sairo

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2/22/2026, 9:52:19 AM

柔らかな日差しを感じ、目を開けた。
見上げれば、青空がどこまでも広がっている。高く昇った陽が、遠くまで明るく照らしていた。
とても静かだ。生き物の気配はここにはない。
苦笑して、戯れに枝を揺らした。葉がすべて落ち枯れた枝は軋んだ音を立てるばかりで、寂しさだけが募っていく。
慰めるような柔らかな風が幹を撫でるが、積み重なる思いは溶けそうにない。

「寂しいな」

誰にでもなく呟いた。
ここには何もない。何もかもが流され燃えて、無くなってしまった。
自分もそろそろ消えるのだろう。枯れた枝にはもう、新しい芽が出ることはない。
結局待ち人は来なかった。約束をしてはいたものの、すでに何十年も前のこと。元より帰れぬ覚悟で出征したのを知っている。残される自分を憐れんだ言葉だったのだろう。

「酷い男だ」

思わず恨み言めいた言葉が口をついて出る。
彼の前にも自分に優しくしてくれた人間がいた。色々な話を聞かせてくれ、笛を教えてくれた人間は、ある日を境に姿を消し二度と戻ってくることはなかった。
悲しくはあったが、すぐに諦めもついた。木と違い、人間の生は短い。その貴重な時間を自分に割いてくれたのだと思えば、逆に感謝の念すら抱いた。

「本当に、酷い男だった」

何も言わず消えた人間と待ち人を比べ、酷いと繰り返す。
彼も何も言わずに去ってくれればよかったのだ。そうすればこうしていつまでも約束にしがみつき、終わりの刻《とき》を見誤ることはなかったというのに。
そうは思うものの、不思議と彼と出会ったことを後悔していない。難儀なものだと思いながら、笑みを浮かべ目を閉じる。
何も聞こえない。ただ優しい風が幹や枝を撫でていく。日差しが遠ざかり、深く暗い場所へと落ちていく感覚に身を委ねる。

誰かの声が聞こえた気がして、最後まで約束を忘れられない自分に呆れながら笑った。





「また、こんな所で寝ていたのか」

揺り起こされて、目が覚めた。

「少しは暖かくなってきたとはいえ風は冷たいし、陽が暮れれば一気に寒さが強くなるんだぞ。昼寝をしたければ家の中にしろ」

呆れた顔をして彼は溜息を吐く。
気まずさに視線を逸らし、体を起こす。大丈夫だと伝えたいが、それを言ってしまえばさらに彼の機嫌が悪くなるのだろう。何度も繰り返したやり取りに、出かけた溜息を飲み込んだ。

「いい加減、人なんだって認識してくれ。百日紅だった頃とは違って、風邪を引いただけで大事に至ることもあるんだぞ」
「分かっている」
「分かっていないから、こうして何度も言っているんだ。ただでさえお前に気づかれないまま何十年もいたんだ。これ以上俺から離れようとしないでくれ」

そう言われてしまえば何も言えなくなってしまう。
彼はずっと側にいた。自分はひとりではなく彼と寄り添っていたというのに、積もる悲しみや寂しさに何も見えなくなってしまっていた。

「熱はないな。だが体が冷えている」

頬を包まれ、額を合わせて熱を測られる。気恥ずかしいが、同時に触れる温もりに安心する。
彼がいる。悲しみの代わりに積もる愛おしさに笑みが浮かぶ。手を引かれて立ち上がり、彼に肩を抱かれながら歩いていく。

「――頼みがある」

ふと思いついて彼を見た。立ち止まりこちらを見る彼に微笑んで、先程まで眠っていた場所を指さした。

「いつか、新しい木を植えたい」

ここはもう、静かな場所ではない。戦火により燃やされ、天災により流されてすべてをなくしても草木は芽吹き、生き物たちが営みを始めている。
去っていった人々も道を作り、家を建て、新しい街を作っていた。
無からの始まり。自分たちの新しい始まりに、新たな木を植えたかった。

「いつか、でいいのか?」

意地悪く彼が笑う。すべて分かっているのだと、風のように柔らかく髪を撫でる。

「酷い男だ」

視線を逸らし、呟いた。けれども頬が赤いことに、きっと彼は気づいているのだろう。

「お前よりは酷くない。何十年どんなに呼びかけても触れても気づかれず、勝手に約束を反故にされたと思い込まれて、愚痴を吐く姿を見続けているより可愛いものだろう?」
「そういう所が酷いと言っている」

口では勝てぬと、肩を叩く。声を上げて笑われ、赤い顔を隠すように叩いた肩に額を擦り付けた。
宥めるように髪に口付けられた。そのまま耳に唇を近づけ、囁く。

「俺たちが大人になって、結婚したら百日紅を植えよう。だからそれまで健やかにいてくれよ」

優しい声に、ただ頷く。
恥ずかしくとも幸せな約束に、強くしがみつきながら想いが滴となって溢れ落ちるのを感じていた。





海辺の街の外れに、一本の百日紅が植えられている。
古くからそこに根を張る百日紅は海水を浴び枯れて朽ちてしまったが、とある夫婦が新しく木を植えたのだ。
かつては誰もいないはずの夜中に笛の音が聞こえると恐れらた百日紅は、今では子供たちの集まる場として穏やかにそこに立っている。

