読経が聞こえる。
鼻腔を掠める線香の香りに目を開けた。
目の前には、花に囲まれた数名の見知らぬ人々の遺影。振り返れば喪服に身を包んだ人々が、皆一様に俯き死者を悼んでいた。
啜り泣く声が聞こえる。ひそひそと囁く声が、この葬式が雪崩に巻き込まれ亡くなった人々のものだと告げていた。
「お姉さん」
「睦月《むつき》ちゃん」
呼ばれて視線を向ければ、喪服姿の睦月がいた。感情の抜け落ちた顔で、右端にある遺影を指差した。
「わたしのお父さんとお母さんはね、麓に続く道路で雪崩にあって死んじゃったの」
表情と同じく、語る声音も淡々としている。
「わたしね、お葬式で泣けなかったの。お父さんもお母さんも大好きで、とっても悲しいはずなのに泣けなかった……今も泣けない。悲しいのかも分からなくなっちゃった」
遺影を見つめるその目には、確かに涙はない。けれどもその目の奥で揺れている感情は、紛れもない悲しみだった。
悲しみが深過ぎて泣けないのだろう。そしておそらくは、彼女には泣ける相手もいないのだ。
手を伸ばし、そっと睦月の頭を抱いた。頭を撫でると彼女は目を閉じ、微かに震える吐息を溢す。
「お葬式の後から、夢を見るようになったの。夢の中でヒガタについていった人もね、わたしと同じだった。泣けなくて、段々何も感じなくなって……ここにいられないって思った。ヒガタの導く所に行かないとって、感じたの」
「睦月ちゃん」
「でも、咲子さんはちょっと違うかな。あの人の中にはヒガタがいたから、一緒にいるべきだって感じたんだと思う……わたしたちが行かないといけないって思うのは、もしかしたらあの人の記憶が伝わるからなのかもね」
目を閉じたまま抑揚なく語られる言葉の悲しさに、思わず唇を噛み締める。こうして頭を撫でることしかできないのが歯痒い。彼女の泣ける場所になれないことが、苦しかった。
「ねぇ、お姉さん」
額を擦り寄せ、睦月が呼ぶ。
「お姉さんは、どうして泣けるの?」
小さく息を呑んだ。
泣ける理由であるただ一人を思い浮かべ、けれども何も言えずに睦月から視線を逸らす。
泣いても受け止めてくれる大切な人がいるからと、理由を告げるのは簡単だ。しかしそれを一人きりの彼女に告げることは、どうしてもできなかった。
――しゃん。
不意に鈴のような音が聞こえた。
「――っ」
視線を向け、硬直する。
青い異形の面。ひび割れたその隙間から。
ないはずの目がこちらを見据えている。そんな気がした。
腕の中に感じる温もりに、燈里《あかり》は目を覚ました。
そっと布団を捲ると、そこには穏やかな顔をして眠る睦月の姿。時折甘えたように擦り寄る彼女の頭を撫でながら、燈里は小さく息を吐いた。
「あまり、そいつに心を砕くな。これ以上縁《えにし》が強くなれば、引き摺られるぞ」
先に起きていた冬玄《かずとら》が低く告げる。その警告に曖昧に頷きを返しながらも、燈里は睦月から離れようとはしない。冬玄もそれ以上は何も言わず、言葉の代わりに燈里の頭を強めに撫でた。
「昨日のあんちゃんはいるべか?」
源護《げんご》が睦月の家を訪ねたのは、昼時を過ぎた頃だった。
「何だ突然。何か用か?」
眉を顰めつつ応対する冬玄に、源護は苦笑しつつ手にした鍵を鳴らす。その鍵を見て、様子を伺っていた睦月は首を傾げて源護に近づいた。
「それって確か、集会所の鍵だよね?」
「んだ。このあんちゃんに、ヒガタの衣装さ見せっかと思ってな」
「じゃあ、皆で行けばいいよ!」
睦月のはしゃいだ声に、源護は眉を寄せ居間を覗く。囲炉裏端に座る燈里と楓《かえで》を見て、驚いたように目を見張った。
「こんな時期に客人か?悪ぃこと言わねから、小正月さ来る前に村さ出た方がいい……睦月、おめぇもだぞ。モドキに連れてかれっちまう前に、ここさ出ろ」
「え?でもね、おじさん……」
今年はわたしの番。
そう言いかけた睦月の手を引き、燈里は首を振る。口を噤んだ睦月の頭を撫で、燈里は源護に対して頭を下げる。
「私たちなら大丈夫です。ご心配して頂きありがとうございます」
「そうかい?無理にとは言わねぇが、気ぃつけんだぞ」
「それなら、気をつけるためにも早く行こうよ」
頭を撫でる燈里の手を取り、睦月は笑顔でその手を揺する。早く早くと急かされて、燈里は苦笑しながら出かける準備のため、睦月と共に部屋へと向かっていった。
「――相変わらずだな、睦月は」
居間を出ていく二人の背を見送り、源護はぽつりと呟いた。視線を向ける冬玄に力なく笑い、手にした鍵に視線を落としながら問いかける。
「睦月の両親のことは知ってっか?」
