二人は、双子でありながら何もかもが正反対だった。
控えめな姉と、活発な弟。何かを決めるのに姉は時間をかけて悩むのに対して、弟は直感的に選択をする。
性格も好みのものも違う。けれどやはり双子だからなのか、二人は一緒にいることが多かった。
「ほら、今日はあっちで遊ぶぞ」
「う、うん」
弟が姉の手を引いて遊びに行く。それが弟には当たり前であり、今まで疑問に思うことなど一度もなかった。
そんなある日。姉が珍しく風邪を引いた。数日寝込む程、重い風邪だった。
最初、弟は姉を心配して看病をしていた。けれど元々外で遊ぶことが好きな弟だ。次第に飽きて、外に出ようと思い立った。
「ちょっと、外に行ってくる」
「え?……うん。気をつけて」
綺麗な花を摘んで帰れば、姉も元気になるかもしれない。そんなことを考えながら、一人外へと飛び出した。
雲一つない快晴に、弟は上機嫌でお気に入りの野原へ向けて駆け出す。けれどその足は、黒い服を着た人々を視界に入れて立ち止まった。
悲しい顔をした人々。耳を澄ませば啜り泣く声に混じり、ひそひそと話す声が聞こえてくる。
――可哀そうに。まだ若かったのにねぇ。
――ただの風邪だったのに、一気に悪くなっちゃって。
――とても仲が良かったから心配よ。これから一人きりになって、大丈夫なのかしら。
ひたり。首筋を冷たい手で撫でられたような感覚がした。
咄嗟に振り返るも、そこには誰の姿もない。けれど首筋の冷たい感覚はなくならず、逆に首筋だけではなく全身を冷やしていく。
かたかたと、体が震え出した。気を抜けば今にも崩れてしまいそうで、弟はただ混乱する。
初めての感覚だった。体の震えも、込み上げてくる感情も、今まで一度も感じたことはない。
この、苦しくて痛い感情はなんだろうか。姉ならば知っているのだろうかと思った時、床に臥せる彼女の苦しげな顔を思い出す。
「あ、あぁ……」
呻くような声を上げ、弟は耐えきれずに駆け出した。当てもなく、胸を抉る冷たい感情から逃げ出すように無心に走り続けた。
そして辿り着いたのは、家のすぐ近くにある寂れた公園の中。
ふらふらとベンチに歩み寄り、座る。頭の中では姉の顔と先程聞いた話が消えず、息苦しくて堪らない。
もしも、姉の風邪が悪くなったとしたら。こうしている間にも症状が重くなり、そして最後には取り返しのつかないことになったとしたら。
次々と浮かぶ最悪に、弟は泣きそうに顔を歪ませ俯いた。
深く考えずに、姉を置いて外に出たこと。その選択を、初めて弟は後悔した。
「大丈夫だよ」
不意に声がした。
顔を上げる。目の前で微笑む姉の姿を見て、弟は息を呑んだ。
パジャマの上にカーディガンを羽織っただけの姿。汗だくの赤い顔。呼吸は浅く、ふらつく体は彼女の風邪が治った訳ではないことを伝えている。
「もう、大丈夫。怖いのも、嫌なのも全部、私がもらうから」
動けない弟の前で膝をつき、姉は彼の手を両手で包み込む。
その熱に、火傷してしまいそうだと弟は思った。けれど同時に、あれだけ胸の中で渦を巻いていた恐怖が消えていくのを感じた。
後悔したはずの選択もそれ程のことではなかったと思い始め、弟は咄嗟に姉の手を振りほどく。
「大丈夫だよ」
姉の言葉に必死で首を振る。
弟の頬を涙が伝い落ちた。今まで恐怖や後悔といった負の感情を感じなかった理由が、ようやく分かった。
「やめて……」
懇願する声は酷く震えている。
「俺の感情を奪わないで。後悔しないままいたら、全部失った時に前に進めなくなる」
姉を失った時に後悔したのでは遅すぎる。一人で立てる程自分は強くはないのだと、弟は姉の姿を前にして気づいた。
「奪う……」
振り解かれた手を見つめ、姉はゆっくりと目を瞬かせる。小さく首を傾げて弟を見つめると、眩しそうに目を細めた。
「もういいの?もらわなくても、ちゃんと眠れる?」
「え……」
姉が何を言っているのか、一瞬弟には分からなかった。
それはどういう意味なのか。そう問おうとした弟の脳裏を、幼い頃の記憶が過ぎていく。
