渡された花を手に、微笑む彼の姿を見た。
それだけで足は地面に張り付き動かない。胸が苦しくて、息が上手く吸えなくなってしまう。
耐えきれずに俯いた。見つめる地面が滲み、ひとつふたつと雨が降る。
「バカみたい」
呟いて、唇の端を持ち上げた。
雨など降ってはいない。俯く前に見た空には青が広がっていたのだから。
強く手を握りしめ、逃げ出すように目を閉じた。けれど今見た光景が脳裏に浮かび、消えてくれない。
彼も、その周囲も、とても楽しそうだった。離れているからとはいえ、こちらに気づく様子はないほどに。
きっとこのままいなくなっても、誰も気にしない。
「本当に、バカだなぁ」
最初から、彼の隣にいるなどできるはずがなかった。彼と自分とでは生きている世界が違う。
分かっていたはずなのに、彼に執着せずにいられない。醜い嫉妬心を抑えられない。
このままでは、彼を傷つけることになるのだろう。どろどろとした黒いこの欲が、彼を縛りつけてしまう。
それだけは嫌だった。想像するだけで、自分自身に吐き気がするほど嫌悪感を覚える。無意識に手のひらに爪を立て、熱を持った痛みに顔を顰めた。
ゆっくりと息を吸い込んだ。痛みを伴う鼓動を感じながら、静かに吐き出していく。
ひとつ、ふたつ。深呼吸を繰り返し、十数えて顔を上げる。目を開けて、彼に背を向けた。
しばらく、ここから離れよう。距離を取れば、次第にこの気持ち悪い感情も落ち着くはずだ。
重い足に力を入れて、半ば引き摺るように来た道を引き返す。
彼との約束を破ってしまうことになるが仕方がない。いつか全部思い出にできる時がきたら、その時に謝りにくればいいのだから。
そうしたらきっと、笑って彼と話ができる。初めて出会った時のように純粋に会話を楽しみ、さよならだってできるはずだ。
そう思いながら、滲む世界をひたすらに進む。境界を越えて、彼の世界から自分の世界へと戻る。
「ごめんなさい」
掠れた声で呟く。
今は振り返って別れを告げることさえできなかった。
曇天の下。どこか憂鬱な気分を抱えて玄関を開けた。
この家に戻るのは三年ぶりだ。どこか埃っぽい空気に眉を顰め、玄関を開け放ったまま家の中に足を踏み入れる。
「定期的に戻ってるって言ってたのに」
空気を入れ替えるため窓を開けながら、不満が口をついて出る。
この家を出るのも突然だったが、戻るのもまた突然だ。
突然の父の転勤。ちょうど年度が変わることもあり、祖父母を残して家族で家を出た。
残された祖父母が病や怪我で、どちらも施設に移ったのが一年前。突然のことで無人になった家は、近所に住む親戚に頼んで定期的に風を通してもらっていた。
「雨、降らなきゃいいけど」
雨特有の湿った風の気配ないが、重苦しい灰色の空に気分が滅入る。自分が戻るわけでもない家に、管理のため両親よりも先に来ることになったのが少なからず不満なのかもしれない。
一週間後、両親は転勤先からこの家に戻ってくる。
自分は転勤先の学校に進学を決めた。両親が来るまでこの家で過ごした後は、またここを出ていくことになる。
「皆、元気かな」
縁側に座り、彼の住む山を見ながら呟いた。
幾分かも気持ちは落ち着いてはいるが、やはり彼への想いは昇華しきれていない。会いにいく勇気は、まだなかった。
「バカみたい」
あの時の言葉を繰り返す。
勝手に嫉妬し、傷ついて、逃げ出した。自分を守るため、彼との約束すら破った。
あの時よりも成長したと思っていたけれども、こうして動けない自分は何も変わっていないのだろう。
「まったくだ」
呆れたような声と共に、視界が何かに塞がれた。
「っ!?」
咄嗟に声を上げかけるが、息を吸い込んだ瞬間に入り込んだ濡れた土と木の匂いに意識が眩み、掠れた吐息しか出てこない。強い眩暈に似た感覚がして、体の力が抜けていく。
とさり、と後ろに傾く体が、温かな何かに包まれた。
「久しぶりだな。まさか約束を反故にされるとは思わなかった」
静かな声が鼓膜を震わせる。離れていても一度も忘れたことのなかった愛しい声に、けれど体は恐怖で震え出す。
声の端々から感じる強い怒り。飲み込まれてしまいそうで今すぐ逃げ出したいのに、体は震えるばかりで少しも思うように動かない。
