久方ぶりに訪れたその街は、絹糸のような静かな雨に閉ざされていた。
以前訪れた時と同じ雨だ。遠い記憶が思い起こされ、懐かしさと物悲しさに目を細める。
あの時も、始終雨が降り続いていた。道行く人は誰もが傘の下で俯き、足早に過ぎていくのは昔も今も変わらない。
傘を差していても吹き込む雨に濡れ、肌に張りつく服や髪の不快感に僅かに眉が寄る。冷たい雨が体温を奪い、堪らず近くにあった小さな定食屋の暖簾をくぐっていた。
「お客さんは運が悪いねぇ。しばらくは雨が続くと思うよ」
遅い昼食を済ませて腹休めをしていた自分の元へお冷をつぎ足しながら、その店の店主は溜息を吐いた。
「分かるものですか?」
不思議に思いそう尋ねれば、客が少なく退屈していたのだろう店主は肩を竦め答える。
「ここらに住む人なら分かるわよ。この先の、端に住んでいた子が亡くなっちゃってね。四十九日が明けるまでは、雨が続くわ」
「人が亡くなると、雨が降るのですか?」
内心で驚きながらも、以前訪れた時のことを思い出す。
確かあの時も、葬式が行われていたはずだ。鯨幕の白と黒。雨の中でも紛れない焼香の厳かな香りに、どこか切ない気持ちになったものだった。
「そんな訳ないじゃない。あの子は特別だからよ……悪い意味でね」
薄く笑いながら、店主は窓の外を見た。
外ではまだ雨が降っている。店主の横顔からは、故人を偲んでいるような様子は見受けられない。
「悪い意味、とは?」
そう問えば、店主の表情が僅かに歪んだ。
「悪い子だったのよ。言い方は悪いけれど、死んで当然だと思うわ」
小さな呟きに、眉を顰めた。
故人への侮蔑の言葉を吐きながらも、店主の表情はすぐれない。そこにあるのは、死に対する喜びでも悲しみでもないように思われた。
例えるのならば、未来に対する不安。道に迷い途方に暮れた子供のような、そんな顔だった。
「本当に悪い子だった。この店が閑散としているのも、きっとあの子のせいに違いないのに……あの子は、死んだわ」
あぁ、と思わず声が漏れる。
「山羊がいなくなってしまったのですね」
「……何か言ったかしら?」
何も言わず首を振る。
言った所で、恐らく店主は理解することができないだろう。
そしてそれはきっと、店主だけでなくこの辺りの住人がそうなのだ。
「会計を」
それだけを言って、伝票を手に立ち上がる。
ドアの隙間から、降り止まない雨に紛れて微かに凛とした香の匂いがしたような気がした。
雨はまだ降り止む気配はない。
傘を手に、無言で歩く。周囲には人の気配はなく、雨が降ってはいるものの辺りはしんと、静まり返っていた。
「――おじさん」
ふと、声がした。
立ち止まり視線を向ける。
「おじさんは、ここが好きなの?」
鮮やかな、赤い傘。
足元を飾る靴は艶やかな黒。その身に纏う服もまた黒い。
「おじさんは、ここに住んでくれるの?」
傘を持ち上げ、こちらを見つめて笑う少女。
蠱惑的な紅色の唇が、にぃと弧を描いた。
「ここに住むことはないよ」
少女の目を見据え、淡々と告げる。
「次の山羊になるつもりもない」
笑みが消える。幼さとは似つかわしくない程、その顔は作り物めいた美しさがあった。
変わらない。以前出会った時と、何もかもが一緒だった。
「今回の子羊は、どうやら君から逃げられたようだね。小さき君ならば、本業ではない私でも大丈夫だろう」
表情の抜け落ちた少女と対照的に、笑みが浮かぶ。
胸元の十字を握り、息を吸った。
「主よ、憐れみたまえ」
言葉を繰り返す。ただ目の前の憐れな魂の救済を願い、旋律を紡ぐ。
少女の表情が歪む。止めようとしたのか、一歩踏み出した足がぱしゃんと水を跳ね、少女の姿を溶かしていく。
まるで水に濡れ滲む絵画のように。美しかった少女の姿はどろどろと形を失い、足元に黒とも赤とも知れぬ水たまりを作り出していく。
