遠く聞こえる声に、眉を顰めた。
山の麓では、今日もまた人間たちが争い続けている。
――山を崩すなど、罰当たりめ。
――山神様の祟りに遭うぞ。
古くからこの山と共に生きた者らが、怒りに任せて声を上げる。
――だから、山神なんていないって言ってるだろうが。
――今時、祟りなんて時代遅れの考え方。誰も信じちゃいないよ。
山を出た子らが、親を嗜める。
交わらない二つが言い争うのは、聞いていて気分が滅入った。
目を閉じ、嘆息する。
聞きたくないのであれば、声から遠ざかればいい。しかしこの山にいる限りは、どこへ行ったとしても声は聞こえることだろう。
いっそ争いを止めてしまえば、また以前のような平穏が訪れるのかもしれない。一瞬過ぎた考えに、できるはずがないと苦く思う。
争い自体を止めるのは簡単だ。だがそれはつまり、どちらか一方を肯定することを意味している。
古いしきたりに従って山を守るか。それとも、人間が生きるためにしきたりを捨てて、山を崩すか。
どちらも正しく、どちらも間違いである想い。
正反対でありながら根底は同じそれの一方を肯定することなど、できるはずがなかった。
「悩んでいるね、神様」
囁く声がして、目を開けた。
見上げれば、楡の枝に座る子供の姿。楽しげに足を揺らしてこちらを見ていた。
「神様にとって、山を崩すことは悪いことではないの?」
首を傾げる子供に、同じように首を傾げる。
何故山を崩すか否かが善悪に繋がるのか、理解できなかった。
「神様は山なのだから、自分の一部を切られたり崩されたりするのは嫌でしょう?」
「嫌だと、悪になるのか?」
問い返せば、子供は不思議そうに目を瞬いた。
顔を上げ、遠くを見つめる。その目は聞こえる争いを悲しむようにも、この先の山の行く末を憂いているようにも見えた。
「お前は善悪を何で測っている?」
ふと興味が湧き、問いかける。
問われた子供は、暫し悩むように視線を彷徨わせこちらを見つめた。
「納得できるか、できないか……かな。あとは、母さんに教えてもらったこと、とか」
答えたものの、自信はないようで眉を寄せている。
「神様は善悪を何で測るの?」
「善悪とは人間の概念だ。我らには存在しない」
己のような存在は、ただその場に在るだけだ。善でも悪でもなく、形すらもなかったモノ。
その在り方の善悪を定めるのは人間だった。
理解できてはいないのだろう。子供はさらに眉を寄せ、俯きながら何かを考え込んでいた。
やがて顔を上げた子供は、麓の村のある方へと視線を向けた。
争う声はまだ続いている。
「僕たちは……悪いこと、だったのかな」
ざわりと、楡が葉を揺らした。
気づけば周囲には子供たちが集まり、静かにこちらの様子を伺っている。
「大人たちは善いことだって、誇らしいことだって言ってたけど、本当は……」
呟く声音は、酷く淡々としている。その表情も何の色も浮かんではいない。
「皆は、どこまで信じていたんだろう。村を救うため。神様のため……僕はそれを信じてたけど、母さんは本当に信じてたのかな」
ざわざわと楡が震えている。子供たちが身を寄せ合い、どこか怯えた表情をして枝に座る子供を見つめていた。
恐れているのだろう。ここにいる子供たちは皆、信じていたのだから。
自身が選ばれたことが誇らしいと、最後まで周囲の言葉を疑いもせずにいた純粋な子らだ。それが崩れてしまうことは、耐えられないのかもしれない。
「人間は変わる」
枝に座る子供を見上げ、告げた。
真っすぐで、どこか虚ろな目が向けられる。言葉の真意を測りかねているような静かな姿。
いつの間にか大人びてしまった悲しい子供に、そっと手を伸ばした。
「お前たちの親は信じた。手を離すことに苦悩し、それでも村のためと決断した。その意志は善でも悪でもない。だが……」
枝から降りる子供を抱き留め地に下ろしながら、麓を一瞥する。
今は膠着しているが、いずれは山を切り開くことになるのだろう。その時の子供たちの行く末を思い、微かに胸が痛むのを感じた。
「お前たちはいずれ、山を切り開く者によって見つけられるのだろう。その時、かつてを知らぬ者たちはお前たちを見て、悪だと断ずるのだろうな」
