「例えばさ、過去とか未来に行けたとして」
急に話しかけられ、ぴくりと肩が跳ねた。
視線を向けるが、彼女はテレビを見たまま。テレビを見れば、ちょうどタイムマシーンで過去や未来に行くドラマが流れている所だった。
「どうしたの?」
問いかけるが、返事はない。それきり彼女は何も言わずにテレビを見続けていた。
それほど引き込まれる話なのだろうか。そんなことを思いながら、手早く洗い物を終えて彼女の隣に座る。けれど彼女の表情は、テレビから目を逸らさずにいるものの、とても退屈そうに見えた。
「つまんないね。この話」
「見てないから分からないけど、つまらないなら見なければいいのに」
「だって退屈だから」
退屈を紛らわそうとして、退屈なテレビを見ている。そんな矛盾した行動に苦笑しながら、テレビを消した。
それに彼女が何かを言うことはない。ただぼんやりと、消えたテレビの黒い画面を見つめ、何度か瞬きをしてこちらに視線を向けた。
「過去とか未来に行って何かを変えた所で、意味はあると思う?」
問われて首を傾げる。仮想の話を気にするなど、彼女にしては珍しい。
「意味があるから、過去や未来に行くんじゃないの?」
意味がないのなら、行く必要はないはずだ。そう答えると、彼女は僅かに眉を寄せ画面の消えたテレビを一瞥する。
「そっか。意味があるって信じてる場合もあるのか……」
「どういう意味?」
「だって何を変えたって、今は変わらないじゃない」
今は変わらない。その意味を分かりかねて眉を寄せれば、彼女は例えば、と宙を見ながら告げた。
「テレビの話だけれど、過去に行って恋人の危機を救うとするでしょ。テレビの中じゃ、きっとこの後元の時間に戻って二人は結ばれるんだろうけど、そんな奇跡なんて起きないから。過去にいなくなる誰かをその時点で救っても、別の時間で同じことが起きるだけ。未来も同じ……というか、未来に干渉した所で、今に影響はないでしょ?」
「そうなの?」
「そうなの……運命っていうのかな。人には、そういった初めから決められたものがあるみたい」
どこか遠くを見る彼女の横顔は寂しげで、泣くのを耐えているようにも見える。話題を変えるべきかと口を開きかけ、けれども何かを言う前に彼女はこちらを向いて微笑んだ。
「ね?それを知っていると、過去や未来に行く話なんてつまらなく感じるでしょ?」
「まあ、確かに。干渉しても変わらないなら、空しいだけかもね……じゃあさ、干渉するんじゃなくて、干渉されるとしたら?予知や宣託を受けて、訪れるはずの結果を変えることもあるだろう?」
それも意味がないことなのだろうか。静かに目を見返すと、きょとりと幼く瞬いた目が、次第に楽しげに細められていく。
くすくすと笑う声。小首を傾げ、彼女は当然のように囁く。
「見たもの、告げられたものが、本当に未来の出来事なんて、誰にも分からないよ。夢で見たものは所詮は夢。現実にとてもよく似ているから、そうなりたければ行動を近づけて、逆になりたくないのならば、遠ざけるように行動する。誰かから告げられた言葉もそう……行動を起こすための理由に使われる、都合のいいものってだけ」
「え……?」
思わず、彼女を凝視する。今までの彼女からは、出てくるはずがないと思っていた言葉だった。
「何?変な顔して」
「いや。だって、宣託を大事にしていただろ」
「大事だよ。とっても大事……前に進むことができる理由になるもの」
小さく呟かれた言葉に、息を呑んだ。
彼女が過去を見ず、前を向いている。その変化がすぐには信じられない。
彼女は長い間、過去から抜け出せずにいた。ここにいる理由でさえ、その過去から宣託を受けたのだと言っていたはずだった。
――未来で再会するために、今を生きる。
彼女はそれ以上を語らない。それ以上の理由が必要だとも思わなかった。
幼い頃から一緒にいた幼馴染が、もう一度隣にいてくれる。過去だけでなく、今を見ている。
自分にとっては、それが重要だった。
「あんまり、じろじろ見ないでよ」
