ひらひらと、目の前を黒い蝶が飛んでいく。
思わず眉を顰めた。
黒の蝶は不吉の徴《しるし》だと言われている。人が亡くなった時、黒い蝶が飛ぶという。
「――バカらし」
信じてなどいなかった。ただの迷信だと思っているが、それでも蝶を目で追うのは、近所に住む高齢の男性が数日前から容体が悪化していたことを思い出したからだ。
子供の頃から何かと目をかけてくれ、優しかった男性。気のせいだと自身に言い聞かせるが、かなりの高齢だったのだから仕方がないとどこかで諦めてしまうのを止められない。
黒い蝶は、ゆっくりと山の方へ飛んでいく。それを一瞥し男性の家へと足を向けるが、数歩歩いて立ち止まった。
あの蝶は、何処へ向かうのだろう。
何故か無性に蝶の行く先が気になった。
男性の家か、蝶を追うのか。逡巡して、結局蝶を追って歩き出す。
蝶を追った方が後悔がない。理由の分からない感情に突き動かされるように、迷いなく歩き出した。
蝶を追って山の中へ足を踏み入れ進んだ先は、昼間でも薄暗くじめじめとした場所だった。
「うわっ……!」
生い茂った木々が陽を遮っているためか地面はぬかるみ、歩く度に足を取られかける。転ばぬように慎重に歩を進めていると、追いかけていた蝶がとある木の枝葉に擦り寄るようにして飛んでいるのに気づいた。
「――あ」
思わず声が漏れた。
見つめる先、黒いはずの蝶の翅がほんの少し白くなっている。よく見れば、蝶は葉についた水滴を翅に落とし黒を洗い流しているようだった。
元から翅が黒かった訳ではないらしい。白くなっていく翅を見て蝶の正体に気づき、目を瞬いた。
「モンシロチョウ?でもなんで……」
「それはね、お迎えに行ってたからさ」
「っ!?」
不意に背後から聞こえた声に驚き、振り返る。
いつの間にか苔むした大きな岩の上に、見知らぬ子供が座ってこちらを見つめていた。
「珍しいこともあるもんだ。この子が生きた人間を連れてくるなんて」
くすくすと、楽しそうに子供が笑う。見た目は幼い子供だというのに、その笑い方は老成した大人のように見えた。
「お迎え?」
気になることはいくつかあったが、その中で一番疑問に思ったことが口をついて出る。
お迎えとは、やはり男性は亡くなったということだろうか。
「そうだよ。魂が迷わないように迎えに行くんだ。前は本当に黒い蝶が迎えに行ってたんだけど、人間が忌み嫌って追いやってしまってね。だからあの子たちが代わりにお迎えをしてくれているんだよ」
ひらひらと辺りを飛ぶモンシロチョウを見ながら子供は言う。
同じようにモンシロチョウを見ながら、男性の穏やかな微笑みを思い出していた。
もう会えない。今までの感謝も、別れの言葉すら言えていなかったことに気づいて、胸が締め付けられるように痛んだ。
そっと胸に手を当て俯く。気を抜けば、泣いてしまいそうだった。
「――君は優しい子だったんだね」
ふと、呟く声に顔を上げた。さっきとは違う、まるで男性のような優しい笑みを見て思わず息を呑む。
「いつも気にかけてくれていたって、彼が感謝しているよ。いつも笑顔で挨拶をしてくれて、色々と手伝ってくれたいい子だって褒めてる」
「え……?」
まるで、男性がそこにいるかのように子供は話す。
辺りを見るが、当然男性の姿はない。どういう意味だろうかと眉を寄せ、けれどお迎えという言葉を思い出し納得した。
見えないだけで、男性は今ここにいるのだろう。
「ちゃんと顔を見てお別れが言えなかったのが少し心残りだってさ。なら、折角ここにいるんだし、今回は特別に見えるようにだけしてあげようかな」
そう言って子供は座っている岩の苔を手に取った。手のひらで転がして、小さく笑うとそっと苔に息を吹きかける。
「――っ!」
咄嗟に目を閉じた。
自分と子供との間には距離があるはずなのに、苔はふわりとこちらに向かって飛んでくる。目に入らないようにと閉じた瞼に、苔が張り付く感覚がした。
