髪を梳く手の心地良さに目を細めた。
意識が微睡み出したのを察して、小さく笑う気配がする。手が髪を滑り、腰の高さで止まる。
鋏の冷たい金属の刃が、髪に当てられる感覚がした。しゃり、という小さな音と共に、長く伸びた黒髪が断ち切られていく。
「――」
音がした。
それは声のはずだった。けれども自分の耳には、ただの雑音としてしか届かない。
一番最初に忘れてしまったもの。会えない日々が声の形を曖昧にさせ、消してしまった。
しゃりしゃりと、鋏が音を立てる。彼を想い伸びた髪を、彼の鋏が切り落としていく。
今振り向いたとして、彼の姿は残っているだろうか。
確かめるのは怖かった。声のように輪郭をなくしているのかもしれないと思うだけで体は震え、動けなくなってしまう。
心地良かったはずの微睡みは消え、冷たさだけが残される。
随分と臆病になってしまった。それだけ長い時が過ぎていた。
きん、と金属が擦れる音がして、体が少しだけ軽くなる。
俯く視界の隅で、切られた黒髪が落ちている。まるで黒い蛇の亡骸のようだ。
「っ、待って!」
消えていく気配に、咄嗟に振り返る。
けれどそこにはもう、誰もいない。切られたはずの髪すらなくなっていた。
夢の終わりが近いのだ。
「行かないで……」
霞み始める世界に、無意味だと知りながら手を伸ばす。
触れるものはない。感じる温もりは彼のものではない。
熱く冷たい滴が頬を伝う。またひとりきりの一日が始まることが、ただ空しい。
朝を迎えれば忘れてしまう感情。
夢から醒める前に、切られた想いを伝えればよかった。
何度も繰り返した後悔を抱きながら、浮かぶ意識に身を委ねた。
瞼の向こうの明るさに、目を開けた。
いつもと変わらない朝。今日一日の予定を考えながら体を起こす。
「やな天気」
カーテンを開けて見た空は曇天。雨が降るでも、晴れる訳でもない中途半端さに溜息を吐いた。
今日もやるべきことは多くある。一人で生きていくのに、天気ひとつで憂鬱になっている暇などはない。
そうは思うが、重苦しい灰色の空と同じように気分は重くなる。窓を開けていないのに、湿気が腰まで伸ばした髪に纏わりついて重さを増しているようだ。
そう考えて、さらに憂鬱さが増した。
何だか、今日は調子が悪い。夢見が悪かったのかもしれない。
覚えていない夢に八つ当たり気味に不満を抱きながら、身支度を整えるため空に背を向けた。
髪を梳く手の優しさに、思わず笑みが溢れた。
また夢が見られることが嬉しい。ほんの僅かでも彼を覚えているのだと安堵する。
地を這う黒髪に視線を落とす。忘れていく彼を想い伸びた髪。梳かれる度に揺れ動き、彼の手に甘えているようだ。
不意に彼の手が止まった。肩の高さで鋏が髪に触れる感覚に、思わず息を呑み込む。
いつもとは違う動き。彼の想いを根源から断ち切られるようで、かたかたと体が震え出す。
止めなくては。このままでは完全に彼を忘れてしまう。
まだ彼を覚えていたかった。欠片でも、醒めたら忘れてしまう夢の中だけでも彼の側にいたかった。
「待っ……!」
振り返ろうとするも、彼の手がそれを制止する。
肩に置かれた彼の手。振り解こうと思えば容易にできるほどの軽い力だというのに、途端に体は動けなくなる。
体が震え、視界が滲む。再び鋏が髪に当てられる感覚に、唇を噛み締め目を閉じた。
「――」
音が聞こえる。雑音になってしまった彼の声が何かを囁いている。
聞こえないと理解していても、彼の言葉を拾おうと耳を澄ませた。
「――必要ありません」
声が、言葉が聞こえた。
彼の声だろうか。忘れてしまったその響きを確かめる術はない。
しゃり、と髪が切られていく。優しく丁寧なその手つきが、自分の中の不安や恐怖を解かしていく。
「もうすぐ戻ります。長く一人にさせて申し訳ありませんでした」
柔らかな声音に恐怖とは違う思いが溢れ、滴となって頬を伝い落ちる。
しゃきん、と鋏の音。鎖のような髪が背を滑り落ち、体が軽くなったのを感じた。
