sairo

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3/10/2026, 9:48:37 AM

立ち止まり、一度だけ振り返る。
夕暮れでもないのに、影が長く伸びていた。まるで引き返そうとでもいうかのように、来た道を黒く染めていく。

「駄目だよ」

静かに告げれば、影は途端に動きを止める。しかしまだ迷いがあるのだろう。戻る気配は一向にない。

「駄目。それは置いていかなければならないものだ。過ぎ去ったものに手を伸ばすなんて意味のないことをしないで」

淡々とした無慈悲な言葉に、影は小さく震えた。
力なく項垂れながらも、最後に歩いてきた道の先へと腕を伸ばす。だがその手に触れるものはなく、やがて腕を下した影はゆっくりと元の大きさへと戻っていった。

「随分と酷い言葉。意味がないなんて、どうして言えるのかしら」

不意に声が聞こえた。
咎めるような響きを持ちながらも、柔らかな声音が鼓膜を揺する。

「別れは仕方のないこと。廃れるのもまた致し方ない……けれど過ぎ去った日々は決して意味がないものではないわ」

振り返れば、いつの間にか道の端に少女が佇んでいるのが見えた。
その腕には何かが抱えられている。湾曲した長方形の何か。白にも銀にも見える無数の糸は、まるでざんばらに切られた髪のように、風になびき揺れている。
黒く濡れた目が瞬いて、開いた口から言葉の代わりに旋律が溢れ落ちた。
聞いた覚えはないはずなのに懐かしさを感じるその音色。思わず眉を顰めた。

「いつまでも昔に縋っていることに意味はあるの?誰にも見向きもされない古いだけの音なんか、ただの雑音と変わらないよ」
「本当に?」

少女は微笑み、そっと腕の中のそれを撫でた。
物悲しい旋律が響く。壊れて現実には鳴らない琴が、泣くように歌っている。
音に惹かれ、元に戻ったはずの影が伸びていく。首を傾げ、歌う琴に触れようと手を伸ばす。

「駄目だよ」

咎めれば、影の動きは止まる。けれどもやはり、元には戻らずその場に佇んでいる。
迷っているようには見えなかった。見えない目が、見定めるかのようにこちらを向いている。そんな気がして落ち着かない。

「本当は戻りたいのね。でも諦めてしまっている。過ぎ去ってしまった日々には手が届かないと言い訳をして、顔を背けている……手を伸ばさなければ、届かないけれど傷つくこともないから」
「っ、煩い!」

気づけば声を荒げていた。
影が体を震わせている。だが少女は臆することなくこちらを見つめ、腕に抱かれた琴もまた、視線を逸らすことはなかった。

「知った口をきくな!何も知らないくせに。何も知ろうともしないくせにっ!」

酷く不快だった。無遠慮に内側に入り込み、上澄みだけを暴き立てる。そこに沈む思いを知ろうともしない独りよがりな行為に、怒りと侮蔑が込み上げる。

「もう、うんざりだ!これ以上構わないでくれ。そっとしておいてくれよ」

思いをすべて吐き出し、残るのは奥底に沈んだ悲しみだけだ。肩で息をしながら睨む視界の端がじわりと滲む。
どれだけ叫ぼうとも少女が変わらないことが、酷く苦しかった。

「――確かに、何も知らないわ」

ぽつりと、少女の静かな声が落ちる。

「あなたが私の痛みを知らないように。この子の嘆きを聞かないように」

琴が歌う。悲しげで、寂しげな旋律が身に染み込み、胸を締め付ける。
自分の悲しみよりも深く沈むそれは壊れたからか、それとも絶えてしまったからなのか。

「何も言わないのだから、知りようがないわ」

告げられた言葉が棘となって突き刺さり、思わず息を呑んでいた。
確かにそうだ。伝えようとしなければ、何一つ伝わらない。
理解して、急に恥ずかしくなった。さっきまでの自分が駄々をこねる子供と重なって、怒りや悲しみが萎んでいく。

「あ……えっと……」

何かを言わなければいけない気がした。けれど何を言えばいいのか分からずに、意味のない言葉だけが溢れていく。
そんな自分を馬鹿にするでもなく、少女は変わらず穏やかに告げた。

「戻れるわ」

不思議とその言葉に反発する気持ちはなかった。少女の腕の中で歌う壊れた琴が笑っているように見えたからなのかもしれない。

「過ぎ去った長い日々の中で絶えてしまったものでも、いつか誰かに目を向けられて手を伸ばしてもらえる時がくるもの。それにあなたには、気にかけてくれる人がいるでしょう?だから戻れるわ」
「気にかけてくれる、人……」

