東雲の頃。静謐が満たす工房内を、昨夜まで降り続いた雨の名残が漂っている。
濡れた土の匂い。藍の香りと混じり、青年は深く息を吸い込んだ。
藍甕《あいがめ》の中で布を静かに揺らす。水面に立つ小さな波に海を重ね、苦笑した。
この山奥の集落で生まれ育った青年は、海など夢の中ですら見た事がない遠いものだ。
ほぅ、と吐息を溢す。吐息は小さく跳ねる水音と混ざり、工房内に溶け込んでいく。だが微かな音は静謐を乱しはせず、薄暗い工房内は未だ微睡の中にあるようであった。
布を揺らす。指先は冷たい水に浸かりきり、皮膚の隙間まで藍が染みていく。
一度目、布はまだ淡く曖昧な色だ。二度、三度と染め重ねるたび、色は深さを増し、静かに沈み込んでいく。
布を揺らす手が止まる。黙々と布を持ち上げ、水面で余分な藍を絞る。
その手は青が染み付いていた。青年が幼い頃より繰り返してきた布を染める技は、その手すら青に染め、消える事を許さない。数少ない青年の友人は、染み付く青を山に縛り付けられているようであると嫌っていた。青年は自身の手に思う事は特段なかったが、時折深い青を見て言いようのない感情が込み上げる。
――この青は、何を隠しているのか。
藍甕の底は見えない。深い青の裏など見通す事など出来ない。
それでも、青年は藍の底を見つめている。染め上がった布を透かし見て、青の裏を探す。
心が騒つくのは、今宵に祭事を執り行うからだろう。。
今年もまた、山奥の社を開く季節がやって来た。
強く差すような陽の下、深い青に染まった布が、風に靡いて揺れている。
揺らぐ青は、空のそれとは違う。このまま風に攫われ空に舞ったとしても、馴染む事はないのだろう。馴染まぬ青は空を漂い、いずれ海へと辿り着く。海は青を受け入れ包み込み、底へと沈めていく。
青年は一つ息を吐いた。
布を染めている時から、見た事のない海がちらつく。聞いた事もない潮騒なるものが、布が風に靡く音に混じり聞こえてくるようだ。
軽く頭を振って、海の幻を散らす。
社へと向かう刻限が近づいている。傾きだした陽を一瞥し、青年は布へと手を伸ばした。
日の出と共に藍で染めた布を、山奥の社まで届けなければならない。
それが青年の役目であった。
「――なんだ?」
竹竿から布を取り外す刹那、青の向こう側に白い着物の裾と、細い裸足の足が見えた気がした。
布を取り露わになった向こう側には、誰もいない。
当然だ。この工房には、青年以外の立ち入りは固く禁じられているのだから。
雨の名残だろうか。濡れた土の匂いや、青臭い植物の匂いが僅かに強くなる。雨が戻ってくるのかもしれない。
布を手に青年は踵を返し、工房へと向かう。
海も足も気のせいだ。そうは思うが、心は騒つき落ち着かない。見えない何かの気配を感じて、無意識に足が速くなる。
いつもより重く感じる布の青さが、気のせいではないと静かに告げているように思えた。
その社は、村の外れにある石造りの鳥居の先、道とも言えぬ細道を辿った先にあった。
じわり、纏わり付く湿気を帯びた夜の気配に青年の眉が寄る。腕に抱いた青の布を抱え直し、無言で社の前に立つ。
社の戸の左右に掛けられた提灯には灯りが入っているが、辺りには青年以外に誰もいない。祭事とは言えど、執り行うのは青年だけだからだ。
社の中にある木彫りの人形に、布を被せる。ただそれだけ。
それは祭事というよりも、風習に近い。
幼い頃より。藍染めの業を父より教え込まれ、七つを過ぎた頃にこの祭事を任された。青年のために父は木彫りの人形を作り、社に納めてくれた。
以来、毎年必ず青年は藍で布を染め、それを人形に与え続けていた。
この祭事の意味を、青年は知らない。知っているのは一つだけだ。
――人形は青年のために在る。
故に、青年以外が祭事に参加する事は一度としてない。
意味も知らず、役目の終わりも知らず。
青年はただ藍を植え育て、摘み取った藍で布を染め続けている。
「――行くか」
ふっと息を吐き、青年は社の戸に手を掛けた。
夜の気配は益々湿気を帯び、空に浮かぶ月は雲に隠されようとしている。
急がなければ。雨が来てしまう前に、終わらせなければならない。
戸を引いて、中へと足を踏み入れる。暗く狭い社の中に外の提灯の灯りが差し込み、ぼんやりと奥の人形の姿を浮かび上がらせる。
人形、とは言えど、その作りは随分と粗末だ。頭と胴を形作り、青い着物を羽織わせただけの。人形と言われなければ、表面を削りくぼませた丸太としか見られないほどのもの。
