sairo

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8/30/2025, 9:52:42 AM

目の前の夏草が一面に広がる光景に、訝しげに眉を寄せる。

「――本当に、ここ?」

聞いていた話とは違う。
そう思い隣を見るが、ここまで案内をしてくれた彼は涼しい顔をして、ここだと肯定する。
さらに眉を寄せながら膝をつき、足下の草を掻き分けた。

「――ぁ」

草を掻き分ける指先が、硬いものに触れる。
摘まみ上げれば、それは砕けた陶器の欠片だった。おそらくは茶碗だったのだろうそれは、ここにかつて人の営みがあったことを示していた。
小さく息を吐き、立ち上がる。リュックを背負い直し、彼を見た。

「ひいばあちゃんのお友達の場所は分かる?それか、ここの墓地の場所」
「こちらだ」

こちらを一瞥して、彼は迷うことなく足を進める。

「ちょっと!待って」

生い茂る夏草を気にも留めず普段通りに進む彼の後を、草を掻き分けながら進んでいく。少しはゆっくり歩いてほしいと声をかけるも、彼は一度も立ち止まることはなかった。



曾祖母の葬儀のあと。
深刻な顔をした父に呼び止められ、仏間で小さな箱を差し出された。

「最期の願いを叶えてほしい」

箱の中身は、曾祖母の骨だという。
故郷に帰りたいと常に話していた曾祖母のために、分骨をしたらしかった。

「了承しろ。案内は俺がする」
「でも……」
「頼むよ。お前が一番、お祖母ちゃんに懐いていただろう?」


隣の彼に言われ、それでも決心がつかないでいれば、さらに父に拝み倒される。普段は声もかけないというのに、現金なことだ。

「お前以外、受け入れる者はないだろう。ここで了承しなければ、彼女の望みは永遠に閉ざされたままだ」

彼にそこまで言われては仕方ない。溜息を吐いて、箱を受け取った。
あからさまに安堵の表情を浮かべる父に思う所はあるものの、何も言わずに箱を手に仏間を出る。

「神様の怒りに触れた場所、だっけ?数年後に訪れても、草ひとつ生えてなかったって」

曾祖母の話を思い出しながら、彼に尋ねる。返事は期待していないから、ほぼ独り言のようなものだ。
彼はいつも、この話の時に何かを言うことはない。ただ曾祖母を見つめ、語り終え悲しく目を伏せる彼女の隣に寄り添うだけ。

「行ってみれば、すべて分かるだろう。お前は幼かった彼女と違うのだから」

珍しく彼から言葉が返ったことに目を瞬く。どういうことかと問いを重ねようとして、止める。
その場に行けば、すべて分かる。そういうことなのだろう。



立ち止まる彼に遅れて追いつき、同じように立ち止まる。

「――ここに埋めればいいの?」

他よりも夏草は生い茂ってはいない場所は、どこかの家の跡地のように見えた。
曾祖母が話していた友人の家だろうか。

「ここに埋まるものを掘り起こせ。瓦礫を避ければすぐに見つかる」

埋める場所への問いかけに彼は首を振り、逆に掘り起こせと言う。
多くは語らない彼に、小さく溜息を吐く。優しかった曾祖母のためだと自分に言い聞かせながら、草を掻き分け黒ずみ朽ちた木々を避けるため手に取った。

「燃やされてる?」

炭化した木片に眉を寄せた。
曾祖母から何度も聞いた話は、とても抽象的だ。
夜中に大きな音と光がして、驚いて飛び起きたこと。
母に手を引かれて外に出た時に見えた、赤い空。
大好きだった友人がずっと気にかかっていたこと。

――きっとね、神様を怒らせちゃったのよ。

悲しく笑う曾祖母を思い出す。
数年後、離れた故郷に戻ると、そこは草ひとつ生えぬ不毛の大地となっていたらしい。
家はすべて崩れ落ちて、黒々とした地面がどこまでも広がっている。
そこに友人が着ていた服の切れ端を見つけて、二度と会えないことを知って泣いたのだと、そう言っていた。

「これって……神様の怒りというよりはさ……」

曾祖母の生きた時代を思いながら、言葉を濁す。
元は家の柱だろう残骸を避け、その下から柱とは違う炭化した木片を認めて、胸が苦しくなる。
小さな、片方だけの下駄だったもの。彼が掘り起こせと言ったものはこれだろう。

「あの夜――」

不意に彼が口を開いた。視線を向ければ、晴れ渡る青空を仰いで彼は目を細めていた。

「幼い彼女はあの夜、空に神を見た。黒々とした翼を広げた、異国の神を」
「異国の……神……」

彼と同じように空を見上げる。
赤く染まった空を覆い尽くす、無数の黒く冷たい翼を持った神。
曾祖母を含めた僅かな人々は逃げ延び、曾祖母の友人のような多数は、その無慈悲な神に奪われた。
首を振る。下駄を手に立ち上がると、彼はこちらを一瞥し、先ほどよりもゆっくりと歩き出した。

