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6/6/2025, 8:44:26 AM

梅雨の合間の青空の下。燈里《あかり》は楓《かえで》と手を繋ぎながら、久方振りの外出を楽しんでいた。
連日続く雨で出来た水たまりを避け、視界に入れないように視線を逸らす。水たまりを恐れる燈里とは対照的に、楓は楽しそうに水たまりを避けて燈里の手を引いた。

「おい。あまり離れるな」

少し遅れて歩く冬玄《かずとら》が声をかける。それに気のない返事をして、楓は表情の硬い燈里を見つめ声をかける。

「大丈夫?どこか、適当にお店に入ろうか」

気遣わしげな楓に、燈里は小さく笑い首を振る。無理をしているのが分かる、作った笑顔。眉を寄せた楓は、けれどすぐに笑顔を浮かべて、背後にいる冬玄に視線を向けながら指を差した。

「水たまりが怖いなら、お店に着くまでお兄ちゃんにお姫様抱っこで連れてってもらえばいいと思うな」
「楓っ!?」

突拍子もない楓の言葉に、燈里は悲鳴染みた声を上げる。
それ以上何かを言う前にと、慌てて止めようとする燈里であったが、それより早く体が抱き上げられた。

「ちょっ、冬玄!降ろしてっ」
「そんなに暴れると落ちるぞ」

抱き上げられた事ですぐ近くで冬玄の目と視線が合い、燈里の顔が真っ赤に染まっていく。慌てて周囲に視線を向け、偶然目が合った通行人が気まずげに視線を逸らして去っていくのを、燈里は泣きそうになりながら見つめた。
恥ずかしさで慌ててばかりの燈里とは対照的に、冬玄は周囲など欠片も気にする様子はない。涼しい顔で燈里を抱え直し、ゆっくりと歩き出した。

「良かったね、お姉ちゃん。これで水たまりなんか見えないもんね」

晴れやかに楓は笑い、足下の水たまりへと視線を落とす。青空を映して揺らぐ水面を一瞥して、二人を追って駆け出した。





「何だか雲行きが妖しいな」

出かけた時とは変わり、空の青は分厚く重い雲に覆われ出している。
手にした荷物を持ち直し、冬玄は横目で二人を確認した。燈里と楓。しっかりと繋がれている互いの手を見て、前を向き直る。二人を気にかけながら、少し前を歩き出した。
湿気を帯びた生ぬるい風が頬や腕を撫で過ぎていく感覚に、不快に眉を寄せる。周囲に視線を巡らせても、来た時とは違い、通行人の姿はどこにも見えなかった。

ぱしゃん。
どこかで水音がした。小さく肩を震わせる燈里の手を、楓は離れる事がないようにと強く握り直す。立ち止まりかけた燈里を促し、歩き続ける。
ぱしゃん。ぽちゃん。
あちらこちらから音がする。視界の隅に入り込む水たまりが、じわりじわりと色を変えていく。
曇天の灰の空から、暗い紺の空へと。雨を待つ昼間から、雨上がりの夜へと移り変わっていく。

「下を向いちゃ駄目だよ。顔を上げて、前だけを見てて」

楓の静かな声に、俯きそうになる顔を燈里は半ば無理矢理に上げた。震え立ち止まりそうになる足を叱咤して、楓に寄り添いながら家路を急ぐ。

太鼓の音が聞こえた。
打ち鳴らす太鼓に続いて、笙や笛の音が響き合う。
雅楽。燈里が以前寺で聞いた、厳かな音色。次第に近づき、それに合わせて複数の足音が聞こえ出す。
不意に前方を歩いていた冬玄が立ち止まる。それに合わせ燈里と楓も止まり、不安げに、訝しげにその背を見つめた。

「――本当にしつこいな」

低く呟く冬玄の足下で、水たまりが大きく揺らぐ。他のものとは違い、その水面に映しているのは曇天と冬玄。
そして、白無垢を着た一人の女。
声にならない悲鳴が燈里から漏れる。思わず冬玄へと近づこうとして、だがそれは楓に強く手を引かれて止まる。
楓を見れば、無言で首を振られる。近づく事で逆に足手まといになると理解して、燈里は唇を噛みしめながらも黙って冬玄を見つめた。

「そこまでして契る事に、何の意味があるんだか」

ゆっくりと近づく女に、冬玄の目が鋭くなる。両手に持っていた買い物袋を地面に置いて、背後の二人を庇うように立ち塞がる。
ぱしゃん、と小さな水音。水たまりが大きく揺らぎ、水面に白の紫陽花が浮かぶ。
たった一輪。だがその白を見下ろし、冬玄は何かに気づいて近づく花嫁を見た。

