sairo

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9/15/2024, 10:25:01 PM

綺麗な人だと思った。

夕暮れの散策路を空の鳥かごを抱えて歩く人。普段ならば気にもならない、道行く他人が気になってしまったのは、夕日とその人があまりにも似合わなかったからだ。
手を止めて、しばらくその綺麗な人が通り過ぎるのを待つ。歩いているだけだというのに、その所作はとても美しい。まるで昔呼んだ絵本の中の妖精の王様のようだと、ぼんやりとそんなとりとめのない事を思いながらその背を見送った。
意識を切り替えるように頭を軽く振って、スケッチブックに線を走らせる。けれどもその手は思うように動かせず、少し悩んでからページを一枚めくった。

記憶を頼りに線で描く。
空には夕日ではなく欠けた月。星空の下、鳥かごを抱えて歩く綺麗な人を描き上げて、納得した。
あの人には、やはり太陽よりも月の方が似合っている。

「これは見事なものにございますね」

急に後ろから声がして、飛び上がるように驚き振り返る。

「驚かせてしまいましたか。申し訳ありませぬ」
「なっ、んで」
「なんで、とは。これまた異な事をおっしゃる。見ていたのは貴女でございましょうに」

ふわりと微笑まれて、羞恥に顔が赤くなる。見ていたのを見られていたとは思わなかった。
それに勝手に描いてしまった事に対しても申し訳なさが募り、耐えきれずに俯いた。

「ごめんなさい」
「素直に謝罪が出来るのは、とても良い事です」

思っていたよりは穏やかな声音。怒ってはいないかもしれないと、僅かに安堵する。
だけど本人の了承もなく絵を描くのはとても良くない事だ。もう一度しっかりと謝罪するべきかと、頭を上げる。
謝罪を口にしかけ、けれどかたん、という軽い音に言葉が止まる。
空のはずの鳥かごの中から、何か音がした。

「お気になさらず。早く外に出たいと暴れているだけの事。まだ陽がある故に外には出せぬというのに、我が儘な事です」

苦笑し鳥かごを撫でるその人の眼は、言葉とは裏腹にとても優しい。
大切にしているのだなと思うと、得たいのしれない鳥かごの中身なんて気にならなくなってしまった。

「あの、本当にごめんなさい。これからは気をつけます」
「構いませぬ。私は咎めに来たわけではありませぬ故。無心に描く貴女の絵に興味を引かれただけの事にございますれば。これからも思うがままに描くとよろしいでしょう」

かたん、とまた鳥かごから音がする。
空の鳥かごの中央に座る、幼い女の子の姿が見えた気がした。

「それでは失礼致します」

優雅に一礼して去っていくその背を見送って。
やはり綺麗な人だなと、そう思いながらスケッチブックのページをめくった。





欠けた月の浮かぶ夜。
誰もいない散策路を鳥籠を抱え術師は音もなく歩いて行く。
かたり、かたり、と音の鳴る鳥籠を、意にも介さず歩き続け。

不意に術師の足が止まる。
変わらず音を立てる鳥籠に呆れたように息を吐き、扉へと手をかけた。
刹那、鳥籠が揺らめき箱へと姿を変える。
封を剥がして蓋を開き、中から幼子を取り出した。

「五月蠅いですよ。満月《みつき》」
「みつりがわるい」

不機嫌を隠そうともせずに、幼子は下ろせと暴れ出す。
それを軽くいなしながら箱を呪符へと戻し、それを幼子の顔面に貼り付けた。

「なっ、ばか」
「五月蠅いと申し上げているでしょうに。落日を待たずして荒立つなど、焼けたいのですか」

呪符を剥がそうと躍起になる幼子は、その言葉に動きを止める。
呪符越しの金が深縹と交わり、ゆらりと揺らめいた。

「斯様な事、幼弱な満月には出来るはずなどありませぬ故に。真に愚か者にございますね」
「みつり」
「それとも嫉妬でもなさいましたか。あの憐れな娘に」

深縹が楽しげに歪む。呆れを宿した金が睨めつけるのも構わず、幼子のその柔らかな頬をつついた。

「やめろ。そんなわけがあるか。ころしてしまうかとおもっただけだ」
「あの程度で殺めるわけがないでしょう。私とて道理は弁えておりまする。閉じてしまおうかとは思いましたが」