「親と共にここを出ていくのは仕方がないとしても、一言くらいは伝えられただろう。それに、折角戻れるよう動いてやったというのに、戻らない選択をするとはな」
ふわりと、花の香りがした。
「このまま連れ帰ってもいいが、言い訳くらいは聞いてやる」
絡みつくような甘さに、頭の芯が痺れていく。震えていた体は脱力し、代わりに自分の意思とは無関係に唇が震え、言葉を溢した。
「だって、女の人に花を渡されて嬉しそうにしてたから」
あの日、心の奥底に仕舞い込んだはずの思いが溢れたことに驚き、目を見開いた。けれどそんな気になっただけで、実際には何一つ動かなかったのかもしれない。
どんなに唇を閉じようとしても、言葉が止められない。次々と忘れようとして、忘れられなかった気持ちが溢れてくる。
「嬉しそうで、楽しそうで……私がいなくなっても、きっと誰も気にしないんだろうなって思った」
花の香りが強くなった。
意識が霞む。次第に言葉を止めようと焦る気持ちも、すべて曝け出される恥ずかしさも消え、ただぼんやりと温もりに包まれていた。
「駄目だって分かってるのに、邪魔して縋りたくなる。他の誰も見ないでって叫んでしまいそうで……そんな自分が気持ち悪くて……」
「もういい」
微かな呟きと共に、花の匂いが掻き消える。
さあさあと、聞こえる雨の音。濡れた土の匂いが強くなり、ぼんやりと形をなくしていた意識がほんの僅かだけ輪郭を取り戻した気がした。
「俺も軽率だった。お前に渡す花を他の誰かに任せるべきではなかった」
深く息を吐く音と共に、視界を覆う何かが外される。
背後から覗き込む彼の目。そこに怒りの色はない。彼と共にいた時の変わらない金色を見返していれば、ふわりと体が宙に浮く感覚がした。
彼に抱き上げられている。そのまま雨の降る庭を歩き出す彼に、不意に危機感が込み上げた。
「待って……どこに……?」
「連れ帰る。元々そうするつもりだったからな……側にいれば、不安にさせることもない」
雨とは違う冷たさが背筋を這いあがる。
このまま連れて行かれてしまったら、二度と戻れない。嫌な確信に、彼から逃れようと必死で自由にならない体を動かした。
「いい子にしていろ。本当なら三年前に連れて行くはずだったんだ。それなのに、いくら待ってもお前は来ないし、あげくに遠くへと離れていくし……なのに怒ろうにもお前は苦しんでいたようだし……」
「なに、言って……え?」
次々と溢れる不穏な言葉に口元が引きつった。
重い腕に力を入れ、彼の頬に手を触れる。こちらを向いたタイミングで力の限り頬を抓れば、ようやく彼の足が止まった。
「っ、こら、止めろ。何でそんなに抵抗するんだ」
「バカっ!最低!人さらい!」
「酷い言い草だな。好いた子を連れ帰るんだ。何の問題もないだろう。しっかりと五穀豊穣はもたらすぞ。心配しなくとも現世のお前の存在は消してやるし、祝言だって挙げるつもりだ」
それはつまり、生贄というやつではないのだろうか。
真顔で告げる彼に、先程とは違う眩暈と頭痛を感じた。何も分かっていない彼に、大きく息を吸い込み、手を振りかぶる。
「バカみたいなこと言わないで!何百年前の、時代錯誤な話を現代に持ち込まないでよ、この年寄り!」
ぱぁん、と。
小気味いい音を響かせ彼の頬を張りながら、力の限り叫んだ。
あれからどうにか彼を説得し、何とかここに留まることができた。
連れて行くのは、終わりを迎えてから。
新しい約束を交わすのに費やした労力を思い出し、溜息を吐く。結局、実家から通える距離に進学先を変更することになり、諸々の手続きや引っ越しにしばらくは忙しく動き回る日々が続いていた。
ようやく落ち着いてきたものの、疲労の一番の原因はそこではなく、これからもなくなることはないのだろう。
「浮かない顔をしているな。疲れているなら、少し休んだ方がいい」
不意に抱き上げられ、ベッドに運ばれる。
本気で心配しているのだろうけれど、疲労の原因が自身にあることに彼は決して気づくことはないのだろう。
「何でこうなったかな……」
「何か言ったか」
顔を覗き込む彼に、何でもないと首を振り目を閉じる。
自分にしか見えない彼。色々と制限があって不自由を強いられているはずなのに、隣にいる彼はとても楽しそうだ。
「最初からこうして側にいればよかったな」
頭を撫でられ、香る花の匂いに意識が微睡んでいく。