思い浮かぶのは、家族や友人たちの顔。
そういえば、と思い出す。
皆、待つと言ってくれた。協力は惜しまないと笑っていた。

「――もう一度、始めてみようか」

ぽつりと呟けば、少女は柔らかく微笑む。
あれだけ元に戻ることを拒んでいた影が、するすると戻ってくる。
その単純さに、自分の影ながら呆れて笑った。

「戻れるかは分からない。でも過ぎ去った日々に置き去りにしたものを、もう一度だけ拾いに行ってくるよ」
「頑張って。大丈夫、ちゃんと拾えるわ」

少女の言葉に背を押され、振り返り歩いてきた道を引き返す。
餞別なのか、琴の音色が聞こえた。どこか楽しげで、その旋律は壊れているとは思えないほど美しかった。
笑みが浮かぶ。足取りは軽く、あれだけ戻ることを怖がっていたのが嘘のように気分は爽やかだ。

「もう一度だけ……」

道の先に見える、小さな光。
その向こう側から微かに聞こえる、琴の音とは違う響きが聞こえている。
時に力強く、時に物悲しい弦の音。思わず走り出していた。

「大丈夫」

怖くはない。
あるのは、初めて音を鳴らした時の胸の高鳴り。過ぎ去った遠い過去に生きた人々を音と言葉で紡ぐ時のざわめき。
影が伸びる。待ちきれないとばかりに、光の中に飛び込んでいく。

「せっかちだなぁ」

たまらず声を上げて笑った。
声は出る。手の痛みや痺れは感じない。
手を伸ばせば、きっと置いて行った自分に届くのだろう。

「大丈夫」

繰り返して、速度を上げる。
影のように、迷わず光の中へと飛び込んだ。



20260309 『過ぎ去った日々』

3/9/2026, 2:39:52 PM

施設の一室で、少女は虚ろに窓の外を見つめていた。
まだ小学生くらいの幼さの残る少女だ。まだ親の愛を必要とするだろうに、少女の元には月に一度、思い出したように母親が見舞いにくる程度だ。
見舞いに来たとしても、親子の間に会話はない。母親は淡々と持ち込んだ衣服などの日用品を補充、あるいは交換し、職員と義務的な会話をしてすぐに去っていく。
疎まれている程ではないが、あからさまに少女と関わることを避けている。唯一の救いは、少女はもう母親すら認識できていないことだろうか。

「可哀そうにねぇ」

口では憐みながらも、職員の多くは少女の身に起きた悲劇に興味を隠しきれてはいない。
少女の心を壊したある事件。母親が訪れる度、職員たちは心配を装いながらも事件の詳細を知ろうと声をかけている。不謹慎ではあるものの、あまりにも現実離れした出来事は、好奇心を掻き立ててしまうのだろう。

少女には姉が一人いた。
姉妹仲は良かったという。年が離れているためか、両親に代わって姉が世話を焼いていたらしい。
その姉が、半年前に亡くなった。
病気や事故ではない。少女の住む村の奥、山の中腹にある淵の底で沈んでいるのが見つかった。
全身にはきつくカーテンが巻かれ、身動きひとつ取れない状態であった。ただ不可解なのは、村の者は始め、皆口を揃えて決まりを守らなかった報いだと姉を蔑み、犯人を捜そうとしなかったことだ。
少女の姉が亡くなった夜。村では月待ちという一年の豊穣を願う古くからの風習が執り行われていた。そのためその淵の周囲には、村の大人たちが集まっていたという。
その月待ちでは、少女の姉を含む子供たちは朝まで家から一歩も出ずに過ごすらしい。その決まり事を破り外に出たため、祟られたのだと村の誰しもが言っていた。
だが、その認識は最近になり変わった。誰が流したのか、少女の姉に対し邪な思いを抱く者の仕業だという噂が囁かれるようになったからだ。
噂は大地に染み込む水のように村全体に広がり、猜疑心を育て上げる。互いを疑い、事あるごとに諍いとなって、村を出て行く者も多いようだ。
少女の母親も、数週間前に村を出ていた。しかし見舞いに訪れる頻度が変わらないのは、少女に対しても疑いを持っているからなのかもしれない。

