「そして少女達はいつまでも幸せに暮らしました。ですのね」
ほぅ、と水色の振り袖を纏う妖は吐息を漏らし、頬を染める。
一つの物語の結末を、彼女はめでたしめでたし、で締め括った。
「物好きね。そんな大層な言葉で締め括るなんて」
語り終えた緋色の打掛を羽織った妖は冷めた目をして呟いて、懐から煙管を取り出した。
「此処は火気厳禁ですよ、炎」
「あぁ、そうだったわね」
窘める言葉を軽く返し、おとなしく煙管を懐へと戻す。
口寂しさはあるが、出て行くほどではない。
常より気怠さを隠そうともしない緋色は、欠伸を一つするとごろりとその場で横になった。
「お行儀の悪い事ですね」
「あなたに強請られて態々訪れたのだから、これ位は許してもらいたいものねぇ」
「それは、そうですけれど」
不満そうに頬を膨らませ、水色は袂を振る。
端が解け、それは上質な紙となり筆となり。さらさらと書き付けられていく文字が、墨が乾けば巻物として閉じられて。
全てを書き終えたらしい紙や筆が袂に戻り。先に仕上がっていたいくつかと新たに仕上がった巻物は一つに纏まって、形を揺らめかせて一冊の本へと姿を変えた。
その本を手にし胸元で抱いて、狡い方ですね、と小さくぼやいた。
「わたくしが炎の話を好んでいる事は知っているでしょうに。そのように言われてしまえば、何も言葉に出来なくなってしまいます」
「静かになっていいじゃない。この話は目出度い話ではないのだから」
横になったまま、緋色は素知らぬ顔で目を細める。常と変わらぬ気怠さを纏いながらも、どこかもの悲しさを醸し出していた。
「一つの話が幸せなまま終わったからと言って、話の中の人間達がすべて幸せではないわよ。それに終わった話のその先が、必ずしも幸せにある訳ではないでしょうに」
「それは分かっています。物語の裏には、哀しい別れや報われない思いがあるという事は。このお話もそうでしたし」
本を手にしたまま立ち上がり、水色は近くの書架に本を収める。背表紙を指先でなぞり、分かっています、と言葉を繰り返した。
「全てが報われるお話など、それこそ本当の絵空事でしかないですもの。失ったものは戻らず、死した者が還る事もない。炎の視て語る話は、本物なのですから」
困難を乗り越えて望みを果たした者。過去から未来へと歩み出した者。
めでたしめでたしで終わった物語のもう一つ。その裏で悲願を叶える事の出来ない者がいた事を、水色はよく知っている。
人が人である限り、全ての願いが叶う事などないのだから。
「だからこそ幸せに終わったお話を、わたくしは尊いと感じるのです。今回のお話は特にそう。いつまでも幸せに、で締め括る事が相応しいと思えるほど素敵なお話でした」
頬を染め、話を思い返す。
そんな水色を呆れたように、冷めた目で緋色は見遣り、馬鹿ね、と吐き捨てた。
一つの終わりを迎えた話の先が不変であるはずがない。
どんなに願い思った所で、終わりのない平穏は虚妄だ。
「一つ話をあげましょうか。願いを叶え望みに応えた少女は、束の間の平穏すら享受する事なく人ならざるモノの世界へと誘われるのでした」
「っ、随分と酷い事を言うのですね」
「酷くはないわ。本当の事だもの」
短く息を吐き、緋色は立ち上がる。
気怠さは消え、剣呑な鈍色が煌めいた。
「戻るわ」
「分かりました。それではまた」
水色の言葉が終わらぬ内に、緋色の姿は煙となって掻き消える。
その姿を見送って、水色は物憂げに目を伏せた。
「まさか、坊やに呼ばれるとはねぇ」
薄暗く狭い部屋。
姿を現した緋色は、目の前の剣呑な表情を浮かべる男に対して艶やかな笑みを浮かべて見せた。
「聞きたい事がある」
「何かしら」
予想はつく。
この部屋からなくなったもの。足りないものがある。
見間違いであればよかったはずの事だろう。
緋色の言葉に男の表情はさらに険しく、その金の瞳は鋭くなる。