「だって……まるで、過去よりも今の方が大切に聞こえるから」
「聞こえるんじゃなくて、そう言ってるの。過去を忘れたわけじゃない。でも未来にまで過去を引き摺ることが苦しい時がある……過去や未来のような遠いものに手を伸ばすより、今と手を繋いでいる方が幸せなんだって、気づいちゃったから」
目を逸らしながら彼女は言う。落ち着きなく手が服の裾を弄っている。
何かを誤魔化す時の、彼女の昔からの癖だ。じわじわと赤くなっていく顔を見ると、途端に悪戯心が沸き上がってくるのは、自分の悪い癖でもあった。
「今気づいたの?それとも大分前から?」
「い、いつだっていいじゃないっ!」
耳まで真っ赤になってしまった彼女の頬を、笑いながらつつく。ぺしりと指を払いのけ、拗ねた顔で背を向けられて、耐えきれずくすくすと笑い声が漏れた。
「っ、ばか!最低!」
「ごめんごめん。お詫びにさ、明日どこかに出かけようか」
背を向けたままの彼女に声をかけるが返事はない。
またやってしまった。悪い癖だと自覚しながらも治らないことに、密かに嘆息する。静かに立ち上がりながら何気なくテレビに視線を向け、彼女との話を思い出す。
もしもタイムマシーンがあったのなら。それで過去に行けたのなら。
確かに意味はないのだろう。過去に行き、彼女と初めからやり直しても意味はない。傷をつけないように動いた所で、きっと彼女は別のどこかで過去に手を伸ばし出すのだろう。
「――なら、いいよ」
「え?」
不意に小さく聞こえた声に、彼女を見る。微かに涙を張った目をして、彼女はこちらを睨みながら呟いた。
「だから、明日水族館に連れて行ってくれるなら許してあげるって言ってるの!」
彼女の言葉に目を瞬き、しっかりと頷いた。手を出せば当然のように繋いでくれることが嬉しい。
「分かった。じゃあ、明日は朝から水族館に行こうか。せっかくだから他にも色々な所に行こう」
「仕方ないから付き合ってあげる」
素直でない彼女に、小さく笑う。まだ拗ねた顔をしながら彼女はこちらを見つめ、同じように笑った。
「なら、明日は寝坊しないでね。タイムマシーンなんてないんだから、過去に戻ってやり直しなんてできないよ」
「そっちこそ寝坊しないでよ!タイムマシーンがあったとしても、使わせてなんかあげないんだから」
目を合わせ、笑い合う。繋ぐ手が暖かい。
この温もりを離してまで、過去に戻る意味は確かにないだろう。
そんなことを思いながら、繋いだ手を離さないようにきゅっと握りしめた。
20260122 『タイムマシーン』
戸を叩く音がした。
「どちら様ですか?」
玄関越しに声をかけるが、返事はない。
恐ろしい感じはしなかった。戸越しに何かを迷い、気にしているのが伝わってくる。
戸惑いがちにもう一度、戸が叩かれる。
「夜分に、申し訳ありません。少々宜しいでしょうか」
控えめな声。やはり、何かが気にかかるのだろうか。
そんなことを思いながら戸を開けた。ひゅうと、冷たい風が吹き込んで、玄関先を雪が染めていく。
「よかった。あなた様が受け継がれたのですね」
戸の向こうにいた小柄な誰かが、安堵の息を吐く。その顔は深く被った笠に遮られ、見ることはできない。
「ご用件は何でしょうか」
首を傾げ、問いかける。それに慌てた様子で、誰かはそっと手を差し出した。
「申し訳ありません。こちらをどうぞ」
手袋に包まれた手に乗せられていたのは、たくさんの種類の花の種。
「えっと……これは?」
「遅ればせながら、贈り物にございます。正式に継がれたと話をお聞きしたのがつい先日のことでした故、挨拶が遅れまして大変申し訳ありませんでした」
「あ、その……お気になさらず?」
深々と頭を下げられ、内心で焦る。受け取ればいいのだろうかと、手を出した。
手に乗せられた花の種。自分でも知っているような特徴のある種や、見知らぬものまで様々だ。
嬉しくなって、口元が緩む。どんな花が咲くのだろう。どこに植えようか。そう考えるだけで、楽しくて堪らない。
「ありがとうございます。大切に育てます」
