小さな箱に、ひとつひとつ星の欠片を入れていく。
赤や青、黄色に緑。鮮やかに箱が彩られていく様に、思わず笑みが溢れ落ちた。
くすくす、ひそひそ。
聞こえるのは欠片の囁く声。煌めく度に、様々な声が聞こえてくる。
笑い、歌い。時に泣いて、祈りの声を上げる。紡がれる言葉たちは、どれもが澄んだ感情を伴って部屋に響いていく。
「たくさん集めたのね」
声がして、欠片を入れる手を止め振り返る。
楽しそうに笑みを浮かべ、彼女は籠の中からそっと欠片の一つを手に取った。
「あなたのことだから、楽しい感情だけを詰めるかと思っていたわ」
「そうしようと思ったけど、こっちの方が箱に入れた時にとても綺麗に見えるから」
欠片で満ちる箱を見せれば、彼女は確かに、と頷いた。
一色だけでも、星の欠片は美しい。けれどもこうして様々な色を集めた方が、より綺麗に見える。
そのことを教えてくれた誰かがいた。それが誰だったのか、思い出せないのが少しだけ苦しい。
箱を閉じて、金色のリボンを巻いていく。
「ちゃんと届くかな」
この瞬間は、何度繰り返しても不安になる。
自分にできるのはこうして星の欠片を箱に入れ、リボンをかけるまでだ。届いているのかどうかまでは、分からない。
「届くと信じたら、ちゃんと届くわ」
そんな不安を、彼女の柔らかな声が解かしていく。頭を撫でられて、心地良さに目を細めた。
届けばいい。そんな思いを込めて、リボンを結ぶ。綺麗に仕上がった箱を見て、大丈夫だと言い聞かせるように強く頷いた。
ふわり。
風もないのにリボンが揺らめいた。端からゆっくりと、箱が霞んで消えていく。
届くべき所へ届くのだろう。消えていく箱を見ながら、届きますようにと密かに願う。
誰に届くのかは分からない。誰に向けて届けようとしているのかも分からなかった。
「届くといいな」
もう一度呟いて、新しい箱に手を伸ばす。
「大丈夫よ。でも無理はしないでね」
彼女は笑い、もう一度頭を撫でてから去っていく。
彼女はとても心配症だ。こうして何度も様子を見に来てくれる。
「もう大丈夫なんだけどな」
何がかは、もう覚えていない。忘れてしまったのだから、きっと大丈夫なのだろう。
じくりと痛む胸に気づかない振りをして、再び箱に星の欠片を入れていく。
もう大丈夫。
呪文のように繰り返せば、少しだけ呼吸が楽になれたような気がした。
煌めく星空の下。月明かりを浴びてふわりと舞い落ちる雪に手を伸ばし、男は静かに目を細めた。
微かな声。何かを願う言葉が響き、雪と共に溶けていく。
空を仰げば満天の星に混じり、風花が舞っている。幻想的な光景に、だが男の表情は変わらない。
星が一つ流れた。瞬く間に山の向こうへと過ぎていき、刹那の光を地に灯す。新たな命の芽吹く音が、風に乗り遠いこの場所まで届いていた。
「頑張っているな。生真面目なのは相変わらずか」
誰にでもなく呟いて、男は溶けた雪を惜しむかのように水となって流れたその跡をなぞる。
「健やかでありますように」
聞こえた祈りの言葉を口にする。辺りを舞う風花が、言葉に呼応するかのように淡く光を湛えて落ちてくる。
どうか、と願う囁きは、どれもが柔らかい響きを持っている。愛しい人にあてた祈りを宿した雪に、男はそっと息を吐く。
白く曇る吐息に、男もまた祈りの言葉を口にする。
「どうか、心穏やかに。再び出会える時まで、悲しみがその身を苛むことがないように」
懐かしく、愛おしい人へと向けて。届かぬと知りながら、届いてほしいと願いを込めた。
星が煌めいた。澄んだ音を立てるかのように、小さな光がいくつも瞬いていく。
星を見上げる男の口元が、微かに緩む。望郷の思いを宿した目が、静かに揺らいでいる。
「あとどれだけの夜を過ぎれば許され、帰ることができるのだろうな」
目を伏せ、男は呟いた。
星と雪に見守られながら、男は歩き出す。
当てもない旅を、一人続けていく。
ふと、誰かに呼ばれたような気がして顔を上げた。
辺りを見回すが、誰もいない。彼女が戻って来た様子もなかった。
「気のせいかな?」
そう思いながらも、一度止まった手は動かない。何かが気になり、心が落ち着かない。
無意識に胸元のペンダントを握り締める。いつの間にか持っていたこれは、輝きを失った星屑で作られている。
目を閉じて、深呼吸を繰り返す。次第に心が落ち着きを取り戻し、目を開けペンダントに視線を落とす。
思いや感情を宿さない、ただの抜け殻。それなのに、何故こんなにも愛おしく感じるのだろうか。
籠の中の星の欠片に手を伸ばす。中から赤く煌めく欠片を取り、箱に入れるでもなく掌に乗せて眺めた。
掌から伝わるのは、愛の詩。聞き入りながら、ペンダントの星屑にかつて宿っていたものは何だったのかと思いを馳せる。
忘れてしまった誰かからもらったのだろうペンダント。禁忌を犯してまで届けようとした思いは何だったのだろう。
手の中の赤い欠片を見つめながら、その誰かに届けられたらいいのにと密かに思う。