あぁ、と周囲から声が漏れた。
啜り泣く声。それを慰める囁き。それは信じていたことが崩された故の悲しみではない。
信じたことを、何も知らぬ者が声高に悪と断じることの哀れみだった。
「――仕方ないことだ」
誰かが言う。それに誰もが頷いた。
「何も知らないのだから、仕方ない。でも、知ろうとしてくれる誰かがいてくれることを願うよ」
静かな声だった。
無垢だった皆は、子供でありながら聡明な大人となっていたようだ。
「山がなくなったら、神様はどうなるの?」
問われ、楡を見上げた。
始まりを覚えていない。ならば考えた所で終わりなど分かるはずもなかった。
「どうなるのだろうな。消えるか、その場に在り続けるか……人間が山を覚えている限りは己はここに在るのだろうが」
その前に今の形を失うのだろうか。最初と同じように形なく漂うのかもしれない。
「じゃあ、最後まで一緒にいてね。皆は神様のためにここにいるんだから」
誰かの言葉に、歓声が上がる。楡が震え、柔らかく葉を揺らした。
目を瞬く。子供たちを見つめ、微笑んだ。
「そうだな。共にいよう」
差し出される手を取る。はしゃぐ子供たちに囲まれながら、そっと耳を澄ませる。
争う声は聞こえない。どちらかに傾いたようだ。
空を仰ぐ。変わることのない青に目を細めた。
どのような先であれ、山も子供たちもここに在り続けることに変わりはない。
それを幸せだと、誰かが笑った。
誰もがそうだと笑っていた。
見下ろす海はきらきらと煌めいて、とても美しかった。
そっと膝をつき、手を浸す。煌めく光を掬おうとしても、手を擦り抜けるばかりで何一つ掴めなかった。
小さく息を吐く。手を引いて座り、今度は両足を海に浸した。
金属のように、澄んだ高い音が聞こえる。いつもは聞き入るその囁きを、今夜は何故か楽しめなかった。
視界に広がる、どこまでも広大な星の海。
胸元を飾る、煌めきを失った星屑にそっと触れる。悲しくはないはずなのに無性に泣きたくて、きつく目を閉じた。
どれくらいそうしていただろう。
ふと、羽ばたく音が聞こえた。目を開け視線を落とすと、星の海の底から何かがこちらに近づいてくるのが見えた。
息を呑む。ものすごい速さで近づくそれは、ばさりと大きな翼を羽ばたかせ、海から飛び出した。
星のように煌めく大きな銀の翼。同じ年ごろに見える少女は、器用に宙で止まったまま、辺りをぐるりと見渡した。
「あ。こんばんは」
その目と視線が合い、少女は丁寧にお辞儀をする。慌てて同じように会釈をすれば、少女は途端に破顔して、音もなく隣に降り立った。
「休憩ですか?お仕事ご苦労様です」
「あ、ありがとう、ございます……?」
随分と不思議な空気を纏った少女だった。にこにこと笑顔でその場に座り、興味深げに海を覗いている。
手を差し入れて、星を掬う。自分がした時は擦り抜けるばかりだった星。それが簡単に掬えたことに驚き息を呑めば、少女はこちらに視線を向けて掬い上げた星を放り投げた。
「流れ星に願いを言うと叶うって、知ってますか?」
首を傾げる。聞いたことがあった気もするが、それはここに来る前の話だろう。
星よりも高い所にあるこの場所では、流れ星を見るには海を覗き込まなければならない。ずっと誰かのために星の欠片を箱に収めてリボンをかけていただけの自分には、今までそんな余裕はなかった。
「本当に願いが叶うの?」
無意識に溢れた言葉に、今度は少女が首を傾げた。少し悩む素振りをみせて、口を開く。
「お呪いのようなものなので、必ず叶う訳ではないです。それに正しくは、『流れ星が消える前までに願いを三回言えば叶う』なので、結構難易度が高いんですよね」
「流れ星が……消えるまで……」
そっと足元の海に視線を向ける。一瞬だけ星が流れ消えていくのが見えて、この短さで願い事を三回言うことの難しさに苦笑した。
「お姉さんは、叶えたい願いはありますか?」
熱心に見ていたからだろうか。少女に問われ、思わず胸元の星屑に触れた。
大切な誰かから貰ったペンダント。でもその誰かを忘れてしまった。
