sairo

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4/5/2026, 9:01:58 AM

「お一つです」

無機質な声が聞こえ、目を開けた。
広い畳敷の広間。厳重に封をされた陶器の壺を前に座っている。
また、同じ夢だ。
正面に座る、面布をつけた神主のような格好をした人物を前に考える。
壺に視線を落とす振りをしながら、そっと左右を見た。
壺のような光沢を放つ面をつけた子供らと、それぞれの前に置かれた壺。変わらぬ夢の内容に、密かに眉を寄せた。

「お開けください」

その言葉と共に手が意思とは無関係に動き、壺の封を剥がしていく。一枚、また一枚と、剥がれ落ちた瞬間に煤となって消えていく不安に、どうしようもなく不安を覚えた。
止めようとしても無駄だ。どんなに指先に力を込めても動きが僅かに緩慢になるだけで、止まることはない。

「お一つです」

繰り返される言葉とほぼ同時、左右から悲鳴が上がる。
倒れる音。畳を転がりのたうち回る子供の姿が視界の端に映り、手が震え出す。
それでも手は止まらない。また一枚、封が剥がれ消えていく。
いつしか悲鳴は聞こえなくなっていた。しん、と静まり返る広間に、封を剥がす微かな音がやけに大きく聞こえる。
後一枚。封に指をかけながら、ふと目の前の人物に視線を向ける。
いつの間にか、面布は子供らのような白い面に変わっていた。つるりとした表面に灯りが反射し、一瞬だけ鱗のような模様を浮かばせる。

「開けなさい」

そう告げられ、壺に視線を落とした。最後の封は剥がれ消えて、壺は静かに開けられるのを待っている。
手が蓋にかかる。止めたくても止められない。
夢だと分かっていても、呼吸が浅くなる。額に汗が浮かび、蓋を持つ手がかたかたと震え出す。
これ以上は駄目だ。開けてはいけない。中を覗いては、二度と戻っては来られない。
救いを求めて左右に視線を巡らせた。

「――っ!?」

他の子供らはすでに蓋を開け、中を覗いてしまったらしい。
倒れ伏し動かない子供ら。その面はそれぞれ変わり、異様さを際立たせていた。
壺を開ける前までは同じだったはずの白い面。それが獣のように、あるいは人のように形を変えている。だがどれもが歪で、正しくはないのだと本能が告げていた。
かたん、と音がした。とうとう蓋が開けられてしまうのだろう。
視線が戻る。壺へと向けられていく。
もう、止められない。

「一人、一つだけ。その身に受け入れ、馴染ませなさい」

無駄だと思いながら、最後の抵抗に目を閉じた。



「――っ、は」

声にならない悲鳴をあげ、男は飛び起きた。
忙しなく暴れる鼓動を感じながら、深く息を吐く。

「またか……」

呟いて、項垂れる。夢の名残りが纏わりついているようで、男は眉を寄せ頭を振った。
ここ最近繰り返し見る夢に、男は明らかに憔悴していた。夢だと分かってはいるものの、伝わる五感全てが現実のような生々しさを孕んでおり、それは恐怖となって目覚めた後も男を苛む。夢を見ることが恐ろしく薬に頼り、神社へ行くこともあったが、その成果はないと言っても過言ではなかった。

「助けてくれ……誰か……」

睡眠不足からくる頭痛に顔を顰め、サイドテーブルから鎮痛剤を取り、水で流し込む。震える手でペットボトルのキャップを閉めサイドテーブルに戻すと、ちょうどスマホが一件の通知を知らせた。

――同窓会のお知らせ。

このような体調では参加は難しい。そう思い断りの連絡を入れようとしたが、不意にその手が止まる。
男の同級生で一人、民俗誌の記者として働いている女性がいたことを思い出した。
学生時代に謎の昏睡状態でしばらく学校を休んでいた同級生。前回参加した同窓会では、彼女はいくつかオカルト関係の事件に巻き込まれたらしい噂を耳にしていた。
縋る気持ちで、同窓会への参加の返信をする。彼女が同窓会に参加しなくとも、連絡先は知れるかもしれない。

