見下ろす海はきらきらと煌めいて、とても美しかった。
そっと膝をつき、手を浸す。煌めく光を掬おうとしても、手を擦り抜けるばかりで何一つ掴めなかった。
小さく息を吐く。手を引いて座り、今度は両足を海に浸した。
金属のように、澄んだ高い音が聞こえる。いつもは聞き入るその囁きを、今夜は何故か楽しめなかった。
視界に広がる、どこまでも広大な星の海。
胸元を飾る、煌めきを失った星屑にそっと触れる。悲しくはないはずなのに無性に泣きたくて、きつく目を閉じた。
どれくらいそうしていただろう。
ふと、羽ばたく音が聞こえた。目を開け視線を落とすと、星の海の底から何かがこちらに近づいてくるのが見えた。
息を呑む。ものすごい速さで近づくそれは、ばさりと大きな翼を羽ばたかせ、海から飛び出した。
星のように煌めく大きな銀の翼。同じ年ごろに見える少女は、器用に宙で止まったまま、辺りをぐるりと見渡した。
「あ。こんばんは」
その目と視線が合い、少女は丁寧にお辞儀をする。慌てて同じように会釈をすれば、少女は途端に破顔して、音もなく隣に降り立った。
「休憩ですか?お仕事ご苦労様です」
「あ、ありがとう、ございます……?」
随分と不思議な空気を纏った少女だった。にこにこと笑顔でその場に座り、興味深げに海を覗いている。
手を差し入れて、星を掬う。自分がした時は擦り抜けるばかりだった星。それが簡単に掬えたことに驚き息を呑めば、少女はこちらに視線を向けて掬い上げた星を放り投げた。
「流れ星に願いを言うと叶うって、知ってますか?」
首を傾げる。聞いたことがあった気もするが、それはここに来る前の話だろう。
星よりも高い所にあるこの場所では、流れ星を見るには海を覗き込まなければならない。ずっと誰かのために星の欠片を箱に収めてリボンをかけていただけの自分には、今までそんな余裕はなかった。
「本当に願いが叶うの?」
無意識に溢れた言葉に、今度は少女が首を傾げた。少し悩む素振りをみせて、口を開く。
「お呪いのようなものなので、必ず叶う訳ではないです。それに正しくは、『流れ星が消える前までに願いを三回言えば叶う』なので、結構難易度が高いんですよね」
「流れ星が……消えるまで……」
そっと足元の海に視線を向ける。一瞬だけ星が流れ消えていくのが見えて、この短さで願い事を三回言うことの難しさに苦笑した。
「お姉さんは、叶えたい願いはありますか?」
熱心に見ていたからだろうか。少女に問われ、思わず胸元の星屑に触れた。
大切な誰かから貰ったペンダント。でもその誰かを忘れてしまった。
思い出したいと願ってしまうのは、ただの我儘だろうか。
「お姉さんは真面目なんですね。少しくらいは自分を一番に考えてもいいと思いますよ」
触れている星屑を指さし、少女は言う。
「そもそも、生まれ落ちる命のために色々な感情や思いを宿した星の欠片を箱に詰めて送ってきたお姉さんが、自分の想いを制限されるのは不公平だと思うんです。こんなにたくさんある星の欠片の一つくらい、誰かのためじゃなくて自分のために使ってもいいじゃないですか」
星よりも煌めく瞳をして、不敵に笑う。指さす手が伸びて、腕を掴まれた。
だから、と少女に腕を引かれ立ち上がる。
ばさり、と大きく広がる銀の翼。羽ばたけば、少女と共に体が宙に浮いた。
「お姉さんは少し悪い子になっちゃいましょう……知ってますか?流れる星は、願いを聞くんですよ。それで叶えてもいいかなって思ったら、ほんの少し願いを叶えるお手伝いをする」
空を飛んでいる。不安で少女にしがみつけば、大丈夫だというように背を撫でられた。
それだけで、不思議と心が穏やかになっていく。視線を巡らせ、足元の海を見下ろした。