「目を開けてごらん。見えるようになっているはずだよ」
子供の言葉に、恐る恐る目を開けた。
辺りを見るが、男性の姿はない。けれど目を閉じる前と、明らかに違うものが一つあった。
「黒い、蝶……」
翅を黒く染めたモンシロチョウではない、本物の黒い大きな蝶。
無意識に蝶に向け、指を伸ばす。ひらひらと優雅に飛ぶ蝶が指先に止まり、ゆっくりと翅を広げた。
あぁ、彼だ。
何故か、そう思う。じわりと視界が滲みそうになるのを堪えながら、蝶に向けて笑顔を浮かべた。
「今まで、ありがとうございました」
震える声で、感謝の言葉を述べる。ありがとうの言葉しか思いつかないことにもどかしさを感じていると、蝶は静かに飛び立っていく。
一度止まり、蝶がこちらを向いた気がした。
「っ……!」
蝶の姿が揺らぐ。大きく広がって、うっすらと見慣れた男性の姿へと変わっていく。
穏やかな微笑み。彼の人柄を表しているような、いつも変わらないその笑顔。
丁寧にお辞儀をされ、滲む視界の中で同じように礼をした。ぽたりと、地面に数粒雨が降る。
「ありがとうございました」
頭を上げた時にはもう黒い蝶の姿も、子供の姿も消えていた。
まるで最初からいなかったかのように、何も残さずに。
けれど確かにここにいたのだと、ひらりと飛ぶモンシロチョウがそれを教えてくれていた。
また、ここに戻ってきてしまった。
バスを降り、そっと息を吐く。
塗装の剥げたバス停。錆の浮いたベンチ。日に焼けて褪せたポスター。
記憶にはないそれらが妙に懐かしい。ふらふらとベンチに近寄り、腰を下ろした。
遠く見える山の緑にうっすらと紫が混じっているように見えるのは、山藤が咲いているからだろうか。そんな取り留めのないことを、ぼんやりと考える。
とても静かだ。周囲には人の姿はなく、車や電車の音も聞こえない。人と物に溢れ返った街とは大違いだ。
「――どうして」
無意識に口をついて出た言葉は最後まで続くことはなかった。続く言葉が思いつかなかったからかもしれない。
どうしてここに来たのか。記憶にないこの場所をどうして知っていると思うのか。どうして戻ってきたという感覚が抜けないのか。
自分はこの場所を知らない。祖父母の家がある訳でもなく、遊びで訪れるような場所でもなかった。
溜息を吐く。軋むベンチの音や冷たさに懐かしさを感じて、何故か無性に泣きたかった。
「隣、いいですか?」
不意にかけられた声に、はっとして顔を上げた。
初老の男性がこちらを見て微笑んでいる。一瞬何故聞かれたのかを疑問に思い、だがすぐに自分がベンチの真ん中に座っていたことに気づいて慌てて端に移動した。
「すみません。どうぞ」
「いえ、ありがとうございます」
怒る訳でもなく、逆に礼を言って男性はゆっくりとベンチに座る。その緩慢な動作も穏やかさも、街ではあまり見ることはなかった。
だがここではそれが当たり前だ。時の流れが違うのだと、当然のように考える自分に内心で驚く。
「どうかなさいましたかな?」
「え?あ、いえ。すみません。不躾に見てしまって」
いつまでも見ていたからだろう。男性が不思議そうにこちらを見て問いかける。
流石に失礼だったと頭を下げるが、男性はただ穏やかに笑うだけで気分を害した様子はなかった。
相変わらず、ここの人たちは優しい。隔離された空間は排他的になるというが、ここは来るものをただ受け入れ、去るものを穏やかに見送る。澄んだ空気と豊かな自然、流れていく時間が人を優しくさせるのだろうか。
覚えのない懐かしさに切なさが込み上げる。気づけば男性に対して、この不可思議な感情の理由を問いかけていた。
「何故私は、この場所を懐かしく思うのでしょうか?」
初対面の相手にそんなことを聞かれても困るだけだ。そう思うものの、一度吐き出した言葉は止まらない。