それは思い出したことが奇跡のような、そんな些細な出来事だった。
昼間、姉と二人で食べるはずの菓子を、一人で食べてしまったこと。母に怒られ言い返して、そして夜になって急に不安が押し寄せてきた。
母に酷い言葉を吐いたことを後悔し、何より姉を悲しませたのではないかという後悔が、弟を眠れなくさせていた。母と姉に謝ってはいたものの、後悔が明日への不安となって、怖くて堪らなかった。
誰にも相談できず、一人布団の中で震えていた時、姉が布団の中に入り込んできたのだ。
――大丈夫。怖いのは全部、私がもらってあげるからね。
両手を包み込んで、額を合わせる。
優しい温もりに不安が解けて、怖さも後悔ですらも消えていったのを思い出した。
「――馬鹿。もう一人で眠れるに決まってるだろ。いつまでも小さな子供扱いするなよ」
文句を言いながら、弟は姉がしたようにその手を包み込んで額を合わせた。
記憶の中の仄かな温もりとは違う、痛みすら覚える程の熱。離れようとする手をしっかりと握り、目を合わせて弟は囁いた。
「今度は、俺がその苦しいのをもらってあげる。でも半分だけ。半分なら、そんなに後悔しないだろ?」
姉を良く知る弟は、そう言って笑う。
体のだるさや痛みを感じながら、それでもしっかりと姉を支え寄り添いながら、家へと帰っていった。
似ていない双子は、けれどふとした瞬間によく似ていることがある。
例えば、怪我をした時。片方が怪我をすると、もう片方も痛みに顔を顰める。
例えば、嬉しいことがあった時。その時浮かべる笑顔は同じだった。
二人はいつも一緒にいる。
お互いがお互いを支え合うように、今日も同じ笑顔を浮かべている。
20260515 『後悔』
「また、ここにいたんだ」
声がして、目を開けた。
逆さまの、彼の顔。寝ころんだ自分を覗き込んで笑う彼の髪を、風が揺らしている。
「なんだ。戻ってたんだ」
目を瞬き、呟いた。
思ったよりも素っ気ない声が出て、彼の笑顔にほんの少し苦さが混じる。
「冷たいなぁ……風が戻ってきてしまったんだから、仕方がないだろ」
そう言って体を起こし、空を仰ぐ。吹く風に目を細めて、彼はだからと言葉を続けた。
「もう少しここにいることにするよ。この風は旅に出れるような強さはないからさ」
見下ろす彼の目。
しばらくその不思議な色をした目を見つめて、小さく息を吐いた。
「そう」
やはり淡々とした声が出て、彼の視線から逃げるように目を閉じた。
「やっぱり冷たいなぁ」
笑う声。隣に座る気配がして、密かに強く手を握り締める。
期待をしてはいけない。そう何度も繰り返す。
彼が何かに縛られることはないのだ。
風に身をまかせ、ただ過ぎていく。そこでの出会いを楽しみ、けれど別れを惜しむことはしない。
次に強い風が吹いた時、彼は迷いなく風と共にここを去るのだろう。
ここから動けない自分とは違う。きっと彼という存在が風なのだ。
「なぁ」
呼びかける声がした。とても穏やかな声だった。
「なに」
それに返す声は酷く冷めている。彼の声とは正反対の、温もりのない声音。
「風を、捕まえておくことはできないよ」
柔らかな風が草葉を揺らし、髪や服を撫でて去っていく。
「知ってる」
思わず手を伸ばしかけ、止めた。
手を伸ばしても意味がないと、今では理解してしまっている。
「ただ待っていても、同じ風は二度と吹くことはないよ」
優しく、そして残酷に彼が告げる。
「――分かってる」
返す声が震える。気を抜けば今にも泣いてしまいそうだった。
息を吸う音。小さく肩が震え、身を強張らせる。
続く言葉を聞きたくはない。けれどそれを止める勇気もなかった。
「だから、さ」
言葉が途切れた。迷うことのない彼の初めての反応に、そっと薄目を開けて彼を見る。
泣いている顔。その横顔に涙は見えない。けれど唇を噛み締め何かを耐えているその表情は、泣いているように見えた。
彼は何故、そんな顔をするのだろう。見ているだけで胸が苦しくなり、堪らず目を開けて体を起こした。