やめろ、と心底嫌そうに首を振り、術師の腕から逃れようと身を捩る。結局は無駄な足掻きで終わるその弱い抵抗を宥め、術師はくつくつと喉を鳴らして笑った。

「閉じてしまえば、存外幸せになれるやもしれませぬ。現を忘れ、命尽きるその時までひとつに心を傾ける事が出来る方が、あの娘には向いていましょうや。その先で娘がどんな化生に成るのか、興味がありませぬか」
「へんたいだ」

つつかれていた頬をつねられる。痛みにさらに暴れ出す幼子の体を落とさぬようしっかりと抱きかかえ、術師は無言で歩き出した。

「いたい。みつり、はなせ。ほんとうにいたいって」
「仕置きです故、痛くするのは当然にございましょう。言葉には気をつけるようにと躾けておりますのに、何時になれば女子らしく淑やかになるのですかね」
「みつりよりもおんならしくなど、なれるわけないだろう」

頬をつねる力が強くなり、その痛みに幼子の目に涙が滲む。
すまなかった、と溢れ落ちた微かな謝罪の言葉に、術師はようやく手を離すと赤くなった頬を優しく撫ぜた。

「子を育てるとは、難しいものですね。特に満月は我が儘にございますし」
「きにいらぬならば、そこらにすておけ。ひがのぼればもえてくれるだろうよ」

疲れたように目を閉じる幼子に、術師は眼を細め。

「満月」
「みつりがいらぬならば、わたしもいらぬ。すきにすればいい」

首に伸びかけた手は、けれどもその言葉に止まり。
代わりにその指は目尻に残る涙を拭い、あやすように小さな体を胸元に抱いた。

「なればその命。燃やさず留めておくことに致しましょう。私が終わるその時まで」

囁く言葉に幼子は眼を開き、仕方がない、と声に出さずに呟いて。
穏やかな光を湛えた深縹を見つめて微笑んだ。



20240915 『命が燃え尽きるまで』

9/15/2024, 1:09:08 AM

「久しぶり。会いに来ちゃった」

そう言って、友人はいつもと何一つ変わらない笑みを浮かべて手を振った。


知らない場所。気がつけば小さなお社の前に立つ友人と対面していた。
空は暗く。けれども等間隔に並んだ灯籠の仄かな灯りが周囲を照らしているおかげで、闇に戸惑う事はない。

「ここは?」
「私の一番最初の記憶。それを再現した夢の中」

夢。ここは彼女の夢なのか。それならばここにいる私は、彼女の作り出した幻なのだろうか。
それにしては、やけにはっきりとしている意識と感覚に困惑する。
そんな私の様子に、友人はごめんね、と呟いた。

「あーちゃんの意識をつなげてもらってるの。時間が来るまで話をしようと思って」
「なにそれ。意味分かんない」
「ごめんね。私のわがままなんだ」

何を言いたいのか。その真意が見えない。
思わず表情が険しくなるが、それを気にする事なく友人はお社の上がり口に座り手招いた。

「来てよ。話したい事がたくさんあるんだ。夜明けまでは一緒にいよう」

笑みを浮かべる友人がどこか寂しそうに見えて、仕方ないと息を吐く。
手招かれるままに隣に座り、けれども視線は向けず、声もかけずに彼女の話を待った。

「私ね。前世の記憶があるんだ。ここで狐さんと約束したのが始まり。それから何度繰り返しても、私には狐さんだけだった」

前世、の言葉に胸がざわついた。
影の声が聞こえない不安と、彼女も同じだという安堵にも似た気持ちが混ざり合って、相づちひとつ出てこない。

「彩葉《あやは》が私の初めての友達なんだ。一人ぼっちでどうしたらいいのかも分からなかった私の側にいてくれたのは、あーちゃんだけ。あーちゃんがいたから、世界を知る事が出来た。たくさんを知れたから、きっと自分に素直になれた」

