古い祠の前。幼い少女は手にした花を供え、手を合わせた。
何かを願っている訳ではない。花がとても綺麗に咲いていたこと。嬉しくなって、誰かに見せたくて花を摘んできたことを無邪気に告げていた。
「かみさまには、とくべつに花畑の場所、教えてあげるね」
秘密だよ、と笑う少女は、最後に祠に手を振り家へと帰っていく。
その背を見送って、祠に祀られた神は供えられた花に視線を落とした。
「赤……」
少女は赤い花だと言っていた。しかし神にはその赤が理解できなかった。
視界に広がるのは、ただの輪郭。
白や黒の色ですらないその無色の線が、神の世界だった。
「綺麗……なのか……?」
そっと指先で花びらをなぞる。崩れた輪郭が一瞬だけ色彩を持ったように見え、神は弾かれたように手を引いた。
自身の手を見つめ、そして花に視線を向ける。
変わらないただの線。けれどそれは何よりも美しく感じられ、神はしばらくその花から視線を逸らせないでいた。
その後も、あの少女は度々祠を訪れては、何かを供えるようになった。
花や木の実。時には捕まえた虫や菓子など。
そのどれもが、少女がその日誰かに見せたかったもののようで、手を合わせては嬉しそうに、誇らしげに報告をしていた。
「かみさまは何が好きなのかな?何をもらったら、うれしいんだろう?」
そう言って首を傾げる少女は、純粋に神のために何を供えたら喜ばれるのかを考えているようだ。神はどこか困惑しながらも、少女の背後から供えられたものを覗き込んだ。
花、だった。最初に供えられたものとは異なる輪郭。この花は果たしてどんな色をしているのだろうか。
「――かみさま?」
ぼんやりと色について考えていた神は、不意に自身に向けられている視線を感じて息を呑んだ。
少女がこちらを見つめている。久しく人間に認識されなかった神は、途端に動けなくなってしまう。
何を言えばいいのか、何をすればいいのか。何一つ思い出せずに立ち尽くす神に、少女は目を瞬き微笑んだ。
「かみさま!かみさまは、お花が好きなの?」
問われて、神は答えに窮した。少女は自身が供えた花を見ていた神を見て、花を好んでいるのだと思っているようだ。
神には特に好むものはない。考えたこともないそれに、しかしながら少女を傷つけないような返答を探して、何気なく供えられた花に視線を向けた。
「この花は、どんな色をしているんだ」
不意に溢れたのは、少女の問いとは関係のない疑問。
それに少女は目を瞬いて、不思議そうに花と神を交互に見つめた。
「かみさまは、色が分からないの?」
「分からない。花もお前も、ただの輪郭としてしか感じられない」
そっか。
小さく呟いた少女は、供えた花を手に取った。
そして、神へと差し出す。思わず受け取った神は、その瞬間に華やかな薄紅色を視界に映した。
「これはね、ピンク色だよ」
ふわりと笑う少女もまた、輪郭ではなく黒の柔らかな髪と目をして萌黄色の服を着ている。
周囲に視線を巡らせれば、青々とした葉や差し込む光の煌めき、揺らぐ影の色がはっきりと見て取れた。
「――かみさま?」
気づけば、神は少女を強く抱きしめていた。
微かに花の香りがする。花畑を駆け回る少女の姿が浮かび、神はほんの僅かに笑みを浮かべた。
「お前は、色に溢れているのだな」
少女に触れる程、はっきりと世界が色づいていく。
それは少女の純粋な信仰故か、それとも少女が特別だからなのかは神には分からない。
「また来てくれ。俺に色を教えてほしい」
腕を離し少女に願えば、一瞬だけ不思議そうに首を傾げた後。
「うん!かみさまに、たくさん色を教えてあげるね!」
まるで花が咲くように、少女は笑って頷いた。
あれから季節は廻り、幼かった少女は大人になった。
花畑を無邪気に駆け回ることはなくなったものの、変わらずその日見つけた好きなものを神に供える日々は変わらない。
ただ一つ変わったというならば。
「ちょっと!着替えの時は部屋を出てって、いつも言ってるでしょ!」
神の背を押して部屋から追い出しながら、少女は溜息を吐く。
祠に祀られていた神は、今は少女の隣で日々を過ごしている。