星の欠片を、私的に贈ることは許されない。それを知りながらもそう思うのは、誰かを愛しているからだろうか。
ふっと笑みを浮かべて、欠片を箱の中に入れる。
記憶から抜け落ちてしまった誰か。愛おしく、大切な人。
箱に思いを宿した星の欠片を入れながら、今日もまた、箱を誰かに届けたいと願っている。
20260130 『あなたに届けたい』
雪の降る見知らぬ街中を、一人歩いていく。
どこか閑散としていた故郷とは違い、街はとても賑やかで忙しない。行き交う多くの人々は皆、軽く俯きながら足早に通り過ぎている。
「どうしようかな」
目的がある訳ではない。この街へ来たのも、ただの偶然だ。
立ち並ぶ店先を冷やかしながら、ぼんやりと思う。
街で見る景色は、どれもが故郷ではないものばかりだ。以前ならばきっと、目を輝かせて見入っていたのだろう。けれど今は、特別何かを思うことはない。
無意識に、足が静かな場所を求めて路地裏へと入り込んでいた。街の喧騒が少しだけ遠ざかり、小さく息を吐く。
賑やかさは、自分には合わないらしい。苦笑して、薄暗い道を雪を踏みしめ歩いていく。
「あれ?」
ふと、道の先が明るいことに気づく。
よく見ると、それは店の看板の灯りのようだった。
手作りらしい、木の看板。ガラス越しに見える店内では、どうやら雑貨品を売っているようだ。興味を引かれて、扉に手をかける。
からん、とベルが鳴る。だが店内に人がいる気配はない。
不思議な店だ。足を踏み入れた瞬間、ふわりと漂う香の匂い。木の香りと混じり、不思議と心が落ち着いてくる。
思わず深呼吸して、店内を見回した。
手作りなのだろうか。可愛らしい小物が並んでいる。
「可愛い」
木彫りの人形を手に取り、呟いた。
可愛らしい女の子の人形。妹はきっと気にいるだろう。
隣にある、木彫りの飛行機は弟が好きそうだ。向かいの棚にあるアクセサリーを母へ贈ったら喜んでくれるだろうか。
次々と目に入る小物やアクセサリーに思い浮かぶのは、全て家族のことばかり。故郷を、家を出ても、家族からは離れられないようだ。
苦笑して、人形を棚に戻す。
空しいわけではないが、何だか興味が失せてしまった。
「いらっしゃい」
不意に奥から声をかけられて、ぴくりと肩が跳ねる。
弾かれるようにして振り返ると、カウンターの奥で店主らしき女性がこちらを見て微笑んでいた。
「あ、すみません」
「謝ることは何もないさ。ゆっくり見ていっておくれね」
「はい……」
見て行けと言われても、気分が乗らない。しかしそれを正直に女性に告げるのも憚れた。
気乗りはしないものの、店内を見て回る。可愛らしい小物やアクセサリーは、どれも故郷にはないものだ。それなのに故郷の誰かが常に頭に浮かんでくる。
そっと息を吐く。このままここにいても意味がない。
店を出ようと、女性に視線を向けた。
「あの……」
「真面目だねぇ。優しすぎるともいうべきか。だが、たまには息抜きが必要さ」
おいで、と手招かれ、断ることもできずに店の奥へと向かう。
そこは、小さいながらもカフェのようだ。促されるまま、カウンター席に座る。
「特別サービスだ。余分な荷物を下ろせる、そんな魔法をかけてあげよう」
そう告げられて、手際よく棚からガラス瓶をいくつか取り出した。
乾燥した草や花を混ぜて、ポットに入れる。聞きなれない言葉の歌を口ずさみながら、ポットにお湯を注いでいく。
ふわり。湯気と共に、不思議な香りが辺りに広がっていく。甘く、草原を思わせるような爽やかさがあり、けれどもとても心地の良い香りに、体から力が抜けていくのを感じた。
無意識に、緊張して力が入っていたのだろう。いつものことだ。そうぼんやりと思いながら、カップに注がれる、煌めく金の色をした紅茶を見つめていた。
「さぁ、どうぞ」
「ありがとう、ございます」
カップと共に蜂蜜の瓶を置かれ、目を瞬く。
紅茶に入れろということだろうか。不思議に思いながら一匙、蜂蜜を救って紅茶の中へと入れる。
とろり、と溶け込んでいく蜂蜜。くるりとスプーンでかき混ぜれば、甘い匂いが立ち上る。
とても心地良い気分だった。どこか夢見心地で、カップに口を付けた。
「――おいしい」
「だろう?魔法をかけているからね」
くすくすと女性は笑う。
「それを飲んでゆっくりしたら、余分な周りへの気持ちも軽くなるはずさ。そうしたら、ゆっくり店内を見て回るといい。気にいるものが、必ず見つかるからねぇ」
「余分な、気持ち……」
紅茶に視線を落としながら、家族を思い浮かべる。
弟妹の笑顔。母の手の温もり。父の声。
けれど、どうして先ほどよりも形にならない。ぼやけた輪郭が残るだけ。
「あぁ。心配せんでも、ここを出る時には戻っているよ。その魔法は長く続くようなものではないからさ」
女性の言葉に、密かに安堵の息を吐く。
完全に忘れたいわけではないのだ。安心すると、途端に体が軽くなってきた気がした。
カップに口をつける。優しい甘さが口の中に広がり、じんわりと体が温かくなっていく。
