青空に飛行機雲の白の線が引かれていく。
手を伸ばしても届かない高さ。翼を広げてどこまでも自由に飛ぶ飛行機を操縦する彼の姿を思い浮かべ、思わず目を伏せた。
羨ましいと思ってしまう。自分とは違い、彼はどんな世界にいても堂々としている。彼のような優秀さが少しでも自分にあれば、隣に立つことも怖くないというのに。
溜息を吐いて草原に寝転がる。目の前に広がる空は、やはり自分には遠い。
春の陽気が風に乗って辺りを駆け回り、穏やかな眠りを誘っている。それに身を委ねようとして、ふと彼女のことを思い出した。
「約束、してたんだっけ……」
正確には、彼女が勝手に約束をして去っていくだけなのだが。
「毎日来るけど、一体誰なんだろう?」
彼女について、自分は何も知らない。彼女という呼称すら正しいのかも分からない。
女性のような恰好をして、女性のような言葉遣いをしているからそうなのだろうと思っているが、背が高く自身に満ち溢れて煌めく目は男の人のようにも見える。
そもそも人なのかも怪しい。夕暮れに伸びる影が、時折獣の形を取るのを何度か見たことがあった。
いつの間にか隣にいて、他愛もない話をして去っていく彼女。またね、という約束を残して、次の日になると隣にいる。
彼女との関係はいつから始まったのかも覚えていない。分からないことばかりなのは、化かされているからなのだろうか。
この辺りではよくあることだ。都会とここでは、時間の流れ方が違う。神秘を否定し解体しようとする人は誰一人おらず、今でもあちらこちらに不思議なモノが漂っているのだ。
そんなことを考えながら、何気なく空に向けて手を伸ばした。
届かない空。届かない彼。自分にはないものを求めてしまう。
「随分と情けない顔をしているわね」
伸ばした手を取り、彼女が呆れたように呟いた。
顔を覗き込むその目が楽しげに弧を描く。まるで月のように煌めいていて、とても綺麗だった。
「きれい……いいなぁ……」
「あら、今日は欲しがりさんなのね。アタシを欲しがるのはいいけれど、空を羨むのはおやめなさい」
どうしてだろうか。首を傾げて彼女を見つめた。
「翼のないあなたにとって、空は自由ではないからよ。誰かに愛でられるだけの日々なんて、まったくもってつまらないでしょう?」
そういうものだろうか。目を瞬き、想像してみる。
飛べない自分は、翼を持つ彼の側にいるしかない。彼が望む時に望む場所へ一緒に行き、そこに自分の意思は伴わない。
確かにそれはつまらないだろう。思わず眉を寄せれば、彼女はふふ、と微笑んだ。
手を離され、けれど代わりに頭を彼女の膝に乗せられる。それに何かを言おうとして、何も思いつかず彼女の好きにさせる。何を言っても無駄なのは、いつものことだった。
「あなたは地に足をつけて生きなさい。ないものねだりをするものではないわ」
ないものねだり。確かにそうだ。
彼の翼も、彼女の目も、自分にはないからこそ欲しくなる。手に入れた瞬間に色褪せて、自分はきっとすぐに興味をなくしてしまうのだろう。
不意に風が花の香りを運んできた。温かな日差しと相まって、段々と瞼が重くなっていく。
春だからなのか、最近はすぐに眠くなってしまう。特にこうして彼女の側で頭を撫でられていると途端に意識が微睡んでいく。
「少し眠って、余計なものは忘れてしまいなさい。起きるまではこうしていてあげるから」
優しい声音。起きなくてはという意志すら絡めとって、意識が深く沈み込んでいく。
諦めて、体の力を抜いて、静かに目を閉じる。
視界から彼女と青空が消える直前。飛行機雲の筋を空に描きながら、白い翼を広げてこちらに降りてきている彼を見た気がした。
寝入ってしまった少女の頭を撫でながら、狐はふっと息を吐いた。
吐息は青白い焔となり、落ちてくる鳥に向かっていった。
触れた瞬間に、鳥の体は一瞬で焔に包まれる。巨大な青の焔と化した鳥は為す術なく地面に叩きつけられるかに見えた。だが地面に降り立つ瞬間焔は跡形もなく消え、後には真白い翼を持った鳥が静かにその場に佇んでいた。
「酷いことをする」
低い声が恨めし気に狐を批判する。それを鼻で笑い、狐は鳥から隠すように少女の体を抱き寄せた。
「この子を連れて行こうとするからよ。気を引くために、変な記憶を植え付けないでちょうだい」
「独り占めしようとする貴様も変わらないだろう」
鳥の言葉に、狐は心底不快そうに鼻を鳴らした。狐の感情と呼応するかのように、周囲をいくつもの焔が漂い出す。
「この子をもの扱いするのは止めてくれるかしら?そういうないものねだりをする妖に限って、手に入れた途端に飽きて捨てるのよね」
今度は鳥が不機嫌そうに翼を広げた。威嚇するように低い声を出し、怒りを露にする。
「私をあんな軟弱な人間と一緒にするな。違和感なく側にいられるように姿と記憶を利用しているが、それだけだ。叶うのならば今すぐにでも八つ裂きにしてやりたいほどだというのに」