青年は迷う事なく、人形へと近づいた。青年の手にした布の青よりも、人形の纏う着物の青は浅い。その着物を人形ごと隠すように、布を被せた。
これで祭事は終わりだ。
短く息を吐いて、青年は社を出るため人形に背を向けた。
雨が降る前に戻りたい。祭事の事も、人形の事も意識の隅に追いやり、早く家に戻り休む事だけを考えて足を進める。
宵の頃に行われる、青年だけの祭事。今年も変わらない。
はずだった。
かたん。
小さな音に、青年は足を止めた。
布のせいで人形が倒れてしまったのだろうか。嘆息して振り返る。
布をかぶり倒れ伏す人形。今まで倒れる事がなかったため、少々雑に布を被せてしまったようだ。
ちらりと外を一瞥する。
青年一人の祭事だ。直さずとも、問題になる事などないはずだ。
そうは思えど、青年の几帳面な性格が見て見ぬ振りを許さない。
ひとつ、溜息を吐く。人形の元へ歩み寄り、手を伸ばした。
かたり。
音がした。もぞりと布が蠢いて、波のように揺れる。
もぞりもぞりと布が動く。まるで布の下に誰かがいて、布の外へと出ようと藻掻いているように。
息を呑み硬直していた青年の、伸ばしたままの指先が布に触れる。弾かれたように手を引いて、だがややあって徐に布へと手を伸ばし掴んだ。
恐怖に激しく鼓動を刻む胸が痛みを訴え警告を発するのを気づかない振りをして、布を引き抜く。
「――っ!?」
布が取り払われ、人形が露わになる。だがそれは人形ではなかった。
青い着物姿の少女。焦点の定まらぬ虚ろな目をして、急に開けた視界に目を瞬いていた。
ぼんやりと青年を見つめる目が、次第に焦点を結んでいく。青年の姿を認識し、首を傾げて口を開いた。
「だれ……?」
鈴を転がしたかのような、美しい声音。困惑に眉を寄せたその表情も美しい。
青年は、一目で目の前の少女に心を奪われた。
手にしていた布を少女の背に掛ける。びくりと震える華奢な肩を引き寄せ、青年は告げた。
「お前の、夫となる者だ」
その言葉と同時、青の布が少女の着物へと溶け、着物の青が深くなる。
溶けた布と同じ青。青年の口元に笑みが浮かぶ。
――人形は青年のために在る。
人形に藍で染めた布を被せる祭事。その意味をようやく青年は理解する。
そして気づく。祭事に訪れる度に、去年の布が消えている事。人形の着る着物が次第に青を帯びて行く事。
作られたばかりの頃の人形の着物の色は白だったと、今更ながらに思い出した。
「行こうか」
目を伏せ凭れる少女を抱き上げ、青年は社を出る。
外は細かな雨が降り始めていた。空を一瞥して、青年は少女を抱き込むようにして家路を急ぐ。
さらさらと雨の音に紛れ、潮騒が聞こえた。
あぁ、と微かな声を漏らす少女の頬を、雨が伝い落ちていく。
藍で染めた布が生み出したもの。
海のように青く深い着物を纏った少女。
少女からは、青年が知らない海の香りがするような、そんな気がした。
20250629 『青く深く』
昨日までの降り続いた雨が嘘のように、空は澄みきった青を広げていた。
汗ばむ額を拭う。そろそろ夕暮れだというのに、照りつける日差しは容赦なく肌を焼く。眩む視界に立ち止まり、眉間を押さえ目を閉じた。
梅雨はまだ明けない。だが確実に近づく夏の気配に、ぞくりと背筋が薄ら寒くなる。
夏が来るのだ。怖ろしく、忌まわしい夏が。
あの悪夢を引き連れて、今年もまた夏が来る。
「夏、ねぇ」
「ちょっと、見ないでよ」
笑いを噛み殺した声に、慌ててノートを閉じた。
振り返れば、意地悪く笑うクラスメイト。にやにやとしたその顔に、見られた恥ずかしさから頬が熱を持つ。
「減るもんじゃなし、続けろよ」
「煩い。あっち行って」
「けち」
伸びる手を叩き落とし、急いでノートをしまう。残念だと言いながら、その顔は少しも残念そうには見えない。
きっと馬鹿にしている。放課後の教室に一人残って、ノートの端に空想を書き付けている。可笑しな奴だと、そう思っているに違いない。
視線を逸らして立ち上がる。
「もう帰るのか?」
静かな声。空気が変わった。
けれどそれもきっと気のせい。ただの気分の変化。
部屋の温度が下がっていく感覚に気づかない振りをして、クラスメイトの横を通り過ぎる。
答えてはいけない。気づいた事に気づかれてしまったら、戻れない。
「まだ早いだろ。ゆっくりしていけよ」
腕を掴まれた。冷たい、氷のような手。
掴む腕の強さは弱い。それでも体は腕を払う事も、進む事も出来なくなってしまった。
