彼女には年の離れた姉が一人いた。
幼い頃から何でもできた天才肌。彼女の姉は、親の自慢だった。
だからだろう。彼女が物心ついた時から、常に姉のようになれと言われ続けてきた。
彼女が人より劣っていたわけではない。努力を惜しまない彼女は、むしろ周りよりも優れていたように思う。
だが姉と比べれば、どうしても劣って見える。それほど姉は優秀だった。
彼女には姉がいた。
けれど一昨年の暮れ。姉は帰らぬ人となった。
誰もが姉の死を悼み、その存在をさらに美化し始める。欠点一つない、完璧で理想の姿を、姉を知る人たちは作り上げてしまった。
それは彼女も同じで、誇りだった姉に近づこうと努力を続けていた。
気づいた時には、もう手遅れ。
何もかもが、変わってしまっていた。
「変わったね」
そう彼女に告げれば、どこか冷めた目がこちらに向けられる。
以前の彼女ならば決してしないような目。それは彼女の姉の目によく似ていた。
「本当に変わってしまった。理想のあなたになった感想はどう?」
彼女は何も言わない。視線は逸らされることなく、その見透かすような視線も彼女の姉と同じだ。
彼女は変わった。誰もが望んだ、彼女の姉になってしまった。
もうあの陽だまりのように柔らかな微笑みは、二度と見ることはできない。
「思ったよりも、生き汚かったんだね」
親友でもあった彼女の姉を思いながら、無意識に呟いた。
妹を大切にしている人だったはずだ。少なくとも自分にはそう見えていた。
目を細める彼女に背を向ける。これ以上話す気分になれなかった。
「――この子は、ありのままで生きる方法を知らない。理想を求められすぎて、一人では息の吸い方すらできなくなってしまった」
淡々とした言葉。振り返れば、ほんの僅か顔を歪めた彼女が自身の胸に手を当てていた。
「この子がこの子として生きられる場所は、ここではない」
そういうことか。理解したと同時に、その不器用さに呆れてしまう。
溜息を吐いて、彼女に近づいた。無言で手を出せば、彼女は胸に当てていた手をそっと重ねる。
伝わる温もり。陽だまりのように柔らかで、愛おしい。
彼女の手が離れても消えず、体の中に馴染んでいく。
「私は、私のやり方でこの子を愛すわ。この子は私の子。もうあなたの妹じゃない」
「それでいい……その方が、いい」
そう言って彼女は薄く笑う。笑っているのに、今にも泣きそうな顔だった。
本当に不器用な親友だ。温もりが形を持って命として宿っていくのを感じながら、密かに嘆息した。
「優しいのはとてもいいけれど、女の子なんだからもう少し控えめな方が将来困らないと思うよ」
かけられた言葉に、思わず眉を顰めた。
彼女の姉の七回忌。施主である彼女の両親が娘をずっと見ていたことには最初から気づいていた。
まだ三つになったばかりの娘は、彼女によく似ている。だからこそ口に出さずにはいられなかったのだろう。
「今のままでいいと思っています。私は娘がしたいようにするのが一番だと思っていますから」
「でもねぇ、あなたは初めての子育てでしょう?年長者の意見は聞いておいて損はないと――」
「他人の家のことに口出しをするな」
叔母の言葉を遮り、はっきりと告げる。
途端に顔を歪ませ怒りを露にする様を見て鼻で笑いながら、何かを言われる前に言葉を続ける。
「以前、叔母さんが言ったことです。私や母が、あの子に対する態度を改めるように忠告した時、そう言って聞き入れなかったじゃないですか」
「っ、だけど、あの時とは話が……っ」
「違いませんよ。あの子は叔母さんの理想になったんですから、それで満足してください。今度は私の娘を、変わってしまう前のあの子にしようとしないで」
顔を赤くし、何も言えなくなってしまった叔母に会釈し、娘の元へと向かう。
後ろで何かをわめいているようだが、気に留める必要はないだろう。