忌々しいとばかりに鳥は羽を震わせる。言葉にこそ出さなかったが、狐も同じように思っていた。
少女に傷をつけた人間。故郷を離れ、不安な日々を過ごしていた彼女に気まぐれに優しさを振りまき、懐いた瞬間に手を離した憎い男。この地に古くから住み、そして彼女を知るモノらは、皆同じように思っていることだろう。
「三月経つが、悲しみは癒える気配はない。少しずつ記憶をすり替え認識を変えてはいるものの、未だに一人で泣いているのだ。何故貴様は我らの領域に引き込もうとしないのか」
口惜しいと鳴く鳥に同意するかのように、風が吹き抜けた。ざわざわと周囲の気配が揺れ、狐と鳥の会話を気にかけている。
「何故って……そんなの当然じゃない」
しかし狐は鳥の威嚇も、周囲の視線にも気にした様子はなく肩を竦めた。
少女の頭を撫で、周囲を見回す。呆れたように息を吐き、ゆっくりと口を開いた。
「この子はね、人間なのよ。刹那を必死で生きているの。可哀そうだと手を出したら、それこそあの人間と同じになってしまうわ」
ざわり、と気配が揺れた。
鳥の目が僅かに見開かれ、やがて静かに翼を折りたたむ。項垂れるその表情は、行き場のない悲しみに暮れているように見えた。
「アタシたちにないものを持つこの子に惹かれて、手を伸ばしたい衝動に駆られるのは理解できるわ。でも留まらなきゃ。アタシたちはそういう存在《モノ》なんだから」
遥か昔から人の望むまま、時に助け、時に化かしてきた狐は言外に告げる。
守ろうと鳥かごに閉じ込める行為は、ただの傲慢だ。
少女が手を伸ばし助けを求めた時に、その手を取ればいい。
誰もが何も言えず、辺りに沈黙が落ちる。
ただ一人、少女だけは何も知らずに、花の香りを孕んだ春の温もりに抱かれて眠っていた。
20260326 『ないものねだり』
好きじゃないのに
――別に、好きじゃない。
それは彼女の精一杯の強がりだったと、後になって知った。
生まれた時から一緒にいることが多かった彼女。互いの親が親友で、家族ぐるみでの付き合いが彼女との距離を近くさせていた。
例えるのならば、しっかりした妹のような存在。頼られるより頼ることの方が多かったせいか、彼女のことを強い人だと勝手に決めつけていた。
「はぁ……」
「何だよ。辛気臭ぇな」
ぱしん、と丸めた雑誌で友人に頭を叩かれた。
「痛い……」
「痛くしてねぇよ。何なら本の角でやってやろうか?」
ベッドに突っ伏したまま、顔だけを友人に向ける。抗議の視線は、しかし半眼になってマンガを構える友人には通用しなかった。
それも仕方がないことだ。何しろこのやりとりは、これで三回目になるのだから。
「何回も言ってるけどさ、うじうじしてるくらいなら会いに行けばいいだろ」
「簡単に言うなよ」
「幽霊屋敷が怖くて近づけませんってか。なっさけねぇな」
「――幽霊屋敷って言うな。あいつに失礼だろ」
ぼそぼそと反論すれば、友人は盛大に溜息を吐いた。適当にマンガを手に取り、読み始める。
繰り返したやり取りに、付き合うことすら面倒になったらしい。
それでも帰らずここにいてくれる優しさに、心の中だけで礼を告げる。毎回何かある度に付き合わせてしまっているが、それに対して文句を言われたことはない。面倒だという態度を隠されもしないが、話を聞いてくれるだけでもありがたかった。
枕に顔を埋め、溜息を吐き出す。友人にも呆れられながらも、まだ行動する勇気が出なかった。
彼女とは生まれた時からの付き合いだ。しかし、彼女の両親が仕事で海外に行ってしまってからは、以前のように常に一緒に遊ぶことは少なくなった。
両親も自分も、旅行や食事に誘うことは何度もあった。最初は誘われるがままだった彼女は、けれど次第に何かと理由をつけて断るようになっていた。
無理に付き合わせてしまう訳にもいかない。それに何も知らなかった幼い頃と違い、成長した自分たちが一緒にいるのも、落ち着かないのだろう。そう考えて誘う頻度が減り、いつしか前のように泊りがけで遊びに行くことも、家に誘って一緒に食事をすることもなくなってしまった。
他の友人たちと同じように、会えば話をして別れる。そんな前よりも軽い関係が続いて、彼女の家に遊びに行くこともなくなってしまった。
だから、という訳ではないが、離れている間に彼女の家にはある噂が付きまとうようになった。
――彼女の家は呪われている。化け物が住む家だ。
最初その話を聞いた時、何かの冗談かと気にも留めなかった。
どこかの家と間違えているのだろう。彼女の家には何度も行ったことがあるが、一度も恐ろしい体験をしたことなどなかった。
けれども話は消えることはなく、次第に彼女が心配になった。
彼女は今、家に一人きりだ。もし化け物が家にいたとしても、彼女を守ってくれる人は誰もいない。
そう思ったら居ても立っても居られず、以前のように彼女を家に誘うようになった。
しかしどんなに誘っても、彼女は頷いてくれなかった。昔好きだった料理やお菓子の話題を出しても、よく一緒に遊んだ場所の話をしても、視線を逸らして今は好きじゃないと答える。