「――帰る」
「酷い奴。寂しい俺の相手をしてくれてもいいだろう?」
腕を引かれる。引かれて、そのまま椅子へと座らされた。
目の前にクラスメイトが立ち塞がる。掴まれた腕は離れず、帰れない。
鞄を抱きしめて俯いた。腕を掴む白い手が視界に入り、急いで目を閉じる。
視界になど入れたくない。これは逆らえない私の、せめてもの抵抗だ。
「なぁ。さっきの続きを読ませてくれよ。夏の悪夢って何だ?」
「教えたくない」
「なんで?それってもしかして――」
掴まれた腕を上げられ、爪を立てられる。
痛み。皮膚の中に入り込もうとするように思えて、目を開けて顔を上げた。
「悪夢は、俺の事だから?」
白くて虚ろな、死人の顔をした彼と目が合った。
「酷いなぁ。本当に酷い」
瞬きをする事も忘れて彼を見る私に、悲しげに囁く。
その表所は眉一つ動かず、目が瞬く事もない。声だけが表情豊かに語り続ける。
「悪夢だって。なんでそんな酷い事を想うんだ?俺は怖ろしくも、忌まわしくもないだろう?……誰にも気づいてもらえず、気づいてくれる唯一には素っ気なくされる。可哀想な奴じゃないか」
乾燥してきた目が、次第に涙の膜を張りだした。涙の膜越しに見えるのは、眉を下げて頬を膨らませるクラスメイトの姿。頬には赤みが差して、活気に満ちあふれている。
軽く睨む目が何かを思いついたように緩み、口元を歪ませながら、腕を掴んだ手にさらに爪を立てた。
「痛っ」
「俺も痛いよ。痛くて痛くて……死んでしまいそう」
痛みに顔を顰め、その表紙に膜が涙として流れ落ちる。
膜のなくなった視界の先の彼は、表情が抜け落ちた死人の顔だ。けたけたと楽しげな笑い声と、無表情で虚ろな目の差に混乱する。
「死んでるのに、死にそうな痛みを与えられるなんて、本当に可哀想な俺。どうして俺はここにいるんだろうな」
「し、知らない!」
「本当に?……本当は全部知っているんじゃないか?俺がここにいる理由。俺が誰なのかも、全部」
首を僅かに傾げて顔を近づける。微かに薫るのは線香の匂い。
あの日、彼の葬式で嗅いだ――。
「知らない。あなたなんか知らない……夏に出るただの幽霊なんか、私が知るわけないっ!」
首を振って必死に否定した。
夏の始まりと共に現れる彼。一人多いクラスメイト。
ただそれだけ。それ以上は知らないのだと、彼にも自分自身にも言い聞かせる。
「――本当に酷い奴。そんなにおまえを振ったのが許せなかったのか。五年も経つのに、まだ恨んでいるのか」
本当に怖ろしいのは、どちらなんだろうな。
どくりと、心臓が嫌な音を立てた。
呆然と彼を見つめる。
虚ろに開いたままの目がゆっくりと歪んでいき、悍ましい笑みを形作っていく。
込み上げる涙を彼の冷たい指が拭う。けれども彼の歪な笑顔は、ずっと顔に張り付いて消える事はなかった。
「五年経って、おまえは俺と同い年になった。来年からはおまえが年上だ。それなのにまだ許してくれないのか?」
「許す……?」
彼の言葉を繰り返す。私は彼を恨んでいるのだろうか。
記憶が過ぎていく。歪な笑顔の彼が、黒の額縁の中で微笑む彼の写真と重なっていく。
「許してくれ。もう可哀想な俺を解放してほしい」
どうやって。
声に出さずに呟けば、腕を掴んでいた彼の手が離れ、手を繋がれた。
「俺と一緒にいこう。このままあの場所に行くんだ。俺と同じように」
あ、と声が漏れた。手を引かれて立ち上がるが、それだけで歩き出しはしない。
繋がれた手を見つめ、顔を上げて彼を見る。
「いかない。それが許さない事になるなら、私はあなたを許さない」
虚ろに開く目を見て告げた。
「――そう。ならいいや。まだ夏は来てないし、俺が死んだのも当分先だ」
歪な笑顔が抜け落ちていく。元の無表情な死人の顔に戻った彼は、表情と同じく無感情に呟いて手を離す。
「梅雨が終わって夏が来たら、また来る」
それだけを告げて、彼は瞬きの間に消えてしまった。
深く息を吐いてしゃがみ込む。震える体を抱いて、目を閉じた。
五年前に死んだ、年上の幼馴染み。
彼が言うように、五年経って私は彼と同い年になった。
年上の憧れを、恋と勘違いしたあの頃。当然彼は本気にしなかった。笑って、大きくなったらなんて、そんなありきたりな言葉で私の恋を否定した。
ただの憧れ。夢を見ているだけ。
皆が言う。今の私もそう思う。
それでも確かに。
あの時の私は、彼に恋をしていた。
梅雨の終わり、夏の初めに現れる彼が、本当は何なのかは分からない。