「あぁ」
燈里や楓から聞いた夢の話を思い返しながら、冬玄は頷く。そうか、と小さく呟き、源護は重苦しい溜息を吐いた。
「睦月はなぁ、両親が死んでからずっと泣いてねんだ。悲しみが深過ぎて、一人じゃ泣けね。だけんど、睦月には安心して泣ける場所がねぇ。久子《ひさこ》ばぁちゃんは、あいつにとって支える存在だからな……今まで、睦月みてぇなのは何人かいた。そいつらのほとんどは、モドキに連れてかれちまったよ」
手の中の鍵を握り締め、源護は冬玄に視線を向ける。
「今年は睦月が連れてかれちまうのかもしれんな」
その目は悲しんでいるようにも、どこか諦めているようにも見えた。
集会所の倉庫の奥。
隠し封じるようにしてしまわれていたヒガタの衣装を見て、燈里は悲しげに眉を潜めた。
いくつかある面の一つを手に取る。黒く角や牙の生えた面は、燈里が見た夢のヒガタの面とは異なる恐ろしさが伝わる。恐ろしい何か、を表しているのだろう。
「ヒガタの祭りをやってる時はこの集会所から家さ回り、最後にこの集会所に戻って大人だけで宴会を開いたって聞いてる」
ヒガタの衣装と共に出てきた箱を開け、源護は言う。
箱の中には額に入った何枚かの写真が収められており、ヒガタと村の大人たちが笑いあう姿が写されていた。
「そういや、最初はヒガタでねかったって、おらいのじいさまが言ってたな。名前なんてねがったはずだって
「名前が、なかったんですか?」
「んだ。多分正月の神さんとか、鬼とか呼んでたんでねぇべか。そこまでは聞いてねぇけんども……いつの間にヒガタになったんかは分からんが、モドキが出た時にはヒガタのモドキだっていう認識だったはずだ」
源護の言葉に燈里だけでなく、冬玄や楓も眉を寄せる。ただ一人、睦月だけは興味深げに写真やヒガタの衣装を眺め、首を傾げて呟いた。
「ずっとこのままなのは、何だか寂しいかも。写真に写ってる皆、とっても楽しそうだし……またできればいいのにね」
「モドキさいる内は無理だべ。連れてかれちまったら、たまんねぇ」
睦月の無邪気な様子に、源護は呆れたように溜息を吐く。緩く頭を振り、冬玄に鍵を手渡した。
「好きなだけ見てけばいい。終わったら鍵さかけて、戻してくれ」
そう告げて、源護は倉庫を出ていく。その背を一瞥し、楓は燈里の手の中の面を覗き込む。
「名前のなかった来訪神、か。随分と適当だ。どこでヒガタになったんだろうね」
「元の来訪神からきてるんじゃなかったのかな。火班《ひがた》を削ぐから、ヒガタだと思ってたけど」
「多分違うと思うよ」
燈里と楓の話を、睦月は蓑藁に触れながら否定する。
「ヒガタはね、ヒガタなんだよ。ヒガタを表した言葉なんだよ」
「どういう意味だ?」
「だからヒガタなんだってば……えっとね、すっとこのままの形で残さないといけないもの。継いでいくものとか、そういう感じ」
睦月の言葉は酷く抽象的だ。理解しきれないながらも、燈里は必死に伝えようとする睦月の頭を撫でる。
「ごめんね。ちょっと難し過ぎて、私にはちゃんと分からなかった。でも教えてくれてありがとう」
頭を撫でる手の優しさに、睦月は一瞬だけ顔を歪めた。
泣きそうな、幼い子供の顔。だがそれはすぐに凪ぎ、睦月は頭を撫でる手を取り、頬を擦り寄せた。
「お姉さん」
「なあに?睦月ちゃん」
首を傾げる燈里に睦月は笑いかけ、手を離す。
「ううん、何でもない」
「睦月ちゃん」
「ちょっとだけね。ずっとこのままならいいのにって、そう思っちゃっただけ」
小さな呟きに。燈里は何かを言いかけ、何も言えずに口を噤む。
笑っているのに泣いているように見えるその表情に、言葉の代わりにその小さな体を抱きしめた。
20260112 『ずっとこのまま』
「何から話せばいいかな?」
囲炉裏端に座り、睦月《むつき》は笑顔で燈里《あかり》と楓《かえで》に問いかける。
冬玄《かずとら》はここにはいない。家に戻ってすぐ、久子《ひさこ》と共に浜吉《はまよし》の家へと出ていってしまった。
「一番最初の話は手紙に書いた通りだし、その後について行った人たちもおんなじ感じだしなぁ」
「同じなの?本当に皆、自分の意思でヒガタについていったの?」
どれだけヒガタと共に姿を消した人がいるのかは分からない。だが、その誰もが自らの意思でヒガタについて行ったことが、燈里には信じられなかった。
「そうだよ。夢の中で見た皆、行かないとって、ヒガタと一緒に出ていったんだよ。削がれてしまって戻れないから」
「削がれた、ねぇ。君はそれが何を意味するか知ってるかい?」
