蝋燭に火を灯す。
揺らめくその炎で香に火をつければ、ゆらりと立ち上る煙が形を作り、やがて緋色の妖の姿になった。
「まさか貴女に呼ばれるとはね」
「藤白《ふじしろ》さんを探せって教えてくれたって聞いたから。どうなったのか知る権利はあるかなって」
蝋燭の炎に視線を向けたまま呟く。
「色々あって、他の皆はまだ庭の中でやらないと行けない事があるって言ってた。だからあたしが話せるのは、クガネ様が消えた時までだけどね」
妖は何も言わない。その沈黙に甘えてゆっくりと話し出す。
「クラスに転校生が来たの。少し不思議な子」
自分達にとっては、彼女が始まりだった。
それからたくさんの事が起きた。
聞こえる声。送られた枯れない藤の花。
座敷牢とそこにいた二人の男の人。
変わり果てた叔父の屋敷。
そして、クガネ様。
要領の得ない、妖の話とは比べものにならないほどお粗末な話。
それでも話を止めるつもりはなかった。誰かに話を、クガネ様の事を知っていてほしかった。
話ながらも神に言われた事が繰り返し頭を過ぎていく。
妖は誰からも認識されなければ消える。消えてしまえば残るものなど何一つないのだと。
だからクガネ様に作られたという藤白も、彼に作られたという篝里《かがり》もクガネ様と共に消えてしまった。
そしていずれは自分達の記憶からも消えてしまうらしい。
「それで黄櫨《こうろ》がクガネ様のために歌って。クガネ様が笑って目を閉じたら、そのまま光になって消えたの」
ふぅ、と息を吐く。とても長い話になると思っていたけれど、話し方が下手なせいか思っていたよりは早く終わってしまった。
変わらず妖は何も言わない。多くを見知っている妖だから、既に知っていたのだろうか。
「クガネ様が消えた事で、屋敷は元に戻ったし、皆無事だった。でも皆クガネ様を忘れてた」
屋敷の主である叔父ですら、覚えてはいなかった。今回の事は離れに留まるたくさんのナニかが原因だと思われていた。
誰からも忘れられてしまうのは、とても寂しい事だ。
けれどあの場にいた自分以外は、それでいいのだと言う。
彼を正しく覚える者がいないのだから。離れの奥の怖ろしい存在として認識されていくよりは忘れられ消えて行く方がいいと。
それを否定するつもりはない。歪んだあの姿のままでいるのは苦しい事だと思ってもいる。
けれど如何しても。如何しても考えてしまうのだ。
長い間一人きりで、人々に誤解され歪んでいきながらも必死で守ろうとした優しい神様が、結局最後まで一人きりで消えていく結果を変える方法が本当はあるのではないかと。
「馬鹿な子ね。怖い目に遭ったというのに、その相手に心を砕くなんて」
静かな呟き。紡がれた言葉は呆れを含んではいるものの。その声音はどこか優しい。
妖に視線を向ける。以前出会った時の気怠い空気はなく、ただ柔らかい笑みを浮かべて手招いた。
「別に怖くない。クガネ様は怖くなかったよ」
妖の側に歩み寄りながらも、怖くはないのだと、繰り返し言葉にする。
クガネ様は怖くない。今は心からそう思える。
親友と二人、終わらせるために歌った時に流れ込んできたクガネ様の記憶が、それを伝えてくれている。
藤の花は、守ろうとして送られた。これ以上彼を見ないように、声に応えないように。僅かに残る彼の意識が、自分という魔から守られるようにと送らせた。
呪われた人を呼び寄せるのも、元はその呪いを代わりに取り込んで返していたらしい。けれど体に溜めた呪いが限界を超えて制御が出来なくなり、人の認識によって存在が歪んで。呪われた人を呼び寄せる意味を失って、行為だけが残ってしまった。
そしてその行為と、篝里に逢いたいという気持ちと。僅かに残る術の記憶が合わさって、人にも、況してや篝里にもなれない泥の塊がいくつも出来てしまった。
「クガネ様は怖くない。あたし達が怖がったから、クガネ様が怖くなってしまったんだ」
妖の招く手に触れて、はっきりと伝える。
順番を間違えてはいけないのだと。
「本当に馬鹿な子。真っ直ぐで甘い子に、一つ教えてあげましょうか」
抱き上げられて、妖の膝の上。
しなやかな指が差す方へ視線を向ける。蝋燭の火が妖の指に応えるように、ゆらりと揺れた。