「ああ。燈里じゃなくて俺か」

無感情な呟き。その表情もまた能面のように。
身を屈めて、落ちた紫陽花を拾い上げる。冬玄が屈んだ事で女の姿をはっきりと見えて、その異様な姿に燈里は一歩後退った。
白無垢の半身が赤に染まっていた。近づく度に背後に赤の道を作るその女の右手には、ひび割れたスマホが握られている。
不自然に体を左右に揺らし、女は歩み寄ってくる。湿った土の匂いに混じり錆びた鉄の匂いが鼻腔を掠め、耐えきれず燈里は服の裾で鼻を覆った。
手を繋いだままの楓は動かない。紫陽花を拾い上げた冬玄も、無言のまま身じろぎ一つしない。込み上げる恐怖で視界が滲み出し、燈里は縋るように手を伸ばした。

「冬玄」

燈里のか細い声に反応して、冬玄の肩が小さく揺れる。静かに立ち上がり、花嫁を見据え。

「燈里」

名を呼んだ。
それは背後の燈里に向けられたものか、或いは目の前の女に対してか。
冬玄はそれ以上何も言わず。近づいた女が差し出す左手を受け入れるように手を伸ばした。

「冬玄っ!」

燈里の声に無言を貫き。女の元へ、水たまりの中へと足を踏み出して。


「っ、あの馬鹿」
「いやっ、冬玄。冬玄っ!」

燈里と楓の目の前で、その姿は水たまりの中へと音もなく沈んでいった。



「楓っ。お願い、離して!冬玄がっ!」
「燈里、いい子だからおとなしくして。無理だよ。あれはもうここにはいない」
「やだっ。いや、聞きたくない。お願い行かせてっ!」

半狂乱で冬玄の後を追おうとする燈里を止めながら、楓は険しい表情で視線を巡らせる。
女の姿はない。しかしまだ、雅楽の音と足音は聞こえている。

「まったく、あの馬鹿は面倒ばかり引き起こして!」

こぽり、と小さな音。辺りの水たまりから次々に浮かび上がる白の紫陽花に、楓は忌々しいとばかりに舌打ちした。
燈里と繋いでいる手とは逆の手を軽く振る。音もなく現れた翁の面を掴むと、燈里を強く引き寄せて涙に濡れる彼女の顔に面を被せた。
びくり、と燈里の体が震えて沈黙する。

「いい子。まずは家に帰るよ。いいね?」

動きを止めた燈里が楓の言葉に頷くのを見て、楓は彼女の手を引いて歩き出す。
水たまりを、そこに浮かぶ紫陽花を避け、雅楽の音色や足音から遠ざかるように急ぎながら。
足を止めぬまま、楓は背後を振り返った。遠ざかるそれを見遣り、纏う気配が鋭くなる。

白の旗。提灯を持つ子供。
花や香炉、供え物や霊膳を持った、喪服姿の人々が歩いていく。
葬列。だがその後に続くのは棺ではない。
黒紋付羽織袴を来た男。その男に朱傘を差し掛ける神職らしき男。
誰もが皆俯き、黙したまま。葬列でありがなら、参進の儀でもある行列が、燈里を追って進んでいく。

「冬玄」

か細い囁き。面の裏で静かに泣いている燈里に視線を向けて、楓は表情を和らげ繋いだ手に力を込める。

「大丈夫。あれは腐っても宮代《みやしろ》の守り神だ。最悪にはならないよ」

でも、と水たまりに浮かぶ紫陽花を見下ろし、楓は続ける。

「このまま梅雨明けを待ち続けるのは、確実ではないからね。あの馬鹿をそのままにしていても、燈里が悲しいだけだし……こちらから、出向く必要はあるかな」

目の前に、白の紫陽花が落ちた。
一つ、また一つと降る紫陽花は、しかし二人に届く前にすべてが赤い花びらへと変わる。
白が振り、赤が舞う家路を進みながら、楓は姿を消した冬玄を思い、顔を顰めて舌打ちした、



20250605 『水たまりに映る空』

6/5/2025, 11:25:35 AM

窓の外。暗い夜空を、楓《かえで》は無感情に眺めていた。
まだ雨は降り続いている。窓を打つ滴が、透明な線を描いて地に落ちていく。
ぽとり。雨に紛れて何かが落ちた。窓に白を張り付かせ、暗い地面を白で覆い尽くしていく。
白の紫陽花。
中へ入り込もうと必死なそれらに、楓は煩わしげに眉を潜めた。