両肩に手を置かれる。その温もりに促されるように、そっと目を開けた。
「あ……」
目の前に置かれた姿見を見て、小さく声を上げた。
肩で切りそろえられた黒髪が揺れている。肩に手を置いて、彼が優しく微笑んでいる。
懐かしい記憶。こうしていつも彼が髪を切ってくれていた。
彼の姿も声も、はっきりと覚えている。忘れて消えてしまった訳ではないことが、何よりも嬉しい。
見つめる姿見が不意に揺らぐ。涙のせいだけではない。そろそろ夢から醒めるのだろう。
姿見に映る彼もまた揺らいでいく。醒めてしまう前にと、振り返り想いを口にする。
「ずっと……ずっと信じてた!帰ってくるのを待ってたの!」
彼の帰りを信じて、髪を切らずにいた。髪を切るのは彼だけだと、待ち続けていた。
伸ばした手が引かれ、抱きしめられる。懐かしい温もりと、ふわりと鼻腔を擽る香りに彼を感じて強くしがみついた。
「ありがとう。夢から醒めたら、また髪を切らせてください」
その言葉に、強く頷いて笑みを浮かべた。
髪を梳かれる手を感じて目を開けた。
「おはようございます。ただいまもどりました」
柔らかな微笑み。髪を梳く手の心地良さに目を細めた。
促されて起き上がる。手を伸ばして抱き着けば、確かな温もりが伝わってくる。
「おはよう。おかえりなさい」
そう囁けば、もう一度ただいまと声が返る。たったそれだけのことが、泣きたいくらいに幸せだった。
「朝食を済ませたら、髪を切らせてください。その後は二人で出かけましょう」
昔のように。
次々と浮かぶ記憶を思い浮かべ、小さく頷いた。
髪を梳く、愛しい手。
彼を想い伸ばした髪を、彼の手で切り揃えられる。
当たり前だった日常が戻ってきた。長い夢から醒めたようだ。
嬉しくて、幸せで。
彼の胸に擦り寄り、夢から醒める前に伝え忘れた言葉を彼に告げる。
「大好き」
一瞬驚いた彼がふわりと微笑む。
「僕は愛しています」
額に触れる唇の熱と共に降る言葉に顔が赤くなるのを感じながら、私も、と彼の頬に口づけながら囁いた。
20260320 『夢が醒める前に』
鮮やかな色彩に、目が覚めた。
起きてはいる。だがその表現が、今の自分には一番相応しい。
今まで、空の青の違いを気に留めたことはなかった。四季折々に咲く花の艶やかさも、その花に集う生き物の美も何もかも、知ろうとはしなかった。
「きれい」
無意識に溢れ落ちた言葉は、風に攫われ消えていく。代わりにひとひらの花びらが手の中に降ってきた。
「きれいだ」
心からそう思う。
世界はとても美しい。息づく命が愛おしくて堪らない。
手の中の花びらを風に乗せ、微笑みを浮かべた。
何も感じず、無意味に時が過ぎていくのを見つめていた頃には戻れないのだろう。
とくり、と鼓動が跳ねた。
初めての感覚。戸惑い、そっと胸に手を当てる。
とくとくと、規則正しい音を感じる。数多の生が刻むそれと同じリズムに、目を瞬いた。
生きている。
当たり前のような奇跡。泣きたくなるほどの喜びに、胸の高鳴りを覚えた。
「――あ」
揺れる輪を見つめ、ぼんやりと首を傾げた。
目を開けたまま、夢を見ていたような気がする。おかしなこともあるものだと、輪から目を逸らし、何気なく室内を見回した。
ベッドと机、棚にクローゼット。見慣れた自室の光景が、どこか物珍しく感じるのは夢の影響だろうか。
夢の残り香を飛ばすように頭を振り、ベッドに向かう。未だに揺れている輪が煩わしいが、夜もすっかり更けてしまっている。片付けるのは明日でもいいだろう。
電気を消し、ベッドに潜り込む。胸の高鳴りを感じていたが、目を閉じれば途端に睡魔に襲われる。これなら眠れそうだと、そのまま身を委ねた。
いつものように登校し、代わり映えのない教室で一日を過ごす。
周囲の視線は相変わらずだが、いつもよりは大人しい。こちらの様子を伺うような気配を感じるものの、態々相手にするのも面倒だった。
「――おい」