頭を下げれば、笠の向こう側でふふ、と小さく声がした。
顔を上げ、目の前の誰かを見つめる。相変わらず顔は見えない。それでも穏やかに微笑んでいる気配が伝わってくる。
「いえ。礼を言うのはこちらです……この度は受け継いで頂き、ありがとうございました。今年もどうぞよろしくお願い致します。」
居住まいを正し、目の前の誰かが再び頭を下げる。慌てて同じように頭を下げ、次に頭を上げた時、そこにはもう誰の姿もなかった。
「誰だったんだろう?」
何も聞けなかったことを残念に思う。
相手が誰だか分からなければ、お礼をすることもできない。種を見ながら溜息を吐く。
玄関から顔を出すが辺りは暗く、人影は見えない。冷たい風に押し戻されるようにして中に戻り、戸を閉めた。
いないのであれば仕方ない。頭を振って、薄く積もった雪を散らした。
種を育てていれば、また会いにきてくれるかもしれない。その時に改めて礼をしよう。そう思い、手の中の種に視線を落とす。
不意に吹き込んだ隙間風に、ふるりと肩を震わせる。すっかり体が冷えてしまった。風邪を引く前に暖まらなければと、足早に部屋へ向かった。
「誰が来てたんだい?」
部屋に戻ると、待っていた彼が不思議とそうに首を傾げた。
どう伝えればいいのか分からず、ただ首を振る。誰だったのか、性別も年齢も分からなかった。小柄ではあったが、落ち着いた声からは判断できない。
無言で手の中の花の種を見せる。種だけでは相手も分からないだろうとも思ったが、しかし彼には誰が来たのか大体の予想はついたらしい。種を受け取り手のひらで転がし目を細めて、あぁ、と小さく呟いた。
「誰が来たか、分かったの?」
「まぁね。お祝いにくれたのだろう?庭に植えてあげると、きっと喜んでくれるよ」
誰が、とは教えてはくれない。彼のことだ。聞いても、いつか分かると、笑って何も言わないのだろう。
彼は特にこの家のことに関しては、何も教えてくれない。後で分かることだと、気になって仕方ない自分に穏やかに笑いかけるだけだ。
密かに溜息を吐きながら、彼と向かい合う位置でこたつに入る。こたつの中でもどこか冷たい彼の足を、八つ当たり気味に蹴って天板に突っ伏した。
「そんなに怒らないで。楽しみはとっておいた方がいいじゃないか」
客人が誰なのか知りたいと思うのは、楽しみなのだろうか。顔を伏せたまま、眉間に皺を刻む。
「春になれば、また会いに来てくれるよ。この家は色々と賑やかになるからね。一気に知るよりも、相手が名乗った時に少しずつ知っていく方が混乱しないと思うよ」
「――賑やかなの?」
想像がつかなくて、半分だけ顔を上げて彼を見た。
自分が継いだこの家は、親戚が寄りつくことはない。立地もそうだが、ある日突然押しつけられる形で相続した時のことが頭を過ぎる。
取り壊し、土地を売ると決まっていたはずだった。自分とは関係のない相続の話し合いで終わっていたと言うのに、家を継げと言った親戚はどこか青ざめた顔をしていたように思う。
「賑やかだよ。だから、ここを継ぐことになったんだろう?」
「知らない。何か言う前に、全部決まってたし」
自分以外の大人たちが、夜遅くまで話し込んでいたのは知っているが、話し合いには参加をさせて貰えなかった。次の日に疲れた顔の両親から家を継げと言われここに来てから、そろそろ半年が過ぎようとしている。
そう言えば、あの日は今日と違いとても暑い夜だったなと、ぼんやり思う。季節が違うのだから当然ではあるが、なんだか実感が薄い。数日前の出来事のようで、寒い今が不思議に思えた。
「何だか、夏の夜から一気に冬の夜になったみたい」
「ここは静かだから、時間の流れがゆっくりに感じられるんだろう。ぼんやりしていたら、一年なんてあっという間に過ぎていくよ」
「やだなぁ。家の管理をしているうちに、どんどん年をとっていくのか……」
はぁ、と溜息を吐きながら、目を閉じる。冷えた体がこたつと石油ストーブで暖まり、眠くなってきてしまった。
