sairo

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3/19/2026, 5:05:56 PM

目を覗き込まれている。
閉じた瞼の向こう。すぐ側で誰かに見られている。
そんな感覚を覚えるようになったのはいつからだっただろう。
最初は気のせいだと思った。時折違和感を感じる程度のそれを、然程気にも留めなかった。
だが次第に違和感は強くなってきた。目を閉じると感じる何か。それが視線だと感じた時には、きっとすべてが手遅れだった。



視線を感じ、反射的に目を開ける。
カーテン越しに降り注ぐ朝の光。また一日が始まったことに、そっと安堵の息を吐いた。
軽く頭を振り起き上がると、ベッドから抜け出す。体は重く、立ち上がった途端にふらついてしまう。安静にすべきなのだろうが、このまま横になって睡魔に襲われる恐怖を思うと、多少無理をしてでも起きていたかった。

「大丈夫。ただの気のせいだ」

いつものように、声に出して自分自身に言い聞かせる。
もはや意味をなしていないこの行為を続けているのは、僅かな望みに縋っているというよりも、ただ目を逸らして逃げているだけなのだろう。
そんなことを思いながら、身支度を整える。カーテンを開ければ変わらぬ景色が、自分を置き去りにしていつもと同じ日常を始めようとしているように見えた。

「今日も大丈夫。いつもと変わらない」

縋るように繰り返す。どこかで烏が鳴く声に朝から不吉だと思いかけ、慌てて否定する。
思った所で変わらない。そう理解はしているが、できるだけ不吉だの縁起が悪いだのと考えたくはなかった。
気を逸らすように時計を一瞥し、窓に背を向け部屋を出る。
自分もいつもと同じ日常を過ごすのだと、ふらつく足に力を込めた。



「世界とは時に残酷で、不条理なものなのです」

声がした。
聞き覚えのある言葉に、自分が夢を見ているのだと気づく。

「どうか心を強くお持ちください。深く考えることがありませぬよう」

早く起きなければ。目を開けなければと意識だけが急くが体は指先一つ自由にならず、視線の先で揺らぐ住職の姿も、消えることはない。

「もはやそれしか、あなたを現世に留める術はありません」

硬い表情で、それでいてどこか悲しみや憐みを浮かべて住職は告げる。
所詮は他人事なのだ。込み上げる不快感に顔を背け、目を閉じる。

閉じて、しまった。

「っ……!?」

咄嗟の自分の行動を悔やむものの、もう遅い。
閉じた瞼の向こう側。すぐ側で誰かが目を覗き込んでいる。
感情の浮かばない、無機質な目。他には何もない。息遣いも、鼓動も感じない。
ただ視線だけを強く感じる。触れ合いそうなほど近くで見ている目だけを意識してしまう。
早く目を開けなければ。このままでは戻れない。

「心を強くお持ちください」

住職の声がする。
感じる目の恐怖から駆け込んだ、いくつかの寺の内のひとつで出会った人物。
どこへ行っても門前払いだった自分を招き入れながら、何もできぬと手を離した男。

「深く考えてはいけません」

固く閉じた瞼が震えた。
力を入れてこじ開けた隙間から、光が差し込んでくる。

「気づいてしまえば引きずり込まれ、戻ることは叶わない」

微かな警告の言葉に眉を顰めながら、残る力を振り絞った。


「――あ」

目を開けた瞬間に視界を染めたのは、朱の光。
気づけば夕暮れ時。遠くで烏の鳴き声を聞きながら、手にしていた本を閉じた。
本を読んでいる間に、いつしか眠ってしまったらしい。
溜息を吐きながら、本を手に立ち上がる。
閉館時間の近い図書館内は、いつもより人が少なく閑散としている。だからなのか、余計に烏の鳴き声が耳についた。

「そういえば……」

眉を寄せながら、ふと思い出す。
瞼の向こう側の目を感じる前、一羽の烏と目が合った。
無感情な黒く塗れた瞳。あの時は気にならなかったそれが、何故か酷く気になった。

――深く考えてはいけません。

どくり、と心臓が嫌な音を立てた気がした。
烏が鳴いている。その異様さに気づき、体が硬直した。
館内で烏の鳴き声が聞こえるはずはない。いくら人が少ないからといって、鳴き声以外の音が何も聞こえないなどありえない。
次々と浮かぶ疑問に、かたかたと体が震え出す。これ以上考えてはいけないと思うのに、考えることを止められない。
思い出す、目を開けた時の朱の光。夕暮れを、窓のない館内にいて感じることができたのか。

