sairo

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3/31/2025, 2:12:18 PM

「またね!」

どこからか聞こえた声に少女は立ち止まる。

「ねぇ、何か言った?」
「別に何も言ってないけど。気のせいじゃない?」

問いかけられた少女の友人は、眉を潜めながら知らない、と首を振る。友人の反応に、そんなはずはない、と少女は辺りを見渡して。
そこで先ほどまで振っていた雨が、いつの間にか止んでいる事に気づいた。

「あ。雨上がってるよ」
「ああ、本当だ」
「このまま晴れてくれないかな。最近雨ばっかりで、気分が滅入るよ」

はぁ、と重苦しい溜息を吐いて、差していた傘を閉じる。少女に倣い友人も傘を閉じると、厚い雲に覆われた空を見上げた。

「天気予報では、晴れだったんだけどね」
「天気予報なんて当たるわけないじゃん。見るだけ時間の無駄!」
「まあ、最近はそうだね。雨が上がる事はあっても、晴れる事はずっとないし」

二人揃って嘆息する。
ここ数週間、いくら天気予報が晴れると言っても、晴れ間など少しも見える事はなかった。雨が止んでも、しばらくすればまた雨は降り始める。
じめじめとした湿気も、手放せない傘も。おしゃれに気を遣い色々と持ち物の多い女子高生達には大変に不評であった。

「いい加減に晴れてほしいよね。これじゃあどこにも行けないし。湿気で髪が広がるし…ほんと、最悪」
「こればっかりは仕方ないよ。諦めて、気分転換にカフェにでも行く?バイト代入ったばっかだから、奢るよ?」
「いいの?ありがと、大好きっ!」
「はいはい、私も大好きですよ」

じゃれ合い、笑い合いながら、二人は行き先を自宅ではなく街中へと変更する。
クラスメイトや部活動のメンバーの秘密や恋バナなど、取り留めのない話をしながら。
呆れたように笑う友人の目が、睨むように自身が持つ傘を一瞥していた事に、少女は気づく事はなかった。





「またね!」

無邪気な声に、足を止める。
溜息を一つ。恨めしい気持ちを込めて、手にしていた傘を見上げた。

「いい加減、それ止めてくれない?」

答えはない。それが不快だと言わんばかりに眉が寄る。
無言で傘を閉じ、無造作に放り投げる。放物線を描いて地面に倒れると思われた傘は、しかし地面につく直前に柄の部分で器用にバランスを取って倒れる事はなかった。

「ちょっと!あぶないじゃないか」
「またねって言うの、止めてほしいんだけど」

文句を言う傘を気にもかけず、眉間に皺を刻んで睨み付ける。

「なんでさ。べつにいいじゃん。ちょっとくらい」
「そのちょっとで、雨がずっとスタンバってるんですけどね。そのせいで髪はまとまらないし、遊びにも行けなくてこっちはすごく困ってんの」

溜息を吐きながら傘に愚痴る。納得がいかないように揺れる傘をしばらく無言で見つめ。

「――じゃあ、いいや」

また一つ溜息を吐き。傘の横を通り過ぎた。

「え?ちょっ、ちょっと!?なんでおいてくのさ!」
「新しい傘を買うから。軽くて、おしゃれで、我が儘を言わない。素直ないい子をお迎えする事にする」
「そんなっ!」

跳びは成るようにして、慌てて傘がこちらに寄ってくる。追いつけない程度に足を速めると、すぐに嗚咽混じりの泣き声が聞こえて、立ち止まった。

「や、やだっ。いいこ、するから!ねぇ、おいてかないで」

振り返る。雨の滴とはまた違う、水滴を地面に落としながらえぐえぐと泣く傘を見て、何とも言えない気持ちで痛み出したこめかみを押さえた。

「――反省した?」
「した!したからっ」

必死な傘の声に、仕方がないと歩み寄り、傘を持つ。
力なく揺れながら、すてない?と何度も繰り返す傘に、これ以上責め立てる気も起きず、捨てないよ、と適当に言葉を返した。