「さて、行きますか。星がお姉さんとお兄さんの願いを叶えるため、流れていきますよ。しっかり掴まっててくださいね」
その言葉が終わらない内に、少女と共に海の中へと飛び込んだ。
瞬く星の光で目が眩む。咄嗟に目を閉じれば、四方から聞こえる澄んだ音が音楽を奏でているかのように重なり響いた。
風が頬を打つ。それだけ速く飛んでいるのだろう。
流れ星のように。
「ほら、見えてきましたよ」
風に掻き消されることのない、はっきりとした少女の声がして目を開けた。
視界に広がる、星とは違う煌めくもの。忘れかけていた記憶が、それは海だと告げている。
風に海が混じり出す。どこか湿り気を帯びた、鼻腔を刺激する香り。どこか懐かしく感じられるのは、記憶の欠片がここで生まれ育ったことを示しているからなのだろうか。
「綺麗……」
目を細め、呟いた。その声に少女は嬉しそうに笑い、海の端へと指を差す。
まだ遠いそこに、誰かがいる。砂浜に立つその影を見た瞬間、胸が苦しくなった。
「お姉さん、もう少し我慢しましょう?泣くのはお兄さんの所に行ってから、ね」
優しい声に、滲み出す視界を拭い影を見続けた。瞬きの間に近づいて、影がこちらに気づいて視線を向けた。
「――っ」
少しだけ驚いたような表情。目が合った瞬間、必死に堪えていたものが溢れ出した。
滲む視界で、彼が腕を広げているのが見える。それに答えようと身じろげば、少女は軽く背に手を当て、掴んでいた手を離した。
「星が願いを叶えられるのはここまで。行ってらっしゃい、お姉さん」
「っ、ありがとう!」
泣きながら少女に礼を言って、そのまま彼の腕の中へと落ちていく。抱きしめられる温もりに、忘れてしまったものが戻ってくるのを感じた。
誰よりも愛しい彼。想いを告げるために、禁を犯して星の欠片を渡してくれた。
ようやく思い出すことができた。
「会いたかった」
「俺もだ」
止められなくなってしまった涙を拭い、彼は優しく囁く。
「流れ星に願いを託すと叶えられるというのは本当だったようだ」
そう言って、彼は上を見上げた。その視線を追って顔を上げ、無数の星々の煌めきに息を呑んだ。
星が流れていく。あの澄んだ音は聞こえない。遠く、高く、腕を伸ばしても届かない。
空は遠いものだと、今更ながらに思い出した。
「戻りたいか?」
そう問われ、彼を見つめ無言で首を振る。この手を離すことは自分にはできなかった。
彼の胸に凭れ、ふと胸元に仄かな熱を感じた。視線を落とすと、星屑が光を宿しているのに気づく。
赤い色。その煌めきは、愛しい想いの色だと知っている。
そっと欠片に触れる。その手を彼の大きな手が包み込む。
彼と目を合わせ、微笑んだ。
「愛している」
甘い囁き。頬が熱を持ち、思わず俯きそうになるのを耐えて、言葉を返す。
「私も、愛してる」
貰った時には恥ずかしくて言えなかった言葉。
ようやく言えた。恥ずかしさよりも嬉しさが勝り、また一筋涙が溢れ落ちた。
目を閉じる。額に触れる熱を感じながら、流れた星に向け、ありがとうと呟いた。
20260425 『流れ星に願いを』
しゃん、と響く鈴の音。
足を踏み出す。頭を垂れる。
暗い広間には、自分以外に誰の姿もない。笛や太鼓の音もなく、自分の中の記憶だけを頼りに決められた動きを繰り返す。
「こんな夜更けまで練習ご苦労様。でもいい子は寝る時間だよ」
呆れた声と共に、部屋に明かりが灯される。
急な眩しさに目を細め、動きを止める。何度か瞬いて、部屋の入り口でこちらを見つめる彼女に視線を向けた。
「夜更かしなんて悪いことしてないで、さっさと寝なさい」
「もうちょっとだけ……」
「駄目。ルールはちゃんと守らないと。それに明日も早いんだからね」
そう言われてしまえば、これ以上反論することなどできない。鈴を片付けながら、小さく溜息を吐いた。
