sairo

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4/17/2026, 5:38:57 PM

薄暗い広間に座り、目の前に置かれた壷をただ見ていた。
随分と白い壷だ。つるりとした表面は陶器のようで、曇り一つ見られない。
まるで骨壷のよう。小ぶりだが、飾り気のない白一色の形は骨を入れるのにちょうどいい。
手を伸ばし、壷に触れる。滑らかな、それでいてひやりとした肌触り。氷ともまた違うその冷たさは、屍の失った体温にも似ていた。
やはり、骨壺にちょうどいい。壷を撫で、漠然と思う。
途端に、壷の中身が気になった。
何が入っているのか、あるいは空なのか。壷の表面を撫でていた手が無意識に蓋にかかる。
かたり。小さな音を立て、蓋が持ち上がっていく。
蓋の開いた壷。腕一本入るほどの丸い闇を覗き込んだ。

動きが止まる。
目を見開き、恐怖に顔を歪め。しかし呻き声一つ漏らすことはできず。

そんな壷の中身と目を合わせ続ける老人の姿を、男は背後にいる二人から隠すようにしながら、ただ見つめていた。

「――何が目的ですか?」

男の背を見据えながら、燈里《あかり》は問いかけた。
答えはない。反応が得られないことに、燈里は表情を険しくしながら睦月《むつき》を庇う腕に力を込めた。

「夢を介して、何を見せようとしていたのですか?」

語気を強めて問えば、今度は答えの代わりに溜息が男から溢れ落ちる。

「これは、俺じゃない。これが、最後の悪あがきをしようとしただけだ」

生に執着し、欲に溺れた哀れな老人。
男の背に阻まれ見えないその末路を思い、燈里は小さく息を呑んだ。

「何が目的ですか?」

改めて燈里は男に問いかける。
別に、と嘯く声音の柔らかさに、睦月を背に庇い直しながら一歩男に近づいた。
男は動かない。
もう一歩、距離を詰めた。

「――っ!」

その途端、視界が薄紅色に染まった。
どこからか吹き込んだ桜の花が、辺りを覆い隠していく。
思わず燈里と睦月は目を閉じた。吹き荒れる桜吹雪に身を竦める。
そして、風が止んだ後。
目を開けた瞬間に視界を染めたのは、咲き乱れる花々の鮮やかな色彩だった。

「わぁ……!」

辺りを見回し、睦月が感嘆の声を上げる。側で咲く菜の花を見て表情を綻ばせた。

「おじさんは、燈里ねぇに謝りに来たの?」
「睦月?」

燈里の隣に立ちながら、睦月は男を見た。戸惑う燈里の手を握り、さらに問いかける。

「繩手《なわて》さんが燈里ねぇの所に来たのは、おじさんが何かしたからだよね?」

男はゆっくりと燈里たちの方へと振り向いた。肩を竦め、どこか気まずげな顔をする。

「まあな。同窓会の知らせが来てたから、それに細工してあんたのことを思い出すように誘導した……悪かったな。巻き込んで」

目を逸らしながらの微かな謝罪の言葉。燈里は目を瞬き、そしてふと浮かぶ疑問を口にする。

「何故、そこまでして繩手くんを助けようとしたのですか?」

今度は男が不思議そうに目を瞬いた。
首を傾げ、さも当然だと言わんばかりに口を開く。

「あの坊主が無理矢理憑き物筋になったのは、まだ七つにも満たなかった頃だったからな。未来とか夢とか、そういったもの全部があの気狂いのせいで狭まったのに、憑き物と一緒に封じられるなんざ、あまりに酷だろう?」
「祓い屋らしくないですね」
「よく言われる」

燈里の指摘に、男は苦笑する。
風に散る桜を目で追いかけながら、目を細め呟いた。

「あの頃はまだ、俺も子供だった。失うことが怖くて、大切なものを作ることを拒んでいるような臆病な子供だったんだ。だから余計に、一つでも多くを助けたいって夢を見ていた……そうしないと心が死ぬ気がしたから」

穏やかに微笑みながら、その目はどこか寂しげだ。
燈里は何も言えずに目を伏せた。
失うのが怖い。助けられるならば助けたい。それは家族を失ってから、心のどこかで常に思っていたことだった。