少女を手元に置くために隠そうとしたが、彼女に人としての生を全うしたいと願われたからだ。
祠から離れたことで、様々な不便はある。しかしそれ以上に少女の隣は神にとって心地が良いものであった。
共に暮らすことで今まで知らずにいた少女の一面を知ることができたことも、神は密かに楽しんでいた。
閉じた扉は、百塩茶《ももしおちゃ》色。少女はチョコレート色だと教えてくれた。
最初は少女を介さなければ認識できなかった色は、いつしか遠い昔に失った記憶と共に神の元へと戻ってきていた。
だが神は少女の元を離れるつもりはなかった。神の求めるものは色よりも少女へと変わっていったからだ。
口元に笑みが浮かぶ。
共に過ごすことになるまでに、少女と離れていた時間があった。少女のいない世界は急速に色が褪せ、輪郭だけしか認識できなかった頃よりも虚しく神の目に映っていた。
今は違う。少女の隣で見る世界は、極彩色に溢れかえっている。
かちゃり。扉が開く音がした。
顔を覗かせる少女の頭を撫でる。肩で切りそろえた濡羽《ぬれば》色が、さらさらと滑り落ちていく。
「ちょっと、なに……?」
戸惑う少女に微笑みかけ、髪を撫でていた手を差し出す。訝しげな表情をしながらもその手を取り、少女は部屋から外へと出てきた。
「今日はどんな色を教えてくれるんだ?」
「それは外に出て見ないと分からないよ」
そう言いながら少女は神と手を繋いだまま、玄関へと向かう。
扉を開ければ、柔らかな日差しが世界を明るく彩っていた。
「行こうか、神様!」
少女が笑う。
その姿は極彩色に溢れた世界で、何よりも美しく煌めいているように見えた。
地面に広がる、散った花びらの残骸に視線を落とす。
誰も気にかけることのない、薄紅色の花びら。目を留め、誰もが美しいと称えた花の成れの果てに、空しさが込み上げる。
仕方がないことだ。そう理解はしている。来年花を咲かせれば、ここはまた賑やかになることだろう。去年も、その前の年も、何年も繰り返してきた。
そういえば、と思い出す。去年も同じような光景を目にして、まったく同じことを考えていた。次の年こそはと思いながら、結局変わらない自身に溜息が漏れる。
このまま変わることはないのだろう。緩く頭を振りながら、幹に手を触れる。
誰にも気に留められないと嘆くくらいならば、眠ってしまった方がいい。そうすれば一年など、瞬く間に過ぎていく。
寂しさから目を逸らし、閉じようとした時だった。
かさり。
草を踏みしめる軽い足音がした。
視線を向ける。近づく子供の姿を認め、目を瞬いた。
「きれい……」
笑みを浮かべ、子供はそっと足元に散らばる花びらを拾いあげる。腕に抱えた瓶の中に花びらを入れ、陽に透かして飽きることなく見入っている。
不意にその目が、花が散り、葉だけになった枝に向けられた。
青々とした葉の合間から陽の光が差し込んでいる。目を細めながら歩み寄り、子供は幹を背に座った。
「きらきらしてる。とってもきれい」
丁度、自分の隣。大切そうに花びらを入れた瓶を抱き、木漏れ日を見上げる子供の横に同じように座りながら、その幸せそうな微笑みを無心で見つめた。
木漏れ日よりも煌めく瞳。花が咲き乱れていた頃、誰しもが花を綺麗だと言ってはいたが、それらの言葉よりも自分の中に響いた。
無意識に笑みが溢れ落ちる。嬉しくて、そっと枝葉を揺すり音を立てた。
「すてきな音……本当に全部がきれい」
そんなことを言われたのは初めてだった。そもそも花以外を褒められたことは、覚えている限り一度もなかったように思う。
不思議な子供。たとえ今日だけの出会いだとしても、寂しかった自分には十分すぎる程幸せをくれた優しい子。
そっと葉を揺らし、子供の元へ一枚落とす。
「葉っぱ?」
葉を手に取り、まじまじと見つめる子供を笑みを浮かべながら見つめる。
精一杯の加護を込めた葉。気に入ってくれるだろうか。
「なんだか、桜さんがわたしにくれたみたい」
ふふ、と子供が笑う。瓶の中に葉を入れて、立ち上がった。
「ありがとう!大切にするね!」
