街路樹の下で、ぼんやりと佇む影を見た。
何気ないふりをして、少しだけ近づいてみる。こちらに背を向けて立つその姿はどこか寂しげだ。
誰かを待っているのだろうか。時折見かけるその人は、いつも遠くを見て溜息を吐いている。その表情はいつも悲しげで、笑顔を見たことは一度もない。
笑顔を見てみたい。いつも見ているのが悲しい顔だからか、最近彼女を見かける度にそう思うようになった。
悲しい顔をする理由を聞いてみたい。誰を待っているのか。その誰かは本当に待たなくてはいけない人なのか。
もし叶うのならば待つのを止めて、一緒に遊びに行きたい。
そんなことを思いながら、彼女の横を通り過ぎていく。
結局思うだけで、声をかける勇気はないのだ。臆病な自分に呆れて、小さく息を吐く。
次こそは声をかけられるだろうか。さりげなく近づいて、友達になれたりしないだろうか。
臆病な自分には叶えられないいくつものもしもを想像して、何度目かの次こそはを繰り返した。
優しいあの子に、今日も会えなかった。
一人ぼっちの自分に声をかけてくれた可愛い子。恥ずかしそうに、けれど精一杯の勇気を振り絞って声をかけてくれた友達。
待ち合わせの約束をしたわけではない。それでも会いたくて、いつかのように一人でいれば声をかけてくれるのではないかと期待して、こうして今日も待っている。
あの子のことを、自分はよく知らない。どこに住んでいるのか、年齢すら聞かなかった。
聞かなくてもいいような気がした。気ままに散歩をしたり、読んだ本の感想を言い合ったりするのに、必要なものではないと思っていた。
今は少しだけ後悔をしている。会えなくなってしまえばそこで断たれてしまうほどの、細い繋がりだったと気づいてしまった。
通り過ぎていく人々を、何気ないふりをして眺める。
どこにもあの子はいない。はにかみながら差し出された手は、どこにもない。
寂しくて目を伏せた。
「あれ……?」
思わず声を上げていた。
それはほんの僅かな違和感。いつものように一人佇む彼女を見て感じる、言葉にできない何か。
何だろうか。絡まってしまった糸を解く時のような、歯に何かが挟まったようなもどかしさに眉が寄る。
「なんだろうなぁ」
彼女の背を見ながら考える。一向に答えが出てこないことに、いっそ叫び出してしまいたい。
落ち着くために深呼吸を繰り返す。何度か繰り返して、そういえばとぼんやり思う。
どうして自分は、こんなにも彼女のことが気になるのだろう。
いつも悲しい顔をしていたからだろうか。けれど何故彼女なのだろう。悲しい顔をしているのは、彼女以外にもたくさんいるというのに。
そもそも、いつから彼女を目で追い始めたのだったか。何気ないふりをして彼女に近づこうとしてどれくらいの時間が経ったのか。
考え出せば、疑問は次々と湧いてくる。いつものように静かに近づく足が、このまま進むべきかを迷ってしまう。
彼女のことを、自分はまだ何も知らない。けれど何となく知っているような気がする。
どうしてだろうか。記憶や認識の差異に内心で混乱し、無意味に視線を彷徨わせる。
「あ……」
目の前で彼女が小さく肩を震わせた。
ゆっくりとこちらを振り返る。悲しげだったはずの目が驚きに丸くなり。
目が合った。
あの子を待ちながら、最初の出会いを思い出す。
一人でいた時に、何気ないふりを装って近づいてきたあの子。少しだけ恥ずかしそうに、手を差し出した。
「え……?」
そこで違和感に気づく。それはとても小さな、けれど確かな綻びだった。
「いつ、あの子に会ったんだろう?」
あの子に初めて出会った日がいつなのか、いつからこうして待つようになったのか。
靄がかかったかのように、とても曖昧だった。
初めて交わした言葉も覚えていない。確かとてもおかしなものだと思っていたはずなのに、どうして忘れてしまったのだろう。
眉間に皺が寄る。綻びに気づいたことでどんどんと広がって、目に見える違和感として形を持ち出していく。
あぁ、そういえば。
あの子はどんな姿をしていただろうか。
気づいて、胸が苦しくなった。
「あ……」
泣きそうになって肩を震わせた時、後ろから小さな声がした。
聞き覚えのない声。懐かしいと思えるその響き。
