sairo

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3/13/2026, 9:35:14 AM

昔から、知りたいという欲は他の子たちよりも強かった。
知らないことを知る度、何でもできるような高揚感があった。それこそ世界を作ることすらできるような気がして、いつからか図書館に通い詰めることが日常になっていた。

その本を見つけたのは、ただの偶然だった。
普段は足を運ぶことのない、心理学の本が並ぶ棚。背表紙を目で追いながら、ただぼんやりと歩いていた。
ふと、足が止まる。同じようなタイトルの並びに、明らかにことなるものが紛れ込んでいるのを見て、無意識に手が伸びていた。
英語、だろうか。読めないアルファベットの文字に、途端に興味が掻き立てられた。
読書スペースまで戻る手間すら惜しみ、その場で本を開く。
無心で文字を追うものの、どのページも何と書いてあるのかは分からなかった。
嘆息し、肩を落とす。
文字が読めないことも悲しかったが、何より新しいことを知れなかったのが悔しかった。
例えば遠い国の伝統や風習。まだ見たことのない景色や知識など、尽きない好奇心が湧き上がり止まらない。文字を一撫でし、これが先日見た古城の話について書かれていたものだったのならと、想像してもう一度深く溜息を吐いた。

3/12/2026, 9:26:47 AM

三月。梅の花が咲き綻ぶ、温かな日差しが差し込む午後のこと。
黙祷を済ませて、一番奥の部屋へと向かう。主のいなくなった部屋は、今日も変わらず薄暗い。
空気が澱んでいる気がして窓を開けた。途端に感じるのは近くに咲く梅の花の香りではなく、潮の匂い。ざざ、ざざ、と寄せては返す波の音が鼓膜を震わせる。
窓の向こうに広がる海は、とても穏やかだ。

「また、一年経ったなぁ」

呟いて机に向かい、その上に置かれた古い腕時計を手に取った。秒針は動かず、針は二時五十九分で止まっている。
じっと見ていると、不意に秒針が震えた。長い眠りから目覚めたように震えながら数秒巻き戻り、そしてゆっくりと時を刻み出す。
かち、こち、と音が響く。一秒、また一秒と時が進んでいく。
そして、ぐるりと一周した後、秒針はまた最初のように動きを止めた。

「――やっぱり、今年も進まないかぁ」

秒針が一周しても、短針と長針は動かない。時間はいつまでも二時五十九分のままで、三時に進むことはない。
ほぅ、と息を吐いた。腕時計を一撫でして、机の上にそっと戻す。

「お父さん……」

呼びかけても、当然答えはない。
父の腕時計は沈黙したまま、父の書斎には自分以外誰もいない。
そもそも、父がどんな人なのかを自分は知らなかった。
周りはとても立派な人だったと言う。一人でも多く助けるため、最後まで声を上げて動いていたのだと誇らしげに語る。
けれど自分の中の父は、写真の中で穏やかに微笑む姿ばかりだ。
尊敬する人だと言われる度密かに困惑し、反発しそうになる。
立派だというのならば、何故自分たちを置いていったのか。母が今も一人で泣いていることに何も思わないのか。
決して口には出さない思い。母を困らせるつもりはなく、誰かに同情されたいわけでもなかった。
けれど、どうしても考えてしまう。
こうして一年に一度、たった一分間だけ動く、進まない時計の秒針を見ていると溢れてしまう。

「お父さんは、私より知らない子の方が大事だったのかな……」

物心つかない幼い自分を避難所に置いて、戻ってしまうくらいには。

それが父の仕事だったと、頭では理解している。
信頼しているからとはいえ、身重の母に自分を託していくのはとても心苦しかったのだとも想像できる。

けれど。
今日この日だけは駄目だった。母が仏間で泣いているように、自分も記憶にない過去に引きずられて沈んでしまう。

「駄目、だなぁ。もっとしっかりしないと……四月からは一人、なんだから」

もうすぐ、自分は慣れ親しんだここを離れ、遠くの街に進学する。
海の見えない場所。潮騒の代わりに喧騒が響く都会に出るのだ。
帰省することはあるだろう。しかしここで暮らすことは二度とないのだとも思う。
故郷が嫌いになったのではない。それだけははっきりと言える。
ただ、ここにいては、自分は先に進むことはできないと気づいた。
父の腕時計と同じだ。自分は一年かけて進んでいるつもりで、元の場所へと戻ってきてしまう。