ならば彼女の家に行けばいいと思うのだが、行くための理由が思いつかなかった。
「――なぁ」
「何だよ」
「どんな理由だったら、女の子の家に行けると思う?」
何も思いつかず、結局友人にアドバイスを求めた。
「――は?」
横目で見る彼はあからさまに眉を顰め、疲れたように息を吐き出し頭を振る。
マンガを置いてこちらに向き直る友人に合わせ、体を起こして彼の方へと向いた。
「そもそも何で、そいつの家に行きたがんだよ」
「そりゃあ、心配だから……もし本当に変な化け物がいたら、助けてやらないと」
友人の真っすぐな視線の強さに、思わずたじろぐ。それでも何とか答えると、彼はその答えを鼻で笑った。
不快に眉を寄せ、睨みつける。しかし友人はどこか馬鹿にしたように、唇の端を歪めて笑った。
「今更?つかず離れずの距離で、気が向いた時に声をかけるくらいだったくせに?」
「それは、だって……何に誘っても好きじゃないって言うから、無理に付き合わせることないって、そう思って」
「その好きじゃないって言葉を、深く考えたことはあんのか?」
指摘され、けれどどういう意味なのか分からなかった。
好きじゃないということは、文字通りの意味ではないのだろうか。好きじゃないのに付き合わせてしまうのは悪いと思っていたが、本当は違うということなのか。
戸惑う自分に、友人は呆れた目をする。鈍いな、とぼやきつつ、口を開く。
「家族ぐるみの付き合いがあるからって、少しは遠慮するもんだろ。それに自分の親はいないのに、お前の家族団らんを見せつけられたら、余計に寂しくなるんじゃねぇの」
「そんなの……言ってくれたら……」
「お前、言えるのかよ。毎回誘われるのは申し訳ないし、両親がいないのを実感して寂しくなるので遠慮しますって……余計に気を遣わせるだけだって分かってて、普通は言えないだろ」
何も言えず、俯いた。
そんなこと、言えるわけがない。彼女の性格を考えると、余計にだろう。
「好きじゃないって精一杯の強がりを真に受けて距離を置いてたんだ。このままそっとしとくのがいいんじゃねぇの」
確かに、今更元に戻るのは難しい。けれどこのまま離れていくのは嫌だった。
本当に嫌じゃないのなら、もっと一緒に色々なことがしたい。出かけたり、食事をしたり、遅くまで話していたかった。
「というかさ。今のままでも十分距離は近いだろ。何でいつも隣に張り付いてんだよ。普通は会話をするのに手を繋いだりしないもんだぞ」
友人の言葉をどこか遠くに聞きながら、彼女の家に行く予定を考える。
折角だから、何か手土産に持っていこう。最近できた洋菓子店のお菓子と、映画のチケットはどうだろうか。
「おい、話を聞け。何一人でにやにやしてんだ」
「なぁ、女の子が好きそうな映画って何だろうか」
「は?そりゃあ、そいつの好みもあるだろうけど、恋愛ものとかか?……って、まさかお前……」
友人の顔が引きつっているが、気にしてはいられなかった。
早く彼女に会いたい。少しでも長く側に居たかった。
この時、彼女とのこれからを想像し浮かれていた自分は、彼女の家で待ち受けている恐怖に気づくこともなかった。
一人きりで寂しかった彼女を支えていた人形。それが自分の最大の障害になるのだとは、今はまだ欠片も予想はできなかった。
20260325 『好きじゃないのに』
ぽつり。
冷たい滴が肩に落ち、首を傾げて空を見上げた。
薄い雲がかかる空は、それでも雨が降るほどではない青が広がっている。
天気雨だろうか。深く考えず、視線を下ろし歩き出す。
暦の上では春が来ているというのに相変わらず風は冷たくて、思わず身を縮めてしまう。
やはり上着を一枚持ってくるべきだった。そんな後悔をしながら、腕をさすりつつ足を速めた。
ぽつり。
冷たい滴が、手の甲に落ちた。
足を止めず見上げた空は、先程よりも雲が厚くなってきている気がする。
天気予報では一日晴れだと言っていたが、もしかしたら雨が降るのかもしれない。
生憎、予報を信じて傘は持ってきていない。溜息を吐き、天気を気にしながら進んで行く。
天気のせいか、朝よりも体が重い気がした。晴れか雨かで気分が変わるのは昔からだが、結局今もそれほど変わっていないことに我ながら呆れてしまう。
手にした紙袋が、かさりと音を立てた。はっとして袋に視線を落とし、苦笑する。
雨が降っても降らなくても、目的地はすぐそこだ。帰りに雨が降るようならば、傘を借りればいい。
そんなことを考えながら曲がり角を曲がる。目的地である幼馴染の家が見え、雨に降られる前に辿り着けたことに内心安堵した。
ぽたり。
冷たい滴が、頬を伝った。
空を見上げようとして、違和感に気づいた。
天気雨や通り雨だとして、一滴しか降らないのはおかしい。周囲の地面を見て、どこにも濡れた場所がないことに、さらに困惑する。
肩、手、頬。体が重く感じることも重なって、まるで自分の後ろに誰かがいて泣いているような幻覚が浮かんだ。