「人が終を迎えて行く先がどこなのか、知っているかしら。全てが始まる場所であり、終わる場所でもある常世と呼ばれる世界」
指先がくるり、と円を描き。それに合わせて火の揺らめきが大きくなっていく。
「人はまた始まるためにそこへ還っていくのよ。藤白も篝里も還っていったようね。おまけを連れて」
揺らめく火の向こう側に何かが浮かび上がる。
三人の男の人の後ろ姿。
足取り軽く。真ん中の背の高い男の人の手を、二人が引いている。黒い鳥が三人の頭上を旋回し、戯れに誰かの肩や頭の上に止まっては、再び空へと飛び立っていく。
その姿はどこか見覚えがある気がした。
「少し違うけど藤白、さんと、篝里さん?じゃあ真ん中の金色の髪の男の人は」
「そうよ。あれが黄金《くがね》。藤白も篝里も、混ざるもののない姿がそれよ」
声は聞こえない。表情も見えない。
けれども皆笑っているように見えた。そう思えるくらい後ろ姿だけでも、楽しそうだった。
「あの二人は黄金に甘いもの。無理矢理にでも一緒に連れて行く事にしたようね」
くすくすと、妖は笑う。指を下ろせば蝋燭の火は消えて、白い煙が一筋上っていった。
「クガネ様は一人じゃないんだね」
「一人にさせてはもらえないのよ。過保護なのも考えものよね」
それくらいが丁度良いのではないだろうか。
少なくとも皆が笑っている。寂しい思いはしていないのだから。
振り返り、妖を見る。
鈍色に煌めく瞳が星のようで、とても綺麗だった。
「煙もそろそろ絶えるわね。戻るわ」
「お香ならまだあるよ。蝋燭はまた点ければいい」
「何が言いたいのかしら?」
笑みを浮かべたまま、妖はわざとらしく首を傾げる。
知っていて敢えて聞く、その意地の悪さに苦笑して。膝から降りて蝋燭に火を灯し、香に火をつけた。
振り返り、妖と同じように笑ってみせる。
「折角なんだから、何か話を聞かせてよ。一人で退屈しているの」
妖に、望む。
この美しい緋色の妖が、消えてしまわぬように。
20241120 『キャンドル』
――守り神様。
声が聞こえて、目を開けた。
変わらぬ庭の景色に、首を傾げる。
彼の姿はどこにもなく。吹き抜ける風が、庭の花々を揺らして遊んでいた。
あれは彼が最初に己に与えた花だ。
霞み消えかけた記憶を思い起こす。
ここにある花や木は、彼が好み己に教え与えたものばかりだ。彼のためにと増やし続けていたものが己の記憶を留めるためのものとなったのは、果たしていつからだろうか。
詮無き事を考え。立ち上がり、辺りを見回す。
やはり彼の姿は見えない。
当然だ。理解はすれど、過ぎる風が時折運ぶ花の香に記憶を揺さぶられ、彼を探す事を止められはしない。
奥にいるのかもしれない。この先の芒は彼が一等好んでいたものだから。
また詮無き事を思いながら姿の見えない彼を探すため、足を踏み出し。
「まだ残っていたんだ。随分と好いていたんだね」
声が聞こえた。
懐かしい、己を定めた唯一の声。
振り返る。藤棚の下で二人の男が立っていた。
風が花弁を舞い上がらせる。鮮やかな色彩を引き連れて、男らの元へと風が駆け抜ける。
黒を纏う男が徐に腕を上げる。風に舞う花弁が腕に戯れるように纏わり付いた。
記憶を揺さぶるその男に、惹かれるようにして歩き出す。
彼らを知っていた。知っているはずだった。
「ここでなら、多少不完全でも戻してあげられる。さあ、戻っておいで」
黒とは対照的な白を纏う男が黒の男の肩に手を触れさせ、口遊む。
千々に離れてしまったものを一つにする術。繰り返す中で己が忘れてしまった旋律。
黒の男の姿が揺らぐ。風と白の男の一部を取り込んで、二つになる。
その姿を認め、駆けだした。
「篝里《かがり》っ!」
「守り神様」
強く抱きしめる。離れぬように。取りこぼさぬように。
求め続けていたその姿に、声に、温もりに。ただ縋り付いた。
「いい加減離れたらどうだい。そのまま潰してしまうつもりかな」
呆れを含んだ声に、顔を上げる。
肩に黒い翼の鳥を止まらせ、腕を組むその姿を己はよく知っていた。
「藤白《ふじしろ》」
「そうだよ。まったく、お前は本当に頭が足りないね」
男が笑う。