彼を見る。彼もまたこちらを真っすぐに見て、震える唇をゆっくりと開いた。
けれど声は出なかった。俯いて、続けられない言葉の代わりのようにポーチから何かをゆっくりと取り出した。
「あ……」
それは色あせ、すっかりくたびれてしまった紙飛行機だった。小さい頃に風を捕まえることを諦めた代わりに、飛ばし続けた紙飛行機の内の一つ。
懐かしさに目を細めた。彼との出会いも、ちょうど紙飛行機を飛ばしていた最中のことだったと思い出す。
「同じ風は吹かない。風は自由で気まぐれだから、追いかけてくれないとすぐに遠くに行ってしまうよ」
まるで願うような声だと思った。昔のように追いかけるのを望んでいるような、そんな顔をしていた。
不意に風が吹き抜けた。彼の手にした紙飛行機が、風に乗って空高く舞い上がる。
無意識に立ち上がっていた。紙飛行機を追って、一歩足を踏み出す。
手を伸ばす。届かない程、高く上がった紙飛行機。それでも体が動いてしまう。
「風が吹いた時が、旅立つのにはちょうどいい」
伸ばした手を取られ、彼を見た。泣きながら笑う彼が、もう片方の手を伸ばし、いつの間にか降りてきていた紙飛行機を取る。
「どこにも行けないなんて、そんなことはない。一歩だけ前に進んだら、後は風に身をまかせてしまえばそれでいいんだ」
「風に……身を、まかせる……」
気まぐれな風に背を押され、一歩足が前に出る。そのまま彼に手を引かれ、歩いていく。
どこに行くのかは分からない。そもそもこの先に何があるかを、自分は知らなかった。
「この先には、何があるの?」
「さあ?でも行ってみれば分かるよ」
確かにそうだ。ぼんやりとそんなことを考えながら、彼に手を引かれ、風に背を押されてただ歩く。
ここから動けないと思っていた時には考えられない程、体が軽い。このまま風に身を委ねていれば、そのうち空すら飛べそうだ。
一際強い風が吹き、彼の手の中の紙飛行機が再び空を飛び始めた。まるで紙飛行機を追いかけているようで、思わず笑みが浮かぶ。
「最初に会った時、君は紙飛行機を飛ばしていたね。でもその前は虫取り網を持って風を追いかけていた」
「見てたの?」
「何をしているんだろうって、ずっと思ってた。でもまさか、虫のように風を捕まえようとしてたなんて思ってもなかったけど」
くすくすと彼は笑う。
「――ばか」
顔が熱い。
恥ずかしくて彼を睨みつける。けれどこちらを見た彼の目が、とても温かな色をしているのを見てそんな気持ちはすぐに萎んで消えて行ってしまった。
「風は捕まえるものじゃないよ。こうして受け入れるものだ」
風が背を押す。それに逆らわず、身を任せた。
「あれから何年も過ぎたけど、ようやく伝えられた」
嬉しそうな声に、彼がこうして戻って来た意味をようやく知った。
笑みが浮かぶ。ありがとうの言葉の代わりに、そっと繋いだ手を握った。
20260514 『風に身をまかせ』
友人からもらったクレマチスに水をやりながら、この一年で増えた花たちに視線を向ける。
植物を育てることを苦手としていたが、友人の花はまだ一つも枯れてはいない。それは自分が成長したからではなく、手助けをしてくれる存在が側にいるからなのだろう。
家の中。ソファでくつろぐ、白地に黒の斑点模様の入った猫へと視線を向ける。短い鍵尾を揺らし毛づくろいをしながらも、視線に気づいてこちらを一瞥する。
「――なにか?」
「えっと……何でもない、です」
そっと視線を逸らす。再び毛づくろいをし始める猫を視界の端で捉えながら、何故この猫はここにいるのだろうかとぼんやり考える。
元は友人の庭に住む猫だった。何度か庭を訪れるうち、気づけばこうして自分の家の中に住むようになってしまった。
如雨露を片付けて、室内に戻る。毛づくろいを終えて丸くなって眠る猫は、もうこちらを気にする様子はない。
それは嫌だとは感じなかった。猫と暮らし始め、確かに変化に慣れるのには少し時間が必要だった。けれど慣れてしまえば、嫌だと思うことは多くない。