ただの気のせいだ。随分滑稽な想像だと笑いながら、何気なく後ろを振り返る。
何もない。あるはずがない。
そう、思っていた。
はずだった。
「いい加減、離れてくれないかな」
背中に張り付きぐすぐすと泣く幼馴染に、何度目かの溜息を吐いた。
「女……女の人、が……」
がたがたと震えながら、呻くように同じ言葉を彼は繰り返している。
呼び鈴を連打され、何事かと思ってドアを開けた瞬間の、彼の恐怖に歪んだ顔が浮かぶ。
何を見たのか、あるいは何に出会ってしまったのか。要領を得ない彼の断片的な言葉を拾い集めると、どうやら白い服を着た女性に会ったらしい。その時に何があったのか分からないが、今も離れない所からして相当怖い思いをしたのだろう。
「女の人が……」
「一応、私も女なんですけど」
聞こえてはいないと分かってはいるが、それでも不満が口をついて出る。
いくら幼い頃からの付き合いだとはいえ、ここまで意識されないのも悲しいものがあった。
「一体何を見たんだか」
肩に落ちる涙の冷たさに眉が寄る。泣き声は弱くなっていく。落ち着いたのではなく、泣き疲れたからだと分かった。。
「おん、な……の……人……」
段々と体にしがみついている腕の力が抜けていき、しばらくすると微かな寝息が聞こえてくる。
ようやく解放された。ほっと息を吐きながら、彼を起こさないように、そっと腕を外し固まった筋肉をほぐすように伸びをする。
「――着替えようかな」
肩に触れれば、まるでそこだけ雨に濡れたかのように濡れている。ちらりと彼に視線を向ければ、泣きながらも完全に寝入っているように見えた。
これなら、着替える間部屋を出ても問題なさそうだ。クローゼットから着替えを取り出し、音を立てないようにゆっくりとドアを開けて部屋を出る。
「疲れた……」
隣の部屋で着替えながら嘆息する。まだ午後を過ぎたばかりだというのに、強い疲労感に戻るのが億劫になる。
大切な用事があると言っていた。だからこうして待っていたのだが、結局要件を聞かずに終わってしまいそうだ。
何の話だったのだろうか。気にはなるけれども、聞かないままでいられたことを幸運だとも思う。
例えば、この距離の近さをおかしいと思うようになったとしたら。気になる人ができて、距離を置きたいと言われたら。
考えるだけで胸が苦しくなる。幼馴染の距離に甘えて何も言えないでいる自分が悪いというのに、どうしてと周りに原因を求めてなりふり構わず泣き叫びたくなる。
「バカみたい」
自嘲して、洗濯物を手に部屋を出る。当分は起きる様子はなかったが、早く彼の元へ戻りたかった。
ぽたり。
不意に洗濯物を持つ手が濡れる感覚がした。
視線を落とせば、小さな丸い滴。雨のようなそれに、後ろを振り返った。
「おひいさん、どうしたの?」
自分よりも背の高い、白装束を纏った人形。無表情ながら、はらはらと泣く彼女の頬に手を伸ばす。滴を拭い問いかけるが彼女は何も答えず、ただ腕を広げて抱きしめられた。
彼女の優しさに苦笑する。彼に用事があると伝えられてから落ち着かない自分を慰めてくれているのだろう。
「大丈夫だよ。いつものように勇気が出ないだけだから」
笑ってみせるものの、彼女の涙が晴れる様子はない。晴れない自分の悲しみを移して泣いているのだから当然かと、不甲斐ない自分に歯噛みした。
止まらない滴を拭いながら、五年前の川岸を思い出す。あの日もこうして彼女は自分の悲しみを引き受けて泣いてくれた。
形代として厄を引き受け、流されてきた彼女。動けないほど溜まった厄を抱えながら、それでも自分に手を伸ばしてくれた優しさに惹かれた。
こうして自由に動けるようになった今。けれど彼女はどこかに行くこともなく、寂しい自分の側にいてくれる。
きっと彼に気持ちをすべて伝えるまで、ここにいてくれるのだろう。
「私は大丈夫だから、心配しないで」
そう言いながらも、ぽたり、ぽたりと滴が頬を伝って落ちていく。彼女の涙ではない。
これは自分の涙だった。
「何だかここだけ雨が降っているみたい」
ところにより雨。
おどけてみせれば、彼女は優しく頭を撫でてくれた。
目を閉じて、深呼吸を繰り返す。
まだ雨は止まない。けれど無理矢理止めることはできる。
彼が起きてしまう前に、いつもの自分に戻らなければ。
もう少し。せめてちゃんと彼の目を見て気持ちを伝える勇気が出てくるまで。
「もうちょっとだけだから。ちゃんと伝えるから」
涙を拭い、今はまだ作った笑顔で、そう彼女に告げた。
20260324 『ところにより雨』
――あの子は特別な存在だから。
そう言って、誰もがお屋敷に住む彼女のことを敬った。
神様に愛された子。だから屋敷は彼女を受け入れている。
確かにこの村の中で一番広い屋敷に、彼女以外の人の姿を見たことはない。彼女も祭りの時に神楽を舞う以外の時に、屋敷の外に出てくることはない。
――屋敷に一人きりで、寂しくないの?