この村には、いくつか決まり事がある。
一つ一つはとても些細なことだ。夜更かしをしない、朝晩の食事は家族そろって食べるなど、子供に教えるような簡単なもの。
村の決まり事だと、誰かに言われたわけでもない。文字に記されているでもない形のないそれらは、けれど村の誰もが自然と受け入れ守ってきている。
「本当に真面目なんだから。お祭りまで、まだ時間があるでしょう?」
「そうだけど……でも何だか落ち着かなくて」
俯きがちにそう零せば、彼女はまた呆れたように真面目だと呟いた。
明かりが消され、部屋が暗くなる。ぼんやり浮かぶ彼女の影を追って、部屋を出た。
「今から気負っても仕方がないでしょうに……どうせ、神様なんていないんだから」
迷いのない声音。彼女が当然のことのように神様はいないと告げる度、心の底に黒く固いものが沈んでいくような気がして苦しくなる。
「一度壊れたものは、元には戻らない。外側だけ同じように直しても、完全に同じにはならない」
歌うように彼女は囁く。彼女と出会ってから何度も聞かされていたことだ。
遠い昔、ここに暮らす人たちには決まり事など一つもなく、自由だった。
だから間違った。自由を振りかざし、越えてはいけない境界を踏みにじってしまった。
祭事を否定し、社を壊してしまったのだという。村の全ての人がそうではなかったのだろうけれど、社を失った神様は村からいなくなってしまったらしい。
神様がいなくなって、しばらくは村に変わりはなかった。
一年過ぎ、二年過ぎて。
そして三年目。
その年は、雨が降らない日が続いたという。
田畑は枯れて、人々は食べるものがなくなった。飢えによる苦しみの捌け口を求め、最後には社を壊した人が犠牲になったらしい。
酷い有様だったと彼女は言った。まるで直接見てきたかのように、当時のことを詳細に記した書物を読み聞かせながら、彼女は何度も教えてくれた。
「自業自得と言ってしまえばそれまでだけど。彼らを止めようとしなかったのに、率先して責め立てるのは滑稽で、とても哀れだね」
自業自得といいながら、滑稽だといいながら、彼女は少しだけ悲しそうに笑う。
その笑顔を見る度苦しくて、自分にできることをずっと探し続けてきた。
「神様」
「だから何度も言ってるけど、私は神様なんかじゃないよ」
無意識に溢れた言葉を、彼女は否定する。
「何度言っても直らないね。夜更かしをする。間違った認識を改めようとしない……あと何個、ルールを破るのかな」
「ごめんなさい」
溜息を吐く彼女の背に謝りながらも、内心ではきっとこのまま自分は変わらないのだろうと思っている。
このまま一人だけ決まり事を破り続け、きっと最後には彼女のようになるのだろう。
彼女は神様ではない。それを理解している。
何度も読み聞かせてくれた書物の字は、彼女の筆跡と同じだった。
不意に彼女が立ち止まる。
気づけば、自分の部屋の前まで来ていた。
「ほら、早くお休み。よく寝て、ご飯を食べて、勉強も頑張るんだよ」
部屋の戸を開けて、軽く背を押される。大人しく部屋に入ると、いい子と褒めるように頭を撫でられた。
「折角ルールを作ってあげたんだから、ちゃんと守りなさい。こちら側に近づきすぎて境界を越えたら、戻れなくなってしまうのだから」
「分かってる……おやすみなさい」
微かな声であいさつをして、彼女に背を向けた。
ぱたん、と戸が閉まる音。それきり何も聞こえなくなる。
小さく息を吐いてベッドに歩み寄り、そのまま倒れ込んだ。昨日焚いた香の匂いが残っているようで、息を吸い込むと澄んだ香りが体の内側に染み込んでいく感じがした。
途端に眠気が襲い、大人しく目を閉じる。微睡みの中で、彼女の言葉を思い出す。