「ごめんなさい……お母さんをよろしくね」

動かない腕時計に向け呟く。
来年からは、秒針が動くことを確認するために戻りはしない。今年が最後だと最初から決めていた。

不意に、強く風が吹き抜けた。
カーテンが大きく波打ち、陰影を作る。ざあざあと風と潮騒の音に合わせて揺れ動き、まるで踊っているように見えた。

「閉めないと……」

少しばかり見入ってしまい、慌てて窓へと手を伸ばす。しかしじゃれつくようにカーテンが腕にまとわりつき、思うように手が伸びない。
解こうとカーテンを掴めば、ふわりと広がり視界が真っ白に染まった。
海の匂いがする。それに混じり、仄かに梅の甘い香りがした。

「――っ」

その瞬間、目の前が白から青へと変わった。
雲一つない快晴。どこまでも続く草原を、風が自由に駆け抜けていく。
遠く、白い花をつけた木が目についた。離れているのにはっきりと香る甘い匂いが、あの木が梅の木だと告げている。
近づこうとして誰かがいることに気づいて足が止まる。背の高い男の人。こちらに背を向けているため、顔は見えない。
きゃあ、と楽しそうにはしゃぐ声が聞こえた。視線を向けると、男の人の所へと駆け寄る小さな影が見える。

「――あぁ」

思わず声が漏れた。
じわりと滲む視界の中、子供が駆け寄る勢いのまま男の人の足に抱き着いた。そのまま甘える子を抱き上げて、父が笑う。
こちらを振り向く父を遮るように、風が梅の花を散らして過ぎていく。
視界が再び白に染まり、咄嗟に目を閉じる。

「――あれ?」

次に目を開けた時、そこは外ではなく父の書斎の中だった。風の勢いを失い、力なく垂れるカーテンがするりと腕から離れていく。
目を瞬く。
一瞬だけ、夢を見ていた。梅の木と父に抱き上げられ笑う幼い自分。

「なんだ……覚えてるじゃん」

思わず声を上げて笑う。
今まで何もないと思っていた。自分にとって写真の中の父がすべてだった。
けれどたったひとつだけ残っている。
青空と梅の匂い。優しい笑顔と温もり。
平穏な何の変哲もない日常の一コマ。
思い出せなかったことが不思議なくらいだ。
手を伸ばして窓を閉める。乱暴に目元を拭うと、少しだけクリアになった視界で青空を見上げた。

「行ってきます。お父さん」

不格好な笑顔で、それでもはっきりと言葉にする。
父を忘れる訳ではない。故郷を捨てるつもりもない。
前に進むのに障害となってしまうものを、ここに置いていくだけだ。

「行ってきます」

繰り返して、部屋の外に出る。
かちこちと、自分の中で響く秒針の音に背を押され、力強く足を踏み出した。



20260311 『平穏な日常』

3/11/2026, 2:45:53 PM

「平和だなぁ」

空を見上げながら呟いた。
昨日までの喧騒は聞こえない。張り詰めたような雰囲気もなく、しんと静まり返った室内は一見すれば平和と言えるのかもしれなかった。

「どうして皆、争いばかりするんだろ?」

最初はそれほど仲は悪くなかった。談笑し、時には協力し合っていたはずだった。
それなのに。

「どうして、変わっちゃったのかな」

今となっては疑問ばかりが浮かぶ。いつ、どこで変わってしまったのか。どんなに考えても分からなかった。
視線を下ろし、周囲をぐるりと見回した。誰もいなくなってしまったこの場所はとても冷たく、物寂しい影を落としている。