僅かに緩めた腕の中の彼が身じろぎし、それに否を答えた。
「此度の所業の責はすべて私にあります。私が望んだのですから、守り神様は悪くありません」
穏やかでありながらも真っ直ぐな視線は、あの時と変わらない。
彼は自身を凡庸と評していたが、己がこれまで出会った人間の中で、彼ほど強く残酷な者はいなかったように思う。
「私は兄を、里の皆を守りたかった。その為にならばこの命、惜しく等はなかったのです。ですがあの望みが守り神様を長く苦しめる事となると知っていたならば、私は」
「篝里」
目を伏せ憂う彼の名を呼ぶ。
はっとして己を見上げる彼の髪に指を絡ませ、閉じ込めるようにしてその身を掻き抱いた。
「篝里。すまなかった」
微かに震える彼の体をさらに引き寄せる。
彼が気に病む必要はない。あの日、己は望みに応えぬという選択も出来たのだから。
それに敢えて応えたのは、己の意思だ。彼の望みに全て応えたいという主我であり、己の唯一との再会の可能性を求めた我欲であった。
そしてどのような形であれ、彼と永遠を共に出来る期待もあったのだ。
「逢いたかった。触れたかった」
抱き留めた腕や胸から伝う熱に、彼の陽だまりのような匂いに酔い痴れる。失う事の意味を理解した今、手放せるはずなどなかった。
「篝里」
「いい加減にしないか。まったく…離れろ」
だが焦れた男の言葉によって、己の意思に逆らい体は彼を離していく。
「篝里」
「情けない声を出すんじゃない。苦しがっていただろうが」
伸ばしたままの腕を、男は容赦なく叩き落とす。
それでも離れる事が怖ろしく、彼から視線を外せずにいれば、彼は少しばかり困ったように眉尻を下げて笑った。
「私ならば大丈夫ですよ?」
「これ以上甘やかすな。何処に行くにも付いて回るようになるぞ。俺の時は厠まで付いてきたんだからな」
遠い過去の話に、そのような事もあったかと幾分か落ち着きを取り戻した思考で思い返す。
彼と共にあった頃よりもさらに過去の記憶は、今や殆どが霞み消えている。この庭に留めていた男との寄辺は男の名である藤しかない。
故に男の話す過去が嘘か誠か判断が付かず。黙したまま男を見れば、小さく彼が笑い声を上げた。
「申し訳ありません。私の知る守り神様とはあまりにもかけ離れていたので」
「あの頃はまだ純粋だったからね。そしてあまりにも無知すぎた。そのまま手放してしまったのは、さすがに後悔しているよ」
そう言って男は苦笑し、空を見上げる。遠い過去を想うその目に、僅かばかりの寂しさを感じた。
「ここにいるのは馬鹿の集まりだな。俺は俺の式に戯れ言を吹き込んで。それを律儀に守った式が暴走して。後裔が己の命を使って式に望み。その後裔の式が庭から欠片を持ち出して均衡を崩した」
「そうですね。誰か一人でも思い留まる事が出来たなら、結果は異なっていたのでしょうから」
「本当にね。あの子達には悪い事をした」
あの子達。己を終わらせてくれた、優しい少女らを思う。
男の使う術とは異なる歌は、純粋な祈りだった。
思い出す。呪をその身に宿した少女と初めて出会った時を。
母屋にいる時から感じていた。幾重にも絡み合う呪と、それを身に宿しながらも自身を失う事のない強さ。そして神様、と呼ぶ澄んだ声音。
羨ましい、と思った。少女の神が。迷いのないその呼び名が。
故に連れて来た。意識の切り離された躰だが、それでも構わなかった。
その選択が最良だった事だけが、幸いだった。
「さて、行こうか」
不意に男が告げた。
「はい。皆で行きましょう」
腕に黒い鳥を止まらせた彼が、笑って男の隣に立った。
もう行ってしまうのか。
いや、漸く行けるのだろう。
人間である彼らが、また始まる事が出来るのは喜ばしい事だ。
名残惜しさに蓋をして、見送るべきかと居住まいを正す。
「何をしているんだ。お前も行くんだよ」
「一緒に行きましょう。守り神様」
差し出された彼の手に困惑する。
人間ではない己が、彼らと共に行く事など出来るはずがない。
彼の手に視線を向けたまま動けない己に嘆息し、男は有無を言わさず腕を引いた。
「ほら、さっさとしないか。それとその見窄らしい格好を何とかしろ。見苦しくて仕方がない」
