夏になると、あの夜のことを思い出す。
茜色に染まる夕暮れの空の下。広がる田んぼには、もう誰の影も見えない。
蝉の声が遠ざかり、代わりに低い太鼓の音が風に乗って流れてくる。
やがて、村の奥から小さな影がいくつも現れる。
村の子供たち。松明の火を頼りに、細い畦道を一列に歩いていた。
――虫送り。
あの日。私は友人と一緒に、初めて列に加わったのだった。
「緊張してる?」
「うん。ちょっとだけ」
太鼓の音に身を竦める私を、友人は楽しそうに見ていたのを覚えている。
「虫よ、外へ出て行け」
そう皆で唱えながら、暗い畦道を歩いていく。
ふと田んぼを見れば、子供たちの影が水面に伸びて揺れている。
松明の炎が揺れるたび、影もまたゆらゆらと揺れて。それがまるで生きているように思えて、怖かった。
「ちゃんと前を見てね」
繋いだ手を揺らしながら、友人は忠告する。
「絶対に後ろを振り返っちゃだめだよ」
「どうして?」
「怖いモノが着いてきちゃうから」
怖いモノ。びくりと肩を揺らして、繋いだ手に力が籠もる。
後ろには今、何かがいる。振り返ってくれるのをずっと待っている。
そんな想像をして、余計に後ろが気になった。怖くて泣きそうになるのを、友人は笑って見ていた。
やがて、歩く先に小さな川が見えてくる。
田んぼの端。この行列のおしまいだ。
川の手前には、すでに大人たちが待っていた。
子供たちは皆立ち止まり、大人に促されるまま手にしていたものを川に流していく。
小さなわら人形。紙の船。虫の象徴に見立てたものたち。
太鼓の音が止んだ。
「さあ、虫を送ろう」
松明の炎を川に向けて掲げる。合図を送れば、皆が声を揃えて唱えだす。
「虫よ、遠くに流れていけ。村には戻ってくるな」
炎が揺れる。影が揺れて、流れていく虫の象徴を惜しんでいるように見えた。
誰かが松明の火を落とした。それに続いて、次々に火が落とされていく。
急な暗闇。思わず小さな声を漏らせば、友人が繋いだ手を引き、そっと側に寄り添った。
皆に続いて、友人に手を引かれ、ゆっくりと村へ帰る道を歩いて行く。
「暗いけど、月明かりがあるから大丈夫だよ……でも、絶対に後ろは振り向いちゃだめだからね」
念を押されて頷いた。
今になって思い返せば、友人の声はどこか固かったようにも思う。
暗がりを友人に導かれながら歩いていく。
皆の声が遠い。夜道に慣れていない私とは違い、皆の歩く速度は松明があった時と然程変わらない。
暗闇の中、二人きり。何の音も、声もしない。
不意に、友人の歩みが遅くなった。私に合わせているからではない。どこか落ち着かず、後ろを気にしているように思えた。
「どうしたの?」
「うん。ちょっとね」
言葉を濁しながらも、やはり後ろを気にしている。
後ろに何かいるのだろうか。何か得体の知れない、怖いモノ。
想像して怖くなり、足が止まってしまう。
「――あ」
するり、と。友人と繋いでいたはずの手が解けた。
数歩先で、友人も立ち止まる。慌てて追いかけようとして、けれど友人の様子がおかしい事に気づいた。
俯いている。何かに耐えるように、両手で耳を塞いで首を振る。
「いや……違う。だめ。振り返ったら……」
普段とは違う友人の姿。呆然と見ていることしかできない私の前で、だめだと泣きそうに声を震わせ否定する。
そして友人の動きが止まり。
嫌な予感に、友人の元へと駆け寄る前に。
ゆっくりと、振り返ってしまった。
「――あぁ」」
友人の見開かれた目から一筋涙が零れ、月明かりを反射して煌めいた。
手を伸ばす。縋るように抱きしめた友人は、私が見えていないかのように後ろだけを見て。
「ごめん、なさい」
たった一言。
小さく呟いて、その姿は黒い影になって消えてしまった。
「っ、やだ……!」
反射的に振り返った。
後ろにいる何かが、友人を連れて行ってしまう。
それが怖かった。怖いモノが着いてくるよりも余程。
「待って!」
川の手前に、友人と手を繋ぐ黒い影がいた。
こちらに背を向けて歩き出す二人を、必死になって追いかける。
けれどどれだけ走っても、二人には追いつけない。段々と離れて、その姿が暗闇に溶け込んでいってしまう。
「いやだ、待って。置いてかないで」
叫んでも手を伸ばしても、友人には届かない。
そのまま友人と黒い影は暗闇に溶け込んでいき。
その後のことを、私はほとんど覚えてはいない。
「さあ、戻るぞ。最後まで後ろは振り返るなよ」
誰かの声にはっとして顔を上げた。
気づけば虫の象徴は川を流れて、他の大人や子供たちは村へと帰っていく。
今年の虫送りも終わりを迎えた。
もう参加することはないと思っていた虫送り。友人の存在を消してしまった怖ろしい風習に、どうしてか、私は再び子供たちの列に加わっていた。
そっと溜息を吐く。辺りに誰の姿も見えなくなってから、村へと続く道に足を向けた。
あの後。友人の姿が見えなくなって、気づけば自室のベッドで朝を迎えていた。
どうやって戻ってきたのか、まったく覚えてはいなかった。それどころか、友人のことを誰一人覚えてはおらず、記録にも残っていなかった。
二人で撮ったはずの写真は、私一人だけが写っている。
俯きながら、ゆっくりと道を歩いていく。
友人と手を繋いで歩いていたはずの道。暗闇を怖がる私の手を引いてくれた友人は、どこにもいない。
時折、不安になる。友人は本当に存在していたのだろうかと。
もしかしたら、友人とは私の作り出した幻なのではないだろうか。
忘れられないあの夏の記憶がそれを否定するのに、どうしても考えてしまう。
私はもう、友人の顔も声も、名前すらも覚えていないのだから。
