sairo

Open App
4/3/2026, 3:47:20 PM

手の中の、小さなストラップを握りしめる。
大切な友人とお揃いで買った、青い鳥のマスコットがついたストラップ。いつまでも親友でいようと願いを込めた大切なものだけれども、それは自分だけが思っていたことかもしれない。
ストラップを買ってから少しして、友人は引っ越していってしまった。別れの言葉も言わず、姿も見せず。まるで最初からいなかったかのように、友人は姿を消した。
まだ幼かった自分はすぐには状況を理解できず、呆然と空き家になってしまった友人の家の前に立ち尽くしていた。その時、玄関の片隅に転がっていた手の中のこれと同じストラップを見つけてしまった衝撃と悲しみは今でも忘れられない。
小さく息を吐いた。強張る体から力を抜くように、手を開いてストラップを箱に戻す。
白い鳥のマスコットのついたストラップの横に並べて、戻らない昔を懐かしんだ。

4/2/2026, 5:25:07 PM

「旅に出ようと思って」

不意に呟かれた言葉に、顔を上げた。
カレンダーに視線を向ける。四月一日。そういうことかと一人頷いて、読んでいた雑誌に視線を戻す。

「あぁ、うん」

曖昧に返事をした。それ以上何かを言われることもなく、話はそれで終わったように思えた。
次の日、どこにも姿がないと気づくまでは、会話をしたことすら忘れていた。
どこを探しても見つからない。
あの日から、そろそろ一年が経とうとしている。



ぐすぐすと泣く声を背中に聞きながら、その重さに何度目かの溜息を吐いた。
負ぶさりお化けとはこういうモノだろうか。現実逃避気味に考えながら、カレンダーに視線を向けた。
四月一日。彼の弟が姿を消して、ちょうど一年だ。
彼が言うには、その日も弟は普段と何ら変わらない様子だったらしい。数日前にエイプリルフールを知って、だから嘘をついてみたくなったのではないかと、思ったようだった。

「何でだよ……いつもと変わんなかったじゃん……だから、嘘だと思ってたのに。なんで……」
「はいはい」

何度も繰り返し聞いた愚痴を聞きながら雑誌を閉じ、コーヒーでも入れようと立ち上がる。
落ちないように、けれどこちらに負担を与えないように背中に張りつくのはさすがというべきだろうか。
弟がいなくなってから、彼は外に探しに出る以外の時間はこうして背中にしがみついていることが多くなった。最初は同じように心配し、彼を可哀そうに思ったものだが、一年も経つとどうしても対応が雑になってしまう。
残された彼の気持ちはよく分かる。旅に出るといなくなってしまった弟の無事を心配するのは当然だ。この世界は決して狸《かれら》には優しくないのだから。

「今頃、どっかで腹を空かせてたりして……車に轢かれてたらどうしよう……」

彼の泣き言を聞きながら、この不思議な兄弟に出会った日のことを思い出す。
あの日も確か四月一日だった。
仕事の帰り。近道をしようと横切った公園の片隅で、身を寄せ合って震えていた兄弟のどこか怯えたような瞳。何故か放っておけなくて、こっそりと家に連れ帰ってしまった。
あれから数年経つが、未だに兄弟が話すことも、時に人の姿に化けることにも完全に慣れない。すべてはエイプリルフールの幻で、朝目が覚めて四月二日になったら消えてしまうのではないかと、不安に思うことすらある。

「もう、帰ってこないのかな……」

ぽそり、と小さく呟かれた疑問に、返せる答えは持っていなかった。
小さく息を吐く。
仕方がない。部屋に戻ったら目一杯に甘やかそうと、コーヒーを淹れながら苦笑する。
その時、インターホンが急な来客を告げた。

「誰だよ……」
「さあ?今日は荷物の配達はないはずだけど」

淹れたコーヒーを置いて彼を背中にしがみつかせたまま、玄関に向かう。
彼を背中から離そうとしても離れないことは、この一年身に染みて理解していた。

「どちらさまですか?」

そう言いながら、ドアを開ける。不用心ではあるが、彼が何も言わない時は危険がないと知っている。
けれどドアを開け、来客の姿を認めた瞬間。相手の顔を見つめたまま、動けなくなってしまった。