「ほんとうに?ほんとうにすてない?かわいいこと、うわきしない?」
「浮気って…しないしない。傘は一本だけで十分です」

それでも不安そうに繰り返す傘に、小さく息を吐く。
生まれた時からの付き合いであるこの傘は、今日も元気に情緒不安定らしい。

「まったく…大体なんで雨にまたね、なんて言うのかね。また会いたいんだって思われて、すぐに雨が降ってくる事くらい分かるだろうに」
「だってね。いっしょにがっこう、いきたかったんだもん。あめふらないと、ぜったいおいていかれちゃうし」
「そりゃあ、余計な荷物は少ない方がいいし」
「にもつあつかいしないで!」

不機嫌だと言わんばかりに怒られる。泣いたり、怒ったりと、本当に忙しくて手の掛かる傘である。

「一緒に行きたいだなんてさ。もしかしてご自分が晴れ雨兼用だって、お忘れでない?」
「………あ」

傘の動きが止まる。どうやらすっかり忘れていたようだ。

「去年はあれだけ、もう嫌だ、お家にいたいって言ってたのに…まあ、それだけ元気なら、今年の夏も頑張ってもらいましょうかね」
「や、やだっ!あんなにあついのはやだもんっ」
「わがままめ」

苦笑しながらも、傘の文句を聞き流す。
不意に見上げた空に、僅かばかりの青空が見えて、目を細めた。
またね、と再会を期待されて側にいた雨は、どうやらいなくなったらしい。

「ちょっと!ちゃんとおはなし、きいてる!?」
「聞いてる聞いてる。今年もお互い頑張ろうって事だね」
「ちがうっ!」

叫ぶ傘を適当に宥めつつ、家路を急ぐ。
明日はきっと、どこまでも広がる青空が見られる事だろう。



20250331 『またね!』

3/30/2025, 2:35:41 PM

――すごく、きれいな花。

聞こえてきた〝聲〟に、立ち止まる。
空を見上げれば、澄み切った青空高くに太陽は昇り。暖かな、というには強すぎる日差しを大地に届けている。吹き抜ける風が、汗ばむ陽気に心地の良い涼を運ぶ。
とても良い天気だ。満開とはいかないまでも、桜が咲き始めているとも聞く。
大方〝聲〟の主は、どこかで花見でもしているのだろう。桜を見て笑う姿を想像し、思わず笑みを浮かべ。

――かわいい。食べるのがもったいないくらい。

だがそれは、新たに聞こえてきた〝聲〟を聞いて固まった。

「花より団子ってやつか」

呆れたように溜息を吐き。
ふと思いつき、にやり、と先ほどとは異なる種類の笑みを浮かべ、歩き出す。
〝聲〟の主である、彼女の元へ。





「なんだ。団子を食べてた訳じゃないんだ」
「ひゃぁ!?」

すぐ後ろから聞こえてきた声に、文字通り飛び上がって驚いた。
その拍子に手から買ったばかりの和菓子の袋が宙を舞う。そのまま落ちてしまうと手を伸ばすより早く、背後から伸びた大きな手が袋を掴んだ。

「気をつけろよ。危なっかしいな、お前」

態とらしい溜息を吐かれ、袋を手渡される。突然の事に固まったまま動けないでいると、手渡した袋ごと手を掴まれて歩き出した。

「え?ちょっ、と」
「道の真ん中で突っ立ったままじゃ、迷惑だろ。行くぞ」

手を引かれる形で、背後にいた彼が前に来る。何故ここに、と疑問が浮かぶけれども、彼の言葉を思い出し納得する。
きっと心の声を聞かれたのだろう。彼の話では、人が思っている事、考えている事を意識せずとも覚れるらしい。

「行くって、どこに?」
「公園。団子を食うんだったら、花も見ろ。デートだ、デート」
「でっ!?」

デートの一言に顔が熱くなる。嫌ではないし、嬉しいのだけれども、やはり恥ずかしい。

少し前。帰り道で追いかけてきた彼に告白され、付き合う事になった。その時は、色々な事が一気に押し寄せて不覚にも気絶してしまったのは、正直な所忘れてしまいたい。
繋がれた手を見る。いつの間にか手にしていた袋を取られて、しっかりと繋がれている事に益々顔が熱くなる。