――境界を越えないように、ルールを守りなさい。
人として生きるための基本的な決まり事。守る限りは、人として生きられる。
昔、父に聞いたことがある。社が壊された時、祖先は神楽を舞い続けた。
直した社の中で、寝食を惜しんで何日も。去ってしまった神様のために奉納した。
神様が戻ってきたのかは、父は教えてくれなかった。父にも分からないのだろう。
きっと、境界を越えてしまった彼女だけが、全てを知っている。
意識が沈む。現実が遠くなり、夢の中で笛と太鼓が響き出す。
手には扇。体の一部のように望むままに動かし、音に合わせて舞い始める。
彼女は悲しむだろうか。ふとそんなことを思う。
けれどもう引き返せない。いつか境界を越えてしまうことを、きっと自分は彼女に出会う前から理解していた。
くるりと扇が舞う。いなくなってしまった神様へ、祈りを捧げ舞い続ける。
人々が苦しむ時、縋れるものになれるように。感情の捌け口を、二度と誰かに向けさせないように。
優しい彼女と同じ場所に立つため、夢現に神楽を奉納する。
20260424 『ルール』
しとしとと、雨が降っている。
「まただ……」
空を見上げ、息を吐いた。足早に部屋を出て、玄関に向かう。
外に出た瞬間、鼻腔を掠める雨の匂い。部屋で見た時よりも強さを増した雨に、眉を寄せながら傘を差す。
「急がないと」
呟いて、雨の降る道を駆け出した。
ぱたぱた。雨が傘を打つ。
ぱしゃん。急ぐ足が、地面に溜まる水を跳ね上げた。
足元が濡れることなど気にならない。それよりも少しでも早く、彼女の所へ行きたかった。
何故ならば、この雨は泣かない彼女の涙なのだから。
「いらっしゃい。今日はどうしたの?」
ふわり、といつものように彼女は微笑む。
その頬に涙の跡はない。けれどよく見ると、彼女の笑顔の奥にほんの僅かに悲しみが隠れているのが感じられた。
「何となく会いたかったから」
へにゃりと笑って誤魔化した。
どこか不思議そうな顔をしながらも、彼女は何も聞くことなく部屋に招き入れてくれた。
「いつの間にか、雨が降っていたのね。気づかなかった」
「そう?あまり強くない雨だからかな」
「あなたはいつも雨の日に来てくれるのね」
くすくす笑いながら、彼女は部屋を出ていく。
しばらくして、彼女は手にティーセットを乗せたトレーを持って戻ってきた。
香る紅茶とレモン。角砂糖は二つ。目の前に置かれたティーカップを、そっと両手で包み込んだ。
伝わる熱は、きっと彼女の優しさだ。カップに口を付けながら、こっそりと窓の外を見る。
雨は止んだようだが、まだ曇り空。彼女の心模様は晴れてはいないようだ。
「おいしい」
「よかった……いつも、ありがとう」
微笑む彼女に、首を傾げた。礼を言われる理由が思いつかなかった。
「寂しかったり、悲しかったりすると、いつもあなたが来てくれるから」
「寂しくて、悲しかったの?」
「少しだけね……この家は、私には広いから」
そう言って、彼女は目を伏せた。
悲しげな表情。それでも彼女は、泣くことをしない。
外ではまた、雨が降り出している。彼女の代わりに空が泣いている。
カップを置いて、そっと彼女の手を包み込んだ。
温められた手の熱が、彼女の冷えた手へと移っていく。驚いたように顔を上げた彼女と目を合わせ、笑ってみせた。
「寂しいなら、連絡してよ。すぐに飛んでくるからさ」
彼女の悲しみは、自分では埋めてあげることはできない。泣かせてあげることだってできはしない。
けれど隣にいることくらいはできると、そう思いを込めて彼女を見つめた。
ふふ、と彼女は笑う。
そこに悲しい感情はない。嬉しそうな、とても楽しそうな顔をして、優しく頭を撫でてくれた。