それに猫と過ごす空間は息苦しさを感じなかった。
人とは違う。だからだろうかと、内心で首を傾げながら猫を見つめていた。
「また、どうでもいいことを考えていますね」
「え?」
呆れたような声。寝てしまったと思っていたが、どうやらまだ起きていたらしい。
「えっと……ごめんなさい?」
「謝罪の意味が理解できません。何故、謝る必要があるのですか」
何故だろうか。それを考えて、誰かに何かを言われた時に、いつも謝っていたことに気づく。
言われたことを理解するまでの間を、人は待ってくれない。聞いているのかと責め立てられることが多くて、段々と何かを言われた時にまず謝ることが癖になっていたようだ。
「癖……かな?」
「改善なさい。ここはあなたの縄張りなのだから、堂々としていればいいのです」
「縄張り……」
確かに、自分の家は縄張りと言えるのかもしれない。室内を見回して、小さく頷いた。
「それで、今度は何を考えていたのですか」
問われて、どう言えばいいかと考える。
その間、猫は答えを急かしたりしない。だから考えが逸れることなく、しっかりと言葉を返すことができる。
「一緒に過ごしていても、息苦しくならないのは何故なんだろうって考えてた。人ではないからかな、とか思ったりしたけど、それが正解かは分からなかった」
猫ならば分かるだろうか。
自分のことを自分でも分からないというのに、猫に分かるはずがない。そう思いながら、けれど猫ならば知っているかもしれないとも感じている。
「どうしてか、分かる?」
問いかければ猫は鍵尾を揺らして、ふんと鼻を鳴らした。
「簡単なことです。あなたの中に流れる時間が、猫に似ているからそう感じるのでしょう」
「猫の、時間?」
首を傾げて問えば、猫は大きく伸びをして起き上がった。
「そうです。一年、あなたを見てきて感じました。様々なことに興味を引かれ、気になることを考える。時にじっとしていることに苦痛を感じ、けれど別の時にはぼんやりと過ごすことを好んでいる……それは猫の時間です」
猫の時間。
心の中で繰り返す。なんとなくしっくりくる気がした。
「普通の人間と比べると、劣っているように見えるのかもしれません。様々に興味を引かれるからこそ、忘れるものも多い。今すべきこと、話すべきことから逸脱すれば、不興を買うこともある……人間は群れて忙しく動く生き物ですから、猫のように自由にとはいかず、結果それを劣っていると判断されることも多いのでしょう」
「――そっか」
何となく、今までの生きにくさが理解できたような気がした。
ふらふらとソファに近づき、猫の隣に座る。途端に膝の上に乗り喉を鳴らす猫に苦笑を漏らしながら、そっとその頭を撫でた。
「そっか」
「そうです。猫が人間の世界で生きるというのはとても大変なことなのです。なのでもっと自信を持ちなさい。そしてあなたの縄張りの中では、好きなだけ猫のように生きればいいのです」
自信を持つ。そんなこと考えたこともない。
今までは誰かの真似をして生きてきた。その方が自分で考えて行動するより、ずっと早くて簡単で、楽だった。けれどそれが原因で、怒られることもまた多かった。
猫の背を撫でながら、できるだろうかと少しだけ不安になる。でも猫が言うのだからと大丈夫だと、思ったよりも素直に受け入れられている。
「あなたは花を育てることは難しいのだと言った。ですが一年、花が散っても枯れることなく、また花を咲かせることができた」
「でもそれは、どうすればいいのか教えてくれたからだ」
「教えただけです。水の与え方。剪定の仕方。肥料の与え方や温度管理の方法……それを全て行ったのは、あなたなのです」
視線を外に向ける。青いクレマチスの花が、風に吹かれてゆらゆらと揺れている。
冬の間、白の花を咲かせていたクリスマスローズ。蕾をつけ始めたルドベキアやアネモネ。サルビアやキキョウもとても元気そうだ。
「来年も、花が咲くかな?」
「あなたが諦めない限りは、一年後も、十年後も咲くでしょうね」