ゆっくりと振り返る。迷うような顔をした少女と。
目が合った。
「えと……その……はじめ、まして」
「あ、はい……はじめまして」
「あの、突然なんですが……友達に……なってください」
「よ、よろこんで……友達に、なってください」
ぎこちない会話を、風が空高く運んでいく。
見つめ合ったまま動けない、二人の少女。お互い恥ずかしげに顔を赤くし、視線を彷徨わせながらも必死に会話を続けている。
こうして向き合っている状態では、何気ないふりもできず真正面から向き合うしかない。傍から見れば挙動不審な二人は、それでも何とか友達になれたことに表情を和らげた。
どちらからともなく、手を差し出す。その手を取り合い繋いで、はにかみながら歩き始めた。
「あの、ね……ずっと気になっていたんだけど、誰を待っていたの?」
「友達になった、あなたを待っていたの。あなたはどうして、私に声をかけようとしてくれたの?」
「友達になるはずの君に、友達になろうって言うため……かな?」
互いに顔を見合わせ、少しして笑い声が漏れる。
「何だか変なの」
「そうだね。おかしなことになってたみたい」
どうやら順番を間違えていたらしい。友達になったという結果だけが先走っていたようだ。
繋いだ手を揺する。初めて繋いだ手の懐かしい感覚は、とても不思議で面白い。
まぁ、たまにはこういうこともある。
何気ないふりをして間違う。それが世界というモノなのだから。
20260330 『何気ないふり』
「そして二人は幸せに暮らしました。めでたし、めでたし」
楽しそうに笑い合う二人の姿を遠くに見ながら呟いた。
とてもお似合いの二人だ。一緒にいるのが申し訳なくなるくらいに。
小さく息を吐いて、二人に背を向ける。約束を破ってしまうことになるが、急に予定ができてしまったとでも言えば、深くは追及されないだろう。本音では、ずっと三人でいたいと思っている。けれど、それは自分のわがままでしかないことも理解していた。
じわりと目元が熱くなるのを、歯を食いしばって耐える。自分が決めたことで泣きたくなどなかった。
「よしよし。頑張りましたね」
甘やかされて、じわりと涙が込み上げる。
泣きたくない。そうは思っても、優しく降る言葉たちが簡単に自分の中の強がりを解かしてしまう。
「頑張ったのだから、存分に泣きなさい。ここには私しかいないのですから、気にする必要はありません」
「でも……だって……」
「ほら、泣いているところを隠してあげましょう。これなら誰にも見られませんよ」
ぐるりと巻きつかれ、辺りが暗く、何も見えなくなっていく。
暗闇と、抱きついた場所から伝わる白蛇の冷えた体の感覚に、小さく息を吐いた。吐息と一緒に、堪えていた涙も溢れてしまう。
「ふ……っく……」
「いい子ですね。たくさん泣いて、また明日から頑張りましょう」
白蛇の穏やかな声が痛くて、次々と涙が溢れて止められなくなる。
しゃくりあげながら、さらに強く抱きつく。
泣きたくはなかった。けれど白蛇が泣けと言ったのだから、仕方なく泣いている。
誰にでもなく言い訳を繰り返し、ひたすらに声を上げて泣いていた。
柔らかな朝の日差しに目が覚めた。
いつの間に眠ってしまったのだろうか。まだぼんやりとする頭でそんなことを考えながら体を起こす。
いつもと変わらない自分の部屋。けれどどこか落ち着かない感じがするのは、これからこの家の家主は自分になるからだろうか。
祖母が亡くなり、この家の全てを継ぐと親戚たちに宣言した。誰もが顔を顰め、快く思ってはいないようではあったが何も言わなかった。皆この家に欲しいものはいくつかあっても、全てを継ぎたくはないのは丸わかりだった。
「――頑張らないと」
覚悟を声に出して、ベッドから抜け出す。
身支度を整えながら、まずは朝食にしようと部屋を出た。
「呼び鈴?こんな朝から誰だろ」
朝食後、呼び鈴が鳴る音がして玄関に向かった。
首を傾げつつ戸を開ける。しかしそこにいた二人の姿に声にならない悲鳴を上げた。
「おはよう。昨日約束したのに来なかったから、心配で来てみたの」
笑顔を浮かべてはいるものの漂う空気の鋭さに、体が硬直する。
「とりあえず、ここから出ましょうか」