草を掻き分け、彼の後に続く。
焼けて数年も草木が生えなかったという大地。それでも永い時間と共にどこからか運ばれた、あるいは眠っていた種が芽吹き成長する。
かつての悲しみを覆い尽くすように、夏草が生い茂る。

「神とは、無力なモノだ」

呟く言葉は、淡々としているのにどこか悲しげだ。

「彼女は村の終わりに神を見た。自身の新たな始まりに神を求めることはなかった」

風が吹き抜け、夏草を揺らす。
彼の銀に煌めく毛並みを撫で、かつて神社があっただろう方向へと消えていく。

「彼女の血に連なる者は拙い手つきで神を祀るが、それだけだ。何かを求めることはない」

彼は足を止めない。
彼の言葉に対して、何かを言うつもりもなかった。
何を言った所で、彼が望むものではないのだろうから。

夏草茂る村の跡地を進み、やがて開けた場所に出た。
焼けた木の前で、彼が足を止める。その横に並び、膝をついた。
どうすればいいか、敢えて聞く必要はない。枯れた木の根元に新たに生える緑を見ながら、その側の土を掘り返す。
固いと思われた土は思っていたよりも柔らかく、これならば手だけで掘り進められそうだ。
ある程度土を掘り、先ほどの下駄をその中に入れる。背負っていたリュックを下ろし、中から箱を取り出すと一緒に中に入れ土をかけた。

「――会えるかな。もう一度」

思わず溢れた声に、彼は何も返さない。
ただ隣に寄り添い、目を細めた。

不意に風が吹き抜ける。夏草を揺すり、音を立てる。
その音に混じり、どこかで笑い声が聞こえた。
顔を上げて振り返る。村へと駆けていく小さな二つの影を認め、息を呑んだ。
視界が滲む。消えていく影を追うように、頬を涙が伝い落ちていく。

「良かった……」

本物か、それとも彼が見せた幻かは分からない。それでも、今だけは本物だと信じていたかった。
彼が鼻先を寄せ、止められない涙を舐める。静かな優しさに、息が苦しくなる。
彼の首に腕を回し、声を上げて泣いた。

「存分に泣くといい。ここには何もない。お前を愛してくれた彼女はいないが、忌避する者もいない。落ち着くまでは……お前が望む限りは側にいよう」

声を出せない代わりに、何度も頷いた。
彼がいる。かつてこの村を愛し、村の終わりを悲しんだ一柱の狼の姿をした神がいてくれる。

一人きりの自分には、それだけが何よりの救いだった。

8/29/2025, 4:13:10 AM

ポケットの中に入っていたそれに、少年は不思議そうに目を瞬いた。
少年の手の中に収まるそれは、緑色をした小さな石だった。濃い緑の中に、赤茶色の斑点模様が散っている。
ざらりとした表面を撫でながら、少年は首を傾げる。こんな特徴的な石を、少年は自分のポケットの中に入れた覚えがなかった。
石を撫でながら、少年は考える。果たしてこれは、持って帰ってもいいだろうか。覚えはないが、自分のポケットの中に入っていた石だ。ならば、これは自分の持ち物になるのだろう。
そんな幼い思考は、だがすぐに別の思考へと移り変わっていく。
先日喧嘩をした友人のこと。それきり一緒に遊ぶことはおろか、挨拶を交わすこともなかった。
このままではいけない。謝らなければと思いながらも、友人を見る度に決意は揺らぐ。時間が過ぎていくにつれ、気まずさだけが大きくなり、謝る勇気も声をかける勇気さえも出てこなくなった。
手の中の石を、握り締める。手の熱が移ったのか、石はほんのり温もりを宿している。
とくり、と石が脈動した気がした。驚いて手を開くも、石に変わった様子はない。
もう一度石を握り、目を閉じる。深呼吸を繰り返すと、友人に会いたい気持ちが強くなっていく。
謝ろう。自分が悪かったのだから。
意地も気まずさも消えて、残るのは後悔だけだ。
このまま離ればなれになるのは、きっと何よりも怖ろしい。
目を開ける。決意を宿した目をして、少年は力強く頷く。
石をポケットの中に入れ、駆け出した。
友人の元へ、仲直りをするために。



「こんなところにいたのか」

去っていく少年の背を見ながら、男はそっと呟いた。
握る手を解く。その手の中から、先ほど少年がポケットの中にいれていた緑の石が現れた。

「まったく……お節介過ぎるのはいつまで経っても変わらないな。少しは探す方の身になってくれ」

苦笑しながらも、男は優しく石を撫でる。微かな振動を感じて、切なげに目が細まる。
石は何も語らない。石に残るのは、僅かな想いだけだからだ。
誰かのためにという献身と、その誰かのために与える勇気。
その身が失われても尚、男の愛した少女の優しさは変わらず石に残り続けた。
少女はここにいる。ここに在る、それが何もできなかった男のささやかな救いだった。


