目の前を、誰かが足早に過ぎていく。
視線を向ければ、小柄な少女が泣きながら教室に入っていくのが見えた。
何かあったのだろうか。込み上げる疑問に対する答えが思い浮かび、嘆息する。確認した訳ではないが、まず間違いないだろう。
彼女のように泣きながら、あるいは怯えながら目の前を過ぎていくのは、これで三回目だ。彼女たちの精一杯の勇気が最悪な形で返ってきたことを可哀想に思いながら、重い足を引きずるように元凶の元へと歩き出した。
賑やかな廊下を抜けていく。ぱたぱたと通り過ぎる生徒たちは皆足取り軽く、足音を立てずに歩く自分とは正反対だ。きっと表情も違うのだろうと考えて、進む足がさらに重くなった気がした。
「ねぇ。いい加減にしてって言ったよね?」
美術室で一人、絵を描く彼の背に声をかける。
答えはない。けれど絵を描くことに集中している訳ではないことは明らかだった。
ただ二回目の時のやり取りをするのが億劫なだけだろう。その証拠に、絵を描く手は先ほどからほとんど動いていない。
眉を寄せ、彼に歩み寄る。手を伸ばせば触れられる距離まで近づいて、ようやく彼は振り返った。
「いい加減にしろと言われたって、向こうから来るのが悪い」
「やり方があるって言ってんの」
不機嫌そうに言い訳をする彼は、普段とは違いどこか幼い。目を合わせようとしない彼に溜息を吐いて、その背後のイーゼルに掛けられた絵に視線を向けた。
怪しく微笑むビスクドール。ただの絵だと理解していても、人形の纏う悪意に飲まれてしまいそうだ。
「あの子の怖がっているものは人形か……随分と精密に描かれているから、実際にある人形なのかな」
「知らない。興味もない」
「描いた本人が何を言ってんの」
こちらに背を向けキャンバスに向かう彼は、完全に拗ねてしまったようだ。絵に触れ、軽く爪を立てる。
その途端、絵がどろりと溶け出し、キャンバスに染み込むように消えていく。まるで最初から何も描かれていないとでもいうかのように。
「相変わらず、変な特技だねぇ」
「変って言うな。あと、特技とかじゃない」
いつ見ても不思議な光景だ。思わず呟けば、幾分か低い声に否定された。
キャンバスを見た人の、一番怖いものを描き出す。いつからか、彼はそういった絵を描くことが多くなった。
彼の周囲に人が集まるようになったからだろうか。不愛想で幼いけれど、彼を好きになる人は案外多い。
もっとも、彼と付き合えた人はまだ誰もいないが。勇気を出して告白しても、先ほど見かけた少女のように目の前で一番怖いものを描かれて逃げてしまう人ばかりだ。
「皆、怖がりだな。人形とかよく分からない化け物とか……何が怖いんだか」
心底不思議だと言わんばかりの声音。何度も人の恐怖を描いていても、彼には分からないものらしい。
何も言えずにただ見ていると、真っ白になったキャンバスを前に、彼は手を離して筆を取る。
絵の具の匂いが鼻を掠める。キャンバスの白が、黒に塗り潰されていく。
その迷いのなさに、息を呑んだ。絵の具の黒が容赦なく白を殺し、やがてキャンバスは黒に染め上げられてしまった。
「――まだ、黒だけか」
かたり、と筆を置く音がやけに大きく響く。
感情が抜け落ちたかのような、冷たい声音。思わず肩が震え、一歩足が後ろに下がる。
「形として描かないと意味がないのに」
ゆっくりと彼が振り返る。
まるで人形の目だ。キャンバスのような底知れない黒い目。射すくめられ、途端に動けなくなってしまう。
「なぁ」
腕を掴まれ、開いた距離を縮められる。
「もっと、形のある怖いものがあるだろ?それを俺に晒して。形さえあれば、すぐに見つけることができるんだ」
至近距離で見つめ合っているというのに、彼の目の中に自分の姿は見えない。今の自分の姿が見えるのは彼だけだ。
「じゃないと、いつまでも仲直りができない……いくらでも謝るから、だから迎えにいかせて」
見えない自分の姿の代わりに、脳裏を懐かしい記憶が過ぎていく。
幼い頃、一緒に彼の家の倉の中でよく遊んだ。本を読み、ままごとをし、お絵かきをし、たくさん話し合った。
いつも笑っていた。喧嘩らしい喧嘩もなく、いつも一緒だった。