「途中で団子とか、飲み物買って行こうぜ。この練り切りは家に帰ってからのお楽しみなんだろ」

すべて把握されている。彼は心を覚れるのだから、当然と言えば当然ではあるけれど。
心が覚れるからといって、彼に対する印象が大きく変わった訳ではない。ただ彼に対する気持ちが全部筒抜けになってしまう事は、やはり落ち着かない。
彼が好きだという気持ちが、言葉にする前に伝わってしまうのはもう仕方がない事だと半ば諦めているけれど。言わなくても伝わるからといって、言葉にしなくてもいいはずはない。
かといって好き、の一言を彼を前にして言えるかと言われれば、言えないのが正直な感想であるが。

「お前さ。そういうとこ、直した方がいいぞ」
「え?それってどういう」
「奢ってやるから、何食べるか考えておけって事」

いつもとはどこか違う彼に、不思議に思って彼を見る。
髪の間から見えた彼の耳が赤く染まっている事に気づいて、その意味を理解した。
彼に伝わっている。手を繋ぐ事が嬉しいのに恥ずかしいと思っている事も、好きだという気持ちも。言葉にしたくて出来ない、このもどかしさも。

「ほらっ!何食べたいんだ。別に団子でなくてもいいぞ。好きなもの考えろって」

ちらり、とこちらを振り返り睨み付ける彼の顔は、耳よりも赤い。思わず可愛いな、と思ってしまい、さらにきつくなる彼の目に、ごめんね、と慌てて謝った。

「本当に何なんだよ、お前。心を覚れるって打ち明けた時も、気持ち悪がったり、離れていこうとかもしないし。色々思ってるくせに、それを一言も言葉にしないし」
「だ、だって!」
「言葉にしたいって思うなら、ちゃんと行動に移せ。聞いてるこっちが恥ずかしくなる」

呟いて再び前を向く彼に、分かってる、と呟く。それでも続く言葉が何一つ出ない事に、我ながら呆れてしまう。
どうしたら良いのだろう。どうしたら言葉になるのだろうと、意気地のない自分自身に焦り。
その横を、風が通り抜けた。

「――あ。桜」

風が忘れていった薄桃色の花びらを手に取る。そういえば今日はいつもよりも暖かい。

春が来ているのだ。

彼を見る。肩についた桜の花びらに手を伸ばしながら。

「おだんごも、飲み物もいらないよ。こうして手を繋いで、一緒に桜を見れたらとってもうれしい」

素直に思っている事を口にした。



「――馬鹿」

少しの沈黙の後に、彼から出た呟く言葉にむっとする。
けれど言いかけた文句を遮るように、彼の歩みが速くなった。

「馬鹿。大馬鹿。そういう可愛い事を、簡単に口にすんな…もうこうなったら、お前の好きなもん、全部買ってやる。太らせてやる」
「なんでっ!?」

一度足を止めて、彼が振り返る。
真っ赤な顔をして真っ直ぐにこちらを見る目を、落ち着かない気持ちで見返した。

「お前が可愛いのが、悪い」

ゆっくりと噛みしめるような彼の言葉に、痛いくらいに心臓が騒ぎ出す。彼よりも真っ赤になっているだろう顔を隠すように俯いていると、彼はまた歩き出した。
公園の方向とは違う。向かう先が、さっきまでいた和菓子屋だと気づいて、別の意味で落ち着かなくなった。

「ちょっ、ちょっと。まさか、本当に」
「本当に…隠しても無駄だぞ。お前の〝聲〟は分かりやすいからな」
「あ、う…」

引き止めようとも、きっと彼は止まらない。
どうしようと焦る背中を風に押され、複雑な気持ちで彼の隣に並んだ。
周りから恋人のように見られたらいいな、と密かに期待して。

「本当にお前、馬鹿」

彼を見れば呆れたように笑っている。けれどその笑顔はとても優しくて、嬉しくなって笑い返した。

ああ、春が来ている。
心が落ち着かないのも、こんなに幸せだと笑ってしまうのも。
きっと、春のせいなのだろう。



20250330 『春風とともに』

3/29/2025, 2:16:20 PM

「泣かないで」

呟く声が、空しく響く。
その言葉が相手に届く事はない。虚ろに涙を流し続ける少女には、己の意思など疾うになくなってしまっているのだから。
この涙は、記憶の残り滓だ。少女がかつて人間であった事を唯一証明出来る手段。
それを知りながら、男は腕を伸ばす。涙を拭い、少女を抱き上げる。