「――そろそろ帰ろうか」

願うように囁いて、男は静かに歩き出す。
帰るといいながらも、その場所は疾うに失われた。少女を犠牲に太陽を呼び戻そうとした故郷は、太陽の熱に焼かれて消えた。
残ったのは男一人と、少女の思いが宿ったこの石だけ。

少女が残した石と共に、男は当てもなく歩き続ける。それだけが男にできることだった。


不意に一陣の風が吹き抜けた。
男の手の中の石が、強く脈動する。

「なんだ……?」

初めてのことに、男は眉を寄せ立ち止まる。
吹き抜けた先に見えた小さな人影に、目を見張り息を呑んだ。
あの頃と変わらない姿。優しい微笑みと慈愛の眼差し。
駆け寄る在りし日の少女を抱き留めながら、男は一筋の涙を溢した。

「――迎えに、来てくれたのか」

呟く男に、少女はくすくすと笑い声を上げる。

「気づかなかっただけよ。形のある、残りものだけを見てるんですもの。ずっと側にいたのに、全然気づいてくれないのだから」

だから時折、悪戯をしていたのだと少女は笑う。
迷う者の所へと石を運びながら、男が気づいてくれるのを待っていた。石ではなく、いつか自身を見てくれると期待していたのだと、少女は少しばかり拗ねてみせた。

「すまない。俺は、ずっと……」
「鈍感なのは変わらないのね……そういう所が、可愛らしいのだけれど」

悲嘆に暮れる間もなく、少女に言われた可愛いの言葉に男の頬が僅かに赤くなる。僅かに視線を逸らす男の顔を包んで、少女はその頬に唇を触れさせた。

「――っ!?」

益々赤みを増す男を笑い、少女は少しだけ体を離すと男の手を取り繋いだ。導くように手を引いて歩き出す。

「そろそろ行きましょう?」

手を引かれるままに、男は歩き出す。
どこに、とは問わない。死者が還る場所はひとつだけだからだ。
いつの間にか、少女の思いを宿した石が消えていることに気づく。振り向く男に少女は頬を膨らませ、繋いだ手を強く引く。

「私がいるのだから、あれはもう必要ないでしょう?阿野石はもう、自身の意思で必要な人の元へ行くわ。ささやかな勇気を与えに、ね」

石は残り続けるのだと、少女は告げる。
少女の献身を宿した、深い緑の中に血を思わせる赤を散りばめた異国の石。
彼女がいた証が残るのだと知って、男は穏やかに微笑みを浮かべた。
繋いだ手を引き、傾ぐ少女の肩を抱き寄せる。
頬を膨らませ睨むその額に、そっと口付けた。

「なっ!?ちょっと!」
「さっきのお返しだ」

そのまま肩を抱いて、男は歩き出す。
その表情は柔らかく、少女は何も言えずに頬を赤く染めて前を向いた。
互いに何も言わず、ただ寄り添いながら歩いていく。
二人の影はやがてひとつになって、暗がりの向こう側へと消えていった。





「あれ?なんだろ、これ」

ポケットに違和感を感じて、制服姿の少女は手を差し入れた。
中から取り出されたのは、深い緑色をした小さな石。

「いつのまに……」

赤い斑点模様を眺めながら、少女はぼやく。
入れた覚えのない石。けれども嫌な感じはしなかった。
そっと手のひらの中に握り込んでみる。手の熱が移ったのか、ほんのりと温かい。
その温もりに、不意にある人の姿が思い浮かぶ。
同じクラスの少年。静かに本を読む姿を、目で追い始めたのはいつからだっただろうか。
話せば穏やかに応えてくれる少年に、けれど告白する勇気はいつまでたっても起きなかった。
あと半年もすれば、自分達は学校を卒業する。卒業してしまえば、接点はなくなってしまうだろう。
それは嫌だ。そう強く思った。
今まで何度もそう思いながら、でもまだ時間はあると思っていた。けれども今日は何故か、それでは駄目だと強く感じている。

「――よしっ!」

手の中の石を見つめ、少女は強く頷いた。
石をポケットの中に戻し、来た道を駆け戻る。今ならまだ、少年は図書室で本を読んでいるはずだ。
足が軽い。早く会いたいと、さらに速度を上げる。

――何も言わないまま、さよならなんてしたくない。

誰かの声が聞こえた気がした。
後悔の滲むその声音。
その通り、と少女は高らかに同意し、晴れやかに笑った。



20250827 『ここにある』

8/28/2025, 9:42:50 AM

素足で濡れた地面を踏み締める。
濡れた土はぬかるみ、肌に纏わり付く。何度も足を取られそうになりながらも、先へと進み続けた。
足が沈む。水を多量に含んだ土が泥となり、これ以上進むことを拒んでいる。そんな気がして、思わず眉を顰めた。
沈む足を引き抜き、前に出す。一歩、また一歩と、遅々としながらも確実に前へと進む。
目指す先は、まだ見えない。