何を言えばいいのか分からず、友人に視線を向ける。同じようにこちらを見ていた彼女を視線が混じり合い、ざわつく胸が苦しさを訴えた。
何故だろう。その先の言葉を、聞きたくないと思う自分がいる。

「紺《こん》。私は何もしてない。私は、」
「大好きだよ、私の親友。ずっとありがとうが言いたかったんだ」

彼女の言葉はまるで別れを前にしている者のそれに似ている気がして、縋るように手を伸ばす。
拒まれる事なく重ねられた指先が、思っていたよりも冷たくて。それが恐くて、離れないようにと指を絡めて握った。
そんな私に彼女は普段とは違う優しい顔をして、彩葉、と静かに名前を呼んだ。

「少しでもいいから恩返しがしたかったの。彩葉の助けになりたかった。でもそれは私のわがままだから。ごめんなさい」
「意味が分からない。紺は私に何が言いたいの?」

繋いだ手を軽く引いて、言葉を止める。
私の助けになりたいと言いながら、それはわがままだと言う。それがとても怖い事のように感じて、否定してほしくて彼女を見る。
いつも聞こえている、今は聞こえない声が恋しいと思った。

「私は彩葉に生きてほしい。それが彩葉にとって別れを意味する事だとしても、それでも今を私と生きてほしいの」
「それは、」

言葉に詰まる。
胸が痛い。息が苦しくなる。
けれどそれはいつも感じている、溺れているような感覚ではない気がした。

「彩葉の前世がどんなものだったのか、私には分からない。私にとっての狐さんのような、大切な存在がいるのかもしれないし、それが彩葉の後ろの誰かなのかもしれない。そのすべてとさよならをして今を生きてなんて、すごく酷い事を言っているのは分かっているの。でも私は彩葉と生きていきたいと願っている事を知ってほしい。それに、彩葉が生きるためにいろんな人が力をつくしてくれている事を、そのためだけに一人きりで生きてきた人がいる事を知っていてほしい」

息が苦しい。頭が痛くなる。
痛みに眩む視界で、誰かの笑顔が浮かんで、消えていく。
法師様。一緒にいた皆。両親。友人。


「あなたは生きないといけないわ」
「そうだよ。ちゃんと前を向かないと」
「彩葉としての生を謳歌なさい」
「それを法師様も、わたし達も、あの子だって望んでる」

聞こえた声に振り返る。
優しい顔をした影ではない、あの頃と変わらぬ四人の少女達の姿を認め、友人の手を離して駆け寄った。

「あぁ、ほら。泣かないの」
「相変わらず泣き虫だね。あの子とそっくり」
「だって。だって」

頭を撫でられて。抱きしめられて。笑われて。
止められなくなった涙を拭かれながら、だってを繰り返した。
逢いたかった。これが最後の別れになるのだろうから。せめて今までの感謝を告げたかった。

「ありが、と。一緒に、いてくれて。引き留めて、くれて」
「当たり前でしょう?あなたはあそこにいるべきではないのだから」
「もう大丈夫。わたし達はいないけれど、法師様はいるの。法師様をよろしくね」

手を握られ。肩を叩かれ。そっと背を押された。
目の前には、友人の姿。
ごめんね、と繰り返して、後ろにいる彼女達に声をかける。

「ちゃんと終わったんだ」
「えぇ。もうこの子が引かれる事はないわ。この子の事をよろしくお願いしますね」

もう一度背を押され、一歩友人に近づく。
差し出されて手を取り、もう一度振り返ると、そこにはもう彼女達の姿はなかった。


「迎えがきているみたいだったから。還れたと思うよ」

その言葉に頷きだけを返す。
止まらない涙を今度は友人に拭ってもらいながら、深く息をする。
泣く事しか出来なくなった私はまるで、生まれたばかりの赤ん坊になったみたいだった。

「私達も起きよう。そろそろ朝が来るから」
「朝?」
「うん。朝が来るなら起きないと」

見上げれば、夜空はいつの間にか白く染まっている。
夜明けが近いのだな、とぼんやりと考えながら、繋いだ手が暖かい事に気づいてなんとなく安堵した。
意識が揺らぐ。泣きすぎた事もあるが、きっと目覚めが近いのだろう。