「黄櫨《こうろ》の躰は何処だ」
あぁ、やはり。
胸中で溜息を吐きながらも、緋色の表情は変わらず笑みを浮かべたまま。男の四肢に繋がれた縄が、男の感情に合わせて揺らめくのを視界の隅に捉えながら、伝えられる一つを口にした。
「坊やはあの娘を置いていくべきではなかったのよ。アレのいる場所に」
それだけですべて伝わったのだろう。
男の目が僅かに見開かれる。
「あの化生の屋敷か」
「いくら代わりがいれど、呪の塊でしかない娘を逃しはしなかったというだけの事。堕ちても元は守り神とされた妖よ。縁を辿れば、神域に潜り込むくらいは出来るわ」
緋色の言葉に、男の表情に苦々しさが混じる。それを気にせず緋色は淡々と見えたままを紡いでいく。
「屋敷に戻って閉じてしまった後の事は見えないわよ。あそこに煙はないもの」
「戻ってはいるのだな」
「えぇ、そうね。施された封印は強固だから喰らうにしても、他に何かに使われるにしても、すぐにはどうこう出来ないでしょうけれど。見えないのだから所詮は臆測でしかないわよ」
そうか、と男は短く答え目を閉じる。
揺らぐ縄が次第に動きを穏やかにし、姿を霞ませていく。そしてそのほとんどが見えなり、男の剣呑さも鳴りを潜めた頃、再び男は目を開いた。
「礼を言う。急に呼び出してすまなかった」
「過去が見えないのも不便なのね。気にした事もなかったけれど。まぁ、退屈しのぎにはなったわ」
ひらりと手を振り、香の煙を身に纏わせる。
そうして姿を煙と同化させ、戻る間際にふと思い出す。
「アレがまだ守り神をしていた頃を考えると、呪を求める意味に予想はある程度つくわ。藤白《ふじしろ》を探しなさい」
それだけを告げて、香の煙と共に霞み消えた。
20241030 『もう一つの物語』
「夜が怖いと思うのは、見えない事が不安だからだ」
暗がりを、それよりも昏い漆黒が歩いて行く。
「見えれば脳がそれを判断できる。記憶から情報を抜き出し、害あるものかそうでないかが分かるだろう。例えば」
かたり、かた、かたん。
見えない闇の先で音がする。
手にした提灯を向けると、そこには立てかけられた木の板。先ほどの音はこの板が音を鳴らしていたようだ。
「音がして、何を思い浮かべるのか。形。大きさ。材質。無機物か、生物か。目で認識したものとそれは、果たして同じだっただろうか」
立ち止まり距離が開いた事で、彼が視界から消える。
灯りの照らす範囲から出てしまったのだ。黒の衣服を身に纏い、黒のフードで顔すら分からぬ彼は灯りがなくてはその姿を捉える事が出来ない。
少し早足で後を追う。灯りの届かぬ暗がりに、立ち止まり待つ彼の口元だけが白く浮かび上がり、びくり、と身を震わせた。
と、と、と。ずり、ずっ。
背後から別の音。
振り返り提灯を掲げても、音は灯りの外にあるのか見えはしなかった。
諦めて前を向き直り、先行く漆黒を追いかける。
「暗闇は目を塞ぐ。残る器官は目の役割を補おうと常よりも鋭くなるだろう。気にも留めないはずの音や匂いを感じ取り、そこから情報を得ようとする。だが判断するには到底足りない」
たん、たん、ぎぃ、ぎぃぃ、たん。
上か下か。あるいは左右のどちらか。
音がする。暗がりに見えぬ何かが音を立てている。
灯りを向けて確認する事はしなかった。
それはきっと無意味な事なのだろう。
「判断出来ぬからこそ怯え、警戒する。不安に脳が混乱し、時に見えないものすら作り出す」
提灯の明かりと暗がりの境界が、歩く度に揺れる。揺れる境界が輪郭を変えて、いくつもの白い手になり招いている幻覚を見、振り切るように頭を振った。
「とはいえ、最初から暗闇にあれば時期に目が慣れてくるだろう。灯りがあるからこそその明るさに縋り、光の届かぬ暗がりを余計に怖れてしまう」
ふっ、と。
不意に提灯の明かりが消える。
一寸先も見通せぬ暗闇に立ち止まる。先が見えなければ、どちらに向かえばよいのか分からない。