「一人は寂しい」

ぽつりと呟いた。言葉にして、余計に寂しくなって立ち上がる。
今度こそ。何度目かの決意をする。
ぐにゃりと足元の影が歪み、大きな鳥の形になっていく。

「今度は一気に連れてくるんじゃなくて、一人ずつにしようかな」

ゆっくりと仲良くなっていけば、争うこともなくなるはずだ。焦る必要はない。
何せ、時間はあるのだから。憎み、反抗する感情を一人ずつ取り除いて、増やしていけばいい。

「さて、どの子から連れてこようかな?」

影の鳥が大きく翼を広げた。ばさりと羽ばたいて、空高く飛んでいく。

――はずだった。


「いや、そんな軽いノリで子供たちを攫わないでほしいんだけど」

不意に呆れたような声がして、影の鳥は飛び立つことなく解けて消えてしまう。
代わりにその場にいたのは一人の少女。袖のない和服を着て、半眼でこちらを見つめていた。

「弟妹たちが騒ぐから見にきてみれば……あんたね、いくら寂しいからって、外から子供を攫ってくるのは駄目でしょうが」
「さらう……?」

首を傾げて少女を見る。
少し考えて、彼女の勘違いの原因に思い至る。
ここに来た時の様子しか知らなければ、そう見えてしまうのも無理はない。苦笑して、違うのだと首を振る。

「無理矢理じゃないよ。どこかに行きたい、消えたいって思ってる子たちを呼んでいるだけ」

今も聞こえる声に、目を細める。
いなくなりたい。ここから逃げ出したいと泣いているのに、一人は寂しいと動けないでいる。
だからなのか。ここに連れてきたばかりの子たちは皆喜んで、すぐに仲良くなっていた。時折、皆の輪に加わらず、少し離れた場所で過ごす子もいたが、誰もが心穏やかで笑顔に溢れていた。
それなのに。思い出して、無意識に眉が寄る。誰を連れてきても結末は必ず同じになることが、とても悲しくて堪らない。

「あんなに仲良くしていたのに、どうして段々互いを憎むようになるんだろう。喧嘩ばかりして、傷だらけになって、最後には嫌がっていた元の場所に戻りたがるのはどうしてなのかな」
「そんなの、当然じゃない」
「え……?」

迷いのない、はっきりとした言葉。
驚いて少女を見ると、いつの間にか少女の腕には無数の目が開いていた。

「逃げ出したいとか泣き言を言って動かないのは、ただ甘えているだけ。自分では何一つせず、誰かが目を向けて手を差し伸べてくれるのを待っているだけの軟弱者の集まりだったら、いつか破綻するのは目に見えているわ」

少女の腕の目が、皆同意するように瞬いた。
その中の一対がこちらに向けられた。真っすぐに射貫くような強さで見つめる目は、少女ととてもよく似ている。
弟妹と少女は言っていた。ならば、腕の目は彼女の弟妹のものなのだろうか。
食い入るように目を見返していれば、少女はあぁ、と小さく声を漏らし苦笑する。腕を掲げ、愛おしげに目を見つめた。

「あんたが連れてきたのは、まったくの他人だったんでしょ?なら余計に仲違いは起きるだろうね。私は弟妹とならいつまでも一緒にいられるけど、赤の他人と過ごすのは数日が限度。いくら仲良くなったって、愛情も信頼もない人間と四六時中過ごすなんてごめんだわ」
「……そうなの?」

よく、分からない。

「そうよ。私は弟妹のためなら何でもできた……姉だからっていう義務だけじゃない。小さい体で必死に私を支えようとしてくれる、愛情を感じたから頑張れたの」

ふふ、と少女は笑う。腕の目も笑っているかのように柔らかな眼差しを少女に向けている。
そこには確かに愛があるのだろう。少しだけそれを羨ましく思う。

「あぁ、そうだ」

ふと、少女が何かに気づいたかのように声を上げた。腕の目たちと見つめ合い、そしてこちらを見て告げる。

「そんなに寂しいのなら、あんたは私と来なさい」
「……え?」
「これも何かの縁だし、弟が新しく増えた所であんまり変わらないからね」

何を言われたのか、すぐに理解することができなかった。
何度か少女の言葉を繰り返す度、胸に痛みが走る。どんなに考えても、血の繋がりがない自分を弟にするという少女の言葉の意味が分からなかった。