「呼ぶ前にいつも来てくれるのはあなたの方じゃない……本当は、会いたいなって連絡しようかと悩んでいた所だったの」
「そっか……じゃあ呼ばれるまで、家の外で待っていればよかった」
「そこまで来たなら、待つ必要なんてないでしょ」
呆れたように、彼女は溜息を吐いた。
確かにそうだ。連絡をして数秒後にインターフォンが鳴ったら、驚くどころの話ではない。
少しだけ恥ずかしくなって、彼女から目を逸らす。誤魔化すようにカップに手を伸ばし、レモンティーの香りを吸い込んだ。
ふわりと立ち上る湯気の向こう側。窓の外で様子を伺う雨が、静かに離れて雲に帰っていく。雲の切れ間から光が差し込んで、僅かに青を覗かせている。
「雨、上がったみたいね」
「そうみたい」
レモンティーを飲みながら、横目で彼女を見る。同じようにカップを手に窓の外を見る彼女は、眩しそうに目を細めていた。
「ただの偶然なんだろうけど」
穏やかな声音。空へと視線を向ける彼女の表情も穏やかだ。
「私の代わりに、空が泣いてくれている気がするの」
気のせいだけどと繰り返す彼女に、気のせいなんかじゃないよと心の中で答えた。
彼女は知らない。彼女の優しさに救われているモノがたくさんいることを。どれだけ周りに愛され、心配されているのかを。
彼らの姿を見ることができない彼女は、きっとこれからも気づくことはない。
思わず、口元が緩んだ。
「笑わないでよ。自分でも都合が良過ぎるなって思ってるんだから」
笑われていると勘違いした彼女が、頬を赤くしながら拗ねたように呟いた。
ざわりと窓の外で、風が渦を巻いた。彼女に過保護ないくつもの冷たい視線を浴びて、浮かべた笑みに苦さが混じる。
「案外、本当なのかもしれないよ」
「別に話を合わせてくれなくてもいいんだけど」
「そんなつもりはないんだけどなぁ」
呟いて、レモンティーを飲む。
角砂糖二つ分の甘さ。それはどこか彼女の優しさに似ている気がした。
「空が泣いていると会いたくなるから。会いたくて、じっとしていられなくなる……だから、これからも雨が降ったら会いにくるよ」
「そっか……ありがとう」
柔らかな微笑み。一瞬だけ泣きそうに見えたのは、それこそ気のせいなのかもしれない。
お互い何も言わず、部屋を静寂が満たしていく。
嫌な感じはしない。レモンティーの香りと混じり合って、気持ちを穏やかにさせてくれる。
飲み終わったカップを手にしたまま、窓の外を見た。
雲が薄れ、晴れ間が覗いている。雲を透かした陽の光は、とても綺麗だった。
彼女の今日の心模様は、雨のち晴れ。
できればずっと晴れでいてほしい。皆、そう思っている。
20260423 『今日の心模様』
「あいつが、虫だ」
それは正しくはなかった。けれども誰一人、それを疑いはしなかった。
虫。穢れや厄を振り撒く悪いもの。
この村では年に一度、虫を追い出す祭りを行っている。
それは紙や藁で作った人形を村外れの川に流すもので、実際に人を追い出すことはない。
それなのに何故、あの時彼女を虫だと決めたのか。何度も繰り返す後悔は、今はただの意味のないものだ。
あの頃。村では原因不明の病気が広がっていた。
薬を飲んでも下がることのない熱。静かに村中に広がって、学校内でも皆不安に表情を曇らせていた。
「――きっとこの村に、虫がいるんだ」
誰かが言った一言が切っ掛けだった。
「虫を追い出せば、きっと病気はよくなるはず」
今まで祭りをただの行事として信じていなかったはずなのに、クラスメイトの誰もが信じていた。
「虫を探さないと」
その一言で、互いが互いを疑い始めた。
ただでさえ皆家族が熱で苦しんでいるのを見ており、そしてそれは自身にも感染するかもしれない不安を抱えていたのだ。不安は一瞬で虫という犠牲者を探す執念に変わり、クラスには疑いや怒りの言葉が響き渡った。