彼の生への未練か。私の昇華できない恋心か。
それともまったく別の何かか。
分からない。でもこれだけは言える。
彼は違う。私の好きだった彼は、もうどこにもいないのだ。
呼吸を整え目を開く。ゆっくりと立ち上がり、歩き出す。
廊下の窓から見える空は、僅かに赤が混じる青。梅雨が終わろうとしている。
もうすぐ夏が来る。彼を殺した夏が、彼を連れてやってくる。
もう一度彼に出会った時、彼を拒む事が出来るのか。
私には、もう分からない、
20250628 『夏の気配』
「――は?」
部屋の扉を開けた瞬間に広がる光景に、暫し硬直する。
目を閉じ、開いてみても変わらない。一度扉を閉めて、深呼吸をする。
いるはずのない何かがいた。いるはずはないが、見覚えのあるものだった。
「疲れてるのかな」
眉間を揉みしだき、溜息を吐く。意識ははっきりしているとは思うが、まだ夢の中にいるのかもしれない。
頬を抓る。鈍い痛みに、ここは現実だと告げられて眉が寄る。夢でないならば、幻覚でも見たのだろうか。
ゆっくりと扉を押し開く。見たくないと思いながら扉の向こうの景色を視界にいれ、変わらぬそれに溜息をついた。
「なんで……どうやって、入り込んだよ」
廊下に転がる、数匹のイタチ。見覚えがあるのは、数日前に同じように道端に転がっていたその姿と全く同じだからだろう。
尤も、数日前は急な暑さで倒れており、今は部屋から漏れ出る冷気を堪能しているようであるが。
一番近くで寝転ぶイタチと目が合う。無言で見つめ合っていれば、何度か目を瞬いて起き上がる。
二足歩行で。
「――は?」
違和感しかないはずなのに、違和感をほとんど感じない。
目を瞬いて見ていれば、自身の尾を抱き寄せ毛を掻き分ける。そうして毛の中から取り出されたのは、見覚えのある一本の鍵。
誇らしく掲げ持つ水色のリボンの巻かれた鍵は、この家の鍵に違いない。
田舎特有の、外の玄関脇に置いてある植木鉢の下に置いてあった予備の鍵。置いたのは自分であり、文句など言えるはずがない。
納得しかけて、慌てて首を振る。もう一度扉を閉めれば、ようやく違和感が恐怖を引き連れてきて、ふるりと肩を震わせた。
「何、今の……?」
理解が追いつかない。
二足歩行のイタチ。
予備の鍵を取り、玄関を開けて。尾の中に鍵を忍ばせて廊下で涼んでいた。
しゃべらなかったのが、せめてもの救いだ。
「どうしよう」
逃げ出したいが、扉を開ければイタチがいる。どうすれば良いのか思いつかず途方に暮れていれば、不意に扉が叩かれた。
「あの、すみません」
少しばかり高めの声がする。
「えっと、何度か呼び鈴を鳴らしたのですが、お出にならなかったので……今日は一段と暑かったものですから」
すみません、と泣きそうな声。
その言葉に窓の外へと視線を向ければ、雲ひとつない青空と容赦のない日差しが地面を焦がしているのが見えた。
一瞬、このまま窓から外へ逃げだそうかと考え、けれどすぐに否定する。
裸足で陽炎の立ち上る地面に降り立つ勇気はない。そもそも家主は自分なのだ。こそこそと、泥棒のように逃げ出す真似はしたくない。
視線を扉に戻す。謝罪の言葉が聞こえたきり、何も聞こえない。
少しだけ、気になった。
この扉の向こう側にいたイタチは、今何をしているのか。
何故、家に押しかけてきたのか。
二足歩行をし、人のように話せるのはどうしてなのか。
違和感が引き連れた恐怖などとっくに消え去って、残るのは疑問ばかりだ。
廊下で伸びるイタチの姿を思い出す。だらしのない、伸びきり溶けた体。目が合った瞬間の、あの夢見心地だった瞳。億劫だと言わんばかりの、ゆっくりとした立ち上がり方。
恐怖する要素はどこにもない。あるのは違和感と、それによって沸き上がる疑問だけだ。
そう思うと途端に力が抜けて、扉に手をかけた。悩み、逃げ出したいと思っていた事が馬鹿らしく、躊躇なく扉を開ける。
「――あ、ども」
扉の向こうで律儀に待っていたらしいイタチが頭を下げる。
見れば、先ほどまで廊下で伸びていたイタチ達も皆起き上がり、こちらを見つめている。
見れば見るほど、意味の分からない光景だ。
「説明してもらってもいいかな」
ちらちらと部屋の中を気にするいくつもの視線に肩を竦めながら、招き入れるように扉を大きく開け放った。
「助けてもらったお礼がしたい、と」
確認のために繰り返すと、目の前のイタチは何度も大きく頷いた。
「お礼、ねぇ……」