「どうか……助けて……」

スマホを握りしめ、男は祈る。
だが男は気づかない。
スマホの明かりでできた自身の影。それが不気味に揺らぎ、体に巻きつく何かを浮かばせたことを知ることはなかった。

4/3/2026, 3:47:20 PM

手の中の、小さなストラップを握りしめる。
大切な友人とお揃いで買った、青い鳥のマスコットがついたストラップ。いつまでも親友でいようと願いを込めた大切なものだけれども、それは自分だけが思っていたことかもしれない。
ストラップを買ってから少しして、友人はいなくなってしまった。別れの言葉も言わず、姿も見せず。まるで最初からいなかったかのように、友人は姿を消した。
まだ幼かった自分はすぐには状況を理解できず、呆然と空き家になってしまった友人の家の前に立ち尽くしていた。その時、玄関の片隅に転がっていた手の中のこれと同じストラップを見つけてしまった衝撃と悲しみは今でも忘れられない。
小さく息を吐いた。強張る体から力を抜くように、手を開いてストラップを箱に戻す。
白い鳥のマスコットのついたストラップの横に並べて、戻らない昔を懐かしんだ。



閑散とした周囲は、今日も変わらず静かだ。
繰り返される天災に、住んでいた人々の多くは家を失った。家を直し住み続ける人もいるが、ほとんどはここを出ていってしまった。
仕方がないとは思う。土砂で埋まる家や、呆然と立ち尽くし泣く人々を見てきたからこそそう感じる。大切なものを守るためにここを出ることも、逆にここに留まり続けるのも、必要なことだろう。
それでも、一人、また一人と見知った人々がいなくなることは寂しい。その度にいなくなった友人を思い出し、自然と足は街の外れへと向いてしまう。
そこには友人の家が一軒だけ建っている。立地のせいか、友人がいなくなった後も誰も住むことなく今も空き家のままだった。


「あれ……?」

思わず立ち止まる。
二回の角、ちょうど友人の部屋があった場所の窓に灯りが点っているのが見えた。
ようやく買い手がついたのだろうか。少しだけ不思議に思いながらも、誰が新しい住民になるのか気になり近づいた。

玄関先まで来て、違和感に眉を顰める。
玄関ドアが開け放たれていた。しかし、人の気配は感じられない。
二階の窓に視線を向ける。灯りが点いていたはずの窓は暗く、誰かがいるようには見えなかった。

「久しぶり」

声がして、反射的に肩を震わせた
玄関に視線を戻す。先程までは誰もいなかった家の中に、人の影が見えた。
突然のことに動けないでいる自分を気にせず、人影がゆっくりとこちらに近づいてくる。玄関を出てはっきりと見えたその顔は、見覚えはないというのに懐かしい感じがした。

「久しぶり」

見知らぬ誰かが繰り返す。その言葉の響きに友人を思い出した。

「あ、えと……ひさし、ぶり?」

そう言葉を返すと、静かで柔らかな微笑みが浮かんだ。

「どうして……」

ぽつりと、声が漏れる。
聞きたいことはたくさんあった。
どうして何も言わずにいなくなったのか。どうして戻ってきたのか。
どうしてストラップを置いていったのか。
けれど、浮かぶ疑問は一つとして言葉にはならない。浮かべる笑顔の中に悲しみを見つけて、何も言えなくなってしまった。
無言で立ち尽くしていると、不意に手を取られた。握るような形で両手で包み込まれ、ぼんやりと視線を手に向ける。
冷たい手だ。濡れた土の匂いが鼻を掠め、目を瞬く。
ここ数日雨は降っていなかったのに、ここだけ雨が降っているようだ。ぼんやりとそんなことを考えた。

「ここには大切なものがあったから」
「大切なもの?」

答えの代わりに、包まれた手を開かれる。何も握ってなかったはずの手の中に現れたそれを見て息を呑んだ。
鳥のストラップ。自分のものと友人のものと、二つ寄り添うように並んでいる。
大切なそれらが水分を含んだ土で汚れているのを見て、理由も分からず涙が込み上げる。

「ひとつ、願いを叶えてあげる」
「願い?」
「そう。何でもいいよ」

そう言われても、思いつくものは何もなかった。
泣きながら、ストラップを見つめる。どんなに考えても思いつかず、静かに首を振った。

「私はこれがあるから、他には何もいらない。私以外の、大切なものを守ろうとここに残っている人たちのお願いを聞いてあげてほしい」

何故そんなことを言ったのか、自分でも分からない。けれど言葉に違和感や疑問は一つもない。きっとそれは、心から願っていたことなのだろう。

「分かった。でもそれはひとりじゃ難しいから、手伝って」

差し出される手に、ストラップを持っていない方の手を差し出した。冷たい手が繋がれて、ゆっくりと歩き出す。

「ずっと一緒?」
「うん。ずっと一緒」

優しい声に、ほっと息を吐く。ストラップを握りしめ、笑みが浮かんだ。
もう寂しくない。それが嬉しかった。





街の外れには、小さな供養塔が建っている。
山を切り拓いてできた街は、昔から地震や大雨の度に山が崩れてしまうことが多かった。
その供養塔は、とある一軒家の跡地に建てられていた。その家の親族が後に建てたものらしい。
不思議なことに、供養塔が建ってから山が崩れることはなくなった。そしていつしか、ある噂が街で囁かれ始めた。