「可愛そうにねぇ」

職員たちは囁く。悲しげに、それでいて楽しげに。
そんな言葉を少女は気にせず空を見上げ、月を待っていた。





夜の暗闇に浮かぶ白の月を、少女は無心で見つめていた。
その眉が僅かに寄る。昼間と異なり、少女の目に浮かぶのは深い悲しみと寂しさだった。

「お姉ちゃん」

かさついた唇が、愛しい人を呼ぶ。答えのない虚しさに、握り締めていた手に力が籠る。
少女の中にある最後の日の記憶は所々が抜け落ち、酷く曖昧だ。
はっきりと覚えているのは、鐘が鳴るぎりぎりに姉が帰ってきたこと。いくら麓の学校に通っていて時間がかかるとはいえ、鐘が鳴ってしまえばどんなに頼み込まれても家の鍵を開けることはできない。だからこそ安堵したと共に、姉の危機感のなさに怒ったのを覚えている。それは決まり事だからというよりも、月待ちが始まることを知らせる鐘が鳴ってしまえば、少女の意識が保っていられないことが原因だった。
鐘が鳴るのを聞いて、そして気づけば朝を迎えている。鐘の音を聞いた後、寝るまでの記憶が欠落しているのだ。今までは特に気にすることはなかったが、こうして姉を失った今は、その欠落が酷く憎らしい。
あの日、姉の側にいることができたのなら、失うこともなかったのだろうか。今も髪を梳いてくれたのだろうか。
もしも姉の手を離さなければ、月に奪われることもなかったのか。

「月……」

忌々しいとばかりに少女は月を睨みつける。
少女は知っていた。姉は月に攫われたのだと。不要な体を捨て、月と共に村を去ったのだと。
月待ちの儀によって、村の者への富を与える代わりにその身を蝕まれ続けていた月。その全てを喰らいつくされる前に、誰の手も届かない場所へ姉を連れて行ってしまった憎い月。
一人残されて、少女は恨めしい気持ちで唇を噛んだ。

「寂しい」

ぽつりと、思いが溢れ落ちる。
姉を失ってから、少女はずっと寂しかった。現実から目を背け、拒否するほどに、寂しくて苦しかった。

「お姉ちゃん」

答える声はない。それでも呼ばずにはいられない。

「寂しいよ、お姉ちゃん」

少女の頬を流れ落ちる滴が、月の光を反射し煌めいた。



「相変わらず、甘えたがりなのだから」

困ったものだと、笑う声がした。

「お姉ちゃんっ!?」

はっとして、振り返る。
だが少女の目が恋しい人の姿を捉えるより早く、誰かの胸の中へと抱き込まれた。
懐かしい匂い。優しく髪を撫でる手つき。見えずともそれが誰なのか分かり、少女はその背に腕を回してしがみついた。

「お姉ちゃん。お姉ちゃんっ」
「本当に困った子だ……いや、困ったのは両親の方か。このまま人間として生きていられるよう手を回したというのに、結局は富の方が大事という訳か」

姉が何を言っているのか、少女には理解できない。理解できなくともよかった。おそらくは少女のために何かをしてくれたのだろう。だがそれよりも姉と離れないように、少女は泣きながら必死で縋りついていた。

「他者を出し抜き、富を独占しようとする思いが根底にある故、この結末は必然であった。それは其方らの親も変わらぬ。戻れはせぬがそれを理解せず、妹御を新たな月に召し上げることを諦めてはおらぬ」
「――そうか」

知らぬ男の声。反射的に少女は抱き着く腕の力をさらに強めた。

「そんなにしがみつかなくても、どこにも行きはしないよ。ただ、そうだね。これからどうするのか、選ばなくてはいけない」
「えらぶ……?」

姉の言葉を、少女はしゃくり上げながら繰り返す。
顔は上げられなかった。今姉の顔を見てしまっては、求めるものを何一つ答えられなくなってしまうような気がしていた。

「そうだよ。ここに残るか、私たちと来るか……母さんと父さんは、お前を使って富……つまりはお金を得ようと動いている。あの二人も村の皆と同じで、富以上に大切なものはないんだ。だからここに残るのならば全く別の、お前を愛してくれる場所に連れて行くことになるが……」
「お姉ちゃんと一緒がいいっ!」

最後まで待たず、少女は叫ぶように声を上げていた。
くすりと笑う声。少女の答えを予想していたのだろう。姉は穏やかさの中に哀しみを混ぜた声音で、少女に告げる。

「私たちと来るならば、それは人間としての死を意味することになる。それでもいいの?」
「いいっ!お姉ちゃんと一緒がいいの!」
「困った子だ。目を見てくれれば、上手く誘導ができたというのに」
「其方の妹だ。一筋縄ではいかぬよ。一度決めたことを曲げぬ強さは、よく似ている」

