微睡みの中、温かな何かが手に触れた。
控えめに、恐る恐る握られる。そこでその温もりが誰かの手だと知った。
誰だろうか。握る手の力は、微睡みを妨げることを恐れるように弱い。
――また明日。
ふと、手を振る幼馴染の声を思い出した。
泣きそうな顔をしながら、それを隠そうと笑みを浮かべていた幼馴染。交わしたその小さな約束を、今日はまだ守っていない。
そう思った瞬間。今すぐに目覚めなければという衝動に駆られた。
手を強く握り返し、体に力を入れる。
ゆっくりと瞼を開けば、差し込む陽の光の眩しさの中で誰かの影が息を呑んだように見えた。
「――おはよう」
掠れた声で交わした挨拶に彼女は泣くように顔を歪めた後、それを隠すように笑う。
「おはよう……といっても、もうお昼だけどね」
だからこんなにも明るいのか。眩しさに目を瞬きながら体を起こそうとすれば、彼女の手が背中を支えてくれた。
「ありがとう」
「どういたしまして。でもあまり無理はしないでね」
「分かってるよ」
大丈夫だと笑ってみせながら、正反対になってしまった立ち位置を少しだけ苦く思う。
以前は今の彼女のように背中を支え、心配するのが自分だった。きっとあの時の自分も彼女のような顔をしていたのだろう。
「そんなに心配しなくてもいいのに。ちょっと疲れが出ただけだよ」
安心させるための言葉は、逆に傷をつけてしまったらしい。何かを耐えるように俯く彼女を見て、内心で舌打ちをした。
立ち位置が変わった代わりに、最近の彼女からは以前のような柔らかな笑顔が消えてしまった。浮かべる笑顔はいつも、無理に作ったような泣きそうなものばかりだ。
それがただ悲しい。苦しませるだけなら、いっそ自分のことなど全て忘れてしまえばいいのにとさえ思ってしまう。
そんな考えが顔に出てしまっていたのか。彼女は椅子に座ると手を取り、両手で包み込むようにしながら囁いた。
「今日はどんな話が聞きたい?」
少し前の自分とそっくりだ。まるで願をかけているみたいだと、思わず苦笑する。
伝わる温もり。けれどそれだけだ。何も彼女へと流れていかないことに安堵して、窓の外へと視線を向ける。
「何でもいいよ。外のことを教えて」
「分かった」
視線を戻しそう伝えれば、彼女は頷いて静かに話し出す。
雨上がりの水たまりに映る虹。濡れた土の匂い。頬を撫でる少し冷えた風の感触。
懐かしさに目を細めた。長く見ていない訳でもないのに、切なさで気を抜けば泣いてしまいそうだ。
彼女も同じ気持ちだったのだろうか。ぼんやりとそんなことを考える。
包まれた手が温かい。静かな声が心地良い。
段々と意識が微睡んで、ゆらゆらと頭が揺れるのを感じた。
「――今日はここまでにしようか」
彼女の声が遠い。閉じそうになる瞼に力を入れながら、小さく頷いた。
包まれていた手が離れ、背中を支えられながら横になる。ぼんやりと見つめる彼女は何かを言いかけて、けれど口を噤み笑顔を浮かべた。
「それじゃあ、また明日ね」
祈るような声だと思った。
小さく笑う。不安を隠し切れない彼女に向けて、そっと手を伸ばした。
「ん……また、明日」
小指を絡めて約束する。唇を噛んで小指を見つめる彼女に、もう一度また明日と呟いて目を閉じた。
舗装のされていない十字路に立っていた。
道を挟んだ向こう側に、自分が立っている。無表情で腰に下げた刀に手をかけているのを、当然のように眺めていた。
一歩。目の前の自分が、足を踏み出した。白い光が煌めいて、一呼吸後には体に力が入らなくなる。
切られたのだ。そんなことを思いながら膝をつく。切られた痛みはなく、だからなのか恐怖は感じなかった。
「勝手に手を加えるな。今回は大きく変わることはなかったが、時には在り方が歪むこともあるのだから」
そう言って自分が差し出した手には、一本の髪の毛が乗せられていた。
あぁ、そうかと、小さく笑う。髪の毛を受け取りながら、効果はあったのかと嬉しくなった。
「喜ぶことではないというのに。きかない子だ」