――供養塔に願いを書いた紙を供え、次の日なくなっていれば、その願いは叶う。

誰が言い始めたのかは分からない。しかしその噂は街に広がり、供養塔に願いを書いた紙を供える者は後をたたなかった。
本当に願いが叶うのか、何故願いが叶うのか。それは誰も知らない。

噂では、供養塔に供えられた二つのストラップにつけられた鳥たちが願いを叶えているのだと言われている。
お互いを大切に思う鳥だからこそ、大切なものに関わる願いは叶いやすいのだと、街の人々は信じている。




20260402 『大切なもの』

4/2/2026, 5:25:07 PM

「旅に出ようと思って」

不意に呟かれた言葉に、顔を上げた。
カレンダーに視線を向ける。四月一日。そういうことかと一人頷いて、読んでいた雑誌に視線を戻す。

「あぁ、うん」

曖昧に返事をした。それ以上何かを言われることもなく、話はそれで終わったように思えた。
次の日、どこにも姿がないと気づくまでは、会話をしたことすら忘れていた。
どこを探しても見つからない。
あの日から、そろそろ一年が経とうとしている。



ぐすぐすと泣く声を背中に聞きながら、その重さに何度目かの溜息を吐いた。
負ぶさりお化けとはこういうモノだろうか。現実逃避気味に考えながら、カレンダーに視線を向けた。
四月一日。彼の弟が姿を消して、ちょうど一年だ。
彼が言うには、その日も弟は普段と何ら変わらない様子だったらしい。数日前にエイプリルフールを知って、だから嘘をついてみたくなったのではないかと、思ったようだった。

「何でだよ……いつもと変わんなかったじゃん……だから、嘘だと思ってたのに。なんで……」
「はいはい」

何度も繰り返し聞いた愚痴を聞きながら雑誌を閉じ、コーヒーでも入れようと立ち上がる。
落ちないように、けれどこちらに負担を与えないように背中に張りつくのはさすがというべきだろうか。
弟がいなくなってから、彼は外に探しに出る以外の時間はこうして背中にしがみついていることが多くなった。最初は同じように心配し、彼を可哀そうに思ったものだが、一年も経つとどうしても対応が雑になってしまう。
残された彼の気持ちはよく分かる。旅に出るといなくなってしまった弟の無事を心配するのは当然だ。この世界は決して狸《かれら》には優しくないのだから。

「今頃、どっかで腹を空かせてたりして……車に轢かれてたらどうしよう……」

彼の泣き言を聞きながら、この不思議な兄弟に出会った日のことを思い出す。
あの日も確か四月一日だった。
仕事の帰り。近道をしようと横切った公園の片隅で、身を寄せ合って震えていた兄弟のどこか怯えたような瞳。何故か放っておけなくて、こっそりと家に連れ帰ってしまった。
あれから数年経つが、未だに兄弟が話すことも、時に人の姿に化けることにも完全に慣れない。すべてはエイプリルフールの幻で、朝目が覚めて四月二日になったら消えてしまうのではないかと、不安に思うことすらある。

「もう、帰ってこないのかな……」

ぽそり、と小さく呟かれた疑問に、返せる答えは持っていなかった。
小さく息を吐く。
仕方がない。部屋に戻ったら目一杯に甘やかそうと、コーヒーを淹れながら苦笑する。
その時、インターホンが急な来客を告げた。

「誰だよ……」
「さあ?今日は荷物の配達はないはずだけど」

淹れたコーヒーを置いて彼を背中にしがみつかせたまま、玄関に向かう。
彼を背中から離そうとしても離れないことは、この一年身に染みて理解していた。

「どちらさまですか?」

そう言いながら、ドアを開ける。不用心ではあるが、彼が何も言わない時は危険がないと知っている。
けれどドアを開け、来客の姿を認めた瞬間。相手の顔を見つめたまま、動けなくなってしまった。

「あ……」
「ただいま」

穏やかに笑う、人の姿に化けた彼の弟。動けない自分の手を取って家の中に入ると、そのまま迷わずに部屋へと向かう。
そして同じように動けないでいた彼を背中から引きはがし、ぽいと投げ捨ててしまった。