荷物の整理など、やるべきことはたくさんあるのに、まったく進まない。それに不満を覚えながらも、幸せを感じてしまう自分に呆れてしまう。
吐き出した想いを、彼は嬉しいと言った。思われるのが幸せで、それ以上に思いたいと彼は好意を隠さず伝えてくれるようになった。
泣きたいくらいに幸せで、同じくらいに気恥ずかしい。
素直に彼の好意を受け入れられず、こうしてささやかな不満を拾い上げている。
バカみたいだ。
遠くで見ている時には好意を向けられないことに苦しんで、こうして好意を与えられるとなると逃げてしまう。
温もりに包まれ、夢の世界に落ちていきながら。
本当にバカみたいだと、心の中で呟いた。
20260322 『バカみたい』
手を繋いで、二つの影が夕暮れの道を歩いていく。
「もう少し遊びたかったな」
「明日になればもっとたくさん遊ぼうよ」
「うん!早く明日にならないかなぁ」
今日の終わりを惜しみ、明日への期待に胸を膨らませている。囁く声はとても楽しげで、足取りはとても軽やかだ。
二人以外に誰かの気配は感じられない。周囲の異様な静寂に、けれども二人は少しも気にかける様子はなかった。
「晩ご飯は何にしようか。ハンバーグ?それともカレーライス?」
二人だけの世界が当たり前だと言わんばかりに、指折り好きなメニューを上げていく。二人で同じように首を傾げて悩み、しばらくして顔を見合わせ笑う。
「「とろとろ卵のオムライス!」」
声を合わせ、はしゃぐ。飛び跳ねて喜び、どちらからともなく駆け出した。
世界に取り残されて、二人ぼっち。けれど完成された二人だけの世界に、どちらも幸せそうに表情を輝かせていた。
「――それでね。夕暮れになると、その坂で手を繋いだ二人の影が見えることがあるんだって。でもって、その影を見てしまったら、その世界に取り込まれてしまうんだって!」
きゃあ、と上がるいくつもの悲鳴に、微睡みかけていた意識が浮上する。
先程から一ページも進んでいない本を閉じ、ちらりと賑やかなクラスメイトたちを一瞥する。夏はまだ当分先だというのに、怪談話に興じる彼女たちは怖がりながらもとても楽しげだ。
「取り込まれた人はね、二度と戻ってこられなくなっちゃうの。それで行方不明になった人は、しばらくすると存在がなかったことになるんだって。クラスで誰も使っていない席があったら、その取り込まれて戻れなくなった子の席かもしれないよ」
どこかで聞いたことのある締めくくりに、ならば何故話が広まっているのかと心の中だけで突っ込みを入れる。誰一人戻らないのならその二人ぼっちの世界が外に広まるのは不自然であるし、存在がなくなった誰かがいたなど矛盾していることに誰一人気づかない。
創作話などそんなものか。そう納得して、もう一度彼女たちに視線を向けた。
楽しげに談笑するクラスメイトたちから少し離れて、手を繋いだ二つの影が彼女たちを見つめている。クラスの誰も、その影に気づく様子はない。
怖い話をすると寄ってくる。昔聞いた話を思い出しながら、視線を逸らして机に伏せる。
周囲の賑やかさから逃げるように、眉を寄せて目を閉じた。
楽しげに笑う声がした。
振り返れば、両親に囲まれ無邪気に駆け回っている弟たちの姿。穏やかに微笑む両親に、これは夢だと理解する。
両親が離婚し、弟たちと離れ離れになってしまったのは、もう随分と前のことだった。
母に引き取られた弟たちに何度も手紙を出したが、一度も返事が返ってくることはなかった。それが悲しくて、いつの間にか出せなくなってしまった手紙が今も机の中に溜まっている。
夢の中の幸せだった頃の弟たちを見つめながら、二人の今を思う。
元気にしているだろうか。新しく友達はできたのか。
他者を拒み、二人きりの世界にこもりがちな弟だ。新しい環境に馴染めているのかが心配で堪らなかった。
「お姉ちゃん!」
こちらに気づいた弟たちが、大きく手を振り駆け寄ってくる。
その姿に懐かしさを感じて切なさが込み上げた。もう一度会えたとして、こうして昔のように懐いてくれるだろうか。
そんなことを思いながら、腕を広げる。飛び込んでくる二人分の衝撃を受け止め、弟たちのように笑みを浮かべて小さな体を抱き締めた。
「お姉ちゃん」
揺さぶられて、目が覚めた。