あの日、何が原因で喧嘩になったのか覚えていない。
ただとても悲しくて、痛くて、許せないと思った。
二度と遊ばない。口も聞きたくない。そう言って、彼に背を向けたことは覚えている。
その後は――真っ黒だ。
気づけば楽しげに遊ぶ自分たちの姿は消え、キャンバスと対峙していた。
底が見えないほどの深い黒を無言で見つめていると、不意に中心から波紋が広がった。
水面のように何度も波紋が揺らぎ、やがて中心に何かが浮かび上がる。
「っ……」
小さなそれは、子供の手。助けを求めるかのように伸ばされた手は、キャンバスを突き抜け大きく開かれる。
それまで立ち尽くしていた体は慌てたようにその手を掴もうと動き出すが、手は捕まえることができずにすり抜けた。悲しげに揺れる手が、再びキャンバスの中へ沈んでいく。やがて何も見えなくなると、キャンバスは大きく揺らいで、彼の目に変わった。
「どうした?」
不安と期待を色濃く宿した目を見つめながら、無言で首を振る。俯き、掴まれた腕を解こうとするが、逆に痛みを覚えるほど強く掴まれてしまった。
「行かないで」
声を震わせ、彼は懇願する。
「お願いだから、一人にしないで」
声だけでなく、掴まれた腕から彼が震えているのが伝わる。
昔から彼は怖がりだ。周りに人が集まるようになった今でも、置いていかれることを怖がっている。
あの時、彼はどんな顔をしていたのだろうか。ふと疑問に思う。一日の終わりにさよならをする時にすら泣いて嫌がっていた彼は、背を向けて去っていこうとする自分をどう思ったのか。
「必ず見つけるから。だからここにいて」
彼は何度も自分を見つけると繰り返す。
あの日を最後に、自分は行方不明になっているという。ならば今ここにいる自分は何なのだろうか。
彼には自分の姿はどのように見えているのだろうか。
「分かってる。ちゃんとここにいるよ」
けれど浮かぶ疑問を何一つ口にせず、代わりに彼の望む言葉を囁いた。
密かに自嘲する。
何も言えない自分はきっと、彼以上に怖がりなのだろう。
20260316 『怖がり』
星が一つ、流れていく。
一瞬で空の彼方に消えた星の尾の跡を見上げながら、少年は残された光の煌めきに手を伸ばした。
砂粒ほどの微かな光。手の平で転がし、ポケットから小瓶を取り出して中へと入れる。
軽く振れば光が跳ねる。しゃらしゃらと澄んだ音に混じり、楽しげな子供の笑い声が微かに聞こえた。
「今回溢れたのは、また随分と温かな残り香だね」
呟く声は穏やかだが、その表情はどこか陰りを帯びている。小瓶の中の光が紡ぐ幸せの、その終わりを知っているかのように。
小瓶の口をそっと撫で、少年は道の先の暗がりへと視線を向けた。近づく足音と共に、仄かな月明かりが人影を浮かばせる。
「こんばんは。こんな夜更けに女の子が一人でいるのは感心しないよ」
あえて明るく声をかければ、近づく人影の足が止まった。
女の子、と少年は言うものの、目の前の少女は明らかに少年よりも年上だった。無表情ながらどこか暗い目をして、何も言わずに少年をただ見つめている。
「君も噂を信じて、こんな夜遅くに家を抜け出してきたんだろうけれど残念だったね。何でも願いを叶えてくれる星なんてここにも、世界のどこにもないよ」
「――知ってる」
少年の忠告に少女は淡々と答え、空を見上げた。その瞳はやはりどこか暗く悲しげで、しかし救いを求めて星を探しているようには見えなかった。
「別に願いを叶えてほしい訳じゃない。ただここなら、言葉を置いていっても許される気がしたから」
「言葉?」
「そう。もうすぐここを出ていくから……本当は何も残さないでいこうと思ったけど、偶然願い星の噂を思い出したから」
願い星とは、この場所で見れる流れ星に関する古くから囁かれている噂だった。新月の夜、この場所で流れ星に願い事をするとその願いは叶うという、どこにでもあるような噂。それでも新月になると、ここを訪れる者が今も後を絶たない。
「誰かの願いで溢れているこの場所なら、願いじゃない私の言葉も置いていけるような気がした」