「迷える魂を救いたまえ……主よ、憐れみたまえ」
握る十字が、仄かな熱を持つ。手を離し、目の前で十字を切る。
ふっ、と息を吐いた。
目の前にいたはずの少女の姿はない。広がる濁った水たまりも、瞬きの間に地面に染み込み消えてしまった。
「――存外、あっけなかったな」
呟いて、傘越しに空を見上げた。
雨が降り止む気配はない。あの店主が言うように、本当に四十九日が明けるまでは雨は降り続くのかもしれない。
「それにしても、この国は不思議だ」
以前訪れた時も感じたことではあった。
自身の信じる神と、この国の神。相反する存在を、しかし当たり前のように受け入れている。
だからだろうか。この国を気に入り住み着く、人ならざる存在も多い。
「悪魔は去ったが、この街の人々は変わるだろうか」
人々が皆、あの店主のようであるならば難しいのだろう。こればかりは、自分がどうにかできることではない。
嘆息し、歩き出す。足は自然と、亡くなったという子の家の方へと向いていた。
不意に、白い花を抱えた子供たちとすれ違う。ふわりと主張しすぎない柔らかな花の香りが鼻腔を掠め、立ち止まった。
子供たちは会話もなく、しかし俯く様子もなく前を見据えて歩いていく。
「――主よ、憐れみたまえ」
子供たちの背を見送り、胸元で十字を切る。
この雨が上がる時、子供たちに祝福があれと、密かに願った。
20260525 『降り止まない雨』
ふと思いついて、手紙を書こうと思った。
引き出しの奥に仕舞い込んで忘れていた、綺麗な花が描かれている便箋と封筒。机の上に広げてペンを持つ。
さて、何を書こうか。
考えて、はたと気づく。誰に向けての手紙かをまだ決めていなかった。
手紙を書きたい相手はいる。けれどまず誰に書くのかを考えると悩んでしまう。
「――まぁ、思いつく全員に出すのだし、一番最初から順に書いていけばいいか」
最終的にはそう結論付けて、改めて便箋に向き直った。
書き出しはどうしよう。少し考えて、シンプルに伝えればいいと小さく笑う。
ペンを握り、ゆっくりと文字を書いていく。
――一番最初の私へ。
どうか伝わってほしい。そう願いながら、思いを言葉に綴っていった。
「ねぇ、見て!これってあの子にそっくりじゃない?」
そう言った友人には、恐らく悪意はなかったのだろう。
けれどその言葉一つで、少女の在り方を決められてしまった。
自身の影と向き合うように、少女は俯きがちに歩いていく。
一人きり。少し前までは一緒に帰っていた友人たちは、ある言葉一つで離れてしまった。
――このキャラに、似てるよね。
それは、とある物語に出てくる悪役だった。自信過剰で強欲、傲慢。最後に倒されるためだけに存在するような、誰もが好きになることなどないだろう人物。
少女とは似ても似つかない。性格は控えめで、誰かの物を欲しがったりなどもなかった。
ただ名前の響きが似ていたこと。そして髪型がなんとなく似ているという、子供の曖昧な見立てだったのだろう。
けれどその言葉は、不思議と周りに広がってしまった。少女の周りから一人、また一人と友人が離れていく。
そして今、少女は一人きりだ。悪役に似ているという最初の言葉は忘れられ、その悪役のイメージだけが少女と重なってしまっていた。
何度違うのだと言っても、周囲に少女の言葉は届かない。いつからか少女は何もかもを諦めて、ただ俯き日々を過ごしていた。
「――あれ?」
ふと何かに気づき、少女は立ち止まった。
顔を上げる。辺りを見回し、困惑したように眉を顰めた。
いつもの帰り道ではなかった。見知らぬ木造の家々が並ぶ、不思議とゆったりとした場所。
遠くで少し気の抜けたラッパの音がする。空腹を誘うような夕飯の匂いがどこからか漂い、少女の腹が控えめに鳴った。
ちりん、とベルの音。振り返れば自転車を下りた郵便配達員が、少女にゆっくりと歩み寄ってくる。