気づけばカップは空になり、ゆっくりと席を立つ。店内を見回せば、店内の装飾も商品も煌めいて見えた。
「可愛い」
さっきは感じなかった、胸の高鳴り。忘れてしまったはずの感情が込み上げて、見るもの全てが魅力的に見える。
もう一度店内を見て歩く。作り手の思いが込められている商品たちが、どこか誇らしげにしている。そんな風に見えて、笑みが浮かぶ。
ふと、棚の上に置かれた可愛らしい装飾の施された小さな木箱が気になった。手に取り開くと、軽やかな音楽が鳴り始める。
「オルゴール……」
昔、皆には内緒で、父と二人きりで出かけたことを思い出した。いつも頑張っているご褒美だと、見に行ったクラシックコンサート。あの日の光景が鮮やかに浮かんで、少しだけ視界が滲む。
「それにするかい?」
問いかけられて、振り向いた。
優しく微笑む女性に頷いて、オルゴールを手にレジへと向かう。
「この子は、どんな時でも寄り添ってくれる。また抱えてる荷物が多くなったら、ほんの少し持つのを手伝ってくれるさ。大事にしておくれね」
「はい」
丁寧にラッピングされたオルゴールを受け取る。
軽く頭を下げれば、段々と故郷や家族の姿がはっきりと浮かぶのを感じた。
「あの……」
女性を見つめながら、逡巡し口籠る。
またこの店に来たい。けれどそれを言う勇気が出ない。
言っても本当にいいのだろうか。迷惑かもしれない。断られたらどうしよう。
色々な悪いことが頭を過ぎていく。やはり何も言わないで帰るべきかと視線を落とせば、ラッピングのリボンがふわりと揺れた。
まるで頑張れと言っているようだ。小さく笑い、顔を上げた。
「あの、また来てもいいですか?」
「もちろん。この魔女の隠れ家Aisling《アシュリン》は、いつだって歓迎するよ」
「魔女の、隠れ家……」
微笑む女性の姿は、確かに魔女のようだ。優しくて、人を導く良い魔女。
「ありがとうございます」
笑顔で頭を下げる。
帰ろう。そう思い、晴れやかな気持ちで頭を上げた時、後ろでからん、とベルが鳴った。
「どうやら、お迎えが来たようだね」
女性の言葉に首を傾げながら振り向く。
開いた扉の向こうには、誰もいない。ただ白い雪が舞っているだけだ。
「あ……」
「大丈夫さ。行っておいで。また重くなり過ぎたら、ここに戻ってくればいい」
そっと背を押され、ゆっくりと扉の向こうへと歩いて行く。
じわりと視界が滲む。胸が苦しくなり、うまく呼吸ができない。
そっと手を伸ばした。触れる雪が手を包み込んでいく。
「――お父さん」
掠れた声で呟いた。
それに応えるように、雪が体に降り積もっていく。
まるで抱きしめられているかのような温もりを感じて、一筋涙が溢れ落ちた。
20260128 『街へ』
「I love……」
口から溢れだそうとした言葉を飲み込んだ。
形にはできないそれ。中途半端な言葉は、吹き抜ける風に乗って高く舞い上がり、残るものは何もない。
空を見上げ、そっと息を吐く。白く濁り消えていくそれに、ただ胸が切なくなった。
「それは誰に向けようとしたの」
呟く声に、視線を向ける。
誰もいない。
当然だ。雪の深いこの森の奥に、訪れる誰かがいるはずはない。
「愛だなんて、形の定まらないものを誰に向けようとしたの」
声が囁く。風が雪を舞い上げるように軽やかに、木々の枝を揺するような力強さで、無感情に告げる。
「さあね」
姿のないそれに向けて、小さく答えた。
誰かに向けた言葉だったのか、もう覚えてはいない。空なのか、風なのか、あるいは遠い昔にここを離れていった誰かにあてたものだったのか。
誰にも向けていなかったのかもしれない。
「残るものがないから、思い出せない。誰でも良かったんじゃないかな」
「誰にも向けない愛に、意味はあるの」
「さあ?誰かに向けて愛を語ったことなんてないから、誰にも向けない愛との違いなんて分からない」
自嘲して歩き出す。声は近すぎず、離れすぎない距離で、囁き続けている。
「分からないのに、愛したいの」
「ただの真似事だよ。皆が口にするから、言葉にしようと思っただけだ」
「愛とは、何」
「何だろうか。暖かいものだとは聞いたことがあるけれど」
問いかける声に、足を止めずに言葉を返す。
よほど意外だったのだろうか。浮かぶ疑問に意外だろうなと、ぼんやり思う。
一度も言葉にしたことがないものだ。異国の言葉では誤魔化しきれなかったのだろう。
「神様」
ぽつりと囁かれた言葉。
思わず、足を止める。
「違うよ。人間が神だと祀っただけで、誰もいない今は、名前のない何かだ」
見えない声を見据え、告げる。
ざわりと、木々が揺らぐ。どこかで、すすり泣く声がした。
「神様」
誰かが呼ぶ。ざわざわと木々を揺らし、あちらこちらで囁く声がする。
「神様」
呼ぶ声に、応えなかった。誰もいないこの場所で、かつての呼び名は、認識は何の意味も持たない。
風が雪を舞い上げる。白く染まる視界の向こうに、小さな影が佇んでいるのが見えた。
「ねえ、神様」