一度だけそう尋ねたことがあった。
いつのことなのか覚えてはいない。屋敷から出てこない彼女と会えるはずもなく、もしかしたらそれはただの夢だったのかもしれない。
脳裏に長い髪を風になびかせる彼女の姿が浮かぶ。現実でなかったとしても、自分の問いかけに彼女は何と答えてくれたのだろうか。
「また変なことを考えているな」
不意に足元の影法師が濃さを増した。
ぐにゃりと形を歪め、影の縁を掴むように影から黒い指が這い出てくる。指、手、腕と、人の形を取りながら影の中から出ていき、見ている前でそれは黒衣に身を包んだ人の姿へと変わった。
感情の読めない目をして笑う彼を一瞥し、足を速める。彼の姿は自分以外には見えないというが、態々足を止めてまで彼と話す気にはならなかった。
「あれは特別だ。関わろうとするな」
「特別、ねぇ……神様に愛されているから?」
肩を竦め、皆の言う特別の意味を口にする。言葉にしても、やはりしっくりとはこなかった。
愛されているのに、何故一人になるのだろうか。それとも彼女を愛する神とは、神社に祀られている神とは違うのだろうか。
その神は、あの屋敷にいるのだろうか。
「あの執着をAmor《愛》と呼べるならば、あれは確かに愛されてはいるのだろう」
「執着……」
くつり、と喉を鳴らす音に、隣を歩く彼の横顔を見上げる。表情こそは笑っているものの、やはりその目からは何も読み取れない。
「あれが屋敷にあるからこそ、この地の平穏は保たれている。そういう意味での特別だ」
その言葉に、思わず顔を顰めた。愛されていると聞こえのよい言葉は、その実神の贄という犠牲の意味を持っていること。それを察して、周りに対する嫌悪感が込み上げる。
「相変わらず聡い娘だ。理解したなら、これ以上あれに心を傾けようとするな」
黒にも見える、深い青の目に見据えられ、小さく頷いて顔を逸らす。
彼の警告はただの脅しではない。彼女に関わることで、よくないことが起こるのだろう。
「翼を捥がれ、相手の望みのままに着飾り踊り続けるなど嫌だろう?」
「絶対に嫌」
彼の言葉に幼い頃を思い出し、眉間に皺が寄る。
両親の言いつけで神楽舞を舞っていた時。窮屈な巫女装束も、単調な音楽での踊りも好きにはなれなかった。
両親の言葉は絶対で、逆らうという考えすらなかった苦痛の日々。ようやく解放された今、あの頃に戻るなど考えたくもなかった。
踊るのならば、好きな服を着て自由に踊っていたい。誰かに強制させられるならば、いっそ二度と踊れなくなってもいいと思うほどだ。
「お前はそれでいい」
頭を撫でられて、気恥ずかしさに俯いた。
いつまで経っても小さな子供扱いをされることは不満でしかないが、何度言っても彼は変わらない。
溜息を飲み込んで駆け出した。後ろで笑う声を聞きながら、こういう所が子供扱いされる原因なのだろうなと密かに落ち込んだ。
神楽殿で舞う彼女を、ただ見つめていた。
自分と彼女以外に誰の姿も見えない。彼女の手に握られた神楽鈴が澄んだ音色を響かせる意外に、何の音も聞こえない。
気取られぬよう彼女の舞う姿を見続けながら、内心で舌打ちをする。
いつここに来たのか、まったく記憶になかった。
ここは現実の世界ではない。しかし微かに漂う沈香の香りや、時折吹く風の冷たさが、これはただの夢ではないことを告げていた。
――あれに関わるな。心を砕くな。
彼の警告を思い出す。
遅すぎると八つ当たり気味に毒づきながら、どうすれば戻れるのか思考を巡らせた。
今ここには彼女と自分だけしかいない。少しでも動けば、彼女に気づかれてしまうのだろう。
けれど行動を起こすのならば、彼女が舞を終えるまでだ。あまり猶予がないことに焦りが生じ、冷静に考えることが難しい。
現実に戻るため、どんな行動をすればいいのか。
どこにあるのか分からない出口を探すのは危険すぎる。彼女を説得することも不可能だ。
彼女に捕まる、あるいは言葉を交わした時点で、おそらくは二度と戻れない。
関わるなとは、つまりそういうことなのだろう。
いくつか浮かぶ選択肢はすべてなくなった。最初からなかったと言ってもいい。
仕方がないと、息を吐き目を閉じる。神楽鈴の音が止まりこちらに近づく足音を聞きながら、自分の中の彼の存在を強く意識する。
幼い頃に彼から教わったこと。彼に助けを求めるこの方法は正直嫌だったが、それ以外に方法を思いつかない。
彼に頼り切ってばかりの自分を情けなく感じていると、不意に温かな何かが体に触れた。
彼女に抱きしめられている。耳元で囁く声に理解した。
「あの方が、貴女を私の側に置くことを許してくださったの」
熱に浮かされた甘い声音に、体が震えそうになるのを必死に堪える。