――気づいてしまえば。

住職の警告も、もはや意味がない。
自分の目は今、図書館内を見ている。だが、感じるのは烏の声。吹き抜ける風の冷たさ。香る草花の匂い。
視覚以外が、外にいるのだと訴えている。夕暮れの、烏と目が合った時のまま自分は立ち止まっている。

「あぁ……」

気づいてしまえば、その瞬間に視界が変わる。夕暮れの寂れた道端に佇んでいる。
烏の姿はない。鳴き声だけが響いている。
目を閉じれば、現れるのだろうか。

「――違う」

無意識に声が出ていた。
今更、目を閉じても閉じなくても変わらない。閉じた瞼の向こう側にいるのではない。
気づいてしまった。乾いた笑い声が喉を震わせ、見開いたままの目から涙が流れ落ちていく。

「最初から、いた……目が合った時に、もう……焼き付いて……」

目は最初からあった。
瞼の裏側に焼き付いて、閉じる度に目が合っていた。

――世界とは時に残酷で、不条理なものなのです。

住職の言葉を思い出す。
確かに不条理だ。自分はただ烏と目が合っただけ。たったそれだけで、目が焼き付き離れなくなってしまった。
泣きながら笑う。滲み揺らぐ視界で、影が伸びていく。
翼を生やした自分の影に見えるが、違うのだろう。

影が揺らぐ。湧き出た黒い靄が体を包み込み、目を覆う。
しばらくして離れていく靄に浮かぶ一対の黒い瞳。焼き付いていたはずの目が靄に移り、触れ合いそうなほど側で目を合わせている。
体は靄に包まれ動けない。瞼は靄に縫い付けられてしまったのか、もう閉じることができない。

「あぁ、不条理だ」

笑いながら呟いた。泣きながら叫んだ。
けれどすべては意味のない行為。
最初から手遅れだった。

これから先も、自分は目を合わせ続けるのだろう。
終わりはない。
永遠に目は離れない。



20260318 『不条理』

3/18/2026, 9:56:26 AM

「泣かないよ」

こちらに背を向け、彼は言う。
その視線の先には、小さな墓石。石を積み上げただけの簡単なその墓に、けれど埋まるものは何もないのだと知っている。

「泣きたいのはこの子たちだもん」

この子たち、というのは、今も彼の周りで漂ういくつもの小さな光のことだろう。
人の叶わなかった願いや後悔でできた光。彼はずっと、この光を見て、思いを聞いて生きてきた。
元来優しい子なのだろう。感受性が豊かであるが故に、こうして光が集まってくるのかもしれない。
また一つ、光が空から落ちてきた。見上げる空の果てに、流れた星の名残が白の線を描き、夜に解けて消えていく。願いを託された星が抱えきれず、あるいは受け取れずに溢れてしまったのだろう。

「ごめんね。お墓を作ることしかできなくて」

漂う光に優しく告げて、彼は作ったばかりの墓に手を合わせる。幼いなりに必死に考え、叶わぬ願いのための供養をしているつもりなのだろう。その純粋な心が痛ましく、泣くまいと耐える小さな背をそっと抱きしめた。

「泣いてもいい」

静かに告げる。大丈夫だと頭を撫で、それこそ願うように囁いた。

「泣いていいんだ。泣けない思いの代わりではなく、自身の心の望むままに泣いて叫べばいい」
「でも……」
「感情に蓋をして閉じ込めるな。でなければまた一つ、星に還れぬ光が増えてしまう」

戸惑い迷う彼を包み、大丈夫だと繰り返す。周囲の光もまた、同意するように瞬いた。
気づけば周囲には光が溢れ、まるで星空の中にいるかのようだ。腕の中で彼が感嘆の声を漏らすのが聞こえた。

「――きれい」
「元は星だからな」

星から溢れ、地上に落ちてしまったもの。叶わぬ願いの重さに大地に繋がれ、空に還ることもできない残り香。
その意味を理解して、彼はぽつりと呟いた。

「お星さまにはもう、戻れないのかな」

彼はやはり、どこまでも優しい。
苦笑して手を離し、近くの光を手に取った。振り返り、不思議そうにこちらを見る彼に微笑んで、そっと光に息を吹きかける。

「っ、わぁ……!」

ふわりと浮き上がり、ゆっくりと空へ上っていく光に、彼は目を輝かせた。食い入るように夜空に解けていく光を見つめ、頬を上気させて手を伸ばす。

「今の、どうやったのっ?僕にもできる?皆、お星さまに戻れるの?」
「落ち着け。そんなに一気に聞かれても答えられない」

矢継ぎ早の問いかけに口元を緩ませながら、伸ばされた手に自らの手を添えた。
ぺたぺたと手のひらや指の先に触れ、時に裏返して真剣に考えている。問う形はとっても自分で考えようとする姿勢はとても好感が持てた。