「――昔語りが過ぎたな。忘れてくれ」

そう言って男はゆるく頭を振り、背を向ける。
刹那、男の姿を隠すように花びらが風で舞い上がった。
呼び止める間もない。極彩色に視界を覆われ、燈里は咄嗟に睦月と繋いだ手を引き寄せた。
意識が揺れる。目を開けていられず、瞼を閉じる。
ふわりと漂う花の香に包まれ。

そして、燈里と睦月は目を覚ました。


4/16/2026, 6:09:18 PM

「式貴《しき》」

躊躇いがちに差し出されたカードを見て、式貴は首を傾げた。

「郵便受けに入っていました。よくない気配は感じません」
「そっか。ありがとう」

礼を言いながら、カードを受け取る。
飾り気のない白いカード。そこに書かれているのはどこかの住所と病院の名前以外には何も書かれてはいない。
覚えのないそれに、無意識に式貴は眉を寄せた。
この病院に行けという指示だろうか。ここに行くことで一体何があるというのか。そもそも差出人不明のカードの指示に従うのは、果たして危険はないだろうか。

「麗《うらら》」

呼びかければ麗は戸惑うように瞳を揺らし、ややあっておずおずと口を開いた。

「危険な気配は感じません。だから、きっと……行った方がいい、と思います」
「そっか……」

カードに視線を落とし、式貴は考える。
そして麗へと視線を向け、微笑みながら手を差し出した。

「麗。一緒に行ってくれる?」
「――はい」

そっと手を重ね、繋ぐ。
小さく頷いて、麗はふわりと微笑みを浮かべた。



その病院は人里から離れた山間に、まるで身を潜めるようにして建っていた。
その小さな佇まいは、病院というよりも療養所を思わせる。病的なまでに白い外観に式貴は気後れしながらも、麗の手を握りゆっくりと足を踏み入れた。

「あの、すみません……」
「繩手《なわて》式貴様ですね。お待ちしておりました」

看護師らしき女性が式貴の姿を認め、頭を下げる。
こちらへ、と何かを聞くよりも先に促されて、式貴は戸惑いながらも看護師に案内されるままに病院の奥へと歩き出した。

「ここはどこなのでしょうか?」
「ここは人ならざるモノに関わり、傷ついた方々を治療する場でございます」
「人ならざるモノ……」

式貴は寄り添い歩く麗を横目で見た。
麗もまた式貴を見つめ、緩く頭を振り笑う。

「私は式貴と一緒がいい、です。このままで十分」

式貴と一緒にいられぬのならば、人に戻る意味はない。
そう願われて、式貴は答える代わりに繋いだ手に力を込めた。

不意に、先を行く看護師の足が止まった。
病室だろうか。番号も、名札もない部屋の扉には窓はなく、中を伺い知ることはできない。

「ここは……?」

看護師は何も答えない。ただ扉の脇に立ち、式貴が開けるのを待っている。
ごくりと、式貴は唾を飲み込んだ。一度麗と目を合わせてから、ゆっくりと扉に手をかける。
扉の向こう側にいるのは誰なのか。込み上げる不安や恐怖を誤魔化しながら、静かに開いていく。

「な、何で……?」

扉を開け中にいる人々を見て、式貴は目を見開き声を詰まらせた。
じわりと視界が滲む。呼吸が乱れ、上手く息が吸えなくなってくる。

「父さん……母さん……っ」

ベッドに横たわりながらこちらを見つめる両親の元へ、式貴は一歩足を踏み出した。ふらつく足でまた一歩、前に進み、転がるような勢いで部屋に入り込む。
そっと麗は手を離した。両親に抱き着く式貴を、目を細めて見つめた。

「なんで……どうして……?」

式貴が混乱するのも無理はない。今までずっと両親は亡くなったものだと教えられてきたからだ。
泣きながらどうしてと繰り返す式貴の背を、痩せた母の手が撫でる。看護師に支えられながら起き上がった父が、それを穏やかな目をして見守っていた。



