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5/1/2026, 6:11:12 PM

甘い香りが鼻腔を擽る。
穏やかな日差し。足元に咲いた花々が風に吹かれ、鮮やかな花弁を空に舞い上げていく。
誰かが、この場所を楽園だと言った。今では誰もがここを楽園だと信じている。
訪れる者を拒まない、暖かな庭園。傷つき、彷徨った果てに辿り着いた安息の地。
いつまでもここにいたいと、皆口を揃えて言う。自分もそう思っている。そして、あの子たちもそれは変わらなかったはずだった。

「まだ気にしているの?」

不意に声をかけられ、振り向いた。自分と同じく古くからここにいる彼女が、微笑みを浮かべてこちらを見つめていた。

「楽園を追放された子たちは誰も戻らない。今までだってそうでしょう?」
「そうだけど……」

追放、という言葉に胸が苦しくなった。そっと胸に手を当て、あの子たちを思う。
何の前触れもなく、ある日突然いなくなってしまった子たち。楽園のどこを探しても見つからず、きっと楽園から追い出されてしまったのだと誰かが呟いたことから、いつしかいなくなることを追放されたと囁くようになった。
ここを追い出されてしまう理由は誰にも分からない。だなら余計に、どうしてという疑問が頭の中でぐるぐると渦を巻く。
また明日と、昨日別れたあの子との叶わない約束が、ただ悲しかった。

「いつまでも気にしてたって仕方ないよ。それよりも遊びに行こう?」

そんな自分とは違い、彼女は気にする素振りもない。
冷たいわけではなく、受け入れているのだと気づいたのはつい最近だった。

「追放される時が来ても、後悔のないように楽しもう?」

彼女のような考えを持つ人は案外多い。ここに長くいる人ほど、すべてを受け入れる考えに至るように感じるのは、きっと気のせいではないはずだ。
自分だけが取り残されていく。
漠然とした不安を抱きながら、それを隠して差し出された彼女の手を取った。



ふと、目が覚めた。
何故だか落ち着かない。目を閉じていても一向に眠気は訪れず、密かに息を吐いて体を起こした。
仕方がない。少し外の空気を吸おうと、ベッドから抜け出した。


「――あ」

当てもなく歩き続け、そうして辿り着いたのは庭園の入り口だった。
緑のアーチがあるだけで、門扉はない。外から来る者を拒まない、優しい入り口。
今も開いているはずなのに、閉じているように見えた。
どうしてか気になって、一歩近づく。目を細めて入り口を見つめて、また一歩近づいた。

「もう、いいの?」

声がした。
振り返ると、こちらを見つめる彼女の姿。ただ静かに、立っていた。
どういう意味だろうか。首を傾げるものの、彼女はそれ以上を語る様子はない。
もう一度入り口に視線を向ける。先の暗がりを見つめ、込み上げる思いに従って頷いた。

「いいよ。もう十分」
「そっか」

近づく足音。するりと手を繋がれて、視線を向けた。

「じゃあ、また始められるね」
「――うん」

思わず首を振りそうになり、必死に踏み止まる。繋いだ手を強く握って頷いた。

「次も一緒にいてあげる。だから前を向きなさい」

厳しいけれども優しい声音。
何をまた始めるのかは分からない。ただそれか怖くて、不安で動けなくなりそうな自分に、彼女は大丈夫だと目を合わせて微笑んだ。

「また、手を引いてくれる?」
「引くよ。離すと、きっとまた迷子になって泣いてしまうもの」
「手を離したりしない?」
「ちゃんと繋いでいるわ。あなたが離したいと思うまでは側にいる」

甘やかす言葉に、小さく笑う。
繋いだ手に視線を向ける。しっかりと繋がれた手。愛しい温もり。
気づけば不安も怖さもない。彼女の目を見返して、今度は迷いなく頷いてみせた。