見えてはいないだろうに、こちらに視線を向けて子供は礼を言う。笑顔で手を振り、駆け出して去っていってしまった。
そっと幹に手を触れる。先ほどまでいた子供の温もりを確かめるように目を閉じる。
ほんの一瞬のできごとだった。しかし何よりも優しく煌めいていた時間に穏やかな笑みが浮かぶ。
また来年。そう呟いて、眠りについた。
しかし、その眠りは次の日までのとても短いものだった。
「今日もきれいね」
にこにこと子供が笑う。それに答えるように葉を揺らす。
あれから毎日のように訪れるようになった子供。最初は戸惑いもしたが、今ではこの時間が当たり前のようになってしまった。
決して賑やかではないが、とても温かな時間。それはいくつもの季節が過ぎ、何度も花を咲かせ散らした後も続いている。
子供はいつしか可憐な少女になり、少女は時と共に美しい女性となった。
腕に抱いた瓶はいつからか一冊の本に変わり、けれどあの日渡した葉をいつも本に挟み、常に側においてくれていた。
「とてもきれい。まるで神様が宿っているみたい」
本を閉じ、差し込む木漏れ日に目を細め彼女は笑う。気恥ずかしさを感じながら、神様ではないけれどここにいるのだと、小さく呟いた。
そしてまたいくつか季節が廻り、彼女はある一人の男性を連れてきた。
「ここが私のお気に入りの場所なの。とても素敵でしょう?」
そう言って、彼女は幹に触れ微笑む。その言葉に、男性は目を細めて幹や枝葉を見て、優しく微笑んだ。
「そうだね。とても立派で美しい木だ」
褒められて、落ち着かなくなる。
ざわざわと枝葉を揺らし、そして彼にもまた加護を込めた葉を一枚落とした。
「おや。まるで桜が葉をくれたみたいだ」
「私も昔、貰ったのよ。とても大切なお守りなの」
微笑む二人の距離が近づく。
慌てて目を逸らしながら、密かに二人の未来を祝福した。
それから彼女と彼が訪れるようになり。
そしてそれは月日と共に彼女たちの子供たちや、またその子供たちも訪れ、ここはとても賑やかになった。
年老いた彼女は、けれどいつでも子供のように目を煌めかせ枝葉を見つめている。辺りを駆け回るひ孫たちのはしゃぐ声を聞きながら、優しく微笑んだ。
「幸せな人生を、ありがとうね」
幹を背に、小さく呟かれた言葉。
こちらこそ。そう返そうとしたが、彼女は穏やかな眠りについてしまっていた。
強く風が吹き抜ける。その風に葉を散らし、彼女の周りに降り積もらせていく。
ざわざわと騒がしい周囲の声を聞きながら、彼女の隣で幹に手を触れ目を閉じた。
幸せな時間をありがとう。
遠ざかる声を聞きながら、彼女へと感謝を告げる。
今年で最後だ。
来年は花を咲かせることも、葉をつけることもないだろう。
ふふ、と笑う声がした。目を開ければ、初めて出会った頃の彼女がいた。
手を差し出される。
その手を取り、落ちた葉が作る道を共に歩いていく。
20260417 『桜散る』
薄暗い広間に座り、目の前に置かれた壺をただ見ていた。
随分と白い壺だ。つるりとした表面は陶器のようで、曇り一つ見られない。
まるで骨壺のよう。小ぶりだが、飾り気のない白一色の形は骨を入れるのにちょうどいい。
手を伸ばし、壺に触れる。滑らかな、それでいてひやりとした肌触り。氷ともまた違うその冷たさは、屍の失った体温にも似ていた。
やはり、骨壺にちょうどいい。壺を撫で、漠然と思う。
途端に、壺の中身が気になった。
何が入っているのか、あるいは空なのか。壺の表面を撫でていた手が無意識に蓋にかかる。
かたり。小さな音を立て、蓋が持ち上がっていく。
蓋の開いた壺。腕一本入るほどの丸い闇を覗き込んだ。
動きが止まる。
目を見開き、恐怖に顔を歪め。しかし呻き声一つ漏らすことはできず。
そんな壺の中身と目を合わせ続ける老人の姿を、男は背後にいる二人から隠すようにしながら、ただ見つめていた。
「――何が目的ですか?」
男の背を見据えながら、燈里《あかり》は問いかけた。
答えはない。反応が得られないことに、燈里は表情を険しくしながら睦月《むつき》を庇う腕に力を込めた。
「夢を介して、何を見せようとしていたのですか?」