それを見て、目の前の自分は眉を顰めて溜息を吐く。呆れた様子に申し訳なく思うが、同時に今まで助けてくれなかったのだから仕方がないとも感じてしまう。
ずっと助けてほしかったのに、昔から続く春の祭りの人形は病気平癒を叶えてくれなかった。だから自分なりに考えて、一本だけ髪を混ぜたのだ。
髪を握り締め、満足だと笑ってみせる。後悔はないのだと真っすぐに目を見据えれば、困ったような笑みが返ってきた。
「病は斬った。一年は煩わされることはないだろう」
それだけを告げて、目の前の自分は背を向けて去っていく。
その後ろ姿が段々と滲んで変わって消えていくのを見送って、ゆっくりと目を閉じた。
目が覚めると、柔らかな朝の日差しがカーテン越しに降り注いでいた。
体を起こし、少し悩んでベッドから降りる。思ったよりも体が軽いことに驚きながら、窓へと近づいた。
カーテンを開ければ、広がる青空。けれど遠くに見える重たい雲は、雨を連れてこちらに来そうだ。
「――あれ?」
ふと、手に違和感を感じて視線を向ける。
右手の小指に、一本の藁が巻き付いていた。
「なんだ。夢じゃなかったんだ」
藁を解きながら笑みが浮かぶ。
もう一度窓の外を見てから、時計に視線を向けた。いつもならば、母が朝食の準備をしている時間だった。
「今日は、こっちから会いに行こうかな」
彼女は驚くだろうか。もしかしたらまたあの柔らかな微笑みを浮かべて、いらっしゃいと言ってくれるかもしれない。
そんな想像をしながら窓を開けた。夏にはまだ早い、少し冷えた春風が過ぎていく。
藁を乗せた手を差し出す。風に乗って空に舞い上がる藁を見ながら、賑やかになるだろう今日を思い笑った。
20260522 『また明日』
「調子はどう?」
部屋の扉を開ければ、窓辺に置かれたベッドで横になっていた彼女がこちらを向いて微笑んだ。
「いらっしゃい。今日も悪くないよ」
起き上がろうとする彼女に慌てて駆け寄り、そっと背を支える。ありがとうと礼を言う彼女の顔色はいつもより明るく、密かに安堵の息を漏らした。
「お兄ちゃんから、連絡はあった?」
「お盆の時期には戻るんだって。それくらいかな」
「連絡しろっていつも言ってるのに……ごめんね」
申し訳なさそうに謝る彼女に、気にするなというように笑う。
彼女が気にすることではない。けれど自分の気持ちを知っている彼女は、彼の行動が歯がゆく感じられるのだろう。
相変わらず彼女は優しい。ふふ、と思わず笑いながら、いつもの定位置に座った。
「――あれ?ちょっと痩せた?」
「ん。夏までに、できることはしないとね」
「今のままでも十分可愛いのに……メイクも少し濃くなったでしょう?」
鋭い指摘に、少しだけ視線を逸らす。
両親も気づいてはいなかったというのに。彼女はいつも、些細なことですら気づかれてしまう。
「そんなことよりさ。今日はどんな話をしようか?」
誤魔化すように話題を変える。まだ何かを言いたげな彼女は、けれどそれ以上は何も言わず、悩むように視線を窓の外へと向けた。
「学校の話がいいな。受験とか、最近流行ってることとか」
「了解」
頷いて、彼女の手を取った。学校での出来事を思い出しながら、ゆっくりと話し始める。
ある日突然、外に出られぬ程に体が弱くなってしまった彼女。一緒に通うはずだった学校生活の話を、どんな気持ちで聞いているのだろうか。
「いつもありがとう……ごめんなさい」
「ごめんはNGワードなので、ペナルティです」
「あ、そうだった。えっと、最近のお話……何かあったかな?」
悩む彼女を見ながら、ほんの少しだけ握る手に力を込めた。温もりと共に伝わるどろりとした痛みに、奥歯を噛んで必死に耐える。
彼女を蝕む病。それを半分だけ受け入れられることに気づいたのは偶然だった。
「お医者さんがね、成人式は迎えられるかもって驚いてたくらいかな。それをお兄ちゃんに伝えたら、近いうちにお祝いに戻るって言ってたけど」
「相変わらずだね」