反応がないことに焦れたのだろうか。放課後になり、生徒が複数人でこちらに近づいてきた。
「お前、何で……っ」
生徒の言葉を、視線だけで黙らせる。
何人でいようと、所詮は子供。自分たちよりも弱い者にしか強く出れない子らの相手をするのは時間の無駄だ。
怖気づいたように後退る生徒を一瞥し、何も言わずに席を立つ。騒めく周囲など気にも留めず、帰宅するため教室を出た。
烏の鳴き声が聞こえた。
途端に、あちらこちらから小さな悲鳴や怯える気配がする。視線を巡らせれば、廊下を歩く生徒や教師までもが皆一様に俯いている。顔を上げて目を合わせることを恐れているかのようだ。
そういえばと、向けられる視線の原因を思い出した。
帰り道で烏と目が合ったと、恐慌状態に陥っていた生徒を、家まで送り届けたことがあった。その生徒は数日学校を休んでいたが、今は問題なく復帰しているはずだ。
その生徒の休みの原因を、自分が何かをしたからだと疑われた。反論も弁解も許されず、一方的な断罪を受けていた。
くだらない。内心で吐き捨てる。
親切を仇で返すのは、いつの時代になっても変わらない。一度恐怖を覚えると、猜疑心に蝕まれ支配されてしまうのは何故なのだろう。
答えのない、人間の愚かさの理由を考えながら、学校を出る。
先程よりも、烏が鳴く声がはっきりと聞こえる。『目』を警戒し、仲間に知らせているのだろう。
生徒や教師は烏に怯えているが、本当に警戒しなければならないものは『目』の方だ。
『目』という表現も正確ではない。だがそれを正しく表すことのできる言葉を、自分は知らなかった。
ただそこにあるだけのもの。しかし僅かでも覗き込めば、殆どの人間は一瞬で壊れてしまうのだろう。人間の理解を越えた先にある存在を見て正気を保っていられるなど、ごく僅かだ。
「昨日よりも学校に近づいているな」
飛び去っていく烏の群れを見ながら独り言ちる。近くに感じる『目』の気配に眉を寄せた。
最初の犠牲者が烏に『目』を重ねた理由は不明だが、今も烏と目についてしか言葉を話さないらしい。まだ当分は烏と目を合わせると狂うという噂はなくならないなと、肩を竦めて家路を急いだ。
夜。
ふと目が覚めた。
暗がりの中、視線を巡らせる。天井、カーテンレール、カーテン。
必死に輪にしたカーテンが元に戻っていることに酷く落胆した。やはり無理があったのだろうか。ならば別の方法を考えなければいけない。
「まだ朝は来ない。もう少し眠っていろ」
声がした。それは自分の声によく似ていた。
体を起こしかけた中途半端な体勢で目を瞬く。辺りを見回しても、自分以外にこの部屋には誰もいない。
「花畑は飽いたか?ならば次は海にしようか」
声は優しく語りかける。しばらく感じることのなかった悪意のない穏やかな声音に、思わず泣きそうになった。
姿の見えない誰か。
恐怖はない。自分には外の人たちの方が恐ろしく感じられる。
どこにいるのだろう。呼びかけようとして、唇がうまく動かないことに気づいた。
どうしてだろうか。不思議に思い、そっと唇に手を触れた。
「無理に目覚める必要はない。傷が癒えるまで、ゆっくりと休息を取るべきだ」
声がする。自分の口から優しい言葉が紡がれている。
一緒にいる。自分の中にいてくれる。
理解した瞬間に、瞼が重くなってきた。ベッドに横たわり、そのまま目を閉じる。
意識が沈む。遠く、潮騒の音が聞こえてくる。
もう大丈夫。
胸が高鳴るのを感じながら、甘い夢の世界へ身を委ねた。
朝の陽射しに目を開けた。
胸に手を当てる。とくとくと刻む鼓動に口元が緩んだ。
「案ずるな。もう大丈夫だ」
囁いて、体を起こす。また代わり映えのない一日を過ごすため、身支度を整えていく。
その日常もそろそろ崩れてしまうのかもしれないが。
自分には関係のないことだ。『目』を見て壊れた人間の末路など、気にかける必要はない。
「さて、急がないとな」
笑みを浮かべ、部屋を出る。
