sairo

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3/25/2026, 5:44:59 PM

ぽつり。
冷たい滴が肩に落ち、首を傾げて空を見上げた。
薄い雲がかかる空は、それでも雨が降るほどではない青が広がっている。
天気雨だろうか。深く考えず、視線を下ろし歩き出す。
暦の上では春が来ているというのに相変わらず風は冷たくて、思わず身を縮めてしまう。
やはり上着を一枚持ってくるべきだった。そんな後悔をしながら、腕をさすりつつ足を速めた。

ぽつり。
冷たい滴が、手の甲に落ちた。
足を止めず見上げた空は、先程よりも雲が厚くなってきている気がする。
天気予報では一日晴れだと言っていたが、もしかしたら雨が降るのかもしれない。
生憎、予報を信じて傘は持ってきていない。溜息を吐き、天気を気にしながら進んで行く。
天気のせいか、朝よりも体が重い気がした。晴れか雨かで気分が変わるのは昔からだが、結局今もそれほど変わっていないことに我ながら呆れてしまう。
手にした紙袋が、かさりと音を立てた。はっとして袋に視線を落とし、苦笑する。
雨が降っても降らなくても、目的地はすぐそこだ。帰りに雨が降るようならば、傘を借りればいい。
そんなことを考えながら曲がり角を曲がる。目的地である幼馴染の家が見え、雨に降られる前に辿り着けたことに内心安堵した。

ぽたり。
冷たい滴が、頬を伝った。
空を見上げようとして、違和感に気づいた。
天気雨や通り雨だとして、一滴しか降らないのはおかしい。周囲の地面を見て、どこにも濡れた場所がないことに、さらに困惑する。
肩、手、頬。体が重く感じることも重なって、まるで自分の後ろに誰かがいて泣いているような幻覚が浮かんだ。
ただの気のせいだ。随分滑稽な想像だと笑いながら、何気なく後ろを振り返る。
何もない。あるはずがない。
そう、思っていた。

はずだった。



「いい加減、離れてくれないかな」

背中に張り付きぐすぐすと泣く幼馴染に、何度目かの溜息を吐いた。

「女……女の人、が……」

がたがたと震えながら、呻くように同じ言葉を彼は繰り返している。
呼び鈴を連打され、何事かと思ってドアを開けた瞬間の、彼の恐怖に歪んだ顔が浮かぶ。
何を見たのか、あるいは何に出会ってしまったのか。要領を得ない彼の断片的な言葉を拾い集めると、どうやら白い服を着た女性に会ったらしい。その時に何があったのか分からないが、今も離れない所からして相当怖い思いをしたのだろう。

「女の人が……」
「一応、私も女なんですけど」

聞こえてはいないと分かってはいるが、それでも不満が口をついて出る。
いくら幼い頃からの付き合いだとはいえ、ここまで意識されないのも悲しいものがあった。

「一体何を見たんだか」

肩に落ちる涙の冷たさに眉が寄る。泣き声は弱くなっていく。落ち着いたのではなく、泣き疲れたからだと分かった。。

「おん、な……の……人……」

段々と体にしがみついている腕の力が抜けていき、しばらくすると微かな寝息が聞こえてくる。
ようやく解放された。ほっと息を吐きながら、彼を起こさないように、そっと腕を外し固まった筋肉をほぐすように伸びをする。

「――着替えようかな」

肩に触れれば、まるでそこだけ雨に濡れたかのように濡れている。ちらりと彼に視線を向ければ、泣きながらも完全に寝入っているように見えた。
これなら、着替える間部屋を出ても問題なさそうだ。クローゼットから着替えを取り出し、音を立てないようにゆっくりとドアを開けて部屋を出る。

「疲れた……」

隣の部屋で着替えながら嘆息する。まだ午後を過ぎたばかりだというのに、強い疲労感に戻るのが億劫になる。
大切な用事があると言っていた。だからこうして待っていたのだが、結局要件を聞かずに終わってしまいそうだ。
何の話だったのだろうか。気にはなるけれども、聞かないままでいられたことを幸運だとも思う。
例えば、この距離の近さをおかしいと思うようになったとしたら。気になる人ができて、距離を置きたいと言われたら。
考えるだけで胸が苦しくなる。幼馴染の距離に甘えて何も言えないでいる自分が悪いというのに、どうしてと周りに原因を求めてなりふり構わず泣き叫びたくなる。

「バカみたい」

自嘲して、洗濯物を手に部屋を出る。当分は起きる様子はなかったが、早く彼の元へ戻りたかった。

ぽたり。
不意に洗濯物を持つ手が濡れる感覚がした。
視線を落とせば、小さな丸い滴。雨のようなそれに、後ろを振り返った。

「おひいさん、どうしたの?」

自分よりも背の高い、白装束を纏った人形。無表情ながら、はらはらと泣く彼女の頬に手を伸ばす。滴を拭い問いかけるが彼女は何も答えず、ただ腕を広げて抱きしめられた。
彼女の優しさに苦笑する。彼に用事があると伝えられてから落ち着かない自分を慰めてくれているのだろう。