「じゃあ、行こうか」

そう言って彼女は前を向く。同じように自分も楽園の入り口に向き直った。
ゆっくりと歩き出す。立ち止まらずにアーチを潜り抜ける。

「――っ」

その瞬間、空気が変わった。
甘いだけの香りに、冷たさが混じる。水を含んだ土。腐った果実。生きた獣の生臭さが鼻をつく。
踏みしめた地面は固く冷たい。剥き出しの地面の荒い感触が足から全身に伝わってくる。
見上げた空は曇天。ただ暗いだけの空に、温もりは感じない。吹き抜ける風の冷たさに、小さく体が震えた。
生々しい景色。楽園の中とは違い、ここには生の厳しさが広がっていた。
思わず立ち止まる。
彼女は何も言わない。静かに自分がまた歩き出すのを待っている。
強く手を握り、一度だけ後ろを振り返った。口を開いたままのアーチ。戻ろうと思えば戻れるはずなのに、何故かもう引き返せないのだと感じる。足が戻ることを許さない。

「――お姉ちゃん」

そっと彼女を呼んだ。溢れた言葉に息を呑み、彼女を見つめ笑う。

「また、お姉ちゃんになってくれたんだ」
「そうね。また少しだけ先に行って、あなたを待ってるわ」

目を合わせて笑い合った。
彼女がいれば怖くない。繋いだ手から伝わる温もりがある限り、自分はまた世界を楽しむことができる。
どちらからともなく歩き出す。道の先は暗がりが広がっているが、怖いとは感じない。
その先に待つものを知っている。甘いだけではない、厳しい世界。

「楽園から追放されたって、皆思うんだろうな。そんなことないのに」

ふと、自分たちがいなくなった後のことを考えた。最近来たばかりの子たちは、そのことにまた怯えてしまうのだろう。
追放されたのではない。自分から出て行ったのだと伝えてあげられないことが、少しだけ心残りだった。

「案外、追放されたっていうのは間違いではないかもね。ここで怖くなって引き返しても、楽園の中には入れない。二度と戻れないことは変わらないんだから」

確かに。振り返った時に感じたことを思い出す。
もう戻れない。今更泣いて後悔しても、先に進むしかない。

「後悔してる?」
「してない。少し怖いけど、一緒なら大丈夫」

前を向いたまま、そう答えた。それは偽りのない本心だ。

「そっか」

それ以上お互い何も言わず、ただ歩いていく。
道の先。微かに光が見えて、無意識に繋いだ手に力を込めた。
この先がどんな世界であれ、自分は一人ではない。
だからきっと、大丈夫だ。

4/30/2026, 6:10:03 PM

風に乗って、微かに花の香りがした。
何の花だっただろうか。ぼんやりと記憶を辿る。
仄かに甘く、それでいて澄みきった清々しい香り。思い出せそうで思い出せないもどかしさに、少しだけ眉が寄った。
視線を巡らせる。青々とした葉をつける木々のどれかに咲く花を探して目を凝らした。

「――懐かしいな」

ふと、誰かの声がした。目を瞬き後ろを振り返れば、同じ年頃に見える少年が佇んでいる。
いつからそこにいたのか。問いかけようとして、その目に浮かぶ寂しさに気づいて思わず口を噤んだ。

「花が咲き綻ぶような笑顔。白のワンピース……あの子はずっと、俺のために何も言わなかった」

泣いている。涙は見えなかったけれど、何故かそう思った。

「あの子の季節が来た。忘れてしまったものが、また帰ってくる」

風が吹き抜けた。さっきよりも強く花の香りが漂っている。
視界の端で、白が過ぎていくのが見えた。視線を向け手を伸ばすと、白の花びらが指先に絡みつく。

「梅……白梅だ」

白の花びらを見つめ、呟いた。先ほどから香っているのは、どうやら白梅だったらしい。

「その白梅は、特別なんだ」

穏やかな声がした。振り返ると、少年が立っていた場所に、男性が立っていた。
少年とよく似た面立ち。まるで少年が一瞬で成長して男性になってしまったみたいだ。

「特別で、離れたくなかった。諦めたくなくて毎日通い詰めて……そうしたら、最後には折れてくれたよ。とても嬉しかったけど信じられなくて、全部都合のいい夢なんじゃないかって怖くて……でも、娘がこれは本当なんだって、大きな声で泣いて教えてくれた」