微かに烏の鳴く声を聞きながら、波打ち際ではしゃぐ自分を感じて胸を高鳴らせた。
20260319 『胸が高鳴る』
目を覗き込まれている。
閉じた瞼の向こう。すぐ側で誰かに見られている。
そんな感覚を覚えるようになったのはいつからだっただろう。
最初は気のせいだと思った。時折違和感を感じる程度のそれを、然程気にも留めなかった。
だが次第に違和感は強くなってきた。目を閉じると感じる何か。それが視線だと感じた時には、きっとすべてが手遅れだった。
視線を感じ、反射的に目を開ける。
カーテン越しに降り注ぐ朝の光。また一日が始まったことに、そっと安堵の息を吐いた。
軽く頭を振り起き上がると、ベッドから抜け出す。体は重く、立ち上がった途端にふらついてしまう。安静にすべきなのだろうが、このまま横になって睡魔に襲われる恐怖を思うと、多少無理をしてでも起きていたかった。
「大丈夫。ただの気のせいだ」
いつものように、声に出して自分自身に言い聞かせる。
もはや意味をなしていないこの行為を続けているのは、僅かな望みに縋っているというよりも、ただ目を逸らして逃げているだけなのだろう。
そんなことを思いながら、身支度を整える。カーテンを開ければ変わらぬ景色が、自分を置き去りにしていつもと同じ日常を始めようとしているように見えた。
「今日も大丈夫。いつもと変わらない」
縋るように繰り返す。どこかで烏が鳴く声に朝から不吉だと思いかけ、慌てて否定する。
思った所で変わらない。そう理解はしているが、できるだけ不吉だの縁起が悪いだのと考えたくはなかった。
気を逸らすように時計を一瞥し、窓に背を向け部屋を出る。
自分もいつもと同じ日常を過ごすのだと、ふらつく足に力を込めた。
「世界とは時に残酷で、不条理なものなのです」
声がした。
聞き覚えのある言葉に、自分が夢を見ているのだと気づく。
「どうか心を強くお持ちください。深く考えることがありませぬよう」
早く起きなければ。目を開けなければと意識だけが急くが体は指先一つ自由にならず、視線の先で揺らぐ住職の姿も、消えることはない。
「もはやそれしか、あなたを現世に留める術はありません」
硬い表情で、それでいてどこか悲しみや憐みを浮かべて住職は告げる。
所詮は他人事なのだ。込み上げる不快感に顔を背け、目を閉じる。
閉じて、しまった。
「っ……!?」
咄嗟の自分の行動を悔やむものの、もう遅い。
閉じた瞼の向こう側。すぐ側で誰かが目を覗き込んでいる。
感情の浮かばない、無機質な目。他には何もない。息遣いも、鼓動も感じない。
ただ視線だけを強く感じる。触れ合いそうなほど近くで見ている目だけを意識してしまう。
早く目を開けなければ。このままでは戻れない。
「心を強くお持ちください」
住職の声がする。
感じる目の恐怖から駆け込んだ、いくつかの寺の内のひとつで出会った人物。
どこへ行っても門前払いだった自分を招き入れながら、何もできぬと手を離した男。
「深く考えてはいけません」
固く閉じた瞼が震えた。
力を入れてこじ開けた隙間から、光が差し込んでくる。
「気づいてしまえば引きずり込まれ、戻ることは叶わない」
微かな警告の言葉に眉を顰めながら、残る力を振り絞った。
「――あ」
目を開けた瞬間に視界を染めたのは、朱の光。
気づけば夕暮れ時。遠くで烏の鳴き声を聞きながら、手にしていた本を閉じた。
本を読んでいる間に、いつしか眠ってしまったらしい。
溜息を吐きながら、本を手に立ち上がる。
閉館時間の近い図書館内は、いつもより人が少なく閑散としている。だからなのか、余計に烏の鳴き声が耳についた。
「そういえば……」
眉を寄せながら、ふと思い出す。
瞼の向こう側の目を感じる前、一羽の烏と目が合った。
無感情な黒く塗れた瞳。あの時は気にならなかったそれが、何故か酷く気になった。
――深く考えてはいけません。
どくり、と心臓が嫌な音を立てた気がした。
烏が鳴いている。その異様さに気づき、体が硬直した。