「大丈夫だよ。いつものように勇気が出ないだけだから」

笑ってみせるものの、彼女の涙が晴れる様子はない。晴れない自分の悲しみを移して泣いているのだから当然かと、不甲斐ない自分に歯噛みした。

止まらない滴を拭いながら、五年前の川岸を思い出す。あの日もこうして彼女は自分の悲しみを引き受けて泣いてくれた。
形代として厄を引き受け、流されてきた彼女。動けないほど溜まった厄を抱えながら、それでも自分に手を伸ばしてくれた優しさに惹かれた。
こうして自由に動けるようになった今。けれど彼女はどこかに行くこともなく、寂しい自分の側にいてくれる。
きっと彼に気持ちをすべて伝えるまで、ここにいてくれるのだろう。

「私は大丈夫だから、心配しないで」

そう言いながらも、ぽたり、ぽたりと滴が頬を伝って落ちていく。彼女の涙ではない。
これは自分の涙だった。

「何だかここだけ雨が降っているみたい」

ところにより雨。
おどけてみせれば、彼女は優しく頭を撫でてくれた。
目を閉じて、深呼吸を繰り返す。
まだ雨は止まない。けれど無理矢理止めることはできる。
彼が起きてしまう前に、いつもの自分に戻らなければ。
もう少し。せめてちゃんと彼の目を見て気持ちを伝える勇気が出てくるまで。

「もうちょっとだけだから。ちゃんと伝えるから」

涙を拭い、今はまだ作った笑顔で、そう彼女に告げた。

3/24/2026, 6:06:00 PM

――あの子は特別な存在だから。

そう言って、誰もがお屋敷に住む彼女のことを敬った。
神様に愛された子。だから屋敷は彼女を受け入れている。
確かにこの村の中で一番広い屋敷に、彼女以外の人の姿を見たことはない。彼女も祭りの時に神楽を舞う以外の時に、屋敷の外に出てくることはない。

――屋敷に一人きりで、寂しくないの?

一度だけそう尋ねたことがあった。
いつのことなのか覚えてはいない。屋敷から出てこない彼女と会えるはずもなく、もしかしたらそれはただの夢だったのかもしれない。
脳裏に長い髪を風になびかせる彼女の姿が浮かぶ。現実でなかったとしても、自分の問いかけに彼女は何と答えてくれたのだろうか。


「また変なことを考えているな」

不意に足元の影法師が濃さを増した。
ぐにゃりと形を歪め、影の縁を掴むように影から黒い指が這い出てくる。指、手、腕と、人の形を取りながら影の中から出ていき、見ている前でそれは黒衣に身を包んだ人の姿へと変わった。
感情の読めない目をして笑う彼を一瞥し、足を速める。彼の姿は自分以外には見えないというが、態々足を止めてまで彼と話す気にはならなかった。

「あれは特別だ。関わろうとするな」
「特別、ねぇ……神様に愛されているから?」

肩を竦め、皆の言う特別の意味を口にする。言葉にしても、やはりしっくりとはこなかった。
愛されているのに、何故一人になるのだろうか。それとも彼女を愛する神とは、神社に祀られている神とは違うのだろうか。
その神は、あの屋敷にいるのだろうか。

「あの執着をAmor《愛》と呼べるならば、あれは確かに愛されてはいるのだろう」
「執着……」

くつり、と喉を鳴らす音に、隣を歩く彼の横顔を見上げる。表情こそは笑っているものの、やはりその目からは何も読み取れない。

「あれが屋敷にあるからこそ、この地の平穏は保たれている。そういう意味での特別だ」

その言葉に、思わず顔を顰めた。愛されていると聞こえのよい言葉は、その実神の贄という犠牲の意味を持っていること。それを察して、周りに対する嫌悪感が込み上げる。

「相変わらず聡い娘だ。理解したなら、これ以上あれに心を傾けようとするな」

黒にも見える、深い青の目に見据えられ、小さく頷いて顔を逸らす。
彼の警告はただの脅しではない。彼女に関わることで、よくないことが起こるのだろう。

「翼を捥がれ、相手の望みのままに着飾り踊り続けるなど嫌だろう?」
「絶対に嫌」

彼の言葉に幼い頃を思い出し、眉間に皺が寄る。
両親の言いつけで神楽舞を舞っていた時。窮屈な巫女装束も、単調な音楽での踊りも好きにはなれなかった。
両親の言葉は絶対で、逆らうという考えすらなかった苦痛の日々。ようやく解放された今、あの頃に戻るなど考えたくもなかった。
踊るのならば、好きな服を着て自由に踊っていたい。誰かに強制させられるならば、いっそ二度と踊れなくなってもいいと思うほどだ。

「お前はそれでいい」

頭を撫でられて、気恥ずかしさに俯いた。
いつまで経っても小さな子供扱いをされることは不満でしかないが、何度言っても彼は変わらない。
溜息を飲み込んで駆け出した。後ろで笑う声を聞きながら、こういう所が子供扱いされる原因なのだろうなと密かに落ち込んだ。