「ママ!」
「待たせてごめんね」
駆け寄る娘を抱き留め頭を撫でながら、一緒に待ってくれていた彼女に視線を向ける。
「見ててくれてありがとう。我儘言ってなかった?」
「いい子だった……ずっと、いい子だったよ」
言葉の含みに気づかない振りをして、娘と手を繋ぎながら歩き出す。
名残惜し気に手を伸ばす娘に一瞬だけ泣きそうな顔をした彼女は、そっとその小さな手を繋いで一緒に家を出た。
娘は、彼女のことがとても気に入ったらしい。ご機嫌で歌を歌っている娘を見て苦笑する。
「理想のあなたになれて、周りの反応はどう?」
ふと思いついて彼女に問う。
冷めた目をして彼女は笑った。
「喜んだのは最初だけ。結局、なくしたものに焦がれているに過ぎない」
「だろうね。最初は、ただの目標みたいに言ってたのが、死んでからは本気であなたの代わりにならせようって必死だった。さっきも言っていることはまだ軽かったけど、娘を見る目は同じだった……叔母さんって、昔からないものねだりが強いって母さんが言ってたのを思い出したよ」
手に入らないからこそ、輝いて見える。そしてそれが欲しくて堪らなくなってしまう。
叔母はそういう人だった。
笑う自分は今、きっと彼女と同じように冷めた目をしているのだろう。
「――可愛い」
ぽつりと彼女が呟く。その目は娘に向けられており、柔らかく微笑みを浮かべていた。
「当たり前でしょ。私の自慢の娘なんだから」
「今はね。前は私の自慢の妹だった」
胸を張ってそう言えば、彼女も誇らしげに答える。
何だかそれがおかしくて、声を上げて笑った。
「ママ、ごきげんね」
釣られて娘も笑い、彼女も笑う。
あの日感じた陽だまりのような温もり。繋いだ手から伝わって、それがただ愛おしかった。
20260520 『理想のあなた』
探し物の途中、タイトルの書かれていない本を見つけた。
本棚に並ぶ他の本と変わらない、シンプルだけど綺麗な装丁。タイトルも作者もないその本が気になって、思わず手に取っていた。
背表紙だけでなく、表紙にも何も書かれてはいなかった。不思議に思いながら、何気なくページを捲る。
やはり、中身も他の本と変わらない。等間隔に並んだ活字に、益々謎が深まった。
何が書かれているのだろう。ページを捲り、文字を追う。
――その時の出会いが、きっと私の全てを変えてしまった。
最初の一文に少しだけ眉が寄る。
小説を読むのは嫌いではない。恋愛小説だって読むことはある。
それでも続きを読むのを躊躇したくなったのは、自分の中の気持ちと似ている気がしたからだ。
――入学したばかりの頃、突然雨に降られたことがあった。傘を持ってくるのを忘れて、ざあざあと音を立てて降る雨を憂鬱な気持ちで見ていたのを覚えている。
似ている。気がするのではなく、本当に似ているのだ。
入学して数日後の放課後。急な土砂降りにどうすればいいのか分からず、昇降口で長い間佇んでいた。
――傘を差し出してくれた彼は笑っていた。もう一本あるからだなんて、そんな嘘までついてくれた優しい彼に、私は一瞬で恋に落ちた。
その一文を目にして、反射的に本を閉じる。
「何……この、本……」
本の語り手は自分だ。それはただの予想ではなく、確信だった。
誰が、何のために本を書いたのか。元の場所に本を戻しながら考える。
ただの嫌がらせにしては手が込みすぎていて、何より彼に傘を貸してもらった時に、他の誰かの姿はなかったはずだった。
「そういえば……」
ふと最近噂になっている話を思い出す。
言えない言葉や思いが多くなると、体から溢れてしまうらしい。
その話では、手紙という形で現れるという。言えない言葉を吐き出せば手紙は跡形もなく消えてしまうが、言えないままならその言葉ごと手紙は燃えて、二度とその言葉を口にすることができないのだとか。