部屋のあちこちで寝転がり、伸びて時には仰向けに転がるイタチに視線を向ける。
最初で見た時よりも明らかに数が増えている。口の端を引き攣らせながら、気にしては負けだと目の前のイタチに視線を戻した。
イタチ曰く、数日前のあの梅雨の晴れ間。急な気温の上昇に対応しきれず動けなくなっていた所に、自分が偶然通りがかった。最悪駆除されるか、よくても見て見ぬ振りをされるだろうとあの時は思って諦めていたらしい。だが転がるイタチをすべて木陰の下まで連れて行き、尚且つ近くの自販機で水を買って与えてくれた。
「アナタ様はワタシ達の救世主なのです。ご恩に報いなければなりません」
ベッドの上で転がるイタチが皆一斉に頷いた。
確かに筋は通っているだろう。イタチの気持ちもよく分かる。
助けた生き物が、後日お礼をしにくるというのは、昔話によくあるパターンだ。
しかし、と。目の前のイタチ越しに扉を見る。
扉は閉じたまま。何かが増える隙間など、ありはしない。
視線を部屋に巡らせた。ベッドの上に群がって眠るイタチ。クーラーの下で伸びている狸の山。腰に擦り寄り、脇からそれぞれ出た明るい茶色の尾は狐のもので。膝の上でいつの間にか丸くなっているのは茶トラの猫だ。
増えている。それもイタチだけでなく、様々な動物が。
窓を一瞥するが、やはり開いている気配はない。いったいどこから、という恐怖よりも、どこまで増えるのだろうという懸念が込み上げてくる。
「イタチを助けた記憶はあるけど、その……イタチ以外の動物は、なんで……?」
「勝手に着いてきただけです。ご不満ならば、全力で追い出します」
イタチと猫以外の動物の視線が向けられる。ただし猫は視線の代わりに、長くしなやかな尾を腕に絡めてきたが。
無言の圧力に、乾いた笑みを浮かべて首を振る。膝の重みが増えて視線を向ければ、茶トラの猫の隣に白の猫が寝そべってきた。
「そうですか。ではこれからよろしくお願い致します」
「これからって……えっと、つまり……」
「ご恩に報いるために、これからお側で仕えさせて頂きます」
つまりは、自分の家は動物達の避暑地になるわけか。
頭を下げるイタチに、何も言えずに同じように頭を下げた。
今年の夏は、食費と光熱費が跳ね上がる事が決定したらしい。確実に一桁増える請求書を思い、まだ見た事のない世界に足を踏み入れる恐怖に思わず嘆息する。
「何か憂い事が御座いましたら、どうぞ遠慮なく申しつけ下さい。家事は当然の事、身の回りのお世話も何もかもを行わせて頂きますので。もちろん金銭の心配もありません」
目の前のイタチが胸を張る。
家事。世話。金銭。自分の理解を遙かに超えた内容に、半ば思考を放棄してただ頷いた。
ここはもう、自分の知らない世界だ。害はないのならば、受け入れても問題はないだろう。
「粗茶ですが、どうぞ」
「あ、どうも。ありがとう」
盆を手にしたイタチに湯飲みを差し出された。お礼と共に受け取って一口啜る。
温かなお茶。家にあるティーバックとは明らかに違う味に、目を瞬く。
テーブルの上に置かれた茶菓子も、見た事がないものばかりだ。ひとつ摘まんで口に放る。
素朴だが優しい味に、口元が緩む。
「お気に召されたようで何よりです。これからどうぞよろしくお願い致します」
目の前のイタチが改めて頭を下げた。それに続きイタチだけでなく、部屋中の動物達もイタチに倣う。
「えっと……こちらこそ、よろしく?」
日常から、非日常へと足を踏み出している。知らない世界、まだ見ぬ世界への一歩を、茶を啜り擦り寄る猫や狐の頭を撫でる事で踏み出した。
この夏は、随分と賑やかになりそうだ。
現実逃避染みた事を考えながら、またひとつ茶請けを口に放り込んだ。
20250627 『まだ見ぬ世界へ!』
――いってきます。
それが妹の最後の言葉だった。
いつもと変わらない、休日の朝。玄関で靴を履く後ろ姿。
誰にでもなく告げた言葉に、家にいた家族は誰も答える事はない。
いつもと同じ妹の姿。日常の一ページ。
そのはずだった。
「いってきます」
「いってらっしゃい」
小さく呟いた言葉に返る声に振り返る。
末の妹が目を腫らしながら、唇を震わせていた。
「大丈夫?」
弟が末の妹の肩を抱き、背をさする。無言で首を振り俯いて、末の妹は袖で目元を拭った。
袖が濡れて、黒の色を濃くしている。微かに嗚咽が漏れるのを、視線を逸らして気づかない振りをした。
玄関扉に手をかけながら、同じ事を繰り返していると自嘲する。上の妹の時と同じ。言葉に気づかない振りをして、結果妹は帰ってはこなかった。