「寝るなら、ちゃんと布団に入らないと駄目だろう」
「ちょっとだけ寝たら起きるから大丈夫……おやすみ、叔父さん」
きっと起きないだろう。そうは思ったが、眠いのだから仕方ない。
今夜だけ、特別。心の中で言い訳をして、そのまま意識は夢の中へと落ちていった。
柔らかな朝の日差しに、目が覚めた。
こたつではなく、自室のベッドで寝ていることに驚く。起き上がりながら、机の上に置かれた種を見て、思わず苦笑した。
「また叔父さんが来てたんだ」
この家を継いでから、時折現れる彼の幻。いつも違和感なく受け入れて、後になり幻だったと思い出す。
彼と過ごす夜に、特別な何かがあるわけではない。ありふれた日常の延長線。そこに彼が入り込んでいるだけ。
けれど、こうして一人で朝を迎える度に思う。
彼と過ごす夜は、何よりも特別で大切な夜だったと。
「せっかく貰ったし、今日は種を植えようかな」
種を手に、窓の外を見る。
快晴。薄い青がどこまでも続く空の下、種を植えたら、きっと綺麗な花が咲いてくれるだろう。
今から春が待ち遠しい。
花の咲き乱れる庭を思い浮かべながら、机の上の少し色褪せた彼の写真を突いた。
20260121 『特別な夜』
暗く冷たい場所で、一人横たわっていた。
何も見えない。何も聞こえない。自身の姿すら曖昧だ。
ここはどこなのだろう。込み上げる疑問は、けれどすぐに解けて消えていく。
何も感じない。穏やかさに似た微睡みが、何もかもを沈めていく。
底にいるのに、これ以上沈むのか。
浮かぶ思いに、口元が笑む。けれどそれもすぐに沈んで、静かに目を閉じた。
「どうしたの?」
急に顔を覗き込まれ、ひゅっと息を呑んだ。
「驚かさないでよ」
「驚かしたつもりはないけど、ごめん」
眉を下げて謝る彼女に、何も言えなくなってしまう。
自分も謝るべきだろうか。そんなことを思いながらも黙っていれば、彼女はへらりと笑ってみせた。
「ごめんね。なんか悩んでいるみたいだったから気になって……大丈夫そうだし、私帰るね」
ばいばい、と手を振り、彼女は止めるまもなく去っていく。
作った笑顔だった。彼女がいなくなった後で、気が付いた。
追いかけるべきだろうか。心配してくれただろうに、ありがとうの一言も言えなかった。自分の態度も悪かった気がする。謝って、心配してくれてありがとうと言うべきではないだろうか。
色々なことが思い浮かぶも、結局動けない。いつもそうだ。忙しなく動く周りに、自分一人だけがついていけない。
彼女がいた場所に視線を向ける。誰もいないその場所が、とても冷たく感じられた。
「ごめんなさい」
今更な謝罪が虚しく響く。
気づけばとっくに下校時間は過ぎている。誰もいない教室で一人、のろのろと帰る準備をし始めた。
暗い場所で、一人佇んでいた。
辺りに灯りはなく、何も見えない。空を見上げるも月も星も見えなかった。
一人きり。けれど酷く心地の良い場所だ。当てもなく歩きながら、ぼんやりと思う。
とても静かだ。小さく吐く息の音すら聞こえない。温かくはないが寒くもないこの場所は、どこなのだろう。
浮かぶ疑問は、吐息と共に上へと浮かんでいく。
届かない場所。そんなことを思いながら上へと視線を向けて、ふと気づく。
ここは、外ではないのだろう。そもそも地上ですらない。
ほぅ、と吐息を溢す。目を凝らせば、微かに気泡が浮かんでいく。
ここは、海の底だ。
かつての故郷に帰ってきているのだ。
気づいて、途端に心細くなった。
何故帰ってきてしまったのか。どうやって戻ってきたのかも思い出せない。
手を伸ばす。けれど水面は遠く、手は届かない。
寂しいと呟く声は、音の代わりに気泡となって浮かんでいく。溢れた涙は海に混じり、残らない。
これでいいのかもしれない。自分の中の何かが囁いた。
憧れた地上は忙しない。行き交う人々。目まぐるしく変わる空の色。
立ち止まることのない自分以外に、ついていくのだ大変だろう。
確かにそうだ。囁く声に頷いた。認めた途端心が酷く痛んだが、仕方がないことなんだと力なく笑う。