あれから事情を説明された式貴は、両親とたくさん話をした。
家のこと。仕事のこと。一人で過ごしてきた日々のあれこれを。

「あの、さ……麗のことなんだけど」

途端に険しい顔をする母に、式貴は困ったように笑う。
無理もない。両親は堕ちてしまった麗から式貴の身を守るために、自身の魂を用いて封を行ったのだから。
式貴が繩手の屋敷から解放されるまでの時間稼ぎとして。
解放された瞬間に封は完全に解かれ、両親はこうして再び目覚めることができたのだ。

「式貴」
「ごめん、母さん。でも俺は麗が好きなんだ」

首を振り、式貴は母の目を見つめはっきりと口にする。
繩手の屋敷からだけでなく、憑き物の麗からの解放を望んでいた母の想いを否定した。

「最初に封が解けかけた理由は、俺が付き合っていた彼女に振られたからなんだ」

ほんの数か月前のことを思い出す。全てを忘れていたために恐ろしかっただけの日々が、今では愛おしくてたまらないと、式貴は微笑む。

「俺の悲しみに気づいて、守ろうとして、麗は無理矢理封をこじ開けた。そんな優しい彼女のことが、俺は好きなんだ」

それに、と、式貴は少し離れた場所でこちらを見守る麗を見つめながら続ける。原因となった当時付き合っていた女性との別れの理由を思い、恥ずかしさに少しだけ頬を染めた。

「そもそも振られた原因は、彼女に麗を見ていたからなんだ」

何気ない仕草や、言葉。行動に至るまでをどこかで麗と重ねていた。全てを思い出した今、随分と酷いことをしていたと思う。
けれどもそれだけ式貴の中で麗の存在は大きかった。大切で失えないものだった。
そっと胸に手を当てる。表情を改め、式貴は両親へと向き直った。

「記憶にはなくても、俺の中から麗が消えることはなかった……だから、ごめん」

頭を下げる。両親の式貴への想いを無駄にしてしまうと理解しながらも、麗と離れることだけではできないと告げた。

「――大丈夫だよ」

頭を下げ続ける式貴に、父は目を細め微笑んだ。

「僕も彼女も分かっている。ずっと式貴の中で見てきたからね。だからもう、謝らなくていいんだよ」

優しい声に、式貴は恐る恐る頭を上げた。
微笑む父と、目を逸らす母。対照的ではあるものの、どちらの表情にも険しさはない。

「そろそろ行きなさい。僕たちのことは心配しなくていい」
「けど……」

式貴の目が戸惑いに揺れる。このまま二度と会えなくなるのではないかと、そんな不安が彼を動けなくさせていた。

「数年間寝たきりだったからね。少なくとも自分で歩けるようになるまではここでお世話になるよ。だからまた会いに来てくれたら嬉しい」
「父さん……分かった。また必ず来るよ」

父の言葉に式貴も表情を和らげ、頭を下げてから麗の元へと歩み寄る。もう一度頭を下げてから、二人は寄り添いながら部屋を出て行った。


「分かっていたことだろう?」

二人がいなくなってから、父は母へ声をかける。
母は父からも目を逸らしたまま。その表情はどこか子供が子供が拗ねている様を思い起こさせた。

「私の想いは届かなかったのね」
「子供とは親の思った通りには育たないものさ。君が家を出たように、式貴も自分の意志があるんだから」

そう言われてしまえば、否定はできないのだろう。母は一瞬だけ表情を曇らせ、目を閉じた。

「時間稼ぎなんて、酷い嘘ね」
「嘘ではないさ。式貴が自分の気持ちに向き合うための時間稼ぎになっただろう?」

最後の不満も笑って否定され、母は父に背を向け丸くなる。
解放ではなく、向き合うための時間稼ぎ。理解はしても、まだ納得はできてはいない。
式貴はまた、見舞いに来てくれるだろう。そしてその隣には麗がいることだろう。
親が望む最良が、子供最良ではない。式貴が自身で選び取ったその結果をとても喜ばしいと思いながら、けれどもほんの少しだけ浮かぶ寂しさに、溜息が溢れ落ちる。
まだ当分は、素直に受け入れられそうになかった。