「起きたら会ってほしい人がいるんだ」
「前に言ってた人?」
「ううん。もっと彩葉にとって大事な人」

誰の事だろう。はっきりとしない意識では、うまく思い出す事が出来ない。

「大事な、人」
「会ってあげて。その子もそれを望んでる」

大事な人。繰り返しながら友人を見て、空を見る。
朝焼け。赤に色を染めた空に。

何故だろう。夕焼けの朱を重ねて、帰らなければと、そう思った。



20240914 『夜明け前』

9/13/2024, 8:45:38 PM

スケッチブックに線を走らせる。
目の前の光景を、その瞬間を切り取るように。スケッチブックの白に、自分だけの世界を描いていく。

「やっぱりすごいな。デッサンだけでも引き込まれそうだ」

急にかけられた言葉に驚いて、線がゆがむ。そのひとつの綻びで切り取られるはずだった世界は、ただの未完成の絵になり。音もなく閉じられたスケッチブックが、その絵が完成する日が来ない事を示していた。

「急に話しかけないで」

冷たく言い放ち、道具を片付け始める彼女にごめん、と彼は笑いその手を引き留める。

「何」
「たまには俺の事も描いてよ」

いいでしょ、と頼む彼に視線を向けず、答えも返さず。引き留める手を振り払い、乱雑に道具を鞄に詰めると立ち上がる。
彼は笑みを浮かべたまま、それ以上は何も言わない。
それが逆に気まずくなり、彼女はやはり視線を向けぬままに呟いた。

「人物画、苦手だし。夕日を描いている方が好きだから」
「そっか。残念」

さほど残念そうには見えぬ彼の視線から逃げ出すように、彼女は足早に帰宅の途についた。



人物画が苦手なんて拙い嘘を、きっと彼は見抜いているのだろう。
やるせない気持ちで唇を噛み、アトリエの扉を開ける。
大小様々なキャンバスの一番奥。棚から額装された絵を取り出した。

互いの手を取り微笑み合う男女の水彩画。
彼と、彼女の姉を描いた、唯一残した絵。
感情のままに地面に叩きつけようと振りかぶり。結局は出来ずに、再び棚に仕舞い込んだ。

何度繰り返したのか。
彼に話しかけられる度、姉の様子を伺いに行く度に激情に突き動かされるように、今まで描いてきた二人の絵を破り捨ててきた。けれどもこの最後の一枚だけは、どうしても壊す事が出来なかった。

せめて二人が結ばれてくれたのなら、諦める事も出来ただろうに。
そう思ってしまうくらいには、どうしようもなく彼女は彼に恋をしていた。
けれどそれはすでに終わってしまった恋でもあった。

数年前。彼女がまだ高校生になったばかりの頃。
最初で最後の、告白をした。
結果の分かりきっていた告白だった。彼が彼女の姉に好意を寄せていた事を、彼女は知っていた。
それでも告白をしたのは、自分の気持ちに区切りをつけるため。振られて、そこでようやく二人を心から応援する事が出来ると思っていた。

だが現実は思い描くものとは常に異なり。
姉は彼以外の男性と恋仲になって、彼は想いを告げる事すら出来なかった。
どこか悲しげに、それでも笑って姉を祝福する彼を見て、終わったはずの恋が微かな期待に彼女の胸を焦がし。事故で恋人を喪った彼女の姉が壊れてしまった事で、彼女の恋は行き場をなくしてしまった。
姉が恋人の幻影を追う限り、恋は諦める事が出来ず。彼が姉の元へ通い続ける限り、恋は期待する事も出来やしない。
ぐるぐると恋は彼女の胸の内に燻り続けて、それを見ないように彼女は人物画を描く事を止めてしまった。
それほどまでに彼女は全力で、恋をしていた。


「恋なんてするもんじゃない」

きつく手を握りしめて、噛みしめるように呟いた。
気持ち的には、指一本動かしたくないくらいに疲れ果てている。恋だの愛だのは、しばらくは見るのも聞くのも嫌だ。
何より彼に合うのが苦痛だった。