思い出したいと願ってしまうのは、ただの我儘だろうか。
「お姉さんは真面目なんですね。少しくらいは自分を一番に考えてもいいと思いますよ」
触れている星屑を指さし、少女は言う。
「そもそも、生まれ落ちる命のために色々な感情や思いを宿した星の欠片を箱に詰めて送ってきたお姉さんが、自分の想いを制限されるのは不公平だと思うんです。こんなにたくさんある星の欠片の一つくらい、誰かのためじゃなくて自分のために使ってもいいじゃないですか」
星よりも煌めく瞳をして、不敵に笑う。指さす手が伸びて、腕を掴まれた。
だから、と少女に腕を引かれ立ち上がる。
ばさり、と大きく広がる銀の翼。羽ばたけば、少女と共に体が宙に浮いた。
「お姉さんは少し悪い子になっちゃいましょう……知ってますか?流れる星は、願いを聞くんですよ。それで叶えてもいいかなって思ったら、ほんの少し願いを叶えるお手伝いをする」
空を飛んでいる。不安で少女にしがみつけば、大丈夫だというように背を撫でられた。
それだけで、不思議と心が穏やかになっていく。視線を巡らせ、足元の海を見下ろした。
「さて、行きますか。星がお姉さんとお兄さんの願いを叶えるため、流れていきますよ。しっかり掴まっててくださいね」
その言葉が終わらない内に、少女と共に海の中へと飛び込んだ。
瞬く星の光で目が眩む。咄嗟に目を閉じれば、四方から聞こえる澄んだ音が音楽を奏でているかのように重なり響いた。
風が頬を打つ。それだけ速く飛んでいるのだろう。
流れ星のように。
「ほら、見えてきましたよ」
風に掻き消されることのない、はっきりとした少女の声がして目を開けた。
視界に広がる、星とは違う煌めくもの。忘れかけていた記憶が、それは海だと告げている。
風に海が混じり出す。どこか湿り気を帯びた、鼻腔を刺激する香り。どこか懐かしく感じられるのは、記憶の欠片がここで生まれ育ったことを示しているからなのだろうか。
「綺麗……」
目を細め、呟いた。その声に少女は嬉しそうに笑い、海の端へと指を差す。
まだ遠いそこに、誰かがいる。砂浜に立つその影を見た瞬間、胸が苦しくなった。
「お姉さん、もう少し我慢しましょう?泣くのはお兄さんの所に行ってから、ね」
優しい声に、滲み出す視界を拭い影を見続けた。瞬きの間に近づいて、影がこちらに気づいて視線を向けた。
「――っ」
少しだけ驚いたような表情。目が合った瞬間、必死に堪えていたものが溢れ出した。
滲む視界で、彼が腕を広げているのが見える。それに答えようと身じろげば、少女は軽く背に手を当て、掴んでいた手を離した。
「星が願いを叶えられるのはここまで。行ってらっしゃい、お姉さん」
「っ、ありがとう!」
泣きながら少女に礼を言って、そのまま彼の腕の中へと落ちていく。抱きしめられる温もりに、忘れてしまったものが戻ってくるのを感じた。
誰よりも愛しい彼。想いを告げるために、禁を犯して星の欠片を渡してくれた。
ようやく思い出すことができた。
「会いたかった」
「俺もだ」
止められなくなってしまった涙を拭い、彼は優しく囁く。
「流れ星に願いを託すと叶えられるというのは本当だったようだ」
そう言って、彼は上を見上げた。その視線を追って顔を上げ、無数の星々の煌めきに息を呑んだ。
星が流れていく。あの澄んだ音は聞こえない。遠く、高く、腕を伸ばしても届かない。
空は遠いものだと、今更ながらに思い出した。
「戻りたいか?」
そう問われ、彼を見つめ無言で首を振る。この手を離すことは自分にはできなかった。
彼の胸に凭れ、ふと胸元に仄かな熱を感じた。視線を落とすと、星屑が光を宿しているのに気づく。
赤い色。その煌めきは、愛しい想いの色だと知っている。
そっと欠片に触れる。その手を彼の大きな手が包み込む。
彼と目を合わせ、微笑んだ。
「愛している」
甘い囁き。頬が熱を持ち、思わず俯きそうになるのを耐えて、言葉を返す。
「私も、愛してる」
貰った時には恥ずかしくて言えなかった言葉。
ようやく言えた。恥ずかしさよりも嬉しさが勝り、また一筋涙が溢れ落ちた。