「ここに来たことなど一度もない。記憶にないはずなのに、私はここを知っている……人の温かさも、自然の美しさも、賑やかな虫の鳴き声も、一面に実る稲穂の色も、深々と積もる雪の冷たさも全て……忘れたはずなのに、いつまでも覚えている」
次々と溢れてくる言葉。知らないはずの光景が言葉と共に思い浮かび、あぁ、と声が漏れた。
男性は何も言わない。静かにこちらを見つめている。
柔らかな眼差しに安堵すると同時に、苦しくなった。その視線から逃れるように俯き、両手で顔を覆う。
「忘れてしまいたかった。戻ってきたいと願い、戻れなかったのだから、いっそ何もかもを忘れることができたならと思ったのに」
――こうしてまた、戻ってきてしまった。
滴が手を濡らす。その冷たさに自分が泣いていることに気づいた。
「――あなたは、変わりませんね」
静かな声がした。
「あなたは誰よりもここを愛していた。いつまでも子供のように無邪気で、純粋で……優しく、真面目な方だった」
のろのろと顔を上げる。
困ったように笑うその顔を、見たことがある気がした。
「何度忘れても、あなたはこうして帰ってくる。それほどまでに深く、この場所に縛られているのでしょう」
「縛られて……いえ、違います。それは違うのです」
ゆるりと頭を振った。
縛られているわけではない。ただ求めているのだと、理由もなくそう確信していた。
去ることを引き留めてもらいたいのは、自分の方だ。
「縋っているのは私です。忘れたくはないのです。この場所の愛しさを、私はいつまでも覚えていたかった……もう一度、この地で生きたかった」
「本当に変わらない方だ」
ふっと、男性は息を吐いた。それは意見を曲げない子供に対するような呆れを滲ませながらも、とても優しいものだった。
「――そろそろバスが来ますね」
ぽつりと呟いた男性の言葉に重なるように、遠くでバスのクラクションの音が聞こえた。
近づくバスの音。込み上げる寂しさに、そっと目を伏せる。
「お気を付けて。あなたが健やかに日々を過ごせることを願っていますよ」
「ありがとうございます。あなたもお元気で」
バスが止まる。
男性に別れを告げて立ち上がり、ゆっくりと開くドアに向けて歩き出す。
立ち止まることはしない。帰ることを拒んでも、何の意味もないことは理解していた。
「いつでもいらしてください。あなたが心のどこかで欠片でも覚えている限りは、変わらずにここは在り続けます」
振り返らずに、ただ頷いた。
ドアが閉まる。自分以外誰もいない車内の一番後ろに座れば、バスはゆっくりと走り出す。
遠くなるバス停。過ぎていく景色と共に、記憶が色あせていく。
日常に戻れば、また忘れてしまうのだろう。そしてふとした瞬間にここで過ごした記憶の欠片を思い出し、ここに戻ってきてしまうのだ。
覚えている限りは、あの場所は在り続けるのだと言った。ならばこの先もずっと、変わることはない。
あの場所で過ごした遠い昔の日々。
忘れられない、いつまでも。
20260509 『忘れられない、いつまでも。』
綺麗な花が咲いていた。
この辺りでは見かけない花。綺麗な青や紫に、一瞬で心を奪われた。
彼女の妹への贈り物にしようと、花を摘む。以前花が好きだと言っていたのを覚えていた。
彼女への贈り物は何にしようか。上機嫌で家へと向かいながら考える。
以前大きな雀を生きたまま捕まえた時には、彼女はありがとうと言いながらも逃がしてしまった。鼠を捕った時も、褒めてはくれたけれど、食べる様子はなかった。
魚ならばどうだろう。記憶を辿り、彼女が魚を食べていたことを思い出す。
そうしよう。家へと向かう足を速めながら、いい考えだとにんまり笑う。
この花を妹にあげて、それから川に魚を捕りに行こう。きっと彼女は褒めてくれるはずだ。
微笑んで、優しく頭を撫でてくれる。そんな未来を想像して喉が鳴るのを止められなかった。
けれど現実は、雨の夜よりも冷たかった。
見つけた花は、彼女が一生懸命に育てた花で。