本と手紙という違いはあるものの、それ以外では共通するものが多い。
何も書かれていない背表紙を見ながら、唾を飲み込んだ。このまま彼への想いを口にすることができなかったのなら、どうなってしまうのかを想像し、小さく体を震わせる。
「――でも、言える訳がない」
唇を噛み締め、呟いた。
告白する勇気がないというのもある。
だが想いを口にするのを躊躇う一番の理由は、親友もまた彼のことが好きだからだった。
机の引き出しに入っている本を見て、密かに溜息を吐いた。
あれから数日。本は色々な場所に現れるようになった。まるで中身を見ろと言わんばかりに現れる本に、最近は逃げるのを諦めて中身を見るようになっていた。
本の表紙を捲り、新しく記載された部分に目を通す。
――先生に頼まれて運んでいたプリントを、代わりに運んでくれた彼。そのさりげない優しさがとても嬉しくて、同じくらいに苦しい。
無意識に眉を顰めていた。さっき起こった出来事を、自分の気持ちを添えて文字にされているのを読むのはあまりいい気分ではなかった。
――親友が彼と楽しそうに話しているのを見ているのが辛い。早く言わないと、彼を取られてしまうかもしれないのに、言う勇気が出ない。
取られるなど、まるでもののような言い方だ。そんなことは思っていないはずだと、頭では分かっていながら、けれどそう言い切れない自分自身に嫌気がさす。
彼に告白したとして、必ず受け入れられる訳ではない。それに親友との関係が変わってしまうかもしれないことが怖い。そう思っているが、何故か本には一度もそんな不安は書かれてはいなかった。
顔を上げて、教室の入口の方へと視線を向ける。
笑顔で何かを話している親友と彼。胸が苦しくなるけれど、お似合いの二人だとも思ってしまう。
優しい彼と、優しい親友。周りに馴染めない自分を助けてくれたのは、いつだって親友だった。
離れたくなくて、進学先を彼女と同じ学校にした。それくらい自分の中では、親友の存在は大きいのだ。
「言えるわけがない」
ぽつりと呟いて、本に視線を戻した。
ページを捲る。何も書かれていないページをただ見つめていれば、じわじわと文字が浮かびあがってくる。
――結局、何も言えなかった。幸せそうな二人を見ながら言えばよかったと後悔しても、もう手遅れだった。
予言のような言葉に苦笑する。確かに自分は、結ばれた二人を見て後悔するのかもしれない。
けれど自分で決めたことだ。それを後悔するというのは、何だか酷くおかしかった。
込み上げる笑いをかみ殺しながら、またページを捲る。
白紙ではない。そこに書かれていた一文を読んで、目を瞬いた。
――でもこれで、彼や親友への想いを全部、忘れられる。
どういう意味だろうか。
ページを捲っても、それ以降には何も書かれてはいない。待っていても、文字が浮かび上がることは二度となかった。
翌日。
目が覚めると、不思議と心が軽い気がした。
ようやく自由になれたような、そんな晴れ晴れしい気持ち。無意識に表情が緩むのを止められない。
いつもより元気よく家を出て、学校に向かう。見慣れた通学路が煌めいて見えて、益々嬉しくなってしまった。
「おはよう」
教室に入ると、友人がこちらに近づいてきた。
どこか浮かないような、それでいて幸せそうな顔をしている。
話したくて堪らない出来事があるけれど、それを言うのを躊躇っている。そんな友人の様子が不思議で首を傾げた。
「あの、ね。昨日、彼にね……」
おずおずと昨日あったことを話し出す。
放課後に、彼に告白したこと。そして恋人になれたこと。
最後にごめんねと言われて、意味が分からなかった。何故謝る必要があるのだろうか。
「えっと、おめでとう?よかったじゃん」
「え……あり、がとう。でも……」
「でも?……あ、そろそろホームルーム始まるよ」