目を閉じる。額に触れる熱を感じながら、流れた星に向け、ありがとうと呟いた。
20260425 『流れ星に願いを』
しゃん、と響く鈴の音。
足を踏み出す。頭を垂れる。
暗い広間には、自分以外に誰の姿もない。笛や太鼓の音もなく、自分の中の記憶だけを頼りに決められた動きを繰り返す。
「こんな夜更けまで練習ご苦労様。でもいい子は寝る時間だよ」
呆れた声と共に、部屋に明かりが灯される。
急な眩しさに目を細め、動きを止める。何度か瞬いて、部屋の入り口でこちらを見つめる彼女に視線を向けた。
「夜更かしなんて悪いことしてないで、さっさと寝なさい」
「もうちょっとだけ……」
「駄目。ルールはちゃんと守らないと。それに明日も早いんだからね」
そう言われてしまえば、これ以上反論することなどできない。鈴を片付けながら、小さく溜息を吐いた。
この村には、いくつか決まり事がある。
一つ一つはとても些細なことだ。夜更かしをしない、朝晩の食事は家族そろって食べるなど、子供に教えるような簡単なもの。
村の決まり事だと、誰かに言われたわけでもない。文字に記されているでもない形のないそれらは、けれど村の誰もが自然と受け入れ守ってきている。
「本当に真面目なんだから。お祭りまで、まだ時間があるでしょう?」
「そうだけど……でも何だか落ち着かなくて」
俯きがちにそう零せば、彼女はまた呆れたように真面目だと呟いた。
明かりが消され、部屋が暗くなる。ぼんやり浮かぶ彼女の影を追って、部屋を出た。
「今から気負っても仕方がないでしょうに……どうせ、神様なんていないんだから」
迷いのない声音。彼女が当然のことのように神様はいないと告げる度、心の底に黒く固いものが沈んでいくような気がして苦しくなる。
「一度壊れたものは、元には戻らない。外側だけ同じように直しても、完全に同じにはならない」
歌うように彼女は囁く。彼女と出会ってから何度も聞かされていたことだ。
遠い昔、ここに暮らす人たちには決まり事など一つもなく、自由だった。
だから間違った。自由を振りかざし、越えてはいけない境界を踏みにじってしまった。
祭事を否定し、社を壊してしまったのだという。村の全ての人がそうではなかったのだろうけれど、社を失った神様は村からいなくなってしまったらしい。
神様がいなくなって、しばらくは村に変わりはなかった。
一年過ぎ、二年過ぎて。
そして三年目。
その年は、雨が降らない日が続いたという。
田畑は枯れて、人々は食べるものがなくなった。飢えによる苦しみの捌け口を求め、最後には社を壊した人が犠牲になったらしい。
酷い有様だったと彼女は言った。まるで直接見てきたかのように、当時のことを詳細に記した書物を読み聞かせながら、彼女は何度も教えてくれた。
「自業自得と言ってしまえばそれまでだけど。彼らを止めようとしなかったのに、率先して責め立てるのは滑稽で、とても哀れだね」
自業自得といいながら、滑稽だといいながら、彼女は少しだけ悲しそうに笑う。
その笑顔を見る度苦しくて、自分にできることをずっと探し続けてきた。
「神様」
「だから何度も言ってるけど、私は神様なんかじゃないよ」
無意識に溢れた言葉を、彼女は否定する。
「何度言っても直らないね。夜更かしをする。間違った認識を改めようとしない……あと何個、ルールを破るのかな」
「ごめんなさい」
溜息を吐く彼女の背に謝りながらも、内心ではきっとこのまま自分は変わらないのだろうと思っている。
このまま一人だけ決まり事を破り続け、きっと最後には彼女のようになるのだろう。
彼女は神様ではない。それを理解している。
何度も読み聞かせてくれた書物の字は、彼女の筆跡と同じだった。
不意に彼女が立ち止まる。
気づけば、自分の部屋の前まで来ていた。
「ほら、早くお休み。よく寝て、ご飯を食べて、勉強も頑張るんだよ」
部屋の戸を開けて、軽く背を押される。大人しく部屋に入ると、いい子と褒めるように頭を撫でられた。
「折角ルールを作ってあげたんだから、ちゃんと守りなさい。こちら側に近づきすぎて境界を越えたら、戻れなくなってしまうのだから」