引かれた男の腕を見、己の狩衣を見る。
煤け草臥れ。擦り切れた狩衣は、確かに随分と見窄らしいものだった。
「それから溜め込んだ呪もここに置いていけ。後始末くらいは俺の記憶にさせても許されるだろう」
男の視線が、早くしろと訴える。
しかし如何すれば良いのか、記憶の中には残っていなかった。
戸惑う己に男は再び嘆息し。腕を引いて視線を合わせた。
「最後まで世話のかかる式だな…黄金《くがね》。元に戻れ」
名を、呼ばれる。
正しく。意味を伴って。
姿が戻っていく。瞳は白から尾花色へ。髪は黒から金へ。
重苦しい体は、軽さを取り戻し。男と共にいた頃の姿を取り戻す。
「良かった。守り神様が元の姿に戻る事が出来て」
「篝里」
「行きましょう、守り神様」
ふわり、と彼が笑う。
差し出された手に、恐る恐る手を重ねた。
「本当に、いいのだろうか」
「どうにでもなるさ。人が妖に成り、妖が人に生まれる世界だ。溜め込んだ想い出を全て置いて行くのだから、それくらいは何とかしてくれるだろう」
「駄目だと言われても、私が説得します。だから今度こそ一緒にいましょう」
「藤白。篝里」
彼らに手を引かれ、歩き出す。
背後を振り返る事はない。置いていくいくつもの寄辺はもう必要ない。
歩む先。遠くに見えた姿に、不安が過る。
だが僅かに前を行く彼らに引かれた手の熱に掻き消され。
笑みを浮かべ、彼らと共に終に向かい足を進めた。
20241119 『たくさんの想い出』
「黄櫨《こうろ》」
静かな声に呼ばれ、黄櫨の肩がびくりと震えた。
「ここへ辿り着いた事に関しては、褒めてやろう。だが俺の眼を欺いた事は許されると思うな」
「ごめんなさい。神様」
素直に謝罪する黄櫨に、御衣黄《ぎょいこう》はそれ以上責める事はなく。目の前の男を見据え、黄櫨を庇うように太刀を構えた。
「かがり…」
男が黄櫨の声に反応して、足を踏み出す。その眼前に切っ先を突きつけて、御衣黄は嗤った。
「黄櫨は貴様を呼んだのではない。俺を呼んだのだ。貴様を神と呼ぶ者は誰一人居らぬ。必要とする者すらないだろう。そのまま朽ちて消えるとよい」
「じゃまを…する、な…」
低い唸るような声。
男が腕を振う。それに反応して木々が、地が揺れる。鋭い枝葉が御衣黄に向け伸ばされ、地中から湧き上がる泥が彼を捉えようと形を変える。
「無駄な事だ」
笑みを崩す事なく、御衣黄は太刀を振るう。軽やかに舞うようにして泥を翻弄し、四肢に繋がれた縄が泥を砕く。
楽しげに嗤い、遊ぶように舞う御衣黄を男は焦るでもなく、白濁した目を宙に彷徨わせ。
不意にその目が黄櫨を、その背後の曄《よう》を見た。
「駄目だよ、曄」
無意識に前に出ようとする曄の手を引く。
はっとして、引き止めた手を見つめ安堵の息を吐く。
礼を言おうと顔を上げた曄は、だが黄櫨へと伸びる男の手を見て焦り、彼女の名を呼んだ。
「黄櫨っ!」
「触れるな、と。そう言ったはずだ」
煌めく一閃に、男は腕を引き距離を取る。
変わらず無表情なままの男に、御衣黄は忌々しげに舌打ちした。
「物覚えの悪い、成り損ないめが」
黄櫨を男の視界から隠し、太刀を構える。
だが不意に何かに気づいたかのように、太刀を下ろし笑みを浮かべた。
「まあよい。どうやら貴様の待ち人が来たようであるしな」
その刹那。
男の背後で何かの破れる音がした。
「悪ぃ、兄貴。見つけるのに手間取った」
「遅いぞ、寒緋《かんひ》。屋敷の中だ」
何もないはずの空間に縦に亀裂が走り。その割れ目から現れた寒緋に、御衣黄は視線を向けずに声をかける。その言葉に従って、屋敷の方へと駆けていく寒緋を止めようと、男は彼に視線を向け腕を上げる。しかし寒緋に続いて現れた複数の気配に動きが止まった。
「彼の邪魔をしてはいけないよ」
「ふじ、しろ…?」
男を留める藤白《ふじしろ》の言葉に、感情のない瞳に初めて僅かな困惑が浮かぶ。
求めていたはずの存在に、声に留められるその意味が理解できていないようだった。
「…なぜ?」
「彼はお前が攫っていった娘の躰を取り戻しにきたんだ。ちゃんと返してあげなければいけないだろう」
「ふじしろ。だが」