「――ねぇ」
不意に、後ろから声をかけられた。
ぎくりと体が強張る。虫送りに参加した子供たちも大人たちも、私より先に歩いていってしまっている。
後ろから声をかける誰かはいないはずだった。
「待って」
どこかで聞き覚えのある声。
そんなはずはないと、首を振る。
気のせいだ。もしくは誰かのいたずらだろう。
だから振り返ってはいけないと、歩く足を少しだけ速めた。
「行かないで。置いていかないでよ」
声は着いてくる。
一定の距離を保って、泣きそうに声を震わせて、私を呼び止める。
振り返ってはいけない。何度も繰り返し、自分自身に言い聞かせる。
「酷い。忘れてしまったの?」
思わず足を止めた。
忘れているものは、何もない。
ないはずだ。
「ずっと一緒だったのに。暗闇の中で、手を引いてあげたのに……本当に酷い」
「いや……違う。だめ。忘れてなんか……」
耳を塞ぎ、首を振る。
これ以上は聞きたくない。早く家に帰りたい。
それなのに、足は少しも動かない。声は手をすり抜けて、直接鼓膜を震わせる。
「酷い……ずっと待ってたのに。一年後、迎えに来てくれるって信じてたのに……友達だって、そう思ってたのに」
「あ……あぁ」
びくりと肩が震え、崩れ落ちた。
膝をついて項垂れる。涙が溢れて頬を伝い、地面を濡らす。
もう、誤魔化せない。
今、私の後ろにいるのは、あの日消えてしまった友人だ。
「待ってたの。あなたもあの日、振り返って私を追いかけてくれたから。禁忌を破って穢れを取り込んで、溜め込み続けていたから、来てくれるって思ってた」
するりと、後ろから伸びるのは白い腕。
左手は腰を抱いて、右手は顎に添えられる。
「私もね。あなたと参加する何年か前に、振り返ってしまったの。その時は兄さんと一緒で。兄さんは私を守るために振り返って……一年後、消えてしまった」
添えられていた右手が顎を掬い、強制的に上を向かされる。
抵抗はできない。
友人が言うように、私はあの日、振り返ってしまった。禁忌を破ってしまったのだから。
だから、きっともう逃げられない。
「あの日、ずっと兄さんの声が聞こえていた。責める声じゃなくて、心配する声。そして顔が見たいって、誘う声」
見上げる夜空が陰っていく。
長い黒髪が頬にかかり、滑り下りて。
「――おかえり。私の大切な人」
嬉しそうに笑う友人と、目が合った。
「兄さん!」
川の手前で待つ兄に、妹は笑顔で歩み寄る。
その右手は、彼女の友達である少女と硬く繋がれていた。
「ごめんね。この子、怖がりだから。振り返るまでに時間がかかっちゃった」
笑顔を浮かべる妹とは異なり、少女は何の表情も浮かんではいない。
ただ虚ろに開いた目で、ぼんやりと兄を見つめていた。
「嬉しいなぁ。大好きな兄さんと、大好きな友達と。これからずっと一緒なんだもの。兄さんもこの子のこと、気に入ってたものね。兄さんも嬉しい?」
兄は何も答えない。
そもそも、兄は人ですらなかった。
川面に映るその影の輪郭だけが、僅かに人の形を留めている。
その周囲を、時折、夏草を揺らす羽音と小さな緑の影が舞う。
近づくと、微かにイナゴの羽音が耳元を擽った。
「よかった。兄さんもこの子のことを好きになって、この子もきっと兄さんのことを好きになって……皆好きになるって、とっても幸せ」
それでも妹は聞こえる羽音に破顔して、左手を兄に差し出した。
兄はその手を取り繋ぐ。
「本当に嬉しい。二人がいてくれれば村に帰れなくてもいいし、他には誰も、何もいらない……ずっと、三人一緒にいようね」
妹は笑う。
兄も少女も、何一つ語らない。
ただ妹と手を繋ぎ、寄り添って。
そうして三人。
流れていった虫の象徴を追うように。
川の向こう。誰も知らない夜の中へ。
手を繋いで、ゆっくりと歩いて行く。
20250714 『夏』
「おや、久しぶりだねぇ。また大きくなって」
「お久しぶりです。おじさん」
畑仕事に精を出す男性に声をかけられ、軽く会釈をして通り過ぎる。
これで五人目。笑顔の裏で、密かに溜息を吐いた。
声をかけてくれるのは嬉しけれど、数日分の荷物の入ったキャリーが重い。何時間も電車とバスに揺られた疲れもあって、今は早く休みたかった。
夏休みの度に訪れる祖父母のいる村は、ずっと変わらない。
人も。風景も。まるで時が止まっているかのようだ。
祖父母の家へと向かいながら、ふと視線を村の奥にやる。
小さいながらも立派な、木造二階建ての学校。何年も前に廃校になってはいるが、くたびれた様子は見えない。
きっと村の人達が、今も手入れをしているのだろう。
あそこには、『ワラシ様』がいるのだろうから。
ふと、息苦しさに意識が浮上する。
体が重い。目を開けても、暗くて周りがよく見えない。
息を吸おうとしても、うまく吸えない。何かに口を塞がれているみたいに。
手を伸ばして口に触れる。呼吸を妨げるもの何もはない。
苦しさに身を捩る。助けを求めて踠く指が床に爪を立て、違和感に気づく。
布団や畳の感覚ではなかった。霞み出した視界でもう一度辺りを見渡す。
暗い場所。端に寄った小さな机と椅子。
見覚えのない、けれどどこか懐かしい――。
息が出来ない。視界が霞み、やがて何も見えなくなっていく。
そのまま、すべてが真っ黒に染まっていった。
はっとして目が覚めた。
荒くなる呼吸を落ち着かせ、深く息を吸い込む。
息は吸える。吐く事も出来る。
その事に安堵して、ゆっくりと体を起こした。
辺りを見渡す。暗くてよく見えないが、祖父母の家ではないのはすぐ分かった。
ここは教室だ。机や椅子の大きさから、小学校だろうか。