「分かってる……おやすみなさい」
微かな声であいさつをして、彼女に背を向けた。
ぱたん、と戸が閉まる音。それきり何も聞こえなくなる。
小さく息を吐いてベッドに歩み寄り、そのまま倒れ込んだ。昨日焚いた香の匂いが残っているようで、息を吸い込むと澄んだ香りが体の内側に染み込んでいく感じがした。
途端に眠気が襲い、大人しく目を閉じる。微睡みの中で、彼女の言葉を思い出す。
――境界を越えないように、ルールを守りなさい。
人として生きるための基本的な決まり事。守る限りは、人として生きられる。
昔、父に聞いたことがある。社が壊された時、祖先は神楽を舞い続けた。
直した社の中で、寝食を惜しんで何日も。去ってしまった神様のために奉納した。
神様が戻ってきたのかは、父は教えてくれなかった。父にも分からないのだろう。
きっと、境界を越えてしまった彼女だけが、全てを知っている。
意識が沈む。現実が遠くなり、夢の中で笛と太鼓が響き出す。
手には扇。体の一部のように望むままに動かし、音に合わせて舞い始める。
彼女は悲しむだろうか。ふとそんなことを思う。
けれどもう引き返せない。いつか境界を越えてしまうことを、きっと自分は彼女に出会う前から理解していた。
くるりと扇が舞う。いなくなってしまった神様へ、祈りを捧げ舞い続ける。
人々が苦しむ時、縋れるものになれるように。感情の捌け口を、二度と誰かに向けさせないように。
優しい彼女と同じ場所に立つため、夢現に神楽を奉納する。
20260424 『ルール』
しとしとと、雨が降っている。
「まただ……」
空を見上げ、息を吐いた。足早に部屋を出て、玄関に向かう。
外に出た瞬間、鼻腔を掠める雨の匂い。部屋で見た時よりも強さを増した雨に、眉を寄せながら傘を差す。
「急がないと」
呟いて、雨の降る道を駆け出した。
ぱたぱた。雨が傘を打つ。
ぱしゃん。急ぐ足が、地面に溜まる水を跳ね上げた。
足元が濡れることなど気にならない。それよりも少しでも早く、彼女の所へ行きたかった。
何故ならば、この雨は泣かない彼女の涙なのだから。
「いらっしゃい。今日はどうしたの?」
ふわり、といつものように彼女は微笑む。
その頬に涙の跡はない。けれどよく見ると、彼女の笑顔の奥にほんの僅かに悲しみが隠れているのが感じられた。
「何となく会いたかったから」
へにゃりと笑って誤魔化した。
どこか不思議そうな顔をしながらも、彼女は何も聞くことなく部屋に招き入れてくれた。
「いつの間にか、雨が降っていたのね。気づかなかった」
「そう?あまり強くない雨だからかな」
「あなたはいつも雨の日に来てくれるのね」
くすくす笑いながら、彼女は部屋を出ていく。
しばらくして、彼女は手にティーセットを乗せたトレーを持って戻ってきた。
香る紅茶とレモン。角砂糖は二つ。目の前に置かれたティーカップを、そっと両手で包み込んだ。
伝わる熱は、きっと彼女の優しさだ。カップに口を付けながら、こっそりと窓の外を見る。
雨は止んだようだが、まだ曇り空。彼女の心模様は晴れてはいないようだ。
「おいしい」
「よかった……いつも、ありがとう」
微笑む彼女に、首を傾げた。礼を言われる理由が思いつかなかった。
「寂しかったり、悲しかったりすると、いつもあなたが来てくれるから」
「寂しくて、悲しかったの?」
「少しだけね……この家は、私には広いから」
そう言って、彼女は目を伏せた。
悲しげな表情。それでも彼女は、泣くことをしない。
外ではまた、雨が降り出している。彼女の代わりに空が泣いている。
カップを置いて、そっと彼女の手を包み込んだ。
温められた手の熱が、彼女の冷えた手へと移っていく。驚いたように顔を上げた彼女と目を合わせ、笑ってみせた。
「寂しいなら、連絡してよ。すぐに飛んでくるからさ」
彼女の悲しみは、自分では埋めてあげることはできない。泣かせてあげることだってできはしない。
けれど隣にいることくらいはできると、そう思いを込めて彼女を見つめた。
ふふ、と彼女は笑う。