「諦めてしまえばいいのに」

不意に声がした。

「苦労しながら目指す場所には、もう何もないんだと知ってるはずだ」

無感情な声が、風に乗って静かに告げる。
分かっている。心の内で呟いて、それでもまた一歩足を踏み出した。
草ひとつ生えない大地。記憶の中の光景とは似ても似つかない。
おそらくは目指す先も同じようなものなのだろう。

「強情なのは相変わらずか。ならば好きにするといい」

微かな溜息の音と共に、一陣の風が背中を押した。
それきり声は沈黙する。
苦笑して、足を踏み出す。
沈むはずの足は、だが沈むことはない。
まるで雲の上を歩いているかのような、柔らかで不思議な感覚。踏み締めた足から伝わる温もりに、浮かべた笑みが涙に変わった。
一筋流れ落ちた滴を拭い、前を向く。変わらず何もない先を見据えて、ゆっくりと歩き出した。



足が止まる。
辿り着いた先に広がる光景に、思わず息を呑んだ。
地面の中から僅かに覗く瓦屋根。焼けた電柱の先端。崩れ落ちた二階建ての家の残骸。
分かっていたはずだった。すべてを知って、それでもここに帰ってくることを決めたのは自分だった。
それでも広がる惨状に、胸が苦しくなる。目を逸らし、今すぐ引き返してしまいたい衝動に、歯を食いしばり必死に耐えることしかできない。
呆然と立ち尽くす自分の横を、風が過ぎていく。風の向かう先に視線を向ければ、枯れた森が目についた。

「――あぁ」

枯木の合間から煤けた朱が見え、声を漏らす。
ふらつく足取りで、その朱い鳥居に向けて歩き出した。



「途中で引き返せばよかっただろうに」

声が聞こえた。
無感情の中に僅かに哀れみを含んで、声が囁く。

「ここにはもう、何もない。かつてのお前が愛したものはすべて焼け、土の下だ」

告げられた言葉に俯けば、風は優しく頬を撫でていく。
耐えられず足が止まりかけるが、風はそれを許さない。

「ただの悪夢だと忘れてしまえば、幸せに生きれたはずだ。それを忘れずここまで来たのだから、引き返せないことは覚悟していただろう」

風に背を押され促されて、俯く顔を上げて鳥居に近づく。
鳥居の向こう側。懐かしい人影を認めて、風に抗うように立ち止まった。
揺らぐ人影が、境界を越えて足を踏み入れるのを待っている。
一歩、足を踏み出した。もう一歩、また一歩と鳥居に近づいていく。
土の感覚が変わった。柔らかさではなく、固く濡れた土の感触が、触れる足から伝わってくる。
ゆっくりと、鳥居を潜り抜ける。
瞬間。景色が変わった。
枯れ果てた木々は青々と茂り、風に吹かれ葉を揺する。地面は剥き出しの土から石畳に変わり、ひやりとした石の冷たさに小さく肩が震えた。

「おかえり」

鳥居の先で待っていた彼が、声をかける。

「あの子の所へ行こうか」

差し出される手を取ろうと腕を上げかけ、何気なく落とした視線に入ったそれを見て止める。
綺麗な石畳と、泥に汚れた自分の素足。
このまま歩けば、石畳を汚してしまう。

「お前は変わらず、変な所で臆病だ。今更、そんな少しの汚れを気にしてどうする」

小さな溜息と共に、手を繋がれ引かれる。
そのまま歩き出し、抗うこともできずに彼に手を引かれるままに続いた。



石畳が続くの先に見えたのは、小さな社。
懐かしい記憶が過ぎていく。彼女が待っていると思うと、胸がざわついた。

「あの子は壊れてしまったが……お前が帰って来たと知れば喜ぶだろう」

迷いなく彼が、社の戸を開け放つ。
履き物を脱いで社に上がる彼を見て、このまま上がってもいいのだろうかと迷う。
足の泥は道中に乾き落ちてはいたが、それでも素足のままで外を歩いていたことには変わりない。
せめて足を拭うべきかと、身を屈めた時だった。

「――来た」

社の奥から、声が聞こえた。
彼の声ではない。ひび割れ、ざらついた歪な声。
視線を向けた瞬間。社の奥から白い縄のようなものが伸びてきた。
逃げる間もなく胴に絡みつかれ、社の奥へと引き摺り込まれる。
声を上げる間もない。無抵抗な体は幾重にも何かに巻き付かれ、身動きひとつ取れなくなった。
ずず、と何かを引き摺る音。社の入口から入り込む光が、最奥に佇む主の姿を浮かばせる。

「やっと……来てくれた」

白い大蛇。
赤い目を揺らがせ、頬に頭を擦り寄せる。

「皆、いなくなった。良い人間も、悪い人間も全部……でも、あなたは帰って来てくれた」

声に喜色を滲ませて、大蛇――彼女はさらにぐるりと自身の胴を巻き付ける。離れることを怖れるように。
ふと視界の隅で、何かが煌めいた。
視線を向ける。光を反射するそれを認めて、息を呑んだ。