「――っ!?」
何故、という疑問は、急に襲う激痛に掻き消された。
頭が痛い。何かで殴られたかのように。
そのまま床に倒れ込む。力の入らない体を動かし背後を見るが、誰もいない。
痛みに意識が霞み、視界がまた黒に塗り潰されていく。
「どうして」
落ちていく意識の中。
小さな呟きが、聞こえた気がした。
あれから何度も目を覚ましては、痛みや苦しさに意識を奪われる事を繰り返している。
その地獄のような時間の中、時々誰かの声を聞いた。
――いやだ。
――たすけて。
――おかあさん。
苦痛に踠くその傍らで、声は同じように苦しんで助けを求めていた。
自分よりも幼い子供の声。助けを求めながらも、すでに諦めてしまっている声音。
「おかあさん」
小さな声に、薄れる意識で理解した。
この苦痛は、誰かの記憶だ。たくさんの子供達の最後の記憶を、痛みごと体験しているのだ。
理解して、泣きたくなった。
理不尽に受ける痛みに対する怒りではない。説明のつかない恐怖でもない。
ただ、悲しかった。
助けを求める幼い声に、手を差し伸べる者が誰もいない事が、ひたすら悲しくて泣きたかった。
目が覚める。
息苦しさはない。襲い来る痛みに構えていても、何も起こらない。
ふと、気配を感じて顔を上げる。
教室の隅。何かの影がいくつも揺らいでいた。
「悲しんでくれるの?」
「わたしたちを見てくれるの?」
幼い子供の声が、幾重にも重なって教室に響く。
気づけば隅にいた影に囲まれて、手を繋がれていた。
「きて」
手を引かれて、ゆっくりと立ち上がる。自分の意思とは関係なく、体は影に手を引かれるままに歩き出す。
教室の扉が、きい、と軋んだ音を立てて開いた。
「とくべつに、ほんとうをぜんぶ見せてあげる」
開いた扉の先は廊下ではなかった。
代わりに、地下へと続く階段が、底の見えない闇を孕んで口を開けていた。
手を引かれるままに、ゆっくりと階段を下りていく。
下から冷たい風が吹き抜け、小さく体を震わせる。引き返せないような恐怖に立ち止まりたくなるが、足は止まらない。
「大丈夫」
後ろから声が聞こえた。他の子供達より、低く落ち着いた声。
「手を引いているから、転ぶ事はないよ」
囁く声はどこまでも淡々としている。
「それにほら」
下りる先に、微かな灯りが見えた。揺らめく灯りに導かれるように少しだけ手を強く引かれ、階段を下りる足を速める。
「ここだよ」
階段を下りて手を離された。
薄暗い地下の空間に、ぼんやりと蝋燭の明かりが灯っている。
「大人達の隠していた真実の場所。俺達の家」
湿った土の匂い。木で補強はされているものの、剥き出しの土が不安を掻き立てる。
小さな空間の手前には、祭壇があった。
水の入った器と、僅かな米が盛られた皿。
色あせた人形や飴玉、履き古した靴など、どれも子供のものばかり。
その奥。開けた空間には、不自然に土が盛り上がった場所があった。
転々と盛り上がる土。子供のものばかりが供えられた祭壇。そして学校。
嫌な予感に、背筋が寒くなるのを感じた。
「――ワラシ様?」
「そうだよ」
後ろの声がそう告げて、再び手を繋がれる。
祭壇を過ぎて奥へと引かれる。座らされ、影が回りを囲む。
不意に後ろから伸びた手に視界を塞がれ、知らない記憶が過ぎていく。
土を掘る誰か。その傍らには、麻袋に入った何か。
子供一人入れるほどの穴を掘り、穴から出た誰かは袋に手を伸ばす。
口を開け、中身を穴に落としていく。
中から出てきたのは、まだ幼い――。
「口減らし。生き残るためには必要な事なんだろうけどね。でも――」
場面が変わる。
――やめて!お願いだから。
泣きながら懇願する声。
薄暗い部屋。その奥で、揺らめく二つの影。
――俺が!俺が、もっと働くから!妹の分まで頑張るから、だから!
縋る影は振り払われ、薄い壁に叩きつけられる。
呆然と見つめる影の前で、振りかざす刃が鈍く光を反射していた。
「間引くくらいなら、何故産んだのか。産んで、殺して。捨てて。それでおざなりに祀られるのは納得がいかない。形だけの祀りで富を得ようなんて、そんな事認められる訳がない」
視界を覆う手が外される。
優しく背を撫でられて、耐えきれず嗚咽が溢れた。
胸が痛かった。苦しかった。
何故、どうして、という疑問が頭の中でぐるぐると渦を巻く。
「悲しんでくれる」
「見てくれる」
「ねぇ。あそぼ」
周りを囲う影が手を引いた。
「遊んで、優しい子」
誘う声は、どこまでも無邪気だ。
「今まで招いた子は、俺たちの記憶を見ただけで、すぐに壊れてしまった。誰一人悲しんでも、遊んでもくれなかった」
寂しい、と誰かが口にする。遊んで、と影達が強請る。
「俺たちが触れても、記憶が流れても壊れなかった、特別な子……ここで遊んでくれるなら、もう誰も招かない。ずっとここで、俺たちが与えられなかった愛を与えてほしい」
背中に抱きつく影の腕が、気まぐれに溢れる涙を拭い、耳元で囁く。
楽しそうに、嬉しそうに。あちらこちらで声が上がる。
逃げろ、とまだ冷静な自分が警鐘を鳴らす。けれどもそれは、縋る影の手から流れ込む記憶に、すぐに掻き消されてしまった。
「それに、もう戻れない。ほら、蝋燭が消えたら終わり……少し苦しいけど、きっと我慢出来る」
影が指差す先にある蝋燭が、その言葉と共に音もなく消えた。
「いたか?」
「いや、どこにもいない」
吹き出す汗を拭いながら、村の男達はどこか諦めの滲む顔で溜息を吐いた。
「ワラシ様んとこへも行けなくなっちまったからな……こりゃあ、隠されたかもしれねぇな」