「諦めの悪い……しつこい男は嫌われるだけだろうに」

いつの間にか背後に佇んでいた冬玄《かずとら》が、窓に張り付く紫陽花の装飾花を見つめ吐き捨てた。

「まるで君のようだね。同族嫌悪?」

冬玄の言葉を楓は笑い、窓に視線を向けたまま問いかける。問われ、冬玄はあからさまに顔を顰め楓を睨めつけた。

「お前にだけは言われたくないな。しつこさならば、今も燈里《あかり》の中に居続けるお前の方が上だろうよ」
「燈里は優しいからね。僕を忘れる事が嫌なんだよ。燈里があの祭を覚えている限り、楓の最期を覚えている限りずっと僕はこのままだよ」

楓と冬玄。そして燈里を繋ぐいつかの祭を思い、楓は淡く微笑んだ。

燈里がまだ何も知らない学生であった頃。とある廃村で起きた祭に巻き込まれた事があった。人が絶えた事で終わったはずの祭。しかし廃村に足を踏み入れた無法者が残されていた記録を暴き、祭の話を広めた。終わっていたはずの祭は広まった話によって再び目覚め、かつて村で生きていた者の血を継ぐ燈里が巻き込まれた。

「忘れてしまえばいいだろうに。まあ、あれだけ怖い目にあったんだ。忘れられるはずもないか」
「忘れる事はないのだろうね。一人を手放し、多数が生きる……人間の業をあの子はちゃんと理解して、その上で楓を、僕を覚えていようとしているのだから」

楓という存在は、正しくは遠い昔に村で選ばれた少女の事だ。今燈里の妹としてここにいる楓は、広がった話に祭は続いているという人の認識に応えて目覚めた妖。燈里を選ばれた者として祭に引き込み、そして贄としようとした。
燈里によって否定された祭は崩壊し、妖ごと消えるはずであった。だが他でもない燈里によって、妖は記憶の中に留め置かれ受け入れられて、ここにいる。
害そうとしたモノと害されようとした者。燈里でなければ、こうした穏やかな関係は築かれる事はなかったのだろう。

「僕は燈里の事が好きだからね。それはきっと恋でも愛でもないいけれど、燈里を守るためなら手段を選ばないつもりではいるよ……君はどうだい、トウゲン様?」
「……その呼び名はやめろ」

楽しげに目を細めて笑う楓に、冬玄は嫌そうに顔を顰めてみせる。

「燈里が俺に冬玄である事を望んでいる限り、俺は冬玄だ。トウゲンでもなく、況してシキの北でもない」

シキの北。燈里の巻き込まれた祭を、本来司る妖。それがかつての冬玄だった。選ばれた娘を逃がし、祭の破綻の切っ掛けとなった北の面は、娘が逃げ延びた先でその一族の守り神として奉られた。
そして今、娘の子孫である燈里の婚約者として燈里の隣にいる。

「燈里と契りは結ばないのかい?そうすれば相手も諦めてくれるかもよ」

冬玄は何も答えない。婚約者と言えど、人と妖。所詮は真似事でしかない事を、冬玄は理解していた。

「いずれ燈里も夢から覚めるだろうよ。その時に契りなんざ結んでいたら、足かせになるだろう」
「君って本当に面倒だね。いつまでも覚めない夢を見させているのは、他でもない君自身じゃあないか。手を離すつもりがあるのなら、事ある毎に燈里の交友関係を狭めたりしないだろう。可哀想に、そのせいであの子は未だに恋人の一人も出来なかったんだから」
「……今は俺がいるのだから、必要ないだろう」

心底呆れたと言わんばかりに、楓は溜息を吐く。冬玄の矛盾ばかりの言動に、肩を竦めて頭を振った。

「君のその執着は何だろうね。恋か、愛か、それとも妖として望まれたいという本能か……どれであっても、気持ち悪い事には変わらないのだけれど」
「煩い。俺にだって分からん……だが燈里と同じ気持ちを返せればと。返したいとは思っている」

低く呟く冬玄の表情はどこか苦しげだ。
妖と人と。決して同一にはならない二つは、やはりどこまでも違うのだろう。
恋や愛などの感情が、妖である冬玄には分からない。分からないなりに燈里を思い、それが執着となっている。手を離さなければという理想と、誰にも渡したくないという衝動。その二つを抱え、不安定に佇む冬玄を楓は一瞥し、視線を窓の外へと向けた。
気づけば雨音が止んでいる。いつの間にか雨は上がったらしい。窓に張り付く花は一面を覆い、僅かにも外は見えはしない。
不意に風が窓を揺らした。張り付く花は風に剥がされ、次第にその数を減らしていく。
少しずつ、外が見えてくる。暗い夜の景色が露わになる。