澄んだ眼差し。悲しむのでもなく、況して嘲るわけでもない、無垢な瞳。
瞬きもせずこちらを見つめ、問いかける。
「愛がないから、寂しいの?それとも、愛したことを後悔したの?」
静かな声に、息を呑んだ。
言葉を返そうとして、掠れた吐息だけが溢れ落ちた。声は喉に張り付き、形になるのを拒んでいる。
喉に手を当て、ただ首を振った。それだけしかできなかった。
「わたしたちは、きっと寂しい」
「でもこの終わりに、後悔はない」
「愛された。だから愛そうとした。ただそれだけ」
いくつもの声に、優しさはない。事実を語り、思いを告げているだけだ。
目を伏せ、声を聞きながらかつての日々を思う。
決して豊かではなかった。
だが誰もが笑みを浮かべ、日々を生きていた。
「――愛とは、とても難しい」
気づけば、思いが溢れていた。
「愛してくれていたと思った。だから同じように愛を返した。与えられたものと同等を、返したはずだった……何が違ったのだろう」
顔を上げ、かつての営みがあった場所に視線を向ける。
そこには何もない。何もなくなってしまった。
「I love you……外から来た人間は、そう言って愛を返していた。誰かに向けた愛はとても美しいものだった。喜び、笑顔が溢れて……それを与えられたらと思っていた」
金に煌めく髪を持つ少年が、小さな花を手に少女へと告げた言葉。
驚きに目を丸くし、ふわりと微笑む少女を覚えている。その笑顔を見て、顔を赤く染めながらも同じように笑った少年の顔も。
「本当に、愛とは難しいものだ」
ただ一人、あるいは一つに向けての言葉なのだろうか。
形の定まらない思い。簡単でいて、とても難しい言葉。
けれど、今更知ったとしても、もう遅い。
「――眠るよ。きっともう二度と目覚めはしないのだろうけれど」
「神様」
「おまえたちは、風と共に好きな場所に行くといい」
ざわり、と木々が騒めく。舞い上がる雪の向こう側に佇む影の目が、微かに揺れた。
「I loveに続く言葉を知らないまま、間違った。おまえたちは、言葉を見つけられたらいいね」
笑みを浮かべ、目を閉じる。
いくつもの声を聞きながら、形を溶かして意識を深く沈めていく。
ここには誰もいない。
二度と目覚めることはないのだろう。
「――あった」
「間違いない。祖母ちゃんが言っていた通りだ」
誰かの声が聞こえた気がして、沈んでいた意識が僅かに浮かぶ。
「残っててよかった。お祖母ちゃんもきっと喜ぶね」
「ちょっと!置いてかないでよ!」
「ごめんごめん。でも見つかったよ」
知らない声。知らない気配。
誰もいないはずのこの場所に、誰かが足を踏み入れている。
ゆっくりと目を開けた。社の前に複数の男女の姿が視界に映る。
誰だろうか。彼らに見覚えはないというのに、どこか懐かしさを感じる。
「これ?お祖母ちゃんが言ってた神さま」
「そうみたいだな」
「社を壊そうとしたら祟られて、雪に沈められたんでしょ?動かしても大丈夫なの?」
何を言っているのだろう。まだ、はっきりとしない意識では、彼らが何を言っているのかよく理解ができない。
社を壊すのだろうか。だが移動するとも言っていた。
触れる手が暖かい。彼らは誰で、どこへ行くのだろうか。
「大丈夫。ちゃんと手順を守れば問題ないよ」
「じゃあ、早く終わらせて帰ろうよ。お祖母ちゃんが会いたがってるし、神さまもこんな寂しい所にいつまでもいるのはかわいそう」
「だな。さっさと準備をするか」
懐かしい光景。懐かしい音。そして言葉。
意識が浮かぶ。言葉が全身に広がり、形を伴ってはっきりと目を開けた。
祝詞を奏上する男。その背後に控える二人の女性。
その一人と、目が合った。
「あ、神さま!」
笑顔で手を振られる。
無邪気な仕草。初めてのことに、どう返せばいいのか分からない。
「一緒に帰ろうね、神さま。お祖母ちゃんも待ってるよ!」
花を手に、微笑む少女の姿が浮かぶ。
彼女の面影を宿した三人に、あぁ、と思わず声が漏れた。
彼女の元へ行くのか。あの異国の彼もいるのだろうか。
「異国の彼?誰のことかしら」
「異国?外国人ってことでしょ……あ、お祖母ちゃんに告白して振られた人じゃない?」
振られた、ということは、一緒にいないということだったか。
やはり、愛とは難しい。
「おまえら。煩いぞ」
「だって神さまが!」
「知るか。俺はお前らと違って、見えも聞こえもしないんだ。お前らが騒いでいるようにしか聞こえん」
「そんなに拗ねないの。それより、終わったなら早く帰ろう」
随分と賑やかな三人だ。それでいてとても優しい子らだ。
片付けをしながら楽しげに話す彼らを見て、そう思う。
祝詞を通じて伝わる、温かな思い。与えられる愛に、胸が苦しくなる。
これは返していいものだろうか。何もなくなった雪原を思い出し、困惑する。
「帰ろう!神さま」
差し出される手に、迷いはない。
その手を見ながら迷い、戸惑いながら手を重ねた。
溢れる笑顔。かつて求めていたもの。
I love you.