「良い子だったからなぁ。俺んとこの息子の嫁にほしかったくらいだ」
話しながら、視線を学校の方へと向ける。
小さいながらも手入れの行き届いていたはずの学校は、一晩で様相が変わっていた。
校舎は無数の蔦に覆われ、窓や扉は硬く閉ざされ、入る事は叶わない。
「せめて、供え物だと思ってくださればいいんだが」
ぽつりと呟かれた言葉に、皆同意する。
この村は、代々ワラシ様の恵みを受けて生きてきた。今更、恵みを受けずに生きる事など出来るはずもない。
男達は皆、表情を曇らせる、だがそれは、少女が一人行方不明になった事への心配や悲しみではなく。
「本当に良い子だったからな」
自分達の今後を憂いての表情だった。
暗い廊下を、少女は無心で駆け抜ける。
背後からは楽しげな笑い声。きゃあ、と弾ける声が響き、少女のように駆け回っている。
少女の頬を涙が濡らす。止まらない涙は月明かりに照らされて、宝石のように煌めいた。
その涙は、はたして恐怖からくるものか。それとも二度と戻れない事への悲しみか。
あるいは、少女と遊び続ける影達の哀れみからくるものなのか。
少女にももう分からない。
ただ影達の望むままに遊び、寄り添うだけだ。
「捕まえた」
不意に腕を掴まれ、少女の体が傾ぐ。それを抱き留めて、少年は笑った。
「じゃあ、次は何して遊ぼうか?」
少女の頬を伝う涙を拭い、終わらない遊びの続きを囁いた。
20250713 『隠された真実』
とても静かな夜だった。
ひっそりと建つ廃屋の中。一人縁側に座り、ぼんやりと丸い月を見上げていた。
とても静かだ。
人や車、機械など、人の存在を示すような音は少しも聞こえない。
獣や虫の声、水や風といった自然の音すらしなかった。
視線を月から、軒に吊された風鈴へと移す。
風鈴は鳴らない。ただ静かに風を待っている。
今夜はもう風鈴は鳴らないのかもしれない。いつでも鳴る訳ではないのだろうか。
少しだけ落胆して立ち上がる。部屋の中へと入り、無意識にぼろぼろの障子戸を閉めた。
和室の畳は陽に焼けて変色しているが、廃屋にしては状態は良い。壁も所々にひび割れはあるものの、崩れ落ちている所はなかった。
部屋の隅に座り、壁に凭れる。風鈴が鳴るまで少し休もうと目を閉じた。
不意に破れた障子戸から風が吹き込んできた。
風が髪を揺すり、目を開ける。ぼんやりと暗い室内を見つめていれば、微かに風鈴が鳴る音がした。
障子戸へ視線を向ける。まだ微睡んでいる意識では、立ち上がり縁側へ出る考えは浮かばない。ただ一度だけ鳴った風鈴の音を待ち、そして訪れるはずの誰かを待った。
障子戸がゆっくりと開かれる。月に照らされ影になった誰かが静かに部屋に入り込み。
「久しぶり。相変わらずぼんやりしているな」
懐かしい声と共に、目の前に座り込んだ親友があの日と変わらない姿で笑った。
「変わらないね。もう何年も経っているのに、あの夏の日のままだ」
「当たり前だろ、死んでんだから。さすがにぼんやりしすぎだろうが」
「だって……本当にくるとは思わなかったから」
廃屋に吊された風鈴は、夏の間だけ鳴る事がある。
その音に呼ばれて訪れるのは、幽霊や物の怪の類いだと聞いた。
ただの噂だと思っていた。だが、親友は訪れた。
風鈴の音に呼ばれて、彼岸から此岸へと戻ってきた。
「さて、折角だ。時間は十分にある事だし、存分に楽しもうじゃないか。昔話に花を咲かせるもよし。子供時代を思い出して遊び回るもよし……どうする?」
問われて、苦笑する。
本当に親友は変わらない。大仰な身振りも、態とらしい言い回しも昔のままだ。
「昔話……何かあったっけ?」
「おいおい、勘弁してくれ。前から忘れやすいとは思っていたが、ここまでとは。もしかして、俺の事も忘れたわけじゃあないだろうな」
頭に手を当て、嘆く振りをされる。随分な物言いではあるが、少しも気分を害さないのは、親友の人柄故の事だろう。
「覚えているよ。昔、肝試しに連れて行かれて、そのまま置き去りにされた事も。盗み食いを、私のせいにされた事も。しっかりと覚えている」
「それは忘れてくれるのが友情というものだろう?酷い奴だな。もっと他にあるだろうが。迷子のお前を探して、手を繋いで帰った事とか。万年赤点のお前に、勉学を教えた事とか」
「酷くて結構。あと、そちらも案外酷い事を言っている事を自覚してほしい」
軽く眉を寄せれば、呵々と楽しげな笑い声が上がる。
「昔話はよろしくないな。態々古傷を抉るのは、実に無駄な行為だ……ならば、童心に返って存分に遊び倒そうではないか」
親友は立ち上がり、恭しく手を差し出す。いつまでも幼い子供のような親友に呆れと共に懐かしさが込み上げ、微笑んでその手を取った。
遊び倒す、とはいえ、部屋の中で出来る事は限られてくる。
「ねぇ。外には出ないの?」
「外は場が安定しないからな。ぼんやりしているお前は、一歩外に出ただけですぐに迷子になるだろう。迷子捜しは、遊びではない」
迷子になると決めつけられて密かに眉が寄る。だが記憶を辿る限り否定は出来ず。
では何をするかと視線だけで問えば、彼は笑って隠れ鬼と提案した。
「二人だけで、隠れ鬼?」
「案外楽しいぞ。外に出なければ、どこに隠れても構わない。ゆっくり五十数えてやるから、その間に隠れて見せろ」
そう言って、自分が了承する前に親友は数を数え始める。
慌てて部屋を出て、隠れられそうな場所を探して廊下を歩く。
「あれ?」
違和感を感じて立ち止まる。
外から見た時は、この廃屋はそれほど広くはなかったはずだ。暗さもあるが先の見えない廊下に、少しばかり不安を覚える。