と、と、と、ずりっ、と。
たん、たん、ぎぃぃ、たん。
かたん、から、から、かたり。
音がする。四方から大小様々な音が聞こえる。
誰かがナニかを引き摺りながら近寄ってくる。
縄にぶら下がるナニかが揺れて壁にぶつかっている。
卒塔婆が風に吹かれている。
幻覚だ。実際に見たわけではない。
すべて音を聞いた脳が作り出したまやかしだ。
「こちらだ」
声と共に手を引かれた。
促されるままに、再び歩き出す。
「暗がりを怖れ見る幻覚は、脳が錯覚して引き起こされたものだ。だが逆に、人を惑わすのに必ずしも暗闇は必要ないとも言える。直接脳を惑わせばいい」
ぼっ、と。
周囲に灯が点り、明るさに目を細める。
手にしていたはずの提灯はどこにもない。
「もうすぐだ」
するり、と引かれていた手は離れ、灯りに切り取られたかのような黒は歩き出す。
随分と歩いてきた。そういえば何処へ向かっているのだろうか。
「狐狸の類いが化かすのと似ているな。惑わして遊ぶか、攫うか。或いは喰らうか。さほど違いはないが」
立ち止まる。
数歩遅れて同じように立ち止まる。
「ここだ」
突き当たり。木の格子の先に、誰かがいる。
「やぁ。よく来てくれたね」
四肢を鎖に繋がれ座敷牢に囚われた男が、美しい笑みを浮かべて此方を見ていた。
「格子戸を開けて入ってきてくれ。ご覧の通り俺は自分で動けないからね。ここまで膳を持ってきてくれないか」
膳。
言われて気づく。いつの間にか暖かな膳を手にしていた。
「怖くはないよ。さぁ、おいで」
促されて格子戸へと近づく。鍵は掛かっていないようだった。
膳を床に置き、格子戸に手を伸ばす。
つきり、と。
格子の縁のささくれが指を突き刺した。
「どうしたんだい。早く開けてくれないか」
座敷牢の中の誰かが声をかける。
それに何も答えずに格子戸から手を離し、ゆっくりと立ち上がった。
座敷牢の中を見る。変わらず鎖に繋がれた男が一人。
そしてここまで案内をしていたはずの黒を身に纏う誰か。徐にフードを脱いで露わになったその顔は、繋がれた男と同じものだった。
「残念。あと少しだったのに」
「なんで」
溢れた疑問に返る声はない。
声なく、表情もなく此方を見つめる二対の眼に、思わず数歩後退った。
沈黙。静寂。
「…まぁ、いいか」
ふっ、と愉しげな笑みを浮かべ。
「ほら、さっさとお帰り」
ざらり、と鎖の音。
ぐにゃり、と視界が揺れて急速に色をなくしていく。
「またおいで。次こそは戸を開けて、此処から出してくれるとうれしいな」
囁く声を最後に、意識が落ちた。
20241029 『暗がりの中で』
「出かけるぞ。愛い子」
突然の訪問。有無を言わさず連れてこられたのは、綺麗な花が咲き誇る大きな庭だった。
庭の主であるらしい少年が、困惑した表情をしてこちらを見ているのが見えて、思わず彼を睨み付ける。
これは庭の主の許可を取っていないのだろう。押しかけてしまった事に対して、無理矢理連れてこられた身ではあるが申し訳なさが募る。
「落暉《らっき》」
名を呼ぶ。だが妙に機嫌の良い彼はこちらを気に留めることなく庭の奥へと歩き出し、途中でふらりと姿を消した。
一人置いて行かれ、痛み出した頭を押さえる。
状況が全く分からないが、このままという訳にもいかない。同じように何も知らされていないのだろう少年に近づき、声をかけた。
「ごめんなさい。急にあのじじいと押しかけてしまって」
「じじい?…あ、えと。大丈夫、です。来るとは聞いていました」
来る以外は聞いていないのだろうな、と消えた彼に対して胸中で悪態を吐く。
「本当にごめんなさい。戻ってきたらすぐ出て行きます。これ以上じじいの好きにはさせないので大丈夫です!」
「あ、いや。気にしないで、いい、です。俺、そういうの、気にしない、ので。大丈夫、です」