それを伝えた少年は、けれど今少女と共にいないのだという。
一人に向けた愛も、必ず報われるわけではないらしい。
この愛を返しても、本当にいいのだろうか。
誰に向けた愛ならば、傷をつけずに笑顔を咲かせられるのだろう。
I love…
それに続く言葉は、まだ分からない。
20260129 『I LOVE...』
部屋の隅で一人、膝を抱えて蹲っていた。
どれだけ時間が過ぎたのか。辺りはすっかり暗くなり、暖房を入れていない部屋は息を吐けば白く曇るほど冷えきってしまっていた。
それでも動く気にはならない。昼間見た光景が、言われた言葉が頭から離れない。
大切な幼馴染だった。
いつも見ているだけの自分の手を引いて、皆の輪の中へと連れて行ってくれるような、そんな優しい人。いつも笑顔で助けてくれる、自慢の幼馴染だった。
きつく唇を噛みしめる。強く目を閉じて、込み上げる涙が溢れないように必死に耐えた。
幼馴染の、冷たい笑みが忘れられない。吐き捨てられた言葉を思い出すだけで、胸が苦しくて息が出来なくなってしまう。
まだ、直接言われないだけ、良かったのだろう。あの目で、あの言葉を言われたら、きっとその場から動けずに泣くことしかできなかった。
膝を抱いて、身を縮める。
今は何も信じられそうにない。
見せかけだけの優しさ。その裏の欺瞞が怖くて堪らなかった。
「ひどいことだ。本当にひどい。あんな言葉を皆の前で言って笑い者にするなんて、思わなかった」
聞こえた声に、小さく肩を竦ませる。
反射的に何かを言う前に、大きな手に頭を撫でられた。
「嘘だらけの人間のことは、早く忘れてしまえ。お前には、他にも大切にしてくれる人間がいるだろう?」
強く厳しさが滲む声に、恐る恐る目を開けた。
暗がりに大きな影が見える。恐ろしくはない。逆に安心できるその姿。
「でも……」
忘れろ、という言葉に、視線が揺れる。優しかった幼馴染を思い出して、本当に忘れていいのか迷ってしまう。
何か原因があったのではないだろうか。自分が幼馴染を怒らせて、それであんなことを言ったのではないだろうか。
もしかしたらの期待が迷わせる。けれど影は容赦なくその願いを否定した。
「上辺だけの優しさに縋ろうとするんじゃない。それでまた、お前が悲しい思いをするのは嫌だぞ」
ぐしゃぐしゃと、髪をかき混ぜられて俯いた。
忘れられない。忘れるのが怖い。浮かぶいくつもの思い出に、手を伸ばしたくなってしまう。
きつく手を握りしめた。それでも幼馴染がくれた優しさが消えてくれることはない。
「困ったな」
小さく息を吐く音がした。
怒らせてしまっただろうか。暗くて表情が見えないのが怖い。
頭を撫でる手が離れていく。思わず手を伸ばし、離れていく手に縋りついた。
「心配するな、どこにも行かない。ずっと一緒にいると言っただろう?」
忘れてはいない。でも今は、何もかもが嘘に思えてしまう。
「お前が傷つくのを我らは望まない。だから忘れられるまで、お前が与えられてきた以上の優しい夢を見せてやろう」
するりと、背後から腕が伸びてきた。
細くしなやかな、二本の腕。抱きしめられて、段々と意識がぼんやりとし始める。
「一度全てを忘れて、安全な箱庭で心穏やかに過ごすといい。いずれあれ以外で、お前を大切に思う者が迎えにきてくれることだろう」
包まれる温もりに、瞼が重く閉じていく。苦しかった気持ちが解けて、空になっていく。
「ごめんなさい。迷惑をかけて……」
「気にすることではない。子を護るのが我らの役目だ。お前は何も気にせず、笑っていろ」
厳しく、温かい言葉。その声すら端から解けていく。
「ありがとう」
忘れてしまうことを惜しく思いながら、深く夢の中へと沈んでいった。
「おはよう!」
見慣れた背に、少年は声をかけた。
いつもとは違う朝。幼馴染の少女を迎えに家に行くと、彼女はすでに家を出た後だった。
慌てて追いかけ、歩いていく少女を見かけて声をかけるも返事はない。
「どうしたんだよ、今日は。一人で学校に行くなんてさ」
嫌な予感に気づかない振りをして、少年は努めて明るい声を出した。
気のせいだ。何か理由があるのだろう。また悩み事を一人で抱え込んでいるのかもしれない。
いくつもの理由を並べ立てるも、少年の頭の中では、 昨日走り去っていく少女の小さな背が消えない。
振り返らない少女に、嫌な予感が強くなる。気のせいであれと願いを込めて肩に手を伸ばすが、その前に振り返る少女の目を見て息を呑んだ。
何の感情も浮かばない目。金に煌めく色彩に、少年は理解する。
「守り神?何で……」
この街は古い家が多く、それぞれの家には守り神がいる。少女や少年の家もそうだ。
その守り神が少女の中にいる。昨日見た、走り去る少女の背は見間違いではなかったのだ。
顔を青ざめさせて震える少年を一瞥し、少女は何も言わずに去っていく。それを呆然と見つめていれば、少年の影が小さく揺らいだ。
「あの時、警告はしました。恥ずかしいからとは言え、心にもないことを口にすることはよくないと」
「だって……聞かれなければ大丈夫だって思ったんだ」
影の言葉に、少年は俯いた。
昨日。友人たちに、少女のことについて揶揄われた。いつも一緒に登下校をしていること。手を繋いでいたこと。恋愛感情について。
その時は酷く恥ずかしく思えて、友人たちの言葉に思ってもいないことを返していた。
少女が付き纏うから、仕方なく相手をしている。本当は迷惑しているが、家のために我慢をしなければならない。だから少女のことは好きではなく、むしろ嫌いだった。
その場限りの言葉だと思っていた。聞かれていなければ、今までと変わらずに過ごすことができる。そう信じていたからこそ、自身の守り神の言葉に耳を貸さなかったのだ。