神楽殿で舞う彼女を、ただ見つめていた。
自分と彼女以外に誰の姿も見えない。彼女の手に握られた神楽鈴が澄んだ音色を響かせる意外に、何の音も聞こえない。
気取られぬよう彼女の舞う姿を見続けながら、内心で舌打ちをする。
いつここに来たのか、まったく記憶になかった。
ここは現実の世界ではない。しかし微かに漂う沈香の香りや、時折吹く風の冷たさが、これはただの夢ではないことを告げていた。

――あれに関わるな。心を砕くな。

彼の警告を思い出す。
遅すぎると八つ当たり気味に毒づきながら、どうすれば戻れるのか思考を巡らせた。
今ここには彼女と自分だけしかいない。少しでも動けば、彼女に気づかれてしまうのだろう。
けれど行動を起こすのならば、彼女が舞を終えるまでだ。あまり猶予がないことに焦りが生じ、冷静に考えることが難しい。
現実に戻るため、どんな行動をすればいいのか。
どこにあるのか分からない出口を探すのは危険すぎる。彼女を説得することも不可能だ。
彼女に捕まる、あるいは言葉を交わした時点で、おそらくは二度と戻れない。
関わるなとは、つまりそういうことなのだろう。
いくつか浮かぶ選択肢はすべてなくなった。最初からなかったと言ってもいい。
仕方がないと、息を吐き目を閉じる。神楽鈴の音が止まりこちらに近づく足音を聞きながら、自分の中の彼の存在を強く意識する。
幼い頃に彼から教わったこと。彼に助けを求めるこの方法は正直嫌だったが、それ以外に方法を思いつかない。
彼に頼り切ってばかりの自分を情けなく感じていると、不意に温かな何かが体に触れた。
彼女に抱きしめられている。耳元で囁く声に理解した。

「あの方が、貴女を私の側に置くことを許してくださったの」

熱に浮かされた甘い声音に、体が震えそうになるのを必死に堪える。
反応してはいけない。声を出さぬよう唇を噛み締め、彼の気配だけを手繰り寄せる。

「私の特別。一人は寂しくないのかと、心を砕いてくれた優しい子。貴女だけが私をただの人にしてくれた……貴女がいれば、きっと私は寂しくない」

頬を包まれ、目尻をなぞられる。微かに瞼が震え、触れられる部分から抵抗する意思が剥がれ落ちていく。

「さあ、目を開けて。私の目を見て、受け入れてちょうだい」

ふわりと沈香の香りが漂う。厳かでありながら、繋ぎ止める鎖のような重さをもった匂いが体の中に入り込もうとする。
これ以上は耐えられない。瞼から力が抜けて、ゆっくりと開いていく。

「そこまでだ」

目が開く寸前。視界を塞がれ、体を強く後ろに引かれた。
彼女とは違う冷たい腕に抱き込まれ、けれど安堵に息を吐く。見えないながら背後の彼に凭れれば、褒めるように頭を撫でられた。

「異国の神め……っ」

昏く澱んだ彼女の声がした。先ほどの甘さは欠片も消え、伝わるのは激しい怒りと憎しみだけ。

「あの方が治めるこの地より、疾く出ていけ。貴様の存在は、その子に死しか齎さぬ。あの方が与えてくださる永遠を否定しようとするな」
「愚かだな。それが理だ。Mors《死》はすべてに等しく与えられるもの。誰もそれを否定できない」

ぎり、と歯を食いしばる音が聞こえた。
動く気配はない。けれども変わらず、沈香の香りが纏わりつく感覚が消えない。

「――行かないで」

か細い声音。沈香に引かれるように、勝手に手が持ち上がる。

「私といれば、永遠が与えられるわ。頷いてくれたなら、貴女からご両親を奪った神から解放して上げられる」

意思とは無関係に動く体を、彼は強く抱き竦めた。持ち上がる手を取られ、手の甲に不思議な熱が触れる。
沈香を振り払うように、首を振った。僅かに自由を取り戻した体を反転させ、彼の胸にしがみつく。
深く息を吸い込めば、沈香ではなく名も知らない花の香りが鼻腔をくすぐった。

「この子に、Aeternitas《永遠》は必要ない。それはVita《命》ではないからな」

どこか嘲りを乗せた言葉。
その刹那、ぐにゃりと地面が歪む感覚がした。
平衡感覚を失い、倒れそうになる体を抱き上げられる。背後で聞こえる彼女の声が風と混じり、ただの雑音に変わっていく。
揺れる感覚。歩いているのか、その感覚は一定だ。
もう彼女の気配も、沈香の香りも感じない。
小さく息を吐いて、そっと目を開けた。

「ありがとう」

降ろされて、視線を逸らしながら礼を言う。

「気をつけろ。あれはこの地にいる限り、諦めることはない」

思わず眉を顰めた。
このままここで暮らすことに執着はないが、出て行くにしてもあてはない。
何より周囲が黙っていないのだろうと想像できて、気が重くなるのを感じた。

「あれらの相手を素直にする必要はないだろう。必要なものを持って出れば、それだけで済む」
「簡単に言うけどねぇ……」

溜息を吐きながらも、頭は出て行くことを考え始めている。必要なものや、衣食住の確保などを次々と段取りを決めて行く。
折角ならば海の近くに行ってみようか。海を見ながら、彼の話を聞くのも楽しそうだ。
いつの間にか影の中に住み着いている彼のことを、自分はよく知らない。聞いても今までははぐらかされることが多かったが、これからは聞けば教えてくれる予感がしていた。
周囲を見回す。
青白い月が浮かぶ空はどこか恐ろしい。けれど何より落ち着く気がして、月明かりを浴びながらくるりと回った。
どこだろうと自分は踊れる。決められたままを舞う彼女とは違う。
鳥籠の中で、永遠を与えられている彼女。
鳥籠から出て、刹那を生きる自分。
正反対だなと思う。あのまま手をとっても、結局は一緒にいることはできなかっただろう。