語気を強めて問えば、今度は答えの代わりに溜息が男から溢れ落ちる。
「これは、俺じゃない。これが、最後の悪あがきをしようとしただけだ」
生に執着し、欲に溺れた哀れな老人。
男の背に阻まれ見えないその末路を思い、燈里は小さく息を呑んだ。
「何が目的ですか?」
改めて燈里は男に問いかける。
別に、とはぐらかす声音の柔らかさに、睦月を背に庇い直しながら一歩男に近づいた。
男は動かない。
もう一歩、距離を詰めた。
「――っ!」
その途端、視界が薄紅色に染まった。
どこからか吹き込んだ桜の花が、辺りを覆い隠していく。
思わず燈里と睦月は目を閉じた。吹き荒れる桜吹雪に身を竦める。
そして、風が止んだ後。
目を開けた瞬間に視界を染めたのは、咲き乱れる花々の鮮やかな色彩だった。
「わぁ……!」
辺りを見回し、睦月が感嘆の声を上げる。側で咲く菜の花を見て表情を綻ばせた。
「おじさんは、燈里ねぇに謝りに来たの?」
「睦月?」
燈里の隣に立ちながら、睦月は男を見た。戸惑う燈里の手を握り、さらに問いかける。
「繩手《なわて》さんが燈里ねぇの所に来たのは、おじさんが何かしたからだよね?」
男はゆっくりと燈里たちの方へと振り向いた。肩を竦め、どこか気まずげな顔をする。
「まあな。同窓会の知らせが来てたから、それに細工してあんたのことを思い出すように誘導した……悪かったな。巻き込んで」
目を逸らしながらの微かな謝罪の言葉。それに燈里は何かを言いかけ、止めた。
何を言った所で、すでに終わってしまったことだ。それに別の形で繩手のことを知ったとしても、燈里はこうして最後まで手を伸ばしたことだろう。
どんな形であれ、関われたことを燈里は後悔してはいない。何も知らず最悪を後日知ったとしたら、それこそ燈里は気に病んだことだろう。同級生のために何かできることがあったのではと、何も知らずにいた自身を責め無力さを悔やんだのかもしれない。
そう考え、ふと疑問が浮かぶ。目を瞬き、燈里はその疑問を口にした。
「何故、そこまでして繩手くんを助けようとしたのですか?」
今度は男が不思議そうに目を瞬いた。
首を傾げ、さも当然だと言わんばかりに口を開く。
「あの坊主が無理矢理憑き物筋になったのは、まだ七つにも満たなかった頃だったからな。未来とか夢とか、そういったもの全部があれのせいで狭まったのに、憑き物と一緒に封じられるなんざ、あまりに酷だろう?」
「祓い屋らしくないですね」
「よく言われる」
燈里の指摘に、男は苦笑する。
風に散る桜を目で追いかけながら、目を細め呟いた。
「あの頃はまだ、俺も子供だった。失うことが怖くて、大切なものを作ることを拒んでいるような臆病な子供だったんだ。だから余計に、一つでも多くを助けたいって夢を見ていた……そうしないと心が死ぬ気がしたから」
穏やかに微笑みながら、その目はどこか寂しげだ。
燈里は何も言えずに目を伏せた。
失うのが怖い。助けられるならば助けたい。それは家族を失ってから、心のどこかで常に思っていたことだった。
「――昔語りが過ぎたな。忘れてくれ」
そう言って男はゆるく頭を振り、背を向ける。
刹那、男の姿を隠すように花びらが風で舞い上がった。
呼び止める間もない。極彩色に視界を覆われ、燈里は咄嗟に睦月と繋いだ手を引き寄せた。
「燈里ねぇ」
睦月の呼ぶ声を聞きながら、目を閉じる。
そして、次に目を開けた時。
そこは極彩色の花畑ではなく、見慣れた自室のベッドの上だった。
重苦しい灰色の雲を見遣り、燈里は物憂げに息を吐いた。
外では雨が降り始めたようだ。細い絹糸のような滴が窓を濡らしていく。
「宮代《みやしろ》」
不意に声をかけられ、燈里はのろのろと視線を移した。
「南方《みなかた》編集長」
普段と変わらず、缶コーヒーを片手に立つ夏煉《かれん》の姿。静かに目を見つめ、そして不意に視線を外すと、プルトップに手をかけた。
小さな音と共に、コーヒーの香りが鼻腔を擽る。コーヒーを飲みながら席に着く夏煉を見て、燈里はほんの少し現実に戻ってきたような気がした。