「あ、ごめんなさい!ただでさえ押しかけてきたのに、馴れ馴れしかったですよね」
視線を彷徨わせながら途切れ途切れに言う少年にはっとして、少し距離を取る。初対面で、しかも押しかけてきた側がこんなに一方的に捲し立てるのは良くない。
本当に今日は酷い日だ。そもそもの原因である彼を恨めしく思っていると、少年は手と首を振って大丈夫です、と慌てたように声を上げた。
「本当に、気にしないで大丈夫です。少しびっくりはしたけど、あの人?妖?さんが来る時は、暇な時、だったりするから」
それに、と少年は眉を下げ、申し訳なさそうな表情をする。
「今日の事はきっと、俺が余計な事を言ったからだと、思う。この前にもらったりんご、本当においしかったから。お礼が言いたいって言ったの、覚えてたんだ」
林檎。
そういえば、この前一緒に収穫した時にいくつか持っていっていたから、それの事だろうか。また勝手にとは思うけれど、それよりもおいしいと言ってくれた事の方がよっぽど重要で嬉しい事だった。
「あ。まだ自己紹介をしていなかったですね。樹《たつき》って言います。名前、聞いてもいいですか」
「あ、はい!桔梗《ききょう》です。お母さんが一番好きな花の名前だって聞きました。あと、そんなにかしこまらなくてもいいです」
「じゃあ、桔梗さんもいつも通りでいい、よ。えと、綺麗な名前、だね」
「桔梗でいい。ありがとう。樹さんも素敵な名前だと思う」
「あ、俺も樹でいい、から」
ぎこちない空気が漂う。
けど仕方がない。人と話すなんて、本当に久しぶりなのだから。
樹という名の少年は緊張しているだけなのだろうけれど、こちらは滅多に家や庭以外に出る事がない。彼や人の姿に化けた狸や狐達とはよく話すけれども、人のしかも年の近い子と話すのは本当に久しぶり過ぎて、何を話したらいいのか分からない。
「おや、もう仲良くなったのか。いい事だ」
急に聞こえてきた声に、振り返る。
すべての元凶である彼だが、この気まずい空気から逃げられるのはありがたい。
「ちょっと、勝手に連れてきておきながら、置いていかないで」
「儂と離れて寂しかったのか。本当におまえは可愛い子だなぁ」
「違うから。ってやめて!抱き上げないでよ。恥ずかしいから」
破顔して片腕だけで抱き上げられる。
人前の恥ずかしさから逃げようとするが、どんなに暴れても彼が気にする様子はなく逆に宥めるように背中を撫でられる。
「この子は人との関わりが少ないからなぁ。出来ればこれからも仲良くしてやってくれないか」
「それは、全然大丈夫ですけど」
「そうか。ありがとう。では、そろそろ行こうか」
背中を撫でていた手が離れ、おいで、と樹に差し出される。
どこへ、という疑問には笑うだけで答える事はない。
片腕で私を抱き上げ、もう片方の手は樹と繋ぎ、先ほど消えていった庭の奥へと歩き出す。
くるり、と世界が反転するような感覚。此方側から彼方側へと境界を越えた合図。
瞬き一つで景色を変えた庭に思わず、あ、と声が漏れる。
「きれい」
「だろう。なんせ此処は儂の気に入りの庭だからなぁ」
手入れをしている訳でもないだろうに、自慢げに言う彼に呆れた視線を向ける。抱き上げている手を叩けば、そっと下ろされる。
ほっと、安堵の息を一つ。
手を離された樹が庭の木魅や風に声をかけられ、妖たちに遊ばれている。それを笑い眺めながら、庭に愛されているのだな、と自分の事のように嬉しくなった。
「おいで。お茶にしよう」
彼に声をかけられて視線を向ける。白いアンティーク調のテーブルの上に、色鮮やかなお菓子やティーセットが置かれているのが視界に入り、その豪奢に息を呑んだ。
恭しく椅子を引いて待つ彼に促されて座れば、反対側に妖達に連れられた樹が同じように椅子に座った。
ふわり、と紅茶とお菓子の香りが漂い、庭の景色と合わさってまるで異国に来たみたいだ。
「どうしたの?これ」