そこに悲しい感情はない。嬉しそうな、とても楽しそうな顔をして、優しく頭を撫でてくれた。
「呼ぶ前にいつも来てくれるのはあなたの方じゃない……本当は、会いたいなって連絡しようかと悩んでいた所だったの」
「そっか……じゃあ呼ばれるまで、家の外で待っていればよかった」
「そこまで来たなら、待つ必要なんてないでしょ」
呆れたように、彼女は溜息を吐いた。
確かにそうだ。連絡をして数秒後にインターフォンが鳴ったら、驚くどころの話ではない。
少しだけ恥ずかしくなって、彼女から目を逸らす。誤魔化すようにカップに手を伸ばし、レモンティーの香りを吸い込んだ。
ふわりと立ち上る湯気の向こう側。窓の外で様子を伺う雨が、静かに離れて雲に帰っていく。雲の切れ間から光が差し込んで、僅かに青を覗かせている。
「雨、上がったみたいね」
「そうみたい」
レモンティーを飲みながら、横目で彼女を見る。同じようにカップを手に窓の外を見る彼女は、眩しそうに目を細めていた。
「ただの偶然なんだろうけど」
穏やかな声音。空へと視線を向ける彼女の表情も穏やかだ。
「私の代わりに、空が泣いてくれている気がするの」
気のせいだけどと繰り返す彼女に、気のせいなんかじゃないよと心の中で答えた。
彼女は知らない。彼女の優しさに救われているモノがたくさんいることを。どれだけ周りに愛され、心配されているのかを。
彼らの姿を見ることができない彼女は、きっとこれからも気づくことはない。
思わず、口元が緩んだ。
「笑わないでよ。自分でも都合が良過ぎるなって思ってるんだから」
笑われていると勘違いした彼女が、頬を赤くしながら拗ねたように呟いた。
ざわりと窓の外で、風が渦を巻いた。彼女に過保護ないくつもの冷たい視線を浴びて、浮かべた笑みに苦さが混じる。
「案外、本当なのかもしれないよ」
「別に話を合わせてくれなくてもいいんだけど」
「そんなつもりはないんだけどなぁ」
呟いて、レモンティーを飲む。
角砂糖二つ分の甘さ。それはどこか彼女の優しさに似ている気がした。
「空が泣いていると会いたくなるから。会いたくて、じっとしていられなくなる……だから、これからも雨が降ったら会いにくるよ」
「そっか……ありがとう」
柔らかな微笑み。一瞬だけ泣きそうに見えたのは、それこそ気のせいなのかもしれない。
お互い何も言わず、部屋を静寂が満たしていく。
嫌な感じはしない。レモンティーの香りと混じり合って、気持ちを穏やかにさせてくれる。
飲み終わったカップを手にしたまま、窓の外を見た。
雲が薄れ、晴れ間が覗いている。雲を透かした陽の光は、とても綺麗だった。
彼女の今日の心模様は、雨のち晴れ。
できればずっと晴れでいてほしい。皆、そう思っている。
20260423 『今日の心模様』
「あいつが、虫だ」
それは正しくはなかった。けれども誰一人、それを疑いはしなかった。
虫。穢れや厄を振り撒く悪いもの。
この村では年に一度、虫を追い出す祭りを行っている。
それは紙や藁で作った人形を村外れの川に流すもので、実際に人を追い出すことはない。
それなのに何故、あの時彼女を虫だと決めたのか。何度も繰り返す後悔は、今はただの意味のないものだ。
あの頃。村では原因不明の病気が広がっていた。
薬を飲んでも下がることのない熱。静かに村中に広がって、学校内でも皆不安に表情を曇らせていた。
「――きっとこの村に、虫がいるんだ」
誰かが言った一言が切っ掛けだった。
「虫を追い出せば、きっと病気はよくなるはず」
今まで祭りをただの行事として信じていなかったはずなのに、クラスメイトの誰もが信じていた。
「虫を探さないと」
その一言で、互いが互いを疑い始めた。
ただでさえ皆家族が熱で苦しんでいるのを見ており、そしてそれは自身にも感染するかもしれない不安を抱えていたのだ。不安は一瞬で虫という犠牲者を探す執念に変わり、クラスには疑いや怒りの言葉が響き渡った。
恐ろしかった。どうにかして止めたくて、その方法を求めてクラスを見渡した時、彼女を見てしまった。
クラスメイトと言い争うこともなく、教室の隅で悲しげな表情をしていた彼女。その様はクラスの中であからさまに浮いていた。