体を起こそうとして、けれど聞こえた声に硬直する。ここにいるはずのない、懐かしい二人分の声が揺さぶる手と共に響く。
「お姉ちゃん、起きて」
「帰ろうよ、お姉ちゃん」
記憶のままの声。小さな手。離れてからもう何年も経つのに、変わらないのはありえない。
今、自分を起こそうとしているのは誰なのだろうか。脳裏に、クラスメイトたちを見ていた影を思い出す。
あれは違う。感覚的に違うのだと分かる。だが、そうだとしたらここにいるのは誰なのか、見当もつかない。
「起きないね」
「今回も、お姉ちゃんじゃないのかな」
「今回こそは、本当のお姉ちゃんだよ。起きないけど、壊れてないもん」
「そうだよね。二人ぼっちの世界に入れるのは、お姉ちゃんだけだもんね」
どこか不穏な会話に、背筋が薄ら寒くなる。震えそうになる体に必死で力を入れ、耳を澄ませながら寝たふりを続けた。
起きていることを気づかれたのなら、きっともう戻れない。そんな不安が、正体を確かめようとする行為を留めていた。
「疲れてるのかな。お勉強も、お家のことも、全部頑張っているんだもんね」
「そっか。じゃあ、もう少し寝かせておこうか」
「そうしようか……でも早く起きてほしいな。ずっと会いたかったから」
沈んだ声に、思わず肩が震えてしまった。
これ以上誤魔化すことはできない。突き刺さる二つの視線を感じながら、ゆっくりと体を起こした。
「やっと起きてくれた!おはよう、お姉ちゃん」
「お姉ちゃん、お寝坊さんだよ」
きゃあ、と声を上げて抱き着かれる。嬉しそうに笑うその姿は、確かに弟たちのものだった。
「早く帰ろう?帰りながら、いっぱいお話しようね」
「ずっとね、お姉ちゃんを探してたんだよ。二人ぼっちの世界でもよかったけど、お姉ちゃんも一緒の方がもっと幸せだもん」
「お姉ちゃんは特別だからね!二人ぼっちの中に入れてあげる」
「そう!特別だよ」
それぞれに手を繋がれ、立ち上がる。
何か言わなければいけないと思っているのに、何も言葉がでてこない。体は弟たちに従って、ゆっくりと教室を出て歩いていく。
どこにいくのだろう。どこに帰るというのか。
いくつもの疑問を浮かべながら、誰もいない夕暮れの道を歩いていく。
とても静かだった。弟たちの話にただ頷きながら、自分たち以外の存在を感じない周囲に視線を巡らす。時折道の端に見かける、まるで倒れ伏しているような黒く揺らぐ影に、頭の中で警鐘が響く。
「お姉ちゃん。ずっとお手紙くれてたのに、お返事できなくてごめんね」
「お手紙、捨てられちゃってたんだ。でも二人ぼっちになってからは、お手紙全部読んだからね。お姉ちゃんの机の中に入ってたのも全部!」
繋ぐ手の感覚は、確かに弟たちだと伝えている。けれど以前は感じていた温もりも、愛おしさも分からない。
自分が知る弟たちではないのだろう。そう理解した所で、どうすることもできないけれど。
「今日はごちそうにしようね。お姉ちゃんは何食べたい?」
「何でも好きなもの言ってね」
「――二人の好きなものでいいよ」
自分の意思では動かせない口が、優しく弟たちに答える。
目を伏せた。もうそれしか自由にできることはなかった。
きゃあ、と歓声を上げる二人に手を引かれ、夕暮れに伸びた影がひとつに溶けていく。
ここがどこなのか分からない。二人に何があったのか、何一つ察することができない。
ただ唯一理解できる。
きっともう、この二人ぼっちの世界からは戻れない。
20260321 『二人ぼっち』
髪を梳く手の心地良さに目を細めた。
意識が微睡み出したのを察して、小さく笑う気配がする。手が髪を滑り、腰の高さで止まる。
鋏の冷たい金属の刃が、髪に当てられる感覚がした。しゃり、という小さな音と共に、長く伸びた黒髪が断ち切られていく。
「――」
音がした。
それは声のはずだった。けれども自分の耳には、ただの雑音としてしか届かない。
一番最初に忘れてしまったもの。会えない日々が声の形を曖昧にさせ、消してしまった。
しゃりしゃりと、鋏が音を立てる。彼を想い伸びた髪を、彼の鋏が切り落としていく。
今振り向いたとして、彼の姿は残っているだろうか。
確かめるのは怖かった。声のように輪郭をなくしているのかもしれないと思うだけで体は震え、動けなくなってしまう。
心地良かったはずの微睡みは消え、冷たさだけが残される。