苦笑。顔を上げるよう促され、少女は嫌々と首を振る。だがこのままでは何も変わらないと理解しているのだろう。小さく息を吐き、恐る恐る顔を上げて姉と目を合わせた。
瞬間、少女の意識が微睡み始める。姉の服を握り締めていた手の力が抜け、力なく落ちていく。

「お休み……大丈夫。心配しなくとも、一緒がいいと望まれたんだ。置いていくことはしないよ」

優しい声が聞こえた。
その言葉に安堵して、少女は深く眠りについた。



翌朝。
職員が部屋へ訪れると、そこには穏やかな顔で眠りにつく少女の姿があった。
初めて見る、幸せそうな微笑み。とても良い夢を、最後に見ていたのだろう。
慌ただしく動き回る職員に囲まれながら、少女は眠り続けている。
深く、深く。
もう二度と、覚めない夢を見続けている。





いつからか語られるようになった昔話。

とある村の住人は皆強欲で、偶然捕まえた月から光を剥ぎ取り、それを金に換えて暮らしていた。
しかしある日、一人の少女が月を連れて逃げ出した。人のままでは空を飛べぬと体を捨て去り、月と共に空へと消えていった。
残された村人は大慌て。急いで追いかけるも、すでに月と少女は天高く昇り、もう二度と届くことはない。
怒った村人は、今度は少女の妹を使って金を得ようとした。少女と妹は村の中で一等美しく、元より月の全てを金に換えたら姉妹を使おうと企んでいた。
それに困った姉は、月と共に妹を守るため策を講じることにした。
数日後、村の様相は一変する。
あちらこちらで喧騒が起き、色々なものが飛び交い壊れていく。村人たちは互いを疑い、罵り合い、そうして村は壊れていった。
不和の種は、一つの噂。
妹を連れて金を独り占めしようとする者がいるらしい。そんなちっぽけな種は、だが金より大切なものを知らなかった村人にとって何よりも脅威だった。
種は芽となり葉を広げ、蕾をつけて花を咲かせた。黒々とした欲にまみれた花は村に毒を撒き、全て狩りつくしてしまった。

こうして誰もいなくなった村で、妹は姉と月と共にいつまでも幸せに暮らしましたとさ。
めでたし、めでたし。



20260308 『お金より大事なもの』

3/8/2026, 4:25:58 PM

猫の眼のような金色の月が、暗い夜空に浮かんでいた。

「しまった……」

小さく舌打ちをして、足早に家へと向かう。丸い月に欠けた所はまだなかったが、空高く昇る頃には端からじわじわと欠けていくのだろう。
月蝕。一般的にそう呼ばれる月が欠ける現象に似ているものの、これから起こることは違うらしい。
年に一度、古くからこの村で行われる月待ちの風習。欠けていく月を待って何をするのかは分からない。大人だけが集会場に集まり、子供はその間必ず家にいなければならないからだ。

「今夜だったのをすっかり忘れてた。お母さんたち、もう出てるかな」

そういえば、今日は早めに戻るように言われていたことを思い出す。その時は話半分に聞いていたが、あれは今夜が月待ちの日だったからなのだろう。

「面倒くさい……」

眉を寄せ愚痴を溢しながら、灯りの消えた道を急ぐ。
来年にはこの村を出ていく予定だというのに、何故こうして意味の分からない決まりを守っているのか。馬鹿馬鹿しいとは思うものの、急がなければ家に入れなくなってしまう。
月待ちが始まれば、家に残された子供たちは朝まで厳重に鍵をかけた暗い家の中で過ごす。その間来訪者があったとしても、決して出てはいけないと言われている。
自分とは違い、まだ親のいいつけをしっかりと守る年の離れた妹は、いくら呼びかけた所で鍵を開けてくれることはないのだろう。始まりの合図である鐘の音が聞こえる前に帰らなければ、一晩外で過ごすことになってしまう。
浮かぶ月を一瞥し、速度を上げる。
星の見えない夜空に浮かぶ金の月。
昔から、この日の月は好きになれなかった。



「遅いよ、お姉ちゃん」
「ごめんね」

玄関の鍵をしっかりと閉めながら怒る妹を適当にあしらい、台所で水を汲んで一気に呷る。
深く息を吐き出す。走ってきたために汗で服が張り付き、不快だった。シャワーでも浴びようと、コップを片付け台所を出る。
廊下の電気を点けようと手を伸ばすが、その時ちょうど鐘が鳴り響いた。
月待ちが始まったのだろう。ランタンを手に近づく妹が、スイッチに伸びたままの手を見咎めて頬を膨らませた。