「手から何かが出てたのかなぁ?でも、ふって、息を吹いてたし、その時にお星さまになったのかなぁ……」
「星から溢れたものが、星そのものになるわけではないよ」

色々と考えることは良いことだ。彼の思考を否定するのは忍びないが、一つだけ訂正する。

「違うの?」
「正確にはね。星になるのではなく、空や星に解けて還ったんだ」

違いがよく分からないのか、彼は首を傾げて眉を寄せる。

「それは……この子たちにとって、幸せなこと?」
「幸せかどうかは分からないが、本来あるべき形には戻れるな」
「そっか……」

周囲の光を見つめ、彼は柔らかく微笑んだ。
握られたままの手を逆に取り、その手のひらに光を乗せる。目を瞬く彼の前で、もう一度光に息を吹きかけた。

「あ……」

瞬く光の中に浮かぶものが見えたのだろう。ふわりと浮かぶ光を目で追いながら、彼は小さく声を上げた。
叶わぬ願いを映した光。膝を抱えて蹲る少年の姿を浮かばせたそれは、息を吹きかけた瞬間に外を自由に走り回る姿に変わった。

「願いが叶った?」
「現実は変わらない。この光の中の子は今も、走ることはできないだろう……私がしたのは、ただ夢を見せているだけだよ」
「夢……?」

空へと解けた星を見届け、彼は切なげに目を細めた。
何を思っているのだろうか。泣いているようにも、安堵しているようにも見える横顔からは、正しく感情を推し量ることができない。
ややあって、彼はこちらへ向き直った。
真っ直ぐで純粋な目。強い意思を湛えて、願いを口にする。

「それは僕にもできる?」
「やり方は教えよう。やってみるといい」

そう告げると、彼は頷いて光を手のひらに乗せた。
光の中に一人きりで泣いている幼い少女の姿が浮かぶ。その痛ましさに彼は息を呑んで悲しげに眉を顰めた。

「この子の悲しみが伝わっているか?」
「うん。ひとりぼっちで寂しくて泣いてる」
「その悲しみを吹き飛ばすように息を吹きかけるんだ。それだけでいい」

手を包み込み、目を合わせて告げる。

「それだけ?」

小さく漏れた言葉に、苦笑しながら頷く。
それだけと彼は言うが、それがどれだけ難しいことか彼はまだ知らないのだろう。

「やってみる」

そう言って、彼は光を見つめた。
薄く浮かんだ彼の笑みは、しかしすぐに消えて眉が寄る。
悲しみだけを吹き飛ばすイメージが浮かばないのだろう。それは叶わぬ願いの根源を理解していないからだ。
この少女の願いは、かつてのように家族の側で愛されていたいこと。それが理解できたのなら、自ずと叶わぬ理由も理解ができる。
そろそろ手伝うべきか。そう思い口を開きかけるが、その前に彼は真剣な顔をして静かに息を吸い込んだ。
そっと息を吹きかける。悲しみだけが光から消え去り、泣いていた少女は家族に囲まれ微笑む姿へと変わる。

「っ、できた」

空へ上っていく光を見つめ、彼は笑みを浮かべた。その姿を見ながら、内心で驚く。
初めてで、正しく光を還らせることができるとは正直思ってはいなかった。だが彼の背後に作られた墓を思い出し、当然のことかと認識を改める。
誰よりも光に心を傾けていた彼ならば、理解できぬはずはない。

「よかった」

心からの言葉。
気づけば光を見つめる彼の頬を、一筋の滴が伝い落ちていった。

「よくできたな」

その涙には何も触れず、微笑んで彼の頭を撫でる。
上出来だと褒めると、彼はくしゃりと顔を歪めて抱きついた。
声もなく泣いている。強くしがみつき泣く彼を抱きしめ、その背を撫でる。
優しさ故に光に繋がれていた小さな魂。その繋がりを解きながら、そっと囁いた。

「還るのならば、途中までは一緒に行こう」

答えを察しながら告げれば、やはり彼は泣きながらも首を振る。

「ここにいる。皆を還してあげたいから」

それは永遠にここに留まることを意味している。
人の願いは尽きず、叶わぬものもまたなくなることはない。
どう説得すべきか。内心で悩んでいれば、それを察して彼の抱きつく腕の力が強くなった。