「これ以上、我が儘を言うものじゃない。そろそろ戻らないものもある事くらい理解してくれ」
首を傾げる。幼い子供のような男の仕草に、藤白は小さく嘆息した。
「無駄だ。この庭がある限り、諦めきれぬだろうよ」
「それなら如何すればいいんだい。千里眼を持つ神よ」
藤白の言葉を鼻で笑う。
既に知る答えを敢えて聞く藤白に、御衣黄は侮蔑を含んだ笑みを浮かべながら口を開いた。
「知れた事。季を流せばよい。夏から秋を繰り返すこの庭に、全て等しく眠らせる冬を与えてやれば、諦めもつくであろう」
「簡単に言ってくれる。その手段はどうするんだい」
「何だ。出来ぬのか」
然も以外だと言わんばかりに、御衣黄は藤白を見つめた。
「貴様は作られたのか。なれば致し方ないな」
一人納得し、振り返る。
黄櫨、と静かに名を呼んだ。
「何、神様」
「お前は何を望む?」
問われ、黄櫨は手に抱いた子猫に視線を落とし。曄を見て、御衣黄を見た。
「クガネ様が元に戻る事はあるの?」
「難しいな。あれは既に壊れている。望みに応え続けたとて相手はなく、新しく望みに応えるという思考すら今のあれにはないのであろう。何もせずとも、何れは消えゆくだけの存在だ」
「篝里さんが戻れば、クガネ様も元に戻るの?」
「戻らぬよ。望みに応えるために望んだ者の魂を砕き、その僅かに残る欠片が奪われるまでの季を繰り返したとして、失われたものが戻る事はない。欠落を他で埋めたとして、それは結局は別のものだ。どう足掻いた所で一度失ったものが元に戻る事はないのだ。既に失われているのだから、黄櫨の躰に施された否定する呪も意味をなさぬしな」
御衣黄の言葉に、黄櫨は眼を伏せる。
その頬を優しい風が撫で上げて、芒の小穂を高く舞い上がらせた。
風に促されるように顔を上げ、暫く空を見上げて。黄櫨は御衣黄と視線を合わると、柔らかく微笑んだ。
「歌うよ。クガネ様のために。冬の、惜別の歌を」
「黄櫨」
「私が招かれた。だから歌うの」
黄櫨の微笑みに、御衣黄は仕方がないと息を吐き、道を空けた。
歩き出そうとして、手を引かれる。
「一人で行こうとしないで。あたしも行く。招かれたのは一緒なんだから」
振り返れば、曄は笑って黄櫨の隣に立つ。
手は繋いだまま。視線を合わせて頷いた。
「神様。この子をお願いします」
御衣黄に子猫を託し、歩き出す。
道に迷った子供のような不安げな顔をする男の前まで来ると、手を伸ばした。
「クガネ様。もう終わりにしようか」
「あたし達は大丈夫だから。ゆっくり休んでよ」
男の手を引く。白濁した目が迷い揺れて、けれど促されるままにその場に座り込んだ。
黄櫨が歌う。冬の訪れを。別離を。それでいて優しい歌を静かに歌い上げる。
男の隣に座った曄は、男に寄り添いながらその背を優しく撫で、時折黄櫨の歌に合わせて歌を口遊む。
歌う二人以外には誰も言葉を発する事なく。
静かな歌は木々の葉を落とし、芒を枯らす。
庭園の停滞していた時が動き出し、秋から冬へと季を写していく。
「クガネ様、ありがとう」
「おやすみなさい、クガネ様」
少女達の言葉に、男は静かに瞼を閉じて。
「おやすみ。かんしゃする」
淡く微笑んで、その姿は光となって消えていった。
20241118 『冬になったら』
離れに向かい、屋敷内を駆け抜ける。
生きている者の気配のない静かな廊下は、複雑に入り組み方向感覚を狂わせるが、それでも立ち止まる事はない。
屋敷に足を踏み入れた瞬間に姿が消え離れてしまった二人の少女達を探し、行方を追い求めて走り続けていた。
「随分と、複雑に建て替えたものだね。後裔の趣味を疑うよ」
「そんな訳ないだろう。あれの空間と混じってしまっているんだ」
呆れたように溜息を吐く藤白《ふじしろ》を、玲《れい》は冷たく睨めつける。
「篝里《かがり》の記憶でも、あれの屋敷内はここまで複雑ではなかったが」
「そりゃあ、あちらさんにとっては招かれざる客だろうからな。俺らが来た時からこんなだったが、お前らが来ても変わらねぇのは正直予想外だった。兄貴に何て言えばいいんだよ」
先行する篝里と寒緋《かんひ》が、時折邪魔をするように現れる泥を足を止める事なく蹴散らしていく。