「電気、点けちゃ駄目だからね」

相変わらず妹は何の疑問も持たず、両親の言いつけを守ろうと必死だ。思う所はあるものの、自分も妹と同じ年の頃には変わらなかったと思い直す。

「分かってる。点けないよ」

苦笑してスイッチから手を離せば、妹は手にしていたランタンをこちらに手渡してきた。慌てて返そうとするも、妹は首を振り受け取ろうとしない。

「わたし、もう寝るから。夕ご飯は机の上にあるからチンして食べてってお母さんが言ってたよ。お姉ちゃんも電気を点けないで早く寝てね」

それだけを言って、妹は横を通り過ぎ自室へと去っていく。何も言えずにその背を見送って、疲れたように息を吐いた。
いつもは甘えたがりで怖がりな妹は、何故かこの日は酷く冷めた態度を取る。いつからそうなったのかは覚えていない。最初は戸惑い、どうすればいいか分からずにおろおろと妹の部屋の前をうろついていたが、ここ数年は妹の変化に何かを言うことはなくなった。
この日だけだ。次の日になれば、今日のことはすっかり忘れてしまうはず。
そう自分に言い聞かせながら変化から目を逸らす。安易に踏み込んでしまえば後悔する気がして、両親にすら何も言えないでいた。



シャワーと夕食を済ませ、自室で一人、ランタンの中で揺れる火を見ていた。
月待ちの夜は、電気を点けてはいけない。窓から外を見てもいけない。
いくつもの決まり事を思うだけで息が詰まる。まるで何かから隠れているようだ。
けれど昔は何も疑問には思わなかった。妹と同じように決まり事を守り、今頃は夢の中にいた。ただ人よりも好奇心旺盛だった自分は、母に月待ちについて聞いたことが何度もあった。

――大事なことなのよ。大人になったら分かるわ。

母は笑い、教えてはくれなかった。だがそれからも事あるごとに問い続ける自分に何か思う所があったのか、誰にも言わないという約束で一つだけ教えてくれた。

――月から降りてくるモノが、子供たちの方へ行ってしまったら大変だからね。

その言葉はどこか歪で醜く聞こえ、頭が痛んだのを覚えている。大変というのは、子供を心配しているからではない。それが理解できて、その時初めて、この村を出て行こうと決めたのだ。
溜息を吐いてランタンの火を消す。立ち上がり窓まで歩み寄ると、カーテンを薄く開けて浮かぶ月を見上げた。
こうして月待ちの夜にこっそりと月を見るようになったのは、母から話を聞いてからだった。

「また、欠けてる……」

去年見た時よりも明らかに欠けている月を見て眉が寄る。何かに月が食べられているかのような欠け方に、漠然とした不安が込み上げる。
両親は欠けて消えていく月を、どんな思いで見ているのだろうか。

「――あと一年。そうすればここから出ていける」

呟いて、カーテンを閉める。こんなに不安になることも、浮かぶ月に嫌悪感に似た気持ちを抱くのも、きっと村から出れば感じなくなるはずだ。それだけを信じて、今まで努力し続けてきたのだから。
こんなよく分からない月夜を一人で過ごすのも、これで最後だろう。閉めたカーテンを一度だけ撫で、ベッドへ戻ろうと窓に背を向けた。

「――え?」

暗いはずの部屋に、細く光が差し込んでいた。まるでさっき開けていたカーテンの隙間から差した月明かりが残っているかのように。
咄嗟に振り向くも、カーテンは閉まったままだ。

「なんで……?」

光とカーテンを見て、呆然と呟いた。この光はどこから来たのだろう。ランタンを消したことで部屋の中に灯りは何一つなく、光はあからさまに窓から伸びている。
そもそも、窓辺に自分が立っているのだから、カーテンを開けても光は半分以上遮られているはずだ。
何故。どうして。込み上げる疑問が頭の中で渦を巻き、それが全身に広がって恐怖に変わり出す。
ここにいてはいけない。本能からくる警告に従い、部屋を出ようと震える足を踏み出した。

「っ……」

視界の隅でカーテンが動いた。次の瞬間にはカーテンが体に巻き付き、動けなくなってしまう。
悲鳴は喉に貼りついて、掠れた吐息しかでなかった。震える体は、けれども自分の意思では指先一つ動かすことはできない。
カーテンの向こう側に誰かがいる。誰かがカーテン越しに体を抱き締めているような力強さに、いつか聞いた母の言葉を思い出す。