「なぁに。菓子を作ってくれと強請られたからなぁ。久方ぶりで気合いが入ってしまったのさ」
「これって、もしかして全部りんごですか?」
「よく分かったなぁ。果実を茶にするのはちと骨が折れたが、うまいぞ」
正直、ここまで張り切られるとは思っていなかった。
上品に紅茶をカップに注ぐ彼の姿は普段とは違って見えて、じわじわと全身に熱が巡っていく。
「ほら、おまえが育て刈り取った果実だ。そのままでも十分にうまいが、こうして手を加えるのも悪くないぞ」
「うん。ありがと」
小さく礼を言って、カップに口を付ける。
仄かな甘みと酸味が口の中に広がって、まるで収穫したばかりの林檎を囓った時のような高揚感に口元が緩む。
「おいし」
「そうだろう。菓子もたんと食え。ほれ、坊主も遠慮なぞするな」
「あ、いや。俺、ここにいない方がいいのでは」
「何を言っている。庭の主が不在のまま茶会なぞ出来るものか」
最もな言葉に樹を見れば、戸惑いを顔に浮かべてでも、と続ける。
「親子の時間を邪魔するのはちょっと。俺の事は本当に気にしなくていいから」
「親子?落暉と私が、親子?絶対に違うから!」
「え、そうなの?何か雰囲気が父と娘って感じがしてたし、てっきり人じゃないのかなって」
止めてほしい切実に。
表情に出ていたのだろう。ごめん、と謝られて仕方なくいいよ、と返す。
ちらりと横目で見えた彼の残念そうな顔は、見ないふりをした。
話題を変えるように、視線で紅茶を飲むように促す。
気まずい色を浮かべた目が、紅茶を口にして驚いたように見開くのを見て、ふふ、と笑う。
「おいしい。今まで飲んだ紅茶の中で一番おいしいよ」
「良かった」
「当たり前だろう。おまえの果実なのだから」
当然だと笑う彼に、いくつかのお菓子を取り分けた皿を手渡され、礼を言いながら口にする。
甘すぎず、口の中で解けていく感覚がまたおいしさを際立たせていて、つい食べ過ぎてしまいそうになる。
「おいしいね」
「うん。これもおいしいよ」
「ありがと」
樹と二人笑い合う。
彼に紅茶を注がれ、互いにおいしかったお菓子を教えて。
「たまにはこういうのもいいね」
「またおいでよ。ここまで豪華なものは出せないけど、おいしいりんごのお礼をさせて」
「じゃあ、今度は林檎以外に何か持ってくる。約束」
次がある事に、密かに高鳴る鼓動を隠して約束をした。
20241028 『紅茶の香り』
気づけば、暗闇の中。
一寸先すら見えぬ暗闇に、けれども懐かしさを覚え眼を細めた。
――おねえちゃん?
りん、と鈴の音。
「銀花《ぎんか》」
振り返り、声をかける。
姿は見えない。だが確かにそこにいる気配に、徐に腕を伸ばしその手に触れた。
「大丈夫だ。怖くない」
びくりと体の震えが触れた手から直に伝わる。
これ以上怖がらせぬようにと声をかけ、人差し指を軽く握る。
片割れが弟妹《きょうだい》によく行う仕草。それをまねれば、強張る体から僅かに力が抜けたのを感じた。
――おねえちゃん。
鈴の音。布ずれの音。
どうやら己に合わせ、身を屈めたらしい。
握る手を解かれ、代わりに額に指が触れる。
額から左瞼をなぞり。頬の輪郭を辿り、唇へと小さな熱が移動していく。
こそばゆさに身を捩れば、微かな吐息が暗闇を震わせた。
――違う。もう一人のおねえちゃん。
「正解だ。よく分かったな」
頷き、笑みを浮かべる。
離れてしまった指を追って手を伸ばし、触れた指を再び握る。
――おねえちゃんが、連れてきたの?
「どうだろうな。確かにここは私が作り上げた歪ではあるが、むりやり連れ出した記憶はないな」
辺りを見渡せば、変わらぬ一面の闇。
此処がかつて片割れと共に眠っていた鳥籠の中である事は、見えずとも分かる。
だが此処にいる理由も妹がいる意味も、何一つ分からない。
感覚からして、己の眼によるものであるのだろうが。
――皆探してる。一緒に帰ろ?