限りなく現実に近い感覚の夢を見たからだろうか。目覚めた後も、どこか夢を引き摺っていたことに今更ながらに気づく。仕事をしていたはずだというのに、その記憶が酷く曖昧だった。
何度か目を瞬き、思わず苦笑する。改めて夏煉を見つめ、燈里はゆっくりと近づいた。
「一つ、聞いてもいいでしょうか」
燈里の問いかけに、夏煉は視線だけを向ける。いつもと変わらない反応。
それに何故か安堵して、燈里は胸の中で渦を巻く思いを口にした。
「助けられるならば助けたいと思うのは、心を守るために見る夢でしかないのでしょうか」
夢の中で男が語ったこと。その言葉が目が覚めた後も尾を引いている。
救いたいと手を伸ばしたこと。相手にかけた言葉や行動は、ただの自己満足でしかなかったのか。
不安に表情を曇らせる燈里を、夏煉は一瞥してコーヒーを煽った。
「心の中だけで思うのは、夢を見ることと変わらない」
表情一つ変えず、夏煉は淡々と告げる。
唇を噛み締める燈里に視線すら向けず、だが、と変わらぬ声音で続けた。
「宮代は思うだけでなく、行動に移した。その瞬間に、夢は夢ではなくなる」
「っ……!」
息を呑む燈里へと視線を向ける。
立ち止まることがないように。手を伸ばして何を掴めたのかを、思い出させるように。
柔らかく笑みを浮かべ、夏煉は静かに事実だけを口にした。
「どんな結末であれ、現実に助けられ、救われる者があった。それは紛れもない現実であり、意味があることだ」
そうだろう、と問えば、燈里は泣くように微笑み、頷いた。
窓の外。雨に濡れながら、一匹のイタチはそんな燈里と夏煉のやりとりを見つめていた。
目が合わぬほど、遠い距離。雨が互いの姿を滲ませる。
しかし夏煉は、真っすぐにイタチの目を見た。警戒ではなく目的を見定めるような、静かで強い視線。イタチも目を逸らすことなく夏煉の目を見据える。
だがそれも一瞬。
どちらからともなく目を逸らし、イタチは音もなく雨の向こうに消えていく。
行き交う人の誰もが、イタチを気にかけることはない。
ただ地面に残された、数枚の桜の花が。
金の毛並みを持つイタチが確かにそこにいたことを示していた。
20260416 『夢見る心』
「式貴《しき》」
躊躇いがちに差し出されたカードを見て、式貴は首を傾げた。
「郵便受けに入っていました。よくない気配は感じません」
「そっか。ありがとう」
礼を言いながら、カードを受け取る。
飾り気のない白いカード。そこに書かれているのはどこかの住所と病院の名前以外には何も書かれてはいない。
覚えのないそれに、無意識に式貴は眉を寄せた。
この病院に行けという指示だろうか。ここに行くことで一体何があるというのか。そもそも差出人不明のカードの指示に従うのは、果たして危険はないだろうか。
「麗《うらら》」
呼びかければ麗は戸惑うように瞳を揺らし、ややあっておずおずと口を開いた。
「危険な気配は感じません。だから、きっと……行った方がいい、と思います」
「そっか……」
カードに視線を落とし、式貴は考える。
そして麗へと視線を向け、微笑みながら手を差し出した。
「麗。一緒に行ってくれる?」
「――はい」
そっと手を重ね、繋ぐ。
小さく頷いて、麗はふわりと微笑みを浮かべた。
その病院は人里から離れた山間に、まるで身を潜めるようにして建っていた。
その小さな佇まいは、病院というよりも療養所を思わせる。病的なまでに白い外観に式貴は気後れしながらも、麗の手を握りゆっくりと足を踏み入れた。
「あの、すみません……」
「繩手《なわて》式貴様ですね。お待ちしておりました」
看護師らしき女性が式貴の姿を認め、頭を下げる。
こちらへ、と何かを聞くよりも先に促されて、式貴は戸惑いながらも看護師に案内されるままに病院の奥へと歩き出した。
「ここはどこなのでしょうか?」
「ここは人ならざるモノに関わり、傷ついた方々を治療する場でございます」
「人ならざるモノ……」
式貴は寄り添い歩く麗を横目で見た。
麗もまた式貴を見つめ、緩く頭を振り笑う。
「私は式貴と一緒がいい、です。このままで十分」
式貴と一緒にいられぬのならば、人に戻る意味はない。
