印を無理矢理にでも解きたいと思うのはどんな時?」
「そりゃあ、燈里が傷つけられそうになった時だろうな」
迷いなく答えた冬玄に、燈里は小さく笑う。その笑みに冬玄も表情を綻ばせ、だがすぐに真剣な目をして燈里に問いかけた。
「あの人間と憑き物がそうなんだな」
頷く燈里に冬玄はそうか、とだけ呟いた。名残惜し気に手を離し、静かに立ち上がる。
「一番簡単なのは、人間ごと完全に封じることだ。けれど燈里は嫌だろう?」
柔らかな微笑み。真っすぐに冬玄を見つめ頷く燈里に、穏やかに告げる。
「ならばあの人間を連れて、憑き物の本体がある屋敷に行こうか」
後悔しない選択を。
夢の中の男の言葉を思いながら、燈里は迷いなく冬玄に頷いて見せた。