鈴が鳴り。指を握る手が外され繋がれる。
見えぬと知りながら、それに首を振って否を返した。
「すまないな。私はすでに拾われてしまっている。勝手に戻る事は出来ないよ」
綺麗で哀しい彼を思う。
終わりを求めて迷い込んだ箱庭の、停滞した孤独を抱えた術師を一人にする事など最早出来る訳もない。
――そう。分かった。
すべてを告げずとも戻れぬ理由を察したのだろう。
引き止める言葉はなかった。
「あぁ、そうだ。会えたのならば、聞きたい事があったんだ」
――何?
沈黙を乱し、妹に問いかける。
「お前は己の名を、どのように思っている?」
狭間で生まれた弟妹の中で、末に生まれた彼女だけが両親以外の妖に名付けられた。
弟二人とは異なり、母の血を濃く継いでしまったためであるのだろうが、それを妹は嘆く事などあったのか。
――大切な宝物。東風《こち》が私を想ってつけてくれた、私だけの特別。
りぃん、と澄んだ鈴の音色。
名を与えられた事が幸せだと、何よりも嬉しい事なのだと。
柔らかく音を響かせる。
――おねえちゃんは?名前、嬉しくないの?
逆に問われ、否、と笑う。
名を与えられて嬉しくないなどあるものか。
「うれしいさ。私を想い付けてくれた名だから。満月《みつき》と呼ばれる声が何よりも好きだ」
腕を伸ばし、妹の髪を撫でる。
銀花、と想いを込めて名を呼んだ。
――満月お姉ちゃんに名を呼んでもらえるの、嬉しい。
「私も銀花に名を呼ばれるのは好きだ」
たまには、彼以外に名を呼ばれるのも悪くない。
ふふ、と思わず声を上げて笑う。
「心配ではあった。銀花だけが両親に名を与えられぬ事を、本当は気に病んでいるのではないかと。ただでさえ、やっかいな眼を持ったのだから。これ以上傷ついてはほしくなかったんだ」
――気にかけてくれてありがとう。満月お姉ちゃん。
ふわりと微笑む妹が、暗闇の中はっきりと見えて。
もう時間かと、少しばかり残念に思った。
手を離す。一歩だけ後ろに下がり。
「そろそろだな。次に会えるかは分からないが、また会えればいいと思うよ」
鈴の音が鳴る前に、目を閉じた。
目を開ける。
変わらぬ暗闇に、けれども眼前に映し出される白黒の光景に、まだ陽が落ちていない事を知る。
妹との会話を思い出し、唇に触れる。
何故、あんな事を言ったのか。
名を呼ばれる事を、その声を好きなどと。
名とは呪だ。
一番身近であり強力な、時に在り方すら定められるもの。その者を支配する不可視の鎖。
それは言い換えるとするならば、名付けた者の愛だ。
想いや願いを込めた、愛の言葉。先の生を照らす導であり、離れぬようにと結びつける印。
「満理《みつり》」
名を呼ぶ。己に名を与えた彼の名を。
ただ形を定めるためだけの言葉だと思っていた。拾われた事も彼の気まぐれであると。故に妹に問われるまで、気にかけた事もなかった。
「満理」
歌うように、囁くように、名を口の中で転がして。その響きに目を細めた。
不意に白黒の光景が音もなく掻き消える。
暫しの沈黙。
かたり、と音がして、闇が溶けるように消えていく。
広がる星空と草原。
何よりも綺麗な、人。
「満月」
名を、呼ばれる。触れる指の熱が心地良い。
目を閉じて擦り寄れば、くすりと笑う声がした。
「妹御との逢瀬は如何で御座いましたか?気になさっていたでしょう」
「満理のしわざか」
目を開けて彼を見上げる。
今日は随分と機嫌が良いらしい。優しく細まる深縹に、落ち着かず身を捩る。
「満月」
名を呼ばれる。普段とは異なる響きのそれが、目眩にもにた感覚を呼ぶ。
止めようと伸ばした手は絡め取られ、形の良い唇が満月、と何度も繰り返す。
「満理。それ以上は」
「おや。好きなのでしょう。妹御に話していたではありませぬか」
「っ、聞いていたのか」
「満月は私のものに御座いますれば」
くすくすと少女のように軽やかに笑う。
「満月も妹御も随分と厄介なものに好かれてしまったのですね。可哀想に…知っていますか。銀花とは雪を差す事もあるのですよ。風に舞う雪。本来は風花と名を付けたかったのでしょうね」