「ここにいたい。一緒にいたいよ」

そう願われてしまえば、何も言えない。溜息を飲み込んで、空を仰いだ。
夜空を駆け抜けていく星。時折溢す光が、またこの地に降ってくる。

「――ここにいるのならば、覚えることがいくつかあるが守れるか?」

辺りの光を見渡しながら、彼に言う。
いくつか混じる、仄暗い光。あれらに宿るものは重すぎて、夢を見せても浮かぶことはない。
彼はそれを受け入れられるだろうか。泣いてしまわぬだろうか。

「守れるよ」

迷いのない、はっきりとした声。
自分の不安を掻き消すように、顔を上げて彼は笑った。大丈夫だと、強く頷いてみせる。

「もう泣かないよ。一緒だから頑張れるもん」

無邪気な笑顔。
それ以上何も言えず、言葉の代わりに力強く彼の頭を撫で回した。



20260317 『泣かないよ』

3/17/2026, 10:24:34 AM

目の前を、誰かが足早に過ぎていく。
視線を向ければ、小柄な少女が泣きながら教室に入っていくのが見えた。
何かあったのだろうか。込み上げる疑問に対する答えが思い浮かび、嘆息する。確認した訳ではないが、まず間違いないだろう。
彼女のように泣きながら、あるいは怯えながら目の前を過ぎていくのは、これで三回目だ。彼女たちの精一杯の勇気が最悪な形で返ってきたことを可哀想に思いながら、重い足を引きずるように元凶の元へと歩き出した。
賑やかな廊下を抜けていく。ぱたぱたと通り過ぎる生徒たちは皆足取り軽く、足音を立てずに歩く自分とは正反対だ。きっと表情も違うのだろうと考えて、進む足がさらに重くなった気がした。



「ねぇ。いい加減にしてって言ったよね?」

美術室で一人、絵を描く彼の背に声をかける。
答えはない。けれど絵を描くことに集中している訳ではないことは明らかだった。
ただ二回目の時のやり取りをするのが億劫なだけだろう。その証拠に、絵を描く手は先ほどからほとんど動いていない。
眉を寄せ、彼に歩み寄る。手を伸ばせば触れられる距離まで近づいて、ようやく彼は振り返った。

「いい加減にしろと言われたって、向こうから来るのが悪い」
「やり方があるって言ってんの」

不機嫌そうに言い訳をする彼は、普段とは違いどこか幼い。目を合わせようとしない彼に溜息を吐いて、その背後のイーゼルに掛けられた絵に視線を向けた。
怪しく微笑むビスクドール。ただの絵だと理解していても、人形の纏う悪意に飲まれてしまいそうだ。

「あの子の怖がっているものは人形か……随分と精密に描かれているから、実際にある人形なのかな」
「知らない。興味もない」
「描いた本人が何を言ってんの」

こちらに背を向けキャンバスに向かう彼は、完全に拗ねてしまったようだ。絵に触れ、軽く爪を立てる。
その途端、絵がどろりと溶け出し、キャンバスに染み込むように消えていく。まるで最初から何も描かれていないとでもいうかのように。

「相変わらず、変な特技だねぇ」
「変って言うな。あと、特技とかじゃない」

いつ見ても不思議な光景だ。思わず呟けば、幾分か低い声に否定された。
キャンバスを見た人の、一番怖いものを描き出す。いつからか、彼はそういった絵を描くことが多くなった。
彼の周囲に人が集まるようになったからだろうか。不愛想で幼いけれど、彼を好きになる人は案外多い。
もっとも、彼と付き合えた人はまだ誰もいないが。勇気を出して告白しても、先ほど見かけた少女のように目の前で一番怖いものを描かれて逃げてしまう人ばかりだ。

「皆、怖がりだな。人形とかよく分からない化け物とか……何が怖いんだか」

心底不思議だと言わんばかりの声音。何度も人の恐怖を描いていても、彼には分からないものらしい。
何も言えずにただ見ていると、真っ白になったキャンバスを前に、彼は手を離して筆を取る。
絵の具の匂いが鼻を掠める。キャンバスの白が、黒に塗り潰されていく。
その迷いのなさに、息を呑んだ。絵の具の黒が容赦なく白を殺し、やがてキャンバスは黒に染め上げられてしまった。