「痛っ……!?」

痛みに呻く彼を気にせず、弟は軽く手を引いた。彼のことは気にかかるが、仕方がないと促されるままに座る。
途端に狸の姿に戻り膝に乗って甘え出され、複雑な気持ちになりながら擦り寄る頭を撫でた。

「おい!一年間連絡一つなくふらふらしてたくせに、急に戻ってきやがって!しかも、何で俺を投げ捨てたんだよ!」
「旅に出るとは言った」
「エイプリルフールに言うやつがあるか!……というか、今まで何処に行ってたんだよ」

人の姿に化けた彼が、文句を言いながら背中に圧し掛かる。うっ、と小さく声が漏れるものの、兄弟が気にする様子はない。思わず文句を言いかけ、しかしその前に兄弟が揃っていた時は大体こんな感じだったと思い出し、言えない文句の代わりにそっと肩を落とした。

「いろいろ?海とか、山とか……あと、同じような狸の所で話を聞いてた」

首を傾げて弟は言う。
どんな話を聞いたのだろう。気になって視線を向けると、真っすぐにこちらを向いた弟と目が合った。
人の姿に化けている時はそれなりに感情豊かではあるが、こうして狸の姿に戻られると何を思っているのかは分からなくなってしまう。
ただ何となく、その目を少しだけ怖いと思ってしまった。聞いてはいけないような気がして話題を変えようと口を開くが、その前に彼がさらに背中に圧し掛かり弟に声をかけた。

「どんな話をしてたんだ?」
「皆で幸せになれる方法。どうすれば神隠しができるのか、教えてもらった」

思わず、息を呑んだ。
戸惑い彷徨う視線が、偶然カレンダーを見た。四月一日。エイプリルフールの言葉が思い浮かぶ。

「それって……エイプリルフールの嘘?」

弟は何も答えない。
首を傾げて、小さくふふ、と笑っていた。




20260401 『エイプリルフール』

4/1/2026, 6:09:15 PM

「幸せに」

そう言って、大切な人たちに向けて手を振った。
幸せになってほしい。心からそう思う。

「さようなら」

届かない別れの言葉が、風に攫われていく。春の嵐の強さに目を細めながら、微笑みを浮かべ空を仰いだ。
新たな始まりに相応しい、雲一つない青空。彼らのこれからの幸せを表しているようだ。
別れを寂しいとは思う。けれどそんな感情は、しばらくすれば雪解けのように消えてしまうのだろう。
そんなことを思いながら、彼らに背を向け歩き出す。
振り返りはしない。そんな未練は持ちたくなかった。



「強がり」

どこからか声が聞こえ、足を止めた。
辺りを見回す。咲き綻ぶ桜の木の下でこちらを見つめる小さな影を認め、歩み寄る。

「泣けばいいのに」

拗ねたような呟きと共に、腕に抱えた鏡をこちらに向けられる。

「っ……」

底に映る自分の姿に思わず眉が寄った。
はらはらと、声もなく自分自身。小さくて弱い、本当が鏡に晒されていた。

「幸せに、なんて綺麗な言葉で誤魔化さないで、泣けばよかったのに。置いていかないでって、手を伸ばせばよかったんだ」
「そんなこと、できるはずがない」
「できたよ。できたのに、しなかっただけだ」

その言葉に、鏡を睨みつけながらも鼻で笑った。
確かに、手を伸ばすことはできたのだろう。行かないでと、言葉にすることも簡単にできた。
けれどそうして本心を晒してしまった瞬間に、きっと自分はその場から動けなくなるのだろう。先にも進めず、戻ることもできない。ただ立ち尽くしているだけなど、そんなこと許せるはずがなかった。

「皆の幸せの邪魔になる私を、私は認めない。強がりだろうと、本当を隠しているだけだろうと、皆が先に進むためなら私は笑ってみせる」

鏡の中の自分の姿が揺らいでいく。笑い合い、無邪気に遊んでいた頃の幻を最後に映して、鏡は何も映さなくなった。

「強がり」

静かに嘆息して、鏡を抱いたまま彼は言う。
呆れたように、それでいて悲しげに微笑む目が、まるで泣かない自分の代わりに泣いているように見えた。

「それなら、あなたの幸せはどこにあるの?」

思わず、目を瞬いた。
少し遅れて彼の言葉の意味を理解し、笑みが浮かぶ。彼の優しさを嬉しいと思うのと同じくらいにこそばゆくて落ち着かない。
彼の目を見据える。たった一つしかない答えを誇らしげに告げた。