ちょうどチャイムが鳴り、担任が教室に入ってきた。何かを言いたげだった友人は、けれどそれ以上何も言わずに、席に戻っていく。
彼女のことが分からない。付き合えた報告をされるのもそうだが、もっと嬉しそうな顔をしたらいいのに。
そんなことを思いながら、担任の話に耳を傾けた。
探し物の途中、タイトルだけが書かれた本を見つけた。
「恋物語?」
気になって本を手に取る。作者の書かれていない本は、それでも他の本と同じようにシンプルだけど綺麗な装丁がされていた。
「少しだけ、いいよね?」
誰にでもなく呟いて、本を手に机に向かう。
進路を変更したため、今よりももっと勉強をしなければいけないのだが、今日くらいはいいだろう。
椅子に座り、表紙を捲る。どんな物語なのか楽しみで、ページを捲る手が急ぐ。
どうやら、一人の少女の恋の芽生えから終わりまでを書いた物語らしい。恋と友情の間で迷う感じがリアルで、読み進める手が止まらない。
今日は本当にいい日だ。朝から気分がいいし、そのせいか頭が冴えて本当に行きたかった学校に進路を変更することができた。
そして、この不思議で面白い本にも出合えて、気分は最高に良い。
一瞬だけ友人の顔が浮かんだが、すぐに消える。
今日は何故だか誰かのことを考えたりせず、自分のことだけを考えていたかった。
「そういえば、前もこんなことがあったような……?」
同じように探し物をして、本を見つけた気がする。
その時は何を探していたのだろう。そしてどんな本を見つけたのか。
けれどいくら思い出そうとしても、何一つ思い出すことができなかった。
20260518 『恋物語』
旧校舎の音楽室には、魔物が住んでいるらしい。
普段は聞きながすクラスメイトの噂話が、何故かとても気になった。
どんな夢でも望むままに見せてくれる魔物。けれど対価は、その人の一番大切な記憶。
クラスメイトたちは怖いと言いながら笑っていた。たかが夢のために記憶を手放すなんてありえないと、すぐに興味をなくし別の話題へと移っていった。
旧校舎の音楽室には、甘い夢を見せる魔物が住んでいる。
昼休みの終わりのチャイムが鳴り響く中、いつまでもその噂話が頭から離れなかった。
放課後の旧校舎は、外の賑やかさとは正反対に静まり返っていた。
普段から滅多に使われることのない校舎だ。掃除はされていても、どこか埃っぽさを感じてしまう。
三階の音楽室を目指し、ゆっくりと階段を上がっていく。踊り場のくすんだ鏡に自分の姿が映っているのを見て、反射的に顔を背けた。
鏡は嫌いだ。鏡に映る自分の姿は、もっと嫌いだった。
鏡を見ないように視線を落とし、二階へと上がる。しん、と静まり返った廊下を一瞥して、三階へと上がり始める。
「――何?」
微かに、音が聞こえた。立ち止まり耳を澄ませれば、どうやらそれは歌のようだった。
確信が持てないのは、それが聞いたことのない言葉だったからだ。まるで子守歌のように静かな旋律は、耳に馴染んで心地がいい。
気づけばその旋律に惹かれるように足早に階段を上り、奥の音楽室を目指していた。
音楽室の扉を開けた瞬間、音の波に呑まれた錯覚を覚えた。
息を呑み、立ち尽くす。動けないのは、音だけが原因ではない。目の前に広がる光景が、足を竦ませていた。
床に倒れている数名の生徒。皆微笑みながら、深い眠りについているようだった。
明らかに異様な光景に、逃げなければという焦りが生まれる。それなのに体は扉に手をかけたまま動かず、視線だけが忙しなく教室内を彷徨っていた。
その中で、唯一起きている人がいた。ピアノの椅子に腰かけ、白い横笛をくるくると回しながら、楽しそうに歌っている。
不意に、歌が止んだ。
ゆっくりとこちらを見るその目は、血のように赤い。蠱惑的に微笑むその姿は、人というよりも、完成された彫刻のような美しさがあった。