その目にはもう、寂しさはなかった。穏やかで柔らかな微笑みは幸せを噛み締めているようで、自分のことではないのに気恥ずかしくなってしまう。

「娘はあの子にそっくりだった。笑い方も、微かに白梅の香りがするところも全部。好奇心旺盛で、お転婆で……でも真っすぐに育ってくれた」

どこか誇らしげな声と共に、また風が吹き抜けていく。
空に舞う白の花びら。甘酸っぱい匂いが広がって、白梅の木の前に立っているような気持ちになってくる。
一際強い風に、反射的に目を閉じた。ざあざあという風に揺れる葉の音に紛れて、一瞬だけ、楽しそうに笑う小さな女の子の笑い声が聞こえた気がした。

「娘が彼氏を連れて来た時には、こっそり落ち込んだよ。反対するつもりでいたのに、話してみるととても穏やかで真面目な青年だったから、何も言えなくなってしまった」

風が止んで、目を開けた。
目の前には、初老の男性の姿。やはり先程の男性とよく似た面立ちをしていた。

「彼なら娘を幸せにしてくれる。そうあの子にも言われて、青年に娘を託した。離れていくことに寂しさはあったが、娘の晴れ姿に嬉しい気持ちの方が勝っていたな」

優しい目。親として、心から子供の幸せを喜んでいるのだろう。その目の中には寂しさは欠片も浮かばず、愛しさに満ちていた。

「娘は、白梅が咲き誇る春先に生まれたんだ。そして、娘の子も白梅が満開の頃に生まれてきてくれた。娘とそっくりで、小さくて、白梅の香りがしたのを覚えているよ」

穏やかに微笑んで、彼はゆっくりとこちらに近づいてくる。目の前で立ち止まり、優しく頭を撫でてくれた。

「――っ」

会いに行く度、こうして頭を撫でてくれていたのを思い出す。目を細め、大きくなったなと笑ってくれていた時と変わらない眼差しに、目の奥がつんと熱くなるのを感じた。

「こうして、風に乗ってあの子の匂いが届くと忘れていたものが戻ってくる。あの子が抱えて守ってくれていた記憶を、この時だけは思い出せる」

泣いてしまいそうだ。頭を撫でる彼も、泣きそうに笑っている。

「また大きくなったな。小さな頃はあんなに泣き虫だったのに、我慢できるようになったのか」
「だって……もう、子供じゃないし……」

俯いて、いつまでも子供扱いされることに不満を漏らす。
親という存在はそういうものなのだと、前に母が言っていた。特に祖父は母を最期まで子供扱いし、孫である自分も同じように接して、いってしまった。
風が吹く。白梅の花を散らし、香りを散らして、風が過ぎていく。

「お母さんによろしく伝えてくれ。忘れてしまっても、お前たちの幸せを心から願っているよ」
「分かってる。祖父ちゃんも、ふらふらしてないで、しっかりしている間に、いくべき所に行ってよね」

心からそう思っている。自分だけでなく、両親も心配していた。

「それは大丈夫だよ。あの子が一緒に来てくれたからね。あの子の香りがちゃんと導いてくれた」

それを聞いて安心した。顔を上げて祖父の目を見て、笑ってみせる。
泣くよりも、笑って別れたい。まだ記憶をなくしていなかった祖父と約束したことだ。
風に舞う白梅が祖父の姿を隠していく。頭を撫でていた手の感覚が薄くなり、祖父が静かに消えていく。