「今度こそ、一緒にいよう。前のあなたは呑んでしまったけど、やっぱり触れていたいの」

砕けた手鏡。母から受け継いだ、かつての自分のもの。
最後まで肌身離さず持っていたはずのそれ。近くに散らばる赤黒く染まった布端に、そっと目を逸らす。

「そうだな。触れていれば、孤独に狂うこともない。生きているのならば、また始めることもできる……自らの意思で戻ってきたのだから、そのまま受け入れるべきだ」

彼の声がする。毒のように甘美で残酷な言葉を、優しく囁く。
彼の言葉に彼女が喜びの声を上げた。時折覗く舌先が首筋に触れ、こそばゆさに身動ぐ。
その僅かな動きすら許さないと、巻き付く胴が体を締め上げる。眉を寄せ小さく呻くが、力が緩むことはない。

壊れてしまった。
社に入る前の、彼の言葉を思い出す。
本来の大蛇の姿を厭い、人の姿を取ることが殆どだったはずの彼女。
控えめで優しい彼女は、もうどこにもいないのだ。

「ずっと一緒。もう二度と、離したりはしない」

彼女の囁きが、鼓膜を揺する。

「――うん。今度こそ、ずっと一緒にいて。二度と離さないで」

願うように呟いて、静かに目を閉じる。
冷たい毒が、体中に巡っていく。
ゆっくりと訪れる微睡みに、意識を沈めていく。

「――ごめんなさい」

小さく呟いた。
砕けた鏡。血濡れた服の切れ端。
神聖な場所を穢したこと。彼女を壊したこと。

「謝らないで。私は今、とても幸せなの。もう我慢しなくていいのだもの」
「謝る必要はない。こうして戻ることを期待してお前の記憶を残したのは、私なのだから」

彼女達が笑っている。
村で祀られていた神とその眷属の社が、静かに閉じていく。

「おやすみなさい。私の、可愛い子」

甘い囁きと広がる闇。
彼女に凭れ、もう一度だけごめんなさいと呟いた。



20250826 『素足のままで』

8/27/2025, 3:55:49 AM

霧の中を、女が一人歩いていた。
足下は酷く覚束ない。手を伸ばし、霧の向こう側を探るように前へと進んでいる。
霧は深く、女が向かう先は僅かにも見えはしない。ただ烏とも違う低い鳥の声が、時折不気味に響くのみだった。

「もう一歩、あと一歩だけ……」

繰り返す譫言。夢見のように辿々しい。
また一歩足が進む。ゆっくりとだが確実に、霧の中へ女の体が呑み込まれていく。

不意にその腕を、少女の手が掴んだ。

「おねえさん」

鈴の音を転がしたかのような、澄んだ声音が女を呼ぶ。

「この先には、何もないよ。だから戻ろう?」
「でも……」

少女の言葉に、女は逡巡する。
少女を見つめ、その目が泣きそうに揺らいだ。

「行かないと……もう一歩だけって、声がするから」

見えない霧の向こうへと女は視線を向ける。少女もまた女と同じ方向を一瞥し、静かに問いかけた。

「それは誰の声?」
「彼の声よ。ほら、聞こえている。ずっと私を呼んでいるの……だから行かないと」

迷いのない女の答えに、少女は首を傾げる。
耳を澄ませるが、聞こえるのは鳥の鳴く声だけだ。

「本当に?」

問いを重ねれば、女は言葉に詰まる。
彷徨う視線。霧の先と少女の間で迷うように揺れ動く。
女の戦慄く唇がゆっくりと動く。だがそれは声にはならず、吐息だけが溢れ落ちていった。
鳥が鳴く。低い声が霧の向こう側から響いてくる。女の肩が震え、少女に掴まれたままの手を霧の向こうへと伸ばす。

「呼んでるの……もう一歩だけ、前に進めって呼んでる」

呼んでると繰り返しながらも、女の足は動かない。掴まれた腕を振り解くでもなく、縋る目をして少女を見つめた。
少女は黙したまま、女を見据える。女の言葉を肯定するでもなく、否定する訳でもない。
沈黙。時折聞こえる鳥の声だけが、場の静寂を乱していく。