笛の音はまだ聞こえる。
それは木を植えた夫婦が奏で、それを継いだ子供たちの旋律。
長い時の中で何度も失われ、それでも何度も零から始まるこの場所を、祝福するかのような響き。

子供たちが歌う。笛の音が空に解けていく。
終わり、そして始まる繰り返しを、百日紅は見届けていく。



20260221 『0からの』

2/20/2026, 5:07:55 PM

枯れた木の枝に残った枯葉が風になびいていた。
たった一枚。どんなに強い風が吹こうとも飛ばされることはない。枝にしがみつき、離れることを拒んでいるようだった。
その木の下で、一人の少女が佇んでいた。見覚えのある制服は自分の母校のものだ。こちらに背を向けているため、少女の顔は見えない。けれどもその後ろ姿を、自分はよく知っているような気がした。

「何を見ているの?」

問いかける言葉に、細い指が枯葉を指し示す。
風に揺らされながらも飛ばない枯葉。学生時代に流行ったお呪いを思い出し、理解した。
彼女は枯葉が落ちるのを待っているのだろう。

――一本の木を決めて、その木の最後の葉っぱが地面に落ちる前に取ることができたなら、願い事が叶う。

友人たちは恋の願い事を託していた。自分も木に願い事を託して、葉が落ちる瞬間を待ち望んでいた。
友人たちの顔が思い浮かぶ。葉が落ちる瞬間に立ち会えず、あるいは風に葉が遠くへと飛ばされ願いが叶わなかった悲しい顔。運よく葉を手に取ることができ、それをお守りに好きな人へ告白に向かう真剣な顔。そして恋が叶い幸せそうに微笑む顔。
少女はどんな願いを叶えるために葉が落ちるのを待っているのだろうか。
恋の願いか、学業の願いか。それとも全く別の願いなのか。
少女から目を逸らし、無言で両手を見つめる。
あの日、手に入れたはずの枯葉は、どこに行ったのだろう。捨てたのか、押入れの奥底にでもしまい込んだのか。
もう、覚えてはいない。

「――っ」

不意に、一際強く風が吹き抜けた。枝にしがみつく枯葉はとうとう耐え切れずに、風に乗って空へと放り出されてしまった。
このままでは枯葉は遠くへと飛ばされていってしまうことだろう。願いが叶わないのだろう少女の背を見ながら、そっと息を吐いた。
だが予想とは違い、風はすぐに止まる。高く舞い上がった枯葉はゆらゆらと揺れ動きながら少女の手元へと落ちていく。
かさり。微かな音を立てて、少女の願いを叶えるとでもいうかのように、枯葉が手のひらへと落ちた。

「――叶った」

声がした。枯葉を手に少女がゆっくりとこちらを振り向く。

「お姉ちゃんはかえってきた」

彼女の願いは、いつか自分が願ったもの。
振り返りこちらを見つめる無感情なその顔は、その姿は。

自分のものだった。



「――っ!」

聲にならない悲鳴を上げ、飛び起きた。
心臓が痛いほど激しく動いている。汗を拭いながら、深く息を吐いた。

嫌な夢を見た。
学生時代に流行ったお呪い。願ったこと、その結果を思い出してしまった。

「お姉ちゃん」

ある日突然いなくなってしまった姉。大人たちがどれだけ探しても、彼女は見つからなかった。
唯一見つかったのは、姉が来ていた上着だけ。近くの淵に浮かんでいたらしい。
そこは大人も滅多に立ち入らない場所だった。恐ろしい化け物がいると言われ、姉は連れて行かれてしまったのだと、それきり姉を探すことはなくなってしまった。
あの時子供だった自分はそれを認められず、お呪いをした。けれど枯葉は風に乗って遠くに飛ばされ、その時は叶わなかったのだ。
もう一度お呪いをしたのは、数年前のこと。偶然目についた木に一枚だけ枯葉が残っているのを見て、願をかけた。
姉が見つかりますように。帰ってきてくれますようにと。
枯葉は目の前に落ちてきた。それを手に家に帰り、数日後、実家から連絡が来た。
願いは叶い、姉は見つかった。いなくなった姿のまま、家に帰ってきた。

「――起きないと」

頭を振り、意識を切り替える。
朝の準備をしなければ。朝食を作り、夫と娘を起こさなければいけない。
のろのろとベッドから抜け出し、部屋を出る。二人を送り出した後の予定を思い浮かべながら、眉を寄せ息を吐いた。
夢を見たからか気が重い。実家の両親の小さな背が浮かんで、目を伏せる。

今日は姉の、十三回忌の法要だった。





重苦しい気持ちを吐き出すように息を吐く。
娘の迎えを理由に法要が終わるとほぼ同時に家を出てきてしまったことに少しだけ罪悪感が芽生えるものの、どうしても長居はできなかった。
時が止まったままの姉の写真を見ていることが苦しい。姉を置いて年を取っていく自分を思い知り、うまく息が吸えなくなってくる。
きっと家族の中で、自分だけが正しく姉のことを受け入れられていない。日常のどこかに姉を探すことを止められなかった。