「あれのことを考えるな。寄ってくるぞ」
「じゃあ、一緒に踊ってよ。あの子のことも、未来の不安も忘れさせるくらいのエスコートをしてちょうだい」

手を差し出せば、彼は呆れた目をしながら笑う。
手を取り、恭しく口付けて腰を抱かれる。そのまま彼に合わせて、ステップを踏んだ。
音楽など必要ない。スポットライト代わりの月の下、彼と共に自由に踊る。

「思ったより上手ね」
「当たり前だ。誰がお前に踊り方を教えたと思っている」
「誰だっけ?忘れちゃった」

笑いながら、彼に身を任せる。
思ったよりも不安はなかった。彼が示す道すべてが正しい訳ではないけれど、それを判断できるなら、どこに行こうと大丈夫だ。
ゆったりとワルツを踊りながら、彼の目を見る。不思議な煌めきを放つ夜の色をした瞳。その目に映る自分は笑っている。

「海に行きたいな。できることなら、あなたの故郷に行ってみたい」

戯れに願い事を口にすれば、返事の代わりに優しい微笑みを浮かべてくれた。

3/23/2026, 11:57:36 AM

渡された花を手に、微笑む彼の姿を見た。
それだけで足は地面に張り付き動かない。胸が苦しくて、息が上手く吸えなくなってしまう。
耐えきれずに俯いた。見つめる地面が滲み、ひとつふたつと雨が降る。

「バカみたい」

呟いて、唇の端を持ち上げた。
雨など降ってはいない。俯く前に見た空には青が広がっていたのだから。
強く手を握りしめ、逃げ出すように目を閉じた。けれど今見た光景が脳裏に浮かび、消えてくれない。
彼も、その周囲も、とても楽しそうだった。離れているからとはいえ、こちらに気づく様子はないほどに。
きっとこのままいなくなっても、誰も気にしない。

「本当に、バカだなぁ」

最初から、彼の隣にいるなどできるはずがなかった。彼と自分とでは生きている世界が違う。
分かっていたはずなのに、彼に執着せずにいられない。醜い嫉妬心を抑えられない。
このままでは、彼を傷つけることになるのだろう。どろどろとした黒いこの欲が、彼を縛りつけてしまう。
それだけは嫌だった。想像するだけで、自分自身に吐き気がするほど嫌悪感を覚える。無意識に手のひらに爪を立て、熱を持った痛みに顔を顰めた。
ゆっくりと息を吸い込んだ。痛みを伴う鼓動を感じながら、静かに吐き出していく。
ひとつ、ふたつ。深呼吸を繰り返し、十数えて顔を上げる。目を開けて、彼に背を向けた。
しばらく、ここから離れよう。距離を取れば、次第にこの気持ち悪い感情も落ち着くはずだ。
重い足に力を入れて、半ば引き摺るように来た道を引き返す。
彼との約束を破ってしまうことになるが仕方がない。いつか全部思い出にできる時がきたら、その時に謝りにくればいいのだから。
そうしたらきっと、笑って彼と話ができる。初めて出会った時のように純粋に会話を楽しみ、さよならだってできるはずだ。
そう思いながら、滲む世界をひたすらに進む。境界を越えて、彼の世界から自分の世界へと戻る。

「ごめんなさい」

掠れた声で呟く。
今は振り返って別れを告げることさえできなかった。





曇天の下。どこか憂鬱な気分を抱えて玄関を開けた。
この家に戻るのは三年ぶりだ。どこか埃っぽい空気に眉を顰め、玄関を開け放ったまま家の中に足を踏み入れる。

「定期的に戻ってるって言ってたのに」

空気を入れ替えるため窓を開けながら、不満が口をついて出る。
この家を出るのも突然だったが、戻るのもまた突然だ。
突然の父の転勤。ちょうど年度が変わることもあり、祖父母を残して家族で家を出た。
残された祖父母が病や怪我で、どちらも施設に移ったのが一年前。突然のことで無人になった家は、近所に住む親戚に頼んで定期的に風を通してもらっていた。

「雨、降らなきゃいいけど」

雨特有の湿った風の気配ないが、重苦しい灰色の空に気分が滅入る。自分が戻るわけでもない家に、管理のため両親よりも先に来ることになったのが少なからず不満なのかもしれない。
一週間後、両親は転勤先からこの家に戻ってくる。
自分は転勤先の学校に進学を決めた。両親が来るまでこの家で過ごした後は、またここを出ていくことになる。