「妹離れできてなくて困っちゃう。そのせいか壊滅的に鈍いし」
溜息を吐きながら出た彼への文句に苦笑を漏らす。彼女が怒る時は、いつだって誰かのためだ。
自分とは正反対の彼女は、きっと心が透明なのだろう。だからどんなに苦しくても、誰かに当たることなく笑顔を浮かべることができる。
自分とは違う。嫉妬して心が真っ黒になった自分は、どんなに努力した所で彼女のようにはなれない。
思い出す。彼女の命があと数年だと医者に告げられてからのことを。
今まで遊んでいた彼女たちと遊べなくなり、寂しさと理不尽な怒りを抱えて彼女の家に行った。
ただの八つ当たりだった。幼かった自分は、二人と遊べない理由を何も分かってはいなかった。
彼女の部屋に入った時、苦しそうにしながらも、こちらを見て微笑んだ彼女を忘れられない。
「――どうしたの?何か疲れてるみたい」
「そうかな?勉強疲れか、それとも私にはお盆に帰るって言いながら、その前に帰ってきそうなあいつに呆れたのかも」
そう言えば彼女は眉を寄せて、ここにはいない彼に対して怒ってみせる。
それを笑いながら、彼女に気づかれぬようにそっと息を吐き出した。
自分のしていることを、彼女に気づかれてしまう訳にはいかない。
これは献身などではない。ただの自己満足だ。彼女と少しでも長く一緒にいたいという、自分のエゴだ。
それでも知ってしまえば、優しい彼女は苦しむはずだから。
泣いて止めてほしいと願われてしまえば、会えなくなってしまう気がするから。
「まあ、別にいいけどね。むしろあいつがいない方が、色々と楽しくおしゃべりできる訳だし」
痛みを笑顔で誤魔化して、彼女の手をただ握っていた。
「――ただいま」
部屋に入ってきた青年は、暗い顔をしてふらふらと少女の側まで近づいた。
「お兄ちゃん……」
ベッドの上で上体を起こした少女は赤く泣き腫らした目をして青年を見つめ、俯いた。
ベッド脇の椅子を引き、青年は何も言わずに腰かける。それに対して少女は何も言わない。
「まだ意識は戻ってなかった。これから先もやっぱり分からないようだ」
「そう……」
「お前の調子のいい日に、今度は一緒に行こうか」
返事の代わりに、少女はぎゅっと両手を握り締めた。爪が皮膚に食い込むのを見て、青年は何も言わずに手を重ねる。
「――私が、奪ったんだ」
微かな声は、震え掠れている。込み上げる激情が滴となって、少女の頬を伝い落ちた。
「なんとなく気づいてた。あの子が来てくれた後は、体の調子が良くなるの。だから、気づいてない振りをしてた。気づいてたのに……あの子がやつれてたのも、メイクで顔色を誤魔化してたのも、全部気づいて……っ」
言葉が詰まり、そして次第に啜り泣きに変わる。青年はそんな少女の背を、ゆっくりと撫でていた。
無言だったのは、かけるべき言葉が見つからなかったからだ。少女の言葉を否定することも、上辺だけの慰めも意味はなく、おそらくこれからも言葉が届くことはないだろう。
少女があの子と呼ぶ幼馴染が倒れたのは数日前のこと。それからずっと、少女は幼馴染が倒れた原因は自分のせいだと思い込んでいる。ただの偶然。誰かの健康を奪うことなどあるはずがないと周りの人々が何度言っても、少女が聞き入れる様子はない。
それ程に少女の後悔は強く、悲しみは深かった。
「私が、あの子を奪った……ずっと羨ましかったんだ。私はこんなに苦しいのに、皆はそんなことないのが憎かった。外の話を聞くのも嫌で、でも聞いた後は少し楽になれたから我慢して……あの子はただ私のために話してくれたのに。あの子の純粋な優しさを利用して、透明できらきら煌めいてた心を騙し続けてたから、あの子は……」
「大丈夫だよ」
届かないと思いながらも、青年は耐えきれず少女に向けて囁いた。
「大丈夫。ちゃんと目が覚めるさ。その時は、会いにいこう。今度はあいつが寝てた間の話を、俺たちが話してやろう」
それは少女に向けてというよりも、自分自身に向けて言っているように聞こえた。
目を伏せ、青年は眠り続ける幼馴染を思い浮かべる。