「お母さん」

不意に、今まで黙って車に乗っていた娘が声を上げた。

「公園に行きたい。だめ?」

普段は自分の意見を言わない娘の願い事に、内心で驚く。
時計を見れば、まだ五時にもなっていない。夕食の準備にはまだ早い時間だった。

「少しだけね。近くの公園でいいの?」
「うん。そこでいい」

頷く娘に微笑んで、行き先を変更する。
向かう先の公園は、あまり大きくないからか遊んでいる子供の姿は少ない。娘はそこで誰かと遊ぶのではなく、ベンチに座ってぼんやりとしていることが好きだった。
まるで姉のようだ。娘には申し訳ないと思いながらも、時々姉と重ねてしまうことがある。
例えば好きな食べ物であるとか、ふとした瞬間の何気ない仕草であるとか。姉の姿を探しては、それに苦しくなるというのに止められなかった。


公園に着き、しかし娘はいつものベンチに座るのではなく、奥の方へと向かっていった。
そこに立つ一本の木の前で止まる。見上げれば一枚だけ枯葉が残っているのが見えた。
途端に今朝見た夢を思い出し、息を呑む。木を見上げる娘の姿が自分の姿に重なって、震える体を誤魔化すように強く手を握りしめた。

「ねぇ――」

耐えきれず止めようと声を上げかけた瞬間、強い風が吹き抜ける。
風は枝に残る枯葉を揺らし、空高く舞い上げた。
夢の中の、記憶の中の光景が重なる。枯葉は高く上がるだけで遠くに流されていく様子はなく、風が収まった後ゆらゆらと揺れながら降りてくる。
娘は手を差し出し、その枯葉を受け止めた。しばらく枯葉を見つめ、ゆっくりとこちらを振り向く。

「お母さん」

近づいて、そっと手を取る。動けない自分の手に枯葉を乗せ、娘はふわりと微笑んだ。

「お母さんが笑ってくれますように」

息を呑む。

「お姉ちゃん」
「わたしはずっと側にいるから、寂しくないよ」

思わず握ってしまった手の中で、くしゃりと枯葉が音を立てる。手を開けば砕けた枯葉が、風に乗って遠くへと流されていく。
それを見ながら、二度目のお呪いのことを思い出した。
妊娠に気づいたのは、お呪いをした次の日のことだった。宿った命に、冗談交じりで姉が帰ってきたのかもと笑ったことを覚えている。
ただの偶然。そう思いながらも、いつの間にか感じていた重苦しさはなくなっていた。

「帰ろうか、お母さん」
「――うん。帰ろう」

泣きそうになるのを堪えて笑う。手を繋いで、ゆっくりと歩き出す。
伝わる温もりが、ただ愛おしい。
手に残る枯葉の欠片に、どうかこの幸せが続くようにと密かに願い、風に乗せて空へと飛ばした。



20260219 『枯葉』







膝を抱えて蹲る彼と背中を合わせて座る。
伝わるのは、深い悲しみと痛み。あの時こうしていればと、繰り返す後悔にそっと俯いた。

「可哀そうだと思われたくない」
「可哀そうだなんて思ってないよ」
「同情なんかいらない」
「同情じゃないよ。こうしていたいだけ」

ぽつり、ぽつりと呟かれる言葉に、静かに答えを返す。
彼は顔を上げない。心はずっと悲しみの海に沈み込んで、まだ浮かび上がってこられない。

「――寂しいよ」

微かに溢れ落ちた言葉。彼の本心に、胸が苦しくなる。

「そうだね……」

側にいるよ、とは言えなかった。言ったとして、自分では代わりにすらならないのだから意味がない。
自分にできるのは、こうして心に触れることだけ。彼から離れてしまった唯一のように、手を引いて外へと駆け出していくことはできない。
遠い昔に手を振り払われてから、彼を見れなくなってしまった。
きゅっと唇を噛み締め、ただ彼の温もりに寄り添う。伝わる痛みがすべて自分に移ってしまえばいいのにと密かに願いながら、彼が再び顔を上げるのを待っている。

「ねぇ……」

か細い声が呼ぶ。身じろぐ気配に、静かに体を離した。
彼はまだ悲しみに沈んだまま。けれどこれ以上ここにいるつもりはないのだろう。
行かないで、と溢れ出しそうになる思いを必死に飲み込む。無理矢理に唇の端を持ち上げ、口を開く。

「行ってらっしゃい」

彼との別れの合図。声が震えないように、大げさに明るく振舞った。
けれど、いつまで経っても彼が動く音がしない。いつもならばすぐにでもここを離れていくというのに、違う行動を取る彼に不安を覚えた。
彼は今、何を思っているのだろうか。知りたくても、彼に触れていない今は何一つ伝わってこない。
自分から離れた方がいいだろうか。そう思った瞬間、手を掴まれた。

「ねぇ」

ぐい、と引かれ、体が傾ぐ。そのまま彼へと倒れ込み、途端に伝わる思いに息を呑んだ。
深い悲しみ。そして怒り。彼自身に向く強い感情に、訳が分からず動けない。
手が離されて、代わりに頬に温もりが触れる。久しぶりに感じる彼の手の感触に、けれど嬉しさよりも困惑してしまう。
今日の彼はやはり変だ。それ程悲しみが深いのだろうか。