「郵便です」
そう言って手渡されたのは、綺麗な花の絵柄が描かれた封筒。
『あの頃の私へ』
宛先には、ただそれだけが書かれている。
少女は少し迷い、静かにそれを受け取った。
封を開け、中身を取り出す。封筒と同じ花の絵が描かれた便箋には、短く温かな言葉が書かれていた。
――あなたは一人じゃない。神様はちゃんとあなたを見てくれている。
仄かに、便箋に熱が宿った気がした。
少女は何度もその言葉を読み返し、そして丁寧に便箋を元のように折りたたんで封筒へとしまった。
顔を上げる。気づけば辺りはいつもの帰り道。丁度神社の前に立ち尽くしており、少女は首を傾げて辺りを見た。
「――夢?」
手にしていたはずの封筒もない。まるで白昼夢でも見ていたようだ。
不思議に思いながらも、少女はいつものように神社の石段を上がっていった。
薄暗くなった道を、少女は速足で歩いていく。
唇を噛み締める。偶然聞いてしまった母親の話す言葉が頭の中でぐるぐると回り、気分は最悪だった。
――あの子はいつも我儘で、少しはお兄ちゃんを見習ってほしいわ。
母にまでそう見られていたことに、少女は少なからず落胆を覚えた。家族だけは本来の少女のことを理解してくれていると、そう信じていたからだ。
衝動のままにその場から逃げ出し、ようやく少し冷静さを取り戻して立ち止まる。
「ここ、どこ?」
眉を寄せる。気づけば知らない場所まで歩いてきてしまったらしい。
良い言い方をすれば昔懐かしい和風の、悪い言い方をすれば古めかしい木造の家々の並ぶ場所。温かみのある明かりが灯り、テレビの音や楽しげな笑い声が聞こえてくる。
ちりん、とベルの音がした。視線を向ければ自転車を止めて、郵便配達人が下りようとしている姿が見えた。
興味を引かれ、少女は郵便配達員へと近づいた。郵便配達員も少女へと歩み寄り、一枚の手紙を差し出した。
「郵便です」
少女は受け取り、封を開く。中の便箋を開いて目を通した。
――どうしても耐えられなくなったのならば、逃げ出したっていい。逃げ場は神様が作ってくれる。
文字が淡く光を帯びた。周囲の家から漏れる灯りよりも、とても優しい光だった。
少女は詰めていた息を吐き出す。ゆっくりと便箋を折りたたみ封筒にしまって、緩く頭を振る。
「逃げても、いい……」
呟いて、顔を上げる。気づけばそこは、いつも訪れている神社の前。手にしていた封筒はどこにも見当たらない。
しばらく神社を見つめ、少女はゆっくりと石段を上がり始めた。大分落ち着いたもののまだ気持ちの整理はついておらず、家に帰りたくはなかった。
少女はひたすらに走り続けていた。
クラスメイトに言われた言葉が胸を抉る。仄かな恋は粉々に砕け、その破片が痛くて堪らない。
――お前ってさ、欲張りだよな。
少女は何かを欲しがった訳でも、奪った訳でもない。ただ今まで学んできたことを試験で発揮し、結果を出しただけのこと。しかしクラスメイトはその試験の結果が気に入らず、全ての試験で結果を出した少女を僻んだ。
その時、少女はクラスメイトを一瞥しただけで、何も反応を見せなかった。けれど帰路につく途中で、気持ちが溢れてしまった。
息が切れ、足がふらついて立ち止まる。肩で息をしながら辺りを見回せば、そこは見知らぬ場所だった。
時間が止まったような、古い木造の家が並んでいる。辺りはしんと静まり返り、少女の荒い呼吸音がやけに大きく聞こえていた。
ちりん、とベルの音がして、少女は反射的に音のした方へ駆け寄った。自転車に乗った郵便配達員が少女の前で止まり、鞄から一枚のはがきを差し出した。
「郵便です」
はがきを受け取り、裏の文面に目を通す。読み終えた瞬間、少女は再び走り出した。
――神社の社の後ろ。
ただ一言。その言葉に従い、神社を目指す。
見知らぬ場所を通り過ぎ、見えた鳥居へと向かう。