燈里の夢の中で、睦月が言っていたことを思い出し、楓は僅かに目を細める。
何が削がれたのかは手紙の内容からも、夢の中で見たものからも分からなかった。
「知らない。でも何となく分かる気がするの。入ってきた分溢れて、それが元に戻らないから削がれた、みたいな感じ?」
首を傾げながら睦月は言う。それを理解できずに燈里は眉を下げるが、楓は表情は変えず視線だけを鋭くさせる。
入り込んできたもの。そして夢の中の睦月が言っていた、燈里は溢れていないという言葉。
燈里にとっての楓という存在が、この村にはいて、それをヒガタが連れていくのだろうか。
だが、溢れたとは何を意味するのか。何が溢れて、削がれてしまったというのか。
「そういえば、お姉さんのお姉さん以外が入っているのに、泣けるんだね」
茶請けの饅頭を齧りつつ、湯呑みに新しく茶を淹れ直しながら睦月は問いかける。燈里と楓の湯呑みをにも茶を淹ている睦月の表情は、とても不思議そうだ。
「入っているって、どういうこと?」
「え?だっているでしょ?お姉ちゃんが」
楓を指差し、睦月は当然であるかのように告げる。
「夢の中でお姉さんと話して、腕を掴まれた時に流れてきたの。よく分かんなかったけど、楓お姉ちゃんが燈里お姉さんの中に入った後も、お姉さんは泣いている所を何度か見たよ」
夢をほとんど覚えていない燈里とは違い、細部まで記憶している楓は睦月の言葉に眉を顰める。
相手が誰であれ、こちらの情報がすべて開示されたことへの危機に、楓は密かに警戒を強める。だが睦月の言葉を思い返し、そこに引っ掛かりを覚えて問いかけた。
「泣く、泣かないが、削がれたことにどう関係するんだい?」
泣かない子が、ヒガタについていく。その子に何かが内に入り込み、そのために溢れたものが削がれてしまった。
情報の断片を繋ぎ合わせ、形を作っていく。それはとても歪で、不穏の形をしている気がした。
「もちろん関係あるよ。泣いたり怒ったりするのが、溢れて削がれるの。削がれちゃうと戻らなくなるから、ヒガタについて行くんだよ」
茶請けの金平糖を口に放り、噛み砕きながら睦月は笑う。
「ご先祖様が生きてた時はまだヒガタがいなかったけど、ご先祖様は一人で山に行ったんだって。今年はわたしの番みたいだから、明日か明後日にはもっと溢れて削がれちゃうのかな」
睦月の表情に恐れはない。その異様さを掻き立てるように、ぱちん、と囲炉裏の火が音を立てた。
その頃、冬玄は久子と共に浜吉の家を訪れていた。
「なんだべ。おらいは咲子の話はよぉ知らんよ」
冬玄と久子に茶を出しながら、浜吉源護《げんご》は困惑したように眉を寄せた。
「咲子の話は、久子ばぁの方がよぉ知っとるだろうに」
「ヒガタの祭りを持ち込んだのが、この家だと聞いた。それが知りたい」
「あぁ、そっちか」
端的に問う冬玄に、源護は頭を掻きながら炬燵に入る。出された茶を啜る久子をちらりと一瞥し、小さく息を吐いた。
「確かに、おらいの先祖がヒガタを持ち込んだ。元々先祖はここでねぇ、海で漁師をしてたんだが、なんでか海に出れんくなって、逃げるようにここさ来たって伝わっとる」
「なら、あのヒガタは港町の来訪神か」
「んだ。故郷の祭りさ始めた理由は知らんが、恋しくなったんでねぇべか……んで、しばらくは小正月に家々さ回って、童っこさ脅かして、大人だけで打ち上げさやって楽しんでたんだが、咲子の件とモドキの件さあって、やんねくなったんだ」
茶を啜りながら、源護は疲れたように嘆息した。静かな家を厭うように首を振り、暖房の温度を上げる。
「祭りをやんねくともヒガタは時々、小正月に来んだ。だからおらいの嫁っこと子供は、小正月が終わるまで麓の街さ出してる。連れてかれっからな」
「連れて行かれるのは、女子供だけなのか?」
「さぁな。だが、今まで連れてかれっちまったのは、子供ばっかりだ。大人は聞いたことがねぇ」
「そうか」
港町の来訪神。連れて行かれる子供。
ひとつひとつ情報を確認しながら、冬玄は手紙に書かれていた娘の状況を思い出す。
娘の家に訪れたヒガタは、源護らの言うモドキではなかったはずだ。だというのに、最初からヒガタは来訪神らしくなかった。
静かに佇み、何をするでもなく去っていく。その後に、娘は続いて山へと消えていった。
削がれたという言葉が気にかかる。しかしこの場で聞いた所で誰も答えを知らぬだろうことを冬玄は理解していた。
「ひとつ聞きたい。咲子という娘は、いくつでいなくなったんだ?」
問われて、源護は眉を寄せる。遠い記憶を辿るように宙を見つめ、確か、と首を傾げつつ答えた。