「――随分と熱烈だね。あのままずっと待つつもりかな」

呟く楓の視線の先で、黒い影が佇んでいた。
黒の羽織。そして袴。俯いているためにその表情は分からないが、男が一人窓の外に立っている。
黒紋付羽織袴。それは花婿の正装だった。

「よほど燈里が気に入ったのかな?花婿本人が出てきてしまったよ」
「迷惑でしかないな。燈里には俺がいるのに、往生際の悪い」

戯ける楓に対して、冬玄は忌々しげに吐き捨てた。
随分と余裕がない。そんな冬玄を楽しげに、だが呆れを乗せて見遣りながら、楓は呟いた。

「あれの執着は何だと思う?恋か、愛か、それとも……さて、何だろうね」

問われて、冬玄の顔があからさまに歪む。楓と同じように花婿に視線を向け、くだらないと吐き捨てた。

「ただの未練だろう?考えるまでもない……考える事すら虫唾が走る」

今にも襲いかからんばかりの鋭い目をして花婿を見据える冬玄に、楓は小さく息を吐く。これ以上は本当に外に飛び出して行きかねないと、カーテンに手を伸ばした。
その手が止まる。花婿よりも背後。小さく白の影が見えた。
目を凝らす。その姿を認めて、思わず楓は眉を潜めた。

「――花嫁?」
「どうした?」

沈黙する楓に、冬玄は訝しげに窓の外を覗き。

「増えてるな。花嫁まで来るとは」

遠く見える、白無垢を着て俯く女の姿に嘆息し、これ以上は見たくもないとカーテンを引いた。



20250604 『恋か、愛か、それとも』

6/4/2025, 10:22:26 AM

「おかえりなさい」

無邪気に笑う楓《かえで》に迎えられ、燈里《あかり》は強張る体の力を抜いて微笑んだ。

「ただいま。今日はありがとうね」

抱きつく楓の頭を撫でる。嬉しそうにきゃあと笑い声を上げて、楓は燈里に擦り寄った。
だがその眼は鋭く、険しい。燈里の後ろに立つ、同じように険しい表情を浮かべる冬玄《かずとら》と視線を交わし、さらに強く燈里に抱きついた。

「楓。あのね、傘の事なんだけど」
「そんな事よりも、早く入ろ?帰ったら、ちゃんと手洗いとうがいをしないと駄目なんだよ」

燈里から体を離して、楓は態とらしく腰に手を当て怒ってみせる。普段から楓に言っている事を逆に言われて、燈里は苦笑しながら靴を脱いで上がる。ほら早く、と靴を片付ける前に背を押されて、燈里は仕方がないと一人洗面台へと向かった。


「まさか直接来るとは思わなかったな。余程燈里にご執心らしい」

靴を片付けながら、楓は無感情に呟いた。

「迷惑なもんだ。婚約者がいるってのに、お構いなしとは」

吐き捨てて、冬玄も靴を脱ぐ。脱いだ靴の中に見えた白にあからさまに顔を歪め、舌打ちする。
手を差し入れ取り出されたのは、紫陽花の装飾花。冬玄の手の中でそれは次第に凍り付き、やがては粉々に砕けて消える。

「しつこいな。無駄だと気づけばいいものを」
「まあ、仕方ない。燈里は優しい、いい子だからね」

手を払い靴を片付けながらさらに表情を険しくする冬玄を見て、楓は肩を竦めた。
梅雨が終わるまで。あるいは梅雨が終わってからも、諦める事はないのだろう。
出かける前に楓が手渡した傘は、持ち帰られる事はなかった。一輪、また一輪と増えていく白の紫陽花。転がる傘を埋め、特に内側を余す所なく覆い尽くす紫陽花、はまるで覗く事が出来なかった中を暴き立てるように。
やがて傘は、紫陽花に埋もれ溶けるように消えてしまった。

「二人とも、どうしたの?」

未だに玄関から動かない二人を心配し、戻ってきた燈里が声をかける。

「お姉ちゃん!しばらくお仕事はお休みするんでしょ?じゃあ、明日から何して遊ぼうか?」
「え?……えっと、それは、ね」

嬉しそうに抱きつく楓を戸惑いながらも抱き返し、燈里は冬玄に視線を向けた。
冬玄から聞いたのだろう。まだ了承はしていないと文句を告げる前に、冬玄は態とらしくにこやかに笑い、楓の言葉を肯定した。