石段を駆け上がる少女の頬を、気づけば冷たい滴が伝い落ちていた。
手紙を書き終えて、ペンを置く。
便箋は、全て使い切ってしまった。大きく伸びをして、息を吐く。
「何を書いてたんだ?」
机にお茶とお菓子を置きながら、彼が不思議そうに問いかける。
ずっと気になっていたのだろうけれど、こうして終わるまで見守ってくれている優しさに笑みが浮かんだ。
「あの頃の、一人ぼっちだった私に手紙を書いてたの。届けばいいな」
書き終わった手紙は一枚もない。書き終え、封筒にしまった途端に霞んで消えてしまったからだ。
届けたい相手の所へ届いてくれればいい。そう思いながら、彼が淹れてくれたお茶に手を伸ばした。
「届くよ。残らないかもしれないけれど、ちゃんと届く」
「そっか……」
優しい声を聞きながら、湯飲みに口をつけた。熱すぎず、かといって温くもない。彼のように優しいお茶の味が口の中に広がって、ほぅ、と吐息が溢れ落ちた。
「おいしい」
「よかった」
彼が笑う。穏やかなその微笑みに、じわりと心が温かくなった。
一人きりでは感じなかった温もり。
手紙を書いた、あの頃の自分たちへ少しでも届けばいい。そう願っている。
20260524 『あの頃の私へ』
深く、溜息を吐く。
逃げたい、と思っていた。だからこそ衝動のままに逃げ出して、結果戻ってきてしまった。
何度繰り返しただろう。その度に無駄だと理解して、それでもこうして逃げ出さずにいられないのは何故なのだろう。
「――あのさ」
今まで黙っていた彼が、眉を寄せながら問いかける。
「俺のこと嫌いか?」
困惑したような、どこか悲しげな顔をする彼を見ながら考える。
「別に、嫌いじゃない」
「じゃあ、何で逃げる?」
何故だろうか。考えるがその理由も、きっかけさえも思い出せなかった。
「何でだろうね?」
首を傾げれば、彼は肩を落として嘆息する。その中にほんの少しの安堵の色が見えて、申し訳なさに眉を顰めた。
今まで何も言われなかったのは、ただの彼の優しさだ。気まずさに少し視線を逸らしながら、彼に向けて頭を下げた。
「ごめん。これからは逃げないようにする」
「別に……俺が何かした訳じゃなかったみたいだし、それならいいんだ」
苦笑する彼に、益々申し訳なさが募る。
意味を思い出せないのなら、逃げる必要はない。これ以上彼を傷つけないためにも、もう逃げてはいけない。密かに心に決め、手を握り締めた。
「なんでこうなるかな……」
溜息を吐いて、辺りを見渡す。
見知らぬ場所だ。どうやって戻ろうかと悩みながら、またやってしまったと落ち込んだ。
何かがあったわけではない。ただ衝動的に駆け出して、気づいた時にはまた彼から逃げていた。
「そもそも、何から逃げてるんだろう」
元来た道を戻りながら、ふと浮かんだ疑問を口にする。
いつものように彼といた。いつものように何気ない話をして、笑っていた。
それなのに、逃げ出した。彼が何かを言った訳でも、自分が何かを言ってしまった訳でもない。ただ気づいたら、彼から逃げるように駆け出していた。
「そう言えば、戻る前に気づいたのは初めてだ」
いつもなら逃げ出して、そして戻ってくるまで、逃げたことに気づくことはなかった。
足を止め、辺りを見回す。見知らぬ街の風景が、どうしてか懐かしく感じた。
「戻る前に、ちょっとこの辺りを見て回ろうかな」
逃げないと言いながら逃げてしまったことが気まずくて、できることならまだ戻りたくはなかった。
脇道へと足を踏み入れる。どこか古めかしい木造の家々が並ぶ細道を気ままに歩いていく。
とても静かだった。どの家もしんと静まり返っていて、人の気配がしない。
ゴーストタウン。ふと頭に浮かんだ言葉を笑って否定する。
以前見た映像では、こことは比べ物にならないくらいに荒れ果てていた。人が住まなくなって誰も手入れすることがなくなれば当然だ。