「おねえさん」

少女が呼ぶ。女の目を見つめ、ふわりと微笑む。

「戻ろう、おねえさん」

静かな声に、女の頬を滴が伝い落ちた。

不意に霧が揺らぎ、道の先を微かに浮かばせた。
影が揺れ動く。それは巨大な黒の鳥の形をしていた。

「――あぁ」

女の目が鳥を認め、唇から嘆くような声が漏れる。

「あの鳥はね、おねえさんの思いを鳴くんだよ。もう一度呼んでほしいって、そう思っていれば鳥が代わりに鳴いてくれるの」

鳥が鳴く。その声は女を呼ぶのだろう。鳥を見つめる女の目から、はらはらと止めどなく涙が零れ落ちていく。
耐えきれなくなったのか、女はその場に崩れ落ちる。顔を覆い、嗚咽を溢す女の背を、少女はそっとさする。
しかしその目は鋭く、晴れていく霧が露わにする道の先を睨み付けた。
道の先は途中で途切れていた。黒い水を湛えた、池のような何かが広がっている。
その水面から、音もなく何かが浮かび上がる。
青白い男の顔。無表情にこちらを凝視し、ひび割れた唇が静かに開いていく。

「もう一歩。もう一歩だけ、こっちに」

歪な声が響く。男の未練が、女を呼び寄せ続ける。
男を睨み付けたまま、少女は女の背をさする。声だけは穏やかに、女に告げる。

「戻ろう、おねえさん」

女は泣きながら、小さく頷いた。
男の頭が揺れ動き、黒い波紋を広げていく。ゆっくりとこちらに近づくが、それでも黒い水から離れられないのだろう。水面から浮かぶ折れた指が縁を掻くが、水の中から這い上がる様子はない。
男の唇が再び開いていく。

「もう一歩……」

鳥が鳴いた。男の言葉を掻き消すように。
再び立ち込める霧が、男を覆い隠していく。
泣きながらも女が顔を上げた時には、男の姿は影すらも見えない深い霧の中に沈んでいた。

「――ありがとう」

鳥を見上げ、女が小さく呟く。それに応えて鳴く鳥は静かに飛び立ち、霧の向こう側へと消えていく。
それを見送って立ち上がる女の手を、少女はそっと繋ぐ。
軽く引けば、女は名残惜しげに霧の向こうを見つめながらも、振り返り元来た道を歩き出した。
途中で少女が手を離しても、立ち止まる様子はない。
その足取りは力強く。振り返ることは二度となかった。





遠ざかる女の背を見つめ、鳥は静かに鳴き声を上げた。

「もう振り切れたみたい」

鳥の止まる木の根元。凭れた少女が微笑み鳥を見上げる。
だがその笑みは不意に陰り、立ち込める深い霧の向こうへと憂う視線を向ける。

「おねえさんは大丈夫だけど……あっちはどうなのかな?諦めてくれればいいのだけれど」

黒い水の中に漂う男を差しているのだろう。死してなお、恋う者を呼び続けるその執念は、男が漂っていた水のように黒い。
女の先を憂う少女に、鳥は短く鳴いた。翼を広げ少女の元まで降り立つと、華奢な体を翼で包み込む。

「ありがとう」

淡く微笑みを浮かべ、少女は鳥の首に腕を回す。温かな体に擦り寄り、小さく吐息を溢した。
鳥は目を細めながら、少女を見つめ。愛を囀り、甘く声を上げる。

「少しだけ、どちらの気持ちも分かるかもしれない……一人になったら寂しくなって、もう一度だけでも呼んでほしいって思うし……一緒にいて欲しいって呼びたくなるから」

ごめんね、と囁く少女の声はか細く、儚い。
その声を掻き消すように、鳥は強く鳴く。
そんな未来は永遠に来ないのだと伝えるように、少女の頬に嘴を擦り寄せた。



20250825 『もう一度だけ、』

8/26/2025, 9:06:57 AM

遠くに、揺らぐ街が見えた。
鮮やかな色彩。煉瓦の家々。石畳の道が奥へと続いている。
異国の街並みは、見知らぬはずであるのにどこか懐かしい。
誘われるように近づけば、途端に街は周囲に解けて消えていく。
後には焼けたアスファルトの道しかなく、名残のように逃げ水が遠くに煌めいていた。
決して届かない街並みを思い、小さく息を吐く。
何度目だろうか。向かう先に滲む街並みを見かけ、追いかけては消えていくのを繰り返したのは。
気づかない振りをするのは簡単だ。目を逸らせばいい。
分かってはいても、追いかけるのを止められない。
あの街には、きっと今も幼馴染みがいるのだろうから。



幼い頃、古い絵本に描かれた街並みに憧れた。
石畳の道。煉瓦の家。高い塔に、大きな城。
いつかこんな街で暮らしてみたいと、幼馴染みに何度も語った。

「ちょっと、難しいかな」

眉を寄せ難しい顔をした幼馴染みが、絵本から視線を逸らさず呟く。

「酷い!なんでそんなこと言うの」

幼馴染みの手から絵本を取り上げ胸に抱きしめる。夢を否定され泣きそうになれば、幼馴染みは眉を寄せたまま絵本を指差した。

「だって複雑だし。それに、こんなに広いのは大変だ」

迷子になるとでも言いたいのか。
涙目で睨み付ける。すると幼馴染みは、小さく溜息を吐いて笑った。

「難しいんだけどな」

そう言って後ろを向く。指で弧を描けば、幼馴染みの周りの空気が微かに揺らぐのを感じた。
揺らぐ空気が形を変えていく。色を纏い、大きく広がって、それは次第に絵本の中の街並みを形作っていく。