動けない自分に、彼女が手を伸ばす。けれど触れられる寸前、体が強く後ろに引かれた。
「あ……」
「おはようございます。どうぞお上がりください」
静かに白蛇が告げる。
途端に、二人の表情が険しくなった。恐ろしさに逃げ出したくなるものの、体が白蛇の尾が巻き付いている状態では、何もできない。
「――おい」
こちらを見据え、彼が呼びかける。低い声音に、反射的に体を震わせながら彼を見る。
「それを手放せと言ったはずだ。今すぐ荷物をまとめてここから出ろ」
「それは……」
「そうよ。この家を出て、私の所に来たらいい。蛇憑きになるのはやめなさい」
彼女の言いたいことは理解できる。
親族の誰もが、この家を継げない理由が白蛇にあるほど恐れられているのも知っている。
「ごめん……」
二人から目を逸らし、白蛇へと手を伸ばした。
全て理解して、それでも家を継ごうと思ったのだ。二人が知らない白蛇の優しさも悲しみも知っているから、側にいたいと強く願った。
それに、と昨日の二人の姿を思い出す。
離れた方が二人のためなのだろう。自分は二人にとって、ただの邪魔者でしかない。
早くに両親を亡くし、先日祖母を亡くした自分を、優しい二人は放っておけないだけなのだ。
「えっと、わたしは一人でも大丈夫だから……」
二人の顔が見れない。
擦り寄る白蛇の頭を撫でながら、二人が去っていくのを待った。
「なら、私がここに住むわ。それと一緒になんてさせられないもの」
「――え?」
思ってもいない彼女の言葉に、目を瞬いた。
どういうことだろうか。振り返ろうとした時、巻きついていた尾を剥がされ、暖かな腕に抱きしめられた。
「そうだな。それに関わって悲惨な末路を辿らせるくらいなら、一緒に住んで見張った方がいいだろう」
力強く頭を撫でられる。
何が起こっているのか。恐る恐る視線を向けると、どこか恐ろしさを感じさせる笑みを浮かべた二人と目が合った。
「ひっ……」
「どうしたの?心配しなくても、ちゃんと守ってあげるからね。それに好きなご飯、何でも作ってあげるから」
「こんな広いだけの家に一人でいるよりいいだろ」
自分を置いて、話が進んでいく。
困惑して、助けを求めるように白蛇に視線を向けた。静かな赤い瞳がゆるりと細まって、溜息を吐かれる。
「この子を寂しがらせるだけの貴方方を住まわせるのは、あまり好ましくはありません。ですが妥協致しましょう」
それはつまり、これからは二人も一緒に住むということが決定したということなのか。
「なんか含みはあるし、寂しがらせてるってとこに引っ掛かりはあるけど、まあいいか。準備をしないとね」
「物理的に離れてたから、そう感じさせてたんだろう。とりあえず最低限必要なものだけ持ってくるから、少し待ってろ」
呆然とする自分を置いて、二人は慌ただしく去っていく。
何が起こっているのだろう。この短時間の出来事が何一つ理解できない。
「そして三人と一匹はいつまでも幸せに暮らしました。めでたし、めでたし。ということですよ」
それはハッピーエンドを迎えた物語の締めの言葉。
あの二人だけでなくて、自分と白蛇もそのめでたしに含まれるのか。
突然のことで実感が薄い。戸惑いながらも、白蛇に擦り寄る。
「よく、分からないけど……今まで皆に幸せをくれた分、ちゃんと幸せにするからね」
長い間、この家に幸せを与えてくれていた白蛇に告げる。
「はい。一緒に幸せになりましょうね」
嬉しそうな声音に、自然と笑みが浮かんだ。
「そこ!距離が近いから離れて」
「そ、そうかな……?」
「気にすんな。そう言って離れさせて、自分の側にいさせる気だろう」
ここ数日の似たようなやり取りに、密かに息を吐いた。
どうして二人は言い争っているのだろうか。この家に住むまではとても幸せそうに見えた二人だったというのに。
助けを求めて白蛇に視線を向けるが、穏やかにこちらを見るだけで助けてくれる様子はない。
めでたしで終わった先が、こんなにも賑やかだとは思わなかった。しかし戸惑いはあるものの、嫌な感じではない。
「こっちおいで。髪を結い直してあげるから」
「後でもいいだろ。それより、こっちのチョコも美味いぞ。ほら、口開けろ」
本当に賑やかだ。