「皆、元気かな」

縁側に座り、彼の住む山を見ながら呟いた。
幾分かも気持ちは落ち着いてはいるが、やはり彼への想いは昇華しきれていない。会いにいく勇気は、まだなかった。

「バカみたい」

あの時の言葉を繰り返す。
勝手に嫉妬し、傷ついて、逃げ出した。自分を守るため、彼との約束すら破った。
あの時よりも成長したと思っていたけれども、こうして動けない自分は何も変わっていないのだろう。

「まったくだ」

呆れたような声と共に、視界が何かに塞がれた。

「っ!?」

咄嗟に声を上げかけるが、息を吸い込んだ瞬間に入り込んだ濡れた土と木の匂いに意識が眩み、掠れた吐息しか出てこない。強い眩暈に似た感覚がして、体の力が抜けていく。
とさり、と後ろに傾く体が、温かな何かに包まれた。

「久しぶりだな。まさか約束を反故にされるとは思わなかった」

静かな声が鼓膜を震わせる。離れていても一度も忘れたことのなかった愛しい声に、けれど体は恐怖で震え出す。
声の端々から感じる強い怒り。飲み込まれてしまいそうで今すぐ逃げ出したいのに、体は震えるばかりで少しも思うように動かない。

「親と共にここを出ていくのは仕方がないとしても、一言くらいは伝えられただろう。それに、折角戻れるよう動いてやったというのに、戻らない選択をするとはな」

ふわりと、花の香りがした。

「このまま連れ帰ってもいいが、言い訳くらいは聞いてやる」

絡みつくような甘さに、頭の芯が痺れていく。震えていた体は脱力し、代わりに自分の意思とは無関係に唇が震え、言葉を溢した。

「だって、女の人に花を渡されて嬉しそうにしてたから」

あの日、心の奥底に仕舞い込んだはずの思いが溢れたことに驚き、目を見開いた。けれどそんな気になっただけで、実際には何一つ動かなかったのかもしれない。
どんなに唇を閉じようとしても、言葉が止められない。次々と忘れようとして、忘れられなかった気持ちが溢れてくる。

「嬉しそうで、楽しそうで……私がいなくなっても、きっと誰も気にしないんだろうなって思った」

花の香りが強くなった。
意識が霞む。次第に言葉を止めようと焦る気持ちも、すべて曝け出される恥ずかしさも消え、ただぼんやりと温もりに包まれていた。


「駄目だって分かってるのに、邪魔して縋りたくなる。他の誰も見ないでって叫んでしまいそうで……そんな自分が気持ち悪くて……」
「もういい」

微かな呟きと共に、花の匂いが掻き消える。
さあさあと、聞こえる雨の音。濡れた土の匂いが強くなり、ぼんやりと形をなくしていた意識がほんの僅かだけ輪郭を取り戻した気がした。

「俺も軽率だった。お前に渡す花を他の誰かに任せるべきではなかった」

深く息を吐く音と共に、視界を覆う何かが外される。
背後から覗き込む彼の目。そこに怒りの色はない。彼と共にいた時の変わらない金色を見返していれば、ふわりと体が宙に浮く感覚がした。
彼に抱き上げられている。そのまま雨の降る庭を歩き出す彼に、不意に危機感が込み上げた。

「待って……どこに……?」
「連れ帰る。元々そうするつもりだったからな……側にいれば、不安にさせることもない」

雨とは違う冷たさが背筋を這いあがる。
このまま連れて行かれてしまったら、二度と戻れない。嫌な確信に、彼から逃れようと必死で自由にならない体を動かした。

「いい子にしていろ。本当なら三年前に連れて行くはずだったんだ。それなのに、いくら待ってもお前は来ないし、あげくに遠くへと離れていくし……なのに怒ろうにもお前は苦しんでいたようだし……」
「なに、言って……え?」

次々と溢れる不穏な言葉に口元が引きつった。
重い腕に力を入れ、彼の頬に手を触れる。こちらを向いたタイミングで力の限り頬を抓れば、ようやく彼の足が止まった。

「っ、こら、止めろ。何でそんなに抵抗するんだ」
「バカっ!最低!人さらい!」
「酷い言い草だな。好いた子を連れ帰るんだ。何の問題もないだろう。しっかりと五穀豊穣はもたらすぞ。心配しなくとも現世のお前の存在は消してやるし、祝言だって挙げるつもりだ」

それはつまり、生贄というやつではないのだろうか。
真顔で告げる彼に、先程とは違う眩暈と頭痛を感じた。何も分かっていない彼に、大きく息を吸い込み、手を振りかぶる。

「バカみたいなこと言わないで!何百年前の、時代錯誤な話を現代に持ち込まないでよ、この年寄り!」

ぱぁん、と。
小気味いい音を響かせ彼の頬を張りながら、力の限り叫んだ。



あれからどうにか彼を説得し、何とかここに留まることができた。
連れて行くのは、終わりを迎えてから。
新しい約束を交わすのに費やした労力を思い出し、溜息を吐く。結局、実家から通える距離に進学先を変更することになり、諸々の手続きや引っ越しにしばらくは忙しく動き回る日々が続いていた。
ようやく落ち着いてきたものの、疲労の一番の原因はそこではなく、これからもなくなることはないのだろう。