「なんで何も言わないの。恨んで拒絶すればいいのに、どうしていつも受け入れるの」

感情を抑えた静かな声に、その言葉に笑みを形作っていた口元が歪んだ。
何か言わなければと思うのに、何一つ言葉が出てこない。
声が近い。今彼と向き合っているのだと理解して、益々何も言えなくなってしまう。

「優しくしないで」

彼は言う。
優しくなんてしていないと言葉を返そうとして、唇に触れた彼の指に止められた。

「優しくされると勘違いしそうになる。あの日俺が手を離して置いて行ったのが悪いのに、こうして目を合わせても俺を見てくれないことを責め立てたくなる。今すぐ逃げ出して、何もかもを忘れたくなる」

段々と声が掠れていく。泣くのを耐えるかのように唇を噛み締める音がして、だから、と震えた声が告げる。

「寄り添おうとしないで。同情なんてほしくない。ただ本心を聞かせて」

彼の真っすぐな視線を感じる。切実な声の響きに、手が服の裾を握り締める。
本当に言ってもいいのだろうか。彼を困らせるだけではないのかと、不安が口を重くする。
彼は何も言わない。ただ自分の言葉を待っている。その気配に訳もなく泣きたくなりながら、ゆっくりと口を開いた。

「――行かないで」

ひゅっと、息を呑む音がした。

「話を聞くことしかできないけど、悲しい気持ちに触れることしかできないけど、寄り添っていたい……側にいてほしい」

彼が激しく動揺しているのが伝わる。やはり困らせてしまったのだろう。
泣くのを誤魔化すように笑ってみせる。ごめんと口に出そうとして、しかしそれを遮るように強く抱きしめられた。

「いかないよ。ここにいる……離れたくない。手を離して、今度こそいなくなってしまうんじゃないかと思うと、とても怖い」

ごめんと彼は繰り返し謝る。
痛いほど強くしがみつく彼の腕が震えていることに気づいて、何も言葉が出てこない。
そっと腕を伸ばす。言葉の代わりに彼の背に腕を回し、答えるように抱き着いた。
彼の悲しみが流れてくる。悲しみが幼い頃の自分たちの姿を浮かばせる。
遊び疲れて動けなくなった自分の手を離して、彼は家へと走っていく。乱暴に開けられた扉。出迎えた母の手を掴み引いて、必死に駆け出した。
離れていた時間は決して長くはない。けれど彼が戻った時には遅かった。呆然と立ち尽くす小さな背。彼の視線の先に黒く蠢く影が見えた瞬間、全てが歪んで真っ黒に塗りつぶされていく。
黒が別の形を作る。明かりのない部屋で眠り続ける自分。意識だけが部屋の隅で、彼と抱き合っていた。

「どこにいても、誰といても、頭から離れない。空っぽの目。機械だらけの暗い部屋……あの日から全部変わったのに、変わらないお前が悲しかった」
「ごめんね」
「そうやってすぐ謝ることが嫌だ。あれから我儘を言わなくなったことも、無理矢理笑う所も……こうして触れていると伝わる感情に、温かなものしかないのも全部嫌だ」

流れてくる悲しみの中に温かなものが混じってくる。包まれる温もりと同じ温度。

「俺の気持ち、ちゃんと伝わってる?」
「うん」
「悲しみに寄り添わないで。同じ気持ちでいるってこと、しっかりと感じていて」

伝わる優しさに、同じ気持ちを返そうと強くしがみつく。
悲しみはまだ感じる。後悔は消えてなくなることはない。それでも彼が望むから、ただ愛しい気持ちを感じ、返していく。

「大好き」
「俺も、大好きだよ」

ふふ、とお互いに笑い合う。温もりの心地よさに、意識が微睡み始める。

意識が途切れ、彼と抱き合う自分が霞んでいく中。
あの日の、澄み切った青空が見えた気がした。



20260220 『同情』

2/19/2026, 3:35:56 PM

さようなら、と彼女は告げて去っていく。
昨日とはまったく違った雰囲気を纏った彼女。周りに馴染めず一人心細げに様子を伺っていたはずの彼女は、今日になって急に周囲を気にすることがなくなった。
他の皆のように個性を殺して、息をひそめているわけではない。彼女は変わらず周囲から浮いて、何かと目を引く存在だった。