「そうだな。今ある資料を纏めて、記事を書いてしまえば暫く休みだ」
「冬玄!」
「言っただろう?俺やこいつの側を離れるなって」

だけど、と言い募る燈里の袖を楓は引く。視線を向けた燈里の眼を見つめ、楓は小首を傾げて笑ってみせた。

「折り紙とか、お絵かきとか……楽しみだね、お姉ちゃん」
「……うん。そうだね」
「無理矢理かよ。怖ろしいもんだ」

嫌そうに眉を潜めるが、冬玄は楓を止めるつもりはないのだろう。楓に頷く燈里を見つめ、そして玄関扉を振り返る。
ざあざあと、扉の向こうで音がする。また雨が降り出したらしい。
その雨音の合間に、何かが落ちる音。とさり、かさりと軽い何かが積み上がっていく。今扉を開ければ、積み上がる何かが雪崩れて玄関に入り込むのだろう。

「お買い物は三人で行こうね。梅雨の間はずっと一緒……お姉ちゃん、約束だよ」

無邪気に燈里の小指に自らの小指を絡め、楓は約束と念を押す。燈里が約束、と微かに呟くのを聞いて満足そうに頷くと、燈里の手を引いて居間へと歩いていく。
二人の姿を視界の隅に入れながら、冬玄は小さく息を吐く。
外ではまだ雨が降り続いている。
扉に伸ばした手を止め逡巡した後、手を下ろし扉に背を向けて、二人のいる居間へと向かった。





「約束だよ」

小指を絡めて、二人密かに笑う。
将来の約束。大人になったら契りを交わすという、二人だけの秘密。

「絶対よ。守ってくれないと駄目だからね」
「うん、絶対守るよ。だから誰の所にもお嫁さんに行かないでね」
「行かないわ。約束する」

額を合わせて囁き合う。お互い真っ直ぐに相手だけを見つめ。

「約束だよ」
「約束するわ」

吐息を重ね、静かに目を閉じる。
距離がなくなり、唇に触れたのは柔らかな熱。

その日交わした約束は必ず叶うものだと、欠片も疑わず信じていた。



白の旗がゆっくりと過ぎていく。
花や香炉、供え物や霊膳を持った、喪服に身を包んだ人々が歩いて行く。その後ろに棺を担ぐ人と位牌を持つ人。
棺を担ぐのは彼の兄と従兄弟だ。そして位牌を持つのは彼の父。
彼の眠る棺を見つめ、立ち尽くす。何も感じない。涙一粒さえ流れなかった。

雨上がりの濡れた地面を、葬列に参加する人々が踏み締めていく。水分を多分に含んだ土を跳ね上げ、濡れた音を立てていく。

「約束、したのに……嘘つき」

呟く声に答えてくれる、愛しい人はもういない。
暖かな腕に抱きしめられる事も、好きだと囁く甘い声も、何もかもを失ってしまった。

「絶対守ってくれるって、そう言ったのに」

葬列が過ぎていく。
俯く人々は皆、彼の早すぎる死を悼み俯いている。

やがて葬列は見えなくなり。

「約束だよって、指切りまでしたのに……なんでっ」

一人きりになって初めて、一筋の涙が頬を伝い流れ落ちた。



20250603 『約束だよ』

6/3/2025, 11:41:10 AM

「お姉ちゃん」

幼い声に呼ばれて、燈里《あかり》は振り向いた。

「出かけるなら、傘を忘れないでね」

そう言って笑う楓《かえで》の腕には、一本の傘が抱かれていた。
それを視界に入れて、燈里は僅かに眉を下げて笑う。いくら梅雨時とはいえ、今日の天気予報では雨は降らないと出ていた。ならば下手に持ち歩かない方いい。荷物としてかさばる事も、置き忘れてしまう恐れもないだろうに。
そう思い、燈里は身を屈めて楓と視線を合わせる。けれども断りの言葉が紡がれるより速く、楓は無邪気に燈里へと傘を差し出した。

「はい、どうぞ。おまじないをかけてあるから、怖いモノが傘の中に入ってくる事はないよ。傘の中を覗かれる事もないし、秘密は保たれるから安心していってらっしゃい」

怖いモノ。それを聞いて、燈里の肩が小さく震えた。
先日取材に行った寺での出来事を、家族の誰にも伝えてはいない。そして現在も続く奇怪な現象を、燈里は何一つ相談する事が出来ないでいた。