恐ろしかった。どうにかして止めたくて、その方法を求めてクラスを見渡した時、彼女を見てしまった。
クラスメイトと言い争うこともなく、教室の隅で悲しげな表情をしていた彼女。その様はクラスの中であからさまに浮いていた。
気づけば、彼女を指さしていた。
「あいつが、虫だ」
それは正しくはなかった。けれども誰一人、それを疑いはしなかった。
彼女も、何も言わなかった。
そして祭りを真似て、彼女を村の外れまで連れて行った。
彼女の背を押し、川を渡らせる。川を渡り切った後も、その姿が見えなくなるまで誰一人動こうとはしなかった。
「虫は、いなくなった」
誰かがそう呟いたのを覚えている。
彼女は虫ではないと、否定する言葉は一つも聞こえなかった。
次の日。彼女は学校に来なかった。
一週間経って、街から届いた薬が病気を治してくれた。
半月経って、村は元の日常を取り戻した。
けれど。
一か月以上経っても、彼女がクラスに戻ることはなかった。
何故、彼女を虫だと決めたのか。それはきっと感情のはけ口を誰もが求めていたからだ。
不安を吐き出し、見える形で安心を得たかった。たとえ間違いだったとしても、そうしなければ皆耐えきれなかった。
でも間違いだったと踏みとどまることができたのならば、きっと今も彼女は隣にいてくれた。
彼女へのプレゼントとして密かに作った押し花の栞が、今も手元に残っていることはなかったはずだった。
後悔している。彼女を虫だと追い立てたことも、春先の冷たい川を渡らせたことも、姿が見えなくなった時点ですぐに迎えに行かなかったことも。
あれからそろそろ一年が経つ。
彼女はまだ、戻ってこない。
「兄さん、ただいま」
笑顔で戻ってきた妹の姿に、境内の掃除をしていた兄は眉を顰め歩み寄った。
彼女が村を離れて一年が経つ。社の巫女として村の穢れを引き受け、流すためだとは理解してはいたが、それでも連絡一つしなかったことはそう簡単に許せるものではない。
「遅い」
「痛っ!?」
べちりと、呑気に笑う妹の頭を叩く。痛みに頭を押さえ、不貞腐れたように頬を膨らませて妹は兄を見上げた。
「遅いって……だって、村中の病だよ!それ全部引き受けて、ついでに街のお医者さんにお薬手配してもらってからお山に籠ったんだから仕方なくない!?」
「だとしても、お勤めの合間に連絡はいれられるはずだ。そもそも何で周りにしっかりと説明をしないんだ」
「え?だって皆が始めたんだよ?分かってやってたんじゃないの?」
「分かるわけがないだろ。少しは考えろ」
驚く妹に、兄は疲れたように嘆息する。
妹がいない間、どれだけの人が心配し心を痛めていたのか。彼女は少しも理解してはいなかった。
「理不尽……にしても、何ていうか村中が暗くない?厄とは違うみたいだけど」
文句を言いながら、そういえばと妹は不思議そうに首を傾げる。
やはり、何も理解していない。兄は眉間の皺を濃くしながらどう話したものかと悩む。
巫女としての資質が強いためか、妹は人よりも村として物事を見ることが多い。そのため人の機微に疎く、彼女がいなくなった後の残された者たちの想いを伝えても、そう簡単に理解することはないのだろう。
彼女を虫として送ったクラスメイトの子たちが、その当時どれほど追い詰められていたのか。そしてそれを後悔し続けているなど、想像すらしていないはずだ。
「そうだ!ちょうど虫送りの祭事が近いことだし、また虫として厄を流せば何とかなるよね?」
思わず、兄は頭を押さえた。
どうして妹はこうも察しが悪いのだろうか。
たとえ間違いだったとしても、心を守るため悲壮な決意で彼女を追い遣ったクラスメイト。
たとえ間違いだったとしても、それを本当にして引き受けた厄を流し祓えばいいと気楽に考えている彼女。