「諦めなさい。あの娘が戻ってきたとして、二度と元の関係には戻れないでしょう」
「そんな……」
「ああして、守り神が出てきているのです。それほどの苦しみがあったのでしょう。貴方にできることは、この先あの娘に関わらず過ごすことだけです」
そんなことはないと否定しかけた言葉を形にさせぬかのように、影は容赦なく事実を告げる。
分かっていたことだ。だが認めてしまうことは、少年にはできなかった。
遠ざかる少女に、誰かが話しかけているのが見えた。彼女の親友だろう。頷き、少女の隣を歩くその姿が羨ましい。
「大丈夫だって、思ってたんだ」
聞かれなければ大丈夫。ちゃんと話せば大丈夫。
そんな甘い考えを含んだ言葉に、影は何も返さない。少年も答えを求めてはいなかった。
それは結局、少女の優しさに甘えた考えだ。彼女の気持ちを無視した、最低な考えだった。
「馬鹿だなぁ」
呟いて、一人笑う。
滲み出す世界が少女の笑顔を消してしまうようで、少年は立ち尽くしたまま必死に涙を堪えていた。
20260127 『優しさ』
午前零時。
眠ることを知らない街とは違い、この村は深い眠りについている。
灯り一つない暗闇。ひっそりと静まり返った周囲に、動く影はない。
まるで村全体が死んでしまったかのようだ。
夜に死に、朝に生まれる。この村では、生と死が繰り返されてきたのだろう。
そしてそれは、この先も変わらず続いていく。
そう思われていた。
ある夜のこと。
いつものようにすべてが眠りについた村の中を、小さな影が過ぎていく。
灯りはない。手にした懐中電灯は点かず、ただの荷物と化していた。
影は去年越してきたばかりの家の子供だった。以前は都会に住んでいた子供は、急な生活の変化に対応することができていなかった。
それは越してきたばかりの頃、両親も同じはずであった。けれども数日が過ぎた頃には、両親は日付をまたぐ前に床に就くようになり、子供だけが夜の家に取り残されている。
「怖くなんてないし」
独り言ちて、辺りを見回す。暗闇に沈む村の光景に、ごくりと唾を飲み込んだ。
かたかたと、手にした懐中電灯が音を立てる。知らぬうちに体が震えていたことに気づき、子供は否定するかのように頭を振り、強く懐中電灯を握り締める。
怖いと認める訳にはいかないのだろう。認めてしまえば、その途端に足は進まなくなる。恐怖で足が竦み、最悪家にすら帰れなくなってしまうかもしれない可能性を恐れているのだ。
「怖くなんてない。前は、こんな時間に起きていても怖くなかった」
自身に言い聞かせるように、何度も怖くないと繰り返す。震える足に気づかない振りをして、子供は月明かりを頼りに村の奥へと進んでいく。
そこには村の境界線のように広がる雑木林があった。昼間でも滅多に人が近づこうとしないその場所の先は異界に続いているのだと、子供の通う学校で噂になっている。
誰もが眠るこの深夜に、異界と呼ばれる場所を覗く。それが子供の目的だった。
周囲に馴染めない子供なりの、コミュニケーションの取り方なのだろう。あるいはすぐに馴染んでしまった両親に対する、精一杯の反抗でもあるのか。
どちらにしても、恐怖は子供にとって引き返すだけの理由には足り得なかった。
冷えた風が、子供の頬を撫で過ぎていく。
冬の冷たいながらも澄んだ風ではない。まるで命を刈り取る死神の鎌のような、恐ろしさを纏った音のない風だった。
肩を震わせ、忙しなく辺りに視線を彷徨わせる。灯りの点かない懐中電灯に縋りつくようにして、腕に抱きかかえた。
恐くない、とはもう口にも出せない。ただ目の前の雑木林に足を踏み入れずにすむ理由を探しながら、近づいていく。
昼間見た時に、通り抜けられそうな獣道を子供は見つけていた。見つからなければ帰ればいい。そう思いながら、子供は殊更ゆっくりと視線を巡らせる。
「――っ」
そこに、獣道はあった。
強い落胆を覚えながら、子供は獣道を凝視する。
どんなに見つめても、道が消えることはない。道があるならば、進まなければ。
恐る恐る視線だけで獣道の先を辿る。足を踏み入れる前に、何があるのかを見極めようと道の先に目を凝らす。
ぼんやりと浮かぶ、仄かな光。月や星ではない、人工的な灯り。
雑木林の向こう側に、人の営みがある。
「あ……あ……」
それを理解して、途端に子供の体ががたがたと震え出した。
縺れる足を必死に動かし、雑木林から少しでも距離を取ろうと後退っていく。
今の子供を支配しているのは、本能的な強い恐怖だった。
近づいてはいけないもの。姿を見ても、音を聞いてもいけないもの。
敢えて言葉にするならば、それは『死』だろうか。
「ひっ……」
不意に、獣道の先の灯りが陰った。
何か、あるいは誰かが、灯りと雑木林の間に立っているだろう。
彼方の誰かが、此方に気づいて近づいてくる。
限界を超えた恐怖に力が抜け、子供はそのまま地面にへたり込んでしまった。
手で地面を掻くも、僅かにしか後ろには下がれない。じわり、じわりと涙が浮かび、端から溢れて頬を伝い落ちていく。
戻れない。連れていかれてしまう。
せめてもの抵抗に目を閉じ、嗚咽が漏れぬよう唇を強く噛み締めた。
「っ!?」
ふわりと、顔に布のような何かがかけられた気配に、子供はびくりと体を震わせた。
何がかけられたのか。その正体を知りたくとも、全身を撫でるような冷たく湿った風に体は硬直し動かない。
――ずるり。
何かを引き摺るような音がした。
ずり、ずるりと音は近づき、動けない子供のすぐ脇を通り過ぎていく。
鼻をつく、嫌な匂いが辺りに広がる。それでいて、どこか甘く感じる匂いに、子供は目を閉じたまま顔を顰めた。
できるだけ匂いを嗅がないように息を止め、音が過ぎていくのを只管に待つ。やがて音は遠ざかり、子供は詰めていた息を小さく吐いた。