「泣かないで――笑って」

祈りにも似た声音で、男は囁いた。返る言葉がない事実から逃れるかのように、少女を抱く腕を強め、額に唇を寄せる。
また一筋、少女の頬を滴が濡らす。閉じる事のない目から、涙が零れ落ちていく。
どうして、と意味のない問いを男は繰り返す。笑えと願う男の姿は、いっそ憐れなほどに哀しく。

「いつまでも泣いていないで。早く起きて、また話をしよう。いくらでも聞いてあげるから」

少女の首を抱いて目を閉じる、男の背を。
無感情にただ、眺め続けていた。





「――という、夢を見ました」
「何でそれを、世話話でもするように気軽に言おうと思ったか、聞いてもいい?」

どこか誇らしげな幼い少女に、浮かべた笑みが思わず引き攣った。
穏やかな日差しの降り注ぐ午後。昼食を終えて微睡みかけた意識が、少女の訪問により一瞬で覚醒する。

「何故、と言われましても。これは予知夢というものではないのですか?」
「予知って…泣く少女の首を抱いた男が、現実にいてほしくないんだけど」
「化生、怪異の類いであれば、十分にあり得ますが」

少女の微笑みが、どこか恍惚に揺らぐ。

「実際に相対してみたいものです。相手にとって不足はありません」

その目に浮かぶ危うい煌めきに、思わず疲れた溜息が漏れた。
この屋敷の当主のお気に入りである少女は、順調に当主に染められているようだ。
悪い事ではないのだろう。飯綱《いづな》使いの血筋に生まれた以上、その気概はとても大切だ。敵に情を持たず、恐れを抱かずに相手に対峙出来る者など、同じ年頃の子達の中にはそうそういない。


「時に、兄様」

浮かべた笑みを消して、少女は視線を向けて声をかける。
従兄弟である自分を敢えて兄様と呼ぶのは、真剣な話があるからだろう。嫌な予感に身を竦めながら、少女を見た。

「な、何?」
「あの方とは、未だ契約をなさっておられないのですか」

静かな目がこちらを見据える。何の感情もないようで、隠し切れない嫉妬の色を湛えた目が、理解が出来ぬと言わんばかりに責め立てる。

「いつまでも契約をなされないのならば、わたくしにゆずってください」
「何、言って」
「管の扱い方の手ほどきならば、当主様自らがなさってくださるそうです」

息を呑む。強い目から逃れるように視線を逸らして、なんで、と呟いた。

「わたくしも選ばれた身です。貴重な管をこのまま遊ばせておくのなら、わたくしが使います」
「――まだ、はやい」
「兄様もわたくしの年頃に、式札を打ったと聞いています。早くなどありません」

頑なな少女の態度に、唇を噛みしめる。彼女の言うあの方とは、母がかつて従えていた管の事だ。強いが故に確固とした意思を持ち、己を従える者を選ぶような猛者だ。
彼に候補として選ばれたのが、自分と少女だった。

「早く決めて下さい。いつまでも逃げ続けるのは卑怯です」
「それ、は…」
「飯綱使いの血筋に生まれたのです。穏やかな最期など、迎えられぬ事は分かっているでしょう?失う事を恐れる時間があるなら、その分前へ進むべきです」

少女の言葉は、痛いほどによく分かる。飯綱使いとして怪異退治を生業とする身は、常に死と背中合わせだ。誰かの死を恐れて、立ち止まっている時間は意味がない。
分かってはいる。だが頭で理解はしても心では納得が出来ていない。目の前で母を失った強い記憶が、足を留めてしまう。

「分かってるよ…でも、やっぱりまだ早い」
「兄様!」
「ごめんね」

自嘲めいた笑みを浮かべて、首を振る。決して譲らないと知って、少女は強くこちらを睨み付け。そして深く息を吐いて、呟いた。

「兄様は、夢で見た少女のようですね。傷ついても、壊されても、誰かのために泣く…どうか連れて行かれないでくださいね」

お願いです、と念を押され。戸惑う自分を置き去りに、少女は部屋を出て行く。
ぱたん、と扉が閉まる音が精一杯の少女の強がりのようで、申し訳なさに眉が下がる。

「ごめんね」

閉じた扉越しに呟く。
酷く疲れていた。何もする気が起きず、考えるのも嫌になり、ベッドに近寄りそのまま倒れ込んだ。

「誰かのために、泣く。か」

少女の言葉を思い返す。そんな事があるかと、内心で呟いて目を閉じた。
泣くのは結局自分のためだ。
失うのが怖くて、一人残されるのが嫌で泣いているのだ。まるで駄々をこねる幼い子供のように。