「――まだ、黒だけか」

かたり、と筆を置く音がやけに大きく響く。
感情が抜け落ちたかのような、冷たい声音。思わず肩が震え、一歩足が後ろに下がる。

「形として描かないと意味がないのに」

ゆっくりと彼が振り返る。
まるで人形の目だ。キャンバスのような底知れない黒い目。射すくめられ、途端に動けなくなってしまう。

「なぁ」

腕を掴まれ、開いた距離を縮められる。

「もっと、形のある怖いものがあるだろ?それを俺に晒して。形さえあれば、すぐに見つけることができるんだ」

至近距離で見つめ合っているというのに、彼の目の中に自分の姿は見えない。今の自分の姿が見えるのは彼だけだ。

「じゃないと、いつまでも仲直りができない……いくらでも謝るから、だから迎えにいかせて」

見えない自分の姿の代わりに、脳裏を懐かしい記憶が過ぎていく。
幼い頃、一緒に彼の家の倉の中でよく遊んだ。本を読み、ままごとをし、お絵かきをし、たくさん話し合った。
いつも笑っていた。喧嘩らしい喧嘩もなく、いつも一緒だった。
あの日、何が原因で喧嘩になったのか覚えていない。
ただとても悲しくて、痛くて、許せないと思った。
二度と遊ばない。口も聞きたくない。そう言って、彼に背を向けたことは覚えている。
その後は――真っ黒だ。

気づけば楽しげに遊ぶ自分たちの姿は消え、キャンバスと対峙していた。
底が見えないほどの深い黒を無言で見つめていると、不意に中心から波紋が広がった。
水面のように何度も波紋が揺らぎ、やがて中心に何かが浮かび上がる。

「っ……」

小さなそれは、子供の手。助けを求めるかのように伸ばされた手は、キャンバスを突き抜け大きく開かれる。
それまで立ち尽くしていた体は慌てたようにその手を掴もうと動き出すが、手は捕まえることができずにすり抜けた。悲しげに揺れる手が、再びキャンバスの中へ沈んでいく。やがて何も見えなくなると、キャンバスは大きく揺らいで、彼の目に変わった。

「どうした?」

不安と期待を色濃く宿した目を見つめながら、無言で首を振る。俯き、掴まれた腕を解こうとするが、逆に痛みを覚えるほど強く掴まれてしまった。

「行かないで」

声を震わせ、彼は懇願する。

「お願いだから、一人にしないで」

声だけでなく、掴まれた腕から彼が震えているのが伝わる。
昔から彼は怖がりだ。周りに人が集まるようになった今でも、置いていかれることを怖がっている。
あの時、彼はどんな顔をしていたのだろうか。ふと疑問に思う。一日の終わりにさよならをする時にすら泣いて嫌がっていた彼は、背を向けて去っていこうとする自分をどう思ったのか。

「必ず見つけるから。だからここにいて」

彼は何度も自分を見つけると繰り返す。
あの日を最後に、自分は行方不明になっているという。ならば今ここにいる自分は何なのだろうか。
彼には自分の姿はどのように見えているのだろうか。

「分かってる。ちゃんとここにいるよ」

けれど浮かぶ疑問を何一つ口にせず、代わりに彼の望む言葉を囁いた。
密かに自嘲する。
何も言えない自分はきっと、彼以上に怖がりなのだろう。



20260316 『怖がり』

3/16/2026, 11:00:01 AM

星が一つ、流れていく。
一瞬で空の彼方に消えた星の尾の跡を見上げながら、少年は残された光の煌めきに手を伸ばした。
砂粒ほどの微かな光。手の平で転がし、ポケットから小瓶を取り出して中へと入れる。
軽く振れば光が跳ねる。しゃらしゃらと澄んだ音に混じり、楽しげな子供の笑い声が微かに聞こえた。

「今回溢れたのは、また随分と温かな残り香だね」

呟く声は穏やかだが、その表情はどこか陰りを帯びている。小瓶の中の光が紡ぐ幸せの、その終わりを知っているかのように。
小瓶の口をそっと撫で、少年は道の先の暗がりへと視線を向けた。近づく足音と共に、仄かな月明かりが人影を浮かばせる。

「こんばんは。こんな夜更けに女の子が一人でいるのは感心しないよ」

あえて明るく声をかければ、近づく人影の足が止まった。
女の子、と少年は言うものの、目の前の少女は明らかに少年よりも年上だった。無表情ながらどこか暗い目をして、何も言わずに少年をただ見つめている。