己のものであると示すために。
愉しくて仕方がないと笑う彼に、呆れたように一つ息を吐く。己の事すら揶揄って笑う彼は気づいていないのだろう。
「それはつまり、満理も愚弟も似たような者だという事か」
彼の笑みが消える。
口にするつもりはなかったが、どうやら声に出てしまっていたらしい。
「満月」
「だってそうだろうが。だが口に出すつもりはなかった。悪かったと思っている。だからその顔を止めろ。それ以上強く手を握るな。痛いって!」
絡めたままの手を強く握られ、痛みに涙が滲む。
本当に心の狭い男だ。
逃れようと身を捩れど逃れる事は叶わず。満理、と縋るように声を上げれば、漸く手を離された。
「不用意に言葉を紡ぐからで御座います。反省なさい」
言葉こそは冷たいが、その声音はどこか窘めるような響きを持って紡がれる。
「満月」
名を呼ばれる。優しく愛おしげに。
何故か気恥ずかしくなり、視線を外し空を見た。
彼の箱庭に広がる空には月は見えない。ただどこまでも星が続いているだけだ。
「満理の箱庭には月がないのだな」
ふと気になっていた事を呟けば、呆れたような溜息が一つ。
「月なれば此処にあるでしょう。小さく粗雑ではありますが」
そっと頬に触れられ、促されるようにして視線を合わせる。
揺れる深縹が、淡く微笑んだ。
20241027 『愛言葉』
「聞いてない」
「言ってないもん」
にこりと笑う友人を睨めつける。
「っ、帰る」
「今更だよ。覚悟決めなって」
「だから、心の準備がまだ、」
言いかけた言葉は、見知った少女を視界に入れた事でそれ以上は形にならず。
逸らそうとして逸らす事が出来ない視線が、逆に不自然で目立つような気がして。助けを求めるように、責めるように友人を見た。
その視線に、やはり友人は笑みを返し。事もあろうに少女達に向けて大きく手を振り呼び寄せた。
「こっち!」
こちらに気づき、近づく二人の少女。
活発そうな少女がもう一人の手を引き、おまたせ、と声をかけた。
「ごめん。待った?」
「全然。私達も今来たとこ」
ね、と同意を求められ、無言で頷く。
「取りあえず、お茶にしよっか。この近くにいいお店があるんだ」
友人に促され、そろって歩き出す。
すぐ側に、手を伸ばせば触れられるほど近くに、懐かしい彼女がいる。
その事実に、酷く泣きそうだった。
落ち着いた曲の流れる、カフェ内。
奥の四人席にそれぞれ座り、一通り注文を済ませた後の事。
「まずは自己紹介からだね。私は紺《こん》。んでこっちがあーちゃん」
「あだ名で自己紹介なんてしないで……彩葉《あやは》。一応よろしく」
笑顔で適当な自己紹介をされそうになり、溜息を吐きながら名を名乗る。
よろしく、でいいのかは分からない。そもそもこの集まりがどういうものなのか、友人からは何一つ知らされていなかった。
不安に少し冷たい言い方になってしまった気もするが、目の前の二人は気にしていないようだ。
「あたしは曄《よう》。よろしく」
活発そうな少女が、こちらを見て笑いかける。それに小さくよろしく、と返して、自然と目がもう一人の彼女へと移る。
目が合う。小さくはにかんで、ゆっくりと口を開いた。
「黄櫨《こうろ》、です。よろしく」
思わず伸ばしかけそうになる手を、机の下で強く握り締める。
今の彼女とは初対面だ。出会ったばかりの見知らぬ女にちゃんと自己紹介が出来た事を褒められても、困るだけだろう。
「それで?これは何の集まりなわけ?」
意識を逸らすように、友人へと視線を向ける。
無意識に目つきがきつくなってしまうのは、仕方がない。
「何って…女子会?みたいな。状況報告でお互いに落ち着いたみたいだし。連休だったしで、いいかなぁって」
「あたしもこの子を連れ出したかったし。ちょうど良かった」
顔を見合わせ笑う友人と少女に、溜息が漏れる。