――いってきます。
妹の姿を思い浮かべながら、玄関扉を開ける。途端に入り込む雨の気配に、無意識に誰かを招き入れるように一歩脇に避けた。
誰もいない。それは玄関にいる誰もが分かっている事だが、その無意識の行為に何かを言う者はいなかった。
湿った空気が内へと入り込む。だが求める気配はどこにもなく、嘆息して傘を持ち外へと出た。
遅れて外に出る弟妹を待って、鍵をかける。傘を打つ雨の音に紛れて、弟が宥めるように呟いた。
「もう、母さん達の所にいるのかもしれないね」
「そう、だね。お姉ちゃんのための式だもの」
「お前みたいに母さんが泣いているだろうし、きっと側で寄り添ってあげているんだろう」
二人の会話に、妹を想う。
優しい子だった。お転婆でよく泣きよく笑う、そんな普通の妹だった。
今日のような、雨の降り頻る日だったのを覚えている。前日に末の妹が病気を煩い入院し、どこか落ち着かない空気が家の中に漂っていた。
病弱な妹は、高熱を出して入院する事が度々あった。
いつも、とは言えないながらも、慣れてきてしまった出来事。それでも心配は尽きない。
だからだろうか。家族は皆、妹の外出を気にも留めなかった。どちらかと言えば、妹のその自由さを疎んでいたようにも思う。末の妹が心配ではないのかと、自分も含めてきっと誰もが少なからず思っていた。
今考えれば、そんな事はないと断言出来るはずの事。病弱な末の妹を誰よりも心配し、大切にしていたのだから。
目を伏せる。手首に着けたビーズで出来た花の飾りのついた髪ゴムを、礼服の袖の上から撫でる。小さな髪ゴムは手首を締め付け痛みを覚えるが、今はそれすら愛おしい。
妹が残した僅かなもの。髪ゴムと、水色の動物の絵柄が描かれたハンカチ。そして大切にしていた、狐のキーホルダー。ハンカチは弟が、キーホルダーは末の妹が、自分と同じように今も身につけているのだろう。
それらはすべて、一駅離れた神社の社の前に残されていた。人の絶えた神社。後日調べた所によると、以前は厄落としで少しばかり名の知れた神社であったらしい。
紙で作った形代に厄を移し、御神木の側へ埋める。
妹も、御神木の根元に埋まっていた。
「私。お姉ちゃんと一緒にいたかった」
末の妹が、声を震わせる。
妹が消えた夜に、末の妹の病気は完治した。体の弱かったはずの末の妹は、あれから病気ひとつしてはいない。
「苦しいのも痛いのも嫌だったけど。お姉ちゃんがいない方が、よっぽど苦しくて痛いよ」
「……うん、そうだね。、俺も苦しい。苦しくて、死んでしまいそうだ」
「馬鹿を言うな」
弟の言葉を否定する。それは思っていても、口に出してはいけない事だ。
それは形代となった、妹の覚悟を否定する事になるのだから。
妹は誰にも、何も告げなかった。一人で覚悟を決めて、神社へと向かった。
優しい妹は、きっと家族の誰も巻き込みたくなかったのだ。
「兄貴」
「いい加減、俺達から解放してやるべきだ……ようやく見つかったんだから」
声が震える。
消えた妹が見つかった。目を逸らし続けた予想を現実として突きつけられ、淡い希望は打ち砕かれてしまった。
御神木の根元に埋まっていた妹は、二度と目覚める事はない。
生者が死者に未練を持ってはならないのだ。
不意に、背を撫でる誰かの手を感じた。思わず立ち止まる。
慰めるように、褒めるように触れるその手の温もり。愛しくて、耐えきれずに俯いた。
「お姉ちゃん」
背後から抱きつく腕に、そっと手を触れた。雨に濡れて朧気な輪郭を持った細い腕を辿り、手を繋ぐ。繋いだ後にその手を軽く揺するのは、妹の癖だった。
「遅いから、迎えに来たのか」
繋いだ手に少しだけ力が籠もる。傘の下、滴が落ちて輪郭を失っていく事を怖れて、傘を手放した。
「ごめん。弱い兄ちゃんでごめんな」
嗚咽を漏らす弟が隣に歩み寄り、繋いでいない手を取った。指を絡めて繋ぎ、握る。
弟もまた傘をたたみ、雨か涙か分からない滴が頬を伝い落ちていく。
「お姉ちゃん」
か細い声。背中に軽い衝撃が走り、末の妹の泣き声が聞こえてた。
「やっぱり嫌だよ。お姉ちゃん、ずっと側にいてよっ。見えなくても、声が聞こえなくてもいい。雨が降っている間だけでもいいから、側にいて」
末の妹の懇願に、繋いだ手が微かに震える。軽く揺らされ手を解く。
同じように弟も手を離した。離れていく手を追って、静かに振り向く。
「いや。やだよ。お姉ちゃん、おいていかないで。一緒に連れていってよ!」