確かにこの場所で多くの人々が、流れ星に願いを託そうとしてきた。少女の言う通り、ここには人の願いで溢れているのだろう。
肯定も否定もしない少年に、少し安堵したのだろうか。夜空に浮かぶ三日月を見つめ、少女はほんの僅か表情を綻ばせた。
「今日は月が出ているから誰もいないと思ってたから、正直意外だった」
「おじゃまかな。終わるまで離れていようか」
空を見上げたまま、少女は緩く頭を振る。肩で切りそろえられた髪が揺れ、月明かりを反射して星のように煌めいた。
「ただの独り言だから、あなたが気にならないのであればここにいればいい」
そう言って、少女は小さく息を吸い込んだ。一瞬の沈黙の後、静かに少女は語り出す。
それは二十にも満たない少女の、生の全てだった。
庭に咲く、四季折々の花の美しさ。友人との他愛のない会話。学校の授業の内容や、通学路で起きた些細な出来事。
少女が見て聞き、そして感じた日々を文字通りこの場所に置いていこうとする。そんな言葉だった。
「この街を嫌いになったわけではない。友達と別れてしまうのはとても寂しい。それでも、私の全部を置いていく……置いて行ってもいいんだって、教えてもらったから」
穏やかにそう締めくくり、少女はそっと息を吐き出した。視線を下ろし、少年を見つめて頭を下げる。
それに少年は何も言わず、ゆっくりと少女の側に歩み寄った。
「全部置いていくって決めたのに荷物になるかもしれないけど、ひとつ餞別にあげるよ」
首を傾げる少女の手に、小瓶を握らせる。瓶の中の仄かな煌めきを見て、少女は困惑に眉を顰めた。
小瓶の中身が、流れ星から溢れた光だと少女は知らない。ただ柔らかな煌めきに、暫く目を細めて見入っていた。
「――あ」
不意に音が聞こえた。しゃら、という澄んだ音に混じる笑い声。
見つめる小瓶の中の光が瞬いて、とある刹那の光景を少女の脳裏に浮かばせる。
それは、幸せそうな家族の日常の一コマ。
両親と幼い娘。花の咲き乱れる庭で、誰もが微笑みを浮かべていた。
見つめる少女の頬を滴が伝う。かみ殺しきれなかった嗚咽が、微かに漏れた。
「さっき流れた星から溢れた光だよ。君のお母さんが置いて行ったんだ」
「おかあ、さん……?」
「ここに降る星は、誰かの心残りだから」
赤い目を瞬かせ、少女は空を見上げた。
煌めく無数の星々に息を呑む。時折流れる星が残す微かな光の瞬きに切なさが込み上げ、少女は無意識に小瓶を胸に抱いた。
「私……」
ぽつりと少女は呟いた。涙に掠れた声は、静かで凪いだ響きをしていた。
「お姉ちゃんになって、お母さんがいなくなって、お父さんが私を見なくなって……仕方がないって思ってる。思ってるから、置いていってもいいのか迷ってる」
そう言いながらも、少女は留まることはないのだろう。
悩み、苦しんで出した答えだ。小さな小瓶の中の思い出一つで、今更決意が揺らぐことはない。
「全部置いていくつもりだったけど、これは持っていくことにする……私はちゃんと愛されてたっていう、確かな証明だから」
小瓶を胸に抱きしめ、少女は少年を見つめて微笑んだ。もう一度深く頭を下げ、ゆっくりと来た道を戻っていく。
「行ってらっしゃい。後悔のないように」
その背を見送って、少年は静かに目を伏せた。
その足元を風が通り抜けていく。その風を追うように、地面から仄かな光が浮かび上がる。
ひとつ、またひとつと増えていく光。ふわふわと宙を漂い、やがては空へと上がっていく。
「かわいそうに」
呟く言葉は、少女に対するものではない。少女に置いていかれるすべてに対してだ。
少年の足元で佇む他よりも暗い光が、少年の言葉に小さく震えた。地面に繋がれたままの光は、一瞬だけ苦悩する男の姿を浮かばせ消えていく。
「かわいそうにね。その思いはもう浮かぶことはないだろう」
後悔、あるいは執着。空に還るには重すぎる。
小さく息を吐いて、少年は空を見上げた。
高く上がる光は空に解け、周囲の星を煌めかせていく。
少女の置いていった言葉、思いがすべて、正しく空へ昇華され星を美しく煌めかせる。
最後の光が空に解けたのを見届けて、少年はふわりと微笑んだ。踵を返し、その場を去っていく。