「――知ってたの?」

微かに零れ落ちた言葉に楓は小首を傾げ、当然だと笑う。
だがその眼は鋭く、どこまでも真っ直ぐで。その強さから逃げるように燈里は傘へと視線を向けて受け取った。

「見たものを言葉にしないのは、懸命な判断だ。けれど今起こっている事は伝えるべきだね」

とさり。燈里の背後で、何かが落ちる音がした。
硬直する燈里の横を通り過ぎ、楓は身を屈めて何かを拾い上げた。
紫の紫陽花。楓の手のひらに余る程の花房を視界に入れて、燈里は小さく悲鳴をあげた。

「本当に燈里は花と縁があるね。でもこちらの方が底意地は悪そうだ」

楽しげに、だが侮蔑の滲んだ声音で呟いて、楓は花房を躊躇なく握り潰す。
ぐしゃりと潰れた紫陽花は、その瞬間にその色を落として元の白へと変わっていく。手を伝い流れ落ちていく紫を楓は無感情に眺めると、紫陽花を無造作に放り投げる。
宙に投げ出された紫陽花は、じわりと色を赤く染め。形を変えて赤の花弁となり風に舞う。

「上から色を塗り上げるなんてさ。必死すぎて逆に笑えてくるよね」

色を濃くし、黒に近づく花弁が風に流されて消えていくのを見遣り、楓は低く呟く。
だがそれも一瞬。

「いってらっしゃい、お姉ちゃん。気をつけてね」

無邪気に笑顔を浮かべ、燈里を見送った。





ぽつり。
冷たい滴が地面を濡らし、燈里は空を見上げた。
重たい雲から降る細かな雨に、思わず苦笑する。どうやら天気予報は外れたようだ。
楓に渡された傘を差し、家路を急ぐ。赤い無地の傘の柄はどこか温かく、まるで楓と手を繋いでいるようで燈里の表情が綻ぶ。ここ数日の張り詰めた空気が和らいで、傘の礼として何か買っていこうかという気持ちにさせた。
何が喜ぶだろうか。楓を思い、街路樹を歩いて行く。
突然の雨に他の通行人はどこかへ雨宿りに行ったのだろうか、辺りに人影はない。
とても静かだ。雨音以外の音は聞こえない。それにどことなく薄ら寒いものを感じて、燈里は傘を持つ手に少し力を入れ足を速めた。

「もしもし」

雨以外の音。無機質な声に足が止まる。
傘を僅かに持ち上げ視線を巡らせる。進む先に、黒い人影が見えた。
黒の礼服。黒の傘。その顔は傘に隠され、見る事は出来ない。

「もし」

目の前の誰かから、再び声をかけられる。答えるべきかを逡巡し、燈里は警戒しながらも言葉を返した。

「……何ですか?」

黒い傘の男らしき誰かが、ゆっくりと燈里の元へと歩み寄る。雨音と誰かの足音と。近づかれる恐怖に、燈里は傘を深く差し俯いた。
足音が止まる。俯く燈里の視界に入る黒の靴はやや遠い。
それが互いに差した傘の距離だと気づいた時、男は燈里に何かを差し出した。

「こちらを、どうぞ」

白の紫陽花。

目を見張り、息を呑む。だが燈里に差し出された紫陽花を持つ手は、燈里へは届かない。燈里の傘の中へ入る事を拒んでいるかのようだ。

「もし。宮代《みやしろ》燈里様に、御座いますね」

答えられず動けない燈里を前に、男はさらに続ける。

「お受け取り下さい。イワイの花嫁として、燈里様は選ばれたのです」
「イワイの、花嫁……」

紫陽花から視線を逸らせず震える声で呟く。男はそれ以上何も言わず、ただ燈里が受け取るのを待っている。
無音。気づけば雨の音が止んでいる。白の紫陽花が雨露を落とし、揺らぐ。
男が身じろぐ。傘の中、燈里の顔を覗こうとしているのだろうか。しかし傘に阻まれて、見る事は出来ないようであった。
燈里は動けない。首からかけた守袋が熱を帯びていくのを感じ、立ち尽くす。
今動くのは、最善ではないのだろう。


「燈里」

背後から誰かに声をかけられ、燈里の肩が跳ねる。
聞き馴染んだ声。背後を振り返る燈里の視界の隅で、紫陽花を差し出していた男の手が下ろされていくのが見えた。

「冬玄《かずとら》」
「遅くなってすまないな」
「ううん。来てくれてありがとう」

微笑んで燈里は冬玄へと腕を伸ばす。その手を取って引き寄せる冬玄は、どこか険しい表情をしながらも燈里を強く抱きしめた。
手にしていた傘が落ちる。開けた視界で、燈里は冬玄に凭れながら辺りを見回した。しかしあの黒い傘を差した男はすでに街路樹を抜けて、そのまま去っていった。