「あ……」
「ただいま」

穏やかに笑う、人の姿に化けた彼の弟。動けない自分の手を取って家の中に入ると、そのまま迷わずに部屋へと向かう。
そして同じように動けないでいた彼を背中から引きはがし、ぽいと投げ捨ててしまった。

「痛っ……!?」

痛みに呻く彼を気にせず、弟は軽く手を引いた。彼のことは気にかかるが、仕方がないと促されるままに座る。
途端に狸の姿に戻り膝に乗って甘え出され、複雑な気持ちになりながら擦り寄る頭を撫でた。

「おい!一年間連絡一つなくふらふらしてたくせに、急に戻ってきやがって!しかも、何で俺を投げ捨てたんだよ!」
「旅に出るとは言った」
「エイプリルフールに言うやつがあるか!……というか、今まで何処に行ってたんだよ」

人の姿に化けた彼が、文句を言いながら背中に圧し掛かる。うっ、と小さく声が漏れるものの、兄弟が気にする様子はない。思わず文句を言いかけ、しかしその前に兄弟が揃っていた時は大体こんな感じだったと思い出し、言えない文句の代わりにそっと肩を落とした。

「いろいろ?海とか、山とか……あと、同じような狸の所で話を聞いてた」

首を傾げて弟は言う。
どんな話を聞いたのだろう。気になって視線を向けると、真っすぐにこちらを向いた弟と目が合った。
人の姿に化けている時はそれなりに感情豊かではあるが、こうして狸の姿に戻られると何を思っているのかは分からなくなってしまう。
ただ何となく、その目を少しだけ怖いと思ってしまった。聞いてはいけないような気がして話題を変えようと口を開くが、その前に彼がさらに背中に圧し掛かり弟に声をかけた。

「どんな話をしてたんだ?」
「皆で幸せになれる方法。どうすれば神隠しができるのか、教えてもらった」

思わず、息を呑んだ。
戸惑い彷徨う視線が、偶然カレンダーを見た。四月一日。エイプリルフールの言葉が思い浮かぶ。

「それって……エイプリルフールの嘘?」

弟は何も答えない。
首を傾げて、小さくふふ、と笑っていた。

4/1/2026, 6:09:15 PM

「幸せに」

そう言って、大切な人たちに向けて手を振った。
幸せになってほしい。心からそう思う。

「さようなら」

届かない別れの言葉が、風に攫われていく。春の嵐の強さに目を細めながら、微笑みを浮かべ空を仰いだ。
新たな始まりに相応しい、雲一つない青空。彼らのこれからの幸せを表しているようだ。
別れを寂しいとは思う。けれどそんな感情は、しばらくすれば雪解けのように消えてしまうのだろう。
そんなことを思いながら、彼らに背を向け歩き出す。
振り返りはしない。そんな未練は持ちたくなかった。



「強がり」

どこからか声が聞こえ、足を止めた。
辺りを見回す。咲き綻ぶ桜の木の下でこちらを見つめる小さな影を認め、歩み寄る。

「泣けばいいのに」

拗ねたような呟きと共に、腕に抱えた鏡をこちらに向けられる。

「っ……」

底に映る自分の姿に思わず眉が寄った。
はらはらと、声もなく自分自身。小さくて弱い、本当が鏡に晒されていた。

「幸せに、なんて綺麗な言葉で誤魔化さないで、泣けばよかったのに。置いていかないでって、手を伸ばせばよかったんだ」
「そんなこと、できるはずがない」
「できたよ。できたのに、しなかっただけだ」

その言葉に、鏡を睨みつけながらも鼻で笑った。
確かに、手を伸ばすことはできたのだろう。行かないでと、言葉にすることも簡単にできた。
けれどそうして本心を晒してしまった瞬間に、きっと自分はその場から動けなくなるのだろう。先にも進めず、戻ることもできない。ただ立ち尽くしているだけなど、そんなこと許せるはずがなかった。

「皆の幸せの邪魔になる私を、私は認めない。強がりだろうと、本当を隠しているだけだろうと、皆が先に進むためなら私は笑ってみせる」

鏡の中の自分の姿が揺らいでいく。笑い合い、無邪気に遊んでいた頃の幻を最後に映して、鏡は何も映さなくなった。

「強がり」

静かに嘆息して、鏡を抱いたまま彼は言う。
呆れたように、それでいて悲しげに微笑む目が、まるで泣かない自分の代わりに泣いているように見えた。

「それなら、あなたの幸せはどこにあるの?」

思わず、目を瞬いた。
少し遅れて彼の言葉の意味を理解し、笑みが浮かぶ。彼の優しさを嬉しいと思うのと同じくらいにこそばゆくて落ち着かない。
彼の目を見据える。たった一つしかない答えを誇らしげに告げた。