「十四、だったか。それぐらいだったと聞いたことがあるけんど」
「十三だよ」
それまで黙していた久子が口を挟む。冬玄を見つめ、悲しく微笑んだ。
「咲子の誕生日は一月二十二日だ。その時はまだ、咲子は十三だったんだよ」
「十三か……なら、七年前はまだ七つにはなってないということだな」
「七年前?なんじゃそりゃあ?」
「咲子の弟が死んだ年だね……そういえば咲子、葬式では涙一つ見せなかった。あんなに大切に世話を焼いていたはずなのに」
久子が悲しげに目を伏せる。
それを気にかけず、冬玄は戻るために席を立とうとした時だった。
――しゃん。
風の音とは違う、鈴のような、金属が打ち鳴らされるような音が聞こえた。
「今の音は何だべ……それに、暖房さつけとんのに、寒ぃな」
ふるり、と身を震わせて源護はさらに暖房と炬燵の温度を上げた。それでも寒さが身に染みるのか、体を震わせながら上着を羽織る。
久子も何も言わないものの、その体は細かく震えている。冬玄は外を警戒しながらも、着ていた上着を久子にかけた。
「私は大丈夫だ。だから、」
「いいから来ていろ。お前らの言う、モドキが来ている」
「そんなはずねぇべ!ヒガタもモドキも小正月の晩さ来る。今までがそうだった!」
混乱し、戸惑う源護と久子を一瞥し、冬玄は部屋を出て、玄関へと向かった。
先ほど聞こえた音は、聞こえない。だが代わりにず、ず、という地面を擦るような音が家の前を通り過ぎていく。
吐く息が白を増していく。玄関周りが薄らと霜が降り始める。
きん、と冷えた空気。それは凍てつく冷たさを宿しながらも、神聖さすら感じられる澄んだものだ。
「山の気配……領域を連れてきているのか、それともモドキ自体が領域なのか」
玄関扉の向こう側にいる何かの気配を辿りながら、冬玄は眉を寄せ呟いた。
嫌な気配ではない。だからこそ違和感が拭えない。
何もかもがちぐはぐだった。元は港町の来訪神が山の気配を連れてくることも、この清浄な空気も。
「――燈里の所には、行かないみたいだな」
しばらく付近を彷徨っていた音が山の方角へと戻っていくのを感じ、冬玄は詰めていた息を吐いた。音が遠ざかるのに合わせて、凍てつく寒さが和らいでいく。
居間の方でも寒さが和らいだのだろう。暑いと騒ぐ源護の声と共に、久子が上着を持って居間から出てくる。
「これ、ありがとうね。大丈夫だったかい」
「あぁ、問題ない。悪いが先に戻る」
「そうかい。声をかけてくるけぇ、先に戻るといい」
そう言って居間に戻る久子を置いて、冬玄は家を出た。
外は変わらず雪が振り続いている。道は雪に覆われ、何の痕跡も見当たらない。
しかし薄らと残る澄んだ空気が、ここに何かがいたことを確かに示していた。
「悪い感じはない……やはり咲子とかいう娘は、神を見て混じったな」
足早に燈里たちの待つ家に向かいながら、冬玄は眉を寄せ呟いた。
人は、七つまでは神のうちという。
七歳を迎えることで、神の領域から人の領域に変わるのだと古くから言われていた。
その七つを迎える直前に、咲子という娘は来訪神を見てしまった。その結果、まだ神に近かった娘は神の一部を身の内に取り込んでしまったのだろう。
「新年早々に、厄介なものに巻き込まれるとはな」
溜息を吐きながらも、その目は鋭く険しさを帯びている。
この先に起こるであろうことに燈里が巻き込まれる確信に、冬玄の影が不穏にゆらりと揺らめいた。
20260111 『寒さが身に染みて』
翌朝。
目が覚めた睦月《むつき》は、自身が燈里《あかり》たちの部屋にいることに一瞬驚きをみせたものの、すぐに笑顔で朝の挨拶をした。
「おはよう、燈里お姉さん。冬玄《かずとら》おじさん。夢の中ではありがとうね」
「う、うん。おはよう……大丈夫、なの?」
「のんきな奴だな。もう少しで、連れていかれる所だったんだろうが」
取り乱す様子のない睦月に、冬玄は僅かに眉を顰める。だが睦月は冬玄の言葉に不思議そうに首を傾げ、何度か目を瞬いた後、あぁ、と納得の声を上げた。
「だって、前に夢で見たもん。お姉さんが引き留めてくれる所……でも、おかしいなぁ?」
「何がおかしいの?」
「ヒガタはね、小正月の晩に山から下りてくるんだよ。いくら夢の中だからっていったって、小正月前に来るはずはないんだけど」
眉を寄せ、睦月は考え込む。燈里もそんな睦月を見ながら、違和感に眉を寄せた。
昨日初めて出会った時から、睦月はヒガタに似た何かをヒガタだと呼んでいる。久子《ひさこ》のようにモドキとは、一度も口にしてはいなかった。