「ばいばい。祖父ちゃん」

白梅が空高く舞った。それを目で追いかけ、もう一度目の前を見ると、そこに祖父の姿はなかった。
まるで最初から誰もいなかったかのように。

「やっぱりこの時期だけは、はっきりしてるんだな……もう、花は咲かないのに」

祖父が愛した白梅は、祖父が亡くなった後、花を散らして枯れてしまった。
両親は祖父と共にいったのだと話していた。自分もそう思っている。

「会えるとは思ってなかったけど、会いに来てよかった」

ふふ、と笑う。何だか得した気分で、家に帰るため歩き出す。

「私も、祖父ちゃんや母さんたちみたいな恋ができればいいな」

風に乗って運ばれた愛しい人の香りで記憶を取り戻すような、そんな素敵な恋。
不意に風が吹いた。
白梅の香りはしない。けれどそっと背中を押された気がした。

4/29/2026, 5:15:08 PM

朝の柔らかな光を感じて目を開けた。
濡れた土の匂いが、昨夜の雨の名残を感じさせる。葉を濡らす雨の滴が陽の光を反射して、宝石のように煌めいた。
未だぼんやりとする意識を切り替えるように目を瞬き、視線を巡らせる。
生き物の姿はない。見上げる空は澄んだ青が広がり陽も高く昇っているが、まだ目覚めには早いのだろう。
かさりと風が葉を揺らす。雨の滴が跳ねて、ぱたりと地に落ち、跡を残す。
静かだ。暖かく穏やかで、このまま眠ってしまいそうなほどに。
それはとても勿体ないことだ。微睡みに揺蕩いながら思う。
煌めく景色を、まだ見ていたい。暖かな陽射し。吹き抜ける風の冷たさ。滴の跳ねる音。
美しい雨上がりの朝を堪能しきれていないのだからと、緩く頭を振って目を覚ました。

不意に、風とは違う音がした。
かさりと草を踏みしめる音。大人とは違う軽いその響き。
こんな朝早くから誰だろうか。興味を引かれて視線を向けた。
段々と音がはっきりと聞こえてくる。どうやらこちらに近づいてくるようだ。

かさかさ、かさり。
草をかき分けるようにして顔を覗かせたのは、まだ幼さの抜け切れていない少女。陽よりも輝く笑顔を浮かべ、ゆっくりと歩み寄ってくる。

「おはよう!」

思わず肩が跳ねた。
こうして、誰かに挨拶をされたのは初めてだ。困惑しながらも軽く会釈をしてみる。

「お、おはよう……ございます……」
「今日も綺麗な滴ができてるね」

にこにこと、少女は笑う。
今日もという言葉と、合わない視線にあぁ、と納得する。
この子は雨上がりの朝に、名残の滴を見に来ているのだろう。
思わず視線を逸らす。挨拶を返したことが、少しだけ恥ずかしくなった。

「一枚、くださいな」

歌うように少女は告げ、葉の一枚に手を伸ばす。
滴が零れてしまわないよう、そっと葉を包む手の温もりに、視線を戻して彼女の真剣な横顔を見た。
記憶にはないのに、その温もりを覚えている。少女を知らないはずだというのに、知っている気がした。
以前に来た時も、こうして滴をつけた葉を取ったのだろうか。記憶のない自分が覚えているものがあるほど繰り返す、その理由は何なのだろう。
不思議に思いながら、どこかへ向かう少女の顔を見上げる。
笑っている。けれどよく見ると、その目が赤いことに気づいて何故か胸が苦しくなった。



着いたのは、小さな一軒家。静かに家の中に入った少女は、迷わず一番奥の部屋へと向かう。
扉を開けて中に入ると、窓辺に置かれたベッドに誰かが寝ているのが見えた。

「ただいま」

囁く声に、寝ている誰かがこちらを向く。
少女とよく似た、けれども彼女よりも幼い子。少女を見つめ、淡く微笑んだ。

「おかえりなさい、お姉ちゃん」

か細い声。少女が近づいたことではっきりと見えた妹の顔は青白く、体は皮と骨だけと言えるほどにやせ細っていた。

「ほら見て。昨日雨が降ったから、雨の滴を持ってこれたよ」

微かに震える手で妹へと差し出された。起き上がることもできず視線だけを向ける妹は、緩慢に目を瞬かせた。

「――きれいね」

その声の響きを聞いたことがあった。
細い腕がゆっくりと持ち上がる。かさついた指先に触れられた瞬間、思い出した。
姉の祈り。姉妹との刹那のひと時を、自分は何度も繰り返してきた。