「また場所が変わってる。前はここに広間があったのに。あいつら、もう死んだのかな」
「何の話?」
「ここに来た時、屋敷の奴らが広間に立てこもって結界を張ってたんだ。そこのおっさんが中の奴と少し話して、結界を補強してたみたいだけど」
訝しげな顔をしながら、嵐《あらし》は寒緋を指さす。それに、指を差すんじゃねぇ、と文句を言いながらも、寒緋は縋ろうとする泥を蹴り飛ばした。
皆それぞれに足を止める事なく。迷いなく駆けながらも、その表情は険しさを隠しきれてはいない。
「駄目だな。時間の無駄だ。このままでは辿り着けない」
小さく舌打ちして、藤白が立ち止まる。それに続いて皆足を止めた。
「玲。直接あれの所まで道を繋げる事は出来るか」
「無理。場所が見つからないのに無茶言わないで。そっちだって繋がらないんでしょう」
「まあね。さて、どうするか」
少女達がいるであろう離れに、その先の神域に辿り着くための手段を考えながら、近くの障子戸に手をかける。
触れた瞬間に、とぷり、と形を失った戸に手が沈み込む。揺らぐ戸から伸びた、溶けかけた白い蝋のような腕が沈んだ手首を掴み。そのまま引きずり込もうとする腕を、だが表情一つ変える事なく藤白は見つめ、興味が失せたかのように息を吐くとその腕ごと手を引いた。
「外れか。期待はしてなかったけど」
戸から離れ、溶けて骨だけになった腕を放り投げる。
「師匠。陽光《ようこう》は?連れてかれたあいつらよりも近いじゃん」
嵐の呼んだ名に、寒緋が僅かに肩を震わせる。
それを横目で見ながらも、玲はそれを指摘する事なく首を振った。
「あいつ、また無茶してそうだけど大丈夫かな」
「大丈夫だよ。帰って来る事を約束させてるしね。それより、本当にどうするの?止まったせいで、完全に取り込まれたんだけど」
玲の言葉の通り、気づけば周囲は壁で四方を囲まれている。
前にも後にも進めなくなった事に、しかし誰一人取り乱す様子はない。指摘した玲ですら、静かに藤白の指示を待っていた。
周りの視線を受けて、にやり、と藤白は笑う。
「彼方に近くなったのだから、好都合だ。力業で押し通せばいい」
壁を指さす。その壁を篝里が切り裂いた。
「脳筋め」
次々と壁を破壊し一点に向けて進む彼らを見ながら、玲は呆れたように呟いて小さく笑みを浮かべると、彼らを追ってまた走り出した。
「取りあえず、謝らないといけない事がある」
「何。突然」
荒い息を整えつつ、黄櫨《こうろ》は振り返り、訝しげに曄《よう》を見る。
「余計な事を言ったせいで、どうすればいいのか聞けなかった気がするから」
ごめん、と芒に紛れながら謝る曄に、黄櫨はそんな事かと呟いた。
視線を戻し、前を見る。最後に見たあの背の高い男を警戒しながらも、繋いだままの手をきゅっと握った。
「それなら、私こそ話を切り上げたんだから同じようなものだよ。むしろ分からないのに問い質さなかった私の方が悪いかもしれない」
片手に抱いたままの子猫に視線を落とす。緩やかに弱くなっていく鼓動に焦りを感じながらも、黄櫨はでも、と言葉を続けた。
「分からない事もあるけど、分かった事もあるでしょう」
「分かった気になった、だと思うけどね」
苦笑する曄に、確かに、と黄櫨もまた小さく笑う。
「その分かった気になっているものについて、少し話そうか」
視線は前を向いたまま。警戒を緩める事はなく、声を潜めながらの黄櫨の言葉に、曄も声を潜めて話し出す。
「クガネ様が自分を認識出来る者を求めてるって、どういう意味なんだろう」
「妖はね。人に認識してもらえなくなると消えてしまうんだ。だから人の望みに応える事で、妖は自分を認識してもらい形を保つ。妖の事が伝聞で広がってたくさんの人に認識されれば人に応える必要はなくなるけど、人の話には尾ひれが付いて回るものだから、その場合は大概が歪むらしい」
実際に人の噂話で存在が歪み、化生に堕ちた妖がいるらしい。
黄櫨の話に、曄は思わず身を震わせる。
かつては守り神と呼ばれた妖は、同時に人から怖れられていたという。もしもを想像して、それがあり得ない話ではない事が人よりも余程怖ろしく感じた。