泣きじゃくる末の妹を、優しい手が撫でる。しがみつく腕をさすり、震える背をあやすように叩く。
雨が降る間だけ、家の中で感じていた気配。妹の魂か、それとも自分達兄妹の執着が作り上げた何かなのか、それは分からない。
ひとつ言える確かな事は、どちらにしてもこのままではいられないという事。
妹が見つからぬ焦りと哀しみに項垂れ座るその隣に、そっと寄り添う温もり。妹の死を悪夢に見て魘される夜に、頭を撫でていた手の感覚。
姿は見えず、触れられず。声も聞こえない、気配だけの妹。
いつまでも自分達の執着の糸に絡め縛る訳にはいかない。妹のためにも、何より自分達のためにも。
末の妹を離すため、腕を伸ばす。だが他でもない妹によって止められ、泣く末の妹の手を取り繋いだ。
軽く揺する。しゃくり上げながら揺れる手を見て、末の妹は目を閉じ笑う。
泣くのを耐えた、不格好な笑い方だった。笑いながら深く呼吸をする。閉じた目から一筋滴が零れ落ち、末の妹はゆっくりと繋いだ手を解いた。
「――うん。もう大丈夫……大丈夫だよ、お姉ちゃん。ちゃんと一人で歩けるから」
目を開けて、今度はしっかりと笑顔をみせる。数歩離れて傘を差す末の妹を見て、弟と視線を交わし頷いて同じように下がる。
手放した傘を拾い上げ差せば、妹は先導するように歩き出した。それに続いて、皆静かに歩き出す。
先を行く妹の輪郭の足取りは軽い。跳ねるようにステップを踏み、時にくるりと回る。
向かう先は自身の葬儀の場だというのに、その雰囲気は酷く楽しげだ。
嬉しいのかもしれない。形代として長く土の下に埋められていた妹は、ようやく供養され祀られるのだから。
小さな背を追いかける。
手首に着けた髪ゴムに触れる。声には出さず呟いた。
あの日の、妹の最後の言葉への返事と迎えの言葉を。
いってらっしゃい。
そして、おかえりなさい。
くるりと回る妹が、こちらを見た気がした。
風が頬を撫でる。髪を揺らして通り抜け、微かな声を耳元へ置き去りにしていった。
――ただいま!
降り頻る雨など吹き飛ばすような、そんな元気な声だった。
20250626 『最後の声』
ざあざあと降る雨の下。彼と手を繋いで、傘を差して歩いて行く。
傘はひとつ。大きな白い傘の下で肩を寄せ合い歩くのは、嬉しいけれどもとても恥ずかしい。
傘から出た肩が雨に濡れる。その冷たさが、高鳴る鼓動と熱を持ち出す体には心地好い。
「肩、濡れてるよ。もっとこっちに寄って」
「だ、大丈夫……」
心配そうな彼に声をかけられるが、視線を地面に落としたまま首を振る。
これ以上彼に近づける訳がない。近づいてしまったら、心臓がさらに暴れ出して、きっと死んでしまう。
そう思うのに、彼はわたしの気持ちなど少しも気づいてはくれない。不満げに眉を寄せて、繋いでいた手を解いた。
それを寂しいと思う間もなく。
「駄目。実礼《みのり》が風邪を引いたら嫌だ」
「ひゃぁっ!?」
肩を引き寄せられて、彼の胸に抱きつくくらいに近づいてしまった。
立ち止まる。歩く事なんて出来るはずがない。
彼の胸に当たる耳から、少し速い鼓動の音が聞こえる。狐の姿の時の彼が、草原を走り回るような軽やかな速度。意識しているのがわたしだけじゃないと知って安心するけれど、それでも落ち着かない。
「実礼。歩けそう?」
耳元で囁かれた問いに、必死で首を振った。こんなに近いのに、歩けるはずなんてない。それを分かっているはずなのに、彼は笑うだけで離してはくれそうにない。
「じゃあ、お姫様だっこで運んであげようか?」
「やっ、山吹《やまぶき》くんっ!?」
本気ではないはず。そうは思っても、驚きで顔を上げて彼を見た。
楽しそうな、意地の悪い笑い方。けれどその頬は少しだけ赤い。
意識してくれている。そう思ったら、益々動けなくなってしまった。
「実礼」
柔らかな声音で名前を呼ばれて、鼓動が跳ねる。
名前を呼ばれる事はまだ慣れない。きっとこれからも慣れる事はないのかもしれない。
息が出来ないくらいの幸せ。じわりと視界が滲んで、彼の服を濡らしていく。
「泣き虫さん」
「ばか」
優しく背中を撫でられながら揶揄われて、涙で滲む彼を睨み付けた。
「そんな顔しても可愛いだけだよ」
ふんわりとした微笑み。大人がするような笑顔。
時々それが少しだけ寂しくなる。彼はわたしのためにたくさん努力して一人前の大人な狐になっていく。けれどわたしはずっとわたしのままだ。