でもここは違う。家は古いが荒れている様子はなく、門扉から覗く庭は手入れがされているようだった。
「皆、買い物にでも出かけてるのかな……?」
呟いて、ふと何かが引っかかった。
誰もいない家。買い物。夕暮れの影が伸びる道。
繋いだ手が離れて、一人ぼっち。
「――っ」
冷たくざらりとしたものが脳裏を過ぎ、立ち止まる。思い出しそうで思い出せない、思い出したくない苦しみが溢れてきそうで、痛み出した頭を押さえた。
「――帰らないと」
痛みに顔を顰めながら彼のことを思う。
今すぐ彼の元へ帰りたい。忘れたままでいたかった。
けれど足は張り付いたように動かない。これ以上逃げられないのだと、脳裏を過ぎていく何かが告げている。
自分は何から逃げているのだろう。何を忘れてしまったのだろう。
頭が痛い。
どうして、自分は彼の所へ逃げたいと強く願うのだろうか。
「こんな所にいたのか」
声がした。
途端に力が抜けて、地面に膝をつく。頭をそっと撫でられれば、段々と痛みが引いていく。
「もう大丈夫だ。でもここはよくないから戻ろうか」
優しく背を撫でられて、のろのろと顔を上げた。
困ったように笑う彼を見た瞬間、何故か涙が止まらなくなった。
「――逃げたいの」
声が震える。しゃくり上げて、上手く呼吸ができない。
「逃げられない、けど……まだ……逃げたい」
何を言っているのか、自分でもよく分からない。ただ逃げたいのだという思いだけが胸の中で渦を巻き、助けてほしいと言葉の代わりに彼の服の裾を握り締めた。
「分かってる。お前は真面目な子だから、当然のことだよな」
背を撫でながら、彼は笑ったようだった。
とても穏やかな声。大丈夫だと優しく囁く。
「今はまだ逃げていい。ゆっくり休んで、好きなことをして……それで元気になったら、逃げなくても大丈夫になる。だから怖いものからも、俺からだって逃げていいよ」
「逃げられない、のに?」
「それも元気になれば、逃げられないじゃなくて逃げる必要がないに変わるから大丈夫だ」
止められない涙を温かな指先に拭われ、目を瞬いた。
滲む視界の先の彼を見つめる。変わるという言葉に、逃げられない苦しさと怖さが僅かに和らいだように感じた。
「戻ろう。ここは現実が近い場所だ。今はまだ、ここにいても苦しいだけだろう?」
促され、支えられて立ち上がる。
歩きながら横目で見た周りには、やはり人の気配はない。彼が隣にいる今、そのことに安堵を感じていた。
誰もいないのなら、まだ逃げられる。彼が言った大丈夫の言葉を心の中で繰り返し、一つ深呼吸をした。
「――神様」
無意識に、彼を呼んだ。答える代わりに、彼はそっと手を繋いでくれる。
それだけで、本当に大丈夫になれる気がした。
「守ってくれて……逃げさせてくれて、ありがとう」
「どういたしまして。逃げ場を作ることで逆に苦しめていないか不安だったけど、そう言ってもらえてよかったよ」
柔らかな微笑み。同じように笑って、繋いだ手を揺らす。
きっとまたこれからも、自分は逃げ出したい衝動のまま駆け出すのだろう。
けれどこの手の温もりを求めて、最後には彼の元に戻っていく。
ほぅ、と安堵の息を吐いた。
20260523 『逃げられない!』
微睡みの中、温かな何かが手に触れた。
控えめに、恐る恐る握られる。そこでその温もりが誰かの手だと知った。
誰だろうか。握る手の力は、微睡みを妨げることを恐れるように弱い。
――また明日。
ふと、手を振る幼馴染の声を思い出した。
泣きそうな顔をしながら、それを隠そうと笑みを浮かべていた幼馴染。交わしたその小さな約束を、今日はまだ守っていない。
そう思った瞬間。今すぐに目覚めなければという衝動に駆られた。
手を強く握り返し、体に力を入れる。
ゆっくりと瞼を開けば、差し込む陽の光の眩しさの中で誰かの影が息を呑んだように見えた。
「――おはよう」