うっすらと微笑みを浮かべているように見えた寝顔。
まるで楽しい夢でも見ているかのようで、それだけが微かな希望を信じさせてくれていた。
20260521 『心は透明で』
彼女には年の離れた姉が一人いた。
幼い頃から何でもできた天才肌。彼女の姉は、親の自慢だった。
だからだろう。彼女が物心ついた時から、常に姉のようになれと言われ続けてきた。
彼女が人より劣っていたわけではない。努力を惜しまない彼女は、むしろ周りよりも優れていたように思う。
だが姉と比べれば、どうしても劣って見える。それほど姉は優秀だった。
彼女には姉がいた。
けれど一昨年の暮れ。姉は帰らぬ人となった。
誰もが姉の死を悼み、その存在をさらに美化し始める。欠点一つない、完璧で理想の姿を、姉を知る人たちは作り上げてしまった。
それは彼女も同じで、誇りだった姉に近づこうと努力を続けていた。
気づいた時には、もう手遅れ。
何もかもが、変わってしまっていた。
「変わったね」
そう彼女に告げれば、どこか冷めた目がこちらに向けられる。
以前の彼女ならば決してしないような目。それは彼女の姉の目によく似ていた。
「本当に変わってしまった。理想のあなたになった感想はどう?」
彼女は何も言わない。視線は逸らされることなく、その見透かすような視線も彼女の姉と同じだ。
彼女は変わった。誰もが望んだ、彼女の姉になってしまった。
もうあの陽だまりのように柔らかな微笑みは、二度と見ることはできない。
「思ったよりも、生き汚かったんだね」
親友でもあった彼女の姉を思いながら、無意識に呟いた。
妹を大切にしている人だったはずだ。少なくとも自分にはそう見えていた。
目を細める彼女に背を向ける。これ以上話す気分になれなかった。
「――この子は、ありのままで生きる方法を知らない。理想を求められすぎて、一人では息の吸い方すらできなくなってしまった」
淡々とした言葉。振り返れば、ほんの僅か顔を歪めた彼女が自身の胸に手を当てていた。
「この子がこの子として生きられる場所は、ここではない」
そういうことか。理解したと同時に、その不器用さに呆れてしまう。
溜息を吐いて、彼女に近づいた。無言で手を出せば、彼女は胸に当てていた手をそっと重ねる。
伝わる温もり。陽だまりのように柔らかで、愛おしい。
彼女の手が離れても消えず、体の中に馴染んでいく。
「私は、私のやり方でこの子を愛すわ。この子は私の子。もうあなたの妹じゃない」
「それでいい……その方が、いい」
そう言って彼女は薄く笑う。笑っているのに、今にも泣きそうな顔だった。
本当に不器用な親友だ。温もりが形を持って命として宿っていくのを感じながら、密かに嘆息した。
「優しいのはとてもいいけれど、女の子なんだからもう少し控えめな方が将来困らないと思うよ」
かけられた言葉に、思わず眉を顰めた。
彼女の姉の七回忌。施主である彼女の両親が娘をずっと見ていたことには最初から気づいていた。
まだ三つになったばかりの娘は、彼女によく似ている。だからこそ口に出さずにはいられなかったのだろう。
「今のままでいいと思っています。私は娘がしたいようにするのが一番だと思っていますから」
「でもねぇ、あなたは初めての子育てでしょう?年長者の意見は聞いておいて損はないと――」
「他人の家のことに口出しをするな」
叔母の言葉を遮り、はっきりと告げる。
途端に顔を歪ませ怒りを露にする様を見て鼻で笑いながら、何かを言われる前に言葉を続ける。
「以前、叔母さんが言ったことです。私や母が、あの子に対する態度を改めるように忠告した時、そう言って聞き入れなかったじゃないですか」
「っ、だけど、あの時とは話が……っ」
「違いませんよ。あの子は叔母さんの理想になったんですから、それで満足してください。今度は私の娘を、変わってしまう前のあの子にしようとしないで」
顔を赤くし、何も言えなくなってしまった叔母に会釈し、娘の元へと向かう。