浮かぶ光はない。光は空へ還り、還れぬものは再び地の底へ沈んでしまった。
暗い大地を、満点の星と三日月が淡く照らしている。
星が一つ、流れていく。
溢れた光を大地に落とし、誰かの思いが流れていく。
20260315 『星が溢れる』
「今日はここから先は駄目だからね」
地面に引いた線を指し彼女は言う。
彼女と一緒に遊ぶ時のルールのひとつ。線を見ながら小さく頷いた。
「じゃあ、今日は何して遊ぶ?」
問われて周りを見回した。
今日遊ぶ場所は中心に大きな木が一本立っているだけで、周りには何もない。隠れ鬼が候補から消え、それならばと木を見上げた。
手を伸ばせば届く位置に太い枝が伸びている。今まで木登りはしたことがなかったが、これなら自分でも登れそうだ。
「じゃあ、今日は木登りにしよっか……おいで。登り方を教えてあげる」
何も言わずとも考えていることが分かったのだろう。小さく笑った彼女が木へと近寄り、手招いた。
彼女の元へ近づけば、するすると器用に枝に登っていく。彼女を真似して木に足をかけ、指示された通りに登っていけば、すぐに彼女の隣の枝まで辿り着いた。
「上手。どう?初めての木登りは」
「思ったより簡単だった」
きっとそう感じたのは、彼女の指示があったからだ。自分一人では最初の部分で躓いていたと思いながらも口には出さず、枝に座って遠くを見る。
どこまでも続く草原が、風に吹かれて波のように揺れている。温かな日差しと穏やかな風に、無意識に笑みが浮かんだ。
「寝ないでよ」
「寝ないよ」
そう言いながらも、心地よい温もりに少しだけ意識が揺らぐ。
隣から呆れたような溜息が聞こえた。それと同時に風が吹き抜け、ふわりとした浮遊感と共に、地面に足がつく感覚がした。
「寝て落ちてしまったら大変だからね」
笑われて顔が熱くなる。けれど何も言い返せずに、彼女から顔を逸らして木の根元に座り込んだ。
木漏れ日が心地良い。意識が微睡み始め、恥ずかしさなどどこかに消えていく。
「次はお昼寝になりそうだね」
顔を覗き込んで、彼女が言う。もう顔を逸らすことはせず、ただぼんやりと彼女の目を見返した。
こうして顔を覗き込んでくる時の彼女の瞳は、満たされているような安らいだ色をしている。まるで自分がここにいることに安堵しているようだ。
何故そんな目をするのか。疑問に思ったことは何度もある。けれど聞いてはいけないような気がして、今日も知らない振りをして目を閉じた。
烏の鳴き声が聞こえて、目を開ける。
気づけば辺りは夕暮れの朱に染まり、沈みかけた夕陽に向かい烏が一羽飛んでいくのが見えた。
「そろそろ帰る時間だよ。ほら入口まで送ってあげるから、早く行こう」
彼女に手を引かれて立ち上がる。そのまま手を繋いで、彼女の言う入口まで歩き出す。
入口というのは、彼女が地面に書いた線の一つだ。引き戸のようにそこだけが二重になっている。
それもルールの一つだ。必ず入口から出入りしなければならない。
入口から入り、線の内側だけで遊び、烏が鳴けばまた入口から出て帰る。
前にルールについて彼女に聞いたことはあるが、必要だからとしか答えてくれなかった。
「じゃあね。気を付けて」
「うん……」
送り出されて、彼女の目を見ないようにしながら頷き、歩き出す。
この時の彼女の目は見れない。表情の抜け落ちた、けれども鋭い目が逸らされることなく向けられている。今も感じる強い視線が恐ろしくて、彼女に気づかれぬよう少しだけ足を速めた。
どうして。口に出せない疑問が、頭の中で渦を巻く。
どうしてそんな目をするのか。いくつもあるルールは何のためにあるのか。
今振り返り、引き返したとしたら、何かが変わってしまうのか。次に遊ぶ時に線の外側へと出たら、築き上げてきたものすべてが崩れてしまうのか。
いくら考えても答えは分からず、行動を起こすこともできない。
俯き歩きながら、見て見ぬ振りを続ける臆病さに自嘲した。
ひた、と、額に感じる冷たさに意識が浮上する。
体が重い。汗の不快感にシャワーを浴びたいのに、起き上がることができない。