「あ……」

教室で一人、本を読んでいる彼女を見て、声をかけるべきかを悩む。

――一人でいると、神様のお気に入りになってしまう。そうしたら神隠しにあって二度と戻って来られない。

学校で囁かれる噂話。先輩から後輩へと受け継がれてきた話を、生徒だけでなく教師も事あるごとに口にする。

――一人外れた行動を取っていれば、お気に入りになってしまう。
――教師の話をよく聞いていないと、神隠しにあってしまう。

繰り返される噂話を、生徒は皆信じて目立たないように生きている。けれど神様が怖いからではない。神様を理由にする大人たちが怖いのだ。
皆口に出さないだけで、本当を知っている。
お気に入りとは、目を付けられること。神様ではなく大人に選ばれた生徒が誰も近寄らない神社だった場所に連れて行かれた後、どこに行くのかもすべて知っている。
知らないのは、きっと彼女だけ。伝えなければいけないと思いながらも、誰も彼女に教えることができない。
彼女が転校してきた時からずっと、大人たちが見ている。授業中でも休み時間でも、彼女がこの学校にいる限り誰かに見られ続けている。
教師も、用務員も、他の生徒の保護者でさえも、彼女を見て何かを考えている。
教えても意味がない。そうクラス委員の生徒が言った。
もう手遅れだ。部活の先輩が慰めてくれた。
自分もそう思う。思うからこそ、彼女と関わることで自分までお気に入りになるかもしれないのが怖い。その恐怖が罪悪感を覆い隠して、彼女を見捨てようとしている。
仕方がないこと。そう何度も自分に言い聞かせる。傷を深くしないように俯き、彼女に関わってはいけないのだと強く手を握り締めた。


「――ねぇ」

不意に声をかけられ、大きく肩が跳ねた。
顔を上げる。いつの間にか目の前に彼女が立ってこちらを真っすぐに見ていた。

「もう帰りたいから、通してくれるかな」

言われて教室のドアの前に佇んでいたことに気づいた。慌てて脇に避け、小さくごめんと謝罪する。
それには何も答えずに彼女が通り過ぎていく。
いつか連れていかれてしまう彼女。ただ転校してきただけでお気に入りになってしまった、友達になりたかったクラスメイト。

「あの……!」

沸き上がる後悔が、咄嗟に彼女を引き留めていた。

「あのねっ。お気に入りって本当は……」
「言わなくていいよ。分かってるから」

感情のままに告げようとした言葉を彼女は止める。こちらに視線を向けることなく、淡々と必要ないと呟いた。

「それって……」
「さようなら」

そう言って彼女は教室を出ていく。呆然と彼女の姿を見送り、しばらくして我に返った。
彼女を追って廊下に顔を出せば、階段の前で担任が彼女に何かを話しているのが見えた。
そのまま二人で階段を下りていってしまう。何を話しているのかは聞こえなかったが、きっとお気に入りになって連れていかれてしまったのだろう。
きゅっと唇を噛み締める。結局何もできなかったことに、今も見ていることしかできないことに、苦しさと痛みを感じた。
彼女にはもう、明日は来ない。彼女が言ったさようならの言葉が、頭の中でいつまでも響いている。
彼女は来ない明日を思って今日に別れを告げたのだろうか。

「ごめんなさい」

いない彼女に向けて、小さく謝罪の言葉を口にする。申し訳ない気持ちがありながらも、他の生徒たちに紛れるようにして足早に下校した。



次の日。
やはり彼女は学校に来なかった。
誰も座っていない席を一瞥して、目を伏せる。午後までには机は片付けられ、お気に入りになった彼女のことは最初からいなかったように扱われるのだろう。
チャイムが鳴る。担任はどんな顔をして、教室に入ってくるのだろうか。

「――あれ?」

けれどいくら待っても担任が教室に入ってくる様子はない。
ざわざわと控えめながらも、困惑の声があちらこちらで上がる。互いに目配せして、担任を呼びに行くべきかを迷っている。
そうして結局誰も動けず、数分が過ぎた頃だった。

「突然ですが、担任の先生が不在のため、一時限目は自習になります」

入ってきた副担任が、それだけを告げて再び教室を出て行ってしまった。
ざわめきが大きくなる。自習になることも、担任がいないことも初めてのことで、皆少なからず混乱していた。

「ねぇ」

隣の席の子が、顔を寄せて囁いた。

「昨日、転校生がお気に入りになって担任に連れていかれたんでしょう?」

思わず息を呑んだ。彼女が担任と一緒にどこかに行く姿は下校時間と重なって、何人もの生徒が見ていたらしい。

「担任だけじゃなくて、校長も一緒にあそこに向かったのを見たぜ」

後ろの席の男子が声を抑えながらも告げる。

「それと関係あるのかな。校長先生までいなくなってたら、この学校はどうなっちゃうんだろう」

きっと変わらない。誰も口にしなかったが、誰もが思っているはずだ。
けれど、と、昨日の彼女の姿を思い浮かべる。
知っていると言っていた。知っていて、怯えるでもなく担任と話していた彼女。外から来た、自分たちとは違う存在。
最後の言葉が頭の中に響く。
今日にさよなら。個性を殺し、怯え息を潜めるだけだった今日までの日々にさよなら。
こうであればいい。都合の良いさようならの意味を想像し、どうかと心の底で願った。



結局、一時限目が終わった後も授業はなく、四時限目が始まる前に生徒は皆下校させられた。
その日を境に、全てが変わった。
担任と、校長は戻ることはなく、大人たちは誰もがお気に入りになることを怖れて息を潜めて過ごしている。
反対に自分たち生徒は自由に友達と遊び、個性を殺すことなく学校生活を楽しんでいる。