「これでまた元気になるよ。今度こそ元気になるから……っ」

姉の声が震えている。元気になると繰り返しながらも、妹のことを正しく理解しているのだろう。
一番最初の自分が出会った姉は、ただ綺麗だったからという理由で自分を妹に見せた。
綺麗だと笑う二人の言葉が気恥ずかしくて、それでもとても嬉しかったのを覚えている。だからこそ消える前にほんの少し、妹を蝕むものを引き受けたのだ。
それからも何も知らない自分は、刹那の出会いのお礼に、ただそれだけを繰り返してきた。その度に妹は僅かに元気を取り戻すが、刹那に消えるだけの自分が抱えられるものなど僅かでしかない。妹の終わりは理解しているつもりだった。

「お姉ちゃん」
「なぁに?」

妹の呼ぶ声に、姉は赤い目を誤魔化すように笑う。

「ありがとう」

姉の作った笑顔とは違い、妹は心からの笑顔を浮かべた。

「きれいなもの……たくさん見れて、うれしい……ありがとう」

穏やかな声音。嘆くでもなく、妬むわけでもない。
いつだって妹は、優しい子だった。

触れている指先から抱えられる分を吸い上げる。
けれど足りない。たかが雨の一滴では、人間の代わりになれるはずもない。
小さく息を吐いた。二人を見つめ、仕方ないと笑う。
外にはまだ陽に消されることのない滴がいる。そしてこの先、雨が降る度に滴は生まれる。
一滴はとても小さいモノでも、集まれば小さな子供の代わりくらいにはなれるだろう。
迷いはない。ただ、今後自分を綺麗だと言ってくれることがないのが、少しだけ寂しかった。
目を閉じる。外にいる滴、そしてこれから先生まれる滴へと意識を広げ、妹を蝕むものを吸い上げていく。
ほぅ、と妹が微かに吐息を溢した。かさつき冷たい指先が熱を持ち出したのを感じて、そっと離れていく。

「お姉ちゃん」

先程とは違う、静かだが強い声音。姉が息を呑む音が聞こえた。

「何だか、眠くなってきちゃった」
「――っ、そっか。まだ朝も早いし、もうひと眠りしよっか」

それがいい。
自分に向けられたわけでもない言葉に、心の中でだけ返事を返す。
くすくす笑う。何だかとってもおかしくて、楽しくて堪らない。
陽に照らされて消えていく自分を感じながら、それでもとても満たされていて心地が良かった。





「こっちだよ!」

早朝。まだ多くが眠る時間に、ある姉妹は木々の合間を駆け抜けていく。

「待ってよ、お姉ちゃん」

妹が呼ぶが、姉は止まることはない。早くと急かされて、妹はどこか困ったように笑いながらその後に続いていく。

「この先だよ」

そう言って姉は向かう先に指を差すが、視線を向けて不思議そうに首を傾げた。
示した先には一本の木。他の木々と同じく、青々とした葉を揺らしている。

「あれ、おかしいな?昨日雨が降ったのに、乾いてる」

姉が言うように、昨夜遅くまで雨が降っていたというのに、木や周囲には雨の名残はどこにもない。

「お姉ちゃん?」

遅れてきた妹を振り返り、姉は申し訳なさそうにごめんと呟いた。意味が分からず目を瞬かせる妹の手を繋いで、元来た道を引き返していく。

「え?どうしたの?」
「ここ。いつもなら雨の滴が朝日を反射してとても綺麗なんだけど、乾いてて見られないみたい。だから別の所に行こう」

姉に手を引かれながら、妹は葉の茂る木に視線を向けた。一瞬何かが煌めいたような気がして目を凝らす。
だが、煌めくものは何も見えず。首を傾げながらも、妹は姉へと視線を向けた。