一つ残らず摘まれてしまった花を見て、彼女は元気をなくし。
病気になって、そのまま二度と目を覚ますことはなかった。
もう二度と名前を呼んでも、頭を撫でてくれることもない。
どんなに鳴いても、答えてくれる優しい声は聞こえない。
彼女の匂いがしない。姿が見えない。
もしもあの時、花を摘まなければ、彼女は今もここにいてくれたのだろうか。
大好きだよと、笑う彼女といつまでも一緒にいられたのだろうか。
そんな都合の良い話。
夢物語を思いながら、彼女のベッドではなく冷たい地面の上で丸くなり、目を閉じた。
そんな、悲しい夢を見た。
「いや、そんな夢の話をされても……」
泣きながら花に水をやる猫を横目に、少女は困ったように眉を寄せる。
「そもそも私が花を育ててただけで、夢が現実になるわけないでしょうに」
「だって、見たことない花だった!同じ場所に咲いてた!」
何を言っても、どんなに否定しても、猫は少しも泣き止もうとしない。このままでは猫の目が溶けてしまいそうだと、同じやり取りに疲れた少女は思わず現実逃避をし始める。
「お花、もう摘まないから……だからいなくならないでね。お世話もするから。たくさんお水あげて、大事にするからっ!」
「いなくなる予定はないし、水はそれぐらいにしてあげて」
猫から如雨露を取り上げ、少女は密かに溜息を吐いた。
どうすれば泣き止んでくれるのか。猫から聞いた夢の話とは違う行動をしてみせても、不安がなくなる様子はない。
「そもそも植えたのは白のクレマチスであって、青とか紫ではないんだけどなぁ」
白い蕾に触れながら、少女は呟く。
「第一、育ててた花を摘まれたからって病気になるほどは落ち込まないよ。そりゃあがっかりはするけど、また育てたらいいんだし」
「でも、咲いたら青になるかもしれないし、病気にだって……」
何度も繰り返したやりとり。同じ結果に、少女は疲れたように頭を抱えた。
そこで、ふと以前読んだ本の内容が思い浮かぶ。
「病気ってさぁ。もしかして花を摘まれたことじゃなくて、鼠からだったりしない?」
きょとんと目を瞬かせる猫に、少女は説明する。
鼠が色々な病気を媒介すること。その中には命に係わるような病気も含まれていること。
猫が分かりやすいようにと噛み砕き、ついでに人は鼠を食べないとも伝えれば、猫は衝撃をうけたように尾を震わせた。
「鼠……病気……食べない……」
大きな目をさらに大きく見開き、猫は呆然と呟く。どうやら話を聞いたショックで涙は止まったようで、少女は申し訳なさを感じながらも安堵の息を吐いた。
だから、大丈夫。
そう続けようとした少女の笑みは、しかし猫の次の言葉を聞いて引き攣った。
「でも、ここ……たくさん鼠がいるけど、どうしよう……」
「え……?」
タイミングがいいのか、悪いのか。
視界の隅で鼠が家の床下から出てくるのを見て、少女は声にならない悲鳴を漏らした。
「ここ、昔鼠の大将が住んでいたから、そのせいで鼠が今も多いんだよね。猫にとっては食べ物に困らない楽園ではあるんだけど」
そう言って少女を見つめる猫の目は、何かを決心したように強い光を湛えている。
少女に近づき、動けなくなった少女の手を握る。緩慢な動作で視線を向ける少女と目を合わせ、猫は一つ頷いて大きく尾を揺らした。
「今まで気づかなくてごめんね。あと、これからしばらく賑やかになると思うから、それもごめん」
「どういう、意味?」
猫の謝罪の言葉に、少女は意味が分からないと表情を曇らせる。不安そうな少女を安心させるように猫は目を細め、尾で少女の腕を撫でた。
「穴場だったから今までは他の猫に内緒にしてたんだけど、皆に教えることにするよ。そうしたら猫がたくさん来て鼠を捕りつくしてくれるだろうから」
きゅっと手を握ってから離し、猫は少女が何かを言う前にどこかへ向けて駆け出していく。
一人残された少女は猫を追いかけることもできず、戸惑うように花の蕾を見つめていた。