文句の一つでも言おうかとも思ったが、タイミング良く注文した品が来た事で、取りあえずは口を噤んだ。
「彩葉さんが頼んだやつって、あんみつ?珍しいね」
少女の言葉に、顔を上げて首を傾げた。
「あんみつだけど。そんなに珍しい?」
「あたしがただ知らないだけだと思うけど。近所のカフェは皆ケーキとか洋菓子メインだから」
言われれば確かに。ここ以外であんみつやぜんざいなどがメニューにあるのを見た事がない。あって抹茶パフェくらいなものだ。
友人に視線を向ける。最近よく来るカフェではあるが、ここがおいしいと連れてきてくれたのは友人だった。
「だってあーちゃん。和菓子、好きじゃない。お寺にばっかいすぎたせいもあるんだろうけどさ」
「まあ、確かに。ケーキと大福なら、大福の方が好き、かな……ありがとう」
つまりは自分の好みに合わせて、カフェを探してくれたのだろう。
礼を言って気恥ずかしさに視線逸らし、白玉を掬って口に入れる。
仄かな甘みを噛みしめながら、ふと視線を上げる。
ちらちらとあんみつを見ていた彼女に、そういえば餡子は彼女の好物だったなと思い出し。
深く考えず、白玉と餡をスプーンに乗せて彼女に差し出した。
「え、あの。その」
「ぁ…ごめん」
困惑する彼女にはっとして、慌ててスプーンを下げ俯く。
やってしまった。彼女を困らせてしまうつもりはなかったのに。
「あ、別に嫌とかじゃなくて。あの、びっくりしたというか。その」
こちらを気にしてだろう。慌てて不快ではないと伝えてくれる彼女に、ただ申し訳なさが募る。
「ごめん。やっぱ帰る」
「あーちゃん」
「っ、待って!」
立ち上がりかけた体は、けれど友人の手と彼女の呼び止める声にそれ以上動けず。
縋るように友人を見れば、何も言わずに首を横に振られた。
彼女を見る。先ほどとは違い真っ直ぐな眼に、促されるようにして席に着いた。
「あの、本当に嫌ではなかったんだ。なんかどちらかというと、うれしかったし。懐かしいな、って」
柔らかく微笑まれる。
懐かしい、の言葉には、どう返すのが正解なのか。分からず何も言えない自分に、大丈夫だと掴まれたままの手が優しく繋ぎ直される。
「きっと彩葉さんは、お社にいる私にとって大切な人なん
だなって分かる。思い出せない事がすごく苦しいくらいだ…だから、これは私のわがままでしかないけれど、彩葉さんが許してくれるなら、友達になってもいい?」
何か頼み事があるとまず相手に許可を求めるのは、彼女の良い所であり、悪い所だ。昔からずっと変わらない。
そしてその頼み方に、自分は一等弱いのだ。
「彩葉でいいよ……こちらこそ、よろしく」
視線を逸らして、小さく呟く。ふふっ、と隣から聞こえた噛み殺したような笑い声に、八つ当たりも兼ねて、足を蹴った。
「ちょっ、暴力反対」
「五月蠅い。笑う方が悪い」
くすくすと、今度は目の前の二人も笑い出し、もう一度友人の足を蹴って誤魔化すように笑う。
何だか、先ほどまで色々と気にしてぎこちないと思っていた空気が嘘みたいだ。
気にしていたのは自分だけだったのだと気づいて恥ずかしくなる。
「あーちゃんは気にしすぎさんだからねぇ」
心を読んだように友人が笑う。
「ま、いいや。あーちゃんが慣れてきたみたいだし。改めて、女子会の開催でも宣言しちゃおっか」
「もう、紺の好きにするといいよ」
「仲良いね、二人とも。あぁ、そうだ。あたしも彩葉って呼んでいい?あたしの事も曄って呼んでいいから」
「分かった。さん付けって慣れないから、正直助かった」
「それじゃ、改めてよろしく、彩葉…で、あんたは物欲しそうにあんみつ見ないの。また今度買ってあげるから」
「み、見てないから」
急に賑やかになってしまった。だがこの賑やかさは苦ではない。
少しだけ、懐かしくて寂しい気もするけれど。
「一口だけだよ」
もう一度差し出したスプーンに、今度は困惑する事なくうれしそうに口を開ける彼女を見ながら。
どこかぼんやりと、過ぎてしまったあの夏を思い出していた。
20241025 『友達』