「なんで……」
「だってほっとけないもの。皆も気になるようだしね……無理強いするつもりはないわ。決めるのはあんたよ」
「でも僕……弟じゃないのに……」

あぁ、と少女は頷き笑う。腕の目が少女を咎めるように睨み、彼女は慌ててごめんと頭を下げた。

「血の繋がりがなくても家族にはなれるわ。互いに信頼し、支え合い、愛そうとするなら、それは家族と変わらないでしょ?」
「……僕、あなたを支えられる?」

何をすれば支えることになるのかも分からないのに、彼女の弟になれるのだろうか。
ここへ連れてきた子たちのことが思い浮かぶ。こんな所に来なければと睨みつける、彼らの冷たい視線が不安を掻き立てる。

「大事なのは支えたいと思うか。信頼して愛すことができるかどうか。できるできないじゃなくて、行動するかしないかよ」

そう言われて、足が前に出た。少女の目の前で止まり、深々と頭を下げる。

「ふつつか者ですが……よろしくお願いします」

声を上げて笑われて、優しく頭を撫でられる。
差し出された手を握ると、途端に聞こえてきたのは楽しげな声たち。彼女の弟妹たちの声なのだろう。誰もが笑って受け入れてくれている。
泣きたくて仕方がなかった。ずっと求めていたものがここにある。
平和な世界。皆が笑い、争いなど一つもなく、幸せだといえるような温かさが欲しくて、与えたかった。
じわりと視界が滲み、自分の形が揺らぐ。握った手がするりと解け、小さな翼に戻ってしまう。
離れてしまうのが怖くて、必死に羽ばたいて少女の肩に止まった。囀り体を摺り寄せれば、また笑われ頭を撫でられる。

「さて、次はどこへ行こうか」

ゆっくりと歩き出す。行き先などはないのだろう。気の向く方へ、気ままに向かう。
行く先を決めない旅は、自由になった彼女たちにはとても似合っている。
楽しそうな囁き声。新参者の自分は末っ子で、皆が兄や姉と呼べ、と意気込んでいる。

「平和だねぇ」

空を見上げ、少女は穏やかに呟いた。
同じように空を見上げ、視線を下ろし辺りを見回す。
少女がいて、声が聞こえる。張りつめた空気はなく、あるのは春の陽気のような温かさだけ。
声は口を揃えて、平和だと囁いた。
それに合わせるように、ひときわ高く囀り歌った。



20260310 『愛と平和』

3/10/2026, 9:48:37 AM

立ち止まり、一度だけ振り返る。
夕暮れでもないのに、影が長く伸びていた。まるで引き返そうとでもいうかのように、来た道を黒く染めていく。

「駄目だよ」

静かに告げれば、影は途端に動きを止める。しかしまだ迷いがあるのだろう。戻る気配は一向にない。

「駄目。それは置いていかなければならないものだ。過ぎ去ったものに手を伸ばすなんて意味のないことをしないで」

淡々とした無慈悲な言葉に、影は小さく震えた。
力なく項垂れながらも、最後に歩いてきた道の先へと腕を伸ばす。だがその手に触れるものはなく、やがて腕を下した影はゆっくりと元の大きさへと戻っていった。

「随分と酷い言葉。意味がないなんて、どうして言えるのかしら」

不意に声が聞こえた。
咎めるような響きを持ちながらも、柔らかな声音が鼓膜を揺する。

「別れは仕方のないこと。廃れるのもまた致し方ない……けれど過ぎ去った日々は決して意味がないものではないわ」

振り返れば、いつの間にか道の端に少女が佇んでいるのが見えた。
その腕には何かが抱えられている。湾曲した長方形の何か。白にも銀にも見える無数の糸は、まるでざんばらに切られた髪のように、風になびき揺れている。
黒く濡れた目が瞬いて、開いた口から言葉の代わりに旋律が溢れ落ちた。
聞いた覚えはないはずなのに懐かしさを感じるその音色。思わず眉を顰めた。

「いつまでも昔に縋っていることに意味はあるの?誰にも見向きもされない古いだけの音なんか、ただの雑音と変わらないよ」
「本当に?」

少女は微笑み、そっと腕の中のそれを撫でた。
物悲しい旋律が響く。壊れて現実には鳴らない琴が、泣くように歌っている。
音に惹かれ、元に戻ったはずの影が伸びていく。首を傾げ、歌う琴に触れようと手を伸ばす。