「三十一、三十二……」
背後から聞こえる親友の声。我に返り苦笑した。
死者である親友と遊んでいるこの状況こそ異様だ。今更廃屋が広くなった所で、気にかけるほどではない。
恥ずかしくなり、早足で歩き出す。適当な部屋に入り、押し入れを開ける。何もないのを見て中に入ると、音を立てぬよう気をつけながら押し入れを閉めた。
楽しい時間というものは、得てして早く過ぎ去ってしまうものだ。
最初の部屋で二人、横になって何気なく天井を見上げる。古傷を抉ると言いながらも語り合ってしまったのは、親友の誘うままに存分に遊んだからだろうか。
隠れ鬼から始まり、鬼事をして相撲も取った。どこからか見つけてきた駒を回し、面子で争い、その他にも思いつく限りの遊びをした。
疲れて横になり、思い出すのは幼き日々の思い出。自然と語り出すのも仕方がない事かもしれない。
気づけば室内は大分明るくなり、破れた障子の隙間から仄かな光が差し込み始めている。
時期に日が昇り、朝が訪れるのだろう。それはつまり親友との別れが近い事も示していた。
誰かが訪れた後に鳴る風鈴は、帰りの合図。訪れたモノは、此岸から彼岸へと還っていく。
そろそろ風鈴が鳴るのだろう。そうすれば親友は彼岸に還っていく。
その時には、一緒に連れていってはくれないだろうか。
口に出せない願いを抱えながら、風鈴の音をただ待った。
「――風鈴、鳴らないね」
けれどいくら待てども風鈴は鳴らず。
部屋に陽射しが差し込み、朝が訪れても、外からは何の音も聞こえなかった。
横目で親友を見る。上の空で天井を見上げている親友の表情は初めて見るもので、訳もなく心細さを覚えてしまう。
手を伸ばす。そっと肩に触れれば、夢から覚めたように目を瞬き、視線を向けられた。
「どうした?」
優しい笑顔。それは、親友が何かを隠している時にする表情だった。
「何を隠しているの?」
問いかければ、虚を衝かれたような表情をして、それは次第に意地の悪い表情に変わる。
「知りたいか?」
肩に触れた手を取られ尋ねられる。知りたいと思う好奇心と、知ってはいけないという警鐘に、どうすれば良いのか分からず視線を逸らした。
明るい障子戸を見る。風鈴はまだ沈黙を保ったままだ。
「どんなに待っても、風鈴は鳴らないぞ」
「え?」
「ここに来た時に外してしまったからな」
世間話のように告げられ、驚きに親友へ視線を戻した。
何故。どうしてそんな事を。
疑問が巡る。親友の考えがまったく読めない。
聞きたい事はたくさんあるというのに、何を言えばいいのか分からない。
そんな困惑を察して、親友の笑みが優しくなる。何かを隠している時とも違う、幼い頃に泣き止まない自分を宥めている時の表情。
「俺が死んで、何年経ったか覚えているか?」
答えられず、体が硬直する。思い出してはいけない事を無理矢理思い出しているようで、頭の奥が鈍い痛みを持ち始める。
「ならば、俺が何処でどうやって死んだのか、思い出せるか?」
「それ、は……夏の……海で」
親友は夏の日に、海で死んだ。それは確かに覚えている。
そう言われた。知らされたはずだ。
「――あれ?」
それ以外を思い出せない。
「お前、本当にぼんやりしているんだな」
深く溜息を吐いて、親友は上体を起こす。
手を引かれて、同じように体を起こし向き合った。
頭が痛む。何故気にならなかったのだろうか。親友の事だけでなく、自分の事すら満足に思い出せない。
隙間だらけの自分の記憶が、今更になって何よりも怖ろしく感じた。
「仕方がないから、最初から説明してやろう……先ずはあの風鈴だが、あの音は彼岸と此処を繋げる事が出来る」
親友の目が理解出来ているかを問う。それには小さく頷いた。
「彼岸のモノが風鈴を鳴らす。そうすれば、彼岸からこの廃屋へ渡る事が出来る。実際俺も風鈴を鳴らし此処に来た……一度鳴らした風鈴は、時間が過ぎればひとりで鳴り出す。彼岸へ還すために」
親友の言葉に、縁側に続く障子戸を一瞥した。
外されたという風鈴。鳴らないのであれば、親友はこのまま彼岸に還る事は出来ない。
「どうして……?」
「最後まで話を聞け……風鈴の音は彼岸を繋ぐが、渡れるのは一人だけだ。そしてそれは、鳴らしたモノでなくとも構わない」
一人だけ。何故か腑に落ちて、同時に落胆した。
親友と共にいく事は出来ないのか。
だから親友は風鈴を外したのだろうか。置いていかれる自分を憐れんで。
親友を見る。真剣な眼差しに、酷く心が痛む。
自分の事は気にするなと無理に笑いかけ、親友は再び呆れた溜息を吐いた。
「――数年前に、偶然付近を彷徨う死者がいた。死者はふらふらとこの廃屋に近づき、その風が風鈴を鳴らした」
唐突に変わった話に、首を傾げる。
説明を求めて親友を見るが、気にもかけずに話を続けた。
「その時、ちょうど廃屋には生者がいた。死にたいと常に思っているような、軟弱な奴だ。そいつは廃屋に現れ、彷徨い出す死者から隠れて、風鈴の側で只管に待った――風鈴が再び鳴り出すのを」
「それ、は……」
「だから話を最後まで聞け……そして時間が過ぎ、風鈴が鳴る。彼岸への道が通じ、生者は迷わずその道を抜け、道は閉じた……廃屋に死者を残したまま」
残された死者。それが誰かを、親友は視線だけで告げる。
あぁ、と思わず声を漏らし、静かに目を閉じた。
「五年だ。五年もお前は此岸を彷徨った。自分が死者だと忘れるくらい彷徨って……ようやくこの廃屋に戻ってきた」
阿呆が。
そう悪態を吐く親友は、呆ける自分を見つめて告げる。