年上だからなのか、前々から二人は何かと気にかけてくれていた。
前はそれが二人の負担になっているのではと怖かった。周囲から刺さる言葉が痛くて堪らなかった。
だからこの家を継ぐのを理由に二人から離れようとしたのに、今では二人の間にいるのが不思議で仕方ない。
最近はさらに過保護になった気がする。このままでは、一人で何もできなくなってしまいそうだ。そんな危機感を覚えるが、心のどこかではもう手遅れだと諦めてもいる。
仕方がない。何度目かの言い訳をしながら、おとなしく口を開ける。
ふわりと香るチョコの匂いと、口の中に広がる甘さ。
まるで、この二人のようだ。
どうやらハッピーエンドとは、胸焼けがしそうなほど甘いものらしかった。
20260329 『ハッピーエンド』
誰かの視線を感じて振り返る。
「あれ……?」
誰もいない。いつもは誰かしらいるはずの公園内はしんと静まり返り、人どころか生き物の気配すらなかった。
その異様さに背筋が薄ら寒くなるものの、風に乗って届いた香ばしい匂いにあぁと納得する。
今夜は広場で祭りがあるのだ。いくつも並ぶ屋台を思い浮かべ、漂う匂いも相まって小さく腹の虫が空腹を主張する。
苦笑して、手にした鞄に視線を落とす。図書館から借りた本を持ったまま屋台を覗くわけにはいかない。先程感じた視線など忘れて、早く帰ろうと足を速めた。
また、あの感覚がした。突き刺さるような、それでいてとても静かな視線。
辺りを見回すが、こちらを見ている人は誰もいない。気ままに散歩を楽しんでいたり、ベンチで休んでいたりと、公園にいる人たちは思い思いに過ごしている。
気のせいだったのだろうか。首を傾げながら、そういえば以前も公園で視線を感じたことを思い出す。
気になって道を逸れ、普段は足を踏み入れない公園の奥へと向かう。この先には、幼い頃に友人たちと遊んでいた秘密の花畑があるはずだった。
昔と変わらない、色とりどりの花が咲く道を進んで行く。
吹く風と共に、薄紅色の花びらが降ってきた。手に取って懐かしさに目を細めながら、背の高い向日葵の間を抜けていく。
そうして辿り着いたのは、花畑の中心。一本の桜の木の下で、疎遠になっていた友人の姿を見つけて立ち止まる。
「あれ、どうしたの?こんな所で」
「そっちこそ」
こちらに気づいて声をかける友人に、小さく肩が震える。辺りを見る振りをしながら視線を逸らした。
彼のことが嫌いになった訳ではない。ただいつからか、彼に見つめられると酷く落ち着かなくなった。すべてを見透かすような強い視線。胸が苦しくて痛くて、何かと理由をつけて遊ばなくなり、次第に疎遠になっていった。
相変わらず、彼の視線は落ち着かない。しかし今更引き返す理由もなく、かといってこのまま立ち尽くしている訳にもいかず、彼の側へと歩み寄る。
「久しぶり。あんまり変わってないな」
「そんなこと、ない……と思うけど……」
彼と会わなくなってから数年は経っているのだから、少しは変わっているはずだ。そう小さく反論するも、彼は笑って否定する。
「変わってないよ。俺の目を見ないとことか、昔のままだ」
「っ……」
気づかれていないはずはないと思ってはいたけれども、こうして目の前で言われるとどうしても気まずくなってしまう。
ちらりと彼に視線を向ける。記憶の中よりも成長した彼の姿に、途端に胸が苦しくなった。
「この前の夜祭に、参加しなかったんだな」
「え?あ、うん……」
突然振られた話題に驚いて、肩を震わせながらも頷く。
何故急に、と疑問に思うのと同時に、どうして知っているのかと戸惑う。
家に戻ってから、出かけようとは思っていた。けれど図書館から借りた本を鞄から取り出した時、無性に本の続きが読みたくて堪らなくなった。
少しだけ、と思いながら本のページを捲り、気づいた時にはすでに日付が変わってしまっていた。
「ぎりぎりの所で踏み留まるのは勘がいいのか、それとも運がいいだけか。まあ、どちらでもいいけど」
何を言っているのか。意味が分からず、眉を寄せながら彼を見上げた。
「――っ!」
彼と目が合い、反射的に顔を逸らす。
かたかたと体が震える。今すぐにこの場から逃げ出したくて堪らなかった。