「こう危ない事が続くようなら、無理矢理にでも仕事を辞めてもらうぞ」

厳しい言葉に、燈里は何も言わない。しがみつくような強さで冬玄の服を握り締め、しばらくしてから深く息を吐いた。

「冬玄」
「何だ?」

呼ばれ、冬玄は腕の中で未だに震える燈里に視線を向ける。

「イワイって……何?」

強く服を握る手はそのままに、顔を上げて燈里は冬玄を見つめ問いかけた。

イワイ。
聞き覚えのある言葉は、以前訪れた寺にて燈里とよく似た少女が言っていた言葉だ。

――白の紫陽花は、イワイと契る者の目印。

忘れようとしていた記憶が思い起こされる。水たまり越しに見たものが、浮かび上がる。
否定し続けていたが、これ以上は誤魔化せない。

花婿・花嫁葬列を見てしまったのだ。


「さてな。俺も初めて聞くが……だが、碌なもんではない事だけは確かだな」

険を帯びた冬玄の目が、燈里の落とした傘に注がれる。
その険しさに不安を覚えながらも振り返る、視線の先。
転がる傘。雪のように降り積もり傘を埋める、その白は。

「燈里。梅雨が明けるまでは、仕事を止めるか減らせ。俺やあいつの側から離れるな」

夥しい数の紫陽花の花のものだった。



20250602 『傘の中の秘密』

6/2/2025, 10:45:52 AM

雨の降り頻る夜。
村は静かに眠りについている。灯りはすべて絶え、出歩く者など誰一人おらず。
やがて、雨が上がった。だが辺りは不気味な静寂に包まれ、蛙の鳴き声さえも聞こえてはこない。
生きるものすべて、死に絶えたかのような無音。深い暗闇に呑まれ、沈んでいく。

ふと、音がした。遠く微かに、低い太鼓の音が響く。
太鼓に合わせ、奏でられるは高い笛の音。どこか寂しげに聞こえる音色が、厳かに静寂を乱していく。
音が近づく。ゆっくりと静々と村を横切り、奥の寺へと向かっていく。
大勢の足音。仄かな提灯の灯りに、その異様な姿が露わになる。
それは喪服に身を包んだ行列だった。俯き歩く誰もに生気はない。ただ黙々と、寺へと向かい歩いて行く。
その中心。赤い番傘を差し掛けられた人影があった。黒紋付羽織袴を着た年若い男。やはり俯きながら、静かに歩いている。
音が過ぎていく。やがては寺の前までつき。
音色が止まる。足音が止まり。
その行列は、闇夜に解けるように。
音もなく静かに、消えていった。

雨が降り始める。
境内の脇に咲いた紫陽花を濡らしていく。
ぽとり、と。雨に紛れて小さな音。


真白い紫陽花の花がひとつ、落ちていた。



その村には、花婿・花嫁葬列という伝承がある。
梅雨の時期、雨上がりの夜。
花婿、あるいは花嫁の葬列がどこからともなく現れ、村の奥の寺へと向かうのだという。
だが、それは死者の行列。
決して、その姿を見てはいけない。
もし見てしまったのならば、その者は死者に見入られて。寺の中で、婚姻を結ばれてしまう――そう言い伝えられていた。





雨が上がった。
傘を打つ音が消え、彼女は構えていたカメラから顔を上げる。
雨に濡れ、色を濃くした境内の石畳。その脇には赤や青、紫の紫陽花が咲き乱れ、人の訪れを待ち望んでいる。その奥の本堂もまた雨に濡れ、屋根を伝い落ちる滴が雲越しに注ぐ光を反射し煌めいた。
傘をたたみ、空を仰ぐ。厚い雲に覆われ、陽の光は差し込まないが、まだ日暮れには遠いようだ。
時計を確認する。午後三時。やはり、日暮れは先だ。

「今日はもう、切り上げようかな。必要な写真は、もう撮ったし」

誰にでもなく呟いて、片付けを始める。寺の軒下に置いていたバッグにカメラを詰め、肩にかけた。
ふと、辺りが異様に静かである事に気づく。雨が上がったというのに、虫や蛙、鳥の声がしない。まるで世界から一人取り残されてしまったような、そんな錯覚に彼女は胸元の守袋を握り締めた。