「風鈴の音は、一人しか彼岸に連れて行かない。俺が残っても良いが、お前はきっとすぐに風鈴を鳴らすだろうからな。だからいっそ外してしまう事にした……彼岸でも此岸でもないこの廃屋からは出られん。いつこの場が崩壊するかも分からんが、またお前を此岸に彷徨わせるよりかは余程良い」
手を引かれた。親友の肩口に頭を押し当て、顔を隠される。
その優しさに甘えて、静かに涙を流した。
頭の痛みは疾うになくなり、霞んでいた記憶が鮮明になっていく。
親友は死んだ。夏の海で。乗っていた艦《ふね》と共に、沈んでしまった。
そして自分もまた、その数日後には死んだ。親友とは違う海の上で、艦と共に沈んだ。
「ようやくお前も思い出した事だ。落ち着いたのならば、また存分に語り合おうか。語り、遊び、二人の時を共に楽しもう……いつかくる、終わりの時まで。閉じられた箱庭を堪能しようではないか」
相変わらずな親友に、泣きながら笑う。
そう言えば、迷子になった時に必ず迎えに来てくれていたのは親友だったと思い出す。
本当に変わらず、優しい男だ。止まらない涙はそのままに、顔を上げて親友を見つめ。
「生前も、死後も面倒を見てくれてありがとう。これからも末永くよろしく頼むよ」
そう言って笑えば、親友は呆れた顔をして、それでも嬉しそうに笑った。
20250712 『風鈴の音』
この島には夜が来ない。
私と彼女。二人だけの小さな島。
空は青く、どこまでも遠く。広がる青い海もまた、果てしない。
「何して遊ぼっか?」
問いかける声に、体を起こして視線を向ける。楽しげに笑う彼女はこちらに歩み寄ると、私の隣に座ってそのまま横になる。
「それとも、お昼寝にする?」
そう言ってこちらを見上げて手招く彼女に、仕方がないなと笑ってみせる。同じように横になり、目を閉じて深く息をした。
聞こえるのは波の音。どこか遠くで鳴く海猫の声に耳を澄ませ、潮の香りで肺を満たす。
穏やかな風が髪を揺らす。さりげなく繋がれた手の温もりに、小さく笑みが零れ落ちた。
小さな島。けれどここはとても穏やかだ。
海の向こうの憧れよりも、今はこの穏やかさに眠ってしまいたかった。
目を覚ましても。空の青が変わる事はない。
「次は散歩に行こっか」
先に起きて立ち上がった彼女が、こちらに向けて手を差し出す。その手を取って立ち上がり、バッグを背負って二人、砂浜へと歩き出す。
潮騒を聞きながら、海の向こうを想像する。広い海の先には、一体何があるのだろうか。
どんな街があって、どんな人が暮らしているのか。気づけば海を見つめたまま、ぼんやりと立ち尽くしていた。
「海の向こうに行きたいの?」
問われて、少し悩む。
海の向こうが気になる。けれどそれは、行ってみたい気持ちとは少しばかり違うような気がした。
首を傾げていれば、彼女はくすくすと笑い出す。
彼女はよく笑う。遊んで、はしゃいで、時には失敗をしても笑って、いつでも楽しそうだ。
「紙飛行機を飛ばそうよ」
紙飛行機。唐突な言葉に目を瞬いた。
「私達の代わりに、紙飛行機に見に行ってもらおうよ。海の先には何があるのか」
煌めく目をして語る彼女に頷いて、背負っていたバッグを地面に降ろした。
チャックを開けて、中を探る。ぼろぼろのバッグに詰め込まれたものを掻き分けて、奥から数枚の折り紙を取り出した。
赤い折り紙を手渡すと、彼女はお礼を言いながら紙飛行機を折っていく。集中する彼女の姿をどこか眩しく思いながら、同じように黒の折り紙で飛行機を折り始めた。
「飛ばないね」
風に乗せて飛ばしても、途中で失速して紙飛行機は海へと落ちていく。
飛ばない事の落胆と、やっぱりと思ってしまう諦めと。複雑な気持ちを抱えながら、不満げに頬を膨らませる彼女の背を撫でた。
「どうすれば飛ぶかなぁ」
悩む彼女の横で、残りの折り紙を確認する。
手元にある折り紙は、白が二枚。他にないかとバッグを漁るも、折り紙はもう見つけられず。
諦めてバッグを閉じ、溜息を吐く。彼女を見れば、まだ名残惜しげに海を見つめていた。
彼女の慰めに、何か別の遊びを考えなければ。彼女は今までどんな遊びでも楽しそうにはしていたが。
記憶を辿る。そういえば、バッグの中に画用紙と色鉛筆が入っていた。思い出して再びバッグを開けば、そうだ、と弾んだ声が隣から聞こえた。
「ねぇ!次の紙飛行機には絵を描こうよ。飛ばないのはきっと、何も乗ってないからなんだ。だから絵を描いて思いを乗せれば、次こそは遠くまで飛んでくれるはず!」
そんなものだろうか。疑問が過るが、彼女が笑顔になってくれたのだから、それでいい気もする。
我ながら単純だな、と思いながら、バッグの中から色鉛筆を取り出した。
「何を描こうかな?飛行機だし……鳥にしよう!」
水色の色鉛筆を取り、彼女は真剣な顔で出来たばかりの白い紙飛行機に絵を描いていく。
それを横目で見ながら、目の前の真っ白な紙飛行機を前に何を描くかを迷う。
彼女が鳥を描くならば、私は何がいいだろうか。彼女や海や空を見て、もう一度紙飛行機に向かう。
黒の色鉛筆を取って、猫の姿を描き出した。
自分の代わりに音を聞く耳、ものを見る目。願いながら描いていく。
「出来た!」
紙飛行機を持って嬉しそうに笑う彼女を見ながら、描き終わった猫の絵をそっと指でなぞった。
彼女の紙飛行機に描かれた青の鳥。本当にどこまでも自由に飛んでいけそう。
彼女の紙飛行機と共に、私の紙飛行機が海を渡って空を一緒に飛んでいく。そんな想像に、鼓動が軽やかに跳ねた。
「よし!じゃあ、一緒に飛ばそうか」
頷いて、彼女の隣に立つ。
もう一度描いた黒猫に触れ、海を見る。
穏やかな海。緩やかな風。紙飛行機が飛ぶのを。待っていてくれるかのようだ。