人ではないのかもしれない。赤い目に見入ったまま、ぼんやりと考えた。
「Bist du auch hier, um süße Träume zu träumen?」
歌うような囁きは、やはり聞き覚えのない異国の言葉。戸惑い目を瞬かせると、美しい誰かは苦笑したようだった。
「あぁ、悪い。故郷の言葉は、ここではなじみがないのだったか」
今度は耳に馴染んだ言葉が、鼓膜を揺する。低くもなく、高くもない声音。さっきまであったはずの焦りや恐怖が、声に解かされていってしまう。
「あなたも、甘い夢を見に来たのか?それならそんな所にいないで、ここまでおいで」
促されて、動かなかったはずの体がゆっくりと歩き始めた。床に倒れている生徒たちのことなど気にもならず、ただ手招く方へと向かっていく。
「お代は、甘美な記憶を一欠片。それだけくれれば、どんな夢でも魅せてやろう」
大仰に礼をして腕を広げるその姿は、道化師のようにも見える。白い指先がこちらに伸び、額に触れるのを感じながら、ふと不安が込み上げた。
甘美な記憶。そんなものが自分にあるのだろうか。
自分の記憶に甘さを感じたことはない。モノクロの世界しか思い出せず、それはいつだって温もりを失った虚しさに満ちている。
姉が病で闘っている時も、そして亡くなった後も、ずっとそうだった。
止めた方がいいのだろうか。そう考えていると、目の前の道化師の笑みが崩れた。
首を傾げ目を瞬き、そしてはっきりと眉を顰め指を離す。赤い目に浮かぶ不快の色を見て取って、密かに落胆した。
やはり自分には、甘い夢を見ることなどできるはずがないのだろう。
「搾取され続け、だがその結果は報われない……一番嫌いなタイプの記憶だ。そんなものしかないオマエに、魅せられる夢などありはしない」
吐き捨てて、道化師は立ち上がる。眉を顰めたまま、手にしていた横笛を構えた。
「Geh nach Hause.いい子は家で好きな夢を見ればいい」
夢など見たことはない。
そう言い返そうとして、けれど笛の音が聞こえた途端、何も言葉が出てこなくなった。
意識が微睡んでいく。体が勝手に動き、音楽室を出て行ってしまう。
自分と同じように、倒れていた生徒も起き上がり歩き出す。そのまま階段を下り、旧校舎を出て。
覚えているのは、そこまでだった。
旧校舎の音楽室には、夢を魅せる魔物がいる。
そんな噂話は、数日もすればすっかり忘れられてしまったようで、誰一人話すことはなくなってしまった。
もうどんな噂だったのかも、はっきりと覚えてはいない。そもそも最近は、思い出す余裕もあまりなかった。
「ほら、今回の自信作」
そう言って机に置かれたのは、綺麗にラッピングされた数枚のクッキー。
「あの、さ。悪いんだけど……」
「さっさと食え。甘くて美味いはずだ」
有無を言わさぬ様子に、仕方がないとラッピングを解き、クッキーを一枚とって齧る。
さくり、とした軽さと甘さが口の中に広がり、重苦しい気持ちと混じって何ともいえない気持ちになった。
ここ数日、友人は菓子作りに目覚めたようで、毎日のようにこうして作った菓子を渡してくる。
最初は素直に喜び、次第に貰うばかりなのが申し訳なくなった。そして今は、渡される度にどうやって断ろうかとばかり考えている。
甘いものを食べ慣れていない自分にとって、友人の菓子は少しばかり重いのだ。
「何度も言ってるけどさ、私以外にもあげられそうな子はいるんじゃないの?」
「何度も言ってるが、オマエのために作っているんだ。それを他のやつに与えてどうする」
相変わらず友人は頑なだ。強制的な優しさに、本当に受け取っていいのかと、少し不安になる。
そもそも、自分はどうやって友人と知り合ったのだったか。
「どうした?」
「――え?」
顔を覗き込まれ、考えていたはずのことが途端に掻き消えた。