「馬鹿みたい」
「本当にね。いつまでも強情ばかり張って」

落ち着いた低い声がして、そっと頭を撫でられる。視線を向けずとも分かるその声色と温もりに、馬鹿、と呟いた。

「酷いな。泣いていると思ったから、慰めに来たというのに」

頭を撫でていた手が、頬を滑る。いつの間にか溢れていた涙を掬って、泣かないで、と囁かれた。

「泣いてない。ただ眠かっただけだ」
「本当に強情だ」

くすくす笑う声を聞く。それに文句を言う気力もなくて、やはり小さく馬鹿、と繰り返した。
母の管。自身で仕える者を決められる程強い、妖。
彼ならば、自分を置いていなくなる事はないだろうか。

――一人にしないで。もう誰もいなくならないで。

声には出さず、呟いて。そのまま意識を深く沈めていく。

「いいよ。――」

笑みを含んだ彼の言葉は、きっと気のせいだろう。



20250329 『涙』

3/28/2025, 2:07:00 PM

穏やかな春の日差しが降り注ぐ午後。いつものように、彼の隣に寝転んで空を見上げていた。
吹き抜ける風が心地良い。ちらり、と横目で見る彼も、大分気が緩んでいるのか、狐の耳が出てしまっている。
ふふ、と笑えば、それに気づいて彼がこちらに視線を向ける。体を起こして、手を耳に見立てて頭に当てて軽く動かしてみれば、彼は少しだけ頬を染めてはにかんだ。

「もう、からかわないでよ」
「だって、可愛いんだもん」
「可愛くない」

むくれる彼に、くすくす笑いが溢れてしまう。そんな所が可愛いよ、と伝えようとして。けれどそれよりも先に、起き上がった彼に耳に見立てていた手を取られてしまう。
彼の手の熱が伝わって、嬉しくて仕方がないと鼓動が跳ねた。大分慣れてきたとはいえ、相変わらず心は彼に対してとても素直に気持ちを叫んでいる。それをいいな、と自分の事なのに羨ましがって、彼に向けている笑みに少しだけ苦いものが混じってしまった。

「どうしたの?」
「ううん。何でもない…ちょっと、いいなって思っちゃったの」
「何それ」

不思議そうな顔をして、彼は手を引くと顔を覗き込んでくる。大きく跳ねた鼓動を必死に誤魔化して、どうしたの、と惚けてみせた。

「彼氏、に、秘密事はなしにしてほしいんだけどな」
「べ、別に、秘密とかじゃ、ないもん」

頬が熱くなっていくのを感じて、さりげなく彼から視線を逸らす。これ以上はきっと駄目だ。気持ちが溢れて、泣いてしまう。
けれどそんなわたしの態度が、どうやら彼は気に入らなかったみたいで。ふん、と鼻を鳴らしてから、耳元に顔を寄せた。
まるで内緒話でもするように。悪戯を思いついた時のような、少し意地悪な声色で囁いた。

「――実礼《みのり》」

びくり、と肩が跳ねる。一つ遅れて、鼓動が煩いくらいに騒ぎ出す。
名前を呼ばれた。ただそれだけ。それだけなのに、息が出来ないくらいに、胸が熱くなる。

「な、んで。名前、ずっと…呼んでくれなかったっ」
「今まではね。妖に名前を呼ばれるのは、近くなっちゃうからあんまり良くはないんだけど。でも、今は…恋人、なんだし?」

顔を近づけたままで話しているせいで、彼の吐息が耳を掠めてこそばゆい。話の半分も理解出来ずに、ただ恥ずかしさや込み上げる熱さから逃げるように、嫌々と首を振った。

「ちょっと、離れて」
「実礼はボクの彼女じゃないの?嫌なの?」
「やじゃない、けど。でも、でもっ!」

耐えきれなかった一滴が、閉じた瞼の端から溢れ落ちていく。それに気づいて彼は慌てて体を離すと、手を伸ばして溢れた涙を拭ってくれる。
頭を撫でられて、乱れた呼吸が落ち着いていく。恐る恐る目を開けると、困ったような顔をした彼が、ごめんね、と呟いた。