「行くよ。せーのっ!」
彼女のかけ声に合わせて、紙飛行機を飛ばす。途中で失速せず高く舞い上がる紙飛行機が、風に乗って海の向こうに飛んでいく。
「飛んだ!」
喜ぶ彼女と手を取って笑い合う。紙飛行機が見えなくなるまで、その姿を彼女と見送っていた。
「見えなくなっちゃった……これで自由だね」
小さく彼女が呟いた。
自由になれた。その一言に、急に不安が込み上げる。
本当に良かったのだろうか。自由になって、好きな所に行っても、本当に。
「大丈夫だよ」
彼女は笑う。私の不安をすべて消し去るような、煌めく目をして高らかに告げる。
「心くらいは逃げ出してもいい。自由に空を飛んで、海を渡って……そうしたら、明日も生きて行けるでしょう?」
だから、と繋いだままの手を揺らす。もう片方の手も繋いで、彼女と向き合った。
「そろそろ行こうか。余計なものは、ここに全部置いていこう。がらくたがなくたって、大丈夫だから」
いいのだろうか。ちらりと足下に置いたままのバッグに視線を落とした。
開いて中身の見えるバッグからは、彼女の言うがらくたが溢れんばかりに詰め込まれている。彼女と遊んで少しは量が減ったけれど、量が多すぎて重さは最初とそれほど変わらない。
本当に置いていってもいいのか不安で、彼女を見た。彼女は大丈夫と頷いて、そっと額を合わせて囁いた。
「怖くないよ。紙飛行機に乗った心は、海の向こうを目指して自由に飛んでいる。目を閉じれば、海と空の青が見える。音が聞こえる……それに」
繋いだ手を離して抱きしめられる。痛む体を撫でて、たくさんの傷ごと包み込まれた。
「私はずっと、側にいる。もうすぐちゃんと会えるからね」
包まれる優しさに目を閉じた。
彼女の囁きと波の音を聞きながら、意識がゆっくりと揺らぎ出す。
彼女がいてくれるのなら、まだ頑張れる気がした。
「またね」
約束の言葉を最後に、穏やかな夢は終わりを告げた。
次に目覚めた時、最初に目にしたのは知らない男の人の姿だった。
驚いたように目を見張り、涙を滲ませ何かを告げる。
でも声は聞こえない。聞こえるのは波の音と遠くで鳴く海猫の声。
この男の人は誰だろう。何故泣くのだろうか。
ぼんやりと考えながら、ゆっくりと口を開いた。
「誰?」
掠れた声。たった一言なのに、喉が痛む。体も重くて、鈍い痛みが続いている。
男の人の動きが止まった。聞こえなかっただろうかと思うが、もう一度声を上げる気にはならなかった。
男の人が何かを言う。無言でいれば、くしゃりと顔を歪めて崩れ落ちた。
それを見遣って、室内に視線を巡らせた。
随分と白く無機質な部屋だ。白のベッド。布団から出た腕に繋がれている、点滴のチューブ。何かの機械から伸びたコードは、体のあちこちに繋がれているらしい。
病院だ。けれど何故、ここにいるのか。
考えても思い出せない事に、諦めて目を閉じる。
瞼の裏に広がる青に、思いを馳せた。
心だけは、この現実から逃げられている。
そう思うと不安が溶けて、何もかもが些細な事に感じられた。
病院にいる事も。男の人の事も、何もかも。
――またね。
誰かの声が聞こえた気がした。誰なのかは覚えていないけれど、きっと今も泣いている男の人ではないだろう。
優しい声。再会の約束に、僅かに口元が緩む。
重い腕を動かして、そっと自分のお腹を撫でた。
20250711 『心だけ、逃避行』
「皆には内緒だよ」
それが彼の口癖だった。
不意に蛍を見たくなり、一人家を抜け出した。
誰もいない夜道を歩いて行く。
電灯がなく、街よりも暗いこの田舎の夜を怖がらなくなったのは、いつからだろうか。取り留めのない事を考え、思い出に浸る。
聞こえるのは虫の声や風に木々が靡く音。自然の音を聞きながら、額に滲む汗を拭う。
陽は落ちても、暑さは引く事を知らず。周囲は草木が生い茂り、かつての面影などどこにもない。
幼い頃の朧気な記憶との差異に、どこか落胆めいたものを感じて息を吐いた。
彼は不思議な人だった。
母の弟である彼は、いつでも自分の味方だった。
兄であり、教師であり、友人だった彼。
彼から物事の善悪を学び、様々な知識を学び。そして遊びを学んだ。
蛍が見える秘密の場所に連れていってくれたのも彼だ。
幼かった自分の初めての冒険。彼と手を繋いで、この道を歩いて行く。
「どこに行くの?」
尋ねても、彼は笑うばかりで教えてはくれず。
「皆には内緒だよ」
唇に人差し指を当て笑う彼は、自分よりも無邪気で幼く見えたのを覚えている。
「暑いな」
誰にでもなく呟いて、空を見上げた。
煌めく星々に目を細め、彼に教えられた通りに北極星を探す。星の見方を教えてくれたのも彼だった。
暗い夜の道標。
夜を怖がり動けない自分の手を取り、外へと連れ出して。
あの頃は、彼と手を繋いでいればどこへだって行けるような気がしていた。
「――叔父さん」
こんなにも感傷的な気分になるのは、この夏を最後にここに来る事がないからだろうか。
夏になれば、必ず訪れた祖父母の家。最後の住人だった祖母が亡くなり、昨日で葬儀も終わった。
明日にはここを出て、自分の家に帰る。無人の家は誰も継ぎたがらず、このままでは二束三文で売る事になるのだろう。
あの家で夏を過ごした思い出。祖父母や彼との温かな記憶と共に、ひっそりと消えていく。
「寂しい」
密かに吐息を溢し、前を見る。
気づけば踏切の前までやってきていた。
踏切も周囲と同じく草木に覆われ、沈黙を保っている。幼い頃、一日数本の電車が通っていた時には綺麗に整えられていた線路。廃線になってまだ数年だが、すでに自然に呑み込まれつつあるその姿に、空しさだけが込み上げる。