随分と臆病になってしまった。それだけ長い時が過ぎていた。
きん、と金属が擦れる音がして、体が少しだけ軽くなる。
俯く視界の隅で、切られた黒髪が落ちている。まるで黒い蛇の亡骸のようだ。
「っ、待って!」
消えていく気配に、咄嗟に振り返る。
けれどそこにはもう、誰もいない。切られたはずの髪すらなくなっていた。
夢の終わりが近いのだ。
「行かないで……」
霞み始める世界に、無意味だと知りながら手を伸ばす。
触れるものはない。感じる温もりは彼のものではない。
熱く冷たい滴が頬を伝う。またひとりきりの一日が始まることが、ただ空しい。
朝を迎えれば忘れてしまう感情。
夢から醒める前に、切られた想いを伝えればよかった。
何度も繰り返した後悔を抱きながら、浮かぶ意識に身を委ねた。
瞼の向こうの明るさに、目を開けた。
いつもと変わらない朝。今日一日の予定を考えながら体を起こす。
「やな天気」
カーテンを開けて見た空は曇天。雨が降るでも、晴れる訳でもない中途半端さに溜息を吐いた。
今日もやるべきことは多くある。一人で生きていくのに、天気ひとつで憂鬱になっている暇などはない。
そうは思うが、重苦しい灰色の空と同じように気分は重くなる。窓を開けていないのに、湿気が腰まで伸ばした髪に纏わりついて重さを増しているようだ。
そう考えて、さらに憂鬱さが増した。
何だか、今日は調子が悪い。夢見が悪かったのかもしれない。
覚えていない夢に八つ当たり気味に不満を抱きながら、身支度を整えるため空に背を向けた。
髪を梳く手の優しさに、思わず笑みが溢れた。
また夢が見られることが嬉しい。ほんの僅かでも彼を覚えているのだと安堵する。
地を這う黒髪に視線を落とす。忘れていく彼を想い伸びた髪。梳かれる度に揺れ動き、彼の手に甘えているようだ。
不意に彼の手が止まった。肩の高さで鋏が髪に触れる感覚に、思わず息を呑み込む。
いつもとは違う動き。彼の想いを根源から断ち切られるようで、かたかたと体が震え出す。
止めなくては。このままでは完全に彼を忘れてしまう。
まだ彼を覚えていたかった。欠片でも、醒めたら忘れてしまう夢の中だけでも彼の側にいたかった。
「待っ……!」
振り返ろうとするも、彼の手がそれを制止する。
肩に置かれた彼の手。振り解こうと思えば容易にできるほどの軽い力だというのに、途端に体は動けなくなる。
体が震え、視界が滲む。再び鋏が髪に当てられる感覚に、唇を噛み締め目を閉じた。
「――」
音が聞こえる。雑音になってしまった彼の声が何かを囁いている。
聞こえないと理解していても、彼の言葉を拾おうと耳を澄ませた。
「――必要ありません」
声が、言葉が聞こえた。
彼の声だろうか。忘れてしまったその響きを確かめる術はない。
しゃり、と髪が切られていく。優しく丁寧なその手つきが、自分の中の不安や恐怖を解かしていく。
「もうすぐ戻ります。長く一人にさせて申し訳ありませんでした」
柔らかな声音に恐怖とは違う思いが溢れ、滴となって頬を伝い落ちる。
しゃきん、と鋏の音。鎖のような髪が背を滑り落ち、体が軽くなったのを感じた。
両肩に手を置かれる。その温もりに促されるように、そっと目を開けた。
「あ……」
目の前に置かれた姿見を見て、小さく声を上げた。
肩で切りそろえられた黒髪が揺れている。肩に手を置いて、彼が優しく微笑んでいる。
懐かしい記憶。こうしていつも彼が髪を切ってくれていた。
彼の姿も声も、はっきりと覚えている。忘れて消えてしまった訳ではないことが、何よりも嬉しい。
見つめる姿見が不意に揺らぐ。涙のせいだけではない。そろそろ夢から醒めるのだろう。
姿見に映る彼もまた揺らいでいく。醒めてしまう前にと、振り返り想いを口にする。
「ずっと……ずっと信じてた!帰ってくるのを待ってたの!」
彼の帰りを信じて、髪を切らずにいた。髪を切るのは彼だけだと、待ち続けていた。
伸ばした手が引かれ、抱きしめられる。懐かしい温もりと、ふわりと鼻腔を擽る香りに彼を感じて強くしがみついた。
「ありがとう。夢から醒めたら、また髪を切らせてください」
その言葉に、強く頷いて笑みを浮かべた。
髪を梳かれる手を感じて目を開けた。
「おはようございます。ただいまもどりました」
柔らかな微笑み。髪を梳く手の心地良さに目を細めた。