彼女の姿を見た人はいない。
その代わりに、二匹の白猫と黒猫が互いにじゃれ合い遊んでいる姿を、学校でよく見かけるようになった。

「ありがとう」

校庭の真ん中で日向ぼっこを楽しむ猫たちに囁く。。
何故そんなことを言ったのかは分からない。けれど答えるように揺れる白と黒の尾に、小さく笑いながらもう一度ありがとうと呟いた。



20260218 『今日にさよなら』

2/18/2026, 3:08:36 PM

――誰かのお気に入りになるのは、とても怖いこと。

学校で囁かれる噂話。お気に入りになってはいけない誰かの正体も、怖いこととは具体的に何なのかも分からない。
ただ、誰もがその噂を信じているかのように目立たず、型にはまったように個性を殺して過ごしていた。

「早く帰りなさい。――様のお気に入りになってしまうよ」

教室で一人、何をするでもなくぼんやり残っていれば、見回りに来た先生にそう忠告される。
誰のお気に入りになるのか、やはり分からない。皆のいう誰かの名は、自分にはいつも雑音にしか聞こえなかった。
それは自分がよそ者だからだろうか。引っ越してきてから半年は過ぎているが、未だに友達の一人も作れてはいない。
誰かのお気に入りになることの怖さも、きっとよそ者だから理解できないのだろう。

「お気に入りになってはいけないの?」
「お気に入りになると、とても怖いことになるからね」

先生はそれだけを言って去ってしまう。呼び止めることもできず、溜息を吐くと鞄を手に立ち上がった。
時計を見るが、まだ五時を過ぎたばかりだ。立春も過ぎ、陽が伸びてきているために窓の外はまだ明るい。
もう一度溜息を吐いた。帰った所で、両親は仕事で家にはいない。一人きりの家に帰る憂鬱に、足を引き摺るようにのろのろと教室の外へ向かい歩いていく。
廊下はしんと静まり返り、辺りは人影すら見えない。
皆、部活終わりの五時にすぐさま下校してしまったのだ。残っているのは先生たちと自分くらいなものだろう。
込み上げる寂しさに、慌てて頭を振り昇降口に向かう。家でも学校でも一人なのには慣れてしまったと思っているが、誰もいない学校の不気味さをも受け入れられるわけではない。急いで靴を履き替え、外へと駆け出した。



「今日はどうしようかな」

呟きながらも、足は自然と小さな神社へと向かっていた。
無人の寂れた神社。引っ越して一週間ほど過ぎた時に見つけた、自分だけの秘密の場所。
社の前に僅かに残る雪を掃き、上り口に座る。ここでも一人には違いがないが、何故か他で感じる寂しさや空しさはなく、温かな何かに包まれているような柔らかな空気が好きだった。
ぼんやりと空を見上げ、暗くなっていく空に瞬き出す星を数えていく。今日あった色々なことを思い返し、何も変わらない日々に無意識に眉を寄せていた。

「早く帰った方がいいよ」

ふと声がした。
この神社で初めて聞く自分以外の声。視線を下ろして声のした方を向けば、自分とさほど年の変わらぬ少女がこちらを見て首を傾げていた。
見覚えのない少女だ。さほど生徒数の多くない学校内で見たことはない。

「帰った方がいいよ」

繰り返される言葉に眉を顰めた。
理由もなく突然帰れと言われても、納得ができない。学校で感じていた不満をぶつけるように、少女を睨み疑問を口にする。

「どうして帰らないといけないの?」
「だって、お気に入りにはなりたくないのでしょう?」
「どうしてお気に入りになってはいけないの?」

問い返せば、少女は首を傾げたまま不思議そうに目を瞬いた。そして視線を彷徨わせ、おずおずと近づいてくる。
まるで野生の小動物のようだ。少し前までの嫌な気持ちが萎んで、微かに笑みが浮かぶ。

「お気に入りになるのが怖くはないの?」
「怖いことが何か分からないから、怖がりようがない」
「変な子ね。普通は皆、怖がるものなのに」

すぐ側まで近づいた少女が、そっと手を差し出した。その手に自分の手を重ね、繋ぐ。
その瞬間脳裏を過ぎていったのは、おそらくこの神社の過去なのだろう。
いくつもの映像が流れていく。自分よりも年下の、あるいは同い年くらいの少女や少年が、一人社の前で祈っている。ゆっくりと開く社の中へ足を踏み入れ、扉が閉じた後は二度と出てくることはない。

「お気に入りだって誰かに思われたらね、ここから出してもらえなくなるの。それってとても怖いことでしょう?」

映像が消えていく。目を瞬き、どこか夢見心地な意識で、離れようとする手を無意識に繋ぎ留めていた。

「大人たちに見つかるのは、確かに怖い。でも」

少女を見つめる。戸惑いおろおろと繋いだ手とこちらを見つめる少女に笑ってみせた。

「友達になりたいなって思う気持ちは、怖いものではないよね」
「え……?」
「私、あなたと友達になりたい」

流れてきた映像の片隅にいた、一人ぼっちの少女。社に入っていく子たちの背を見ながら、悲しげに目を伏せていたのが忘れられなかった。

「駄目?」
「駄目じゃ、ない。でも……友達ってお気に入りってことにならないのかな?」
「じゃあ、秘密にすればいい。私とあなただけの秘密」

不安そうな少女の手を包み込み、目を見つめてはっきりと告げる。小さく息を呑んだ少女は、やがてふわりと微笑んだ。

「秘密ね。それってとっても特別……わたし、ようやく本当のお気に入りができたのね」

包み込んだ手を引かれ、抱き着かれた。嬉しそうに擦り寄って、鼻をひくつかせる。
少女から伸びる、二つのしなやかな尻尾が体に絡みつきこそばゆい。思わず身じろぐが尻尾は少しも解ける様子はなく、逆にさらに強く絡みついてきてしまった。