館内で烏の鳴き声が聞こえるはずはない。いくら人が少ないからといって、鳴き声以外の音が何も聞こえないなどありえない。
次々と浮かぶ疑問に、かたかたと体が震え出す。これ以上考えてはいけないと思うのに、考えることを止められない。
思い出す、目を開けた時の朱の光。夕暮れを、窓のない館内にいて感じることができたのか。
――気づいてしまえば。
住職の警告も、もはや意味がない。
自分の目は今、図書館内を見ている。だが、感じるのは烏の声。吹き抜ける風の冷たさ。香る草花の匂い。
視覚以外が、外にいるのだと訴えている。夕暮れの、烏と目が合った時のまま自分は立ち止まっている。
「あぁ……」
気づいてしまえば、その瞬間に視界が変わる。夕暮れの寂れた道端に佇んでいる。
烏の姿はない。鳴き声だけが響いている。
目を閉じれば、現れるのだろうか。
「――違う」
無意識に声が出ていた。
今更、目を閉じても閉じなくても変わらない。閉じた瞼の向こう側にいるのではない。
気づいてしまった。乾いた笑い声が喉を震わせ、見開いたままの目から涙が流れ落ちていく。
「最初から、いた……目が合った時に、もう……焼き付いて……」
目は最初からあった。
瞼の裏側に焼き付いて、閉じる度に目が合っていた。
――世界とは時に残酷で、不条理なものなのです。
住職の言葉を思い出す。
確かに不条理だ。自分はただ烏と目が合っただけ。たったそれだけで、目が焼き付き離れなくなってしまった。
泣きながら笑う。滲み揺らぐ視界で、影が伸びていく。
翼を生やした自分の影に見えるが、違うのだろう。
影が揺らぐ。湧き出た黒い靄が体を包み込み、目を覆う。
しばらくして離れていく靄に浮かぶ一対の黒い瞳。焼き付いていたはずの目が靄に移り、触れ合いそうなほど側で目を合わせている。
体は靄に包まれ動けない。瞼は靄に縫い付けられてしまったのか、もう閉じることができない。
「あぁ、不条理だ」
笑いながら呟いた。泣きながら叫んだ。
けれどすべては意味のない行為。
最初から手遅れだった。
これから先も、自分は目を合わせ続けるのだろう。
終わりはない。
永遠に目は離れない。
20260318 『不条理』
「泣かないよ」
こちらに背を向け、彼は言う。
その視線の先には、小さな墓石。石を積み上げただけの簡単なその墓に、けれど埋まるものは何もないのだと知っている。
「泣きたいのはこの子たちだもん」
この子たち、というのは、今も彼の周りで漂ういくつもの小さな光のことだろう。
人の叶わなかった願いや後悔でできた光。彼はずっと、この光を見て、思いを聞いて生きてきた。
元来優しい子なのだろう。感受性が豊かであるが故に、こうして光が集まってくるのかもしれない。
また一つ、光が空から落ちてきた。見上げる空の果てに、流れた星の名残が白の線を描き、夜に解けて消えていく。願いを託された星が抱えきれず、あるいは受け取れずに溢れてしまったのだろう。
「ごめんね。お墓を作ることしかできなくて」
漂う光に優しく告げて、彼は作ったばかりの墓に手を合わせる。幼いなりに必死に考え、叶わぬ願いのための供養をしているつもりなのだろう。その純粋な心が痛ましく、泣くまいと耐える小さな背をそっと抱きしめた。
「泣いてもいい」
静かに告げる。大丈夫だと頭を撫で、それこそ願うように囁いた。
「泣いていいんだ。泣けない思いの代わりではなく、自身の心の望むままに泣いて叫べばいい」
「でも……」
「感情に蓋をして閉じ込めるな。でなければまた一つ、星に還れぬ光が増えてしまう」
戸惑い迷う彼を包み、大丈夫だと繰り返す。周囲の光もまた、同意するように瞬いた。
気づけば周囲には光が溢れ、まるで星空の中にいるかのようだ。腕の中で彼が感嘆の声を漏らすのが聞こえた。
「――きれい」
「元は星だからな」
星から溢れ、地上に落ちてしまったもの。叶わぬ願いの重さに大地に繋がれ、空に還ることもできない残り香。