促されて起き上がる。手を伸ばして抱き着けば、確かな温もりが伝わってくる。
「おはよう。おかえりなさい」
そう囁けば、もう一度ただいまと声が返る。たったそれだけのことが、泣きたいくらいに幸せだった。
「朝食を済ませたら、髪を切らせてください。その後は二人で出かけましょう」
昔のように。
次々と浮かぶ記憶を思い浮かべ、小さく頷いた。
髪を梳く、愛しい手。
彼を想い伸ばした髪を、彼の手で切り揃えられる。
当たり前だった日常が戻ってきた。長い夢から醒めたようだ。
嬉しくて、幸せで。
彼の胸に擦り寄り、夢から醒める前に伝え忘れた言葉を彼に告げる。
「大好き」
一瞬驚いた彼がふわりと微笑む。
「僕は愛しています」
額に触れる唇の熱と共に降る言葉に顔が赤くなるのを感じながら、私も、と彼の頬に口づけながら囁いた。
20260320 『夢が醒める前に』
鮮やかな色彩に、目が覚めた。
起きてはいる。だがその表現が、今の自分には一番相応しい。
今まで、空の青の違いを気に留めたことはなかった。四季折々に咲く花の艶やかさも、その花に集う生き物の美も何もかも、知ろうとはしなかった。
「きれい」
無意識に溢れ落ちた言葉は、風に攫われ消えていく。代わりにひとひらの花びらが手の中に降ってきた。
「きれいだ」
心からそう思う。
世界はとても美しい。息づく命が愛おしくて堪らない。
手の中の花びらを風に乗せ、微笑みを浮かべた。
何も感じず、無意味に時が過ぎていくのを見つめていた頃には戻れないのだろう。
とくり、と鼓動が跳ねた。
初めての感覚。戸惑い、そっと胸に手を当てる。
とくとくと、規則正しい音を感じる。数多の生が刻むそれと同じリズムに、目を瞬いた。
生きている。
当たり前のような奇跡。泣きたくなるほどの喜びに、胸の高鳴りを覚えた。
「――あ」
揺れる輪を見つめ、ぼんやりと首を傾げた。
目を開けたまま、夢を見ていたような気がする。おかしなこともあるものだと、輪から目を逸らし、何気なく室内を見回した。
ベッドと机、棚にクローゼット。見慣れた自室の光景が、どこか物珍しく感じるのは夢の影響だろうか。
夢の残り香を飛ばすように頭を振り、ベッドに向かう。未だに揺れている輪が煩わしいが、夜もすっかり更けてしまっている。片付けるのは明日でもいいだろう。
電気を消し、ベッドに潜り込む。胸の高鳴りを感じていたが、目を閉じれば途端に睡魔に襲われる。これなら眠れそうだと、そのまま身を委ねた。
いつものように登校し、代わり映えのない教室で一日を過ごす。
周囲の視線は相変わらずだが、いつもよりは大人しい。こちらの様子を伺うような気配を感じるものの、態々相手にするのも面倒だった。
「――おい」
反応がないことに焦れたのだろうか。放課後になり、生徒が複数人でこちらに近づいてきた。
「お前、何で……っ」
生徒の言葉を、視線だけで黙らせる。
何人でいようと、所詮は子供。自分たちよりも弱い者にしか強く出れない子らの相手をするのは時間の無駄だ。
怖気づいたように後退る生徒を一瞥し、何も言わずに席を立つ。騒めく周囲など気にも留めず、帰宅するため教室を出た。
烏の鳴き声が聞こえた。
途端に、あちらこちらから小さな悲鳴や怯える気配がする。視線を巡らせれば、廊下を歩く生徒や教師までもが皆一様に俯いている。顔を上げて目を合わせることを恐れているかのようだ。
そういえばと、向けられる視線の原因を思い出した。
帰り道で烏と目が合ったと、恐慌状態に陥っていた生徒を、家まで送り届けたことがあった。その生徒は数日学校を休んでいたが、今は問題なく復帰しているはずだ。
その生徒の休みの原因を、自分が何かをしたからだと疑われた。反論も弁解も許されず、一方的な断罪を受けていた。
くだらない。内心で吐き捨てる。
親切を仇で返すのは、いつの時代になっても変わらない。一度恐怖を覚えると、猜疑心に蝕まれ支配されてしまうのは何故なのだろう。
答えのない、人間の愚かさの理由を考えながら、学校を出る。
先程よりも、烏が鳴く声がはっきりと聞こえる。『目』を警戒し、仲間に知らせているのだろう。
生徒や教師は烏に怯えているが、本当に警戒しなければならないものは『目』の方だ。