息苦しさに、自分が発熱していることを知る。ならば先程感じた額の冷たさは、誰かが額に乗せたタオルなのだろうか。
母だろうか。重い瞼に力を入れて開けながら考える。
しかしそれは、目を開けて視界に映る室内を見て違うと気づく。
一人暮らしで借りているアパートの一室だ。自分の他に誰かがいるはずがない。
夢だったのだろう。額にタオルはなく、熱に浮かされて昔の夢を見ていたのだ。
そう思いながら、室内を見回していた視線がキッチンへと続く扉を見て止まる。
ただの引き戸。だというのに、彼女と遊ぶ時に通る入口が思い浮かんだ。
入口を通り、区切られた室内で遊ぶ。けれど外の音は壁に阻まれて、烏の声は聞こえない。
発熱とは違う恐怖で体が震え出す。今まで何も疑問に思わなかったことが、次々と浮かぶ。
自分はいつから彼女と遊んでいたのか。遊んでいた場所はどこなのか。
そもそも、彼女とは一体誰なのか。
不意に、扉の向こうで影が揺らいだ。
人の影。視線を逸らすこともできずに見つめていれば、扉がゆっくりと開いていく。
音はない。ただ微かに、土と草の香りが鼻を掠めた。
「あぁ、起きたんだ」
いつもと変わらない様子で、彼女が桶を手に部屋に入ってくる。
どうして、と口にしたつもりだった。けれど震える唇から溢れるのは意味の伴わない、掠れた吐息だけ。
それでも言いたいことが伝わったのだろう。彼女は枕元まで来ると、薄く笑いながらサイドテーブルに桶を置いた。
「入口は、出入りするためのもの。遊ぶ時に決めたでしょう?」
だから入って来れたのだと、彼女は笑いながら桶から取り出したタオルを絞る。額に乗せられて、その冷たさに目を閉じた。
「それに、またねって手を振ったのは貴女でしょう?それなのに、こんな遠くまで逃げ出して、しかも獣除けの札まで貼るんだから……私、扉問答は苦手なのに」
彼女は何を言っているのだろうか。思い当たる記憶はない。
あぁ、でも。ぼんやりとする意識の中、うっすらと思い出す。
引っ越しの時、母が部屋の壁に何かを貼っていた。本棚や箪笥で塞がれ、今まで思い出すこともなかった。
それに、実家の近くの神社では、人を攫う狐の怪談話があったはずだ。はっきりと覚えてはいないが、攫われた人は狐に食べられてしまうのではなかっただろうか。
「失礼ね。ちょっと迷わせて遊んでいただけで、一人も食べてなんかいないよ。飽きたら皆返してたし」
口には出していないというのに、彼女は言い訳のような答えを返す。けれどやはり、彼女の言葉の意味はほとんど分からなかった。
熱が出ているせいなのか、思考がまとまらない。何が起きているのか、これからどうなるのかを考えることができない。
あの日と同じ。幼い頃、怪我をしていた狐を見つけ、気まぐれにハンカチを巻いたことを思い出した。
「言っておくけど、本当に食べたりしないからね。食べるくらいなら、ずっと一緒に遊んでいた方が楽しいし」
優しく頭を撫でられる。固く絞ったタオルで汗を拭いていく感覚がする。
沈んでいく意識を手繰り寄せ、必死に瞼をこじ開けた。
「夢を通して、ようやく捕まえたんだから。元気になったら、たくさん楽しいことをしよう」
だから、早く元気になってと。
あの安らかな、それでいて怪しい光を湛えた獣の瞳が、自分を見下ろし笑っていた。
20260314 『安らかな瞳』
「明日は、学校の花壇の花が咲くよ」
微睡む意識の中、声を聞いた。
誰の声かは分からない、穏やかな声。確かめようにも、意識は半分以上夢の中に沈んでしまっている。
今日も誰かは分からなかった。ただ言われた学校の花壇を記憶に留めながら、眠りに落ちていく。
次の朝。
目が覚めて、辺りを見回した。
誰もいないことを確認して、小さく息を吐いた。自分の部屋に誰もいないのは当たり前だというのに、それがどこか悔しい。
「一体、誰なんだろう」
いつからか聞こえてくるようになった不思議な声。眠りに落ちる寸前に聞こえるため、誰が言っているのかはまったく分からない。
昨夜のように花が咲くことを知らせることもあれば、水たまりができる、虹がかかるなど、とても些細なことを眠りに落ちる寸前に伝えられる。恐怖はない。ずっと隣で囁く声の正体が気になって、怖いと感じている暇などはなかった。