後ろで何かをわめいているようだが、気に留める必要はないだろう。
「ママ!」
「待たせてごめんね」
駆け寄る娘を抱き留め頭を撫でながら、一緒に待ってくれていた彼女に視線を向ける。
「見ててくれてありがとう。我儘言ってなかった?」
「いい子だった……ずっと、いい子だったよ」
言葉の含みに気づかない振りをして、娘と手を繋ぎながら歩き出す。
名残惜し気に手を伸ばす娘に一瞬だけ泣きそうな顔をした彼女は、そっとその小さな手を繋いで一緒に家を出た。
娘は、彼女のことがとても気に入ったらしい。ご機嫌で歌を歌っている娘を見て苦笑する。
「理想のあなたになれて、周りの反応はどう?」
ふと思いついて彼女に問う。
冷めた目をして彼女は笑った。
「喜んだのは最初だけ。結局、なくしたものに焦がれているに過ぎない」
「だろうね。最初は、ただの目標みたいに言ってたのが、死んでからは本気であなたの代わりにならせようって必死だった。さっきも言っていることはまだ軽かったけど、娘を見る目は同じだった……叔母さんって、昔からないものねだりが強いって母さんが言ってたのを思い出したよ」
手に入らないからこそ、輝いて見える。そしてそれが欲しくて堪らなくなってしまう。
叔母はそういう人だった。
笑う自分は今、きっと彼女と同じように冷めた目をしているのだろう。
「――可愛い」
ぽつりと彼女が呟く。その目は娘に向けられており、柔らかく微笑みを浮かべていた。
「当たり前でしょ。私の自慢の娘なんだから」
「今はね。前は私の自慢の妹だった」
胸を張ってそう言えば、彼女も誇らしげに答える。
何だかそれがおかしくて、声を上げて笑った。
「ママ、ごきげんね」
釣られて娘も笑い、彼女も笑う。
あの日感じた陽だまりのような温もり。繋いだ手から伝わって、それがただ愛おしかった。
20260520 『理想のあなた』
探し物の途中、タイトルの書かれていない本を見つけた。
本棚に並ぶ他の本と変わらない、シンプルだけど綺麗な装丁。タイトルも作者もないその本が気になって、思わず手に取っていた。
背表紙だけでなく、表紙にも何も書かれてはいなかった。不思議に思いながら、何気なくページを捲る。
やはり、中身も他の本と変わらない。等間隔に並んだ活字に、益々謎が深まった。
何が書かれているのだろう。ページを捲り、文字を追う。
――その時の出会いが、きっと私の全てを変えてしまった。
最初の一文に少しだけ眉が寄る。
小説を読むのは嫌いではない。恋愛小説だって読むことはある。
それでも続きを読むのを躊躇したくなったのは、自分の中の気持ちと似ている気がしたからだ。
――入学したばかりの頃、突然雨に降られたことがあった。傘を持ってくるのを忘れて、ざあざあと音を立てて降る雨を憂鬱な気持ちで見ていたのを覚えている。
似ている。気がするのではなく、本当に似ているのだ。
入学して数日後の放課後。急な土砂降りにどうすればいいのか分からず、昇降口で長い間佇んでいた。
――傘を差し出してくれた彼は笑っていた。もう一本あるからだなんて、そんな嘘までついてくれた優しい彼に、私は一瞬で恋に落ちた。
その一文を目にして、反射的に本を閉じる。
「何……この、本……」
本の語り手は自分だ。それはただの予想ではなく、確信だった。
誰が、何のために本を書いたのか。元の場所に本を戻しながら考える。
ただの嫌がらせにしては手が込みすぎていて、何より彼に傘を貸してもらった時に、他の誰かの姿はなかったはずだった。
「そういえば……」
ふと最近噂になっている話を思い出す。
言えない言葉や思いが多くなると、体から溢れてしまうらしい。
その話では、手紙という形で現れるという。言えない言葉を吐き出せば手紙は跡形もなく消えてしまうが、言えないままならその言葉ごと手紙は燃えて、二度とその言葉を口にすることができないのだとか。
本と手紙という違いはあるものの、それ以外では共通するものが多い。