「あなた、外から来た人間なのね。それに、微かにだけどわたしと同じ匂いがする」

少女に指摘され、そういえばと思い出す。自分の祖先は海外から来た猫と人の間に生まれたという話を。
ただのおとぎ話だと思っていた。けれど少女が言うのだから、それは本当のことだったらしい。

「あなたはわたしのお気に入りで友達だもの。特別な加護を上げるからね」
「それよりも、友達なんだから一緒に遊びたいな」
「欲のない人間ね。それなら、好きなだけ遊びましょうか」

手を引かれ、いつの間にか戸が開いていた社の中へと入っていく。一瞬の眩暈の後、暗闇が散って目の前が一面の花畑へと変わっていた。

「さぁ、行きましょう」

少女と共に花畑を駆け出した。甘い匂いに目を細め、少女と二人花畑に倒れ込む。
顔を見合わせ、お互いにくすくすと笑う。久しぶりに心から笑えた気がした。
ごろりと仰向けになり、空を見る。雲一つない青空が心地よい。
ちらりと横目で見た少女は、白い二股の尻尾の猫の姿で丸くなり眠っている。彼女を真似するように丸くなり、ゆっくりと目を閉じていく。
眠りに落ちる一瞬前、この社の中に入っていった子たちのことが頭に浮かんだ。
あの子たちはどこに行ったのだろう。大人たちに少女のお気に入りだと決めつけられ、社の中に押し込められた子たち。この花畑のどこにも気配を感じない。

けれどそんな疑問もすぐに解けて消えていく。
眠る少女に擦り寄られ、その温もりに何も考えられなくなっていく。
どこまでも深い夢の世界へと、少女と二人落ちて行った。



20260217 『お気に入り』

2/17/2026, 9:44:32 AM

目を開けると、目の前に黒の大きな毛玉があった。
そっと手を伸ばし触れてみる。固めの毛の感触とじんわりとした温もりに惹かれ、そのまま顔を埋めた。
温かい。陽の匂いがして、深く吸い込んでみる。遠い昔、自由に野を駆けていた記憶が巡り、懐かしさに吐息を溢した。

「なんだ、まだ朝は先だぞ。もう少し眠ってろ」

もぞりと毛玉が動き、黒い狐がこちらを向く。眠そうに欠伸をして、それにつられて同じように欠伸が漏れた。
まだ朝は先なのか。窓のないこの部屋では外の様子は分からない。だが彼が言うのだから間違いはないと、小さく丸まり目を閉じた。

「今日は冷えるな。こっちに来い」

そう言いながら抱き込まれ、瞬きの間に彼の腕の中にいた。一瞬のことに驚くものの、暖かさにすぐに瞼が落ちてしまう。
まだ朝ではない。ならば、彼が言うようにもう一度眠ってしまってもいいのだろう。
途端に意識が微睡むが、物足りなさに気づいて瞼をこじ開けた。
暗い室内を見回す。彼と自分以外に気配はない。
もう一匹、白い狐はどこにいるのだろう。
不安が込み上げ体を起こそうとするも、抑え込まれて起き上がることができない。

「こら、起きるな」
「だって」
「あいつなら、朝飯を狩りに行ってる。戻ってきた時におまえが起きてると怒られるのはおれなんだ。おとなしく寝てろ」

ぶっきらぼうな言葉だが抱き込む力も、宥めるような毛繕いの仕草も優しい。
彼は昔からそうだった。冷たく見えて、実は誰よりも優しい狐。領地争いをしていた時から、きっと変わっていない。
促されて、おとなしく目を閉じる。温もりに包まれてすぐに意識は夢の中へと落ちていった。





吹き抜ける風の匂いを感じ、目を開けた。
見上げる空は快晴。どこまでも続く草原を、柔らかな風が駆け抜けていく。
風に乗って、微かに花の匂いを感じた。誘われるように前足を踏み出し、風を追って駆け出す。
体が軽い。今ならばどこまでも行けそうで、次第に速度が上がっていく。力強く後ろ足で地を蹴れば、空も飛べそうな気がして高く鳴いた。
空を飛ぶ自分を想像する。そうすれば自分の姿が揺らぎ、三色の羽を持つ鳥に代わっていく。大きく翼を広げ陽を目指して飛べば、たちまち草原が遠くなる。
今の自分は誰よりも自由だ。好きな所に行き、好きなことができる。人間も妖も関係なく、ただ自分としてここに在る。