「浮かない顔をしているな。疲れているなら、少し休んだ方がいい」

不意に抱き上げられ、ベッドに運ばれる。
本気で心配しているのだろうけれど、疲労の原因が自身にあることに彼は決して気づくことはないのだろう。

「何でこうなったかな……」
「何か言ったか」

顔を覗き込む彼に、何でもないと首を振り目を閉じる。
自分にしか見えない彼。色々と制限があって不自由を強いられているはずなのに、隣にいる彼はとても楽しそうだ。

「最初からこうして側にいればよかったな」

頭を撫でられ、香る花の匂いに意識が微睡んでいく。
荷物の整理など、やるべきことはたくさんあるのに、まったく進まない。それに不満を覚えながらも、幸せを感じてしまう自分に呆れてしまう。
吐き出した想いを、彼は嬉しいと言った。思われるのが幸せで、それ以上に思いたいと彼は好意を隠さず伝えてくれるようになった。
泣きたいくらいに幸せで、同じくらいに気恥ずかしい。
素直に彼の好意を受け入れられず、こうしてささやかな不満を拾い上げている。

バカみたいだ。
遠くで見ている時には好意を向けられないことに苦しんで、こうして好意を与えられるとなると逃げてしまう。
温もりに包まれ、夢の世界に落ちていきながら。
本当にバカみたいだと、心の中で呟いた。



20260322 『バカみたい』

3/22/2026, 6:33:16 PM

手を繋いで、二つの影が夕暮れの道を歩いていく。

「もう少し遊びたかったな」
「明日になればもっとたくさん遊ぼうよ」
「うん!早く明日にならないかなぁ」

今日の終わりを惜しみ、明日への期待に胸を膨らませている。囁く声はとても楽しげで、足取りはとても軽やかだ。
二人以外に誰かの気配は感じられない。周囲の異様な静寂に、けれども二人は少しも気にかける様子はなかった。

「晩ご飯は何にしようか。ハンバーグ?それともカレーライス?」

二人だけの世界が当たり前だと言わんばかりに、指折り好きなメニューを上げていく。二人で同じように首を傾げて悩み、しばらくして顔を見合わせ笑う。

「「とろとろ卵のオムライス!」」

声を合わせ、はしゃぐ。飛び跳ねて喜び、どちらからともなく駆け出した。
世界に取り残されて、二人ぼっち。けれど完成された二人だけの世界に、どちらも幸せそうに表情を輝かせていた。





「――それでね。夕暮れになると、その坂で手を繋いだ二人の影が見えることがあるんだって。でもって、その影を見てしまったら、その世界に取り込まれてしまうんだって!」

きゃあ、と上がるいくつもの悲鳴に、微睡みかけていた意識が浮上する。
先程から一ページも進んでいない本を閉じ、ちらりと賑やかなクラスメイトたちを一瞥する。夏はまだ当分先だというのに、怪談話に興じる彼女たちは怖がりながらもとても楽しげだ。

「取り込まれた人はね、二度と戻ってこられなくなっちゃうの。それで行方不明になった人は、しばらくすると存在がなかったことになるんだって。クラスで誰も使っていない席があったら、その取り込まれて戻れなくなった子の席かもしれないよ」

どこかで聞いたことのある締めくくりに、ならば何故話が広まっているのかと心の中だけで突っ込みを入れる。誰一人戻らないのならその二人ぼっちの世界が外に広まるのは不自然であるし、存在がなくなった誰かがいたなど矛盾していることに誰一人気づかない。
創作話などそんなものか。そう納得して、もう一度彼女たちに視線を向けた。
楽しげに談笑するクラスメイトたちから少し離れて、手を繋いだ二つの影が彼女たちを見つめている。クラスの誰も、その影に気づく様子はない。
怖い話をすると寄ってくる。昔聞いた話を思い出しながら、視線を逸らして机に伏せる。
周囲の賑やかさから逃げるように、眉を寄せて目を閉じた。



楽しげに笑う声がした。
振り返れば、両親に囲まれ無邪気に駆け回っている弟たちの姿。穏やかに微笑む両親に、これは夢だと理解する。
両親が離婚し、弟たちと離れ離れになってしまったのは、もう随分と前のことだった。
母に引き取られた弟たちに何度も手紙を出したが、一度も返事が返ってくることはなかった。それが悲しくて、いつの間にか出せなくなってしまった手紙が今も机の中に溜まっている。
夢の中の幸せだった頃の弟たちを見つめながら、二人の今を思う。
元気にしているだろうか。新しく友達はできたのか。
他者を拒み、二人きりの世界にこもりがちな弟だ。新しい環境に馴染めているのかが心配で堪らなかった。

「お姉ちゃん!」

こちらに気づいた弟たちが、大きく手を振り駆け寄ってくる。
その姿に懐かしさを感じて切なさが込み上げた。もう一度会えたとして、こうして昔のように懐いてくれるだろうか。
そんなことを思いながら、腕を広げる。飛び込んでくる二人分の衝撃を受け止め、弟たちのように笑みを浮かべて小さな体を抱き締めた。