「心配しなくても、見せたいものはたくさんあるんだ。だから大丈夫だよ」
「うん。楽しみにしてる」

目を煌めかせ、姉は笑う。その笑みにつられて妹も微笑んだ。

不意に乾いた葉が、風もないのに僅かに揺れた。
まるで雨の滴が葉を伝い、地に落ちるかのような動き。

振り返らない二人は気づかない。
朝の陽だけが、それを静かに見ていた。

4/28/2026, 4:18:41 PM

春の嵐が吹き抜けた。
ここで生きた者たちが皆去って、いくつ季節が過ぎただろう。
暑い夏が過ぎ、秋が訪れ。長い冬が終わり、また緑が芽吹いた。
だがそれだけだ。命は芽吹けど、崩れた家々に住む者は誰もいない。
かつて村の広間だった場所に立ち、辺りを見渡した。
風が葉を揺する音や鳥の囀りは聞こえるが、それでも静かだと思ってしまうのは生きている音がしないからだろうか。

「随分と山に呑まれましたね」

穏やかな声と共に、隣に風が降り立った。

「最後の子たちは、ちゃあんと送り届けましたよ」
「そうか」

呟いて、最後の者が住んでいた家へと視線を向けた。
草の生い茂った家。他の家々よりは形を留めてはいるものの、遠くない先に他と同じように崩れてしまうのだろう。
そっと目を伏せた。終わりは最初から理解していたというのに、何故空しいと感じるのか。
小さく息を吐く。
風が不思議そうに首を傾げ、こちらに視線を向けた。

「終わることが寂しいのですか?」

その問いに、無言で首を振る。

「では、消えることが怖いのですか?」

思わず、笑みが溢れた。
消えることに対して思うことは何もない。況してや、怖いなどあるはずがなかった。
風に視線を向ける。真っすぐで煌めく目を見つめながら、心の内に渦巻く疑問を口にした。

「人間は何故、生きるのだろうか」

きょとんと、無垢な目が瞬いた。
眉を寄せ、首を傾げる。その表情は問いの意図が理解できないと困惑しているようであった。

「命は等しく生きているものですよ?人間だろうと、鳥や木だろうと、皆命があるから生きているのです」

風の言葉は正しい。命はそういうものなのだから、疑問に思うことの方がおかしいのだろう。
それを理解しながらも何故と考えてしまうのは、永くこの地で彼らの生きる姿を見てきたからだ。

「人間にとって、生きるとは喜ばしいことだ」

いつの時代も、子の誕生は喜ぶべきことだった。家族だけでなく、ここに住まう者全てが新たな命の誕生を喜び祝っていた。

「だが、生きるとは悲しいことでもあった」

命の終わりを誰もが悲しんだ。
いつだったか。溺れた子を助けようと川に飛び込んだ子が、そのまま戻らなかったことがあった。
ちょうど夏祭りの時期。賑わう声は悲鳴と嘆きに変わり、数日が過ぎても暗い影を落としていた。

「今まで見てきた人間の生は、様々な感情を宿していた。時に希望となり、絶望にすらなった」

人間以外には持ちえない想いの数々。
夏祭りで失った生は、周囲にいくつかの影響を与えた。
助けられた子と、親と、そして友と。
全てが別々の道を歩んだ。交わることのなかった彼らの行く末は、今も鮮明に思い出すことができる。
強く生きたのは、助けられた子。周りの心ない言葉に折れることはなく真っすぐに成長し、ここを出て行った。
親は耐えられなかった。いくつかの季節を一人きりで気丈に生きていたが、ある春の終わりに、子を追って流れていってしまった。
友は夢現に約束を交わしたらしい。最後までこの地を離れず、迎えに来た子と共に風の案内で旅立っていった。
同じ命でありながら、全く異なる生。
彼らは何を思い、その生に意味を見出していたのだろうか。

「難しい話です」

風は困ったように笑う。だがその目は穏やかで、優しい色を浮かべていた。

「とても難しい。誰もが違う生き方をしているのだから、生きる意味が違うのは当然のこと。何故生きるのかという問いに一つを答えることなんてできませんよ」
「それもそうだな」

一つ頷いて、もう一度辺りに視線を巡らせる。
草木が生い茂り、人間が生きた痕跡が消えていく。残るものは何もない。
静かな終わりを、この地を離れていった者たちが見たら何を思うのか。
人間の営みを見てはいたが、人間ではない己には分からない。