「君も噂を信じて、こんな夜遅くに家を抜け出してきたんだろうけれど残念だったね。何でも願いを叶えてくれる星なんてここにも、世界のどこにもないよ」
「――知ってる」

少年の忠告に少女は淡々と答え、空を見上げた。その瞳はやはりどこか暗く悲しげで、しかし救いを求めて星を探しているようには見えなかった。

「別に願いを叶えてほしい訳じゃない。ただここなら、言葉を置いていっても許される気がしたから」
「言葉?」
「そう。もうすぐここを出ていくから……本当は何も残さないでいこうと思ったけど、偶然願い星の噂を思い出したから」

願い星とは、この場所で見れる流れ星に関する古くから囁かれている噂だった。新月の夜、この場所で流れ星に願い事をするとその願いは叶うという、どこにでもあるような噂。それでも新月になると、ここを訪れる者が今も後を絶たない。

「誰かの願いで溢れているこの場所なら、願いじゃない私の言葉も置いていけるような気がした」

確かにこの場所で多くの人々が、流れ星に願いを託そうとしてきた。少女の言う通り、ここには人の願いで溢れているのだろう。
肯定も否定もしない少年に、少し安堵したのだろうか。夜空に浮かぶ三日月を見つめ、少女はほんの僅か表情を綻ばせた。

「今日は月が出ているから誰もいないと思ってたから、正直意外だった」
「おじゃまかな。終わるまで離れていようか」

空を見上げたまま、少女は緩く頭を振る。肩で切りそろえられた髪が揺れ、月明かりを反射して星のように煌めいた。

「ただの独り言だから、あなたが気にならないのであればここにいればいい」

そう言って、少女は小さく息を吸い込んだ。一瞬の沈黙の後、静かに少女は語り出す。

それは二十にも満たない少女の、生の全てだった。
庭に咲く、四季折々の花の美しさ。友人との他愛のない会話。学校の授業の内容や、通学路で起きた些細な出来事。
少女が見て聞き、そして感じた日々を文字通りこの場所に置いていこうとする。そんな言葉だった。

「この街を嫌いになったわけではない。友達と別れてしまうのはとても寂しい。それでも、私の全部を置いていく……置いて行ってもいいんだって、教えてもらったから」

穏やかにそう締めくくり、少女はそっと息を吐き出した。視線を下ろし、少年を見つめて頭を下げる。
それに少年は何も言わず、ゆっくりと少女の側に歩み寄った。

「全部置いていくって決めたのに荷物になるかもしれないけど、ひとつ餞別にあげるよ」

首を傾げる少女の手に、小瓶を握らせる。瓶の中の仄かな煌めきを見て、少女は困惑に眉を顰めた。
小瓶の中身が、流れ星から溢れた光だと少女は知らない。ただ柔らかな煌めきに、暫く目を細めて見入っていた。

「――あ」

不意に音が聞こえた。しゃら、という澄んだ音に混じる笑い声。
見つめる小瓶の中の光が瞬いて、とある刹那の光景を少女の脳裏に浮かばせる。

それは、幸せそうな家族の日常の一コマ。
両親と幼い娘。花の咲き乱れる庭で、誰もが微笑みを浮かべていた。
見つめる少女の頬を滴が伝う。かみ殺しきれなかった嗚咽が、微かに漏れた。

「さっき流れた星から溢れた光だよ。君のお母さんが置いて行ったんだ」
「おかあ、さん……?」
「ここに降る星は、誰かの心残りだから」

赤い目を瞬かせ、少女は空を見上げた。
煌めく無数の星々に息を呑む。時折流れる星が残す微かな光の瞬きに切なさが込み上げ、少女は無意識に小瓶を胸に抱いた。

「私……」

ぽつりと少女は呟いた。涙に掠れた声は、静かで凪いだ響きをしていた。

「お姉ちゃんになって、お母さんがいなくなって、お父さんが私を見なくなって……仕方がないって思ってる。思ってるから、置いていってもいいのか迷ってる」

そう言いながらも、少女は留まることはないのだろう。
悩み、苦しんで出した答えだ。小さな小瓶の中の思い出一つで、今更決意が揺らぐことはない。

「全部置いていくつもりだったけど、これは持っていくことにする……私はちゃんと愛されてたっていう、確かな証明だから」

小瓶を胸に抱きしめ、少女は少年を見つめて微笑んだ。もう一度深く頭を下げ、ゆっくりと来た道を戻っていく。

「行ってらっしゃい。後悔のないように」

その背を見送って、少年は静かに目を伏せた。
その足元を風が通り抜けていく。その風を追うように、地面から仄かな光が浮かび上がる。
ひとつ、またひとつと増えていく光。ふわふわと宙を漂い、やがては空へと上がっていく。