想いを振り払うように頭を振ってアトリエを出る。
リビングの机の上に無造作に置かれていた、一枚の紙が目に付いた。

留学。

恩師や両親の薦められていたが、保留にしていたそれ。壊れる前の、大好きだった姉の昔からの願い。
先に進むにはいい切っ掛けになるのかもしれない。

紙を指でなぞりながら目を閉じる。
しばらくして目を開けた彼女の心は決まっていた。

壁掛けの時計を見る。
寝るのにはまだ早いが、相手に連絡をするには少し遅い時間。
鞄の中のスケッチブックを確認する。
残り少ない枚数を確認してから、鞄の中に仕舞い込む。

「たまには朝日を描くのもいいか」

誰にでもなく呟いて、リビングの電気を消して寝室に向かう。
思いついたらすぐに行動に移せるのが、彼女の長所だ。

普段とは違う景色を思って、ベッドに横になる。
明日、朝日を描き終えたなら。
まずは両親と恩師に連絡をしよう。それから姉の所へ行こうか。
目を閉じる。暫くして訪れた睡魔に身を任せて。


久しぶりに夢も見ないほどの深い眠りに落ちていった。



20240913 『本気の恋』

9/12/2024, 9:36:38 PM

目覚めてすぐに、テーブルの上の卓上カレンダーを確認する。
今日の日付に印はない。
少し気落ちしながら部屋を出て、朝の仕度を始める事にした。

またいつもと同じ、退屈な今日が始まり。未練がましくカレンダーを見ても、やはり日付にはなんの印も書いていない。
いつまで待てばいいのかと、愚痴をこぼしてカレンダーをつつき。いつもの時間通りに家を出た。


目が覚めてすぐにカレンダーを見る習慣は、どれくらい前から始まったのか。覚えていないそれは、けれども切っ掛けだけは今もはっきりと覚えている。

大切だった人からもらった贈り物。
花が好きなわたしのため、暦に合わせた花が彩りを添える、綺麗なカレンダー。
二人でカレンダーをめくり、笑い合いながら記念日に印をつけていったあの日の記憶は、忘れる事など出来るはずがない。
だから本当は、印をつけた日付はすべて覚えているし、あと何日後に何があるのかも分かっている。そもそも一月ごとにめくるカレンダーなのだから、確認するまでもなく印があるかないかは見えていた。
今日の日付に×印をつけ、なんの印もついていない日付をなぞる。
日めくりのカレンダーならば少しは空しくなくなるのかと、意味のない空想に耽りながら、変わらないであろう明日を思って目を閉じた。



目覚めてすぐ、カレンダーを確認する。
今日の日付に、ピンクのペンで可愛らしく丸がついていた。

記念日。ずっと待っていた特別な日。

うれしくなって、いつもよりも時間をかけて身だしなみを整え、お気に入りの白のワンピースに袖を通す。
カレンダーをバックに入れて、特別な赤い靴を履いて、跳ねるように家を飛び出した。


記憶をなぞるように思い出のカフェで朝食を取る。二人で何度も訪れた映画館へと足を運び、目に付いた映画を見た。
昼食は取らずに公園を散歩して、水族館で好きだったアシカのショーを見て。
夕方になって、花束を買った。色鮮やかな、夏と秋の合間に咲く花を手に、星がよく見えるようにと高い所へと上っていった。
一番高い所から、星空を見上げる。

今日は特別な日。ずっとずっと待っていた。

足を踏み出す。
空が近くなった気がして。そのまま、


「はい。そこまで」

腕を引かれる。
ぱちん、と何かが割れるような感覚がして、ふわふわとしていた意識がはっきりする。

今わたしが立っている場所を見て、ぞっとした。
マンションの屋上。フェンスの向こう側。
足下に広がる街の小さな景色に、足が竦んで動けなくなる。

「悪いな。少しだけ我慢してくれ」

腕を引いてくれた誰かの声に振り向くよりも早く、引き寄せられて浮遊感を感じ。
気づけばフェンスの内側で座り込んでいた。

「もう大丈夫か」

見上げれば、黒い男の人。
その手には見慣れたカレンダーがあり、半ば無理矢理奪うような形でカレンダーを取った。

日付を確認する。変わらずそこにはピンクの丸が書かれていて。
その丸がぐにゃりとゆがんで形を変え、文字を形作っていく。

落ちればよかったのに。

暗がりの中でも何故かはっきりと見える文字に、引き攣った声がもれてカレンダーを放り出した。
かさりと音を立てて落ちたカレンダーを男の人は拾い上げ、書かれた文字を見る。あぁ、と何かを納得したように小さく頷くと、文字を見せるようにしてカレンダーを差し出された。