「大丈夫。大丈夫」

何度も繰り返し、自身に言い聞かせる。
まだ夜には遠い。今回取材に訪れた、この村で語られている伝承は、雨上がりの夜に現れるのだと聞いている。
もう一度、空を見上げた。厚い雲越しであっても、まだ日は十分に高い。夜の訪れはまだ先の事だ。
一度深呼吸をして、ゆっくりと歩き出す。後ろを振り向かないように、前だけを見る。
山門の近く、降り続く雨によって出来た水たまりが、道を塞いでいる。足を踏み入れないように大きく迂回して。

何気なく、その水たまりを覗いた。

「――っ」

目を見張り、息を呑む。
空を写しているはずの水たまりは、暗闇に沈んでいる。月や星明かりのない、昏い夜の装いをした世界が、水たまりという境界を隔てて存在していた。
低く、高く。太鼓や笛の音が聞こえた。荘厳に響き渡る音色は雅楽だ。水たまりの向こう側で、参進の儀が始まったのだ。
握り締めた守袋が熱を帯びる。見てはいけない、ここから一刻も早く逃げろと、忠告している。だが逸る気持ちとは裏腹に、彼女の体は縫い止められたように動かず、視線は水たまりに注がれたままだった。
音が近づく。次第に複数の足音が聞こえだし、暗闇の奥から淡い光が現れた。
提灯の灯り。ゆったりと近づき、行列の姿をぼんやりと浮かばせる。
提灯を持つ子供の手。闇夜に浮かぶ白の旗。
死者の行列を、見てしまう。


「お姉さん」

手を引かれ、後ろに倒れ込む。
その瞬間に体の自由を取り戻し、彼女は小さく蹲るようにして強く目を閉じた。
守袋を抱きしめ、必死で今見たものを脳裏から消していく。何も見なかったと強く念じ、聞こえ続ける雅楽など幻聴だと自身に言い聞かせて、ゆっくりと呼吸を繰り返す。

「水たまりって境界になる事、知らないの?そんな仕事をしているのに、今までよく無事だったね」

淡々とした、感情の伴わない少女の声音。
ぱしゃん、とすぐ側で水音がした。はっとして目を開けて視線を向けば、制服姿の少女が無心で石を水たまりに投げ入れているのが見えた。
ぱしゃん、ばしゃんと水が跳ねる。その度に未だに聞こえる雅楽や複数の足音が掻き消され、やがては何も聞こえなくなる。

「お姉さん」

石を投げ入れていた手を止めて、少女は彼女を呼ぶ。
やはり凪いだ声音で、ただ事実だけを彼女に突きつける。

「梅雨の間、紫陽花に触らないで。色に関係なく、写真越しでも絶対に」
「――どうして?」

声を震わせ、それでも彼女は問いかける。
紫陽花に、何の関係があるのか。聞いた伝承を思い返せど、彼女には思い当たる節は欠片もなかった。

「白の紫陽花は、目印だから」
「目印?」
「本当に何も知らないんだね」

僅かに呆れを乗せて少女は呟いた。
ゆっくりと振り返る。少女の姿に驚き息を呑む彼女を見下ろして。

「葬列を見た者の元に届けられる白の紫陽花は、イワイと契る人だという目印なんだよ。触れたら最後、寺の奥へと連れ込まれてイワイと契らされる……色があっても、本物でなくても駄目だ。それに触れた瞬間に色が抜け落ちて、白になってしまうから」

声音と同じく凪いだ目をして告げる少女は、彼女とよく似た顔をしていた。

「あなたは……?」

彼女の問いかけに、答えはなく。
少女は無言で踵を返し、呆然としたままの彼女を置いて、山門をくぐり抜け去ってしまう。
慌てて立ち上がり少女を追うが、その姿は既に遠く。
少女の背が村の中へと消えていくのをただ見つめ、彼女は守袋に触れる。
先程まで帯びていた熱はない。恐る恐る覗き込んだ水たまりも、どんよりとした雲に覆われた空を写すのみで、夜の気配はどこにも見えなかった。
ぽつり。見下ろす水たまりに波紋が浮かぶ。
ぽつ、ぽつりと波紋は数を増やして。
見上げた空から、絹糸のように細い雨が降ってくる。慌てて差した傘を、雨は静かに濡らしていく。

――梅雨の間、紫陽花に触らないで。

少女の言葉を思い出す。
振り返り、境内の脇で咲き乱れる紫陽花を見遣る彼女の目の前で。
ぽとり、と。

真白い紫陽花の花がひとつ、落ちた。


20250601 『雨上がり』

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