「睦月ちゃん」
「なぁに?お姉さん」
無邪気な目が燈里を見つめる。その真っすぐさに燈里は小さく息を呑みながらも視線を逸らさず、浮かぶ疑問を問いかけた。
「睦月ちゃんは久子さんが言うモドキを、本物のヒガタだって思っているの?」
きょとん、と睦月は目を瞬いた。問われた内容を理解するように視線が宙を彷徨い、首を傾げる。
「ヒガタはヒガタだよ?本物とか違うとか、そういうのじゃなくて、ヒガタなんだよ」
答えにならない答えに、燈里は困惑して眉を寄せる。話を聞いていた冬玄がさらに問いかけようと口を開くが、言葉になる前に障子戸が静かに開かれた。
「話の途中で悪いんだけど、朝食できたよ。続きは食事が終わってからにしようか」
翁の面を片手に楓《かえで》が声をかける。
その言葉に、自身が朝食の準備を忘れていたに気づいたらしい。声にならない悲鳴を上げながら、慌てて部屋を出ていく睦月の背を見ながら、楓は小さく肩を竦めた。
「ありがとう、楓」
「どういたしまして。でもあの子、混乱するんじゃないかな。客人に準備をさせたと思ったら、自分が準備をしていたって言われるんだろうからね」
手の中の面を弄びながら、楓は苦笑する。戯れに面をつけると、その姿が揺らぎ、面を除く全身が影に解けていく。ぐにゃりと歪んだ影は誰かの形を取り、再び小さな揺らぎの後、その姿は楓ではなく睦月のものとなっていた。
「起きたのなら、布団を畳まないとね」
睦月の姿をとった楓は慣れた手つきで布団を畳み、ひとつ遅れて燈里もまた自身の布団を畳んだ。
畳んだ布団を部屋の隅に寄せ、楓は面を外して元の姿に戻る。あまりの流れ作業に、見ていることしかできなかった冬玄を横目に燈里の手を取り歩き出した。
「さぁ、まずはしっかりご飯を食べて、聞き込みはそれからだよ。必要なら、山の入口にも行ってみよう」
「うん。そうだね……小正月までに調べておかないと」
楓の言葉に頷き、燈里は僅かに表情を強張らせた。
小正月。改めて残された時間を思い返し、繋いだ手に力が籠る。
「そんなに構えるな。そんなんだと、見えるものも見えなくなるぞ」
燈里の様子に気づいた冬玄が、安心させるように笑い頭を撫でる。大丈夫だと告げられて、燈里の表情が僅かに綻んだ。
「うん。ありがとう、冬玄」
微笑んで背後にいる冬玄に軽く凭れれば、楓は苦笑して燈里と手を離した。少し先を歩けば、冬玄が燈里の横に並び手を繋ぐ。
冬玄と楓の優しさに、燈里の中の不安が消えていく。小さく吐息を溢し、軽くなった足取りで居間へと向かった。
「睦月ちゃん」
朝食後。
片付けを終えた睦月が玄関先で雪かきをしているのを見つけ、燈里は声をかけた。
「なぁに?」
振り向いた睦月の目が、燈里の隣にいる楓に向けられる。途端に眉を下げ、深く頭を下げた。
「楓お姉ちゃん、今朝はごめんなさい。それとわたしの代わりに朝ごはんの準備をしてくれてありがとう」
「どういたしまして。ならそのお礼代わりに色々教えてくれないかな」
「うん、いいよ。わたしが知ってる村のこととか、夢のこととか、何でも教えてあげる!」
笑顔で頷く睦月に、楓も笑みを浮かべながら問いかけた。
「その夢のことだけど、どこまで本当なのかな」
穏やかな口調だが、その視線はどこか鋭い。燈里と夢を共有したとはいえ、それを頭から信じるに足る情報を有してはいなかった。
楓の問いに、睦月は首を傾げる。眉を寄せ考えるように視線を彷徨わせながら、ゆっくりと口を開いた。
「たぶんね、ヒガタに関することは本当なんだと思うよ。うまく言えないんだけど、他の夢とは違うもの。音とか匂いとかがね、強いっていうか、はっきりしてるっていうか……そんな感じ」
「君はヒガタと近いから夢を見るのかもしれないね。巫女かなんかの血筋なのかな」
「巫女?違うよ!」
首を振って、睦月は笑う。くすくす声を上げ、こっちと手招きながら歩き出す。
「わたしが夢を見るのは、きっとご先祖様がすごい人だったからだよ」
そう言って睦月は十字路まで来ると、道の脇にある小さな祠を指さした。
燈里が中を覗くと、中には地蔵菩薩の石像が祀られていた。
「わたしの家は、元々石工をしていたんだって。それでね、ご先祖様にすごいご利益を持った仏像とか作れる人がいたんだってさ」
「確かに……これはすごいな」
目を細め、冬玄が感嘆の息を漏らす。
静かに佇む地蔵は、長くこの村を守ってきたのだろう。冬の空気よりも澄んだ気配に、冬玄は無意識に手を合わせた。同じように燈里と楓も手を合わせる。