「駄目だよ」

咎めれば、影の動きは止まる。けれどもやはり、元には戻らずその場に佇んでいる。
迷っているようには見えなかった。見えない目が、見定めるかのようにこちらを向いている。そんな気がして落ち着かない。

「本当は戻りたいのね。でも諦めてしまっている。過ぎ去ってしまった日々には手が届かないと言い訳をして、顔を背けている……手を伸ばさなければ、届かないけれど傷つくこともないから」
「っ、煩い!」

気づけば声を荒げていた。
影が体を震わせている。だが少女は臆することなくこちらを見つめ、腕に抱かれた琴もまた、視線を逸らすことはなかった。

「知った口をきくな!何も知らないくせに。何も知ろうともしないくせにっ!」

酷く不快だった。無遠慮に内側に入り込み、上澄みだけを暴き立てる。そこに沈む思いを知ろうともしない独りよがりな行為に、怒りと侮蔑が込み上げる。

「もう、うんざりだ!これ以上構わないでくれ。そっとしておいてくれよ」

思いをすべて吐き出し、残るのは奥底に沈んだ悲しみだけだ。肩で息をしながら睨む視界の端がじわりと滲む。
どれだけ叫ぼうとも少女が変わらないことが、酷く苦しかった。

「――確かに、何も知らないわ」

ぽつりと、少女の静かな声が落ちる。

「あなたが私の痛みを知らないように。この子の嘆きを聞かないように」

琴が歌う。悲しげで、寂しげな旋律が身に染み込み、胸を締め付ける。
自分の悲しみよりも深く沈むそれは壊れたからか、それとも絶えてしまったからなのか。

「何も言わないのだから、知りようがないわ」

告げられた言葉が棘となって突き刺さり、思わず息を呑んでいた。
確かにそうだ。伝えようとしなければ、何一つ伝わらない。
理解して、急に恥ずかしくなった。さっきまでの自分が駄々をこねる子供と重なって、怒りや悲しみが萎んでいく。

「あ……えっと……」

何かを言わなければいけない気がした。けれど何を言えばいいのか分からずに、意味のない言葉だけが溢れていく。
そんな自分を馬鹿にするでもなく、少女は変わらず穏やかに告げた。

「戻れるわ」

不思議とその言葉に反発する気持ちはなかった。少女の腕の中で歌う壊れた琴が笑っているように見えたからなのかもしれない。

「過ぎ去った長い日々の中で絶えてしまったものでも、いつか誰かに目を向けられて手を伸ばしてもらえる時がくるもの。それにあなたには、気にかけてくれる人がいるでしょう?だから戻れるわ」
「気にかけてくれる、人……」

思い浮かぶのは、家族や友人たちの顔。
そういえば、と思い出す。
皆、待つと言ってくれた。協力は惜しまないと笑っていた。

「――もう一度、始めてみようか」

ぽつりと呟けば、少女は柔らかく微笑む。
あれだけ元に戻ることを拒んでいた影が、するすると戻ってくる。
その単純さに、自分の影ながら呆れて笑った。

「戻れるかは分からない。でも過ぎ去った日々に置き去りにしたものを、もう一度だけ拾いに行ってくるよ」
「頑張って。大丈夫、ちゃんと拾えるわ」

少女の言葉に背を押され、振り返り歩いてきた道を引き返す。
餞別なのか、琴の音色が聞こえた。どこか楽しげで、その旋律は壊れているとは思えないほど美しかった。
笑みが浮かぶ。足取りは軽く、あれだけ戻ることを怖がっていたのが嘘のように気分は爽やかだ。

「もう一度だけ……」

道の先に見える、小さな光。
その向こう側から微かに聞こえる、琴の音とは違う響きが聞こえている。
時に力強く、時に物悲しい弦の音。思わず走り出していた。

「大丈夫」

怖くはない。
あるのは、初めて音を鳴らした時の胸の高鳴り。過ぎ去った遠い過去に生きた人々を音と言葉で紡ぐ時のざわめき。
影が伸びる。待ちきれないとばかりに、光の中に飛び込んでいく。