ふと見下ろせば、かつての自分の領地が見えた。のどかに行きかう人々に、ほんの僅か、悪戯心が芽生えた。
また観音菩薩となってみようか。そうしたら人間はどんな反応を見せてくれるのだろうか。
けれどそれもすぐに消え、領地の先、彼らとの約束の場所へと大きく羽ばたいた。
小さく見える二匹の狐の姿。白い三本の尾を持つ狐と、黒い尾のない狐。誰よりも優しく、誰よりも心配性な二匹の元へと、さらに速度を上げて向かっていく。
姿が揺らぎ、元の狐に戻る。後ろ足の感覚はない。このまま落ちれば二度と草原を駆け抜けることはないのだろう。
それでも構わなかった。自由な一匹で在るよりも、不自由でも二匹と一人でいたい。
二匹の腕の中へと落ちていく。再び姿が揺らぎ、今の自分に戻って強く二匹にしがみついた。

「おかえり」

二匹が笑う。頭を撫でるその手に擦り寄り、同じように笑顔を浮かべる。

「ただいま!」

今の自分は、きっと誰よりも幸せだった。






柔らかな日差しに、目が覚めた。

「あぁ、起きたんだ。おはよう」

気づけば、人間の姿を取った白い狐の腕に抱きかかえられていた。どこかに向かっているのか、ゆったりとした歩みに合わせ、心地の良い振動が伝わってくる。
まだ重い瞼を開け、目を瞬く。視線を巡らせれば、隣にいた同じように人間の姿を取った黒い狐と目が合った。

「ようやく起きたか。いい夢でも見てたみたいだな。ふにゃふにゃ笑って、涎まで垂らしてたぞ」
「どんな夢を見てたんだい?」

問われて、夢の内容を思い出す。
懐かしい夢を見ていた。彼らと同じ、妖だった頃の自由な過去の名残。
懐かしくはあるけれども未練はない。こうして人間として不自由に生きていくことに、幸せすら感じるのだから。

「お前たちが誰よりも優しくて、心配性だった夢、かな」
「なんじゃそりゃ」
「人間を化かして饅頭を貰わなくても、ここにいるだけで美味い菓子が出てくるってことだ」

眉を寄せる黒い狐に小さく声を上げて笑う。そんな自分を見て、白い狐は呆れたように息を吐いた。

「誰よりも優しくて心配性なのは、お前だろう?でなければ、俺は退治されたお前をこうして別の形で留めようとは思わなかったよ」
「そうだよな。おせっかいで、悪戯好きで、誰よりも寂しがりの食いしん坊だったから、離れていくのは惜しいと思ったんだ」

好き勝手に言う二匹から視線を逸らす。文句の一つでも言いたいが、それより赤くなっているだろう顔を見られたくはなかった。

しばらくして、目的地に着いたのだろう。そっと体を下ろされる。周りを見れば、どこか懐かしい景色が広がっていた。

「今日は暖かいからね。たまには外で朝食にしようかと思って」

広げた敷物の上に、手際よく二匹が準備を整えていく。少し歪な握り飯は黒い狐が握ったのだろうか。そんなことを思いながら、差し出された湯呑みに大人しく口をつけた。

「さて、準備もできたことだし食べようか」

いただきます、の声で、それぞれ食べ始める。

「――美味い」
「だろ。おれが握ったんだから当然だな」

黒い狐が胸を張る。それに適当に頷いて答えながら、白い狐がほぐした魚の身を口にする。相変わらず過保護だが、今更何かを言うことはしない。
ふと、柔らかな風が吹き抜けた。顔を上げれば、雲ひとつない晴天が広がっている。
あぁ、そういえば。夢で見た空も同じだったと思い出した。

「どうしたの?」
「鳥に化けて飛んだ夢の空は、どうやらここだったらしい」

目を細め、笑みを浮かべた。
やはり自分にはこの空よりも、二匹の側の方が向いている。
そんなことを思っていれば、急に黒い狐に抱えられ膝に乗せられた。手には新しい握り飯を渡され、腹を抱えられる。

「黒羽《くろは》?」

名を呼ぶが、答えはない。仕方なしに握り飯に齧り付き、文句と共に飲み込んだ。

「白花《しらはな》?」
「それじゃあ、他のおかずに手が伸びないからね。特別だよ」

そう言いながら、白い狐は魚の身を箸で目の前に運んだ。食べさせられることに、流石に何か言わなければと口を開くが、その前に口の中に魚を入れられてしまう。
眉を寄せながら、咀嚼する。二匹の狐を交互に見て、込み上げる不満はするすると萎んでいった。

「誰よりも寂しがりなのは、お前たちもじゃあないか」

笑うのに失敗して泣きそうに歪んだ顔。呆れたような、それでいて泣きたいほどに嬉しいような気持ちに胸が苦しくなる。
誤魔化すように握り飯に齧り付く。口元に運ばれる魚や野菜を受け入れ、腹を満たしていく。
結局、自分たちは似た者同士なのだろう。込み上げる笑いを噛み殺し、差し出された茶を啜った。

二匹の側は心地が良い。
食事が終わり、微睡む意識の中思う。
だが、もう少しだけ何も語らないでおこう。自分の何気ない言葉で一喜一憂する二匹を見ているのも悪くない。
人間を揶揄っていた時よりよほど楽しいことだと、二匹に囲まれ寄り添いながら穏やかに眠りについた。



20260216 『誰よりも』

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