「だからあたし達が呼ばれたのかな。藤白さん達は皆、クガネ様をあれって呼んでた。あの人達の中ではもう、クガネ様は守り神じゃないって思ってるって事だよね…あれ?でもそれだと、あたしが呼ばれた意味が分からない。あたしも小さい時からクガネ様は危険だって教えられて、それを信じて」
「たぶん、それだけじゃないんだよ。元々曄はクガネ様に目を付けられていたんだし」
目を付けられた。その言葉に曄の手が己の右目を無意識に覆う。
聞こえる声。枯れない藤の花。掠れていく声と、落ちていく右の視力に怯えていたのは、まだ鮮明に記憶に焼き付いている。
頭を振る。思考を切り替えるようにして、話題を変えた。
「でも、クガネ様はあたし達の一族を守ろうとしてくれた事は間違いないよね。陽光さんが肯定したし。全部裏返しにして繰り返す日を作る事と呪われた人を攫う事が、何で守る事になるのかは分からないけど」
「間引いたんじゃないかな。呪が広がらないように。裏返しの日というのはよく知らないけど、守るというのとはまた別の感じがする」
裏に返し、繰り返す。
時に死者すら生者に裏返る日は、確かに守るというよりもむしろ、守れなかったものを戻して留めておくと言われた方がしっくりくる。
それを伝えれば、黄櫨は一つ頷いて、想像だけどね、と呟いた。
「クガネ様が藤白さんを呼び戻した日。そうする事でしか、皆を守れなかったんじゃないかな。だから当時の当主さんはクガネ様を咎める事はなかったし、藤白さんを受け入れた。仕方がない事だと皆は受け入れて…でもクガネ様だけが受け入れる事が出来なかった」
目を細め、黄櫨は椿の花を通して視た光景を思い返す。
鳥が最期に吐き出した欠片。男はあれの庭から取ってきたと言っていた。
「それでもこの庭園に篝里さんの魂の欠片がある限りは、それを寄辺に自分を保っていられた。藤白さんもいた事もあって、篝里さんの望みに応え続ける事が出来ていた。でもその欠片を奪われて、藤白さんもいなくなって。残ったのは応える相手のいない望みと、クガネ様を怖れる人だけだった」
「それって」
「皆から怖ろしいモノだって認識されて、望まれる事もなくて。そうなったら、歪んでしまうのは仕方がない事だ。だから、きっと」
不意に黄櫨は口を閉ざし、ある一点を見つめ表情を険しくする。
彼女の背越しに見たそれに、曄は漏れそうになる声を押し殺し、黄櫨に寄り添った。
地を擦る足音。ゆっくりとではあるが、此方に近づいてくる背の高い男。
白濁したその目はすでに光を失い。それでもその歩みに迷いはない。
距離が近づく。逃げなければと思うものの、体は意思に反して動く事を拒んでいる。
目を逸らす事が出来ない。呼吸一つ行う事すら苦痛を伴って。
芒が揺れる。
徐に伸ばされた手が、黄櫨の顔、に。
「その汚い手で、俺の黄櫨に触るな」
低く怒りを宿した声。
芒が空を舞い。澱んだ赤が辺りを染めた。
「神様」
微かな黄櫨の呟く声に、彼女を一瞥し男と対峙する。
「…だれ、だ……」
「貴様に名乗る必要を感じぬな。だが応えてやろう。我が名は御衣黄《ぎょいこう》。黄櫨の、神だ」
白銀の太刀を構え金の瞳を持つ美しい神が、不敵に笑った。
20241117 『はなればなれ」
てんとんとん、と三味線の音色が響く。
それを頼りに辿り着いたのは、古ぼけた屋敷とその濡れ縁に座り無心に三味線を奏でる女性の姿だった。
「来ましたか」
手を止める事なく、視線も向けずに女性は呟く。
「クガネ、様?」
「いいえ。妖はこの障子戸の向こうへ居ります」
問う言葉には否、を返し。
女性はただ、ちんてんとと、と三味線を鳴らし続けていた。
「貴女は誰?何故ここにいるの?」
「私の名など知った所で詮無き事。主の命により、妖を鎮め抑えるため、此方に参りました」
女性の言う妖とはクガネ様の事だろうか。ならば彼女は、少なくとも敵ではないのだろう。
そう思いながらも一歩だけ前に出て。親友を隠すようにしてさらに問いかけた。
「貴女は敵?それとも味方?」
「異な事を仰られますね。それは貴女方次第に御座います。私の音の妨げとなるのであれば私は貴女方に刃を向けねばなりませぬし、そうでないのであれば争う理由なぞ御座いません」