その意味を理解して、彼はぽつりと呟いた。
「お星さまにはもう、戻れないのかな」
彼はやはり、どこまでも優しい。
苦笑して手を離し、近くの光を手に取った。振り返り、不思議そうにこちらを見る彼に微笑んで、そっと光に息を吹きかける。
「っ、わぁ……!」
ふわりと浮き上がり、ゆっくりと空へ上っていく光に、彼は目を輝かせた。食い入るように夜空に解けていく光を見つめ、頬を上気させて手を伸ばす。
「今の、どうやったのっ?僕にもできる?皆、お星さまに戻れるの?」
「落ち着け。そんなに一気に聞かれても答えられない」
矢継ぎ早の問いかけに口元を緩ませながら、伸ばされた手に自らの手を添えた。
ぺたぺたと手のひらや指の先に触れ、時に裏返して真剣に考えている。問う形はとっても自分で考えようとする姿勢はとても好感が持てた。
「手から何かが出てたのかなぁ?でも、ふって、息を吹いてたし、その時にお星さまになったのかなぁ……」
「星から溢れたものが、星そのものになるわけではないよ」
色々と考えることは良いことだ。彼の思考を否定するのは忍びないが、一つだけ訂正する。
「違うの?」
「正確にはね。星になるのではなく、空や星に解けて還ったんだ」
違いがよく分からないのか、彼は首を傾げて眉を寄せる。
「それは……この子たちにとって、幸せなこと?」
「幸せかどうかは分からないが、本来あるべき形には戻れるな」
「そっか……」
周囲の光を見つめ、彼は柔らかく微笑んだ。
握られたままの手を逆に取り、その手のひらに光を乗せる。目を瞬く彼の前で、もう一度光に息を吹きかけた。
「あ……」
瞬く光の中に浮かぶものが見えたのだろう。ふわりと浮かぶ光を目で追いながら、彼は小さく声を上げた。
叶わぬ願いを映した光。膝を抱えて蹲る少年の姿を浮かばせたそれは、息を吹きかけた瞬間に外を自由に走り回る姿に変わった。
「願いが叶った?」
「現実は変わらない。この光の中の子は今も、走ることはできないだろう……私がしたのは、ただ夢を見せているだけだよ」
「夢……?」
空へと解けた星を見届け、彼は切なげに目を細めた。
何を思っているのだろうか。泣いているようにも、安堵しているようにも見える横顔からは、正しく感情を推し量ることができない。
ややあって、彼はこちらへ向き直った。
真っ直ぐで純粋な目。強い意思を湛えて、願いを口にする。
「それは僕にもできる?」
「やり方は教えよう。やってみるといい」
そう告げると、彼は頷いて光を手のひらに乗せた。
光の中に一人きりで泣いている幼い少女の姿が浮かぶ。その痛ましさに彼は息を呑んで悲しげに眉を顰めた。
「この子の悲しみが伝わっているか?」
「うん。ひとりぼっちで寂しくて泣いてる」
「その悲しみを吹き飛ばすように息を吹きかけるんだ。それだけでいい」
手を包み込み、目を合わせて告げる。
「それだけ?」
小さく漏れた言葉に、苦笑しながら頷く。
それだけと彼は言うが、それがどれだけ難しいことか彼はまだ知らないのだろう。
「やってみる」
そう言って、彼は光を見つめた。
薄く浮かんだ彼の笑みは、しかしすぐに消えて眉が寄る。
悲しみだけを吹き飛ばすイメージが浮かばないのだろう。それは叶わぬ願いの根源を理解していないからだ。
この少女の願いは、かつてのように家族の側で愛されていたいこと。それが理解できたのなら、自ずと叶わぬ理由も理解ができる。
そろそろ手伝うべきか。そう思い口を開きかけるが、その前に彼は真剣な顔をして静かに息を吸い込んだ。
そっと息を吹きかける。悲しみだけが光から消え去り、泣いていた少女は家族に囲まれ微笑む姿へと変わる。
「っ、できた」
空へ上っていく光を見つめ、彼は笑みを浮かべた。その姿を見ながら、内心で驚く。
初めてで、正しく光を還らせることができるとは正直思ってはいなかった。だが彼の背後に作られた墓を思い出し、当然のことかと認識を改める。
誰よりも光に心を傾けていた彼ならば、理解できぬはずはない。