4/15/2026, 5:52:06 PM

「睦月《むつき》。ここに座れ」

どこか険しい顔をした冬玄《かずとら》に呼ばれ、睦月は戸惑いながらも指示された椅子に座る。
何故呼ばれたのか。睦月には心当たりがなかった。
正確には、呼ばれ叱られるほどのことはなかったと思っている。
しかし、と。睦月は落ち着きなく視線を彷徨わせながら不安に思う。
もしも、これ以上一緒には暮らせないと言われたとしたら。
睦月は元々ここではない、雪深い村の出身だ。燈里《あかり》たちの好意でこの家に世話になっているだけでしかない。
冬玄の隣に座る燈里を見る。いつもの微笑みが浮かんでいないことがさらに不安を煽り、睦月は膝に置かれた手を強く握りしめた。

「睦月」

普段は呼ばない名を冬玄が呼ぶ。
せめて目は逸らさないようにと、睦月は真っ直ぐに冬玄の目を見返した。

「ヒガタのことを、何故黙っていた?」

ぱちりと、睦月の目が瞬く。
首を傾げ冬玄を見つめ、そして困ったように燈里を見た。

「ヒガタのことは、話したよ……?」

ヒガタとは、睦月の生まれ育った村に伝わる来訪神のことだ。
泣かない子供を連れていく。その話の詳細を聞きに燈里たちは睦月の村を訪れ、最後には来訪神の概念と神仏習合した地蔵菩薩を解放した。
その時に、睦月は自身が知る限りのヒガタの知識を伝えていた。黙っていることはないはずであった。

「睦月」

燈里もまた困ったように、あるいは戸惑った様子で睦月の目を見返す。
暫しの沈黙。それを破ったのは冬玄の重苦しい溜息だった。

「最初から近いとは思っていた。血筋によるものと、お前自身がヒガタに引かれていたことが原因だろうと然程気にも留めていなかったが、前回、お前を守るためにヒガタは現れた……地蔵菩薩から来訪神の概念を切り離したにも関わらずに、だ」

前回。それは鬼となった神から身を隠すため逃げ込んだ蔵にヒガタが現れたことを指しているのだろう。
睦月の眉が寄る。確かに、ヒガタは来訪神としての在り方からは解放された。しかしヒガタはヒガタでしかないのだと、睦月は思っている。

「そして今回。お前は俺たちが屋敷に入った後で、同じように屋敷に入り込んできた……まるで来訪神のように、入ってくることに誰にも違和感を覚えさせずに」

全てを見透かすかのような冬玄の静かな視線に、睦月は落ち着かなくなる。
睦月には冬玄が何を言いたいのかが分からなかった。ただ、先日の繩手《なわて》の祖父の屋敷に行った際、待てと指示されたことを守らなかったことが原因なのだろうかと落ち込んだ。
どうしても待てなかったのだ。苦しみ、泣く子供の声が聞こえた気がして、足が屋敷へと向かっていた。
冬玄たちのいた部屋で見た無数の目。どれもが無理矢理繋ぎ留められ、苦しんでいた。
だからヒガタは子供たちを連れて行ったのだが、それがいけなかったのだろうか。

「無駄だよ。自覚がないからね」

呆れた声と共に、楓《かえで》が部屋へと入ってくる。
その表情は、呆れよりも苦笑に近い。睦月の横に立つと、肩を竦めて冬玄を見た。

「それほどに馴染んでしまっているともいえる。この子にとってヒガタがいるのが当たり前なんだ。ヒガタと自分自身の境界も曖昧なんじゃないかな」
「境界?わたしはわたしで、ヒガタはヒガタだよ?」

そう言って首を振るものの、睦月は自信なく胸に手を当てた。
楓が立つのとは逆の方へ視線を向ける。いつの間にか側で佇んでいたヒガタを見つめ、睦月は自身とヒガタの間にあるだろう見えない境界線を探して目を細めた。

「――つまり、私と楓みたいなもの……かな?」
「いや多分、もっと根が深い気がするよ。鍵のかかった扉は開き、屋敷にいた人間の誰も睦月を気にかけることがない……ほぼ同化しているといってもいいんじゃないかな」