「この地蔵様はね、ご先祖様が二十歳の時に作ったんだって。二十歳になったその時に、本物が作れるようになって、村にご利益を与えてくれたんだってばあちゃんが言ってたよ」
「すごい人だったんだね」
「うん!だからね、本物の仏様を作れるご先祖様の力が、ヒガタのことを夢に見せてくれてるんじゃないかな」
誇らしげに睦月は胸を張る。その頭を撫でながら、燈里は冬玄と目を合わせ頷いた。
睦月の見る夢は情報として、信頼できる。燈里は睦月の肩に手を置き、目を合わせて問いかけた。
「睦月ちゃんの夢のこと、もう少し詳しく教えてくれないかな。ヒガタについて知りたいの」
「分かった!あ、でも、ヒガタのことなら浜吉《はまよし》のおじちゃんとこに行った方がいいかも。ヒガタの祭りを始めたのはおじちゃんだって、前にばあちゃんが言ってた」
「浜吉?」
聞き覚えのある単語に、燈里は眉を寄せる。楓も眉を寄せ、あぁ、と思いついたように声を上げた。
「楓?」
「手紙に書いてあった娘だよ。一番最初にヒガタについて行った娘がそうだったはずだ」
言いながらも、楓は眉を寄せたままだ。
ヒガタという来訪神の風習を持ち込んだ浜吉。泣く子を攫うヒガタに、泣かないからとついて行った娘。
削がれたからという言葉。
疑問が渦を巻き、徒に不安を掻き立てる。
「俺が話を聞きに行く。燈里は楓と夢の話を聞いておけ」
「分かった……気を付けなよ。何が起こってもおかしくない状態になってきたからね」
楓はヒガタがいる山を見上げ、守るように燈里と手を繋いだ。
20260110 『20歳』
空には、細い三日月が浮かんでいた。
縁側に座りぼんやりと月を見上げながら、泣けない理由を考えた。
壊れてしまっているのだろうか。それとも、元から非常だったのか。
そのどちらもなのかもしれない。初めて神を見た時、自分以外の何かが入り込んで混ざり合ってしまった。混ざり、どろどろとした上澄みが削がれた後、底に残ったものが本当の自分だったのだろう。
削がれてしまった。胸に手を当て、心の内で繰り返す。
削がれた自分は、弟と共にいってしまった。もう二度と戻っては来ない。
「削がれたのならば、行かなければ」
ふと、思ったことが口をついて出る。
削がれたのならば、自分はきっと怠け者《かばねやみ》なのだ。だから行かなければならない。
浮かぶ月は静かに佇んでいる。まるで幼いころに見た、あの神のように。
「行かなければ」
立ち上がり、部屋へと戻る。開いたままの障子戸を抜け、音を立てぬようそっと戸を閉めた。
かたん、と微かに鳴った戸の音に、はっとして顔を上げた。
気づけば、古い障子戸に手をかけていた。びくり、と肩を揺らして手を離す。
灯りのない部屋は、とても暗い。ここが何処なのか分からず、眉を寄せて振り返る。
暗がりの中に、小さな火が灯っていた。囲炉裏だろうか。その側には、誰かの小さな影が見えた。
息を呑み立ち尽くしていれば、影は手慣れた様子で囲炉裏に火を入れていく。ぱちぱちと音を立て火が大きくなるにつれ、部屋が明るくなっていく。
「睦月《むつき》ちゃん」
「お姉さん。そこは冷えるから、こっちで火に当たるといいよ」
囲炉裏の火から目を逸らさず告げられ、ゆっくりと囲炉裏端に座った。ぱちん、と火の爆ぜる音に、じわりと染み込む熱に、体の力が抜けていく。
「お姉さんも、わたしとおんなじなんだね」
「同じ?」
「うん、そう。これはわたしの夢だけど、お姉さんの夢でもあるでしょ?」
そう言われて、あぁと声が漏れた。
ここは夢の中なのか。囲炉裏の前に手を翳し、確かめるように握り開いて、その動作を繰り返す。
「もうすぐ、ヒガタが来るよ」
彼女の言葉を不思議に思う。陽が暮れる前に、全ての戸は閉めたはずだ。ここは外ではなく、家の中。誰も招き入れる訳でもないのに、どうして入ることができるのか。
「戸締りをしっかりしてても関係ないよ。ヒガタは、家の中で怠けてる悪い子を連れていくんだから」
来訪神とはそういうものだ。中から戸を開け招き入れずとも、家の中に入り怠け、泣く子を戒め、福を呼び込む存在。
思わず手を握り締めた瞬間、玄関から風が吹き込む音がした。
振り返る目の前で、音もなく障子戸が開いていく。その向こう側から現れた異形の存在に、目を見張り硬直する。
青い異形の面。その造形は人よりも獣のそれを思い起こさせた。
その右目から頬にかけて、深いひびが入っている。端は欠けてしまっており、だがその奥に見えるものは何もない。
真っ黒だ。肌も、目も、何もない。
藁蓑をまとう姿は、確かにヒガタに見える。