何も書かれていない背表紙を見ながら、唾を飲み込んだ。このまま彼への想いを口にすることができなかったのなら、どうなってしまうのかを想像し、小さく体を震わせる。
「――でも、言える訳がない」
唇を噛み締め、呟いた。
告白する勇気がないというのもある。
だが想いを口にするのを躊躇う一番の理由は、親友もまた彼のことが好きだからだった。
机の引き出しに入っている本を見て、密かに溜息を吐いた。
あれから数日。本は色々な場所に現れるようになった。まるで中身を見ろと言わんばかりに現れる本に、最近は逃げるのを諦めて中身を見るようになっていた。
本の表紙を捲り、新しく記載された部分に目を通す。
――先生に頼まれて運んでいたプリントを、代わりに運んでくれた彼。そのさりげない優しさがとても嬉しくて、同じくらいに苦しい。
無意識に眉を顰めていた。さっき起こった出来事を、自分の気持ちを添えて文字にされているのを読むのはあまりいい気分ではなかった。
――親友が彼と楽しそうに話しているのを見ているのが辛い。早く言わないと、彼を取られてしまうかもしれないのに、言う勇気が出ない。
取られるなど、まるでもののような言い方だ。そんなことは思っていないはずだと、頭では分かっていながら、けれどそう言い切れない自分自身に嫌気がさす。
彼に告白したとして、必ず受け入れられる訳ではない。それに親友との関係が変わってしまうかもしれないことが怖い。そう思っているが、何故か本には一度もそんな不安は書かれてはいなかった。
顔を上げて、教室の入口の方へと視線を向ける。
笑顔で何かを話している親友と彼。胸が苦しくなるけれど、お似合いの二人だとも思ってしまう。
優しい彼と、優しい親友。周りに馴染めない自分を助けてくれたのは、いつだって親友だった。
離れたくなくて、進学先を彼女と同じ学校にした。それくらい自分の中では、親友の存在は大きいのだ。
「言えるわけがない」
ぽつりと呟いて、本に視線を戻した。
ページを捲る。何も書かれていないページをただ見つめていれば、じわじわと文字が浮かびあがってくる。
――結局、何も言えなかった。幸せそうな二人を見ながら言えばよかったと後悔しても、もう手遅れだった。
予言のような言葉に苦笑する。確かに自分は、結ばれた二人を見て後悔するのかもしれない。
けれど自分で決めたことだ。それを後悔するというのは、何だか酷くおかしかった。
込み上げる笑いをかみ殺しながら、またページを捲る。
白紙ではない。そこに書かれていた一文を読んで、目を瞬いた。
――でもこれで、彼や親友への想いを全部、忘れられる。
どういう意味だろうか。
ページを捲っても、それ以降には何も書かれてはいない。待っていても、文字が浮かび上がることは二度となかった。
翌日。
目が覚めると、不思議と心が軽い気がした。
ようやく自由になれたような、そんな晴れ晴れしい気持ち。無意識に表情が緩むのを止められない。
いつもより元気よく家を出て、学校に向かう。見慣れた通学路が煌めいて見えて、益々嬉しくなってしまった。
「おはよう」
教室に入ると、友人がこちらに近づいてきた。
どこか浮かないような、それでいて幸せそうな顔をしている。
話したくて堪らない出来事があるけれど、それを言うのを躊躇っている。そんな友人の様子が不思議で首を傾げた。
「あの、ね。昨日、彼にね……」
おずおずと昨日あったことを話し出す。
放課後に、彼に告白したこと。そして恋人になれたこと。
最後にごめんねと言われて、意味が分からなかった。何故謝る必要があるのだろうか。
「えっと、おめでとう?よかったじゃん」
「え……あり、がとう。でも……」
「でも?……あ、そろそろホームルーム始まるよ」
ちょうどチャイムが鳴り、担任が教室に入ってきた。何かを言いたげだった友人は、けれどそれ以上何も言わずに、席に戻っていく。
彼女のことが分からない。付き合えた報告をされるのもそうだが、もっと嬉しそうな顔をしたらいいのに。
そんなことを思いながら、担任の話に耳を傾けた。