「――来年も、一緒にいてくれる?」
ぽつりと呟けば、猫は顔を上げてこちらを見た。どこか呆れたように目を細め、鍵尾を揺らす。
「あなたが手放さない限りは……逆に、増えるかもしれません」
とても嫌そうだ。けれど増えたのなら、友人の庭のように賑やかになるだろうか。
たくさんの猫で賑わう友人の庭を思い出すと、自然と笑みが浮かぶ。きっと楽しくなるのだろう。
けれど、するりと膝から下りて窓際へと移動してしまった猫を見た。
自分には賑やかな毎日よりも、一人と一匹のゆっくりとした空間の方があっている。
そんなことを思いながら、いつものようにおやつにしようと猫を呼んだ。
20260513 『一年後』
久しぶりに戻って来た故郷は、どこか冷ややかな空気に包まれているように感じた。
小さく溜息を吐く。何年も帰ってはいないのだから当然だとは思いながらも、寂れ排他的になった故郷には落胆に似た感情を抱いてしまう。
戻らなかった方が良かっただろうか。それとも足繁く帰ってきていたのならば、こうして居心地の悪さを感じることもなかったのか。
どちらにしても今更なことを考えながら、角を曲がった時だった。
「――あれ?」
一瞬だけ、見知った小さな影が見えた気がした。
視線を向ける。神社へと続く石段の上。最後の数段を上る少女の後ろ姿を見た。
思わず息を呑む。学生時代の、密かに好きだった同級生と瓜二つだった。
彼女だろうかと思い、だがすぐに違うと内心で否定する。
あれから何年も経っている。おそらくは、彼女も立派な大人へと成長していることだろう。
ならばあの子は彼女の子供だろうか。痛む胸に気づかない振りをして、その場を後にした。
家について一息ついてから、何気なくその話を母にした。
「あぁ、あれは違うわよ」
どことなく冷たさを感じる響きの声で母は答えた。不思議に思い母に視線を向けると彼女はどこか悲しげに、それでいて恐れているかのような目をして、自分が家を出た後の話をしてくれた。
自分が見たあの子は、どうやら同級生の子供ではなく彼女本人らしい。何故か彼女は学生時代の姿のまま成長が止まってしまったのだという。
原因は不明。最初は何かと不憫に思っていた周りも、何年も変わらない彼女を気味悪がり次第に距離を置き始めるようになり、ああして人気のない所で過ごしているようだ。
「そんなことがあったんだ」
茶菓子に手を伸ばしながら、小さく呟いた。
彼女のことを思い、自然と眉が寄る。教室でいつも誰かと楽しそうに話している姿が脳裏を過ぎて、彼女は寂しがりだったはずだと思い出した。
せんべいを齧りながら、彼女が好きだった甘いお菓子をいくつか取る。ポケットに入れて、立ち上がった。
「ちょっと出てくる」
「そう?夕飯までには戻ってきなさいね」
母の言葉に適当に答えを返し、家を出た。
神社の石段を駆け上がる。
息を切らせ最後の段を上がり、神社を見回した。
「いない……」
彼女の姿が見えないことに密かに焦りに似た気持ちを感じながら、神社の奥へと足を踏みいれた。
とても静かだ。虫の声すら聞こえない。そのせいか、心臓の音がやけに大きく聞こえる気がした。
境内を外れ、昔子供たちの遊び場だった秘密の場所へと向かっていく。生い茂る木々から伸びる枝葉を潜り、草を踏みしめるとがさりと音が立った。
「――誰?」
懐かしい声がした。
「久しぶり」
そっと声をかける。
振り返る彼女は記憶の中と全く同じ姿で、けれどあの頃とは違い怯えた目をしてこちらを見つめていた。
思わず立ち止まる。他者を拒絶する小さな姿に、強く手を握り締めた。
「大人は嘘ばかり吐く」
「え……?」
ぼそりと吐き捨てれば、彼女の大きな目が困惑を浮かべて瞬いた。
それに何でもないと首を振り、一歩距離を縮める。
途端に、彼女はびくりと体を震わせた。けれどそれ以上に拒絶の反応はなく、もう一歩距離を詰める。
少しずつ、彼女の反応を見ながら近づいていく。そして時間をかけて彼女の側まで近寄り、腰を下ろした。