『目』という表現も正確ではない。だがそれを正しく表すことのできる言葉を、自分は知らなかった。
ただそこにあるだけのもの。しかし僅かでも覗き込めば、殆どの人間は一瞬で壊れてしまうのだろう。人間の理解を越えた先にある存在を見て正気を保っていられるなど、ごく僅かだ。
「昨日よりも学校に近づいているな」
飛び去っていく烏の群れを見ながら独り言ちる。近くに感じる『目』の気配に眉を寄せた。
最初の犠牲者が烏に『目』を重ねた理由は不明だが、今も烏と目についてしか言葉を話さないらしい。まだ当分は烏と目を合わせると狂うという噂はなくならないなと、肩を竦めて家路を急いだ。
夜。
ふと目が覚めた。
暗がりの中、視線を巡らせる。天井、カーテンレール、カーテン。
必死に輪にしたカーテンが元に戻っていることに酷く落胆した。やはり無理があったのだろうか。ならば別の方法を考えなければいけない。
「まだ朝は来ない。もう少し眠っていろ」
声がした。それは自分の声によく似ていた。
体を起こしかけた中途半端な体勢で目を瞬く。辺りを見回しても、自分以外にこの部屋には誰もいない。
「花畑は飽いたか?ならば次は海にしようか」
声は優しく語りかける。しばらく感じることのなかった悪意のない穏やかな声音に、思わず泣きそうになった。
姿の見えない誰か。
恐怖はない。自分には外の人たちの方が恐ろしく感じられる。
どこにいるのだろう。呼びかけようとして、唇がうまく動かないことに気づいた。
どうしてだろうか。不思議に思い、そっと唇に手を触れた。
「無理に目覚める必要はない。傷が癒えるまで、ゆっくりと休息を取るべきだ」
声がする。自分の口から優しい言葉が紡がれている。
一緒にいる。自分の中にいてくれる。
理解した瞬間に、瞼が重くなってきた。ベッドに横たわり、そのまま目を閉じる。
意識が沈む。遠く、潮騒の音が聞こえてくる。
もう大丈夫。
胸が高鳴るのを感じながら、甘い夢の世界へ身を委ねた。
朝の陽射しに目を開けた。
胸に手を当てる。とくとくと刻む鼓動に口元が緩んだ。
「案ずるな。もう大丈夫だ」
囁いて、体を起こす。また代わり映えのない一日を過ごすため、身支度を整えていく。
その日常もそろそろ崩れてしまうのかもしれないが。
自分には関係のないことだ。『目』を見て壊れた人間の末路など、気にかける必要はない。
「さて、急がないとな」
笑みを浮かべ、部屋を出る。
微かに烏の鳴く声を聞きながら、波打ち際ではしゃぐ自分を感じて胸を高鳴らせた。
20260319 『胸が高鳴る』
目を覗き込まれている。
閉じた瞼の向こう。すぐ側で誰かに見られている。
そんな感覚を覚えるようになったのはいつからだっただろう。
最初は気のせいだと思った。時折違和感を感じる程度のそれを、然程気にも留めなかった。
だが次第に違和感は強くなってきた。目を閉じると感じる何か。それが視線だと感じた時には、きっとすべてが手遅れだった。
視線を感じ、反射的に目を開ける。
カーテン越しに降り注ぐ朝の光。また一日が始まったことに、そっと安堵の息を吐いた。
軽く頭を振り起き上がると、ベッドから抜け出す。体は重く、立ち上がった途端にふらついてしまう。安静にすべきなのだろうが、このまま横になって睡魔に襲われる恐怖を思うと、多少無理をしてでも起きていたかった。
「大丈夫。ただの気のせいだ」
いつものように、声に出して自分自身に言い聞かせる。
もはや意味をなしていないこの行為を続けているのは、僅かな望みに縋っているというよりも、ただ目を逸らして逃げているだけなのだろう。
そんなことを思いながら、身支度を整える。カーテンを開ければ変わらぬ景色が、自分を置き去りにしていつもと同じ日常を始めようとしているように見えた。
「今日も大丈夫。いつもと変わらない」
縋るように繰り返す。どこかで烏が鳴く声に朝から不吉だと思いかけ、慌てて否定する。
思った所で変わらない。そう理解はしているが、できるだけ不吉だの縁起が悪いだのと考えたくはなかった。
気を逸らすように時計を一瞥し、窓に背を向け部屋を出る。
自分もいつもと同じ日常を過ごすのだと、ふらつく足に力を込めた。
「世界とは時に残酷で、不条理なものなのです」
声がした。
聞き覚えのある言葉に、自分が夢を見ているのだと気づく。