目を瞬く。思い出そうとしても何一つ思い出せず、眉を寄せ首を振った。
「些事を気にかけるな。オマエはただ、与えられなかった献身の報酬を享受すればいい」
「何?」
何かを言われた気がしたが、友人は笑って首を振る。
その笑い方を、どこかで見た気がした。けれどそれを思い出すより早く目が合って、そうすれば何もかもが朧げになっていく。
「甘さで満たされたオマエの記憶は、さぞかし美味しいのだろうな」
ふふ、と笑う友人の目が、窓から差し込む光を反射して赤く煌めいたように見えた。
20260517 『sweet memories』
「愛、か……」
流れていくクレジットを眺めながら、思わず呟いた。
話題になっていた映画。しかし途中から話に集中できず、気づけばあっという間にエンディングを迎えてしまっていた。
小さく息を吐く。その原因である従兄はこちらの心情など一切気にせず、今も楽しそうに髪を編み込んでいた。
「映画、終わっちゃったんだけど」
「あぁ、うん。これ編んだら、お昼にしようか」
一向に手を止める様子のない彼に、諦めにも似た気持ちで肩を落としテレビを消した。
最初は隣に座り、一緒に映画を見ていたはずだった。それなのに途中から飽きてしまったようで、立ち上がり部屋を出たと思ったら、しばらくしてヘアメイクセットを手に戻ってきて今に至る。
そんなに面白くなかっただろうか。黒い画面に映った自分たちの姿を眺めながら、映画の内容を思い返す。
主人公である人形師の少年と、彼が作った人形に宿ってしまったヒロインとの交流を描いた物語。色々な困難を乗り越えて、最後にはヒロインの本来の体の元まで辿り着き、目覚めたヒロインと主人公が笑い合うという筋書きは、退屈するほどのものではなかったように思う。
もしかしたら、ただ我慢ができなかったのかもしれない。従兄の家にいる時には、必ずと言っていいほど着飾られていたのだから。
手先の器用な従兄は、何故かこうして自分の髪を弄ったり、手料理を振舞うことが好きらしい。
それに不満がある訳ではない。今まで行ったことのある美容室やレストランよりも、従兄のヘアメイクや料理の方がいいとも思っている。けれどいくら飽きたからとはいえ、急に髪を弄り出すのはどうなのだろうか。
編み込みが終わった従兄が、最後に花の飾りのついたピンを差すのが見えた。そのピンも、きっと彼の手作りなのだろう。
「物好きだよねぇ。私の髪なんか可愛くしても、面白くないでしょうに」
「これくらいしないと、お前は何もしないだろ?」
確かに。
声を出さずに、内心で肯定する。そんな手間をかける時間があるなら、気になる映画やドラマを見ている方がよっぽど有意義だ。
「なんでこう、おしゃれどころか、料理一つできないかな」
呆れたような声に、思わず眉が寄る。自覚がないことが一番たちが悪い。
「何もしなくても綺麗に飾り立てて、美味しいご飯を作ってくれる誰かさんがいるから」
振り向いてそう告げれば従兄は目を瞬き、そして困ったように微笑んだ。
「そっか……なら、仕方ないか」
そう言って道具を片付け、立ち上がる。
昼食の準備に取り掛かるのだろう。部屋を出る背に、ふと思いついて声をかけた。
「愛があれば何でもできる?」
さっき見た映画の、主人公のセリフ。主人公はヒロインに向けて宣言する形で言っていたが、従兄はどんな答えを出すのだろう。
「何でもなんて、愛の形や大きさによって違うだろ」
立ち止まりこちらを振り返る従兄は、酷く嫌そうな顔をしていた。
何か気に障るような質問だっただろうか。何故そんな表情をするのか分からず首を傾げていると、睨むようにテレビ画面を見ながら小さく呟く。
「あんなの、ただの執着に対する言い訳だ」
「執着?」
同じようにテレビ画面に視線を向け、眉を顰める。映画の内容を思い出しながら、さらに困惑した。