そう願われて、式貴は答える代わりに繋いだ手に力を込めた。
不意に、先を行く看護師の足が止まった。
病室だろうか。番号も、名札もない部屋の扉には窓はなく、中を伺い知ることはできない。
「ここは……?」
看護師は何も答えない。ただ扉の脇に立ち、式貴が開けるのを待っている。
ごくりと、式貴は唾を飲み込んだ。一度麗と目を合わせてから、ゆっくりと扉に手をかける。
扉の向こう側にいるのは誰なのか。込み上げる不安や恐怖を誤魔化しながら、静かに開いていく。
「な、何で……?」
扉を開け中にいる人々を見て、式貴は目を見開き声を詰まらせた。
じわりと視界が滲む。呼吸が乱れ、上手く息が吸えなくなってくる。
「父さん……母さん……っ」
ベッドに横たわりながらこちらを見つめる両親の元へ、式貴は一歩足を踏み出した。ふらつく足でまた一歩、前に進み、転がるような勢いで部屋に入り込む。
そっと麗は手を離した。両親に抱き着く式貴を、目を細めて見つめた。
「なんで……どうして……?」
式貴が混乱するのも無理はない。今までずっと両親は亡くなったものだと教えられてきたからだ。
泣きながらどうしてと繰り返す式貴の背を、痩せた母の手が撫でる。看護師に支えられながら起き上がった父が、それを穏やかな目をして見守っていた。
あれから事情を説明された式貴は、両親とたくさん話をした。
家のこと。仕事のこと。一人で過ごしてきた日々のあれこれを。
「あの、さ……麗のことなんだけど」
途端に険しい顔をする母に、式貴は困ったように笑う。
無理もない。両親は堕ちてしまった麗から式貴の身を守るために、自身の魂を用いて封を行ったのだから。
式貴が繩手の屋敷から解放されるまでの時間稼ぎとして。
解放された瞬間に封は完全に解かれ、両親はこうして再び目覚めることができたのだ。
「式貴」
「ごめん、母さん。でも俺は麗が好きなんだ」
首を振り、式貴は母の目を見つめはっきりと口にする。
繩手の屋敷からだけでなく、憑き物の麗からの解放を望んでいた母の想いを否定した。
「最初に封が解けかけた理由は、俺が付き合っていた彼女に振られたからなんだ」
ほんの数か月前のことを思い出す。全てを忘れていたために恐ろしかっただけの日々が、今では愛おしくてたまらないと、式貴は微笑む。
「俺の悲しみに気づいて、守ろうとして、麗は無理矢理封をこじ開けた。そんな優しい彼女のことが、俺は好きなんだ」
それに、と、式貴は少し離れた場所でこちらを見守る麗を見つめながら続ける。原因となった当時付き合っていた女性との別れの理由を思い、恥ずかしさに少しだけ頬を染めた。
「そもそも振られた原因は、彼女に麗を見ていたからなんだ」
何気ない仕草や、言葉。行動に至るまでをどこかで麗と重ねていた。全てを思い出した今、随分と酷いことをしていたと思う。
けれどもそれだけ式貴の中で麗の存在は大きかった。大切で失えないものだった。
そっと胸に手を当てる。表情を改め、式貴は両親へと向き直った。
「記憶にはなくても、俺の中から麗が消えることはなかった……だから、ごめん」
頭を下げる。両親の式貴への想いを無駄にしてしまうと理解しながらも、麗と離れることだけではできないと告げた。
「――大丈夫だよ」
頭を下げ続ける式貴に、父は目を細め微笑んだ。
「僕も彼女も分かっている。ずっと式貴の中で見てきたからね。だからもう、謝らなくていいんだよ」
優しい声に、式貴は恐る恐る頭を上げた。
微笑む父と、目を逸らす母。対照的ではあるものの、どちらの表情にも険しさはない。
「そろそろ行きなさい。僕たちのことは心配しなくていい」
「けど……」
式貴の目が戸惑いに揺れる。このまま二度と会えなくなるのではないかと、そんな不安が彼を動けなくさせていた。
「数年間寝たきりだったからね。少なくとも自分で歩けるようになるまではここでお世話になるよ。だからまた会いに来てくれたら嬉しい」
「父さん……分かった。また必ず来るよ」
父の言葉に式貴も表情を和らげ、頭を下げてから麗の元へと歩み寄る。もう一度頭を下げてから、二人は寄り添いながら部屋を出て行った。