彼女の側にいたいけれど、彼女を悲しませるだけなら側にいない方がいい。
涙は海に混じると分かっていても、唇を噛んで泣くのを堪える。目を伏せて、伸ばしたままの手をゆっくりと下ろしていく。
その手が何かに掴まれた気がした。驚いて顔を上げれば、暗闇に白銀のような白の翼が煌めく。
声も出せず、逃げ出すこともできずに、体が浮かび上がっていく。瞬きの間に周囲が明るくなり、水面越しに青い空が見えてきた。
あぁ、そう言えば。
近づく水面を、その向こう側の空を見ながら思い出す。
初めて地上に出た時も、こうして手を掴まれ連れて行かれたのだった。
ばしゃん、と水音がした。
鳥のなく声が、波の音がする。煌めく陽の光が眩しい。思わず目を閉じれば、一際高く鳥の鳴く声がした。
「大丈夫?」
彼女の声がして、目を開けた。
「あれ?」
辺りを見回す。そこは海の上ではなく、夕暮れに染まる教室の中だった。
夢でも見ていたのだろうか。困惑しながらも彼女を見る。
「どうしたの?」
首を傾げて彼女は問いかける。
なんでもないと首を振ろうとし、ふと彼女の髪に絡まる白を認めて、目を瞬いた。
「羽根……?」
「ん?……あぁ、絡まっちゃってたんだ」
苦笑しながら彼女は絡まる羽根を取る。白く、美しい羽根。
何かを思い出しかけて、けれどその前にくすくす笑う彼女に頭を撫でられ、消えてしまう。
「ごめんね」
突然謝られ、困惑する。彼女が謝る理由が分からない。
「今度はちゃんと合わせるから。もう少しここにいてね……海の底よりずっと鮮やかで、楽しい所なんだよ」
羽根を髪に差され、彼女は言う。訳が分からないけれども頷いた。
彼女が言うのだから、悪いことではないのだろう。
「そろそろ帰ろうよ」
そう言われ、慌てて鞄を取る。いつの間にか帰る準備ができていたことに驚くが、彼女は気にする様子はない。
手を繋いで、彼女と共に教室の外に出る。廊下を歩きながら、浮かび出した思いを気づけば口にしていた。
「忙しないけど、いい所だって私も思う。迷惑じゃないなら、これからも一緒にいたい。後、もう少し、浮かび上がる間分、立ち止まってほしい。置いて行かれるのは嫌だ」
「うん。ごめんね。ちゃんと気をつける」
不思議な感覚だ。気泡のように次々に浮かぶ言葉は止まらない。自分は言葉の意味を正しく理解できていないのに、彼女はすべて分かっているように頷いてくれる。
「静かなのも、一人なのも好きだったけど、今は少し違うから、こうして手を繋いでてほしい……私を食べようとしたことは忘れるから、海から出した責任はちゃんと取って」
「分かってます。だからもう、それは完全に忘れて!……ほら、帰りに美味しいもの、食べに行こう!」
慌てて話題を変えようとする彼女に、何故か楽しくなって小さく笑う。
彼女も笑い、繋いだ手を揺らしながら外に出た。
見上げた空は、段々と紺色に染まっていく。すぐに辺りは暗くなり、月や星が煌めくのだろう。
とても綺麗だ。見慣れているはずなのに初めて見る気がして、胸が高鳴る。
「今、とっても楽しいから、帰りたくない。だから帰らせないで。帰ったらきっと、もっと深く沈んで、底の底まで行くから」
「じゃあ、ちゃんと手を繋いでないとね」
きゅっと手を握られ、同じように手を握り返す。
世界はとても綺麗だ。憧れた地上は、想像など比べ物にならないくらいにきらきらと煌めいている。
ふと、そんなことを思う。不思議には思わない。
その内、忘れてしまうのだろう。
そんな予感がした。
繋いだ手から伝わる熱が、忘れさせると答えているみたいだった。
20260120 『海の底』
会いたい。
込み上げる衝動に、気づけば走り出していた。
会えないことは分かっている。伸ばした手が届かないことなど、最初から気づいていた。
それでも走らずにはいられない。自分の気持ちを隠して何もない振りができるほど、器用ではなかった。
息が切れて、足がふらつく。苦しさに視界が歪むが、それでも足を止めようとは思わない。