「逃げるな」
低い声と共に手を掴まれる。強い力に振り解くことができず、逆に引き寄せられ肩を掴まれて、無理矢理に目を合わせられた。
うまく息が吸えない。目を閉じようとしても瞼は縫い付けられたかのように動かなかった。
「ちゃんと見ろ。お前は今、どこにいる?」
「どこって……」
昔、皆で遊んだ花畑にいる。
そう答えようとした。けれど彼の目に映る自分の姿を見て、思わず息を呑む。
成長した彼とは違い、この花畑で遊んでいた頃のままの自分の姿。無邪気な笑顔に、声にならない悲鳴を上げた。
彼が見ているのは誰だろう。次々と気づく違和感に、恐怖で涙が滲み出す。
どうして彼は目を合わせるために膝をついているのか。どうして花は咲いているのか。
桜。向日葵。その他にも紫陽花や秋桜など、同じ季節に咲かないはずの花たちが咲き誇っているのは何故なのか。
「お前がいるべきなのはここじゃない」
彼の言葉に思考が揺れる。彼が怖いのに、縋りたくて堪らない。
聞きたくない。帰りたい。逃げ出したい。離したくない。
様々な感情が込み上げる。どれが自分の思いで、どれが違うのか分からない。
どうしてそう思うのかすら、理解できなかった。
「あ、あぁ……」
「さっさと戻ってこい、このバカ」
意識が揺さぶられる。
耐えきれず遠のく意識の中。彼の目の中の自分が、忌々し気に顔を歪めているのを見た。
誰かの視線を感じて目が覚めた。
「あ……」
「おはよう。無事に戻って来れた感想は?」
どこか呆れたように彼が言う。それに首を傾げて、視線を巡らせる。
白で統一された見知らぬ部屋。どうしてこんな所にいるのだろうか。
「あんまり心配させんな。夜祭の屋台で売られているものを口にしたら、戻れなくなるところだったんだぞ」
頭を撫でて彼が笑う。どこか安心したような、温かな色をした目に見つめられる。
途端に胸が苦しくなった。恐怖からではない。よく分からない感情が込み上げて、顔が熱を持ち始める。
思わず彼に背を向け、布団の中で丸くなる。痛みを覚える程、鼓動が速くなっていくのを止められない。
「何だよ。戻って来れたんだから、もう見られることに恐怖はないだろ。こっち向けよ」
「っ、後でね!」
「後って……」
この状態で彼の顔など見られはしない。きっと息ができなくなってしまう。
そんなことを思いながら、彼の視線から逃げるようにさらに布団の中に潜り込む。体を丸めて強く目を閉じた。
何が起こっているのか、どうすればいいのか分からない。
唯一の救いは、この胸の痛みはどこか甘く、決して嫌なものではないことだった。
20260328 『見つめられると』
手の中に収まるほどの小さな木箱の表面を撫でる。
冷たさも温もりも感じない。指先に触れる木というよりも金属のような、あるいは磨き抜かれた骨のような、つるりとした感触に無意識に眉が寄った。
木箱の蓋は開かない。継ぎ目さえ分からないほどぴたりと閉じた箱には、唯一側面に小さな穴が開いていた。
螺子を巻くための穴だ。爪先で穴の縁をなぞり、首に下げている螺子を手に取る。いつものように穴に差し入れ、ゆっくりと巻き出した。
一日に一度、螺子を巻く。
生きていくために必要なこと。螺子を巻かなければ箱の中身が止まってしまうと、誰に教えられるでもなく理解していた。
――かちり、かちり。
螺子が巻かれていくにつれ、体が重くなっていくような感じを覚える。
――かちり、かち。
瞼が重い。目を閉じれば立っているのか、それとも横になっているのかも曖昧になっていく。
――とく、とくり。
手の中で、木箱が微かに振動する。仄かな熱が、手から全身に伝わってくる。
不意に木箱の感覚が消えた。どこに行ったのか、目を閉じている今確かめようもない。
木箱を失い、腕がだらりと垂れ下がる。体が重い。意識が沈んでいく。
底のない微睡みへと落ちていく感覚に身を委ねながら、また木箱の中身を確かめられなかったことを悔やんだ。
「顔色が良くない。今日は早めに帰って休んだ方がいいと思う」
そう言って友人は眉を寄せた。
額に手を当てられる。冷え性だとよく愚痴をこぼす彼女の冷えた手の心地良さに、目を細めた。
ほぅ、と吐息が溢れ落ちる。自分では大丈夫だと思っていたが、少しばかり熱があるのかもしれない。