「覚えてないだろうけどさ、一緒のクラスだった」
彼女の方を見ずに、そう呟く。視界の端で彼女が目を瞬き、ほんの少し笑みを浮かべたのが見えた。
「覚えてる……すっかり大人になっちゃってたから、すぐには分からなかったけれど」
「そっか」
彼女の方を見て笑った。けれどまだ目は合わせない。代わりにポケットに手を入れチョコレートを取り出すと、静かに彼女へと差し出した。
細い指が、ゆっくりとチョコレートを取る。かさ、と包装紙が音を立て、甘い匂いが鼻腔を擽った。
「――おいしい」
「よかった」
それ以上は何も言わなかった。彼女も何も言わず、静けさが辺りを包んでいく。
どれだけそうしていただろう。空の青に朱が混じり始めた時、彼女は微かに声を漏らした。
「帰りたくないな」
泣くのを耐えたような声音。
それだけで十分だった。
「俺と来るか?」
そう言って彼女と目を合わせた。その目にはもう、恐怖の感情は見えなかった。
「――いいの?」
戸惑う彼女に、いいよと返す。一呼吸おいて、でも、と付け足した。
「俺と来たら、子供のままではいられなくなる。大人になってしまえば、元には戻らない」
「うん。分かってる」
微笑みを浮かべ、彼女は頷いた。
「もう、ここにはいたくない。ここで大人になるのが、ずっと恐ろしかった。外でなら、ようやく私は大人になれる」
「――分かった」
彼女の頬を涙が伝う。その滴を拭い、彼女の目を見て告げる。
「必要なものだけ持って、ここにおいで」
「必要なものなんて何もない。全部捨ててしまいたい」
俯く彼女の悲しみの深さに歯噛みしながら、何も言わずに立ち上がった。
神社へと戻り、足早に家へと向かう。石段を駆け下りながら両親への説明を考え、必要ないかと笑う。
適当に仕事があるとでも言えばいい。自分はもう大人なのだから、正直に話す必要はどこにもないだろう。
考えるべきことは、彼女とのこれからだ。勢いで彼女を連れ出すことになってしまったが、ちゃんと言葉にしなければいけない。
一緒に来るかと言ったのは、子供のままでいる彼女にただ同情した訳ではないのだから。
20260512 『子供のままで』
気づいた時には、すでに言葉は失われていた。
元から存在しなかったのかもしれない。永く形が定まらなかった自分には、言葉を介す相手などはいなかったのだから。
「――神様、どうか」
声が聞こえたのはいつだったか。
まだ幼さの残る声だった。山に向けて真剣に祈りを捧げていた。
「あの子が道に迷わず、向かうべき場所に辿り着くことができますように。新たな始まりの先では、少しでも長く人生を楽しむことができますように」
その手には小さな人形が握られている。幼い子供が喜ぶような、そんな可愛らしい人形だった。
「神様……」
失ったのか。
鎮魂の祈りの理由を察し、ざわと草花が微かに揺れた。
せめてもの手向けとして花を散らす。降り注ぐ花弁が、周囲を色鮮やかに染めていく。
不意に、祈りの言葉が止んだ。
顔を上げた幼さの抜けきらない子。ゆっくりと目を瞬いて、此方を見据え口を開く。
「――神様?」
その言葉一つで、自分の一部が形を持った。ひらりと翅を震わせ飛びながら、そっと差し出された指先に止まる。
「神様って、思っていたよりもずっと小さいのね」
泣き腫らした赤い目を細め、子は笑う。祈りの言葉を呟きながら、一筋熱い滴を溢した。
「あの子はずっと、笑ってくれていたの。最後に大好きだって伝えてくれたから、私はこれからも大好きだって歌うわ」
叫んでも届かない所にいくのだろうけれど、気まぐれな風が歌を運んでくれることもあるから。
喪に服しても前を見続ける、そんな強い目をして子は歌っていた。
それから、子は毎日のように自分の元へと足を運び続けた。
「神様、見て。育てた花が咲いたの。あの子が好きだった花よ」
差し出された花に止まる。言葉の代わりに翅をゆっくりと震わせれば、ふふと笑い声が漏れた。