「よかった」
心からの言葉。
気づけば光を見つめる彼の頬を、一筋の滴が伝い落ちていった。
「よくできたな」
その涙には何も触れず、微笑んで彼の頭を撫でる。
上出来だと褒めると、彼はくしゃりと顔を歪めて抱きついた。
声もなく泣いている。強くしがみつき泣く彼を抱きしめ、その背を撫でる。
優しさ故に光に繋がれていた小さな魂。その繋がりを解きながら、そっと囁いた。
「還るのならば、途中までは一緒に行こう」
答えを察しながら告げれば、やはり彼は泣きながらも首を振る。
「ここにいる。皆を還してあげたいから」
それは永遠にここに留まることを意味している。
人の願いは尽きず、叶わぬものもまたなくなることはない。
どう説得すべきか。内心で悩んでいれば、それを察して彼の抱きつく腕の力が強くなった。
「ここにいたい。一緒にいたいよ」
そう願われてしまえば、何も言えない。溜息を飲み込んで、空を仰いだ。
夜空を駆け抜けていく星。時折溢す光が、またこの地に降ってくる。
「――ここにいるのならば、覚えることがいくつかあるが守れるか?」
辺りの光を見渡しながら、彼に言う。
いくつか混じる、仄暗い光。あれらに宿るものは重すぎて、夢を見せても浮かぶことはない。
彼はそれを受け入れられるだろうか。泣いてしまわぬだろうか。
「守れるよ」
迷いのない、はっきりとした声。
自分の不安を掻き消すように、顔を上げて彼は笑った。大丈夫だと、強く頷いてみせる。
「もう泣かないよ。一緒だから頑張れるもん」
無邪気な笑顔。
それ以上何も言えず、言葉の代わりに力強く彼の頭を撫で回した。
20260317 『泣かないよ』
目の前を、誰かが足早に過ぎていく。
視線を向ければ、小柄な少女が泣きながら教室に入っていくのが見えた。
何かあったのだろうか。込み上げる疑問に対する答えが思い浮かび、嘆息する。確認した訳ではないが、まず間違いないだろう。
彼女のように泣きながら、あるいは怯えながら目の前を過ぎていくのは、これで三回目だ。彼女たちの精一杯の勇気が最悪な形で返ってきたことを可哀想に思いながら、重い足を引きずるように元凶の元へと歩き出した。
賑やかな廊下を抜けていく。ぱたぱたと通り過ぎる生徒たちは皆足取り軽く、足音を立てずに歩く自分とは正反対だ。きっと表情も違うのだろうと考えて、進む足がさらに重くなった気がした。
「ねぇ。いい加減にしてって言ったよね?」
美術室で一人、絵を描く彼の背に声をかける。
答えはない。けれど絵を描くことに集中している訳ではないことは明らかだった。
ただ二回目の時のやり取りをするのが億劫なだけだろう。その証拠に、絵を描く手は先ほどからほとんど動いていない。
眉を寄せ、彼に歩み寄る。手を伸ばせば触れられる距離まで近づいて、ようやく彼は振り返った。
「いい加減にしろと言われたって、向こうから来るのが悪い」
「やり方があるって言ってんの」
不機嫌そうに言い訳をする彼は、普段とは違いどこか幼い。目を合わせようとしない彼に溜息を吐いて、その背後のイーゼルに掛けられた絵に視線を向けた。
怪しく微笑むビスクドール。ただの絵だと理解していても、人形の纏う悪意に飲まれてしまいそうだ。
「あの子の怖がっているものは人形か……随分と精密に描かれているから、実際にある人形なのかな」
「知らない。興味もない」
「描いた本人が何を言ってんの」
こちらに背を向けキャンバスに向かう彼は、完全に拗ねてしまったようだ。絵に触れ、軽く爪を立てる。
その途端、絵がどろりと溶け出し、キャンバスに染み込むように消えていく。まるで最初から何も描かれていないとでもいうかのように。
「相変わらず、変な特技だねぇ」
「変って言うな。あと、特技とかじゃない」
いつ見ても不思議な光景だ。思わず呟けば、幾分か低い声に否定された。
キャンバスを見た人の、一番怖いものを描き出す。いつからか、彼はそういった絵を描くことが多くなった。