「かわいそうに」

呟く言葉は、少女に対するものではない。少女に置いていかれるすべてに対してだ。
少年の足元で佇む他よりも暗い光が、少年の言葉に小さく震えた。地面に繋がれたままの光は、一瞬だけ苦悩する男の姿を浮かばせ消えていく。

「かわいそうにね。その思いはもう浮かぶことはないだろう」

後悔、あるいは執着。空に還るには重すぎる。
小さく息を吐いて、少年は空を見上げた。
高く上がる光は空に解け、周囲の星を煌めかせていく。
少女の置いていった言葉、思いがすべて、正しく空へ昇華され星を美しく煌めかせる。

最後の光が空に解けたのを見届けて、少年はふわりと微笑んだ。踵を返し、その場を去っていく。
浮かぶ光はない。光は空へ還り、還れぬものは再び地の底へ沈んでしまった。
暗い大地を、満点の星と三日月が淡く照らしている。

星が一つ、流れていく。
溢れた光を大地に落とし、誰かの思いが流れていく。




20260315 『星が溢れる』

3/15/2026, 2:12:45 PM

「今日はここから先は駄目だからね」

地面に引いた線を指し彼女は言う。
彼女と一緒に遊ぶ時のルールのひとつ。線を見ながら小さく頷いた。

「じゃあ、今日は何して遊ぶ?」

問われて周りを見回した。
今日遊ぶ場所は中心に大きな木が一本立っているだけで、周りには何もない。隠れ鬼が候補から消え、それならばと木を見上げた。
手を伸ばせば届く位置に太い枝が伸びている。今まで木登りはしたことがなかったが、これなら自分でも登れそうだ。

「じゃあ、今日は木登りにしよっか……おいで。登り方を教えてあげる」

何も言わずとも考えていることが分かったのだろう。小さく笑った彼女が木へと近寄り、手招いた。
彼女の元へ近づけば、するすると器用に枝に登っていく。彼女を真似して木に足をかけ、指示された通りに登っていけば、すぐに彼女の隣の枝まで辿り着いた。

「上手。どう?初めての木登りは」
「思ったより簡単だった」

きっとそう感じたのは、彼女の指示があったからだ。自分一人では最初の部分で躓いていたと思いながらも口には出さず、枝に座って遠くを見る。
どこまでも続く草原が、風に吹かれて波のように揺れている。温かな日差しと穏やかな風に、無意識に笑みが浮かんだ。

「寝ないでよ」
「寝ないよ」

そう言いながらも、心地よい温もりに少しだけ意識が揺らぐ。
隣から呆れたような溜息が聞こえた。それと同時に風が吹き抜け、ふわりとした浮遊感と共に、地面に足がつく感覚がした。

「寝て落ちてしまったら大変だからね」

笑われて顔が熱くなる。けれど何も言い返せずに、彼女から顔を逸らして木の根元に座り込んだ。
木漏れ日が心地良い。意識が微睡み始め、恥ずかしさなどどこかに消えていく。

「次はお昼寝になりそうだね」

顔を覗き込んで、彼女が言う。もう顔を逸らすことはせず、ただぼんやりと彼女の目を見返した。
こうして顔を覗き込んでくる時の彼女の瞳は、満たされているような安らいだ色をしている。まるで自分がここにいることに安堵しているようだ。
何故そんな目をするのか。疑問に思ったことは何度もある。けれど聞いてはいけないような気がして、今日も知らない振りをして目を閉じた。



烏の鳴き声が聞こえて、目を開ける。
気づけば辺りは夕暮れの朱に染まり、沈みかけた夕陽に向かい烏が一羽飛んでいくのが見えた。

「そろそろ帰る時間だよ。ほら入口まで送ってあげるから、早く行こう」

彼女に手を引かれて立ち上がる。そのまま手を繋いで、彼女の言う入口まで歩き出す。
入口というのは、彼女が地面に書いた線の一つだ。引き戸のようにそこだけが二重になっている。
それもルールの一つだ。必ず入口から出入りしなければならない。
入口から入り、線の内側だけで遊び、烏が鳴けばまた入口から出て帰る。
前にルールについて彼女に聞いたことはあるが、必要だからとしか答えてくれなかった。