だが違うのだと、感覚で理解する。今ここにいるのは、姿形こそは似ているが別な何かだ。
「行かないと」
隣で呟く淡々とした声に、驚き視線を向ける。
昼間見た人懐っこい様子とは真逆の、無感情に何かを見る彼女の横顔に、背筋がうすら寒くなるのを感じた。
「泣かない子は、行かないと」
「どう、して……?」
声が震える。
聞かなければいけないと理性が命じ、聞いてはいけないと本能が警告する。
彼女はこちらに視線を向けない。ただ目の前の何かを見つめ、それが当然であるかのように立ち上がり、歩き出した。
「待ってっ!」
咄嗟に手を伸ばし、腕を掴んだ。振り解かれる様子はないが、視線は何かに向けられたまま。
何かもまた部屋に入り込むことはせず、戸の向こう側に佇んでいる。
「行かないと」
繰り返される言葉に、無意識に腕を掴む手の力が緩んだ。慌ててしっかりと腕を掴みなおすが、数歩何かとの距離が近くなった。
この手を離せば、彼女は何かと共に去ってしまうのだろう。そしてもう二度と此方には戻らない。
根拠のない確信に、腕を掴む手が震える。どうかと祈る気持ちで、そっと腕を引いた。
「どうして行かなければならないの?泣いている訳でも、怠けている訳でもないのに」
肩が小さく跳ねた。緩慢な動作で彼女はこちらへと視線を向ける。
「削がれてしまったから。外から入って混ざり合って、溢れた分が削がれてしまった……もう、二度と元に戻れない」
「それって、どういう……?」
「お姉さんはどうして、溢れていないの?」
ひょう、と雪を纏った風が吹き抜ける。思わず目を閉じるが、掴んだ腕を離さないようにと両手で必死にしがみつく。
「どうして?」
それは誰の言葉だったのか。
顔を顰めながら薄目を開けた。
「――っ!?」
目の前に広がる雪に覆われた大地と木々。見上げた空には、白く細い三日月が浮かんでいる。
しゃん、とどこからか鈴に似た音がした。視線を下ろすと、夜の暗がりにぼんやりと、ヒガタに似た何かが佇んでいる。
「ヒガタが来るよ」
彼女の囁きに、何かの面を見る。
面の奥の黒。微かな月の光に浮かぶその黒が、僅かにざらりとした質感を露にする。
石のようなその冷たさに、逃げるように目を閉じた。
「燈里《あかり》」
呼ばれて、燈里は目を開けた。
電灯の灯りに、目が眩む。何度か瞬きをして、小さく息を吐いた。
「冬玄《かずとら》、楓《かえで》」
眉を寄せ、どこか険しい表情の二人に、燈里は何も言わずに首を振る。夢を見ていた気もするが、目覚めてしまった今、その輪郭は酷く朧げだ。
「外から入り込んだモノが混ざる、か……困ったね。これ以上深入りすると、戻れなくなるよ。冬玄との約束はどうするの」
楓の言葉に、燈里は冬玄を見つめた。不安げなその表情に冬玄は嗜めるでも言い聞かせるでもなく、手を伸ばしてそっと頬を撫でた。
「燈里、離れるなよ」
静かに願う冬玄に、燈里は小さく頷いた。頬を撫でる手に触れようと身動ぎ、そこで違和感に気づく。
誰かが隣にいる。朧げだった夢が僅かに輪郭を取り戻し、無表情な誰かの姿を浮かばせた。
「手を離していたら、この子は連れて行かれていただろうね」
苦笑して、楓が布団を捲る。
「睦月ちゃん?」
そこには小さく丸まって眠る睦月の姿。
その小さな腕を掴む自身の手に言いようのない不安を覚えながら、燈里は誤魔化すようにその手を離した。
20260109 『三日月』
少女の案内で訪れた家は、昔ながらの木造の民家だった。
引き戸を開けると、踏み固められた土の間に、吹き込む雪が白を添える。
「ここよ。ちょっと狭いけど、ゆっくりしていってね」
「おじゃまします」
少女に続いて、燈里《あかり》、冬玄《かずとら》、楓《かえで》の三人は中へと入る。雪を払い、広い土間から続く式台に上がり少女が部屋の戸を引くと、ぱちん、と火が爆ぜる音がした。遅れてじわりとした温かさが部屋の外へと広がっていく。
「遠くから、よぉ来てくれたねぇ。ささ、何もないとこだけんど、上がりんしゃい」
部屋の中。囲炉裏の前に腰を下ろした白髪の女性が囲炉裏の火を掻きながら、燈里たちを見て穏やかに微笑んだ。
「ばあちゃん。お姉さんたちね、もうヒガタを見たんだってさ」
「おや、そうなのかい。ならば今年も降りてくるんだろうから、戸締りをきっちりせんばいけんねぇ」
茶を出しながら話す少女に、女性はやはり穏やかに言葉を返す。
どうやらヒガタについて話しているようではあるものの、燈里たちには分からないものだ。
「あの、すみません。そのヒガタについて教えて頂けますか?」