「もう許してやってくれ。仕方のない事なのだから」

許すとは何を意味しているのだろう。
カレンダーを見れば、文字はまた形を変えて広がって、カレンダーを埋め尽くしていく。

許さない。落ちてしまえ。

「わ、たし。あの人に、恨まれている、の?」

怒りしか感じられないその文字達に、掠れた声がもれる。
あの人が怒っている所なんて今まで見た事がなかった。いつも怒るのはわたしの方で、あの人は少し困った顔をしながら、そんなわたしをなだめてくれていたから。
そんな優しいあの人をここまで怒らせた。憎み恨ませてしまったのか。

呆然とするわたしに、けれど男の人は静かに首を振って否定する。

「これは誰の文字だ?」

誰の。その言葉に文字を見る。
丸みを帯びた、少しクセのある字。あの人のお手本みたいに綺麗な文字とは、全然違う。
でもこの文字を、わたしはよく知っている。直そうとして、結局直す事の出来なかった文字をわたしは知っている。

これは、わたしの文字だ。

そう理解した途端、耐えきれなかった涙が溢れてきた。
思い出した。思い出してしまった。
今日がなんの日なのか。この場所がどこなのか。
カレンダーを見る習慣。その意味も全部。

「許してやれ。お前が悪い訳じゃない」

泣きじゃくるわたしに、男の人は優しく許してやれ、と繰り返す。
そんな事出来るわけがない。

わたしをわたしが一番許せないのに。


泣きながら、許さない、と声を上げる。わたしへの恨み言を何度も繰り返す。
繰り返して、けれど次第にそれは寂しい、の言葉に変わり。
結局の所、わたしはあの人がいない事が寂しいだけなのだと知った。


ごめんね。ありがとう。

カレンダーの文字が変わった事にも気づけずに、あの人がいない事にただ泣いていた。



20240912 『カレンダー』

9/11/2024, 3:23:36 PM

書庫の奥。今までなかったはずの戸を見つけ、男は怪訝に顔を顰めた。
戸に鍵などはなく。開けて中を確認すべきか否かを思案する。

ここの書庫に収まる本は、男が前の世で犯した罪のすべてだ。
様々な呪法が記された本。前の世の男が行ってきた呪の経過の記述。
目を背けたくなるほどの数々に、けれど男はその罪の償い方を、断ち切る術を探して足繁く通い書物を読み込んでいた。ただ一人の少女のために。

前の世の記憶は酷く曖昧だ。書庫さえ見つけなければ、書物を手に取らなければ、男は忘れたままでいられたのだろう。あるいは書庫を閉じ無かった事にしてしまえば、過去は過去として男を苛む事はなかったはずだ。
しかし男は過去を辿る道を選択した。それは偏に男の旧知の友が男に信を置き、縋るように彼の一人娘を託されたからだった。
初めて出会う、だが同時に懐かしさを感じる娘。原因の分からぬ病を抱え、常に死に引かれ続けていた彼女を最初は友の信に報いるためだけに手を尽くし。その過程で書庫に辿り着き、そこで得たのが前の世の記憶の断片であった。
思い出してしまった己に、声が聞こえた。娘の影から聞こえる複数の声に耳を傾ければ、それはかつての呪いを歌う少女達のものである事に気がつく。娘を現世に留め続けている少女達は変わらず己を慕い、娘についてすべてを教えてくれた。
かつて為し得なかったはずの外法。作られた狂骨。

すべてが前の世の己が犯した罪の結果だった。


戸に触れる。確かに存在している戸は、昨日まではなかったものだ。暫し迷う手は、それでも最後に戸を開ける選択をし、手をかける。
戸が現れた理由も、その先に何があるのかさえ男には分からない。だがこの書庫の奥にある部屋だ。娘を助けるための何かを求め、静かに戸を引いた。