「皆が、立ち止まらずに幸せになってくれること。それが私の幸せ」

皆と同じように進めなくなってしまった自分が願えること。それは強がりでも、誤魔化しているわけでもない、本心だった。
その答えに、今度は彼が目を瞬いた。何も映らない鏡に視線を落とし、眉を寄せて呆れたように息を吐いた。

「お人好し」
「皆が優しいだけ。何年経っても忘れず、会いに来てくれるから」

それだけで十分だった。
たくさん話を聞かせてくれる。少なくとも、自分にとってそれが何よりも幸せだ。
彼らの門出を見届けることができたのだから、自分も同じように先に進むべきだろう。

「――そろそろ行かないと」

そう告げれば彼は鏡を一瞥し、こちらに向けて差し出した。
意味が分からず彼を見る。
受け取れということだろうか。何も言わない彼を不思議に思いながら、差し出された鏡にそっと触れた。

「あ……」

その瞬間、鏡は手の平に収まるくらいの光になる。ふわふわと辺りを漂い、手に擦り寄るようにしてそのまま吸い込まれて消えていく。

「餞別。強がりでお人好しなあなたが、次の世界では一人で置いて行かれることのないように」

穏やかに告げて、彼は手を取った。光が吸い込まれた場所を軽く撫で、手を繋ぐ。
軽く引かれて、手を繋いだままゆっくりと歩き出す。その優しさに、お人好しなのは彼の方だと心の中だけで呟いた。
滲む視界を誤魔化すように見上げた空は、変わらずどこまでも広く青い。吹き抜ける風が草木を揺らし、色とりどりの花びらを舞い上げていく。
とても幻想的で、泣きたいくらいに美しかった。

「泣き虫」
「うるさい。おせっかいのお人好し」
「人間じゃなくて鏡なんだから、お人好しというより物好しじゃないかな」

揶揄い交じりの言葉に、涙を拭いながらバカとだけ返す。
母の鏡。大切にしていたはずのそれを、母は自分の代わりにと一緒に入れてくれた。
母が知ったらどう思うだろうか。呆れるのか、それとも父を重ねて懐かしむのか。
ふと、風に乗って名を呼ぶ声が聞こえた。一度だけ立ち止まり、振り返る。
自分の大切な人たちがこちらを見ているような気がして笑みが浮かぶ。届くことがないと知りながら、繋いでいない方の手を高く上げる。

「幸せに!」

そう言って大きく手を振った。
どうか幸せになってほしい。そう心の中で願えば、繋いだ手を軽く引かれた。

「誰かの幸せを願うなら、まずあなたが幸せにならないと」

彼の言葉に、それもそうかと思う。もう一度手を振って、さらに大きく声を上げた。

「私も幸せになるため次に進むから!」

息を呑む音がした。
皆が驚いたような顔をする。泣きそうに、何かを言いたげに、こちらを見つめる。
けれど何も言わず。その代わりに、同じように笑顔で手を振り返してくれた。

3/31/2026, 3:25:21 PM

街路樹の下で、ぼんやりと佇む影を見た。
何気ないふりをして、少しだけ近づいてみる。こちらに背を向けて立つその姿はどこか寂しげだ。
誰かを待っているのだろうか。時折見かけるその人は、いつも遠くを見て溜息を吐いている。その表情はいつも悲しげで、笑顔を見たことは一度もない。
笑顔を見てみたい。いつも見ているのが悲しい顔だからか、最近彼女を見かける度にそう思うようになった。
悲しい顔をする理由を聞いてみたい。誰を待っているのか。その誰かは本当に待たなくてはいけない人なのか。
もし叶うのならば待つのを止めて、一緒に遊びに行きたい。
そんなことを思いながら、彼女の横を通り過ぎていく。
結局思うだけで、声をかける勇気はないのだ。臆病な自分に呆れて、小さく息を吐く。
次こそは声をかけられるだろうか。さりげなく近づいて、友達になれたりしないだろうか。
臆病な自分には叶えられないいくつものもしもを想像して、何度目かの次こそはを繰り返した。