反応してはいけない。声を出さぬよう唇を噛み締め、彼の気配だけを手繰り寄せる。
「私の特別。一人は寂しくないのかと、心を砕いてくれた優しい子。貴女だけが私をただの人にしてくれた……貴女がいれば、きっと私は寂しくない」
頬を包まれ、目尻をなぞられる。微かに瞼が震え、触れられる部分から抵抗する意思が剥がれ落ちていく。
「さあ、目を開けて。私の目を見て、受け入れてちょうだい」
ふわりと沈香の香りが漂う。厳かでありながら、繋ぎ止める鎖のような重さをもった匂いが体の中に入り込もうとする。
これ以上は耐えられない。瞼から力が抜けて、ゆっくりと開いていく。
「そこまでだ」
目が開く寸前。視界を塞がれ、体を強く後ろに引かれた。
彼女とは違う冷たい腕に抱き込まれ、けれど安堵に息を吐く。見えないながら背後の彼に凭れれば、褒めるように頭を撫でられた。
「異国の神め……っ」
昏く澱んだ彼女の声がした。先ほどの甘さは欠片も消え、伝わるのは激しい怒りと憎しみだけ。
「あの方が治めるこの地より、疾く出ていけ。貴様の存在は、その子に死しか齎さぬ。あの方が与えてくださる永遠を否定しようとするな」
「愚かだな。それが理だ。Mors《死》はすべてに等しく与えられるもの。誰もそれを否定できない」
ぎり、と歯を食いしばる音が聞こえた。
動く気配はない。けれども変わらず、沈香の香りが纏わりつく感覚が消えない。
「――行かないで」
か細い声音。沈香に引かれるように、勝手に手が持ち上がる。
「私といれば、永遠が与えられるわ。頷いてくれたなら、貴女からご両親を奪った神から解放して上げられる」
意思とは無関係に動く体を、彼は強く抱き竦めた。持ち上がる手を取られ、手の甲に不思議な熱が触れる。
沈香を振り払うように、首を振った。僅かに自由を取り戻した体を反転させ、彼の胸にしがみつく。
深く息を吸い込めば、沈香ではなく名も知らない花の香りが鼻腔をくすぐった。
「この子に、Aeternitas《永遠》は必要ない。それはVita《命》ではないからな」
どこか嘲りを乗せた言葉。
その刹那、ぐにゃりと地面が歪む感覚がした。
平衡感覚を失い、倒れそうになる体を抱き上げられる。背後で聞こえる彼女の声が風と混じり、ただの雑音に変わっていく。
揺れる感覚。歩いているのか、その感覚は一定だ。
もう彼女の気配も、沈香の香りも感じない。
小さく息を吐いて、そっと目を開けた。
「ありがとう」
降ろされて、視線を逸らしながら礼を言う。
「気をつけろ。あれはこの地にいる限り、諦めることはない」
思わず眉を顰めた。
このままここで暮らすことに執着はないが、出て行くにしてもあてはない。
何より周囲が黙っていないのだろうと想像できて、気が重くなるのを感じた。
「あれらの相手を素直にする必要はないだろう。必要なものを持って出れば、それだけで済む」
「簡単に言うけどねぇ……」
溜息を吐きながらも、頭は出て行くことを考え始めている。必要なものや、衣食住の確保などを次々と段取りを決めて行く。
折角ならば海の近くに行ってみようか。海を見ながら、彼の話を聞くのも楽しそうだ。
いつの間にか影の中に住み着いている彼のことを、自分はよく知らない。聞いても今までははぐらかされることが多かったが、これからは聞けば教えてくれる予感がしていた。
周囲を見回す。
青白い月が浮かぶ空はどこか恐ろしい。けれど何より落ち着く気がして、月明かりを浴びながらくるりと回った。
どこだろうと自分は踊れる。決められたままを舞う彼女とは違う。
鳥籠の中で、永遠を与えられている彼女。
鳥籠から出て、刹那を生きる自分。
正反対だなと思う。あのまま手をとっても、結局は一緒にいることはできなかっただろう。
「あれのことを考えるな。寄ってくるぞ」
「じゃあ、一緒に踊ってよ。あの子のことも、未来の不安も忘れさせるくらいのエスコートをしてちょうだい」
手を差し出せば、彼は呆れた目をしながら笑う。
手を取り、恭しく口付けて腰を抱かれる。そのまま彼に合わせて、ステップを踏んだ。
音楽など必要ない。スポットライト代わりの月の下、彼と共に自由に踊る。
「思ったより上手ね」
「当たり前だ。誰がお前に踊り方を教えたと思っている」
「誰だっけ?忘れちゃった」
笑いながら、彼に身を任せる。
思ったよりも不安はなかった。彼が示す道すべてが正しい訳ではないけれど、それを判断できるなら、どこに行こうと大丈夫だ。
ゆったりとワルツを踊りながら、彼の目を見る。不思議な煌めきを放つ夜の色をした瞳。その目に映る自分は笑っている。
「海に行きたいな。できることなら、あなたの故郷に行ってみたい」
戯れに願い事を口にすれば、返事の代わりに優しい微笑みを浮かべてくれた。