「――というのが、ちょうど一年前のこと」
花を植え替える手を止めぬまま、少女は笑って友人に語る。
彼女が植え替えているのは青色のクレマチス。側では赤や白の花を咲かせたクレマチスに、猫が如雨露で水をやっている。
「急にどこかに行ったと思ったら、その日の夜に大変なことになるなんて思わなかったよ。すごい音がして外を見れば、何匹もの猫に追い回される鼠の群れがいるんだもん。思い出しただけで今も体が震えるよね」
そう言いながらも少女はとても楽しそうだ。鉢に植え替えたクレマチスを友人に手渡しながら、辺りを見回しあれはすごかったと目を細める。
「最後にはさ、どこに隠れていたんだろうってくらいの大きな鼠が出てくるし。まるで物語の中の世界にいるみたいだった」
いや、この状況がすでに非現実だから。
心の中でそう反論しながら、友人は渡された鉢を手に愛想笑いを浮かべた。
少女は一切気にかけることはないが、彼女の家の中や庭は猫で溢れ返っている。
どこを見ても、猫ばかり。鼠がいなくなった後もここを気に入り住み着いてしまったと少女は笑うものの、数が多すぎる。
だが友人が一番気になったのは、どの猫も普通ではないということだった。
二股に分かれた尾。二足歩行をし、言葉を話す猫もいる。
少女がさも当然のように、普通の猫と認識しているのが友人は不思議でしかたがなかった。
クレマチスの花を貰えるからと、気軽に少女の家にくるのではなかった。
少しだけ後悔しながらも、友人は引き攣った笑みを浮かべながらも何も言うことはない。
「また来てよ。もう少ししたら、カサブランカや紫陽花なんかも見頃になるし。なんだったら、また鉢を分けてあげるから」
「あ、うん……楽しみにしてる」
ほとんど無意識に出た楽しみという言葉に、内心で驚きながら。
「ちょっと、そこ!紫陽花の葉っぱ食べないで!」
「ごめんー」
「ねぇ、ミミズ見つけた!大きいの!」
「あっちに雀いたけど、食べていい?」
「やめなさい!いつものご飯で我慢して」
随分と賑やかな面々と、楽しそうな少女の笑顔を見て。
まあいいかと、それ以上考えることを諦めた。
20260508 『一年前』
木は全てを見ていた。
子供たちの笑い声が響く。
やんちゃ盛りの子が三人、何かを手に駆けてきた。それは綺麗な刺繡を施された、白のハンカチだというのが見て取れた。
明らかに女物のハンカチ。彼らの持ち物でないことは一目瞭然だった。
不意に風が吹き抜け、子供たちの手からハンカチを攫って行く。木の枝にかかるそれを子供たちはしばらく呆然として見ていたが、やがて一人、また一人とその場を去って行ってしまった。背後から聞こえる、泣きながら彼らを呼ぶ声が近づいてくることに気づいて、慌てて逃げ出したのかもしれない。
少しして、今度は白のワンピースを着た少女が現れた。泣き腫らした赤い目をして誰かを追いかけてきたらしいが、限界がきてしまったのだろう。木の根元に立ち尽くし泣き始めてしまった。
その時、風が吹いて木の葉を揺らした。その音に少女は顔を上げ、視線が木の枝に引っかかるハンカチに注がれる。
息を呑む音。見つめる少女の目から、はらはらと大粒の涙が溢れ落ちていく。
木の幹に手を添え、背伸びをしながら手を伸ばすが、到底届くはずもない。けれども諦めきれずに手を伸ばし続けていると、一人の少年が通りがかった。
「どうしたの?」
木に手を伸ばす少女の様子を見て、不思議そうに問いかける。近づきながら手を伸ばす方へと視線を向け、ハンカチに気づいてあぁ、と声を上げた。
「風に飛ばされちゃったんだね。それなら取ってきてあげるよ」
そう言って少年は木に手や足をかけ、器用に上り始めていく。突然のことに驚き見守る少女の前で枝まで辿り着きハンカチを取ると、少女に微笑んでハンカチを振ってみせてから、するすると木を降り始めた。
「はいどうぞ」