欠伸をかみ殺しながら、身支度を整えていく。
「学校の花壇……」
声が伝える出来事が外れたことは一度もない。だからきっと、花壇のチューリップが咲き始めたのだろう。
「本当に誰なんだか」
ぼやきながら、いつもより早く家を出る。
正体の分からない声に思う所はあるものの、植えたチューリップが咲いたのならば早く見に行きたかった。
その夜に聞こえた声は、いつもと違いどこか険しさが滲んでいた。
「人間の手が入った場所で山が崩れる。切り開かれたために、他より弱くなってしまった」
抽象的すぎて、どこを指しているのか分からなかった。けれど今までとは違い、良くない知らせだということだけは理解できた。
閉じた瞼をこじ開けようとするが、ほんの僅かすら開かない。焦る気持ちとは裏腹に睡魔が思考を鈍らせ、そのまま夢の中へと沈んでしまう。
揺れる感覚がして目を開けた時、夜の空を飛んでいた。
正確には、誰かの肩に乗っていた。山より高い彼は月明かりの下で山を動かし、掬った水で湖を作っていく。
その作業を見守りながら、何故かとても嬉しくなった。笑みが浮かび、彼に擦り寄る。
ふと目についた山の中腹を指さした。示した場所を彼が整え、開けた場所ができる。
――ここにしよう。
そう思った。彼も同じように思ったのか、穏やかな笑い声が降ってきた。
瞬きの間に、時が過ぎていく。
作った場所に人が訪れ、生活が始まる。時折薪として木を切り倒すことはあるものの、それは微々たるもので山は気にすることはない。
時が流れ、次第に変化が訪れる。
木を切り倒す量が増えた。生活する人の数が増え、さらに広い土地が必要になっていた。
山に動きはない。静かに人々の営みを見守っている。
そしてまた時が流れ、今度は麓で変化が訪れた。
木々を根こそぎ倒していく。人にとっては必要なことなのだろう。
けれど微かに山から悲鳴が聞こえ始めた。
恐ろしくて、彼にしがみつく。見ていることしかできないのが苦しい。山の悲鳴は次第に大きくなっていくのに、誰一人気づかないのが、ただ悲しい。
悲しみが雨となり、山に降り注ぐ。強い雨だった。染み込む水の重さに、山が叫びを上げている。
その声に気づいた人は、どれだけいたのだろうか。
叫ぶ声は山を崩し、麓の家を襲う。
咄嗟に目を閉じ、深く俯いた。最後まで見届ける勇気はなかった。
「ごめんなさい」
気づけば言葉が溢れていた。見ていることすらできなかった後悔が、痛みとなって押し寄せる。
痛くて苦しくて、紛らわせるように強く手を握り締めた。
「――花が咲くよ」
どれだけそうしていただろう。
不意に、彼がそっと囁いた。その声に促され顔を上げ、目を開ける。
指さす先の木々に白い花が咲いていた。
「お前の愛した花々は、何度でも咲き誇る」
優しい声が降る。
「山も、人間も同じだ……大丈夫」
彼が柔らかく微笑んだ。
その後ろ。気づけば東の空がほんのりと明るくなってきていた。
夜が明けるのだろう。そろそろ戻らなくてはいけない。
「大丈夫」
別れを惜しんで抱き着けば、彼は目を細めて囁く。
何度でも繰り返し告げる。
「私はいつも隣にいる。ずっと一緒だ」
今までも。そしてこれからも。
伝わる彼の思いに、そっと手を離した。
寂しさが恥ずかしさに変わる。このやりとりが初めてではないと思い出してしまった。
何度も繰り返してきた。彼の肩の上から大地に降りると決めたのは自分だというのに、寂しくなって彼の元に戻ってきてしまう。
「いつもありがとう……行ってきます」
頬が熱を持つのを感じながら、彼の肩から飛び降りる。
風を浴びながら眼下に見える家々を見下ろした。その中から今の自分の家を見つけ、降りていく。
意識が揺らぐ。叩きつけるような勢いの風が、次第に全身を柔らかく包み込んでいく。
そっと目を閉じた。落ちていく感覚が、浮かび上がる感覚に変化していく。
彼に見守られている気配を感じながら、ゆっくりと目を覚ました。
ぼんやりとテレビを眺めながら、食パンを齧る。
今日は朝から外が騒がしい。ちょうど今テレビに映っている映像が原因なのだろう。