20260323 『特別な存在』
渡された花を手に、微笑む彼の姿を見た。
それだけで足は地面に張り付き動かない。胸が苦しくて、息が上手く吸えなくなってしまう。
耐えきれずに俯いた。見つめる地面が滲み、ひとつふたつと雨が降る。
「バカみたい」
呟いて、唇の端を持ち上げた。
雨など降ってはいない。俯く前に見た空には青が広がっていたのだから。
強く手を握りしめ、逃げ出すように目を閉じた。けれど今見た光景が脳裏に浮かび、消えてくれない。
彼も、その周囲も、とても楽しそうだった。離れているからとはいえ、こちらに気づく様子はないほどに。
きっとこのままいなくなっても、誰も気にしない。
「本当に、バカだなぁ」
最初から、彼の隣にいるなどできるはずがなかった。彼と自分とでは生きている世界が違う。
分かっていたはずなのに、彼に執着せずにいられない。醜い嫉妬心を抑えられない。
このままでは、彼を傷つけることになるのだろう。どろどろとした黒いこの欲が、彼を縛りつけてしまう。
それだけは嫌だった。想像するだけで、自分自身に吐き気がするほど嫌悪感を覚える。無意識に手のひらに爪を立て、熱を持った痛みに顔を顰めた。
ゆっくりと息を吸い込んだ。痛みを伴う鼓動を感じながら、静かに吐き出していく。
ひとつ、ふたつ。深呼吸を繰り返し、十数えて顔を上げる。目を開けて、彼に背を向けた。
しばらく、ここから離れよう。距離を取れば、次第にこの気持ち悪い感情も落ち着くはずだ。
重い足に力を入れて、半ば引き摺るように来た道を引き返す。
彼との約束を破ってしまうことになるが仕方がない。いつか全部思い出にできる時がきたら、その時に謝りにくればいいのだから。
そうしたらきっと、笑って彼と話ができる。初めて出会った時のように純粋に会話を楽しみ、さよならだってできるはずだ。
そう思いながら、滲む世界をひたすらに進む。境界を越えて、彼の世界から自分の世界へと戻る。
「ごめんなさい」
掠れた声で呟く。
今は振り返って別れを告げることさえできなかった。
曇天の下。どこか憂鬱な気分を抱えて玄関を開けた。
この家に戻るのは三年ぶりだ。どこか埃っぽい空気に眉を顰め、玄関を開け放ったまま家の中に足を踏み入れる。
「定期的に戻ってるって言ってたのに」
空気を入れ替えるため窓を開けながら、不満が口をついて出る。
この家を出るのも突然だったが、戻るのもまた突然だ。
突然の父の転勤。ちょうど年度が変わることもあり、祖父母を残して家族で家を出た。
残された祖父母が病や怪我で、どちらも施設に移ったのが一年前。突然のことで無人になった家は、近所に住む親戚に頼んで定期的に風を通してもらっていた。
「雨、降らなきゃいいけど」
雨特有の湿った風の気配ないが、重苦しい灰色の空に気分が滅入る。自分が戻るわけでもない家に、管理のため両親よりも先に来ることになったのが少なからず不満なのかもしれない。
一週間後、両親は転勤先からこの家に戻ってくる。
自分は転勤先の学校に進学を決めた。両親が来るまでこの家で過ごした後は、またここを出ていくことになる。
「皆、元気かな」
縁側に座り、彼の住む山を見ながら呟いた。
幾分かも気持ちは落ち着いてはいるが、やはり彼への想いは昇華しきれていない。会いにいく勇気は、まだなかった。
「バカみたい」
あの時の言葉を繰り返す。
勝手に嫉妬し、傷ついて、逃げ出した。自分を守るため、彼との約束すら破った。
あの時よりも成長したと思っていたけれども、こうして動けない自分は何も変わっていないのだろう。
「まったくだ」
呆れたような声と共に、視界が何かに塞がれた。
「っ!?」
咄嗟に声を上げかけるが、息を吸い込んだ瞬間に入り込んだ濡れた土と木の匂いに意識が眩み、掠れた吐息しか出てこない。強い眩暈に似た感覚がして、体の力が抜けていく。
とさり、と後ろに傾く体が、温かな何かに包まれた。
「久しぶりだな。まさか約束を反故にされるとは思わなかった」
静かな声が鼓膜を震わせる。離れていても一度も忘れたことのなかった愛しい声に、けれど体は恐怖で震え出す。
声の端々から感じる強い怒り。飲み込まれてしまいそうで今すぐ逃げ出したいのに、体は震えるばかりで少しも思うように動かない。
「親と共にここを出ていくのは仕方がないとしても、一言くらいは伝えられただろう。それに、折角戻れるよう動いてやったというのに、戻らない選択をするとはな」
ふわりと、花の香りがした。
「このまま連れ帰ってもいいが、言い訳くらいは聞いてやる」
絡みつくような甘さに、頭の芯が痺れていく。震えていた体は脱力し、代わりに自分の意思とは無関係に唇が震え、言葉を溢した。