掠れた声で交わした挨拶に彼女は泣くように顔を歪めた後、それを隠すように笑う。
「おはよう……といっても、もうお昼だけどね」
だからこんなにも明るいのか。眩しさに目を瞬きながら体を起こそうとすれば、彼女の手が背中を支えてくれた。
「ありがとう」
「どういたしまして。でもあまり無理はしないでね」
「分かってるよ」
大丈夫だと笑ってみせながら、正反対になってしまった立ち位置を少しだけ苦く思う。
以前は今の彼女のように背中を支え、心配するのが自分だった。きっとあの時の自分も彼女のような顔をしていたのだろう。
「そんなに心配しなくてもいいのに。ちょっと疲れが出ただけだよ」
安心させるための言葉は、逆に傷をつけてしまったらしい。何かを耐えるように俯く彼女を見て、内心で舌打ちをした。
立ち位置が変わった代わりに、最近の彼女からは以前のような柔らかな笑顔が消えてしまった。浮かべる笑顔はいつも、無理に作ったような泣きそうなものばかりだ。
それがただ悲しい。苦しませるだけなら、いっそ自分のことなど全て忘れてしまえばいいのにとさえ思ってしまう。
そんな考えが顔に出てしまっていたのか。彼女は椅子に座ると手を取り、両手で包み込むようにしながら囁いた。
「今日はどんな話が聞きたい?」
少し前の自分とそっくりだ。まるで願をかけているみたいだと、思わず苦笑する。
伝わる温もり。けれどそれだけだ。何も彼女へと流れていかないことに安堵して、窓の外へと視線を向ける。
「何でもいいよ。外のことを教えて」
「分かった」
視線を戻しそう伝えれば、彼女は頷いて静かに話し出す。
雨上がりの水たまりに映る虹。濡れた土の匂い。頬を撫でる少し冷えた風の感触。
懐かしさに目を細めた。長く見ていない訳でもないのに、切なさで気を抜けば泣いてしまいそうだ。
彼女も同じ気持ちだったのだろうか。ぼんやりとそんなことを考える。
包まれた手が温かい。静かな声が心地良い。
段々と意識が微睡んで、ゆらゆらと頭が揺れるのを感じた。
「――今日はここまでにしようか」
彼女の声が遠い。閉じそうになる瞼に力を入れながら、小さく頷いた。
包まれていた手が離れ、背中を支えられながら横になる。ぼんやりと見つめる彼女は何かを言いかけて、けれど口を噤み笑顔を浮かべた。
「それじゃあ、また明日ね」
祈るような声だと思った。
小さく笑う。不安を隠し切れない彼女に向けて、そっと手を伸ばした。
「ん……また、明日」
小指を絡めて約束する。唇を噛んで小指を見つめる彼女に、もう一度また明日と呟いて目を閉じた。
舗装のされていない十字路に立っていた。
道を挟んだ向こう側に、自分が立っている。無表情で腰に下げた刀に手をかけているのを、当然のように眺めていた。
一歩。目の前の自分が、足を踏み出した。白い光が煌めいて、一呼吸後には体に力が入らなくなる。
切られたのだ。そんなことを思いながら膝をつく。切られた痛みはなく、だからなのか恐怖は感じなかった。
「勝手に手を加えるな。今回は大きく変わることはなかったが、時には在り方が歪むこともあるのだから」
そう言って自分が差し出した手には、一本の髪の毛が乗せられていた。
あぁ、そうかと、小さく笑う。髪の毛を受け取りながら、効果はあったのかと嬉しくなった。
「喜ぶことではないというのに。きかない子だ」
それを見て、目の前の自分は眉を顰めて溜息を吐く。呆れた様子に申し訳なく思うが、同時に今まで助けてくれなかったのだから仕方がないとも感じてしまう。
ずっと助けてほしかったのに、昔から続く春の祭りの人形は病気平癒を叶えてくれなかった。だから自分なりに考えて、一本だけ髪を混ぜたのだ。
髪を握り締め、満足だと笑ってみせる。後悔はないのだと真っすぐに目を見据えれば、困ったような笑みが返ってきた。
「病は斬った。一年は煩わされることはないだろう」