「じゃあね。気を付けて」
「うん……」

送り出されて、彼女の目を見ないようにしながら頷き、歩き出す。
この時の彼女の目は見れない。表情の抜け落ちた、けれども鋭い目が逸らされることなく向けられている。今も感じる強い視線が恐ろしくて、彼女に気づかれぬよう少しだけ足を速めた。
どうして。口に出せない疑問が、頭の中で渦を巻く。
どうしてそんな目をするのか。いくつもあるルールは何のためにあるのか。
今振り返り、引き返したとしたら、何かが変わってしまうのか。次に遊ぶ時に線の外側へと出たら、築き上げてきたものすべてが崩れてしまうのか。
いくら考えても答えは分からず、行動を起こすこともできない。
俯き歩きながら、見て見ぬ振りを続ける臆病さに自嘲した。





ひた、と、額に感じる冷たさに意識が浮上する。
体が重い。汗の不快感にシャワーを浴びたいのに、起き上がることができない。
息苦しさに、自分が発熱していることを知る。ならば先程感じた額の冷たさは、誰かが額に乗せたタオルなのだろうか。
母だろうか。重い瞼に力を入れて開けながら考える。
しかしそれは、目を開けて視界に映る室内を見て違うと気づく。
一人暮らしで借りているアパートの一室だ。自分の他に誰かがいるはずがない。
夢だったのだろう。額にタオルはなく、熱に浮かされて昔の夢を見ていたのだ。
そう思いながら、室内を見回していた視線がキッチンへと続く扉を見て止まる。
ただの引き戸。だというのに、彼女と遊ぶ時に通る入口が思い浮かんだ。
入口を通り、区切られた室内で遊ぶ。けれど外の音は壁に阻まれて、烏の声は聞こえない。
発熱とは違う恐怖で体が震え出す。今まで何も疑問に思わなかったことが、次々と浮かぶ。
自分はいつから彼女と遊んでいたのか。遊んでいた場所はどこなのか。
そもそも、彼女とは一体誰なのか。

不意に、扉の向こうで影が揺らいだ。
人の影。視線を逸らすこともできずに見つめていれば、扉がゆっくりと開いていく。
音はない。ただ微かに、土と草の香りが鼻を掠めた。

「あぁ、起きたんだ」

いつもと変わらない様子で、彼女が桶を手に部屋に入ってくる。
どうして、と口にしたつもりだった。けれど震える唇から溢れるのは意味の伴わない、掠れた吐息だけ。
それでも言いたいことが伝わったのだろう。彼女は枕元まで来ると、薄く笑いながらサイドテーブルに桶を置いた。

「入口は、出入りするためのもの。遊ぶ時に決めたでしょう?」

だから入って来れたのだと、彼女は笑いながら桶から取り出したタオルを絞る。額に乗せられて、その冷たさに目を閉じた。

「それに、またねって手を振ったのは貴女でしょう?それなのに、こんな遠くまで逃げ出して、しかも獣除けの札まで貼るんだから……私、扉問答は苦手なのに」

彼女は何を言っているのだろうか。思い当たる記憶はない。
あぁ、でも。ぼんやりとする意識の中、うっすらと思い出す。
引っ越しの時、母が部屋の壁に何かを貼っていた。本棚や箪笥で塞がれ、今まで思い出すこともなかった。
それに、実家の近くの神社では、人を攫う狐の怪談話があったはずだ。はっきりと覚えてはいないが、攫われた人は狐に食べられてしまうのではなかっただろうか。

「失礼ね。ちょっと迷わせて遊んでいただけで、一人も食べてなんかいないよ。飽きたら皆返してたし」

口には出していないというのに、彼女は言い訳のような答えを返す。けれどやはり、彼女の言葉の意味はほとんど分からなかった。
熱が出ているせいなのか、思考がまとまらない。何が起きているのか、これからどうなるのかを考えることができない。
あの日と同じ。幼い頃、怪我をしていた狐を見つけ、気まぐれにハンカチを巻いたことを思い出した。

「言っておくけど、本当に食べたりしないからね。食べるくらいなら、ずっと一緒に遊んでいた方が楽しいし」

優しく頭を撫でられる。固く絞ったタオルで汗を拭いていく感覚がする。
沈んでいく意識を手繰り寄せ、必死に瞼をこじ開けた。

「夢を通して、ようやく捕まえたんだから。元気になったら、たくさん楽しいことをしよう」

だから、早く元気になってと。
あの安らかな、それでいて怪しい光を湛えた獣の瞳が、自分を見下ろし笑っていた。



20260314 『安らかな瞳』

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