学校で、友人や先生とのやりとりで学ぶ事だけでは、大人になれる気がしない。形がない焦りを抱えてぐるぐる回っている間に、彼は先に進んでいつしか置いていかれてしまいそうだ。
「実礼」
彼が名前を呼ぶ。
背中を撫でていた手が流れる涙を拭って、そして。
ふと、彼の動きが止まった。
空気が変わる。張り詰めた痛いくらいに鋭い空気。
「山吹くん?」
「しっ。少し静かに。いいって言うまで、声を出しちゃ駄目だからね」
そう言って険しい顔をした彼が、わたしの後ろに視線を向けた。ぞわりと空気が揺れた気がする。
後ろに何かいるんだろうか。そう思って振り返ろうとすれば、その前に彼の胸に頭を押しつけられる。
思わず悲鳴を上げそうになって、慌てて口を押さえた。声を出してはいけない。きっと出してしまった瞬間に、よくない事が起きるのだろう。
口を押さえて目を閉じる。彼の鼓動が強く、速い。微かに震える体が、何か怖ろしいものが近づいている事を示していた。
――……たい。
声が聞こえた。か細く、けれど淡々とした女の人の声。
――かえり、たい。
後ろから聞こえる声が、ゆっくりと近づいてくる。小さな声なのに、雨の音に掻き消されない不思議な声だ。
――かえりたい。かえして。
声はどこへ帰りたいのだろう。強くなる彼の腕の中で、ぼんやりと考える。
帰して、だろうか。それとも返してなのか。変わらず淡々とした声からは、どちらなのかは分からない。
「帰れないなら、せめて還して」
耳元で、すぐ側で声がした。誰かの吐息が、耳にかかる。
驚き跳ねる体を押さえて、彼に包まれるように抱きしめられる。
漏れ出そうになる悲鳴を必死に押さえる。強く目を瞑り、誰かが離れてくれるのを待ち続ける。
どれくらいそうしていただろう。長いようで、短いような時間。耳元でかえしてと囁く声が聞こえなくなるまでの、怖ろしい時間。
「かえりたい。あぁ、いやだ。もう」
熱を持った吐息が離れていく。
連れ戻されていく。何故かそう思った。
「もう大丈夫。大丈夫だからね」
声が完全に聞こえなくなって、ようやく彼の腕の中から解放された。
口から手を離し、自分の肩を抱く。かたかたと震えが込み上げて、さっきまでとは違う感情で涙が溢れた出した。
彼の胸に顔を押し当て、声を殺して泣く。怖くて、悲しくて、どうしたら良いのかが分からない。
「実礼」
名前を呼ばれて、背中を撫でられる。悲しそうな、泣きそうなその声に、泣きながらも顔を上げて彼を見た。
「怖かったね。ごめんね、ちゃんと守れなくて」
眉を下げた、泣きそうな顔。髪の間から飛び出した黄金色の耳も力なく垂れている。
「雨は境界を曖昧にさせるから、もっと気をつけるべきだったのに。本当にごめん」
彼の目に溜まっていく涙。手を伸ばして、零れ落ちる前に涙を拭う。
「ううん。守ってくれて、ありがとう」
また涙が溢れる前に、無理矢理笑ってみせる。まだ体は震えているけれど、怖いのも悲しいのも大分薄らいできている。お礼を言えば、雨に濡れてしっとりしたしっぽが、甘えるように腰に絡みついた。
「あれは、何だったの?ずっとかえりたいって言ってた」
問いかければ、彼の眉が寄る。視線をわたしの後ろに向けながら、心底嫌そうに口を開いた。
「愛される事から逃げ出した、誰か」
「愛?」
「ボク、ああいうのはやだな」
彼の涙を拭う手を取られて繋がれる。首を傾げれば、繋いだ手を見ながら、だってと彼は言葉を続けた。
「実礼が泣くのは嫌だ。確かにたくさんあげたいなとは思うけど、閉じ込めてしまうくらいの大きな愛は、なんか違う。これくらいの、手を繋ぐ程度の小さい愛をいっぱいあげる方が、よっぽどいい」
そう言われて彼と繋いだ手を見つめた。
小さな愛。小さな幸せ。
よく分からないけれど、わたしにはこの繋いだ手に収まるほどでいい。
それ以上だと、きっと幸せ過ぎて苦しくなってしまうから。
「うん。わたしもこれくらいでいい。わたしもこれくらいを、山吹くんにいっぱいあげるからね」
繋いだ手を揺らして笑う。
へにゃり、と力なく笑い返す彼を見ていたら、ふと悪戯を思いついてしまった。
「ねえ」
繋いだ手を引く。
何と身を屈めた彼に、耳打ちするように顔を寄せて。
「――っ!?み、実礼っ!」
傘が音もなく地面に落ちていく。
頬を押さえて真っ赤になる彼に、悪戯が成功したと笑顔を向けて。
「そろそろ帰ろっか」
そう言って空を見上げる。
いつの間にか、雨は上がっていたようだ。
20250625 『小さな愛』