――月から降りてくるモノが、子供たちの方へ行ってしまったら大変だからね。

月から降りてくるモノ。あの時は聞き流していたそれが、頭の中で繰り返し響く。

「あぁ……」

呻きのような、嘆きのような声が漏れた。

「どうして……こんな、酷いことを……」

何も分からないのに、この村の罪深さだけは何故かはっきりと理解できた。泣きたくもないのに涙が溢れ出す。
涙と共に何かが溢れ落ちていくのを感じる。そして空いた隙間に何かが入り込んでくる。
恐怖はなかった。入り込むそれに、懐かしさすら感じていた。
もしかしたら、外から入り込んでいるのではないのかもしれない。奥底に閉じ込められていたものが剥がれ、溢れているのだろうか。

「月から……降りて……」

脳裏に欠ける前の月が浮かぶ。金に染まる前の何も染まらない白の月が、自分を見下ろしている。

「あぁ、そうか……」

その瞬間、理解した。
月待ちの日に感じる違和感。月を見る度込み上げる嫌悪感に似た感情が、本当は何に対するものなのかを。

月ではない。
月を蝕む人間たちの欲が何よりも悍ましく、怖かったのだ。

カーテンが顔を覆っていく。まるで何も見なくていいと伝えているかのように。
静かに目を閉じる。

――ようやく、其方に……。

恋う声が聞こえたのは、果たして気のせいだったのだろうか。
無意識に笑みが浮かぶ。
身を委ねれば、そのまま月と解けてしまいそうな気がした。



20260307 『月夜』

3/6/2026, 5:19:50 PM

この街は、見えない糸で溢れかえっている。
それに気づいたのはいつだっただろうか。
自分にだけ見える、不思議な糸。赤いようで、青いような。白かと思えば、黒に見えるその糸は、人と人とを繋いでいる。
その糸について、誰かに話したことはない。話そうと思ったことは何度かある。けれど話そうとする度に、必ず何かが起きる。まるで話すなと言わんばかりに。

「多いなぁ」

嘆息しながら、速足で学校へと向かう。
糸を避けることはしない。見えない糸は触れることもできないからだ。
見えるがために避けたくなる気持ちを堪えながら、無心で道を歩いていく。
糸を気にせず楽しげに談笑しながら歩く生徒たちが羨ましい。何故自分だけがと、いつものように心の内だけで不満を露にして糸を睨んだ。

「――そういえば」

ふと、疑問が沸き上がる。
糸は人と人とを繋いでいる。しかし、糸にはその先があった。
地面。家の中。学校。海岸。先は様々だが、多くは同じ場所へ向けて伸びている。
糸はどこまで続いているのか、あるいはどこから来ているのかを確かめたことはない。今まで気にもならなかったことが、何故か気になって仕方がなかった。
立ち止まり逡巡する。糸の先を確かめた所で、意味があるのか分からない。歩いていけないほどの遠い所まで伸びている可能性だってある。

「でも、気になるからなぁ」

誰にでもなく言い訳をして、通学路を逸れて歩き出す。
学校に行った所で授業がある訳ではないのだ。そもそも卒業を控えたこの時期は自由登校で、一日ぐらい休んでも何の問題もない。
誕生日の計画を練っている友人は怒るかもしれないが、プレゼントよりも皆で遊びに行きたいと伝えている。それに、サプライズにするべきかを悩んでいたようであるから問題はないだろう。

「飽きたら戻ればいいだけだしね」

小さく笑い、糸に集中する。いくつもの糸が向かう先を目指して駆け出した。



そうして辿り着いたのは、一本の大きな木が立つだけのとても静かな場所だった。
糸の先は木の幹の中に溶け込むようにして消えている。しばらく幹を見つめ、ふと気づいて顔を上げた。

「ここって……」

木に見覚えがあった。
いつ見たのだろうか。眉を寄せて記憶を辿る。
忘れてはいけないはずだった。焦りに似た感情が込み上げ、さらに眉が寄る。

「いつだったかな……確か……」
「こんな所で何してんの?」

不意に後ろから声をかけられ、声にならない悲鳴が上がる。
弾かれたように振り返れば、小さな少女がこちらを見て笑っていた。

「えっと、あの……」
「ねぇ、こんな所で変な顔して何を考えてるの?」

首を傾げて問われるものの、何も言えずに呆然と少女を見つめる。
何を言えばいいのか分からない。少女との間に陽を浴びて煌めく透明の糸を見て、息を呑んだ。

「学校をさぼるのはいけないんじゃないかな」
「自由、登校……だから」

震える唇が、ようやく言葉を形にする。
胸が苦しくて、息が上手に吸えない。聞きたいこと、言いたいことはたくさんあるのに、言葉として形にするのが難しい。
忘れてはいけないことを忘れてしまったことに、酷く痛みを覚えていた。