笑顔で差し出されたハンカチを、少女は戸惑いながら受け取った。ハンカチを胸に抱き、ようやく今起こったことの理解が追い付いたのか、ふわりと笑みを浮かべた。
「ありがとう」
「どういたしまして。じゃ、僕は行くね」
少女のお礼の言葉に少年は笑って答え、引き留める間もなく去って行ってしまう。
「あ……」
その背が見えなくなるまで、少女はいつまでも見つめていた。
あれから数年が経ったある日。
木の根元で、とある少年が少女へと告白をしていた。
「ずっと前から好きだった。好きの伝え方が分からなくて、ガキの頃はいじわるをしていたけど、好きだったんだ」
真剣な表情の少年は、数年前に白いハンカチを手に笑っていた子供たちの内の一人だった。
少女はかつての少年の行為を責める様子もなく、ただ静かに少年の姿を見つめている。
やがて小さく息を吸って、少女は少年へと答えを返した。
「――ごめんなさい」
静かな声だった。それは少年の想いに対しての否定や拒絶の言葉ではなく、けれど想いを受け入れられないという事実を告げる声だった。
「私も、ずっと好きな人がいるの」
「そっか……」
くしゃりと顔を歪めて、それでも少年は笑った。泣くのを必死に耐えた不格好な笑顔で、震える声で、ありがとうと一言呟く。
そっと風が吹き抜けた。少女の髪を揺らし、耐えきれずに一筋溢れ落ちてしまった滴を拭い、過ぎていく。
「好きな人と、結ばれるといいな」
ぽつりと落ちた言葉に、少女はふわりと微笑みを浮かべた。小さく頷いて、ばいばいと呟いてから去っていく。
その少女の背を、いつまでも少年は見つめ続けていた。
そしてまた数年が経った。
一組の男女が、木の下で見つめ合っている。
「俺と結婚してほしい」
目を見つめ告げる青年に、女性は頬を赤く染めながら頷いた。
途端に笑顔になった青年は、女性を抱き寄せ安堵の吐息を漏らす。青年の腕が微かに震えていることに気づき、女性はくすくすと笑い声をあげた。
「笑うなよ。すごく緊張したんだから」
「あなたでも、緊張することがあるんだなって思ったらおかしくなったの」
青年の腕の中で、少女は木を見上げ目を細める。昔を懐かしむように枝を見つめ、あのね、と囁いた。
「覚えていないかもしれないけど、木の枝に引っかかってるハンカチを取ってくれた時から好きだったの。初恋だったのよ」
「もちろん覚えているよ。ハンカチを胸に抱いて笑う君がとっても綺麗で、恥ずかしくなって逃げ出したんだ。それが俺の初恋だった」
もう一度出会うことができてよかったと、青年は笑う。探したのよと、女性は秘密を打ち明けるように笑い、青年の胸に凭れた。
「背中を押してくれた人がいたから。だから諦めずにいられたの」
「なら、感謝しないとな。背中を押してくれた誰かに」
微笑み合う二人の間を、風が擦り抜けていく。木の葉を揺らし、一枚の葉を落とした。
青年の頭に降ったそれに、女性は手を伸ばす。その手を青年に取られ、間近で見つめ合う二人の距離がやがて零になっていくのを、木だけが静かに見守っていた。
寄り添い去っていく二人の背を見送りながら、木は回想する。
少女に別れを告げ去っていった少年の赤い顔。その背を見つめる少女の甘い溜息。
告白を断った少女の決意の眼差し。それを見送るかつての子供の嗚咽。
そして幸せそうな二人の笑顔。
全てを見てきた。
初恋が芽生えた日も、初恋が散った日も。そして初恋が実った日も、木はここに佇み見守っていた。
初恋が関わるそのどれもが、同じ日で起こったことを。
木だけが知っている。
20260507 『初恋の日』
「明日世界が終わるとしたら、何がしたい?」
いつもと変わらぬ口調で彼女は言った。
まるで休日の予定を聞くように。ただの例え話だと言うように。
「どうしたの、急に?」
「何となく。明日が最後ならどんなことをするのか興味があったから」