探し物の途中、タイトルだけが書かれた本を見つけた。
「恋物語?」
気になって本を手に取る。作者の書かれていない本は、それでも他の本と同じようにシンプルだけど綺麗な装丁がされていた。
「少しだけ、いいよね?」
誰にでもなく呟いて、本を手に机に向かう。
進路を変更したため、今よりももっと勉強をしなければいけないのだが、今日くらいはいいだろう。
椅子に座り、表紙を捲る。どんな物語なのか楽しみで、ページを捲る手が急ぐ。
どうやら、一人の少女の恋の芽生えから終わりまでを書いた物語らしい。恋と友情の間で迷う感じがリアルで、読み進める手が止まらない。
今日は本当にいい日だ。朝から気分がいいし、そのせいか頭が冴えて本当に行きたかった学校に進路を変更することができた。
そして、この不思議で面白い本にも出合えて、気分は最高に良い。
一瞬だけ友人の顔が浮かんだが、すぐに消える。
今日は何故だか誰かのことを考えたりせず、自分のことだけを考えていたかった。
「そういえば、前もこんなことがあったような……?」
同じように探し物をして、本を見つけた気がする。
その時は何を探していたのだろう。そしてどんな本を見つけたのか。
けれどいくら思い出そうとしても、何一つ思い出すことができなかった。
20260518 『恋物語』
旧校舎の音楽室には、魔物が住んでいるらしい。
普段は聞きながすクラスメイトの噂話が、何故かとても気になった。
どんな夢でも望むままに見せてくれる魔物。けれど対価は、その人の一番大切な記憶。
クラスメイトたちは怖いと言いながら笑っていた。たかが夢のために記憶を手放すなんてありえないと、すぐに興味をなくし別の話題へと移っていった。
旧校舎の音楽室には、甘い夢を見せる魔物が住んでいる。
昼休みの終わりのチャイムが鳴り響く中、いつまでもその噂話が頭から離れなかった。
放課後の旧校舎は、外の賑やかさとは正反対に静まり返っていた。
普段から滅多に使われることのない校舎だ。掃除はされていても、どこか埃っぽさを感じてしまう。
三階の音楽室を目指し、ゆっくりと階段を上がっていく。踊り場のくすんだ鏡に自分の姿が映っているのを見て、反射的に顔を背けた。
鏡は嫌いだ。鏡に映る自分の姿は、もっと嫌いだった。
鏡を見ないように視線を落とし、二階へと上がる。しん、と静まり返った廊下を一瞥して、三階へと上がり始める。
「――何?」
微かに、音が聞こえた。立ち止まり耳を澄ませれば、どうやらそれは歌のようだった。
確信が持てないのは、それが聞いたことのない言葉だったからだ。まるで子守歌のように静かな旋律は、耳に馴染んで心地がいい。
気づけばその旋律に惹かれるように足早に階段を上り、奥の音楽室を目指していた。
音楽室の扉を開けた瞬間、音の波に呑まれた錯覚を覚えた。
息を呑み、立ち尽くす。動けないのは、音だけが原因ではない。目の前に広がる光景が、足を竦ませていた。
床に倒れている数名の生徒。皆微笑みながら、深い眠りについているようだった。
明らかに異様な光景に、逃げなければという焦りが生まれる。それなのに体は扉に手をかけたまま動かず、視線だけが忙しなく教室内を彷徨っていた。
その中で、唯一起きている人がいた。ピアノの椅子に腰かけ、白い横笛をくるくると回しながら、楽しそうに歌っている。
不意に、歌が止んだ。
ゆっくりとこちらを見るその目は、血のように赤い。蠱惑的に微笑むその姿は、人というよりも、完成された彫刻のような美しさがあった。
人ではないのかもしれない。赤い目に見入ったまま、ぼんやりと考えた。
「Bist du auch hier, um süße Träume zu träumen?」
歌うような囁きは、やはり聞き覚えのない異国の言葉。戸惑い目を瞬かせると、美しい誰かは苦笑したようだった。
「あぁ、悪い。故郷の言葉は、ここではなじみがないのだったか」