「皆が、立ち止まらずに幸せになってくれること。それが私の幸せ」

皆と同じように進めなくなってしまった自分が願えること。それは強がりでも、誤魔化しているわけでもない、本心だった。
その答えに、今度は彼が目を瞬いた。何も映らない鏡に視線を落とし、眉を寄せて呆れたように息を吐いた。

「お人好し」
「皆が優しいだけ。何年経っても忘れず、会いに来てくれるから」

それだけで十分だった。
たくさん話を聞かせてくれる。少なくとも、自分にとってそれが何よりも幸せだ。
彼らの門出を見届けることができたのだから、自分も同じように先に進むべきだろう。

「――そろそろ行かないと」

そう告げれば彼は鏡を一瞥し、こちらに向けて差し出した。
意味が分からず彼を見る。
受け取れということだろうか。何も言わない彼を不思議に思いながら、差し出された鏡にそっと触れた。

「あ……」

その瞬間、鏡は手の平に収まるくらいの光になる。ふわふわと辺りを漂い、手に擦り寄るようにしてそのまま吸い込まれて消えていく。

「餞別。強がりでお人好しなあなたが、次の世界では一人で置いて行かれることのないように」

穏やかに告げて、彼は手を取った。光が吸い込まれた場所を軽く撫で、手を繋ぐ。
軽く引かれて、手を繋いだままゆっくりと歩き出す。その優しさに、お人好しなのは彼の方だと心の中だけで呟いた。
滲む視界を誤魔化すように見上げた空は、変わらずどこまでも広く青い。吹き抜ける風が草木を揺らし、色とりどりの花びらを舞い上げていく。
とても幻想的で、泣きたいくらいに美しかった。

「泣き虫」
「うるさい。おせっかいのお人好し」
「人間じゃなくて鏡なんだから、お人好しというより物好しじゃないかな」

揶揄い交じりの言葉に、涙を拭いながらバカとだけ返す。
母の鏡。大切にしていたはずのそれを、母は自分の代わりにと一緒に入れてくれた。
母が知ったらどう思うだろうか。呆れるのか、それとも父を重ねて懐かしむのか。
ふと、風に乗って名を呼ぶ声が聞こえた。一度だけ立ち止まり、振り返る。
自分の大切な人たちがこちらを見ているような気がして笑みが浮かぶ。届くことがないと知りながら、繋いでいない方の手を高く上げる。

「幸せに!」

そう言って大きく手を振った。
どうか幸せになってほしい。そう心の中で願えば、繋いだ手を軽く引かれた。

「誰かの幸せを願うなら、まずあなたが幸せにならないと」

彼の言葉に、それもそうかと思う。もう一度手を振って、さらに大きく声を上げた。

「私も幸せになるため次に進むから!」

息を呑む音がした。
皆が驚いたような顔をする。泣きそうに、何かを言いたげに、こちらを見つめる。
けれど何も言わず。その代わりに、同じように笑顔で手を振り返してくれた。




20260331 『幸せに』

3/31/2026, 3:25:21 PM

街路樹の下で、ぼんやりと佇む影を見た。
何気ないふりをして、少しだけ近づいてみる。こちらに背を向けて立つその姿はどこか寂しげだ。
誰かを待っているのだろうか。時折見かけるその人は、いつも遠くを見て溜息を吐いている。その表情はいつも悲しげで、笑顔を見たことは一度もない。
笑顔を見てみたい。いつも見ているのが悲しい顔だからか、最近彼女を見かける度にそう思うようになった。
悲しい顔をする理由を聞いてみたい。誰を待っているのか。その誰かは本当に待たなくてはいけない人なのか。
もし叶うのならば待つのを止めて、一緒に遊びに行きたい。
そんなことを思いながら、彼女の横を通り過ぎていく。
結局思うだけで、声をかける勇気はないのだ。臆病な自分に呆れて、小さく息を吐く。
次こそは声をかけられるだろうか。さりげなく近づいて、友達になれたりしないだろうか。
臆病な自分には叶えられないいくつものもしもを想像して、何度目かの次こそはを繰り返した。