「少し意地悪だったね。本当にごめん」
「――ばか」
「そんな事言っても可愛いだけだよ」

可愛い、可愛いね、と繰り返しながら、彼は頭を撫でる。
意地悪だ。さらに泣いてしまうと分かっていて、敢えて言葉にするのだから。
涙の膜が張った目で、彼をきつく睨み付ける。滲む景色でも、彼が優しく笑うのがはっきりと分かった。

「すっかり泣き虫さんになったね…人間って、本当に不思議。悲しくなくても泣くんだから」

彼の指が、涙を拭う。僅かに輪郭を取り戻した彼の目が、愛しさに細められているのが見えて、またじんわりと涙が滲んだ。

「ばか。もう、責任、とってよ」

彼への気持ちが溢れて、こうして泣いてしまうのだから。
彼が好き。好き、の一言では足りないくらいに、大好きで。けどその気持ちを、いつも言葉にしきれない。言葉に出来なかった気持ちが溜まっていって、耐えきれなくなって涙として溢れていくのだから。
だからその責任を取って、と。縋るように彼の服の裾を掴んで訴えれば、いいよ、と優しい声が返る。

「ちゃんと責任はとるよ。実礼を世界一幸せなお嫁さんにしてあげるからね」

砂糖菓子よりも甘い声で、そこに真剣な気持ちを込めて彼は告げた。
驚きすぎて止まってしまった涙を乱暴に拭って彼を見る。頬を赤く染めた彼が真剣な顔をして、それでも視線は逸らさずに。両手を取って、わたしの答えを待っていた。

「お嫁、さん?」
「そう。いっぱい頑張って、立派な狐になるから。実礼が大人になったら、ボクのお嫁さんになって」

鼓動が大きく跳ねた。今までよりも、一番大きく。
真剣に、けれどどこか不安そうな彼に、どう答えるべきかを迷う。
嫌ではない。とても嬉しい事だけれど、彼の真剣な言葉に、はい、の言葉だけではとても足りない気がした。
彼の目を見ながら、必死に考える。
考えて、ふと、彼に名前を呼ばれた時の気持ちを思い出した。
彼の手を握り返す。気持ちが涙になって流れていかないように、一度強く目を瞑って、開く。

「いいよ。わたし、山吹《やまぶき》、くんのお嫁さんになる」

彼に気持ちが伝わりますようにと思いを込めて、言葉を紡いだ。


「――って、ちょっと!?」

ぽんっ、と、軽い音を立て。
握っていたはずの彼の手が、小さくなってすり抜けていく。少し高かったはずの彼が一瞬で縮んで、草むらに転がるように落ちていった。
黄金色の狐のまん丸く見開いた目と目が合って。

「びっくりした。名前、呼ばれるのって、こんなにどきどきするんだね」

心底驚いたように、彼は呟いた。
それが何故か可笑しくて、くすくす笑いながら、草むらに寝転がる。

「ちょっと、笑わないでよ」

不機嫌そうな彼に、ごめん、と謝りながらも笑い声は止まらずに。側に来た彼の頭を撫でながら、空を見上げた。

大好きな彼が側にいて、名前を呼んでもらえる。
これがきっと、幸せというものなのだろう。
他の人からしたらちっぽけでありふれた、幸せともいえない些細なものなのかもしれない。
けれどわたしにとっては。

この小さな幸せが、泣いてしまうくらいに愛おしくてたまらないのだ。



20250328 『小さな幸せ』

3/27/2025, 2:05:37 PM

種々に咲き乱れる花を見遣りながら、物憂げに目を伏せる。
春が来た。永い眠りの時は終わり、目覚めの時が来てしまった。
早く起きろと言わんばかりに、鳥達が囀る。春を奏で、愛を歌う。
なんて残酷なのだろうか。穏やかに、陽気に目覚めを告げながら、その裏側で苦痛で喘ぐその様を、嘲笑っているのだから。
目覚めなど知らず、眠り続けている方が余程幸せだろうに。苦痛も、恐怖も、不安も。冷たく、それでいて暖かな雪の下にすべて隠していればいいのに。
本当に残酷だ。目覚めを強要され、隠していたものを暴かれるだろう先に、涙が溢れ出す。
だがしかし。こうして愚痴を溢していても仕方がない。変える事も、止める事も出来ぬのだから。ただ時が過ぎていくのを、いつものように部屋の奥で待つだけだ。
あぁ、と痛み出したこめかみを抑えつつ、窓の外を睨み付ける。辺りが黄色く煙るのを一瞥して、忌々しいとばかりにカーテンを引いた。