優しいあの子に、今日も会えなかった。
一人ぼっちの自分に声をかけてくれた可愛い子。恥ずかしそうに、けれど精一杯の勇気を振り絞って声をかけてくれた友達。
待ち合わせの約束をしたわけではない。それでも会いたくて、いつかのように一人でいれば声をかけてくれるのではないかと期待して、こうして今日も待っている。
あの子のことを、自分はよく知らない。どこに住んでいるのか、年齢すら聞かなかった。
聞かなくてもいいような気がした。気ままに散歩をしたり、読んだ本の感想を言い合ったりするのに、必要なものではないと思っていた。
今は少しだけ後悔をしている。会えなくなってしまえばそこで断たれてしまうほどの、細い繋がりだったと気づいてしまった。
通り過ぎていく人々を、何気ないふりをして眺める。
どこにもあの子はいない。はにかみながら差し出された手は、どこにもない。
寂しくて目を伏せた。



「あれ……?」

思わず声を上げていた。
それはほんの僅かな違和感。いつものように一人佇む彼女を見て感じる、言葉にできない何か。
何だろうか。絡まってしまった糸を解く時のような、歯に何かが挟まったようなもどかしさに眉が寄る。

「なんだろうなぁ」

彼女の背を見ながら考える。一向に答えが出てこないことに、いっそ叫び出してしまいたい。
落ち着くために深呼吸を繰り返す。何度か繰り返して、そういえばとぼんやり思う。
どうして自分は、こんなにも彼女のことが気になるのだろう。
いつも悲しい顔をしていたからだろうか。けれど何故彼女なのだろう。悲しい顔をしているのは、彼女以外にもたくさんいるというのに。
そもそも、いつから彼女を目で追い始めたのだったか。何気ないふりをして彼女に近づこうとしてどれくらいの時間が経ったのか。
考え出せば、疑問は次々と湧いてくる。いつものように静かに近づく足が、このまま進むべきかを迷ってしまう。
彼女のことを、自分はまだ何も知らない。けれど何となく知っているような気がする。
どうしてだろうか。記憶や認識の差異に内心で混乱し、無意味に視線を彷徨わせる。

「あ……」

目の前で彼女が小さく肩を震わせた。
ゆっくりとこちらを振り返る。悲しげだったはずの目が驚きに丸くなり。

目が合った。



あの子を待ちながら、最初の出会いを思い出す。
一人でいた時に、何気ないふりを装って近づいてきたあの子。少しだけ恥ずかしそうに、手を差し出した。

「え……?」

そこで違和感に気づく。それはとても小さな、けれど確かな綻びだった。

「いつ、あの子に会ったんだろう?」

あの子に初めて出会った日がいつなのか、いつからこうして待つようになったのか。
靄がかかったかのように、とても曖昧だった。
初めて交わした言葉も覚えていない。確かとてもおかしなものだと思っていたはずなのに、どうして忘れてしまったのだろう。
眉間に皺が寄る。綻びに気づいたことでどんどんと広がって、目に見える違和感として形を持ち出していく。
あぁ、そういえば。
あの子はどんな姿をしていただろうか。
気づいて、胸が苦しくなった。

「あ……」

泣きそうになって肩を震わせた時、後ろから小さな声がした。
聞き覚えのない声。懐かしいと思えるその響き。
ゆっくりと振り返る。迷うような顔をした少女と。

目が合った。





「えと……その……はじめ、まして」
「あ、はい……はじめまして」
「あの、突然なんですが……友達に……なってください」
「よ、よろこんで……友達に、なってください」

ぎこちない会話を、風が空高く運んでいく。
見つめ合ったまま動けない、二人の少女。お互い恥ずかしげに顔を赤くし、視線を彷徨わせながらも必死に会話を続けている。
こうして向き合っている状態では、何気ないふりもできず真正面から向き合うしかない。傍から見れば挙動不審な二人は、それでも何とか友達になれたことに表情を和らげた。
どちらからともなく、手を差し出す。その手を取り合い繋いで、はにかみながら歩き始めた。

「あの、ね……ずっと気になっていたんだけど、誰を待っていたの?」
「友達になった、あなたを待っていたの。あなたはどうして、私に声をかけようとしてくれたの?」
「友達になるはずの君に、友達になろうって言うため……かな?」