動くようになった手で顔にかけられた何かに触れる。つるりとした柔らかなそれは、どうやら布のようであった。
「まだ、それを取ってはいけません」
布を取ろうとした瞬間、その手を掴まれ、誰かに囁かれた。
ひっ、とかみ殺した悲鳴が、子供の震える唇から漏れる。
いつの間に側にいたのか。声からして女性のようであるが、気配を全く感じなかった。
だが不思議と恐怖は感じない。それは掴まれた手から伝わるぬくもりに安堵しているのか、それとも凛とした、それでいて柔らかな声が気持ちを落ち着かせるのか。
ともあれ子供は体の力を抜き目を開けると、声のした方へと布越しに視線を向けた。
「ここから離れます。声を出さず、ついてきてください」
その言葉に小さく頷くと、ふらつきながらも立ち上がる。掴まれた手を繋がれて、導かれるままに歩いていく。
いくつかの角を曲がり、階段を上って辿りついた場所は、村にある唯一の神社のようであった。
立ち止まり、布越しに辺りを見回す。長い石段とどこか澄んだ空気から神社だと感じたが、本当にそうであるのか子供は確信が持てなかった。
「もう外しても大丈夫です」
手を離され告げられて、子供はようやく顔を覆う布に手を伸ばす。さほど抵抗なく外れた布に視線を向け、そしてもう一度辺りを見回した。
暗く、見えにくいが、やはり神社のようだ。見知った場所に安堵の息を吐き、ここまで導いてくれた誰かへと視線を向けた。
「夜半に幼子が一人で出歩くなど、感心しませんね」
暗闇にはっきりとは見えないが、神社の巫女だろうか。顔には手の中にある布と同じものを着けており、顔を見ることはできない。
「この場所は、他よりも境界が薄いのです。そして日付の変わる瞬間は、さらに境界が薄くなり、こうして繋がることも珍しくはありません」
「境界?」
思わず聞き返せば、女性は鳥居を指さした。
振り返る。鳥居の向こう側に、いくつか小さな影が蠢いているのが見えた。
「彼岸と此岸……ですから、今後は日が変わる前にお休みください」
影から目を逸らせないでいる子供の視界を手で覆い、女性は告げる。
完全な暗闇に、次第に意識が沈み出す。重くなる瞼を閉じながら、子供は視界を覆う手を掴み問いかけた。
「おねえさんは、いいの?」
神職ならば大丈夫という訳でもないだろう。現に女性以外に起きている人はいないようだ。
女性が一人きり。危険ではないのだろうかという子供の不安は、小さな笑い声によって消えていく。
「私たちは神に仕える身ですから。人の理を外れた今、影響はないのです」
穏やかな声音。安心させるその響きに、子供の意識は深く落ちていった。
午前零時。
眠りについた村の中を、黒い影が彷徨っている。
目覚めている生者はいない。皆、深い眠りについている。
神社の境内で、巫女たちは静かに日の出を待っていた。
目覚めてしまう生者がいないよう、村を見守りながら。
午前零時。
村は静かに死の眠りにつき、日の出と共に生の目覚めを繰り返している。
20260126 『ミッドナイト』
ここは安全だと誰もが言う。
皆優しく、親切だ。困っている時には嫌な顔一つせず手を差し伸べ、悩み事があれば、まるで自分のことのように一緒に悩み答えを探してくれる。
安心していられる場所。それがここなのだという。
だから、不安など感じてはいけない。悲しみや心細さを口にすれば、それは周りの人たちに対する裏切りになってしまう。
そんな気がして、いつしか何も言えなくなってしまった。
晴れ渡る空の下。行きかう人々は皆、笑顔を浮かべている。
「おはよう。今日もいい天気だね」
「おはようございます。そうですね。天気がいいと気分も晴れていく気がします」
交わされる挨拶。和やかな談笑。
今日もこの場所は穏やかさに満ちている。
「おはよう。調子はどう?」
友人が笑顔を浮かべ、こちらに歩み寄ってくる。
いつもと変わらない笑顔だ。彼女は今日も幸せらしい。
この場所は安全なのだから当然か。当たり前なことを思い、内心で苦笑しながら友人に手を振った。
「おはよう。調子は悪くはないけど、ちょっと眠いかな」
「夜更かし?」
「今日はいつもより暖かいから、そのせいかも」
そう言って欠伸をかみ殺す。眠気と戦う自分に彼女は笑い、手を引いて歩き出した。
「どこ行くの?」
「裏の原っぱ。そこで少しお昼寝をしようよ」
歩きながら、友人は大きく欠伸をした。それにつられて、つい欠伸が出てしまった。
くすくすと笑う声。気恥ずかしくなり、軽く俯いた。
繋いだ手に力を込める。同じように手を握り返してくれる。たったそれだけの行為が、何よりも嬉しい。
伝わる熱に、自然と笑みが浮かぶ。このまま眠ってしまえば、きっといい夢が見られるはずだ。今から眠るのを密かに楽しみにしていれば、友人はもう一度欠伸をしながら、何気なく呟いた。
「この場所は安全だからね。どこで寝たって安心だ」
その言葉に、一瞬で楽しみが消えて行ってしまう。
代わりに込み上げるのは、得体のしれない不安。掻き消そうにも消えないそれに、小さく息を呑む。
「どうかした?」
「ううん。何でもない」
こちらに視線を向ける友人に、慌てて作り笑いをしながら首を振る。
気づかれてはいけない。不安が込み上げる度、何故か強くそう思う。
「いい夢が見れそうだなって。そう思っただけ」
「確かに。いい天気で、暖かくて。そんな時に見る夢は、きっといい夢に違いないね」
空を見上げて、友人は眩しそうに目を細めた。
心から楽しみにしているのだろう。その穏やかな表情を見ると、不安があることが申し訳なくなってくる。
「そうだね」
気まずさに視線を逸らしながら、相槌を打つ。