「お姉ちゃん」

揺さぶられて、目が覚めた。
体を起こそうとして、けれど聞こえた声に硬直する。ここにいるはずのない、懐かしい二人分の声が揺さぶる手と共に響く。

「お姉ちゃん、起きて」
「帰ろうよ、お姉ちゃん」

記憶のままの声。小さな手。離れてからもう何年も経つのに、変わらないのはありえない。
今、自分を起こそうとしているのは誰なのだろうか。脳裏に、クラスメイトたちを見ていた影を思い出す。
あれは違う。感覚的に違うのだと分かる。だが、そうだとしたらここにいるのは誰なのか、見当もつかない。

「起きないね」
「今回も、お姉ちゃんじゃないのかな」
「今回こそは、本当のお姉ちゃんだよ。起きないけど、壊れてないもん」
「そうだよね。二人ぼっちの世界に入れるのは、お姉ちゃんだけだもんね」

どこか不穏な会話に、背筋が薄ら寒くなる。震えそうになる体に必死で力を入れ、耳を澄ませながら寝たふりを続けた。
起きていることを気づかれたのなら、きっともう戻れない。そんな不安が、正体を確かめようとする行為を留めていた。

「疲れてるのかな。お勉強も、お家のことも、全部頑張っているんだもんね」
「そっか。じゃあ、もう少し寝かせておこうか」
「そうしようか……でも早く起きてほしいな。ずっと会いたかったから」

沈んだ声に、思わず肩が震えてしまった。
これ以上誤魔化すことはできない。突き刺さる二つの視線を感じながら、ゆっくりと体を起こした。

「やっと起きてくれた!おはよう、お姉ちゃん」
「お姉ちゃん、お寝坊さんだよ」

きゃあ、と声を上げて抱き着かれる。嬉しそうに笑うその姿は、確かに弟たちのものだった。

「早く帰ろう?帰りながら、いっぱいお話しようね」
「ずっとね、お姉ちゃんを探してたんだよ。二人ぼっちの世界でもよかったけど、お姉ちゃんも一緒の方がもっと幸せだもん」
「お姉ちゃんは特別だからね!二人ぼっちの中に入れてあげる」
「そう!特別だよ」

それぞれに手を繋がれ、立ち上がる。
何か言わなければいけないと思っているのに、何も言葉がでてこない。体は弟たちに従って、ゆっくりと教室を出て歩いていく。
どこにいくのだろう。どこに帰るというのか。
いくつもの疑問を浮かべながら、誰もいない夕暮れの道を歩いていく。
とても静かだった。弟たちの話にただ頷きながら、自分たち以外の存在を感じない周囲に視線を巡らす。時折道の端に見かける、まるで倒れ伏しているような黒く揺らぐ影に、頭の中で警鐘が響く。

「お姉ちゃん。ずっとお手紙くれてたのに、お返事できなくてごめんね」
「お手紙、捨てられちゃってたんだ。でも二人ぼっちになってからは、お手紙全部読んだからね。お姉ちゃんの机の中に入ってたのも全部!」

繋ぐ手の感覚は、確かに弟たちだと伝えている。けれど以前は感じていた温もりも、愛おしさも分からない。
自分が知る弟たちではないのだろう。そう理解した所で、どうすることもできないけれど。

「今日はごちそうにしようね。お姉ちゃんは何食べたい?」
「何でも好きなもの言ってね」
「――二人の好きなものでいいよ」

自分の意思では動かせない口が、優しく弟たちに答える。
目を伏せた。もうそれしか自由にできることはなかった。
きゃあ、と歓声を上げる二人に手を引かれ、夕暮れに伸びた影がひとつに溶けていく。
ここがどこなのか分からない。二人に何があったのか、何一つ察することができない。
ただ唯一理解できる。

きっともう、この二人ぼっちの世界からは戻れない。



20260321 『二人ぼっち』

3/21/2026, 6:39:51 PM

髪を梳く手の心地良さに目を細めた。
意識が微睡み出したのを察して、小さく笑う気配がする。手が髪を滑り、腰の高さで止まる。
鋏の冷たい金属の刃が、髪に当てられる感覚がした。しゃり、という小さな音と共に、長く伸びた黒髪が断ち切られていく。

「――」

音がした。
それは声のはずだった。けれども自分の耳には、ただの雑音としてしか届かない。
一番最初に忘れてしまったもの。会えない日々が声の形を曖昧にさせ、消してしまった。
しゃりしゃりと、鋏が音を立てる。彼を想い伸びた髪を、彼の鋏が切り落としていく。

今振り向いたとして、彼の姿は残っているだろうか。

確かめるのは怖かった。声のように輪郭をなくしているのかもしれないと思うだけで体は震え、動けなくなってしまう。
心地良かったはずの微睡みは消え、冷たさだけが残される。
随分と臆病になってしまった。それだけ長い時が過ぎていた。

きん、と金属が擦れる音がして、体が少しだけ軽くなる。
俯く視界の隅で、切られた黒髪が落ちている。まるで黒い蛇の亡骸のようだ。

「っ、待って!」

消えていく気配に、咄嗟に振り返る。
けれどそこにはもう、誰もいない。切られたはずの髪すらなくなっていた。
夢の終わりが近いのだ。

「行かないで……」

霞み始める世界に、無意味だと知りながら手を伸ばす。
触れるものはない。感じる温もりは彼のものではない。
熱く冷たい滴が頬を伝う。またひとりきりの一日が始まることが、ただ空しい。
朝を迎えれば忘れてしまう感情。
夢から醒める前に、切られた想いを伝えればよかった。
何度も繰り返した後悔を抱きながら、浮かぶ意識に身を委ねた。