「だって、女の人に花を渡されて嬉しそうにしてたから」
あの日、心の奥底に仕舞い込んだはずの思いが溢れたことに驚き、目を見開いた。けれどそんな気になっただけで、実際には何一つ動かなかったのかもしれない。
どんなに唇を閉じようとしても、言葉が止められない。次々と忘れようとして、忘れられなかった気持ちが溢れてくる。
「嬉しそうで、楽しそうで……私がいなくなっても、きっと誰も気にしないんだろうなって思った」
花の香りが強くなった。
意識が霞む。次第に言葉を止めようと焦る気持ちも、すべて曝け出される恥ずかしさも消え、ただぼんやりと温もりに包まれていた。
「駄目だって分かってるのに、邪魔して縋りたくなる。他の誰も見ないでって叫んでしまいそうで……そんな自分が気持ち悪くて……」
「もういい」
微かな呟きと共に、花の匂いが掻き消える。
さあさあと、聞こえる雨の音。濡れた土の匂いが強くなり、ぼんやりと形をなくしていた意識がほんの僅かだけ輪郭を取り戻した気がした。
「俺も軽率だった。お前に渡す花を他の誰かに任せるべきではなかった」
深く息を吐く音と共に、視界を覆う何かが外される。
背後から覗き込む彼の目。そこに怒りの色はない。彼と共にいた時の変わらない金色を見返していれば、ふわりと体が宙に浮く感覚がした。
彼に抱き上げられている。そのまま雨の降る庭を歩き出す彼に、不意に危機感が込み上げた。
「待って……どこに……?」
「連れ帰る。元々そうするつもりだったからな……側にいれば、不安にさせることもない」
雨とは違う冷たさが背筋を這いあがる。
このまま連れて行かれてしまったら、二度と戻れない。嫌な確信に、彼から逃れようと必死で自由にならない体を動かした。
「いい子にしていろ。本当なら三年前に連れて行くはずだったんだ。それなのに、いくら待ってもお前は来ないし、あげくに遠くへと離れていくし……なのに怒ろうにもお前は苦しんでいたようだし……」
「なに、言って……え?」
次々と溢れる不穏な言葉に口元が引きつった。
重い腕に力を入れ、彼の頬に手を触れる。こちらを向いたタイミングで力の限り頬を抓れば、ようやく彼の足が止まった。
「っ、こら、止めろ。何でそんなに抵抗するんだ」
「バカっ!最低!人さらい!」
「酷い言い草だな。好いた子を連れ帰るんだ。何の問題もないだろう。しっかりと五穀豊穣はもたらすぞ。心配しなくとも現世のお前の存在は消してやるし、祝言だって挙げるつもりだ」
それはつまり、生贄というやつではないのだろうか。
真顔で告げる彼に、先程とは違う眩暈と頭痛を感じた。何も分かっていない彼に、大きく息を吸い込み、手を振りかぶる。
「バカみたいなこと言わないで!何百年前の、時代錯誤な話を現代に持ち込まないでよ、この年寄り!」
ぱぁん、と。
小気味いい音を響かせ彼の頬を張りながら、力の限り叫んだ。
あれからどうにか彼を説得し、何とかここに留まることができた。
連れて行くのは、終わりを迎えてから。
新しい約束を交わすのに費やした労力を思い出し、溜息を吐く。結局、実家から通える距離に進学先を変更することになり、諸々の手続きや引っ越しにしばらくは忙しく動き回る日々が続いていた。
ようやく落ち着いてきたものの、疲労の一番の原因はそこではなく、これからもなくなることはないのだろう。
「浮かない顔をしているな。疲れているなら、少し休んだ方がいい」
不意に抱き上げられ、ベッドに運ばれる。
本気で心配しているのだろうけれど、疲労の原因が自身にあることに彼は決して気づくことはないのだろう。
「何でこうなったかな……」
「何か言ったか」
顔を覗き込む彼に、何でもないと首を振り目を閉じる。
自分にしか見えない彼。色々と制限があって不自由を強いられているはずなのに、隣にいる彼はとても楽しそうだ。
「最初からこうして側にいればよかったな」
頭を撫でられ、香る花の匂いに意識が微睡んでいく。
荷物の整理など、やるべきことはたくさんあるのに、まったく進まない。それに不満を覚えながらも、幸せを感じてしまう自分に呆れてしまう。
吐き出した想いを、彼は嬉しいと言った。思われるのが幸せで、それ以上に思いたいと彼は好意を隠さず伝えてくれるようになった。
泣きたいくらいに幸せで、同じくらいに気恥ずかしい。
素直に彼の好意を受け入れられず、こうしてささやかな不満を拾い上げている。
バカみたいだ。
遠くで見ている時には好意を向けられないことに苦しんで、こうして好意を与えられるとなると逃げてしまう。
温もりに包まれ、夢の世界に落ちていきながら。
本当にバカみたいだと、心の中で呟いた。
20260322 『バカみたい』