「無理しないで。ほら、横になっていいから」
促されるままに横になれば、友人の膝に頭を乗せられた。彼女の長い銀の髪が光を反射して煌めくのを見つめていれば、次第に瞼が閉じていく。眠気はないが、髪を梳かれる感触に体の力が抜けていくのを感じた。
「隈ができてる。眠れてないの?」
「寝てはいると思うんだけどな。変な夢を見ている気がするから、それのせいかも」
「変な夢?」
不思議そうな声に、曖昧に笑って誤魔化した。
目が覚めれば忘れてしまうような、何の変哲もない夢。夢を見たという感覚さえなければ気づかないほどのそれを、どう説明すればいいのか分からない。
変な夢と言ったのは、それがおそらく同じ内容の夢だからだ。恐ろしい夢ではないと思うが、心臓が力強く鼓動しているのを感じて目が覚める。あまり気にしてはいなかったが、それが原因で疲れが出ているのかもしれなかった。
夢についてぼんやりと考えていると、髪を梳く彼女の手が離れ胸の上に触れた。
丁度心臓の真上。自分が触れている訳でもないのに、指先からとくとくと規則正しい鼓動を感じる。生きているから当たり前だというのに、何故かその鼓動はとても神秘的な音のように思えた。
「ちゃんと動いている」
「生きているから当然でしょ」
「でも重いでしょう?二人分だもの」
何を言っているのだろうか。二人分の意味が分からず、目を開けようと力を入れた。けれど瞼は重く、僅かにも震えない。
それだけ疲れているのか。困惑していると、強い眠気が押し寄せた。
逆らう間もなく、意識が深く沈み込んでいく。とくとくと、止まらない鼓動が体中から伝わってくるようだった。
手の中で震える何かを感じて目を開けた。
小さな木箱。仄かな温もりが、規則正しい振動と共に伝わってくる。
まだ螺子を巻く必要はない。理由は分からないがそう思った。
「負担になるなら、手放してもいいんだよ」
顔を上げれば、目の前に友人が立っていた。
「ここは?」
首を傾げて問いかければ、友人は少しだけ笑ったようだった。
「Deep in your/my heart……心の奥深くだよ」
「心……?」
抽象的な言葉にただ困惑する。
夢の中の世界ということだろうか。もう一度手の中の木箱に視線を落とし、その表面を撫でた。
つるりとした感触。側面に小さな穴が開いている以外は何もない。蓋の継ぎ目すら分からず、どうしてこれを箱だと認識しているのか自分でも不思議だった。
「もう覚えていないかもしれないけれど、一人で消えかけた私を拾い上げてくれたことに、とても感謝している。あなたが優しさをくれる度、私は痛いくらいに幸せだった」
側に歩み寄ってきた友人が、そっと木箱ごと手を包み込む。箱の表面に触れ掴むと、それまでぴたりと閉じていた蓋が音もなく持ち上がっていく。
「あ……」
開いた箱の中身を見て、思わず声が漏れた。
小さな、銀色の鳥。目を閉じて眠り続ける鳥の姿に、幼い頃を思い出す。
庭の隅で出会った鳥。傷だらけの翼は力なく垂れ下がり、もう二度と飛べないことを示しているようだった。
それでも目は強さを湛えて煌めきを失ってはいなかった。気高くて美しい、銀の鳥。思わず手を伸ばして、その体を抱き締めていた。
「受け入れてくれたから、私は今もここに在る。でも与えられる幸せの代わりにあなたが苦しむというのなら、私を手放してほしい」
目覚めた瞬間に忘れていた夢の内容が、はっきりと思い浮かぶ。
一日に一回、鳥のために螺子を巻く。あの日、自分の中に入り込んで一つになった機械仕掛けの鳥は、螺子を巻かなければ生きてはいけなかった。
それを負担に思ったことはない。こうしてすべて思い出して忘れていたもどかしさが消えた途端、感じていた疲労感が嘘のようになくなっていた。
まるで翼が生えたように体が軽い。単純な自分自身に苦笑しながら、目の前の友人を見つめ首を振った。
「一緒がいい。でももう一度空を飛びたいのなら、この箱から飛び立ってもいいよ」
心からそう思っている。しかしそれが彼女を空から遠ざけているのではと思うと不安だった。
箱の中の鳥は、大きさこそ大分小さくなってしまったが、傷はすべて癒えているように見える。これなら飛び立つこともできるはずだ。