てんてんしゃん、と三味線を奏でる手は止めぬまま。
ですが、と女性はそこで初めて、此方を見上げた。
「私も限界が近う御座います。此処へ訪れたのが主でも原初の方々では無い事が残念ではありますが、貴女方に後を託すと致しましょう」
澄んだ琥珀色の瞳に射貫かれる。
その眼差しをどこかで見たような錯覚を覚えながら、改めて女性を見据えた。
「その為に聞きたい事があるならば、私の知る範囲ではありますが答えましょう」
聞きたい事。
分からない事はたくさんある。分かっている事などないのに等しい。けれど何から聞くべきかと考えていれば、背後に隠した親友が前に出て、女性に問いかけた。
「クガネ様は、何を求めているの?」
ただ一つの親友の問いに、女性は僅かに目を細め。
口元だけで笑みを浮かべてみせた。
「妖は己を認識する事が出来る者を求めて居ります。己が消えて無くならぬように。己の在り方がこれ以上歪まぬように…望みに応え続ける為に」
「望み?」
「妖の元で絶えず母と謡っていれば、自ずと見えてくるものもあります。妖は篝里《かがり》様の望みに応え続けていただけに過ぎません」
篝里の望む事。
それは何だろうか。穏やかで誠実であったという少年が、私欲を望むとは考え難い。
心当たりのないそれに、だが親友は全てを理解したのだろう。そっか、と小さく呟いて、さらに一歩前に出た。
「篝里さんは、一族《あたし達》を守るように望んだんだね」
酷く静かな。
悲しげな、寂しげな声だった。
「その通りで御座います。どうやら貴女方が招かれたのは、必然であったようで。なれば私も悔いなく役目を終えられます」
ふわりと。淡く微笑みを浮かべて。女性はほぅ、と吐息を溢した。
見れば、彼女の左手は爪が割れ剥がれて血に染まっている。
随分と長い間、一度も手を止める事なく三味線を弾き続けていたようだ。限界が近いと言ってはいたが、もうすでに限界は超えてしまっているのかも知れない。
「もう一つ教えて。クガネ様のためにあたし達が出来る事は何?」
「敢えて言葉にする必要はないでしょう。貴女方なれば必ずや為す事が出来ます故に」
てんてとと。
音色が僅かに歪む。
これ以上引き留めているのは酷だろう。
親友の隣に立つ。ありがとう、と告げれば最後とばかりに三味線の音が高らかに響いた。
「最後にいいかな?」
「はい。何でしょうか」
「貴女の名前が知りたい」
きょとり、と。
随分と幼い眼差しが、此方を見つめ瞬いた。次いでくすくすと鈴を転がすような笑い声を上げて、女性は謡うように言葉を紡いでいく。
「私には名などありませぬが、主はかつての私の名を呼ぶ事を好んでおります。陽光《ようこう》、と。その名で宜しければ告げましょう」
ばちん、と。
弦が弾け、音色が止まった。
「畜生の身では、主の命全てに応えられぬのは致し方なき事か。此度の生も些か疲れるもので御座いましたが、楽しめました。私の事はどうぞ捨て置いて、貴女方は為すべき事を為されて下さいませ」
かたり、と三味線が落ちる。
女性の姿が時を戻していくように小さく、幼くなっていき。
やがては人の形を失って。
「猫?」
そこには、小さな黒い子猫の姿があった。
動かない猫を抱き上げる。まだ暖かく、僅かに息がある事に安堵した。
しかし。
「曄《よう》。取りあえずここを離れるよ」
「分かった。でもどこに」
障子戸の向こう側。
どろり、と何かが動く気配がする。
衣擦れの音。畳を摺るようにして歩き、誰かがゆっくりと近づいてく。
「…り……かが、り…?」
声がした。ひび割れた、歪な声。どこか不思議そうに何度も名を呼んでいる。
かたり、と音がして。障子戸が音を立てる。
かた、かたり、と。音を立てながら僅かに開いた戸の隙間から白く細長い指が伸び、竪框《たてがまち》に手をかけた。
「行こう。さっきのすすきの場所まで戻ろう」
片手に子猫を抱いたまま、親友と手を繋ぎ走り出す。
木々の間を通り抜ける直前。振り返り見た、屋敷の濡れ縁には。
落ちた三味線を拾い上げ、弦に指を這わしながら。
此方を見る、長い黒髪の背の高い男が静かに立っていた。
20241116 『子猫』