「糸、は……」
「糸?あぁ、これのこと?」

掠れ、呻くような呟きに、少女は目の前の透明な糸を掴んで見せる。

「これはね、絆だよ。人と人、人と土地を繋ぐ、見えないけれど確かにある糸」
「絆……」

あぁ、と声が漏れた。
納得すると同時に、堪え切れなかった思いが滴となって溢れ落ちる。泣きながら、しゃくり上げながら、ただ静かに笑った。

「そっか、だから私には見えたんだ」
「そうだね。終わりの日に生まれた、希望の子だから」

両親の言葉を思い出す。
何もかもを失って、それでも私は生まれてきてくれたのだと。小さな命は両親だけでなく、避難所の人たちにとっての希望になったのだと。
写真で見たこの場所には、この木以外何もなかった。けれど皆この場所を離れず、一から街を作り上げた。

だからこの街は、糸で溢れかえっていたのだ。

「それじゃあ、もう行くね。体に気をつけて、私の分まで長生きしてよ」
「うん……ありがとう、お姉ちゃん」

あの日、行ってきますと言って家を出た姉が帰ってくることはなかったという。
写真の中で笑う、成長することのない姉。時々感じる気配に、姉の優しさを感じていた。
これからもきっと、側にいてくれるのだろう。繋ぐ糸は確かにあるのだから。

「大好き」

姿の見えなくなった姉へ思いを告げて、涙を拭う。木に背を向けて歩き出す。
もうすぐ誕生日だ。その日は一日中楽しんで、笑って、感謝を伝えよう。

「そうしよう。私は希望の子なんだから」

密かに決めて、笑顔を浮かべながら駆け出した。



20260306 『絆』

3/6/2026, 8:30:33 AM


いつもより早い時間に目が覚めた。

「お姉ちゃん?」

昨日から泊まり込んでいる姉の姿がないことに気づき、首を傾げつつ起き上がる。
姉のことだから、朝ごはんを作っているのだろうか。キッチンに視線を向ければ、摺りガラス越しに動く影が見えた。
耳を澄ませば、物音と共に微かに話し声が聞こえてくる。
誰かと電話をしているのだろうか。まだ半分寝ている頭で考えるが、そうではないと思い出して苦笑した。
去年知ったことではあるが、自分にはもう一人の姉がいるらしい。
普段は結われ見えない姉の後頭部。そこにある口は、母の胎内で人の形にならなかったもう一人の姉の名残らしい。
辛党の姉とは対照的に、自分と同じ甘党のもう一人の姉。食いしん坊で少し抜けている彼女は、姉というよりも妹のようだ。
最初こそ理解が追い付かず驚きはしたものの、それ以上に姉の暴走を止めることに必死で、気づけばすんなりと受け入れることができていた。

「――から」
「それは……でも……」

何を話しているのだろうか。気になってベッドを抜け出し、キッチンに続く扉にこっそりと近づいていく。

「だから、あの子が好きなのは……私が……」
「そんなこと……違うわ、わたしの……」

声を潜めているせいで、近づいてもはっきりとは聞こえない。
扉を開けて何を話していたのかを聞くのは簡単だ。けれども中断した話を、二人は大した話ではないと誤魔化して教えてくれないことがほとんどだ。
小さく溜息を吐く。二人がいつも何を話しているのかずっと気になっていたが、今回も聞けないのだろう。
仕方がないと頭を振り、扉に手をかける。一呼吸おいて、できる限り普段と同じように意識しながら扉を開けた。

「おはよう、お姉ちゃんたち。朝から何を話しているの?」
「ひゃぁっ!」
「っ、おはよう」

二つの声と共に、甘い匂いがした。視線を向ければ皿の上のパンケーキと切られた果物が目につく。今日の朝食は姉特製のパンケーキらしい。

「ごめんね。煩くて目が覚めちゃったかな。この馬鹿が余計なことばかり言うから」
「余計なんかじゃないわ。重要なアドバイスよ」
「余計でしょ。何年この子のお姉ちゃんをやってきていると思ってんのよ。この子の好みは、私が一番知っているんだから」
「甘いものが食べられないのに、ちゃんと分かるわけないじゃない。ここは同じ甘党のわたしの言うことを素直に聞いていなさいよ」
「あの……本当に何の話をしているの?」