「だってそうだろ?すべて離れていかないようにするための行動だ。何でもって言いながら、あの時点で手放せ言われても絶対に言いくるめてしなかったはずだよ」
随分と辛辣だ。けれど主人公が人形を抱きしめる場面を思い出すと、従兄の言葉の通りだとも思った。
「愛って、そういうものじゃないの?」
「かもね。でもそれを傍目から見るのは気分が悪い」
主人公に対しての言葉だろうけれど、まるで自分自身に言っているみたいだ。
従兄のことはよく分からない。プロ顔負けの技術を持ちながら美容師や料理人になるつもりはないらしく、自分以外に彼が誰かに髪を結ったり、料理やおやつを振舞う所を見たことがない。
もったいないと何度も言ったが、その時の回答は決まって意味がない、の一言だ。
「愛があれば何でもできる……私は、できるかな?」
「しなくていい。もう十分だ」
無意識に呟いた言葉を、間髪入れずに否定される。その顔は顰められたままだったが、どうしてか泣くのを耐えているように見えた。
何故そんな顔をするのか。問いかけようとして、それこそ意味がないと口を噤む。
その代わりに、お腹の虫が空腹を告げるため、控えめに鳴いた。
「――少し待ってて。すぐ準備してくる」
「えっと……ありがとう」
途端に呆れたように笑い、従兄は部屋を出ていく。
一人残されて、お腹をさすりながら溜息を吐いた。恥ずかしさはあるものの、それよりも安堵の方が大きい。
「本当に、何があったんだか」
気にはなるが、さっきの表情を見てしまった以上、無理に従兄について詮索するつもりはない。従兄を泣かせることだけはしたくはなかった。
「聞いた所で、意味がないしね……それより、お昼はなんだろう?」
待ちきれず、立ち上がる。
キッチンに向かいながら、そっと髪に触れた。丁寧に編み込まれた髪に差された花のピン。
本物ではないはずなのに、ふわりと控えめな花の香りがしたような気がした。
二人は、双子でありながら何もかもが正反対だった。
控えめな姉と、活発な弟。何かを決めるのに姉は時間をかけて悩むのに対して、弟は直感的に選択をする。
性格も好みのものも違う。けれどやはり双子だからなのか、二人は一緒にいることが多かった。
「ほら、今日はあっちで遊ぶぞ」
「う、うん」
弟が姉の手を引いて遊びに行く。それが弟には当たり前であり、今まで疑問に思うことなど一度もなかった。
そんなある日。姉が珍しく風邪を引いた。数日寝込む程、重い風邪だった。
最初、弟は姉を心配して看病をしていた。けれど元々外で遊ぶことが好きな弟だ。次第に飽きて、外に出ようと思い立った。
「ちょっと、外に行ってくる」
「え?……うん。気をつけて」
綺麗な花を摘んで帰れば、姉も元気になるかもしれない。そんなことを考えながら、一人外へと飛び出した。
雲一つない快晴に、弟は上機嫌でお気に入りの野原へ向けて駆け出す。けれどその足は、黒い服を着た人々を視界に入れて立ち止まった。
悲しい顔をした人々。耳を澄ませば啜り泣く声に混じり、ひそひそと話す声が聞こえてくる。
――可哀そうに。まだ若かったのにねぇ。
――ただの風邪だったのに、一気に悪くなっちゃって。
――とても仲が良かったから心配よ。これから一人きりになって、大丈夫なのかしら。
ひたり。首筋を冷たい手で撫でられたような感覚がした。
咄嗟に振り返るも、そこには誰の姿もない。けれど首筋の冷たい感覚はなくならず、逆に首筋だけではなく全身を冷やしていく。
かたかたと、体が震え出した。気を抜けば今にも崩れてしまいそうで、弟はただ混乱する。
初めての感覚だった。体の震えも、込み上げてくる感情も、今まで一度も感じたことはない。
この、苦しくて痛い感情はなんだろうか。姉ならば知っているのだろうかと思った時、床に臥せる彼女の苦しげな顔を思い出す。
「あ、あぁ……」