「分かっていたことだろう?」
二人がいなくなってから、父は母へ声をかける。
母は父からも目を逸らしたまま。その表情はどこか子供が子供が拗ねている様を思い起こさせた。
「私の想いは届かなかったのね」
「子供とは親の思った通りには育たないものさ。君が家を出たように、式貴も自分の意志があるんだから」
そう言われてしまえば、否定はできないのだろう。母は一瞬だけ表情を曇らせ、目を閉じた。
「時間稼ぎなんて、酷い嘘ね」
「嘘ではないさ。式貴が自分の気持ちに向き合うための時間稼ぎになっただろう?」
最後の不満も笑って否定され、母は父に背を向け丸くなる。
解放ではなく、向き合うための時間稼ぎ。理解はしても、まだ納得はできてはいない。
式貴はまた、見舞いに来てくれるだろう。そしてその隣には麗がいることだろう。
親が望む最良が、子供最良ではない。式貴が自身で選び取ったその結果をとても喜ばしいと思いながら、けれどもほんの少しだけ浮かぶ寂しさに、溜息が溢れ落ちる。
まだ当分は、素直に受け入れられそうになかった。
20260415 『届かぬ想い』
「睦月《むつき》。ここに座れ」
どこか険しい顔をした冬玄《かずとら》に呼ばれ、睦月は戸惑いながらも指示された椅子に座る。
何故呼ばれたのか。睦月には心当たりがなかった。
正確には、呼ばれ叱られるほどのことはなかったと思っている。
しかし、と。睦月は落ち着きなく視線を彷徨わせながら不安に思う。
もしも、これ以上一緒には暮らせないと言われたとしたら。
睦月は元々ここではない、雪深い村の出身だ。燈里《あかり》たちの好意でこの家に世話になっているだけでしかない。
冬玄の隣に座る燈里を見る。いつもの微笑みが浮かんでいないことがさらに不安を煽り、睦月は膝に置かれた手を強く握りしめた。
「睦月」
普段は呼ばない名を冬玄が呼ぶ。
せめて目は逸らさないようにと、睦月は真っ直ぐに冬玄の目を見返した。
「ヒガタのことを、何故黙っていた?」
ぱちりと、睦月の目が瞬く。
首を傾げ冬玄を見つめ、そして困ったように燈里を見た。
「ヒガタのことは、話したよ……?」
ヒガタとは、睦月の生まれ育った村に伝わる来訪神のことだ。
泣かない子供を連れていく。その話の詳細を聞きに燈里たちは睦月の村を訪れ、最後には来訪神の概念と神仏習合した地蔵菩薩を解放した。
その時に、睦月は自身が知る限りのヒガタの知識を伝えていた。黙っていることはないはずであった。
「睦月」
燈里もまた困ったように、あるいは戸惑った様子で睦月の目を見返す。
暫しの沈黙。それを破ったのは冬玄の重苦しい溜息だった。
「最初から近いとは思っていた。血筋によるものと、お前自身がヒガタに引かれていたことが原因だろうと然程気にも留めていなかったが、前回、お前を守るためにヒガタは現れた……地蔵菩薩から来訪神の概念を切り離したにも関わらずに、だ」
前回。それは鬼となった神から身を隠すため逃げ込んだ蔵にヒガタが現れたことを指しているのだろう。
睦月の眉が寄る。確かに、ヒガタは来訪神としての在り方からは解放された。しかしヒガタはヒガタでしかないのだと、睦月は思っている。
「そして今回。お前は俺たちが屋敷に入った後で、同じように屋敷に入り込んできた……まるで来訪神のように、入ってくることに誰にも違和感を覚えさせずに」
全てを見透かすかのような冬玄の静かな視線に、睦月は落ち着かなくなる。
睦月には冬玄が何を言いたいのかが分からなかった。ただ、先日の繩手《なわて》の祖父の屋敷に行った際、待てと指示されたことを守らなかったことが原因なのだろうかと落ち込んだ。
どうしても待てなかったのだ。苦しみ、泣く子供の声が聞こえた気がして、足が屋敷へと向かっていた。
冬玄たちのいた部屋で見た無数の目。どれもが無理矢理繋ぎ留められ、苦しんでいた。
だからヒガタは子供たちを連れて行ったのだが、それがいけなかったのだろうか。
「無駄だよ。自覚がないからね」
呆れた声と共に、楓《かえで》が部屋へと入ってくる。
その表情は、呆れよりも苦笑に近い。睦月の横に立つと、肩を竦めて冬玄を見た。