「どうか心を強くお持ちください。深く考えることがありませぬよう」
早く起きなければ。目を開けなければと意識だけが急くが体は指先一つ自由にならず、視線の先で揺らぐ住職の姿も、消えることはない。
「もはやそれしか、あなたを現世に留める術はありません」
硬い表情で、それでいてどこか悲しみや憐みを浮かべて住職は告げる。
所詮は他人事なのだ。込み上げる不快感に顔を背け、目を閉じる。
閉じて、しまった。
「っ……!?」
咄嗟の自分の行動を悔やむものの、もう遅い。
閉じた瞼の向こう側。すぐ側で誰かが目を覗き込んでいる。
感情の浮かばない、無機質な目。他には何もない。息遣いも、鼓動も感じない。
ただ視線だけを強く感じる。触れ合いそうなほど近くで見ている目だけを意識してしまう。
早く目を開けなければ。このままでは戻れない。
「心を強くお持ちください」
住職の声がする。
感じる目の恐怖から駆け込んだ、いくつかの寺の内のひとつで出会った人物。
どこへ行っても門前払いだった自分を招き入れながら、何もできぬと手を離した男。
「深く考えてはいけません」
固く閉じた瞼が震えた。
力を入れてこじ開けた隙間から、光が差し込んでくる。
「気づいてしまえば引きずり込まれ、戻ることは叶わない」
微かな警告の言葉に眉を顰めながら、残る力を振り絞った。
「――あ」
目を開けた瞬間に視界を染めたのは、朱の光。
気づけば夕暮れ時。遠くで烏の鳴き声を聞きながら、手にしていた本を閉じた。
本を読んでいる間に、いつしか眠ってしまったらしい。
溜息を吐きながら、本を手に立ち上がる。
閉館時間の近い図書館内は、いつもより人が少なく閑散としている。だからなのか、余計に烏の鳴き声が耳についた。
「そういえば……」
眉を寄せながら、ふと思い出す。
瞼の向こう側の目を感じる前、一羽の烏と目が合った。
無感情な黒く塗れた瞳。あの時は気にならなかったそれが、何故か酷く気になった。
――深く考えてはいけません。
どくり、と心臓が嫌な音を立てた気がした。
烏が鳴いている。その異様さに気づき、体が硬直した。
館内で烏の鳴き声が聞こえるはずはない。いくら人が少ないからといって、鳴き声以外の音が何も聞こえないなどありえない。
次々と浮かぶ疑問に、かたかたと体が震え出す。これ以上考えてはいけないと思うのに、考えることを止められない。
思い出す、目を開けた時の朱の光。夕暮れを、窓のない館内にいて感じることができたのか。
――気づいてしまえば。
住職の警告も、もはや意味がない。
自分の目は今、図書館内を見ている。だが、感じるのは烏の声。吹き抜ける風の冷たさ。香る草花の匂い。
視覚以外が、外にいるのだと訴えている。夕暮れの、烏と目が合った時のまま自分は立ち止まっている。
「あぁ……」
気づいてしまえば、その瞬間に視界が変わる。夕暮れの寂れた道端に佇んでいる。
烏の姿はない。鳴き声だけが響いている。
目を閉じれば、現れるのだろうか。
「――違う」
無意識に声が出ていた。
今更、目を閉じても閉じなくても変わらない。閉じた瞼の向こう側にいるのではない。
気づいてしまった。乾いた笑い声が喉を震わせ、見開いたままの目から涙が流れ落ちていく。
「最初から、いた……目が合った時に、もう……焼き付いて……」
目は最初からあった。
瞼の裏側に焼き付いて、閉じる度に目が合っていた。
――世界とは時に残酷で、不条理なものなのです。
住職の言葉を思い出す。
確かに不条理だ。自分はただ烏と目が合っただけ。たったそれだけで、目が焼き付き離れなくなってしまった。
泣きながら笑う。滲み揺らぐ視界で、影が伸びていく。
翼を生やした自分の影に見えるが、違うのだろう。
影が揺らぐ。湧き出た黒い靄が体を包み込み、目を覆う。
しばらくして離れていく靄に浮かぶ一対の黒い瞳。焼き付いていたはずの目が靄に移り、触れ合いそうなほど側で目を合わせている。
体は靄に包まれ動けない。瞼は靄に縫い付けられてしまったのか、もう閉じることができない。
「あぁ、不条理だ」
笑いながら呟いた。泣きながら叫んだ。
けれどすべては意味のない行為。
最初から手遅れだった。
これから先も、自分は目を合わせ続けるのだろう。
終わりはない。
永遠に目は離れない。
20260318 『不条理』