それだけを告げて、目の前の自分は背を向けて去っていく。
その後ろ姿が段々と滲んで変わって消えていくのを見送って、ゆっくりと目を閉じた。
目が覚めると、柔らかな朝の日差しがカーテン越しに降り注いでいた。
体を起こし、少し悩んでベッドから降りる。思ったよりも体が軽いことに驚きながら、窓へと近づいた。
カーテンを開ければ、広がる青空。けれど遠くに見える重たい雲は、雨を連れてこちらに来そうだ。
「――あれ?」
ふと、手に違和感を感じて視線を向ける。
右手の小指に、一本の藁が巻き付いていた。
「なんだ。夢じゃなかったんだ」
藁を解きながら笑みが浮かぶ。
もう一度窓の外を見てから、時計に視線を向けた。いつもならば、母が朝食の準備をしている時間だった。
「今日は、こっちから会いに行こうかな」
彼女は驚くだろうか。もしかしたらまたあの柔らかな微笑みを浮かべて、いらっしゃいと言ってくれるかもしれない。
そんな想像をしながら窓を開けた。夏にはまだ早い、少し冷えた春風が過ぎていく。
藁を乗せた手を差し出す。風に乗って空に舞い上がる藁を見ながら、賑やかになるだろう今日を思い笑った。
20260522 『また明日』
「調子はどう?」
部屋の扉を開ければ、窓辺に置かれたベッドで横になっていた彼女がこちらを向いて微笑んだ。
「いらっしゃい。今日も悪くないよ」
起き上がろうとする彼女に慌てて駆け寄り、そっと背を支える。ありがとうと礼を言う彼女の顔色はいつもより明るく、密かに安堵の息を漏らした。
「お兄ちゃんから、連絡はあった?」
「お盆の時期には戻るんだって。それくらいかな」
「連絡しろっていつも言ってるのに……ごめんね」
申し訳なさそうに謝る彼女に、気にするなというように笑う。
彼女が気にすることではない。けれど自分の気持ちを知っている彼女は、彼の行動が歯がゆく感じられるのだろう。
相変わらず彼女は優しい。ふふ、と思わず笑いながら、いつもの定位置に座った。
「――あれ?ちょっと痩せた?」
「ん。夏までに、できることはしないとね」
「今のままでも十分可愛いのに……メイクも少し濃くなったでしょう?」
鋭い指摘に、少しだけ視線を逸らす。
両親も気づいてはいなかったというのに。彼女はいつも、些細なことですら気づかれてしまう。
「そんなことよりさ。今日はどんな話をしようか?」
誤魔化すように話題を変える。まだ何かを言いたげな彼女は、けれどそれ以上は何も言わず、悩むように視線を窓の外へと向けた。
「学校の話がいいな。受験とか、最近流行ってることとか」
「了解」
頷いて、彼女の手を取った。学校での出来事を思い出しながら、ゆっくりと話し始める。
ある日突然、外に出られぬ程に体が弱くなってしまった彼女。一緒に通うはずだった学校生活の話を、どんな気持ちで聞いているのだろうか。
「いつもありがとう……ごめんなさい」
「ごめんはNGワードなので、ペナルティです」
「あ、そうだった。えっと、最近のお話……何かあったかな?」
悩む彼女を見ながら、ほんの少しだけ握る手に力を込めた。温もりと共に伝わるどろりとした痛みに、奥歯を噛んで必死に耐える。
彼女を蝕む病。それを半分だけ受け入れられることに気づいたのは偶然だった。
「お医者さんがね、成人式は迎えられるかもって驚いてたくらいかな。それをお兄ちゃんに伝えたら、近いうちにお祝いに戻るって言ってたけど」
「相変わらずだね」
「妹離れできてなくて困っちゃう。そのせいか壊滅的に鈍いし」
溜息を吐きながら出た彼への文句に苦笑を漏らす。彼女が怒る時は、いつだって誰かのためだ。
自分とは正反対の彼女は、きっと心が透明なのだろう。だからどんなに苦しくても、誰かに当たることなく笑顔を浮かべることができる。
自分とは違う。嫉妬して心が真っ黒になった自分は、どんなに努力した所で彼女のようにはなれない。