「大丈夫?」
「――だいじょばない」

ぐすぐすと鼻を鳴らし、ベッドの片隅で蹲る彼に、だろうな、と密かに同意する。傍らに置かれたごみ箱に、あふれんばかりに積まれたちり紙の山が、その悲惨さを物語っているようだ。

「じぬ。こんどごぞ、ごろざれるっ!」
「いや、花粉症で死んだりはしないから」

肩を竦め、街で購入してきたばかりの空気清浄機を取り付ける。ずびっ、と鼻をかむ音を聞きながら、電源を入れた。

「それで。食欲はあるの?お粥ぐらいは食べられそう?」
「……がんばる」
「頑張って。食べたら薬を飲んで寝てて」
「ありがど」
「どういたしまして」

少し待ってて、と言い残し部屋を出る。キッチンに入ると、あらかじめ作っていた粥の鍋を火にかける。少し暖めるだけで十分だろう。
今年もまた花粉は猛威を振るっているらしい。不謹慎ではあるが、こうして彼が花粉症で苦しんでいるのを見ると、春が来たのだなと実感する。春爛漫に咲き乱れる花々よりも、囀る鳥の声よりも、彼は正確に春を告げてくれる。赤くなった目や枯れた声。自覚がない頃からはっきりと現れる兆候に、春を感じながらも薬の手配や、部屋の換気に一層気を遣うのが恒例行事となってきていた。
暖め終わった粥を盆に乗せる。椀と匙、それから水と薬を一緒に盆に乗せ、出来るだけ急いで彼の元へと戻った。


「ちょっと遅かったか」

ベッドの上ででろんと伸びる、小さな鼬に戻ってしまった彼に苦笑する。サイドテーブルに盆を置いて声をかけるも、反応はない。

「しょうがないね」

一つ息を吐いて、傍らのごみ箱を引き寄せる。粥が冷めてしまうが、無理に起こすまでもない。彼が寝ている間に溜まっているごみを片付けて、ついでに新しいちり紙も用意しようかと、ごみ箱を持って立ち上がりかけ。

「――だめ」

小さな呟きと共に、腕に彼の尾が絡みつき、引き止められた。

「だめ、って…ごみを片付けるだけなんだけど」

彼は答えない。しかし尾が離れる様子はない。

「本当に、しょうがないなあ」

苦笑して、ごみ箱を床に置き。彼の隣に座り直す。
一度こうなってしまっては、彼が離してくれるまでこの尾は離れない。管である彼の行動には必ず意味がある。きっと今は彼と共にいるのが最適解なのだろう。

不意に、かたん、と窓が揺れた。
視線を向ける。かたかたと小刻みに揺れる窓は、段々にその揺れを大きくし。

「――風?」

強く吹き抜ける風の音。窓を揺らし、家を軋ませながら駆け抜けていく。
風の音に紛れ、扉越しに硝子の割れる音がした。風の勢いに耐えきれず、窓が割れでもしたのだろう。
思わず息を詰める。彼との距離を無意識に詰めて、腕に巻き付いた尾に縋るように触れていた。
そうして、しばらく風の音が渦を巻き。次第に勢いをなくしていく風に耳を澄ませて。
窓が沈黙し、風の音が聞こえなくなってから、ようやく息を吐き出した。

「っ、ありがと」

礼を言って尾を撫でる。するりと離れていく尾にもう一度ありがとうと呟いて、立ち上がった。
彼を見る。弛緩して眠る彼に苦笑を漏らし、ごみ箱を手に今度こそ立ち上がる。

「さて、片付けをしないと、だね」

扉の先に広がっているだろう惨状を思い、眉を下げ。
仕方がないか、と呟いて、静かに部屋を出た。



20250327 『春爛漫』

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