すれ違い、少しも交わることがない。
痛むこめかみを揉みながら、兄は石段へと視線を向ける。
ちょうど参拝に来たのだろう。妹のクラスメイトたちの姿が見えた。
「とりあえず、一回泣かれてこい」
「え?それってどういう……?」
何も分かっていない妹の体を反転させ、背を押した。
同時に駆け寄ってきたクラスメイトたちに囲まれ、泣かれ心配されて困惑している妹を見ながら、少しでも人に興味を持ってほしいと兄は切実に思っていた。
20260422 『たとえ間違いだったとしても』
ぽたり。
壺の中で何かが落ちる音がする。
小さく息を吐いた。
時計を確認すれば、ちょうど日付が変わった後。いつもの時間、いつもの音が聞こえたことを確認して、部屋に戻るため立ち上がる。
「まったく……何の意味があるんだか」
部屋を出て、思わず愚痴をこぼす。
亡くなった祖母の遺言でこうして毎夜壺の中の音を確認しているものの、この行為に何の意味があるのかは分からない。
触れても、中を覗いてもいけない壺。
生前、祖母に何が入っているのか聞いたことがあった。しかし彼女も何が入っているのかは知らないようで、ただ壺の中の音が聞こえなくなった時、良くないことが起こると言われているとだけ教えてくれた。
良くないこととは何なのか。音が聞こえなくなると良くないことが起こるのは何故なのか。
そもそも壺の中で何が落ちているのか。
疑問に思うことはいくつもあるが、不思議と壺の音を確認することを止めたり、中を覗こうとは思わなかった。壺があるのが当たり前であり、音を聞くのが当然だと長年の習慣から思い込んでしまっているのかもしれない。
「早く、寝ないと」
明日も早い。
軽く頭を振りながら、自室に戻るため足を速めた。
風が吹き抜けた。
目を開けるとそこは色とりどりの花が咲く、美しい花畑が広がっていた。
時折見る夢だ。視界を巡らせれば離れた場所で楽しそうに花冠を編む子供の姿が見えて、密かに眉を寄せる。
同じ景色。同じ人物。そしてこの先起こる同じやり取り。
切り取られた映像を繰り返し見ているような感覚は、あまり気分のいいものとは言えなかった。
笑い声がここまで響いてくる。
いつの間にか子供の側に、誰かが立っていた。彼女より、少しだけ年上に見える誰か。
「今回は、子供なんだ」
同じような夢の唯一の違いに、無意識に呟いていた。
前回見た時は、大人だった。その前は人ですらなかった。
見る度に姿を変える誰か。彼女は一度も気にすることはなく、作り終えたばかりの花冠をその誰かに被せている。
止めてほしい。その花を、そんな簡単に渡さないでほしい。
苛立ちにも似た訳の分からない感情が込み上げてくるのを感じながら、目の前の穏やかなやり取りを睨みつけていた。
ぴしゃん。
雫が落ちる音が聞こえた気がして、目を開けた。
カーテン越しに朝の陽射しが差し込んでいる。辺りを見回しても寝る前と変わった様子はなく、首を傾げながらもベッドから抜け出した。
身支度を整えて、カーテンを開けた。清々しい空の青さに、思わず目を細める。
「雨は降ってないか……」
やはり目覚めた時の音は気のせいだったのだろうか。どこにも雫の跡がない外の景色に、小さく息を吐いた。
壺のことを気にしすぎているのかもしれない。外にいる時くらいは家のことを忘れようと、意識を切り替えるように頭を振って、部屋を出た。
夜。
ぼんやりと、壺を見ながら音が聞こえるのを待っていた。
いつもより、時間がゆっくりと流れているような気がする。部屋の静けさが余計にそう思わせる。
昼間、あれだけ吹き荒れていたというのに、すっかり凪いでしまった風は窓枠所か、草ひとつも揺らさない。虫の鳴き声もなく、まるでこの部屋だけしか世界に存在しないかのようだ。