「せっかちだなぁ」

たまらず声を上げて笑った。
声は出る。手の痛みや痺れは感じない。
手を伸ばせば、きっと置いて行った自分に届くのだろう。

「大丈夫」

繰り返して、速度を上げる。
影のように、迷わず光の中へと飛び込んだ。



20260309 『過ぎ去った日々』

3/9/2026, 2:39:52 PM

施設の一室で、少女は虚ろに窓の外を見つめていた。
まだ小学生くらいの幼さの残る少女だ。まだ親の愛を必要とするだろうに、少女の元には月に一度、思い出したように母親が見舞いにくる程度だ。
見舞いに来たとしても、親子の間に会話はない。母親は淡々と持ち込んだ衣服などの日用品を補充、あるいは交換し、職員と義務的な会話をしてすぐに去っていく。
疎まれている程ではないが、あからさまに少女と関わることを避けている。唯一の救いは、少女はもう母親すら認識できていないことだろうか。

「可哀そうにねぇ」

口では憐みながらも、職員の多くは少女の身に起きた悲劇に興味を隠しきれてはいない。
少女の心を壊したある事件。母親が訪れる度、職員たちは心配を装いながらも事件の詳細を知ろうと声をかけている。不謹慎ではあるものの、あまりにも現実離れした出来事は、好奇心を掻き立ててしまうのだろう。

少女には姉が一人いた。
姉妹仲は良かったという。年が離れているためか、両親に代わって姉が世話を焼いていたらしい。
その姉が、半年前に亡くなった。
病気や事故ではない。少女の住む村の奥、山の中腹にある淵の底で沈んでいるのが見つかった。
全身にはきつくカーテンが巻かれ、身動きひとつ取れない状態であった。ただ不可解なのは、村の者は始め、皆口を揃えて決まりを守らなかった報いだと姉を蔑み、犯人を捜そうとしなかったことだ。
少女の姉が亡くなった夜。村では月待ちという一年の豊穣を願う古くからの風習が執り行われていた。そのためその淵の周囲には、村の大人たちが集まっていたという。
その月待ちでは、少女の姉を含む子供たちは朝まで家から一歩も出ずに過ごすらしい。その決まり事を破り外に出たため、祟られたのだと村の誰しもが言っていた。
だが、その認識は最近になり変わった。誰が流したのか、少女の姉に対し邪な思いを抱く者の仕業だという噂が囁かれるようになったからだ。
噂は大地に染み込む水のように村全体に広がり、猜疑心を育て上げる。互いを疑い、事あるごとに諍いとなって、村を出て行く者も多いようだ。
少女の母親も、数週間前に村を出ていた。しかし見舞いに訪れる頻度が変わらないのは、少女に対しても疑いを持っているからなのかもしれない。

「可愛そうにねぇ」

職員たちは囁く。悲しげに、それでいて楽しげに。
そんな言葉を少女は気にせず空を見上げ、月を待っていた。





夜の暗闇に浮かぶ白の月を、少女は無心で見つめていた。
その眉が僅かに寄る。昼間と異なり、少女の目に浮かぶのは深い悲しみと寂しさだった。

「お姉ちゃん」

かさついた唇が、愛しい人を呼ぶ。答えのない虚しさに、握り締めていた手に力が籠る。
少女の中にある最後の日の記憶は所々が抜け落ち、酷く曖昧だ。
はっきりと覚えているのは、鐘が鳴るぎりぎりに姉が帰ってきたこと。いくら麓の学校に通っていて時間がかかるとはいえ、鐘が鳴ってしまえばどんなに頼み込まれても家の鍵を開けることはできない。だからこそ安堵したと共に、姉の危機感のなさに怒ったのを覚えている。それは決まり事だからというよりも、月待ちが始まることを知らせる鐘が鳴ってしまえば、少女の意識が保っていられないことが原因だった。
鐘が鳴るのを聞いて、そして気づけば朝を迎えている。鐘の音を聞いた後、寝るまでの記憶が欠落しているのだ。今までは特に気にすることはなかったが、こうして姉を失った今は、その欠落が酷く憎らしい。
あの日、姉の側にいることができたのなら、失うこともなかったのだろうか。今も髪を梳いてくれたのだろうか。
もしも姉の手を離さなければ、月に奪われることもなかったのか。