瞼の向こうの明るさに、目を開けた。
いつもと変わらない朝。今日一日の予定を考えながら体を起こす。

「やな天気」

カーテンを開けて見た空は曇天。雨が降るでも、晴れる訳でもない中途半端さに溜息を吐いた。
今日もやるべきことは多くある。一人で生きていくのに、天気ひとつで憂鬱になっている暇などはない。
そうは思うが、重苦しい灰色の空と同じように気分は重くなる。窓を開けていないのに、湿気が腰まで伸ばした髪に纏わりついて重さを増しているようだ。
そう考えて、さらに憂鬱さが増した。
何だか、今日は調子が悪い。夢見が悪かったのかもしれない。
覚えていない夢に八つ当たり気味に不満を抱きながら、身支度を整えるため空に背を向けた。



髪を梳く手の優しさに、思わず笑みが溢れた。
また夢が見られることが嬉しい。ほんの僅かでも彼を覚えているのだと安堵する。
地を這う黒髪に視線を落とす。忘れていく彼を想い伸びた髪。梳かれる度に揺れ動き、彼の手に甘えているようだ。
不意に彼の手が止まった。肩の高さで鋏が髪に触れる感覚に、思わず息を呑み込む。
いつもとは違う動き。彼の想いを根源から断ち切られるようで、かたかたと体が震え出す。
止めなくては。このままでは完全に彼を忘れてしまう。
まだ彼を覚えていたかった。欠片でも、醒めたら忘れてしまう夢の中だけでも彼の側にいたかった。

「待っ……!」

振り返ろうとするも、彼の手がそれを制止する。
肩に置かれた彼の手。振り解こうと思えば容易にできるほどの軽い力だというのに、途端に体は動けなくなる。
体が震え、視界が滲む。再び鋏が髪に当てられる感覚に、唇を噛み締め目を閉じた。

「――」

音が聞こえる。雑音になってしまった彼の声が何かを囁いている。
聞こえないと理解していても、彼の言葉を拾おうと耳を澄ませた。

「――必要ありません」

声が、言葉が聞こえた。
彼の声だろうか。忘れてしまったその響きを確かめる術はない。
しゃり、と髪が切られていく。優しく丁寧なその手つきが、自分の中の不安や恐怖を解かしていく。

「もうすぐ戻ります。長く一人にさせて申し訳ありませんでした」

柔らかな声音に恐怖とは違う思いが溢れ、滴となって頬を伝い落ちる。
しゃきん、と鋏の音。鎖のような髪が背を滑り落ち、体が軽くなったのを感じた。
両肩に手を置かれる。その温もりに促されるように、そっと目を開けた。

「あ……」

目の前に置かれた姿見を見て、小さく声を上げた。
肩で切りそろえられた黒髪が揺れている。肩に手を置いて、彼が優しく微笑んでいる。
懐かしい記憶。こうしていつも彼が髪を切ってくれていた。
彼の姿も声も、はっきりと覚えている。忘れて消えてしまった訳ではないことが、何よりも嬉しい。
見つめる姿見が不意に揺らぐ。涙のせいだけではない。そろそろ夢から醒めるのだろう。
姿見に映る彼もまた揺らいでいく。醒めてしまう前にと、振り返り想いを口にする。

「ずっと……ずっと信じてた!帰ってくるのを待ってたの!」

彼の帰りを信じて、髪を切らずにいた。髪を切るのは彼だけだと、待ち続けていた。
伸ばした手が引かれ、抱きしめられる。懐かしい温もりと、ふわりと鼻腔を擽る香りに彼を感じて強くしがみついた。

「ありがとう。夢から醒めたら、また髪を切らせてください」

その言葉に、強く頷いて笑みを浮かべた。



髪を梳かれる手を感じて目を開けた。

「おはようございます。ただいまもどりました」

柔らかな微笑み。髪を梳く手の心地良さに目を細めた。
促されて起き上がる。手を伸ばして抱き着けば、確かな温もりが伝わってくる。

「おはよう。おかえりなさい」

そう囁けば、もう一度ただいまと声が返る。たったそれだけのことが、泣きたいくらいに幸せだった。

「朝食を済ませたら、髪を切らせてください。その後は二人で出かけましょう」

昔のように。
次々と浮かぶ記憶を思い浮かべ、小さく頷いた。
髪を梳く、愛しい手。
彼を想い伸ばした髪を、彼の手で切り揃えられる。
当たり前だった日常が戻ってきた。長い夢から醒めたようだ。
嬉しくて、幸せで。
彼の胸に擦り寄り、夢から醒める前に伝え忘れた言葉を彼に告げる。

「大好き」

一瞬驚いた彼がふわりと微笑む。

「僕は愛しています」

額に触れる唇の熱と共に降る言葉に顔が赤くなるのを感じながら、私も、と彼の頬に口づけながら囁いた。



20260320 『夢が醒める前に』

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