彼の周囲に人が集まるようになったからだろうか。不愛想で幼いけれど、彼を好きになる人は案外多い。
もっとも、彼と付き合えた人はまだ誰もいないが。勇気を出して告白しても、先ほど見かけた少女のように目の前で一番怖いものを描かれて逃げてしまう人ばかりだ。
「皆、怖がりだな。人形とかよく分からない化け物とか……何が怖いんだか」
心底不思議だと言わんばかりの声音。何度も人の恐怖を描いていても、彼には分からないものらしい。
何も言えずにただ見ていると、真っ白になったキャンバスを前に、彼は手を離して筆を取る。
絵の具の匂いが鼻を掠める。キャンバスの白が、黒に塗り潰されていく。
その迷いのなさに、息を呑んだ。絵の具の黒が容赦なく白を殺し、やがてキャンバスは黒に染め上げられてしまった。
「――まだ、黒だけか」
かたり、と筆を置く音がやけに大きく響く。
感情が抜け落ちたかのような、冷たい声音。思わず肩が震え、一歩足が後ろに下がる。
「形として描かないと意味がないのに」
ゆっくりと彼が振り返る。
まるで人形の目だ。キャンバスのような底知れない黒い目。射すくめられ、途端に動けなくなってしまう。
「なぁ」
腕を掴まれ、開いた距離を縮められる。
「もっと、形のある怖いものがあるだろ?それを俺に晒して。形さえあれば、すぐに見つけることができるんだ」
至近距離で見つめ合っているというのに、彼の目の中に自分の姿は見えない。今の自分の姿が見えるのは彼だけだ。
「じゃないと、いつまでも仲直りができない……いくらでも謝るから、だから迎えにいかせて」
見えない自分の姿の代わりに、脳裏を懐かしい記憶が過ぎていく。
幼い頃、一緒に彼の家の倉の中でよく遊んだ。本を読み、ままごとをし、お絵かきをし、たくさん話し合った。
いつも笑っていた。喧嘩らしい喧嘩もなく、いつも一緒だった。
あの日、何が原因で喧嘩になったのか覚えていない。
ただとても悲しくて、痛くて、許せないと思った。
二度と遊ばない。口も聞きたくない。そう言って、彼に背を向けたことは覚えている。
その後は――真っ黒だ。
気づけば楽しげに遊ぶ自分たちの姿は消え、キャンバスと対峙していた。
底が見えないほどの深い黒を無言で見つめていると、不意に中心から波紋が広がった。
水面のように何度も波紋が揺らぎ、やがて中心に何かが浮かび上がる。
「っ……」
小さなそれは、子供の手。助けを求めるかのように伸ばされた手は、キャンバスを突き抜け大きく開かれる。
それまで立ち尽くしていた体は慌てたようにその手を掴もうと動き出すが、手は捕まえることができずにすり抜けた。悲しげに揺れる手が、再びキャンバスの中へ沈んでいく。やがて何も見えなくなると、キャンバスは大きく揺らいで、彼の目に変わった。
「どうした?」
不安と期待を色濃く宿した目を見つめながら、無言で首を振る。俯き、掴まれた腕を解こうとするが、逆に痛みを覚えるほど強く掴まれてしまった。
「行かないで」
声を震わせ、彼は懇願する。
「お願いだから、一人にしないで」
声だけでなく、掴まれた腕から彼が震えているのが伝わる。
昔から彼は怖がりだ。周りに人が集まるようになった今でも、置いていかれることを怖がっている。
あの時、彼はどんな顔をしていたのだろうか。ふと疑問に思う。一日の終わりにさよならをする時にすら泣いて嫌がっていた彼は、背を向けて去っていこうとする自分をどう思ったのか。
「必ず見つけるから。だからここにいて」
彼は何度も自分を見つけると繰り返す。
あの日を最後に、自分は行方不明になっているという。ならば今ここにいる自分は何なのだろうか。
彼には自分の姿はどのように見えているのだろうか。
「分かってる。ちゃんとここにいるよ」
けれど浮かぶ疑問を何一つ口にせず、代わりに彼の望む言葉を囁いた。
密かに自嘲する。
何も言えない自分はきっと、彼以上に怖がりなのだろう。
20260316 『怖がり』