大雨の影響で、昨夜遅くに麓の街で土砂崩れが起きたという。けれどいち早く山の異変に気付いた誰かが避難を呼びかけ、奇跡的に巻き込まれた人はいなかったようだ。
「なんか見た気がするなぁ」
既視感、というものなのだろうか。テレビを見ながら思い出そうとするが、どこで見たのか思い出せない。逆に段々と霞んで消えて、溜息を吐きテレビを消した。パンを牛乳で流し込み、立ち上がる。
昨夜聞いた声を思い出しながら急いで片づけを済ませ、出かける準備を整えていく。
学校の裏山にある木蓮の木に花が咲いたらしい。何年も花を咲かせなかった木に花が咲いたのだから、見に行かなければ。
「誰なんだろうなぁ」
夜に聞こえる不思議な声。誰の声か気にはなるが、きっと知らないままでも大丈夫だ。
「これからもずっと一緒にいてくれたらいいな」
そんなことを思いながら、玄関を出た。
風に乗って、ふわりと花の香りがする。温かな日差しに笑みが浮かぶ。
春が来ている。色鮮やかな花の咲き乱れる、一番好きな季節が訪れている。
今夜もきっと声は聞こえるのだろう。今からその声を楽しみに、跳ねるように駆け出した。
20260313 『ずっと隣で』
昔から、知りたいという欲は他の人よりも強かった。
知らないことを知る度、何でもできるような高揚感があった。それこそ世界を作ることすらできるような気がして、いつからか図書館に通い詰めることが日常になっていた。
その本を見つけたのは、ただの偶然だった。
普段は足を運ぶことのない、宗教学の本が並ぶ棚。背表紙を目で追いながら、ただぼんやりと歩いていた。
ふと、足が止まる。同じようなタイトルの並びに、明らかに異なるものが紛れ込んでいるのを見て、無意識に手が伸びていた。
重みのある古ぼけた本。黄ばんだ紙に手書きで書かれているのか、インクの滲む文字が並んでいる。
英語、だろうか。読めないアルファベットの文字に、途端に興味が掻き立てられた。
読書スペースまで戻る手間すら惜しみ、その場で本を開く。
無心で文字を追うものの、どのページも何と書いてあるのかは分からなかった。
眉を寄せ、肩を落とす。
文字が読めないことも悲しかったが、何より新しいことを知れなかったのが悔しかった。
例えば遠い国の伝統や風習。まだ見たことのない景色や知識など、尽きない好奇心が湧き上がり止まらない。文字を一撫でし、これが先日見た古城の話について書かれていたものだったのならと、想像してもう一度深く溜息を吐いた。
「――え?」
一瞬、文字が波打ったように見えた。
気のせいだったのだろうか。瞬きの間に文字は元に戻っており、指でこすってみても何も変わらない。
しかし何かが違う。
見た目には変わらない。では何が違うのかと、ページを捲りながら眉を寄せ考えた。
「――あれ?読める……」
もう一度最初から見直そうと、ページをめくった時だった。
ただの文字の羅列だったはずのページ。そこに書かれている内容が、すっと頭の中に入ってきた。
――城塞の成り立ちと役目。
文字が読めるようになった訳ではないのに、次々と内容がイメージとなって頭に浮かぶ。
恐怖はない。知りたいと思っていた本の内容が理解でき、そしてそれが気になっていた内容だったことから、この不可思議な現象に対して、高揚感すら感じていた。
ページを捲る手が速くなる。知りたい欲が膨れ上がり、だがその手はあるページで止まった。
文字が読めない。どうやら古城に関する話から離れて、別の内容が書かれているようだ。
何が書かれているのだろうか。読めない文字を追いながら、頭の片隅でふと別のことが思い浮かぶ。
この本は他の本と比べ、遥かに古いものだ。この本はどのようにして作られ、またどんな目的で書かれたのだろうか。
「――あ」
文字が揺らぐ。
読めなかったはずの文字の内容が、頭の中に入り込んでくる。
――我が断章の起こり。
流れ込んできたのは、とある誰かの記憶。
自身の持つ知識を少しでも多く残したいと、文字として書き記している。けれど伝えたいものは多すぎて、文字だけでは正確に伝えきることができない。