いっそ風になれたのなら。こうして走るよりも早く会いに行けるのに。姿が見えなければ、形がなければ、側にいることも許されるような気がした。
所詮は夢。それでも考えてしまうのは、きっと自分が弱いからだ。
疲れを誤魔化すように、力強く地面を蹴り上げる。俯きそうになる顔を上げて、前だけを見つめた。
会えないことは分かっている。手を伸ばしても、棘のようなギザギザした葉が触られるのを拒むのだろう。
でも、会いたい。幼い頃に見た、怖いモノから守ってくれた大きな背に触れてみたい。
夕暮れから逃げ出すように、傾く陽を背に只管に走る。
息が苦しい。体が痛い。目が眩んで、前が見えない。
それでも、もう一度だけ。
不意に、風向きが変わった。背を押されて、速度を上げる。
会いたい。ただそれだけを願い。
残る力を振り絞り、地面を蹴って飛び上がった。
風が葉を揺する。
今の時期には珍しく、控えな風が吹いていた。服の裾や髪に触れるかのような弱い風に、男は僅かに目を細めた。
「――帰ってきたのね」
いつの間にか、男の背後には女の姿があった。赤い着物を身に纏い、辺りで漂う風に手を伸ばす。
「おかえりなさい。皆、あなたを待っていたわ」
柔らかく微笑む女の裾が、ふわりと揺れる。まるで戯れるように女の周りを風がぐるりと回っているのを、男は表情を変えずただ見つめていた。
ざわりと、周囲の木々が騒めいた。風に揺すられたのではない。女の元に在る風以外には、そよ風ひとつ起こってはいない。
ざわざわと、草木が音を立てる。まるで風の戻りを喜ぶかのように。
「南天」
「なぁに?柊」
女に呼びかけながら、男はそれ以上何も言わなかった。
目を逸らし、咲かせた白の花を見る。ただ一人のために咲かせた花は、今年もまた愛でられることなく散っていくのだろう。
「ようやく帰ってきてくれたのに、相変わらずね」
「あいつは人間だ。風ではない」
「そうね。人間だったから、隠されて帰れなくなった……人間ではなくなったから、こうして帰ってこられたのよ」
穏やかでありながらも、無慈悲な言葉。強く握りしめた手を不安がるように、風が男の周りをくるりと周り離れていく。
「このお庭から出ては駄目よ。いい子だから、これからはお庭とお屋敷の中で遊びなさいね」
過ぎていく風に、女が微笑み声をかけた。
了承するように、風が枯草を舞い上げる。庭の木々と遊ぶ風を見つめ、女はふっと吐息を溢した。
「あの子は戻ってきたの。どんな形であれ戻ってきたのだから、それを喜ばなくては」
男を見つめる赤い目は、静かな悲しみに染まっている。
男は何も言わない。女の目を見返しながら、在りし日の賑やかであった庭を思う。
風がただの娘であった頃。庭も屋敷も、とても賑やかだった。
毎日のように、娘の笑い声が響いていた。両親を愛し、庭の草木を愛した娘。その笑顔を、誰もが愛していた。
一度だけ、男の姿を娘は見た。あれは山から吹いた邪気が庭に入り込もうとした時だったか。
驚いたような丸い目と綻ぶ笑顔を、男が忘れたことはない。
「ここにいる限り守ってあげられる。そうでしょう?」
「――あぁ」
どこか願うような女の言葉に、男は無感情に呟いた。
柊と南天。鬼門、裏鬼門にそれぞれ植えられた木は魔を払う。この庭にいる限りは、確かに守られはするのだろう。
だが、今更守った所で何になるというのか。
胸の内で呟く。娘の笑顔も、弾む声も戻りはしない。長く無人の屋敷はひっそりと朽ちかけ、人の手の入らない庭は荒れ果てている。
元には戻らない。なくなってしまったものが帰るなど、決してありはしないのだ。
沈黙する男と女の間を、風が吹き抜けていく。泣くのを堪えて俯いた女は、慰めのように髪を揺する風に顔を上げ微笑む。
その頬を濡らす滴を、風が拭い去っていく。風となっても、娘の優しさは変わらないらしい。短く息を吐き、男は咲いた白い花に指先を触れさせた。
「今年もまた花が咲いた。南天の実も、赤く色づいているだろう……お前が愛したものはお前を待ち続け、残っていた。ここはお前のための場所だ」