抱えた膝に額を当て、目を閉じる。耳を澄ませ、音を拾おうとするものの、やはり何の音も聞こえなかった。
小さく息を吐き、何気なく時計に視線を向ける。日付が変わるまでの時間を確かめようとして、目を見張った。
「過ぎてる……?」
文字盤の針は、十二時五分を示している。
壺から音は聞こえていない。この部屋に入ってから、何の音も聞いていない。
恐る恐る壺に視線を向けた。
「――っ!」
息を呑む。
壺の蓋が、開いていた。
――壺の中の音が聞こえなくなった時、良くないことが起こる。
祖母の言葉を思い出す。
良くないこととは何なのか。呆然と壺を見つめながら考える。
蓋が開いたということは、中から何かが出てきたということだろうか。部屋を見回そうとして、けれども背後から伸びた腕によって動きが止まる。
小さな腕だ。幼い子供の、時折見る夢の中で花冠を編む子のような細い腕。背中に負ぶさるような形で首に絡みつく。
花の香りがした。しかし漂う甘さの奥に、湿った匂いが混じっているのを感じる。
冷たい土のような、泥のような匂い。そこに獣の匂いが重なり、くらくらと目眩がする。
「――枯れた」
背後から、子供の声が囁く。
淡々と事実を告げる、熱のない声音。
「枯れた……」
言葉にして、唐突に理解する。
理屈ではなく、本能で全てを知ってしまった。
「神様の涙。枯れたの?」
「うん」
声が肯定する。
「神様にされた皆の涙も、枯れた?」
「うん」
「花畑も?」
「うん」
夢で見た花畑が脳裏を過ぎていく。
神様の涙で育った花畑。神様の涙が枯れたのなら、花畑も枯れるのは当然だろう。
目を閉じる。枯れてしまった花を思い、そして花畑を慰めとしてした皆のことを思って悲しくなった。
「涙が枯れ、花が枯れる。だから、この家も枯れていく」
声が告げる。
そう、と、思ったよりも素っ気ない声が出た。
当たり前だとしか思えなかった。
「全部枯れる前に、願いを叶えてあげる」
首を振る。
いらない、と口にしかけ、躊躇う。
しがみつく腕に手を重ね、祈りを込めて一つ願った。
「家が咲き誇るための神様にさせられた皆が、今度は幸せになってほしい」
「分かった」
ぎゅっと強く抱きつかれる。
ぴしり、ぱしりと音がして、目を開けた。
「壺が……」
壺に無数のヒビが入っていく。雫の音の代わりに割れる音を響かせ、跡形もなく崩れていく。
中には何もなかった。空っぽの、壺だった残骸がきらきらと煌めいて砂になって消えていく。
不意に目を塞がれた。数を数える声が響く。
一つ数える度、声が増えていく。笑う声がして、ふわりと甘い香りが鼻を掠めていく。
「――九、十!」
ゆっくり十数えて、視界を塞ぐ手を外される。
急な明るさに、思わず目を細めた。
見上げる空は青く、その下に広がるのは色とりどりの花。
「花は……枯れたって……」
思わず呟けば、くすくす笑う声が返る。
振り返れば、楽しげに笑う皆。そこに花冠を受け取るだけの部外者は存在しない。
困惑する自分に手を差し伸べ、彼女は言う。
「ここは家のための花畑じゃない。わたしたちのためだけの花畑」
「お姉ちゃん……」
夢で何度も見た花冠を編んでいた彼女。
恐る恐る手を重ねれば、強く引かれてバランス崩す。そのまま倒れ込めば、色鮮やかな花びらが空を舞った。
「もう、いいの?」
そう尋ねれば、誰もが口を揃えてもういいよ、と笑う。
もういいのか。安堵の息を吐いた。
これ以上無理矢理に生かされ、忘れさせられて、皆を監視しなくていいことに、ようやく体の力を抜いた。
「おかえり」
「ただいま」
目を合わせ、笑う。
青空の下、聞こえるのは笑い声だけ。
雫の音は、もう聞こえない。
20260421 『雫』