「凄い……!」
「でも駄目だ。大きいし複雑だしで、形を整えるので精一杯」

歓声を上げる自分とは対照的に、幼馴染みの声は不満げだ。
よく見れば、確かに家の壁はさざ波のように揺れ動き、所々でほつれている。
けれどもそれすら気にならないほどに、街は煌めいて見えた。絵本を抱く腕に力を込めて、高鳴る胸の鼓動のままに一歩、街へと近づいた。

「駄目」

近づく足を幼馴染みの声が止める。
視線を向ければ、幼馴染みはこちらを向いて首を振った。どうしてと食い下がろうとするのを察してか、幼馴染みの手が宥めるように頭を撫でる。

「まだ不安定だから、近づけばすぐに消えてしまうよ」

ここから見ているだけ。
少しだけ気分が沈むが、幼馴染みは大丈夫だと笑う。
撫でていた手を離して、揺らぐ街に向けて歩き出した。

「少し待ってて。しっかり作り上げてくるから」

それだけを告げて、幼馴染みは街の中へと消えていく。
しかし、どれだけ待っても幼馴染みは戻ってはこなかった。
揺らぐ街も日暮れと共に霞み消えて、寂しさに泣きながら一人家路に就いたのを覚えている。

あれから数年が経つ。
幼馴染みはまだ戻らない。

時折現れる街の幻だけが幼馴染みとを繋ぐ縁に思えて、今日もまた街の幻を追いかけている。





その日、見えた街はいつもと違っていた。
朧気に揺らいでいたはずの街並みは、輪郭をはっきりとさせている。
石畳や煉瓦のひとつひとつの形すら、離れているこの場所からも見えている。
街の中心部にある高い塔が時計台だったのだと、初めて知った。

胸が騒めく。
惹かれるように、一歩足を踏み出した。
街は揺らがない。
一歩、また一歩と、街へと近づく。
消えない街。根を下ろした大樹のように、静かにそこに佇んでいる。

「――呼んでる?」

小さな呟きが、やけに大きく感じられた。
とても静かだ。いつもならば聞こえる蝉時雨も、車の音も聞こえない。
思わず立ち止まる。後ろを振り返り、逡巡する。
後ろには見慣れたアスファルトの道。遠く霞む、馴染んだ住宅街。
一歩だけ、足を引き戻す。アスファルトから立ち上る熱気が、この先が現実だと告げていた。
戻るべきか、進むべきか。
もう一度、街を見つめ、込み上げる切なさに胸を押さえた。
街が呼んでいる。その感覚が抜けない。引き返す足が進まない。

――少し待ってて。

不意に幼馴染みの声が、脳裏を過ぎる。
忘れかけていた懐かしい響きのそれに、気づけば足を踏み出していた。

今度は途中で立ち止まらずに、街の門へと辿り着く。
見上げる程に大きな門に足が止まりかけるが、そのまま潜り抜けていく。
その瞬間、空気が変わった。
刺すような暑さはなく、冷えた風が体の熱を奪っていく。
ざらりとした石畳の感触。陽に照らされ、煉瓦が鮮やかさを増している。
昔憧れた、絵本の中の街並み。擦り切れるほどに読み返したあの絵と、何一つ変わらない風景。
そっと壁に手を触れる。冷たい石の感覚に、しかしどこか違和感を感じた。
ざらつく石とは違うもの。目を凝らせば、一瞬だけ虹色に煌めく大きな鱗が見えた。

「――っ!?」

慌てて手を離す。
辺りを見回すが、他に誰の姿も見えない。
それでも何かを感じる。
伸びた影の輪郭に重なる揺らぎ。風が運ぶ匂いに混じるもの。静けさに紛れる微かな振動。
じり、と足が後ろに下がった。
街に呑まれる。街の模った何かに、取り込まれようとしている。

そんな不安に、街を出ようと振り返った。

「どうしたの?」

聞こえた声に、足が止まる。
懐かしい声音。記憶のそれと、寸分変わらないその響き。

「ちょうど迎えに行こうと思ってたけど、待ちきれなかった?」

鼓動が速くなる。
俯く視界に伸びる人影が見え、息を呑んだ。

「まだ少し不安定だけど、ようやく形にはなったんだ」

手が触れる。
指を絡めて繋がれ、その冷たさに肩が震えた。
手を引かれ、逆らうことができずにゆっくりと振り返る。

「どうかな?気に入った?」

あの日、街に消えていった幼馴染みが、変わらぬ姿のままで微笑んでいた。

体が震える。
滲み出す視界の端で、街が蠢く。
鼓動のように壁が脈打ち、石畳が足に絡みついた。

「いや。やだ、離して……帰るから、お願いっ……!」

掠れた懇願に、幼馴染みは首を傾げた。

「なぜ?この街に憧れていたんだろう?なら、ずっとここで暮らせばいい」

不思議で仕方ないというように、幼馴染みは困惑を顔に浮かべる。
頭を撫でようと手を伸ばし、あぁと納得したように頷いた。

「人間の成長は早いのを忘れていた。ただでさえ怖がりなのに、これじゃあ怖がらせるだけか」

伸ばしかけた手を引いてその手を見つめ、こちらを見上げる。
頭を撫でる代わりに込み上げる涙を拭い、幼馴染みは何かを思案しながら周囲を見渡した。
蠢く街を見つめ、小さく溜息を吐く。