花が揺れる。男の指を掠めて、風が過ぎる。
花の香りの混じり、微かに懐かしい匂いが鼻腔をくすぐる。娘の匂い。見えないけれど、ここに娘はいるのだ。
だが風に娘を感じるほど、男は娘に会いたい気持ちが募っていく。ここにいるのに触れられない。姿も声もないことが、苦しかった。
おかえり、とは言えない。
女のように、すべて受け入れることが男にはできない。
過ぎる風を追いかけ、手が彷徨う。かつては痛みを与えるからと触れるのを拒んでいたはずの男が、今は娘に触れたいと求めている。その滑稽さに男の口元が歪んだ。
会いたい。
会いたくて、寂しくて、苦しくて。
ただ感じる娘の気配が、愛おしくて堪らなかった。
20260119 『君に会いたくて』
押入れから出てきた日記帳には、鍵がかかっていた。
「こんな日記帳、持ってたかな?」
首を傾げながら、入っていた箱の中を探る。けれども鍵は見つからなかった。
他の箱の中だろうか。すぐには使わないものを押入れの中に詰め込んだ、過去の自分を少しだけ恨む。
「ないなぁ」
押入れから別の箱を取り出し、中を探るが見つからない。箱だけでなく押入れの中も確認したが、それらしい鍵はなかった。
小さく溜息を吐く。
押入れの整理は捗らず、見覚えのない日記帳には鍵がかかっていて中を確認できない。
机の上に置いた日記帳に視線を向ければ余計に疲れを感じて、目を逸らし肩を落とした。
鍵を探すため箱から出したものを戻し、押入れの中に箱を押し込む。押入れを閉めた後で日記帳を片付けていないことに気づいたが、これ以上何もする気力が起きず、ベッドに倒れ込むように横になるとそのまま目を閉じた。
空腹を感じ、目が覚めた。
辺りは暗い。窓の外には夜が広がり、空には星が煌めいている。
どうやらあのまま眠ってしまったらしい。
溜息を吐き、ベッドから抜け出し電気をつける。サイドテーブルに置かれた時計を見れば、十時を過ぎている。夕飯には遅すぎる時間だが、軽く何か食べようとキッチンに向かった。
何かあっただろうかと、冷蔵庫の中を覗く。水やお茶などのペットボトルと調味料がいくつか。そして空いた袋の中に残る食パンが一枚。
溜息を吐いて、パンとジャムを取り出した。
「一人暮らしって自由だけど、こういう所が不便」
パンを焼く気にもなれず、そのままジャムを塗る。行儀が悪いと思いながらもパンを咥えつつ、ジャムを戻してお茶のペットボトルを取り出した。
パンをお茶で流し込み、息を吐く。ペットボトルを冷蔵庫に入れながら風呂に視線を向けるが、今から入る気力はなかった。
そのまま部屋に戻り、何気なく机の上を見る。鍵のかかった日記帳。何故かそれが気になって、机に近寄り手に取った。
「いつ書いたんだろう?」
記憶を辿るが、思い出せない。けれど、日記帳は自分のものだ。
そう確信することを不思議に思いながら、日記帳を手にベッドに横になる。鍵はかかったまま。いっそ壊してしまおうかなどと物騒なことを思いながら、少し色あせた表紙をそっと撫でた。
――1月10日。
ふと、頭の中で声がした。
子供の声。びくり、と肩が揺れるが、手は日記帳から離れない。
――お年玉で日記帳を買った。かわいいお花の、カギのついた特別な日記帳。
声は語る。嬉しそうに、どこか恥ずかしそうに、日記を読み上げる。
――カギはふたつ。わたしとあの子のためのカギ。ふたりだけの秘密の日記にしよう。
これはこの日記帳に書かれていることなのか。弾む声が一日おきの日々の出来事を語っていく。
学校のこと。勉強のこと。あの子とどこへ行って、何をしたのか。
一日おきなのは、あの子という誰かとの交換日記だからだろうか。どれもが楽しい思い出のようで、ささいな出来事もすべて特別なことのように語っていた。
恐怖はない。ただ疑問ばかりが浮かんでくる。
この声は自分のものなのか。あの子とは誰なのか。
声はあの子の名前を語らない。僅かに記憶に残る日々を綴り感情が揺さぶられるのに、あの子の顔だけは出てこない。