呻くような声を上げ、弟は耐えきれずに駆け出した。当てもなく、胸を抉る冷たい感情から逃げ出すように無心に走り続けた。
そして辿り着いたのは、家のすぐ近くにある寂れた公園の中。
ふらふらとベンチに歩み寄り、座る。頭の中では姉の顔と先程聞いた話が消えず、息苦しくて堪らない。
もしも、姉の風邪が悪くなったとしたら。こうしている間にも症状が重くなり、そして最後には取り返しのつかないことになったとしたら。
次々と浮かぶ最悪に、弟は泣きそうに顔を歪ませ俯いた。
深く考えずに、姉を置いて外に出たこと。その選択を、初めて弟は後悔した。
「大丈夫だよ」
不意に声がした。
顔を上げる。目の前で微笑む姉の姿を見て、弟は息を呑んだ。
パジャマの上にカーディガンを羽織っただけの姿。汗だくの赤い顔。呼吸は浅く、ふらつく体は彼女の風邪が治った訳ではないことを伝えている。
「もう、大丈夫。怖いのも、嫌なのも全部、私がもらうから」
動けない弟の前で膝をつき、姉は彼の手を両手で包み込む。
その熱に、火傷してしまいそうだと弟は思った。けれど同時に、あれだけ胸の中で渦を巻いていた恐怖が消えていくのを感じた。
後悔したはずの選択もそれ程のことではなかったと思い始め、弟は咄嗟に姉の手を振りほどく。
「大丈夫だよ」
姉の言葉に必死で首を振る。
弟の頬を涙が伝い落ちた。今まで恐怖や後悔といった負の感情を感じなかった理由が、ようやく分かった。
「やめて……」
懇願する声は酷く震えている。
「俺の感情を奪わないで。後悔しないままいたら、全部失った時に前に進めなくなる」
姉を失った時に後悔したのでは遅すぎる。一人で立てる程自分は強くはないのだと、弟は姉の姿を前にして気づいた。
「奪う……」
振り解かれた手を見つめ、姉はゆっくりと目を瞬かせる。小さく首を傾げて弟を見つめると、眩しそうに目を細めた。
「もういいの?もらわなくても、ちゃんと眠れる?」
「え……」
姉が何を言っているのか、一瞬弟には分からなかった。
それはどういう意味なのか。そう問おうとした弟の脳裏を、幼い頃の記憶が過ぎていく。
それは思い出したことが奇跡のような、そんな些細な出来事だった。
昼間、姉と二人で食べるはずの菓子を、一人で食べてしまったこと。母に怒られ言い返して、そして夜になって急に不安が押し寄せてきた。
母に酷い言葉を吐いたことを後悔し、何より姉を悲しませたのではないかという後悔が、弟を眠れなくさせていた。母と姉に謝ってはいたものの、後悔が明日への不安となって、怖くて堪らなかった。
誰にも相談できず、一人布団の中で震えていた時、姉が布団の中に入り込んできたのだ。
――大丈夫。怖いのは全部、私がもらってあげるからね。
両手を包み込んで、額を合わせる。
優しい温もりに不安が解けて、怖さも後悔ですらも消えていったのを思い出した。
「――馬鹿。もう一人で眠れるに決まってるだろ。いつまでも小さな子供扱いするなよ」
文句を言いながら、弟は姉がしたようにその手を包み込んで額を合わせた。
記憶の中の仄かな温もりとは違う、痛みすら覚える程の熱。離れようとする手をしっかりと握り、目を合わせて弟は囁いた。
「今度は、俺がその苦しいのをもらってあげる。でも半分だけ。半分なら、そんなに後悔しないだろ?」
姉を良く知る弟は、そう言って笑う。
体のだるさや痛みを感じながら、それでもしっかりと姉を支え寄り添いながら、家へと帰っていった。
似ていない双子は、けれどふとした瞬間によく似ていることがある。
例えば、怪我をした時。片方が怪我をすると、もう片方も痛みに顔を顰める。
例えば、嬉しいことがあった時。その時浮かべる笑顔は同じだった。
二人はいつも一緒にいる。
お互いがお互いを支え合うように、今日も同じ笑顔を浮かべている。
20260515 『後悔』