「まだ、ここにいるのですか?」

風が問う。
確かに、己の役割は終わった。生きる者がいなくなった瞬間に、村は終わってしまったのだ。

「ここにいるよ」

空を仰ぎ、そう答えた。
この地は、己自身だ。村という形を失っても、それは変わらない。
いずれ村の痕跡が全て山に呑まれた時、己もまた呑まれてしまうのだろう。その時までは、ここで生きた者たちとの記憶を辿って歩くのも悪くはない。

「そうですか……」

小さな呟き。どこか寂しげに聞こえたのは、風との別れを己が惜しんでいるからに違いない。
風がくるりと円を描いた。柔らかく空へと舞い上がっていく。
風が葉を揺する。それは別れの合図のようにも、穏やかな眠りへの子守歌のようにも聞こえた。

「さようなら。最後の子たちは、きっと次の生でも一緒にいるのでしょう。約束が生きる意味になっていたのだから、最後に交わした約束も果たすに違いありません」
「あぁ、さようならだ。願うことならばあの子たちの次の生にも、優しい風を吹かせてあげてくれ」

答えの代わりに、一際強く風が吹いた。
花が散る。ふわりと甘い香りを残しながら、空高く風と共に舞い上がる。

「――行ってしまったな」

風が去った後、辺りに散る鮮やかな色の花びらを見ながら呟いた。
小さく笑みを浮かべ、目を閉じる。
聞こえるのは遠ざかる風の音。鳥の囀り。それは次第に、かつてここで生きた子らの
笑う声へと変わっていく。
目を開けた。
視界に広がる、在りし日々の幻。
挨拶を交わし、談笑する影。幼子が駆け回り、大人たちが田畑の仕事に精を出す。
それは決して特別ではない、ここで生きた者たちの日常の記憶だった。

「皆、生きていた。それぞれの意志で、思いを抱いて生きてきた」

一人として同じではない。
それは何よりも尊いことに見えて、眩しさに目を細めた。

ゆっくりと歩き出す。
声や音で溢れる周囲を懐かしみながら、ここではない遠い地で生きる子らを思い、幸せであれと密かに願った。

4/27/2026, 11:26:50 PM

遠く聞こえる声に、眉を顰めた。
山の麓では、今日もまた人間たちが争い続けている。

――山を崩すなど、罰当たりめ。
――山神様の祟りに遭うぞ。

古くからこの山と共に生きた者らが、怒りに任せて声を上げる。

――だから、山神なんていないって言ってるだろうが。
――今時、祟りなんて時代遅れの考え方。誰も信じちゃいないよ。

山を出た子らが、親を嗜める。

交わらない二つが言い争うのは、聞いていて気分が滅入った。
目を閉じ、嘆息する。
聞きたくないのであれば、声から遠ざかればいい。しかしこの山にいる限りは、どこへ行ったとしても声は聞こえることだろう。
いっそ争いを止めてしまえば、また以前のような平穏が訪れるのかもしれない。一瞬過ぎた考えに、できるはずがないと苦く思う。
争い自体を止めるのは簡単だ。だがそれはつまり、どちらか一方を肯定することを意味している。
古いしきたりに従って山を守るか。それとも、人間が生きるためにしきたりを捨てて、山を崩すか。
どちらも正しく、どちらも間違いである想い。
正反対でありながら根底は同じそれの一方を肯定することなど、できるはずがなかった。