その時のことを思い出し、楓の目が遠くなる。
最初は大人しく待っていたはずの睦月が急に屋敷へと近寄り、閉ざされたはずの門扉を開けたのだ。それに驚く間もなく玄関に向かい、同じように玄関扉を開けて室内に入っていく睦月を慌てて追いかけたのだが、その後も家人の誰にも見咎められないことに、楓は次第に顔が引きつっていくのを感じていた。

「同化?わたしと、ヒガタが同じ……?」

楓の言葉が聞こえたのか、睦月はますます困惑した表情をする。
燈里や冬玄、楓を見つめ、ふと何かに気づいたのか、小さく声を上げてそういえば、と呟いた。

「一番最初に見たヒガタの夢で、ヒガタの割れた面の一部を貰ったけど、もしかしてそれかな……?」
「もしかしなくてもそれが原因だろうけど、何で渡されることになったんだか」
「えっとね……」

思い出そうと考え込む睦月に、ヒガタがそっと手を差し伸べる。目を瞬きながらその手を取り、睦月はあぁと笑みを浮かべた。

「わたしとね、咲子さんの誕生日が一日違いだったみたい。それとヒガタを作ったご先祖様のこととか、泣けなくなったこととか、色々合わさって繋がっちゃったみたい」

咲子というのは、一番初めにヒガタに連れて行かれた子供のことだ。
笑顔の睦月とは対照的に、燈里たちは何とも言えない表情をする。互いに目を合わせ、これ以上の話は意味がないと結論付けた。

「なんでこんなに危機感がないんだ。こいつは」
「仕方ないんじゃないかな?睦月はそれが普通だったみたいだし。私も、楓や冬玄と一緒にいても、そんなに危険だって感じないし」
「燈里は自覚しているんだから、もっと危機感を持ってほしいんだけどな。まあ、何かある前に僕たちが守るけどさ」
「確かに守るがな。危機感は持ってくれ」

疲れたように息を吐いて、冬玄は立ち上がり台所へと向かう。冷蔵庫から何かを取り出し居間に戻ると、それを睦月の前へと置いた。

「え?これ……?」

白の生クリームと乗せられた苺の赤。
店で売られているものに勝るとも劣らない一人用の可愛らしいショートケーキを前に、睦月は何度もケーキと冬玄を交互に見た。

「言いたいことはいくつかあるが、今回頑張っていたからな。ご褒美だ」

睦月の驚きように苦笑しつつ、冬玄は言う。
その優しい声音に、睦月は驚きから次第にぱっと輝くような笑顔を浮かべた。

「ありがとう!冬玄にぃ!」

いただきます、と丁寧に手を合わせ、フォークを手に取る。
フォークを入れた断面ですら美しいケーキにほぅと吐息を溢しながら、味わうようにゆっくりとケーキを口にする。

「おいしい!さすが神様!」
「おだてても、これ以上何もでないぞ」

そう言いながらも、冬玄は再び台所へと足を向ける。

「じゃあ次もたくさん頑張るから、今度はチョコレートケーキが食べたい!神様、どうかお願いします!」
「ちゃっかりしてんな。それから、無茶はするなよ」

呟いて、冬玄は冷蔵庫から今度は牛乳を取り出し、鍋に入れると火にかけた。チョコレートを刻みつつ、変わっていく自分自身に少しだけ呆れる。

「まあ、燈里のためにも賑やかなのは悪くはないか」

右手の薬指に嵌る指輪を撫で、一人笑う。
聞こえてくる楽しげな会話を聞きながら、チョコレートを鍋に入れた。
途端に広がる、甘やかな香り。
その濃厚さに胸焼けがしそうだと、自身が甘い自覚がないまま冬玄はぼやいた。

4/14/2026, 10:10:53 AM

閉じていた部屋に、強く風が吹き込んだ。
その中にふわりと花の香りを感じて、繩手《なわて》は目を開ける。

「灯り……?」

部屋が明るい。
外からの光が差し込んでいることを不思議に思い、繩手はまだはっきりとしない意識の中、視線を向ける。

「え……?」

壁に、大きく穴が開けられていた。

「な、なんで?」

意味が分からず、繩手は目を瞬いた。しかし外で待つ人影に、すぐに事情を理解する。
燈里《あかり》や冬玄《かずとら》。そして睦月《むつき》や楓《かえで》、東。
繩手と共にここまで来てくれた人たちだった。ここに来た理由を思い出し、繩手は部屋へと視線を向ける。