ふふ、と笑う。その笑顔もいつもと変わらないように見えた。
「そうだなぁ……」
だから、自分も深く考えることなく。
明日のその先が、当たり前に来るのだと疑いもせずに、彼女と過ごす、最後の明日を考えたのだ。
「それで、なんて答えたの?それから世界はどうなったの?おじいちゃんは今も元気だから、世界は終わらなかったんだよね?」
身を乗り出して問いかける孫娘に、男は目を細めて微笑む。
刻まれた皺が、男が過ごしてきた時間の長さを物語る。いつ会いに来ても元気な祖父の笑みに、孫娘は益々話の結末が気になって仕方がなかった。
――後悔のないように生きなさい。明日世界が終わってしまっても悔いがないように。
祖父は会う度に、そう口にする。その理由が気になり尋ねると、祖父は懐かしそうにどこか遠くを見ながら、昔明日世界が終わったとしたらと友人に聞かれたのだと答えた。
いつも穏やかな祖父が、その質問に何と答えたのか。そして世界が終わりを迎えたのか。
孫娘は祖父の話を一言も聞き漏らすまいと、視線を合わせて話の続きを待った。
「どんなに考えてもじいちゃんには世界が終わる想像ができなくてね。そもそも世界を具体的に想像できなかったから、何も特別なことはしないと答えたよ。いつものようにご飯を食べて、学校に行って、放課後に図書室で好きな本を読んでから帰る……いつもと同じ過ごし方を答えた」
そして明日が来て、祖父は友人と共にいつもと同じような一日を過ごしたのだと語る。その声音は祖父の人柄を表すように穏やかで、けれど孫娘はその中にどこか悲しみを感じ取り少しだけ表情を曇らせる。
「おじいちゃん……」
「じいちゃんには、明日のその先も終わることなく続いていた。彼女も終わりはなかったけど……世界は終わってしまった」
息を呑んだ。無意識に孫娘の視線は窓の外へと向けられるが、青空が広がる外はいつもと変わった様子はない。
「世界が……終わっちゃったの?」
「そうだよ。真っ暗で、何もかもが壊れてね。それでいて、あちこちで炎が上がって……じいちゃんと彼女が朝を迎えられたのは、奇跡みたいなものだった」
そこで孫娘は思い出した。祖父が住んでいるこの辺りでは、昔とても大きな地震が起こったのだということを。
建物は崩れ、あちらこちらで火災が起きたのだという。その光景はまさに世界の終わりと言っても過言ではないのだろう。
「明日世界が終わったとしたらなんて、ただの偶然だったのかもしれない。けれど彼女の言葉通りに世界が終わってしまったって、街を見て呆然としたよ……じいちゃんにとって、日常こそが世界だったんだろうな」
帰る家があり、迎えてくれる家族がいて、そして毎日変わらない生活ができる。
子供にとっては、それが世界のすべてだったのだろう。想像して、孫娘は確かにと納得した。
同時にそれが崩れてしまった時のことを考えて、その恐ろしさに身震いする。どんな悪夢よりも恐ろしい光景を前に、平気でいられることなど孫娘にはできそうになかった。
「おじいちゃんは、世界が終わっても頑張れたんだね」
自分には絶対に無理。そう呟く孫娘の頭を優しく撫でながら、祖父は目じりの皺を濃くして微笑みかける。
「じいちゃんも、きっと一人だったなら頑張れなかった。周りに大切な人たちがいたから、前に進めたんだよ」
「それって、彼女って人のこと?」
首を傾げ孫娘は問うが、祖父は微笑むだけで答えをくれる様子はなかった。
どんな人なのか。けれどある程度の予想ができて、孫娘は思わずふふ、と笑い声を上げた。
「それってさ。もしかして――」
その時、部屋の戸が開いて祖母が入ってきた。
手にはお茶とお菓子が乗った盆を持ち、祖父のような穏やかな微笑みを浮かべ二人に声をかけた。
「おしゃべりもいいけれど、そろそろおやつにしませんか?」
「そうだね。続きはまた後で」
「分かった!でも後で答え合わせをさせてね」