今度は耳に馴染んだ言葉が、鼓膜を揺する。低くもなく、高くもない声音。さっきまであったはずの焦りや恐怖が、声に解かされていってしまう。
「あなたも、甘い夢を見に来たのか?それならそんな所にいないで、ここまでおいで」
促されて、動かなかったはずの体がゆっくりと歩き始めた。床に倒れている生徒たちのことなど気にもならず、ただ手招く方へと向かっていく。
「お代は、甘美な記憶を一欠片。それだけくれれば、どんな夢でも魅せてやろう」
大仰に礼をして腕を広げるその姿は、道化師のようにも見える。白い指先がこちらに伸び、額に触れるのを感じながら、ふと不安が込み上げた。
甘美な記憶。そんなものが自分にあるのだろうか。
自分の記憶に甘さを感じたことはない。モノクロの世界しか思い出せず、それはいつだって温もりを失った虚しさに満ちている。
姉が病で闘っている時も、そして亡くなった後も、ずっとそうだった。
止めた方がいいのだろうか。そう考えていると、目の前の道化師の笑みが崩れた。
首を傾げ目を瞬き、そしてはっきりと眉を顰め指を離す。赤い目に浮かぶ不快の色を見て取って、密かに落胆した。
やはり自分には、甘い夢を見ることなどできるはずがないのだろう。
「搾取され続け、だがその結果は報われない……一番嫌いなタイプの記憶だ。そんなものしかないオマエに、魅せられる夢などありはしない」
吐き捨てて、道化師は立ち上がる。眉を顰めたまま、手にしていた横笛を構えた。
「Geh nach Hause.いい子は家で好きな夢を見ればいい」
夢など見たことはない。
そう言い返そうとして、けれど笛の音が聞こえた途端、何も言葉が出てこなくなった。
意識が微睡んでいく。体が勝手に動き、音楽室を出て行ってしまう。
自分と同じように、倒れていた生徒も起き上がり歩き出す。そのまま階段を下り、旧校舎を出て。
覚えているのは、そこまでだった。
旧校舎の音楽室には、夢を魅せる魔物がいる。
そんな噂話は、数日もすればすっかり忘れられてしまったようで、誰一人話すことはなくなってしまった。
もうどんな噂だったのかも、はっきりと覚えてはいない。そもそも最近は、思い出す余裕もあまりなかった。
「ほら、今回の自信作」
そう言って机に置かれたのは、綺麗にラッピングされた数枚のクッキー。
「あの、さ。悪いんだけど……」
「さっさと食え。甘くて美味いはずだ」
有無を言わさぬ様子に、仕方がないとラッピングを解き、クッキーを一枚とって齧る。
さくり、とした軽さと甘さが口の中に広がり、重苦しい気持ちと混じって何ともいえない気持ちになった。
ここ数日、友人は菓子作りに目覚めたようで、毎日のようにこうして作った菓子を渡してくる。
最初は素直に喜び、次第に貰うばかりなのが申し訳なくなった。そして今は、渡される度にどうやって断ろうかとばかり考えている。
甘いものを食べ慣れていない自分にとって、友人の菓子は少しばかり重いのだ。
「何度も言ってるけどさ、私以外にもあげられそうな子はいるんじゃないの?」
「何度も言ってるが、オマエのために作っているんだ。それを他のやつに与えてどうする」
相変わらず友人は頑なだ。強制的な優しさに、本当に受け取っていいのかと、少し不安になる。
そもそも、自分はどうやって友人と知り合ったのだったか。
「どうした?」
「――え?」
顔を覗き込まれ、考えていたはずのことが途端に掻き消えた。
目を瞬く。思い出そうとしても何一つ思い出せず、眉を寄せ首を振った。
「些事を気にかけるな。オマエはただ、与えられなかった献身の報酬を享受すればいい」
「何?」
何かを言われた気がしたが、友人は笑って首を振る。
その笑い方を、どこかで見た気がした。けれどそれを思い出すより早く目が合って、そうすれば何もかもが朧げになっていく。
「甘さで満たされたオマエの記憶は、さぞかし美味しいのだろうな」
ふふ、と笑う友人の目が、窓から差し込む光を反射して赤く煌めいたように見えた。
20260517 『sweet memories』