「あぁ……」

祭壇とも呼べぬ粗末な台の上で、四肢を繋がれている女性。それに纏わりつき今もなお繩手に噛み付く一匹の黒い蛇。
その痛ましさに、繩手の唇から嘆きとも取れぬ声が漏れた。
女性と蛇と。この部屋で行われていた悍ましい儀式とも呼べぬ凶行を理解し、繩手は強く奥歯を噛み締めた。

「麗《うらら》」

そっと呼びかける。
今度は想いを込めて。あの日名に託した意味を言葉と共に告げる。
噛まれた腕の痛みは、不思議と感じなかった。蛇の頭をゆっくりと撫でれば噛みつく力が弱まり、やがて静かに離れていく。
輪郭が解け消えていく蛇を見つめ、繩手は泣くのを堪え女性へと視線を向けた。

「麗、帰ろう」

女性の四肢を繋ぐ縄を解いていく。頬を撫で、繩手は優しく微笑んだ。

「帰ろう。今度こそ、ずっと一緒にいよう」

外へ視線を向け、見守る燈里と冬玄を見つめる。
燈里の婚約者だと紹介された冬玄は人ではないことを、繩手はここに来る前に教えられた。
とある村で祀られていた、シキという存在の一柱。それが燈里の家の守り神となり、そして今は彼女の婚約者として隣にいる。
二人の存在は、繩手にとって希望となった。人と人ならざるモノは同じように隣で寄り添えると、信じさせてくれた。
だから、と。
繩手は祈るような気持ちで女性に向き直り、想いや願いの全てを込めて、呼びかけた。

「麗」

ざあ、と穴から風が吹き込んだ。
風は桜の花びらを部屋中に散らし、女性の体に降り注いでいく。

そして――。

「――し、き」

閉じた瞼が震え、麗はゆっくりと目を開けた。



麗を抱き上げ外に出た繩手を囲う燈里たちから離れ、冬玄は一人部屋の中へと足を踏み入れた。
扉を開け、繩手の祖父の横たわる部屋に入る。
そこに這いつくばる男の姿はなく、代わりに見知らぬ男が佇んでいた。

「これで、満足か?」

問いかければ、男は微笑みを浮かべたまま首を傾げてみせた。

「あんたの主人の目的は満たされたのかってことだ」

あぁ、と男は頷く。足元に散らばる布団を一瞥し、笑みを深めた。

「そうだね。ようやくここの仕事が片付いたんだ。そこに関しては満たされたし、感謝しているよ」

ぴしり、と冬玄の足元が凍る。それはじわりと広がり、男の足元の布団を凍らせていく。
男は動かない。冬玄も何も言わず、布団を凍らせた冷気も、それ以上に広がる様子はなかった。

「偶然とはいえ、彼に関われそうな人間の中に君たちがいてくれて助かった……シキに見初められた女性。異類婚。どちらが欠けても、主が望んでいたこの結果には到達できなかったからね」

けれど。
鋭くなる冬玄の気配とは裏腹に、柔らかな声音で男は続ける。

「君たちにとっても、今回の件は悪くはなかっただろう?求めている答えの一欠片にはなったはずだ」
「――感謝しろというのか?」

ゆるりと男は首を振る。
どこまでも穏やかに、底の知れない笑みを湛え、告げる。

「僕としては褒めてあげて欲しいけれど、主は感謝されるためにしている訳ではないからね……僕の主は優しい子だから、少しでも君たちの手助けになれればと思っているんだよ」