「必要なら、いつだって螺子を巻いてあげる。だから無理にこんな狭い所にいなくても大丈夫だよ」
必要な時に戻ってくればいい。そう伝えるも、友人は困ったように笑うだけで手を離す様子はなかった。
「飛べないよ。もう二度と飛べない……空には何もないから、飛ぶ意味がない」
その声音はどこか寂しげだ。もう一度箱に蓋をする手には迷いは見られない。
「今まで色々な世界を見てきた。その時の私には何もなかったから、まだ知らない世界を知ることが何よりも心躍らせた」
ぴたりと、再び隙間なく箱が閉じられる。鳥の姿はもう見えない。ただ箱から伝わる温もりが、確かにここにいるのだと伝えている。
「あなたを知って、今更新しい世界を一人で知ったとしても心は動かない。だからどうか、あなたが許してくれるのならば側にいさせて」
願う言葉に、静かに頷いて目を閉じた。
手の中の木箱の感覚が消えていく。代わりに強くなる自分の鼓動と、包まれる少しだけ低い体温にそっと息を吐いた。
「My heart beats for you……あの日からずっと、私はあなたのもの。あなたが望む限り、螺子を巻いてくれる限り側にいるわ」
「うん……ずっと一緒……」
あの日のように、腕を伸ばして彼女を抱きしめた。
自分だけの特別な友人。伝わる鼓動は、自分から聞こえるそれと寸分違わず同じ鼓動を刻んでいる。
起きたらまた、たくさん話をしよう。
目が覚めた時のことを思い、笑みが浮かぶ。意識が浮かび上がっていくのを感じながら、しがみつくように温もりに擦り寄った。
20260327 『My Heart』
青空に飛行機雲の白の線が引かれていく。
手を伸ばしても届かない高さ。翼を広げてどこまでも自由に飛ぶ飛行機を操縦する彼の姿を思い浮かべ、思わず目を伏せた。
羨ましいと思ってしまう。自分とは違い、彼はどんな世界にいても堂々としている。彼のような優秀さが少しでも自分にあれば、隣に立つことも怖くないというのに。
溜息を吐いて草原に寝転がる。目の前に広がる空は、やはり自分には遠い。
春の陽気が風に乗って辺りを駆け回り、穏やかな眠りを誘っている。それに身を委ねようとして、ふと彼女のことを思い出した。
「約束、してたんだっけ……」
正確には、彼女が勝手に約束をして去っていくだけなのだが。
「毎日来るけど、一体誰なんだろう?」
彼女について、自分は何も知らない。彼女という呼称すら正しいのかも分からない。
女性のような恰好をして、女性のような言葉遣いをしているからそうなのだろうと思っているが、背が高く自身に満ち溢れて煌めく目は男の人のようにも見える。
そもそも人なのかも怪しい。夕暮れに伸びる影が、時折獣の形を取るのを何度か見たことがあった。
いつの間にか隣にいて、他愛もない話をして去っていく彼女。またね、という約束を残して、次の日になると隣にいる。
彼女との関係はいつから始まったのかも覚えていない。分からないことばかりなのは、化かされているからなのだろうか。
この辺りではよくあることだ。都会とここでは、時間の流れ方が違う。神秘を否定し解体しようとする人は誰一人おらず、今でもあちらこちらに不思議なモノが漂っているのだ。
そんなことを考えながら、何気なく空に向けて手を伸ばした。
届かない空。届かない彼。自分にはないものを求めてしまう。
「随分と情けない顔をしているわね」
伸ばした手を取り、彼女が呆れたように呟いた。
顔を覗き込むその目が楽しげに弧を描く。まるで月のように煌めいていて、とても綺麗だった。
「きれい……いいなぁ……」
「あら、今日は欲しがりさんなのね。アタシを欲しがるのはいいけれど、空を羨むのはおやめなさい」
どうしてだろうか。首を傾げて彼女を見つめた。
「翼のないあなたにとって、空は自由ではないからよ。誰かに愛でられるだけの日々なんて、まったくもってつまらないでしょう?」
そういうものだろうか。目を瞬き、想像してみる。
飛べない自分は、翼を持つ彼の側にいるしかない。彼が望む時に望む場所へ一緒に行き、そこに自分の意思は伴わない。
確かにそれはつまらないだろう。思わず眉を寄せれば、彼女はふふ、と微笑んだ。