そこは窓のない、薄暗い小さな部屋だった。
寝台と、文机と、書架。
寝台の側に置かれた灯り一つで、辺りが認識出来るほど狭い寝室。

違和感に男の表情が険しくなる。
灯りが、ついていた。
己以外が訪れる事のない、況してや男自身も今初めて入る部屋に、仄かな灯りが点っていた。

足を踏み入れる。
舞い上がる埃が、長い間誰の訪れもなかった事を示し、さらに男を警戒させた。
寝台。文机。書架。
視線を巡らせる。やはり何も、誰もいない。

当たり前だ。あの子はまだ帰ってきてはいないのだから。

不意に過る思いに、男の動きが止まる。
誰の事を言っているのか。思い出せない空白に、手がかりを求めて書架に収まる書物に手を伸ばし。

「開いてしまったのか。あの子の身が損なわれたか。否、見立てが崩れたか…どちらにしても、あの子の終わりは近いのだな」

呟く言葉に、そこで初めて文机に向かい座る誰かがいる事に気づく。

「誰だ?」

男の問いに答える事はなく。
おもむろに立ち上がり振り返る誰かの姿を認め、男は息を呑んだ。
凪いだ表情で男を見る誰かは、前の世の若かりし頃の男そのものだった。

「お前は、儂か…?」
「お前が言うのであれば、そうなのだろう。確かにお前は私に近い」

男の言葉を否定せず、しかしはっきりと肯定もしない誰かはだが、と言葉を続け目を伏せる。

「私はもう死んだのだな。ならばあの子はもう、ここを離れてしまったか」
「お前は、誰だ」
「記憶だよ」

再度の問いに、抑揚の薄い声音が答える。
記憶と名乗る誰かは視線を上げ凪いだ表情に薄い笑みを浮かべ、書架から一冊の書物を取り出した。

「この部屋で眠っていたあの子の経過を記した本を記憶に見立て、作られたものだ。最後の呪で私があの子を認識出来なくなった時のための保険だったが、部屋自体を閉じられてしまったから意味はなくなってしまったな」

表紙を撫でながら自嘲する記憶に、一切を思い出す事の出来ぬ事に胸が痛みを覚えた。
欠落し空いた穴を、無理矢理塞いで見えないようにするような、そんな錯覚を覚え吐き気がする。

「あの子、とは」
「忘れているのであれば、そのままでいる事がお前にとっては幸せだろう」

吐き気を堪え問う男の言葉に、けれど記録は答える事を否定する。

「何故?」
「知った所で、あの子は帰らぬからだ」
「そんなはずはない」

淡々と告げられた言葉に、男は反射的に否定する。
胸の痛みが段々に強くなり、眩む視界に膝をつきながらも思い出せない欠落を、その隙間に僅かに残る断片を必死にたぐり寄せた。

「違う。あの子は帰ってくるはずだ。あの子が最後に口にしたのは別れの言葉ではなかったのだから。だから帰ってこなければいけないのだ」


行ってきます。そうあの子は言ったのだから。

あの子が誰かも思い出せず、それでも否定する男を記憶はただ凪いだ瞳で見つめ。
暫くして、手にしていた書物を男へと差し出した。

「あの子を思い出したとて、何も変わらない。この記録がすべて読めるのならばあの子はすでに亡く、読めぬともここを離れたあの子をこれ以上留める術はない。それでもよいのか?」
「構わない。知らなければならないものだ」
「そうか」

手渡された書物を開き無心で読み始める男を見、記憶は静かに立ち上がる。

男とあの子の間に何があったのか。呪を施したあの子はどうしたのか。
この部屋以外の記録を、記憶は有していなかった。

戸の外へと視線を向ける。書架とそこに収まる書物を認め、部屋を出た。
この部屋を閉じた後の記録があるはずだと、書物を探す。
すぐに見つかった書物を手に取り、表紙をめくる。

その記録の先に男の罪がある事を、記憶は知らない。
同じように男の読み耽るその記録が、すべての始まりだと男はまだ気づけない。


そうして記録を読み終えた二人が得たものは、望んでいたものではなく。
愛しい娘をなくした喪失感だった。



20240911 『喪失感』

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