まるで親のような言葉だ。
冬玄は警戒を緩めることなく、そう思った。

「さて、そろそろ行かなければ」

男の姿が揺らぐ。
入口の戸が開け放たれ、光と風が吹き込んだ。

「また会うことになると思う。さっきも言ったように、僕の主は優しい子だからね」
「できれば二度と会いたくはないがな」

顔を顰め吐き捨てた冬玄は、金の毛並みを持つイタチを一瞥し、背を向けた。
ぱりんと氷が割れる音を背後に、扉まで戻る。しかし扉の前に立つ東の前で足を止めた。

「北」

翁の面を付けた東が冬玄を呼ぶ。
それに冬玄は気配のなくなった背後を一瞥し、首を振った。

「必要ない。またあちらから接触するそうだ」
「そう」

それ以上はお互いに何も言わず。
燈里たちの元へと、足早に戻っていく。

「厄介ごとが増えたな」

溜息と共に吐き出し、冬玄は空を仰いだ。
快晴。
全ての終わりにも、始まりにも適した、青い空。
その青に彩りを加えるように散る桜を見ながら、これから先起こるであろう出来事を思い、冬玄は憂鬱に眉を顰めた。

4/14/2026, 5:22:19 AM

娘が選ばれたのは女であり、かつ不義の子だったからという、ただそれだけの理由だった。
男であれば、労働力として使い道はあっただろう。女であったとしても、この家に生まれさえしなければ、まだ人として生きられたのかもしれない。
だが娘はこの家の当主の子として生まれ、そしてその当主のため、愛の代わりに絶え間ない苦痛と永遠という名の絶望を与えられることとなった。

娘には名がない。ヤシロと呼ばれることもあったが、それは自身の身の内に入れられた憑き物のための社であり、廟という意味でしかなかった。
永い年月の間に、娘はかつての娘としての形を失った。ほんの一時、穏やかな日々を過ごしていたような気もするが、暗く湿ったこの場所では、すぐにそんな光は搔き消えていく。
ぞわり、と中の憑き物が蠢くのを感じて、娘は目を開ける。
誰かが扉を開こうとしている。またあの子を傷つけようとしている。
あの子が誰なのか、娘の記憶にはない。だがあの子という存在が、無為に過ごしていた娘に唯一の衝動を与えてくれた。
守るために排除する。近づくものは誰であれ、皆破壊する。

衝動に突き動かされるように、娘の内の憑き物が鎌首を擡《もた》げる気配がした。



重厚な扉に閉ざされていた部屋。その奥にある台の上に一人の女性が繋がれていた。

「麗《うらら》……!」

名を呼び、近寄ろうとする繩手《なわて》の足を、蛇の低い威嚇の声が止める。
暗闇の中、女性の体が歪に蠢いている影が見える。それは細長く、持ち上がる細い影の形は蛇の頭に似ていた。

「迎えに来たんだ。こんな暗い場所から早く出よう」

繩手の声に女性の反応はない。四肢はわずかにも動かず、生きているのかすら分からない。

「麗」

名を呼ぶ。
教えられた通りに。繰り返し呼び続ける。
一歩、足を踏み出した。

「麗、帰ろう」

また一歩、近づき。
そして、手を伸ばす。

「麗」

その手が女性に触れる瞬間。
蠢く蛇が腕に絡みつき、突き立てられる牙の痛みと共に、繩手の意識は黒く塗りつぶされていった。



幼い頃の夢を見ている。
そう感じたのは、視線の先に本を読んでいる子供の頃の自身の姿が見えたからだ。
何を読んでいるのだろうか。その表情はとても真剣でありながら、どこか楽しげに微笑みを浮かべている。

「また読んでるのか。物好きだな」

聞き覚えのない声がした。
瞬きの間に、子供の側に見知らぬ男がいて、本を覗き込んでいた。

「だってここなら、何でも本が読めるんだもん!目が覚めたら、難しくて何が書いてあるのか分からないし」
「まあ、夢の中だからな」

そうか。ここは幼い頃に見た夢の中で、今はその夢の中にいる夢を見ているのか。
ぼんやりとおかしなことを考えながら、辺りを見回した。
室内にいるのかと思っていたが、そうではない。
満開の桜の木の下にいることに、今更ながらに気づいて目を瞬いた。