手を離され、けれど代わりに頭を彼女の膝に乗せられる。それに何かを言おうとして、何も思いつかず彼女の好きにさせる。何を言っても無駄なのは、いつものことだった。
「あなたは地に足をつけて生きなさい。ないものねだりをするものではないわ」
ないものねだり。確かにそうだ。
彼の翼も、彼女の目も、自分にはないからこそ欲しくなる。手に入れた瞬間に色褪せて、自分はきっとすぐに興味をなくしてしまうのだろう。
不意に風が花の香りを運んできた。温かな日差しと相まって、段々と瞼が重くなっていく。
春だからなのか、最近はすぐに眠くなってしまう。特にこうして彼女の側で頭を撫でられていると途端に意識が微睡んでいく。
「少し眠って、余計なものは忘れてしまいなさい。起きるまではこうしていてあげるから」
優しい声音。起きなくてはという意志すら絡めとって、意識が深く沈み込んでいく。
諦めて、体の力を抜いて、静かに目を閉じる。
視界から彼女と青空が消える直前。飛行機雲の筋を空に描きながら、白い翼を広げてこちらに降りてきている彼を見た気がした。
寝入ってしまった少女の頭を撫でながら、狐はふっと息を吐いた。
吐息は青白い焔となり、落ちてくる鳥に向かっていった。
触れた瞬間に、鳥の体は一瞬で焔に包まれる。巨大な青の焔と化した鳥は為す術なく地面に叩きつけられるかに見えた。だが地面に降り立つ瞬間焔は跡形もなく消え、後には真白い翼を持った鳥が静かにその場に佇んでいた。
「酷いことをする」
低い声が恨めし気に狐を批判する。それを鼻で笑い、狐は鳥から隠すように少女の体を抱き寄せた。
「この子を連れて行こうとするからよ。気を引くために、変な記憶を植え付けないでちょうだい」
「独り占めしようとする貴様も変わらないだろう」
鳥の言葉に、狐は心底不快そうに鼻を鳴らした。狐の感情と呼応するかのように、周囲をいくつもの焔が漂い出す。
「この子をもの扱いするのは止めてくれるかしら?そういうないものねだりをする妖に限って、手に入れた途端に飽きて捨てるのよね」
今度は鳥が不機嫌そうに翼を広げた。威嚇するように低い声を出し、怒りを露にする。
「私をあんな軟弱な人間と一緒にするな。違和感なく側にいられるように姿と記憶を利用しているが、それだけだ。叶うのならば今すぐにでも八つ裂きにしてやりたいほどだというのに」
忌々しいとばかりに鳥は羽を震わせる。言葉にこそ出さなかったが、狐も同じように思っていた。
少女に傷をつけた人間。故郷を離れ、不安な日々を過ごしていた彼女に気まぐれに優しさを振りまき、懐いた瞬間に手を離した憎い男。この地に古くから住み、そして彼女を知るモノらは、皆同じように思っていることだろう。
「三月経つが、悲しみは癒える気配はない。少しずつ記憶をすり替え認識を変えてはいるものの、未だに一人で泣いているのだ。何故貴様は我らの領域に引き込もうとしないのか」
口惜しいと鳴く鳥に同意するかのように、風が吹き抜けた。ざわざわと周囲の気配が揺れ、狐と鳥の会話を気にかけている。
「何故って……そんなの当然じゃない」
しかし狐は鳥の威嚇も、周囲の視線にも気にした様子はなく肩を竦めた。
少女の頭を撫で、周囲を見回す。呆れたように息を吐き、ゆっくりと口を開いた。
「この子はね、人間なのよ。刹那を必死で生きているの。可哀そうだと手を出したら、それこそあの人間と同じになってしまうわ」
ざわり、と気配が揺れた。
鳥の目が僅かに見開かれ、やがて静かに翼を折りたたむ。項垂れるその表情は、行き場のない悲しみに暮れているように見えた。
「アタシたちにないものを持つこの子に惹かれて、手を伸ばしたい衝動に駆られるのは理解できるわ。でも留まらなきゃ。アタシたちはそういう存在《モノ》なんだから」
遥か昔から人の望むまま、時に助け、時に化かしてきた狐は言外に告げる。
守ろうと鳥かごに閉じ込める行為は、ただの傲慢だ。
少女が手を伸ばし助けを求めた時に、その手を取ればいい。
誰もが何も言えず、辺りに沈黙が落ちる。
ただ一人、少女だけは何も知らずに、花の香りを孕んだ春の温もりに抱かれて眠っていた。
20260326 『ないものねだり』