その目はもう赤く腫れてはいない。けれどその理由は、決して忘れたからではないことを知っている。
「神様。あの子の道案内をしてくれてありがとう。次の生は迷わないといいのだけれど」
ある魂の道案内をした時の光景を夢で見せた。それは祈り続けていた子の側を離れようとしなかった、とても小さな魂だった。
「本当にありがとう。大好きよ、神様」
柔らかな旋律が響く。慈しみに満ちた優しい歌。
夢を見せた翌日から、子は祈りの言葉ではなく愛を歌っている。
旅立った魂に向けて。そして自分に向けて歌われるそれを聞くのが密かな楽しみだった。
穏やかに季節はいくつか過ぎて、子はゆっくりと大人になっていく。
以前のように足繫くここへ通うことはなくなってしまったが、歌は絶えることなく響いていた。
健やかでいるらしい。そんなことを思いつつ、自分の中の変わっていく部分をただ眺めていた。
形を持った自分の一部と、よく似た姿をした命の芽生え。黒い翅を持った蝶。魂にも似ているそれらは、ここから離れられない自分の代わりに麓で魂を導いてくれている。
一人の祈りが、歌が自分を変えていく。けれどそれは悪い感覚ではなかった。
歌が聞こえる。
想われることを嬉しく思いながら、言葉を返せないことを少し惜しく思う。今までは必要とせず、存在の有無すら気に留めなかったそれ。
ないものを求めるなど、まるで人間のようだ。笑う代わりに草木を震わせ、音を立てた。
またいくつか季節が過ぎた。
子の訪れは久しく途絶え、絶えず聞こえていたはずの歌もここ数日聞こえない。
人間にとっては、それほど長く時が経ったということだ。その差異が自分の中に黒い染みのようなものをぽたりと落としていく。
ひらり、と自分ではない黒い蝶が過ぎていく。
終わりが近いことを理解して、言葉の代わりに葉を揺らした。
微かに、途切れ途切れに歌が聞こえた。
きっとこれが最後だろう。掠れた声の中に、変わらない想いを感じて聞き入った。
やがて歌が止まった。旋律の代わりに小さく吐息を溢し、消えていく。
木を、地面を、自分の全てを震わせた。もうすぐここを訪れ去っていく、愛しい魂を想い音を立てる。
――神様。
懐かしい声が聞こえた気がした。
ぴたりと音が止む。黒い蝶に連れられて、一つの魂が近づいてくる。
声は聞こえない。何故か静寂を痛いと感じ、音を立てずにそっと葉を震わせた。
言葉があれば。
幾度となく思ったこと。何も言わず、このまま別れを迎えるのは苦しい。人間のような感情に戸惑い、けれど止められない願いに耐えられず。
そっと、目を閉じた。
「――ぁ」
不思議な感覚に、閉じた瞼を開けた。
先程よりも、黒い蝶たちとの距離が近い。呆然と視線を下ろし、あぁ、と掠れた声が漏れた。
小さな子供の体。人間の形をとった自分がいた。
顔を上げる。案内をしてくれた黒い蝶が去り、二人きり。
何も言わず見つめていれば、魂は落ち着きなく翅を震わせる。そこで何も言わずにいたことに気づき口を開くが、あれほど望んでいた言葉は出てこなかった。
「――っ」
言葉が何も浮かばない。
話したいことはたくさんあった。今までの感謝を、そして別れを告げたかった。
けれど今、こうして向き合っていると、どの言葉も口から溢れてくることはない。この場ではどんな言葉も相応しくない気がした。
代わりに、あの日のように花弁を散らす。色鮮やかに地面を染めて降る花を浴びて、魂が小さく笑ったように見えた。
無言のまま、深く頭を下げる。今までの思いを込めて、丁寧に。
そして頭を上げて、手を差し出した。
ひらり、と飛ぶ魂が指に止まる。目を細めて見つめ、ゆっくりと歩き出した。
ざわざわと草葉が揺れる。その音を聞きながら、まるで愛を叫んでいるようだと密かに笑った。
言葉がなくてもこうして答えていたことを、今更ながらに思い出す。
ただのないものねだりをしていただけだったようだ。
そんなことを考えながら魂を伴い、ゆっくりと歩いていく。
次の旅路も幸せであれと、言葉にはせずただ願った。
20260511 『愛を叫ぶ。』