「ねぇ」

子供が、幼い自分が男を呼ぶ。笑顔の中に悲しみを浮かべて問いかける。

「お姉さんね。名前がないんだって。でもずっとお姉さんって呼ぶのは嫌だから、名前をあげようかなって思ったんだけど」

男は何も言わない。表情の読めない目をして、言葉の続きを待っている。

「たくさん本を読んで、いっぱい考えて……うらら、ってどうかなって思ったの。春うららって暖かくて、優しくて……お姉さんに一番似合う気がする」

くすり。
男が小さく笑みを漏らした。くすくすと堪え切れなかった笑いが溢れ、困惑する。
そんなに笑う程おかしな名前だっただろうか。彼女を思い浮かべ、自然と眉が寄った。

「悪くないんじゃないか。でもせっかくだし、いいことを教えてやろう」

笑いながらそう言って、男は地面に何かを書き始めた。
少しだけ近寄り、書いているものに視線を向ける。男の言動には似合わず達筆な字で一文字、書かれていた。

――麗。

思い出す。
うららという言葉の響きに、形と意味を持たせてくれた人がいたことを。

「漢字では、うららはこう書く。美しく、穏やかで……そして並び連なるという意味を持つ」
「ならび、つらなる?」
「まあ、ちょっと違うが一緒にいるってことだ」

あぁ、と思わず声が漏れた。
視線の先では、幼い自分が何度も一緒と繰り返している。笑われたことで不安だった表情は次第に満面の笑顔に変わり、勢いよく立ち上がった。

「それがいい!お姉さんに伝えてくる!」

ありがとうと言いながら駆け出して、その背は霞んで消えていく。
目が覚めたのだろう。消えた自分を見送って、男に視線を向けた。

「最後のヒントだ。しっかりと思い出しただろう?」

楽しげに男は笑う。

「名を呼ぶのは坊主にできる、唯一で最良の手段だ。ただ意味を持たせないと、ただの音の響きでは届かない」
「意味……」
「響かせる方法もあったが、坊主が段取りを忘れて先に進んだからな。気持ちは分からなくもないが、感情だけで行動するとこうして痛い目をみるぞ」

思わず視線を逸らした。
この屋敷に入る前、確かに言われていたことだ。
通された部屋から動かないこと。それが祖父の部屋であっても、彼女が閉じ込められていた部屋でも関係なく、指示があるまでは動かないと約束していた。
今更ながらに思い出して、迷惑をかけてしまっただろうことを申し訳なく思う。ただでさえ巻き込んでしまっているのだ。考えなしの行動のせいで、もしも危険な目に合わせてしまったらと思うと気が気でない。
そう内心で慌てていると、ぽんと頭に手が置かれている感覚がした。

「式貴《しき》」

視線を向けると、男が柔らかく微笑んでいた。頭を撫でられ、軽く叩かれ、手が離れていく。

「お前は決まり事を大切にできる子だ。足りなかったものは思い出した。後は行動に移すだけ。名を呼んでどうしたいか考えるだけだよ」

ざああ、と風が強く吹き抜けた。桜の花が風に舞い、遠くの空へ消えていく。
目を細めて空を仰ぐ。桜色に染まる視界が、子供の頃に交わした約束を思い起こさせる。

名を呼んだ、その後。彼女と何がしたいか。

思わず笑みが溢れた。したいことがたくさんありすぎて、順番を決めるのが難しい。
けれども、まずは。

「麗と一緒に、桜の花が見たいな。子供の頃のように桜の花びらを追いかけて、そして好きな所へ自由に行ってみたい」

どこでもいい。彼女と二人、一緒にどこまでも、それこそ桜を追って遠い空の下まで追いかけたい。

「ならば、その願いを全部ぶつけるつもりで名を呼んでやれ。それだけでいい」

桜が視界を覆う。声が遠く、感覚が薄くなっていく。
目が覚めるのだろう。

「ありがとう。――」

礼を言い、そういえば、男の名を知らないことに気づいた。

「あの、名前……」

問いかければ、答えの代わりに笑う声。

「夢じゃなく、現《うつつ》で会えた時にでも、教えてやるよ」

年上だというのに、子供のような無邪気さで告げた言葉。
楽しげな声音を聞きながら、視界が桜色から白へと染まり。

そこで、目が覚めた。

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