優しいあの子に、今日も会えなかった。
一人ぼっちの自分に声をかけてくれた可愛い子。恥ずかしそうに、けれど精一杯の勇気を振り絞って声をかけてくれた友達。
待ち合わせの約束をしたわけではない。それでも会いたくて、いつかのように一人でいれば声をかけてくれるのではないかと期待して、こうして今日も待っている。
あの子のことを、自分はよく知らない。どこに住んでいるのか、年齢すら聞かなかった。
聞かなくてもいいような気がした。気ままに散歩をしたり、読んだ本の感想を言い合ったりするのに、必要なものではないと思っていた。
今は少しだけ後悔をしている。会えなくなってしまえばそこで断たれてしまうほどの、細い繋がりだったと気づいてしまった。
通り過ぎていく人々を、何気ないふりをして眺める。
どこにもあの子はいない。はにかみながら差し出された手は、どこにもない。
寂しくて目を伏せた。



「あれ……?」

思わず声を上げていた。
それはほんの僅かな違和感。いつものように一人佇む彼女を見て感じる、言葉にできない何か。
何だろうか。絡まってしまった糸を解く時のような、歯に何かが挟まったようなもどかしさに眉が寄る。

「なんだろうなぁ」

彼女の背を見ながら考える。一向に答えが出てこないことに、いっそ叫び出してしまいたい。
落ち着くために深呼吸を繰り返す。何度か繰り返して、そういえばとぼんやり思う。
どうして自分は、こんなにも彼女のことが気になるのだろう。
いつも悲しい顔をしていたからだろうか。けれど何故彼女なのだろう。悲しい顔をしているのは、彼女以外にもたくさんいるというのに。
そもそも、いつから彼女を目で追い始めたのだったか。何気ないふりをして彼女に近づこうとしてどれくらいの時間が経ったのか。
考え出せば、疑問は次々と湧いてくる。いつものように静かに近づく足が、このまま進むべきかを迷ってしまう。
彼女のことを、自分はまだ何も知らない。けれど何となく知っているような気がする。
どうしてだろうか。記憶や認識の差異に内心で混乱し、無意味に視線を彷徨わせる。

「あ……」

目の前で彼女が小さく肩を震わせた。
ゆっくりとこちらを振り返る。悲しげだったはずの目が驚きに丸くなり。

目が合った。



あの子を待ちながら、最初の出会いを思い出す。
一人でいた時に、何気ないふりを装って近づいてきたあの子。少しだけ恥ずかしそうに、手を差し出した。

「え……?」

そこで違和感に気づく。それはとても小さな、けれど確かな綻びだった。

「いつ、あの子に会ったんだろう?」

あの子に初めて出会った日がいつなのか、いつからこうして待つようになったのか。
靄がかかったかのように、とても曖昧だった。
初めて交わした言葉も覚えていない。確かとてもおかしなものだと思っていたはずなのに、どうして忘れてしまったのだろう。
眉間に皺が寄る。綻びに気づいたことでどんどんと広がって、目に見える違和感として形を持ち出していく。
あぁ、そういえば。
あの子はどんな姿をしていただろうか。
気づいて、胸が苦しくなった。

「あ……」

泣きそうになって肩を震わせた時、後ろから小さな声がした。
聞き覚えのない声。懐かしいと思えるその響き。
ゆっくりと振り返る。迷うような顔をした少女と。

目が合った。





「えと……その……はじめ、まして」
「あ、はい……はじめまして」
「あの、突然なんですが……友達に……なってください」
「よ、よろこんで……友達に、なってください」

ぎこちない会話を、風が空高く運んでいく。
見つめ合ったまま動けない、二人の少女。お互い恥ずかしげに顔を赤くし、視線を彷徨わせながらも必死に会話を続けている。
こうして向き合っている状態では、何気ないふりもできず真正面から向き合うしかない。傍から見れば挙動不審な二人は、それでも何とか友達になれたことに表情を和らげた。
どちらからともなく、手を差し出す。その手を取り合い繋いで、はにかみながら歩き始めた。

「あの、ね……ずっと気になっていたんだけど、誰を待っていたの?」
「友達になった、あなたを待っていたの。あなたはどうして、私に声をかけようとしてくれたの?」
「友達になるはずの君に、友達になろうって言うため……かな?」

互いに顔を見合わせ、少しして笑い声が漏れる。

「何だか変なの」
「そうだね。おかしなことになってたみたい」

どうやら順番を間違えていたらしい。友達になったという結果だけが先走っていたようだ。
繋いだ手を揺する。初めて繋いだ手の懐かしい感覚は、とても不思議で面白い。

まぁ、たまにはこういうこともある。
何気ないふりをして間違う。それが世界というモノなのだから。




20260330 『何気ないふり』

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