踏切の前で立ち止まる。
この先に、彼に教えてもらった蛍が見れる場所がある。
――皆には、内緒だよ。
彼の笑顔が思い浮かぶ。
手を繋ぎ、踏切を渡ったあの夜。怖くて足が竦むのを、彼は馬鹿になどしなかった。
いつものように、ふんわりと微笑んで。動けるようになるまで視線を合わせ、背をさすってくれた。
今は、怖くはない。怖かったあの時の理由が、もう分からない。
でも、何故だろう。
踏切の中へ足を踏み入れる瞬間。まるで別世界に渡ってしまったように思えて、少しだけ胸が騒ついた。
ふわり。
仄かな灯りが宙を舞う。
ふわり、ふわり。
ひとつ、ふたつと数を増やし、周囲を楽しげに漂っている。気づけば、騒がしかったはずの虫の声が聞こえない。肌に纏わり付く熱気がひんやりとした夜風に変わり、肌を優しく撫でていく。
空気が変わる。退廃的な澱みが、澄んだ水の匂いと共に流れていく。
残るのは、幼い頃を思い起こさせる懐かしい気配。
「皆には内緒だよ」
密かに笑う声がした。
「叔父さん?」
声のした方向へ、視線を向けた。
呼びかけに応える声はない。
気のせいだと思う心とは裏腹に、足は声の聞こえた方へと向かっていく。
「わぁっ!すごい、きれい……」
彼ではない、声がした。
幼い子供の声。無邪気に喜んで、はしゃいでいる。
思わず足を止める。
その声を、続くはずの言葉を。自分はよく知っていた。
「絶対……絶対に、ひみつにするからね。おじさんと、わたしだけのひみつ!」
そう言って小さな小指を差し出し、増えた秘密に笑うのだろう。
止まっていた足を動かす。星の海のように揺らぐ蛍に導かれ、奥へと進んでいく。
ゆっくりとした歩みが次第に速くなり、蛍を掻き分け走り出す。
前を漂う蛍が左右に割れる。開かれた道を駆け抜けて、生い茂る茂みを抜けた。
「――っ」
蛍が光が、辺りを淡く照らしている。
その光の中心で、二つの人影が指切りをしていた。
幼い子供と、細身の青年。子供に合わせて身を屈め、小さな小指に自らの小指を重ねている。
ひゅっと息を呑んだ。かけるはずだった言葉は喉奥に落ちていき、呆然と目の前の光景に見入ってしまう。
懐かしい光景。初めて夜の冒険に出た時の、自分と彼との大切な秘密の記憶。
愛しくて、切なくて。視界が滲み、涙が溢れ出す。
「そろそろ帰ろうか。あまり遅くなると、怒られてしまうからね」
「うん!また連れて来てね。約束だよ」
「分かってる。一人で夜を歩けるくらいに大きくなるまでは、一緒に蛍を見に来てあげるよ」
立ち上がった彼が、幼い自分に手を差し出す。その手を繋いで笑い合い、二人ゆっくりとこちらを見た。
「叔父、さん」
涙を拭い、彼を見た。
穏やかな眼差しは、記憶の中に残るものより色鮮やかだ。幼い自分は、こんなに無邪気に笑っていたのか。写真の中の、どこか硬い表情を思い出し笑みが浮かぶ。
声をかけようとして、けれどその前に、幼い自分が彼の手を解て走り出す。
真っ直ぐに迷いなくこちらに向かう姿に、思わず膝をついて手を広げる。受け止める体制になった自分の腕の中へと、幼い自分は勢いを殺さずに飛び込んで。
その姿が、無数の蛍へと変わる。
「――ぁ」
蛍が舞う。腕の中から抜け出して、星の海をさらに鮮やかに彩っていく。
幻想的な光景に見入っていれば、土を踏み締め近づく音がして。
「そろそろ帰ろうか」
優しく微笑む彼が、手を差し出した。
「大きくなったね」
二人手を繋ぎ、来た道を戻っていく。
気恥ずかしさと切なさに俯く視界で、繋いだ手が揺れている。
「叔父さん」
呼びかけて口籠もる。
何を言うべきなのか、伝えるべきかを迷い、悩みながら口を開く。
「お祖母ちゃんが、死んだよ」
「うん。知ってる」
「家も、誰も継がないから、このままなくなるみたいだ」
「仕方がない。都会と比べると、ここは不便でしかないからね」
眉が寄る。穏やかだが、最初から諦めている声に、続けるはずだった言葉を呑み込んだ。
彼は何も語らない。望まず、ただ受け入れる。
それが彼の元々の性格からくるものか、それともここにいる彼が幻だからなのか、自分には分からない。
不意に、隣を歩く彼が立ち止まる。
ひとつ遅れて立ち止まり、顔を上げる。いつの間にか踏切の前まで来ていたらしい。
彼が手を離し、数歩下がる。それを追って振り返れば、生前の姿と変わらない姿をした彼が、こちらに向けて軽く手を振った。
「またおいで。待ってるから」
静かな声。言葉を返そうとして、カンカンと背後から聞こえた音がそれを遮った。
踏切が鳴っている。廃線となって、二度と鳴らないはずの踏切が音を立てている。
ゆっくりと振り返る。赤い点滅とカンカンと鳴り続ける踏切が、電車が来る事を警告していた。
がたん、ごとん。
白い光と共に、電車が近づく。眩いばかりの光に、思わず目を細めた。
警笛。踏切の音。電車の音。
目の前を過ぎる電車の中で、微笑み手を振る祖父母の姿を見た気がした。
「――あれ?」
眩しさに閉じた目を開けば、電車の姿はどこにもない。
背後を振り返る。辺りを仄かに照らしていた蛍は見えず、彼の姿もなかった。
「ずるいなぁ」
彼の言葉を思い出し、小さく笑う。
またおいで、なんて。戻ってくるのが当然な言い方。
今更になって、彼はそういう狡い一面もあった事を思いだした。
溜息を吐いて、踏切へと足を向ける。
夜の冒険は終わり。後は家に帰るだけだ。
迷わず踏切を越えて、家路を急ぐ。
――皆には、内緒だよ。
そっと囁く彼の声に、ずるいなぁ、と呆れて笑った。
20250710 『冒険』