声が語る内容は一月を過ぎ、二月へと続いていく。一日おきは欠かさず、あの子との日記が綴られる。
そして、日記は三月になった。
――三月。
そこで声は止まる。
何かあったのだろうか。声は沈黙を続け、不安に日記帳に触れたままの手が震えた。
――あの子はいない。
酷く淡々とした声だった。今まで弾むように感情を露にしていた声の突然の変化に、息を呑む。
――日記帳も、カギもない。全部流されて、連れていかれてしまった。だから、わたしたちの秘密はここでおしまい。
感情が抜け落ちた声が告げ、それきり何も聞こえなくなる。
ゆっくりと日記帳から手を離す。体を起こし、頭を押さえた。
「なに……今の……?」
目眩がする。頭が痛い。聞こえた声も、その内容も、自分の記憶も、色々なことがいっぺんに押し寄せて、訳が分からない。
強く目を閉じる。眉間に刻まれた皺を指で伸ばし、深呼吸を繰り返す。
「あの子は、いない……」
確かめるように呟いた。それだけで、浮かぶあの子という輪郭がぼやけていく。
これは、思い出してはいけないものだ。思い出してしまったら、戻ることはできない。
理由も分からないのに、理解できる。その正反対の感覚か苦しい。
「あの子はいない」
何度も繰り返す。言い聞かせるように、祈るように声に出す。
もう一度深呼吸をしてから、恐る恐る目を開けた。
見慣れた自分の部屋。ぐるりと部屋を見回し手元に視線を落とした。
「っ……!?」
日記帳が濡れていた。表紙がふやけ、紙が捲れている。
錆びついた鍵穴に触れれば、その途端にぼろりと崩れ、外れてしまう。まるで枷が外れたことを喜ぶかのように、濡れているはずの紙の端が僅かに膨らんだ。
今ならば、中身を見ることができる。
内側から囁く誘惑に、肩を揺らして頭を振った。
思い出してはいけないと思ったばかりだというのに、思い出したいと思う衝動が恐ろしかった。
あの子はいない。
言葉にしようとして、けれど声が喉に張り付き掠れた吐息しか溢れない。じわりと涙で視界が滲むのが唯一許された抵抗のように思えて、それが無性に悲しいと感じていた。
不意に、背中を撫でられる感覚がした。小さなその手に優しさを感じて、困惑と共に涙が溢れ落ちていく。
苦しい。悲しい。寂しい。会いたい。
たくさんの感情に、押し潰されてしまいそうだ。
「――ごめんなさい」
気づけば、背を撫でる手に謝っていた。
次から次に涙が溢れ、しゃくりあげながら、何度もごめんなさいを繰り返す。
「何もできなくて、ごめんなさい。弱くて、ごめんなさい……こうしなきゃ前を向けなくて、ごめんなさい」
優しい手は、ただ背を撫で続ける。
微かに香る海の匂い。二度と繋ぐことのできない手。それに痛みを覚えて日記帳を抱きしめ、声を上げて泣き続けた。
気がつけば、朝を迎えていた。
重たい頭に眉を寄せながら、体を起こす。ベッドや周りを見るが、日記帳はどこにも見当たらなかった。
「夢……?」
どこからが夢だったのだろう。痛む頭を押さえながら考えるが、何も分からなかった。
深く溜息を吐く。気持ちを切り替えるため、顔を洗おうと立ち上がった。
いっそシャワーを浴びれば、すっきりするのかもしれない。お湯と共に、夢の名残りなどすべて流してしまえるだろう。
そう思いながら、何気なく机の上に置かれたままの新しいスケジュール帳の表紙を指でなぞった。
新年だからと、新しく買ったスケジュール帳。簡単な日記帳としても使えるものだが、日記として使うことはないだろう。
一度閉ざされた日記を、もう一度開ける勇気はない。
「まだ、頭が眠っているみたい」
思わず苦笑する。何故そんなことを思うのか、分からなかった。
「ごめんね」
無意識に溢れた言葉。きっと、夢から抜け出せていないのだろう。
準備を整え、足早に風呂に向かう。
早く目を覚まさなければ。夢など忘れなければ。
夢にしなければ、戻れない。
前を見ることなど、二度とできなくなってしまうのだろうから。
20260118 『閉ざされた日記』