悩んで、誰かは決意する。文字として書き記しきれないのならば、いっそ自身が本となり、あるがままの知識を残そうと。
ぐらり、と視界が揺れる。記憶と共に膨大な知識が流れ込んできて、酷い目眩がした。
濁流のように中に入り込み、染み込んでいく。自分の中の知識と混ざり合い広がって、自分のものと本のものとの区別がつかなくなってくる。
「っ、いやだ……!」
気づけば、本を投げ出していた。どさり、という本にしては重い音。古い紙とインクの匂いが鼻をつく。
肩で息をして、数歩後ずさる。
今まで、知識が増えることに恐怖を抱いたことはなかった。それなのに、本から流れてきた知識が恐ろしくてたまらない。
これは良くないものだと、自分の中の何かが警鐘を鳴らしている。
「大丈夫ですか?」
さらに一歩下がった時、すぐ後ろから声がした。
「あぁ、驚かせてしまいましたか。すみません」
肩を大きく震わせ弾かれたように振り返る自分を見て、背後にいた誰かは気のない謝罪を口にする。
「だ、れ……?」
声を震わせ問うも、誰かは肩を竦めるだけで答える様子はない。
そのまま硬直する自分の横を通り過ぎて、投げ捨てた本を拾い上げた。
「踏み止まれてよかったですね」
高くもなく低くもない、特徴のない声が淡々と告げる。意味が分からず眉を寄せれば、感情の乗らない黒の眼がこちらを向いた。
声と同じく特徴のない顔。僅かに首を傾げ、浮かぶ疑問を見透かしたように口を開く。
「これを手放すのがあと少しでも遅かったら、そのまま喰われて新しい断章になってましたよ」
ひゅっと、息を呑み込んだ。
それは嘘でも、大げさな表現でもないのだろう。根拠はないが、確信はあった。
呆然としながら、視線は無意識に目の前の誰かから、その手にある本へと移る。瞬きすらも忘れて見つめていれば本の表紙が波打ち、苦悶に歪んだ人の顔を浮かばせた。
「えっ……?」
ほんの一瞬。瞬きと共に元の表紙に戻ってはいたが、その顔に見覚えがある気がした。
「あの、それ……」
「それでは失礼します……そろそろ閉館のようですし、気を付けて帰ってください」
だがそれ以上何かを言うのを拒むように誰かは一礼し、止める間もなく去っていく。
その姿が本棚の向こう側に消えて見えなくなり、そこで閉館時間を告げる音楽が流れていることに気づいた。
去っていった誰かを追って本棚の向こうを見るが、誰の姿もない。辺りを見回しても人の姿は見えず、困惑しながらも図書館を出るため歩き出した。
「夢……だった?」
家路につきながら考える。
思い返してみれば、夢だと思えるほどの出来事だった。
頭の中に入ってきた知識を何も覚えていないことも、さらに現実味を薄くしていた。
小さく息を吐く。
夢だとしてしまえば、数日もすれば忘れることができるのだろう。
けれども本当に忘れてしまってもいいのか。最後に一瞬だけ見えた本に浮かぶ人の顔を思い出す。
見覚えのある顔だ。こうして落ち着いて考えると、それが同じゼミの学生だったように思える。
自分と同じく、知識を得ることに対して貪欲だった男だ。得た知識を周りにひけらかすような、それでいて知識を得るための手間を惜しむような人物だった。
数日前から姿を見ていない。行方不明になっていると噂されていた。
「ただの白昼夢だ。現実なんかじゃない」
言い聞かせるように声に出す。浮かぶ可能性を必死に否定する。
人が本になることなどありえない。自分があの時もっと知りたいと本を求めていたとしたら同じ末路を辿っていたなど、考えたくもない。
どちらにしろ、もう二度とあの本には出合えない。
特徴のない声と顔。男か女かすら判別がつかなかった誰か。
すれ違ったとしても、きっと気づくことはできないだろう。
軽く頭を振り、足を速める。
知る必要のないことをいつまでも覚えていても意味がない。それよりももっと別の、まだ知らないことを知るために動くべきだ。
明日も図書館へ行こう。そのためにも今日は早めに休まなければ。
意識を切り替えれば、次第に今日のことが霞んでいく。
家に帰る頃にはただの夢として、薄れ消えてしまっていた。
20260312 『もっと知りたい』