互いに顔を見合わせ、少しして笑い声が漏れる。

「何だか変なの」
「そうだね。おかしなことになってたみたい」

どうやら順番を間違えていたらしい。友達になったという結果だけが先走っていたようだ。
繋いだ手を揺する。初めて繋いだ手の懐かしい感覚は、とても不思議で面白い。

まぁ、たまにはこういうこともある。
何気ないふりをして間違う。それが世界というモノなのだから。




20260330 『何気ないふり』

3/30/2026, 4:15:18 PM

「そして二人は幸せに暮らしました。めでたし、めでたし」

楽しそうに笑い合う二人の姿を遠くに見ながら呟いた。
とてもお似合いの二人だ。一緒にいるのが申し訳なくなるくらいに。
小さく息を吐いて、二人に背を向ける。約束を破ってしまうことになるが、急に予定ができてしまったとでも言えば、深くは追及されないだろう。本音では、ずっと三人でいたいと思っている。けれど、それは自分のわがままでしかないことも理解していた。
じわりと目元が熱くなるのを、歯を食いしばって耐える。自分が決めたことで泣きたくなどなかった。



「よしよし。頑張りましたね」

甘やかされて、じわりと涙が込み上げる。
泣きたくない。そうは思っても、優しく降る言葉たちが簡単に自分の中の強がりを解かしてしまう。

「頑張ったのだから、存分に泣きなさい。ここには私しかいないのですから、気にする必要はありません」
「でも……だって……」
「ほら、泣いているところを隠してあげましょう。これなら誰にも見られませんよ」

ぐるりと巻きつかれ、辺りが暗く、何も見えなくなっていく。
暗闇と、抱きついた場所から伝わる白蛇の冷えた体の感覚に、小さく息を吐いた。吐息と一緒に、堪えていた涙も溢れてしまう。

「ふ……っく……」
「いい子ですね。たくさん泣いて、また明日から頑張りましょう」

白蛇の穏やかな声が痛くて、次々と涙が溢れて止められなくなる。
しゃくりあげながら、さらに強く抱きつく。
泣きたくはなかった。けれど白蛇が泣けと言ったのだから、仕方なく泣いている。
誰にでもなく言い訳を繰り返し、ひたすらに声を上げて泣いていた。



柔らかな朝の日差しに目が覚めた。
いつの間に眠ってしまったのだろうか。まだぼんやりとする頭でそんなことを考えながら体を起こす。
いつもと変わらない自分の部屋。けれどどこか落ち着かない感じがするのは、これからこの家の家主は自分になるからだろうか。
祖母が亡くなり、この家の全てを継ぐと親戚たちに宣言した。誰もが顔を顰め、快く思ってはいないようではあったが何も言わなかった。皆この家に欲しいものはいくつかあっても、全てを継ぎたくはないのは丸わかりだった。

「――頑張らないと」

覚悟を声に出して、ベッドから抜け出す。
身支度を整えながら、まずは朝食にしようと部屋を出た。



「呼び鈴?こんな朝から誰だろ」

朝食後、呼び鈴が鳴る音がして玄関に向かった。
首を傾げつつ戸を開ける。しかしそこにいた二人の姿に声にならない悲鳴を上げた。

「おはよう。昨日約束したのに来なかったから、心配で来てみたの」

笑顔を浮かべてはいるものの漂う空気の鋭さに、体が硬直する。

「とりあえず、ここから出ましょうか」

動けない自分に、彼女が手を伸ばす。けれど触れられる寸前、体が強く後ろに引かれた。

「あ……」
「おはようございます。どうぞお上がりください」

静かに白蛇が告げる。
途端に、二人の表情が険しくなった。恐ろしさに逃げ出したくなるものの、体が白蛇の尾が巻き付いている状態では、何もできない。

「――おい」

こちらを見据え、彼が呼びかける。低い声音に、反射的に体を震わせながら彼を見る。

「それを手放せと言ったはずだ。今すぐ荷物をまとめてここから出ろ」
「それは……」
「そうよ。この家を出て、私の所に来たらいい。蛇憑きになるのはやめなさい」

彼女の言いたいことは理解できる。
親族の誰もが、この家を継げない理由が白蛇にあるほど恐れられているのも知っている。

「ごめん……」

二人から目を逸らし、白蛇へと手を伸ばした。
全て理解して、それでも家を継ごうと思ったのだ。二人が知らない白蛇の優しさも悲しみも知っているから、側にいたいと強く願った。
それに、と昨日の二人の姿を思い出す。
離れた方が二人のためなのだろう。自分は二人にとって、ただの邪魔者でしかない。
早くに両親を亡くし、先日祖母を亡くした自分を、優しい二人は放っておけないだけなのだ。