「悩んでいるね、神様」

囁く声がして、目を開けた。
見上げれば、楡の枝に座る子供の姿。楽しげに足を揺らしてこちらを見ていた。

「神様にとって、山を崩すことは悪いことではないの?」

首を傾げる子供に、同じように首を傾げる。
何故山を崩すか否かが善悪に繋がるのか、理解できなかった。

「神様は山なのだから、自分の一部を切られたり崩されたりするのは嫌でしょう?」
「嫌だと、悪になるのか?」

問い返せば、子供は不思議そうに目を瞬いた。
顔を上げ、遠くを見つめる。その目は聞こえる争いを悲しむようにも、この先の山の行く末を憂いているようにも見えた。

「お前は善悪を何で測っている?」

ふと興味が湧き、問いかける。
問われた子供は、暫し悩むように視線を彷徨わせこちらを見つめた。

「納得できるか、できないか……かな。あとは、母さんに教えてもらったこと、とか」

答えたものの、自信はないようで眉を寄せている。

「神様は善悪を何で測るの?」
「善悪とは人間の概念だ。我らには存在しない」

己のような存在は、ただその場に在るだけだ。善でも悪でもなく、形すらもなかったモノ。
その在り方の善悪を定めるのは人間だった。
理解できてはいないのだろう。子供はさらに眉を寄せ、俯きながら何かを考え込んでいた。
やがて顔を上げた子供は、麓の村のある方へと視線を向けた。
争う声はまだ続いている。

「僕たちは……悪いこと、だったのかな」

ざわりと、楡が葉を揺らした。
気づけば周囲には子供たちが集まり、静かにこちらの様子を伺っている。

「大人たちは善いことだって、誇らしいことだって言ってたけど、本当は……」

呟く声音は、酷く淡々としている。その表情も何の色も浮かんではいない。

「皆は、どこまで信じていたんだろう。村を救うため。神様のため……僕はそれを信じてたけど、母さんは本当に信じてたのかな」

ざわざわと楡が震えている。子供たちが身を寄せ合い、どこか怯えた表情をして枝に座る子供を見つめていた。
恐れているのだろう。ここにいる子供たちは皆、信じていたのだから。
自身が選ばれたことが誇らしいと、最後まで周囲の言葉を疑いもせずにいた純粋な子らだ。それが崩れてしまうことは、耐えられないのかもしれない。

「人間は変わる」

枝に座る子供を見上げ、告げた。
真っすぐで、どこか虚ろな目が向けられる。言葉の真意を測りかねているような静かな姿。
いつの間にか大人びてしまった悲しい子供に、そっと手を伸ばした。

「お前たちの親は信じた。手を離すことに苦悩し、それでも村のためと決断した。その意志は善でも悪でもない。だが……」

枝から降りる子供を抱き留め地に下ろしながら、麓を一瞥する。
今は膠着しているが、いずれは山を切り開くことになるのだろう。その時の子供たちの行く末を思い、微かに胸が痛むのを感じた。

「お前たちはいずれ、山を切り開く者によって見つけられるのだろう。その時、かつてを知らぬ者たちはお前たちを見て、悪だと断ずるのだろうな」

あぁ、と周囲から声が漏れた。
啜り泣く声。それを慰める囁き。それは信じていたことが崩された故の悲しみではない。
信じたことを、何も知らぬ者が声高に悪と断じることの哀れみだった。

「――仕方ないことだ」

誰かが言う。それに誰もが頷いた。

「何も知らないのだから、仕方ない。でも、知ろうとしてくれる誰かがいてくれることを願うよ」

静かな声だった。
無垢だった皆は、子供でありながら聡明な大人となっていたようだ。

「山がなくなったら、神様はどうなるの?」

問われ、楡を見上げた。
始まりを覚えていない。ならば考えた所で終わりなど分かるはずもなかった。

「どうなるのだろうな。消えるか、その場に在り続けるか……人間が山を覚えている限りは己はここに在るのだろうが」

その前に今の形を失うのだろうか。最初と同じように形なく漂うのかもしれない。

「じゃあ、最後まで一緒にいてね。皆は神様のためにここにいるんだから」

誰かの言葉に、歓声が上がる。楡が震え、柔らかく葉を揺らした。
目を瞬く。子供たちを見つめ、微笑んだ。

「そうだな。共にいよう」

差し出される手を取る。はしゃぐ子供たちに囲まれながら、そっと耳を澄ませる。
争う声は聞こえない。どちらかに傾いたようだ。

空を仰ぐ。変わることのない青に目を細めた。
どのような先であれ、山も子供たちもここに在り続けることに変わりはない。

それを幸せだと、誰かが笑った。
誰もがそうだと笑っていた。

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