思い出す。彼女の命があと数年だと医者に告げられてからのことを。
今まで遊んでいた彼女たちと遊べなくなり、寂しさと理不尽な怒りを抱えて彼女の家に行った。
ただの八つ当たりだった。幼かった自分は、二人と遊べない理由を何も分かってはいなかった。
彼女の部屋に入った時、苦しそうにしながらも、こちらを見て微笑んだ彼女を忘れられない。
「――どうしたの?何か疲れてるみたい」
「そうかな?勉強疲れか、それとも私にはお盆に帰るって言いながら、その前に帰ってきそうなあいつに呆れたのかも」
そう言えば彼女は眉を寄せて、ここにはいない彼に対して怒ってみせる。
それを笑いながら、彼女に気づかれぬようにそっと息を吐き出した。
自分のしていることを、彼女に気づかれてしまう訳にはいかない。
これは献身などではない。ただの自己満足だ。彼女と少しでも長く一緒にいたいという、自分のエゴだ。
それでも知ってしまえば、優しい彼女は苦しむはずだから。
泣いて止めてほしいと願われてしまえば、会えなくなってしまう気がするから。
「まあ、別にいいけどね。むしろあいつがいない方が、色々と楽しくおしゃべりできる訳だし」
痛みを笑顔で誤魔化して、彼女の手をただ握っていた。
「――ただいま」
部屋に入ってきた青年は、暗い顔をしてふらふらと少女の側まで近づいた。
「お兄ちゃん……」
ベッドの上で上体を起こした少女は赤く泣き腫らした目をして青年を見つめ、俯いた。
ベッド脇の椅子を引き、青年は何も言わずに腰かける。それに対して少女は何も言わない。
「まだ意識は戻ってなかった。これから先もやっぱり分からないようだ」
「そう……」
「お前の調子のいい日に、今度は一緒に行こうか」
返事の代わりに、少女はぎゅっと両手を握り締めた。爪が皮膚に食い込むのを見て、青年は何も言わずに手を重ねる。
「――私が、奪ったんだ」
微かな声は、震え掠れている。込み上げる激情が滴となって、少女の頬を伝い落ちた。
「なんとなく気づいてた。あの子が来てくれた後は、体の調子が良くなるの。だから、気づいてない振りをしてた。気づいてたのに……あの子がやつれてたのも、メイクで顔色を誤魔化してたのも、全部気づいて……っ」
言葉が詰まり、そして次第に啜り泣きに変わる。青年はそんな少女の背を、ゆっくりと撫でていた。
無言だったのは、かけるべき言葉が見つからなかったからだ。少女の言葉を否定することも、上辺だけの慰めも意味はなく、おそらくこれからも言葉が届くことはないだろう。
少女があの子と呼ぶ幼馴染が倒れたのは数日前のこと。それからずっと、少女は幼馴染が倒れた原因は自分のせいだと思い込んでいる。ただの偶然。誰かの健康を奪うことなどあるはずがないと周りの人々が何度言っても、少女が聞き入れる様子はない。
それ程に少女の後悔は強く、悲しみは深かった。
「私が、あの子を奪った……ずっと羨ましかったんだ。私はこんなに苦しいのに、皆はそんなことないのが憎かった。外の話を聞くのも嫌で、でも聞いた後は少し楽になれたから我慢して……あの子はただ私のために話してくれたのに。あの子の純粋な優しさを利用して、透明できらきら煌めいてた心を騙し続けてたから、あの子は……」
「大丈夫だよ」
届かないと思いながらも、青年は耐えきれず少女に向けて囁いた。
「大丈夫。ちゃんと目が覚めるさ。その時は、会いにいこう。今度はあいつが寝てた間の話を、俺たちが話してやろう」
それは少女に向けてというよりも、自分自身に向けて言っているように聞こえた。
目を伏せ、青年は眠り続ける幼馴染を思い浮かべる。
うっすらと微笑みを浮かべているように見えた寝顔。
まるで楽しい夢でも見ているかのようで、それだけが微かな希望を信じさせてくれていた。
20260521 『心は透明で』