孫娘はそう言うと祖母の手から盆を取り、テーブルに置いた。礼を言ってお茶の準備をし始める祖母は、ふと手を留めて二人を見て少しだけ首を傾げる。
「何の話をしていたの?答え合わせってなんのことかしら?」
「あぁ、それはね」
「明日世界が終わったって言ってくれた彼女が誰なのかの答え合わせだよ。私の予想ではおばあちゃんだと思うんだけどな」
笑いながら孫娘は祖母を見る。驚いたように目を瞬いて、祖母は祖父を見ながら懐かしそうにくすくすと笑いだした。
「そんな昔の話をしていたの?」
「どうしていつも後悔のない毎日を過ごせと言うのか聞かれたからね」
視線を逸らしながら言う祖父を、孫娘は面白そうに見つめた。
祖父は祖母のことをいつも大切に思い、愛している。素朴でありながら幸せな日々を過ごしている二人を見るのが、密かに孫娘にとっての楽しみだった。両親と負けないくらいの仲睦まじさは、見ているだけでも嬉しくなる。
「そうなの?なら、私もとっておきの話を教えてあげようかしら」
「え?どんな話?」
「おい。まさか」
祖母の言葉に孫娘は興味を引かれ、祖父はどこか焦ったような顔をする。正反対の反応を見せた二人を見て笑いながら、祖母はあのね、と内緒話をするように声を潜めて語り始めた。
「おじいさんのプロポーズの言葉なんだけどね。『世界は終わってしまったけれど、君のおかげでいつまでも立ち止まらずに前に進むことができた。だからどうか、僕の新しい世界になってください。幸せにすると誓うから、いつまでも僕を導いていてほしい』だったのよ」
「へぇ……僕の世界に、ねぇ……」
赤くなった祖父を、孫娘はにやにやとした含みのある笑みを浮かべて見つめた。うぅ、と呻き声を上げる祖父の反応を楽しみながら、チョコレート菓子に手を伸ばす。
口にいれたチョコレートはいつもより甘く感じられ、胸焼けがしそうだと孫娘は言葉には出さずそうぼやいた。
「誓ってくれたから、私はいつも幸せよ。あんたも、そういういい人を見つけなさいね」
「いい人、か。いるかなぁ。おじいちゃんやお父さんみたいな、一途で素敵な人」
孫娘の父も、祖父に負けず劣らず母を愛している。そんな姿を見て育ってきたからか、孫娘は未だに好きな人ができたためしがない。
溜息を吐く孫娘を見つめ、祖母はふと何かに気づいたように目を瞬いた。笑みを濃くし、二つ並んで包装紙の中に収まるキャンディーを手に取ると、孫娘へと手渡す。
「心配しなくても、もうすぐ素敵な人に出会えるわよ。だからそんなに落ち込むことはないわ」
「――それって、予言?」
「さぁ、どうかしらね?」
答えをはぐらかされ、釈然としないながらも孫娘はキャンディーを受け取った。袋の中で、赤と青の四角いキャンディーが光を反射する。
宝石のように煌めくキャンディーを見ながら、孫娘はふっと笑みを浮かべた。
祖母の言葉はよく当たる。何度も目にしてきたそれを、今更疑う余地はない。
「なら、その人に会った時、後悔する結果にならないように頑張らないと」
「そうね。後悔しないように」
「明日、突然世界が終わってしまうかもしれないんだ。迷ってもいいが自信がないからと、いつまでも動かないことがないようにな」
祖母と祖父の言葉に頷いて、孫娘はお茶を飲み干すとキャンディーを手に立ち上がった。
「ちょっと出かけてくる!」
「はい、いってらっしゃい」
「気を付けるんだぞ」
祖父母に見送られながら、孫娘は勢いよく部屋を飛び出した。
一度自室に戻り、鞄を手に家を出る。お守りのようにキャンディーを鞄の中に入れると、気の向くままに駆け出した。
「明日世界が終わるなら……」
祖父の言葉を思い出す。
孫娘にとっての世界は何であるかは分からない。けれどそれが突然に終わってしまったとしても祖父のように新しい世界が始まることもある。
孫娘は笑みを浮かべて、祖母から貰ったキャンディーを鞄越しにそっと撫でた。
20260506 『明日世界が終わるなら……』