安心を信じ切れていないのだろうか。自分でも理由の分からない不安に息苦しさを感じて、さりげなく目を伏せた。
「――あれ?」
ふと、遠くで微かに声が聞こえた。
耳を澄ませてもはっきりとは聞こえない、その声。酷く不快で、耳障りな笑い声。
「どうしたの?」
思わず眉を寄せれば、それに気づいた友人が心配そうに顔を覗き込む。
彼女には聞こえていないのだろうか。片耳を塞ぎ、視線を巡らせながら呟いた。
「笑い声が聞こえる……聞こえない?」
「笑い声?聞こえないけどなぁ……」
首を傾げ、友人も耳を澄ませている。けれど声は次第に小さくなり、風に紛れて聞こえなくなってしまった。
「聞こえなくなった……何だったんだろう」
「大丈夫?気分とか悪くなってたりしない?何だったら、今から診てもらおうか?」
今にも泣きそうな友人に、大丈夫だと笑って見せる。
笑い声が聞こえただけだ。大げさだと首を振り、繋いだままの手を軽く引いた。
「大丈夫。きっと寝足りないんだ。寝たらきっとすぐに忘れちゃうよ」
「そっか……そうだね。じゃあ、早く行こうか!」
少し迷う素振りを見せながらも、友人は笑って手を引き歩き出す。
空耳だ。気のせいだ。そう自分に言い聞かせながら、胸の中で燻る不安から必死に目を逸らしていた。
ふと、目が覚めた。
辺りは暗い。枕もとの時計を見れば、ちょうど日付が変わったころだった。
喉の渇きを覚えて、ベッドから抜け出す。足音を立てないよう、ゆっくりと部屋を抜け出した。
暗く静まり返った廊下は昼間とは全く別の顔をしていて、どこか恐ろしさを感じるほどだ。だというのに、何故か安堵している自分がいた。
恐ろしいことに、安心する。逆に、安全だと言われる度に、不安が込み上げる。正反対な思いを不思議に思いながら、台所に続く扉を開けた。
「――この、声」
微かに聞こえる笑い声に、眉を寄せる。
外からだろうか。勝手口に近づきながら、耳を澄ませてみる。
――くすくす。けらけら。
嫌な声だ。まるで自分が笑われているようで、落ち着かない。同時に、誰が笑っているのかが酷く気になった。
そっと扉に手をかける。ゆっくりと開けば、笑い声がはっきりと聞こえだす。
「山の、奥からだ」
耳を澄まさなくても聞こえる声に、外へと足を踏み出した。
誰も足を踏み入れたがらない山の中。安全ではない場所から声は聞こえてくる。
「行かないと」
何故か、強く思った。
靴を取りに行く手間すら惜しんで、裸足のまま笑い声の方へと歩き出す。
地面の冷たさが心地良い。体が軽く、段々と早まる足は、いつしか走り出していた。
行くな、危険だと警告する思考を、行かなければという衝動で押さえつける。
行かなければ後悔する。そんな焦燥感に突き動かされて、足は迷うことなく山の奥へと進んでいった。
そうして辿り着いた高台中腹に、笑い声の主はいた。
――くすくす。けらけら。
今時珍しく、着物を身に纏った美しい女性。袖で口元を隠して笑い続けている。
人を見下した笑い方ではない。本当に笑ってもいないのだろう。
只管に笑い続けるその目は、少しも笑っているようには見えなかった。
真っすぐにこちらを見据える黒い目。その強さに、視線を逸らすこともできずに、呆然と立ち尽くす。
怖い。嫌だ。逃げ出したい。そう思うのに指先一つ動かせない。体の震えを止められない。
――けらけら。
不意に、女性が笑いながら動いた。こちらに近づくのではなく、まるで背後の景色を見せようとするかのように脇に避ける。
ごくりと唾を飲み込んだ。開けた視界の先から目が離せない。
そこからは、皆が安全だと言っている場所が見下ろせるはずだと、そう感じた。
気づけば、足を踏み出していた。
見てはいけない。戻れなくなる。
そう思うのに、足は止まらない。見てしまうことの不安よりも、本当を知って安心したいという気持ちが強くあった。
笑う女性の隣に立ち、そっと下を覗き込む。
「――あぁ」
嘆きとも、安堵ともつかない声が漏れた。
眼下に見える、安全だと言われた場所。
確かに安全だろう。辺りに何もなければ、危険などあるはずもない。
どこまでも続く森に囲まれた場所。ひっそりとした森には、生き物の気配は感じられない。
見せかけだけの森。おそらくは、この場所を囲うためだけにあるもの。
ここは楽園と言う名の箱庭だ。
「檻の中にいるみたい」
ぽつりと呟く声に、女性の笑い声が止まった。
視線を向ける。細まる目と視線を合わせ、問いかける。
「どうしたら、この檻から抜け出せるの?」
口元を隠している手が、山の頂上を指差した。
露わになった紅い唇が、緩く弧を描く。こちらを見つめる目も細められ、優しい笑みを形作った。
「――ありがとう」
頂上へと続く獣道に足を踏み入れながら、小さく呟いた。
その声が聞こえたのだろう。背後から、ふふと笑う声がする。
ずっと聞こえていた声とは違う、柔らかな笑い声。それが気恥ずかしくて、衝動的に走り出す。
足の痛みは感じない。どんなに走っても、息が切れることもない。
ここは夢の中なのだろう。
ようやく気づいて、笑われていた意味を理解した。
「早く、目を覚まさないと」
親友の意地悪な笑顔が脳裏に浮かび、眉を顰めながらも笑う。
今も待っているのだろう。素直でない彼女は、きっと目覚めた自分を笑い、涙を隠してお寝坊さん、とでも言って戯けるのだ。
その光景が目に浮かび、堪えきれず笑い声が上がる。
「帰らないと」
呟いて、速度を上げる。
近づく頂上の先が白み始めている。
朝が来るのだろう。
綺麗なだけの嘘の青空ではない、時に厳しい本当の空に繋がっているはずだ。
安心だけの世界はいらない。不安があるからこそ安心できる。
矛盾しているなと笑いながら、朝日の向こう側へと飛び込んだ。
20260125 『安心と不安』