「それと、あなたたちは誰で、何で手紙を送ってきたのかもね」
申し訳なさげに尋ねる燈里とは対照的に、楓は出された茶を啜りながら問いかける。その手にはいつの間にか手紙が握られており、ひらひらと動かしながら女性を見据えた。
「何だべ。何も言わんでここさ連れてきたんか」
「だって雪まみれで話すよりはいいかと思って。ごめんってば」
女性に謝りながらも、少女は手慣れた様子で燈里たちの前に茶菓子を置いていく。楓の湯飲みに新たに茶を注ぎ、女性と自分の分の湯飲みに茶を淹れると、ようやく腰を落ち着け頬を染め笑った。
「わたしね、継枝《つぐえだ》睦月《むつき》っていうの!一月に生まれたから睦月なんだよ。それでね、こっちがわたしのばあちゃん!」
「継枝久子《ひさこ》です」
「あ、私は――」
「手紙について聞きたいんだが、何故ここには誰も知りえないはずの娘とヒガタの話が書いてあるんだ?」
燈里の言葉を遮り、冬玄は手紙の内容についての疑問を切り出した。
咎めるような燈里の視線を気にせず、冬玄の目は鋭く久子を見据えている。
「手紙には、昔ヒガタについて行った娘がいて、その後からヒガタに似た何かが現れるようになったとあるけど、これじゃあ娘が原因で本当のヒガタが変質したようにも捉えられるよね。というか、これじゃあただの三流の創作話だ……この手紙を送った本当の意味は何なのかな」
楓も久子を見据え、疑問を口にする。口元は笑みが浮かんでいるものの、その視線は鋭い。
二人の視線の強さに、燈里と睦月は息を呑んだ。だが久子だけは穏やかな笑みを崩さず、湯飲みを手に取り茶を啜った。
「その手紙は、私が書いたんだ。睦月の見た夢の内容を書き記して、手当たり次第に手紙を送った……あんたたちだけだ、来てくれたんは」
「夢?」
久子の言葉に、燈里は密かに眉を寄せた。自身が今まで見てきた現実との境が分かりにくい夢を思い出し、湯飲みを持つ手に力が籠る。
もし睦月が見た夢というのが燈里の見たものと同じ類のものであるとするならば、自ずと手紙を送った理由はある程度予想はつく。
「睦月はなぁ、時々変な夢さ見る。ただの夢と区別はつかんが、手紙に書いた夢の内容だけは確かだ」
「何故言い切れる?」
「この娘を知ってるからねぇ」
口調こそは穏やかだが、その声音はどこか悲痛に沈んでいる。過去の後悔を寂しさを思い起こすように、茶うけに出された金平糖を伸ばす。
色とりどりの金平糖の中から、白と赤を手に取る。掌で転がして久子は懐かしむように目を細めた。
「咲子《さくこ》はなぁ、一番の友達だった。しっかりもんで家の手伝いもよぉやるええ子でな、弟が生きてた頃は進んで面倒も見てたもんだ」
また一つ、今度は青の金平糖を掌に乗せる。赤と離すように、白と青を転がした。
「咲子がいねくなったことは、朝に知った。雪かきさしてっときに、大人たちが慌てて村中を駆け回ってな。咲子ぉ、咲子ぉって、呼ぶんだ。咲子のおっかさんが泣きながらうちんとこさ来てな、咲子が来てねぇか聞くんだ……結局、見つかんねかった」
白の金平糖をつまみ、久子は口に放り込んだ。口の中で転がして、小さく息を吐く。
「モドキが出たんは、その次の年だ。山の入り口にぼぅっと突っ立っててなぁ、一目でちげぇって思った。皆怖がって家から出んかったのになぁ……」
ころころと金平糖を転がし、久子は呟く。青が赤に近づきぶつかって、久子はその二つを口にする。何もなくなった手のひらを見て、疲れたように笑った。
「手紙さ書いたんは、何があったんか知りたいのもあるが、誰かに覚えててもらいてぇって思ったからだ。咲子んこと、ヒガタんこと……この村の小正月の祭りんことも、全部なくなってくんが寂しくてなぁ」
「久子さん……」
何も言えず、燈里は目を伏せた。
久子は何かを求めている訳ではない。多くを諦めて、せめて僅かでも残ればと、そう思っているのだろう。
「ありがとうな。こんな遠いとこまで来てくれて、話さ聞いてくれて。今夜はご馳走にするから、泊まってけ。ゆっくりしてってな」
俯く視界に、茶請けの皿が映る。金平糖や落雁、大福など、色とりどりの和菓子が燈里たちのために盛られている。
一つ、黄色い金平糖に手を伸ばす。手の中で転がして、燈里は静かに顔を上げた。
「ありがとうございます。しばらくここにお世話になってもよろしいでしょうか?」
「あぁ、好きなだけいるといい。ただ、夜は外に出んでくれ。外に繋がる戸を開けてもいけないよ」
ヒガタが来るから。
そう告げる久子に、燈里は手の中の金平糖を握りしめて、礼をした。
20260108 『色とりどり』