「それほどに馴染んでしまっているともいえる。この子にとってヒガタがいるのが当たり前なんだ。ヒガタと自分自身の境界も曖昧なんじゃないかな」
「境界?わたしはわたしで、ヒガタはヒガタだよ?」
そう言って首を振るものの、睦月は自信なく胸に手を当てた。
楓が立つのとは逆の方へ視線を向ける。いつの間にか側で佇んでいたヒガタを見つめ、睦月は自身とヒガタの間にあるだろう見えない境界線を探して目を細めた。
「――つまり、私と楓みたいなもの……かな?」
「いや多分、もっと根が深い気がするよ。鍵のかかった扉は開き、屋敷にいた人間の誰も睦月を気にかけることがない……ほぼ同化しているといってもいいんじゃないかな」
その時のことを思い出し、楓の目が遠くなる。
最初は大人しく待っていたはずの睦月が急に屋敷へと近寄り、閉ざされたはずの門扉を開けたのだ。それに驚く間もなく玄関に向かい、同じように玄関扉を開けて室内に入っていく睦月を慌てて追いかけたのだが、その後も家人の誰にも見咎められないことに、楓は次第に顔が引きつっていくのを感じていた。
「同化?わたしと、ヒガタが同じ……?」
楓の言葉が聞こえたのか、睦月はますます困惑した表情をする。
燈里や冬玄、楓を見つめ、ふと何かに気づいたのか、小さく声を上げてそういえば、と呟いた。
「一番最初に見たヒガタの夢で、ヒガタの割れた面の一部を貰ったけど、もしかしてそれかな……?」
「もしかしなくてもそれが原因だろうけど、何で渡されることになったんだか」
「えっとね……」
思い出そうと考え込む睦月に、ヒガタがそっと手を差し伸べる。目を瞬きながらその手を取り、睦月はあぁと笑みを浮かべた。
「わたしとね、咲子さんの誕生日が一日違いだったみたい。それとヒガタを作ったご先祖様のこととか、泣けなくなったこととか、色々合わさって繋がっちゃったみたい」
咲子というのは、一番初めにヒガタに連れて行かれた子供のことだ。
笑顔の睦月とは対照的に、燈里たちは何とも言えない表情をする。互いに目を合わせ、これ以上の話は意味がないと結論付けた。
「なんでこんなに危機感がないんだ。こいつは」
「仕方ないんじゃないかな?睦月はそれが普通だったみたいだし。私も、楓や冬玄と一緒にいても、そんなに危険だって感じないし」
「燈里は自覚しているんだから、もっと危機感を持ってほしいんだけどな。まあ、何かある前に僕たちが守るけどさ」
「確かに守るがな。危機感は持ってくれ」
疲れたように息を吐いて、冬玄は立ち上がり台所へと向かう。冷蔵庫から何かを取り出し居間に戻ると、それを睦月の前へと置いた。
「え?これ……?」
白の生クリームと乗せられた苺の赤。
店で売られているものに勝るとも劣らない一人用の可愛らしいショートケーキを前に、睦月は何度もケーキと冬玄を交互に見た。
「言いたいことはいくつかあるが、今回頑張っていたからな。ご褒美だ」
睦月の驚きように苦笑しつつ、冬玄は言う。
その優しい声音に、睦月は驚きから次第にぱっと輝くような笑顔を浮かべた。
「ありがとう!冬玄にぃ!」
いただきます、と丁寧に手を合わせ、フォークを手に取る。
フォークを入れた断面ですら美しいケーキにほぅと吐息を溢しながら、味わうようにゆっくりとケーキを口にする。
「おいしい!さすが神様!」
「おだてても、これ以上何もでないぞ」
そう言いながらも、冬玄は再び台所へと足を向ける。
「じゃあ次もたくさん頑張るから、今度はチョコレートケーキが食べたい!神様、どうかお願いします!」
「ちゃっかりしてんな。それから、無茶はするなよ」
呟いて、冬玄は冷蔵庫から今度は牛乳を取り出し、鍋に入れると火にかけた。チョコレートを刻みつつ、変わっていく自分自身に少しだけ呆れる。
「まあ、燈里のためにも賑やかなのは悪くはないか」
右手の薬指に嵌る指輪を撫で、一人笑う。
聞こえてくる楽しげな会話を聞きながら、チョコレートを鍋に入れた。
途端に広がる、甘やかな香り。
その濃厚さに胸焼けがしそうだと、自身が甘い自覚がないまま冬玄はぼやいた。
20260414 『神様へ』