「えっと、わたしは一人でも大丈夫だから……」

二人の顔が見れない。
擦り寄る白蛇の頭を撫でながら、二人が去っていくのを待った。


「なら、私がここに住むわ。それと一緒になんてさせられないもの」
「――え?」

思ってもいない彼女の言葉に、目を瞬いた。
どういうことだろうか。振り返ろうとした時、巻きついていた尾を剥がされ、暖かな腕に抱きしめられた。

「そうだな。それに関わって悲惨な末路を辿らせるくらいなら、一緒に住んで見張った方がいいだろう」

力強く頭を撫でられる。
何が起こっているのか。恐る恐る視線を向けると、どこか恐ろしさを感じさせる笑みを浮かべた二人と目が合った。

「ひっ……」
「どうしたの?心配しなくても、ちゃんと守ってあげるからね。それに好きなご飯、何でも作ってあげるから」
「こんな広いだけの家に一人でいるよりいいだろ」

自分を置いて、話が進んでいく。
困惑して、助けを求めるように白蛇に視線を向けた。静かな赤い瞳がゆるりと細まって、溜息を吐かれる。

「この子を寂しがらせるだけの貴方方を住まわせるのは、あまり好ましくはありません。ですが妥協致しましょう」

それはつまり、これからは二人も一緒に住むということが決定したということなのか。

「なんか含みはあるし、寂しがらせてるってとこに引っ掛かりはあるけど、まあいいか。準備をしないとね」
「物理的に離れてたから、そう感じさせてたんだろう。とりあえず最低限必要なものだけ持ってくるから、少し待ってろ」

呆然とする自分を置いて、二人は慌ただしく去っていく。
何が起こっているのだろう。この短時間の出来事が何一つ理解できない。

「そして三人と一匹はいつまでも幸せに暮らしました。めでたし、めでたし。ということですよ」

それはハッピーエンドを迎えた物語の締めの言葉。
あの二人だけでなくて、自分と白蛇もそのめでたしに含まれるのか。
突然のことで実感が薄い。戸惑いながらも、白蛇に擦り寄る。

「よく、分からないけど……今まで皆に幸せをくれた分、ちゃんと幸せにするからね」

長い間、この家に幸せを与えてくれていた白蛇に告げる。

「はい。一緒に幸せになりましょうね」

嬉しそうな声音に、自然と笑みが浮かんだ。





「そこ!距離が近いから離れて」
「そ、そうかな……?」
「気にすんな。そう言って離れさせて、自分の側にいさせる気だろう」

ここ数日の似たようなやり取りに、密かに息を吐いた。
どうして二人は言い争っているのだろうか。この家に住むまではとても幸せそうに見えた二人だったというのに。
助けを求めて白蛇に視線を向けるが、穏やかにこちらを見るだけで助けてくれる様子はない。
めでたしで終わった先が、こんなにも賑やかだとは思わなかった。しかし戸惑いはあるものの、嫌な感じではない。

「こっちおいで。髪を結い直してあげるから」
「後でもいいだろ。それより、こっちのチョコも美味いぞ。ほら、口開けろ」

本当に賑やかだ。
年上だからなのか、前々から二人は何かと気にかけてくれていた。
前はそれが二人の負担になっているのではと怖かった。周囲から刺さる言葉が痛くて堪らなかった。
だからこの家を継ぐのを理由に二人から離れようとしたのに、今では二人の間にいるのが不思議で仕方ない。
最近はさらに過保護になった気がする。このままでは、一人で何もできなくなってしまいそうだ。そんな危機感を覚えるが、心のどこかではもう手遅れだと諦めてもいる。
仕方がない。何度目かの言い訳をしながら、おとなしく口を開ける。
ふわりと香るチョコの匂いと、口の中に広がる甘さ。
まるで、この二人のようだ。
どうやらハッピーエンドとは、胸焼けがしそうなほど甘いものらしかった。



20260329 『ハッピーエンド』

Next