声を控える必要がなくなったからか、遠慮なく言い争いをする二人に呆れ交じりに呟いた。
ボウルの中の生クリームを泡立てている手を止めることなく話し続けられるのは、さすがと言うべきなのか。
半ば現実逃避をしていると、姉はどこか必死な顔をして問いかけた。

「パンケーキには生クリームがいいわよね!?」
「へ……?」
「違うわ。チョコクリームが一番よ」
「はい……?」

何を問われているのかすぐには理解できず、首を傾げる。
パンケーキ。生クリーム。チョコクリーム。問われた単語を頭の中で繰り返し、キッチンを見回して思わず溜息を吐いた。
つまり二人はパンケーキに乗せるクリームについて争っていたというわけか。

「ほら、あんたが変なことを言うから困ってるじゃない。そもそも料理のできない母さんに変わってこの子の食育をしてきたのは私なんだから、あんたの出番なんて最初からないのよ!」
「困ってるのは、あなたが自分の意見を押し付けようとしているからでしょう?辛党が甘党の気持ちなんて分かるわけないんですもの。きっとずっと困っていたんだわ」
「あの、ね。お姉ちゃん……」

激しさを増す二人に、恐る恐る声をかける。
途端に静かになる二人にどこか申し訳ない気持ちになりながらも、ここは正直に話すべきだと静かに口を開いた。

「私、パンケーキで一番好きなのは、バターとはちみつをかけたやつかな」
「バターと……」
「はちみつ……?」

愕然として立ち尽くす姉に、ごめんと小さく呟いた。

「この前見つけた喫茶店で食べたパンケーキが美味しすぎて……そこからバターとはちみつ派になりました」

確かに姉の作るパンケーキは絶品ではあるが、今のブームは喫茶店で食べたパンケーキだ。
正直な意見ではあるが、ボウルを置き俯く姉を見て少しだけ後悔する。
小さい頃から色々と世話を焼いてくれた過保護気味な姉だ。もしかしたら傷ついたのかもしれない。
溜息を吐いて、動かない姉に近づいていく。今一番好きなのは喫茶店のパンケーキではあるものの、姉の作るパンケーキが嫌いになったわけではない。そう伝えようとして、ふと姉が小さく何かを呟いていることに気づく。

「お姉ちゃん?」
「――なる」

眉を寄せ、耳を澄ませる。聞こえる声は二人分。何かを話しているのだろうか。

「バターは何とかなる。なんだったら作ればいいし。後ははちみつ……」
「簡単に決めてはだめよ。はちみつは、花の種類によって味が違うんですもの。パンケーキに合うはちみつを選ばないと」
「どちらにしろ、今からじゃ無理ね。こうなったら喫茶店に強襲をかけて」
「ちょっと、犯罪行為は止めて。あと、生クリームをそのままにするのはもったいないから、勝手にパンケーキに乗せて食べるからね?」

思わず口を挟んでしまったが、二人の話は止まらない。けれどボウルを再び取り、てきぱきと朝食作りを再開し始めた。
器用だなと半ば感心しながら、傍目には独り言を言っているように見える姉を見る。何かとお互いに文句を言い合っているものの、本当はとても仲がいいのだろう。
羨ましいなと思うと同時に、寂しくはないのだろうかと不安にもなる。話すことはできても、見ることも触れることもできないのでは、何だか空しくはならないのだろうか。
そんなことを思っていると、ふいに姉の下ろした髪が揺らいだ。息を呑んで見つめていれば、その揺らぎの中でぼんやりと姉に瓜二つの女性の姿が浮かぶ。
姉と同じように真剣な顔をして、でもどこか楽しそうに話している。じっと見ていれば視線に気づいたのか、こちらを見て笑いながら消えてしまった。
寂しくはなさそうだ。小さく笑い、姉を手伝うため食器棚を開ける。

「まだ寝てなよ。出来たら起こしてあげるから」
「目が覚めちゃったから気にしないで」

姉が気を利かせて声をかけるが、それに首を振ってそのまま食器を取り出していく。
目が覚めたというより、賑やかすぎて眠れそうにないのが本音ではあるが。それを口にすれば今度こそ落ち込むだろうことが分かるため、笑って誤魔化した。

「やっぱり一度その喫茶店に行ってみないと……」
「そんなんじゃだめよ。おねえちゃんが一番って思ってもらうには……」
「――まあ、たまにはいいか」

一人暮らしだと、静かなのが日常だ。だからたまにはこうして騒がしいのも悪くない。
姉たちの会話を聞きながら、そう思った。



20260305 『たまには』

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