気づけば、彼女を指さしていた。
「あいつが、虫だ」
それは正しくはなかった。けれども誰一人、それを疑いはしなかった。
彼女も、何も言わなかった。
そして祭りを真似て、彼女を村の外れまで連れて行った。
彼女の背を押し、川を渡らせる。川を渡り切った後も、その姿が見えなくなるまで誰一人動こうとはしなかった。
「虫は、いなくなった」
誰かがそう呟いたのを覚えている。
彼女は虫ではないと、否定する言葉は一つも聞こえなかった。
次の日。彼女は学校に来なかった。
一週間経って、街から届いた薬が病気を治してくれた。
半月経って、村は元の日常を取り戻した。
けれど。
一か月以上経っても、彼女がクラスに戻ることはなかった。
何故、彼女を虫だと決めたのか。それはきっと感情のはけ口を誰もが求めていたからだ。
不安を吐き出し、見える形で安心を得たかった。たとえ間違いだったとしても、そうしなければ皆耐えきれなかった。
でも間違いだったと踏みとどまることができたのならば、きっと今も彼女は隣にいてくれた。
彼女へのプレゼントとして密かに作った押し花の栞が、今も手元に残っていることはなかったはずだった。
後悔している。彼女を虫だと追い立てたことも、春先の冷たい川を渡らせたことも、姿が見えなくなった時点ですぐに迎えに行かなかったことも。
あれからそろそろ一年が経つ。
彼女はまだ、戻ってこない。
「兄さん、ただいま」
笑顔で戻ってきた妹の姿に、境内の掃除をしていた兄は眉を顰め歩み寄った。
彼女が村を離れて一年が経つ。社の巫女として村の穢れを引き受け、流すためだとは理解してはいたが、それでも連絡一つしなかったことはそう簡単に許せるものではない。
「遅い」
「痛っ!?」
べちりと、呑気に笑う妹の頭を叩く。痛みに頭を押さえ、不貞腐れたように頬を膨らませて妹は兄を見上げた。
「遅いって……だって、村中の病だよ!それ全部引き受けて、ついでに街のお医者さんにお薬手配してもらってからお山に籠ったんだから仕方なくない!?」
「だとしても、お勤めの合間に連絡はいれられるはずだ。そもそも何で周りにしっかりと説明をしないんだ」
「え?だって皆が始めたんだよ?分かってやってたんじゃないの?」
「分かるわけがないだろ。少しは考えろ」
驚く妹に、兄は疲れたように嘆息する。
妹がいない間、どれだけの人が心配し心を痛めていたのか。彼女は少しも理解してはいなかった。
「理不尽……にしても、何ていうか村中が暗くない?厄とは違うみたいだけど」
文句を言いながら、そういえばと妹は不思議そうに首を傾げる。
やはり、何も理解していない。兄は眉間の皺を濃くしながらどう話したものかと悩む。
巫女としての資質が強いためか、妹は人よりも村として物事を見ることが多い。そのため人の機微に疎く、彼女がいなくなった後の残された者たちの想いを伝えても、そう簡単に理解することはないのだろう。
彼女を虫として送ったクラスメイトの子たちが、その当時どれほど追い詰められていたのか。そしてそれを後悔し続けているなど、想像すらしていないはずだ。
「そうだ!ちょうど虫送りの祭事が近いことだし、また虫として厄を流せば何とかなるよね?」
思わず、兄は頭を押さえた。
どうして妹はこうも察しが悪いのだろうか。
たとえ間違いだったとしても、心を守るため悲壮な決意で彼女を追い遣ったクラスメイト。
たとえ間違いだったとしても、それを本当にして引き受けた厄を流し祓えばいいと気楽に考えている彼女。
すれ違い、少しも交わることがない。
痛むこめかみを揉みながら、兄は石段へと視線を向ける。
ちょうど参拝に来たのだろう。妹のクラスメイトたちの姿が見えた。
「とりあえず、一回泣かれてこい」
「え?それってどういう……?」
何も分かっていない妹の体を反転させ、背を押した。
同時に駆け寄ってきたクラスメイトたちに囲まれ、泣かれ心配されて困惑している妹を見ながら、少しでも人に興味を持ってほしいと兄は切実に思っていた。
20260422 『たとえ間違いだったとしても』