「これ以上は、駄目かな。形を変えようとするとすぐに綻ぶ……それよりは、夢を見ながら忘れてしまった方がいいか」

小さな呟きと共に、足下の石畳が波紋のように広がった。
街全体が揺らぎ、石畳の中から何かが浮かび上がってくる。
それは大きな蛤だった。

「なに……怖い……」
「大丈夫。怖いモノではないよ。優しい夢を見せてくれるから」

静かに殻が開いていく。
逃げだそうと足に力を込めても、絡みつく石畳は解けない。
嫌だと首を振っても、幼馴染みは大丈夫と繰り返すだけだ。
殻の隙間から、静かに影が這い出てくる。次々に這い出る影は腕に、足に絡みつく。

「離して!やだ……いやぁ……!」

繋がれた手が離れていく。足を縫い止めていた石畳が解けていく。
留めるものを失い、体が蛤の中へ引き摺り込まれる。

「夢の中で、すべて忘れていくといい。その間に、街を仕上げておくから」

閉じていく世界の中。
最後に見えたのは、虹色に煌めく鱗を持つ龍の姿だった。





「どうしたの?」

立ち止まる自分に、幼馴染みが声をかける。
その声に、形になりかけていた何かが跡形もなく解けていくのを感じた。

「やっぱり、二人だけの鬼事は無理があるって気づいた?」
「違うよ!ただ……」

言いかけて、口を噤む。
やはり、何も思い出せない。解けてしまった何かが、もう一度形を作ることはなかった。
俯く自分の側に、幼馴染みが近寄る。いつものように頭を撫でられて、胸の中に僅かに灯り出した不安が消えていく。
そっと、頭を撫でる幼馴染みの手を取った。

「捕まえた」

顔を上げて笑ってみせれば、幼馴染みが呆れたように溜息を吐く。

「それは反則なんじゃないの」

そう言って肩を竦めながらも、ゆっくりと数を数え始める。
幼馴染みの優しさが嬉しくて、笑いながら街の奥へと駆け出した。

「次は隠れ鬼ね!だから百数えてよ」
「はいはい。あんまり遠くに行かないでね」

最初から数を数え直す幼馴染みの声が遠くなる。
どこへ隠れようか考えながら、空を見上げた。
煌めく陽が陰る様子はない。広がる異国の街並みを、優しく照らしている。
この見知らぬ街には、怖いものなどどこにもない。
自分のために、幼馴染みが作り上げてくれた街。

時折感じていた違和感は、もう感じない。



大蛤の内側で眠り続ける少女を思い、一匹の蛟は緩く笑みを浮かべた。
あどけなさの残る少年の姿を取り、蛤の殻に触れて目を閉じる。
ややあって目を開けた蛟は、そっと安堵の息を吐いた。

「落ち着いているようで何よりだ。まだ違和感として残るものはあるようだけど、それもすぐになくなるだろうな」

触れた殻を撫でれば、応えるように蛤の殻の隙間から白い靄が静かに吐き出される。
ゆるりと立ち上る靄は風に乗り、街全体を薄く覆う。蠢く石畳や揺らぐ家々に染み込み、曖昧な輪郭を正していく。
その様を見て、蛟は目を細めた。

「素質があるな。細かい所はどうしても粗が出ていたけど、これなら完全に仕上がりそうだ」

くすりと笑みを溢し、殻を撫でる。内側で眠る少女の髪を撫でるように、優しく愛おしげに。

「目覚めたら、二人で作り上げた街でも一緒に遊ぼうか。……それまで、ゆっくりおやすみ」

その時を思いながら、蛟は殻に唇を触れさせる。
月明かりを反射して、虹色の鱗が煌めいた。





その地には、時折不思議な街が現れるらしい。
異国の色を強く湛えた、見知らぬ街。遠目では色鮮やかに、だが近づけば忽ち霞み消えてしまうという。

蜃気楼。
だがその街を実際に見た者はなく、季節も関係なく、街は忽然と現れ消えていく。

決して辿り着けない、不思議な街の幻。
いつからかその街の幻は、こう噂されるようになった。

――その街は、夢の吐息でできている。

今日もまた、その街は七色の煌めきを宿しながら遠くで揺らいでいる。



20250824 『見知らぬ街』

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