「月……」

忌々しいとばかりに少女は月を睨みつける。
少女は知っていた。姉は月に攫われたのだと。不要な体を捨て、月と共に村を去ったのだと。
月待ちの儀によって、村の者への富を与える代わりにその身を蝕まれ続けていた月。その全てを喰らいつくされる前に、誰の手も届かない場所へ姉を連れて行ってしまった憎い月。
一人残されて、少女は恨めしい気持ちで唇を噛んだ。

「寂しい」

ぽつりと、思いが溢れ落ちる。
姉を失ってから、少女はずっと寂しかった。現実から目を背け、拒否するほどに、寂しくて苦しかった。

「お姉ちゃん」

答える声はない。それでも呼ばずにはいられない。

「寂しいよ、お姉ちゃん」

少女の頬を流れ落ちる滴が、月の光を反射し煌めいた。



「相変わらず、甘えたがりなのだから」

困ったものだと、笑う声がした。

「お姉ちゃんっ!?」

はっとして、振り返る。
だが少女の目が恋しい人の姿を捉えるより早く、誰かの胸の中へと抱き込まれた。
懐かしい匂い。優しく髪を撫でる手つき。見えずともそれが誰なのか分かり、少女はその背に腕を回してしがみついた。

「お姉ちゃん。お姉ちゃんっ」
「本当に困った子だ……いや、困ったのは両親の方か。このまま人間として生きていられるよう手を回したというのに、結局は富の方が大事という訳か」

姉が何を言っているのか、少女には理解できない。理解できなくともよかった。おそらくは少女のために何かをしてくれたのだろう。だがそれよりも姉と離れないように、少女は泣きながら必死で縋りついていた。

「他者を出し抜き、富を独占しようとする思いが根底にある故、この結末は必然であった。それは其方らの親も変わらぬ。戻れはせぬがそれを理解せず、妹御を新たな月に召し上げることを諦めてはおらぬ」
「――そうか」

知らぬ男の声。反射的に少女は抱き着く腕の力をさらに強めた。

「そんなにしがみつかなくても、どこにも行きはしないよ。ただ、そうだね。これからどうするのか、選ばなくてはいけない」
「えらぶ……?」

姉の言葉を、少女はしゃくり上げながら繰り返す。
顔は上げられなかった。今姉の顔を見てしまっては、求めるものを何一つ答えられなくなってしまうような気がしていた。

「そうだよ。ここに残るか、私たちと来るか……母さんと父さんは、お前を使って富……つまりはお金を得ようと動いている。あの二人も村の皆と同じで、富以上に大切なものはないんだ。だからここに残るのならば全く別の、お前を愛してくれる場所に連れて行くことになるが……」
「お姉ちゃんと一緒がいいっ!」

最後まで待たず、少女は叫ぶように声を上げていた。
くすりと笑う声。少女の答えを予想していたのだろう。姉は穏やかさの中に哀しみを混ぜた声音で、少女に告げる。

「私たちと来るならば、それは人間としての死を意味することになる。それでもいいの?」
「いいっ!お姉ちゃんと一緒がいいの!」
「困った子だ。目を見てくれれば、上手く誘導ができたというのに」
「其方の妹だ。一筋縄ではいかぬよ。一度決めたことを曲げぬ強さは、よく似ている」

苦笑。顔を上げるよう促され、少女は嫌々と首を振る。だがこのままでは何も変わらないと理解しているのだろう。小さく息を吐き、恐る恐る顔を上げて姉と目を合わせた。
瞬間、少女の意識が微睡み始める。姉の服を握り締めていた手の力が抜け、力なく落ちていく。

「お休み……大丈夫。心配しなくとも、一緒がいいと望まれたんだ。置いていくことはしないよ」

優しい声が聞こえた。
その言葉に安堵して、少女は深く眠りについた。



翌朝。
職員が部屋へ訪れると、そこには穏やかな顔で眠りにつく少女の姿があった。
初めて見る、幸せそうな微笑み。とても良い夢を、最後に見ていたのだろう。
慌ただしく動き回る職員に囲まれながら、少女は眠り続けている。
深く、深く。
もう二度と、覚めない夢を見続けている。





いつからか語られるようになった昔話。

とある村の住人は皆強欲で、偶然捕まえた月から光を剥ぎ取り、それを金に換えて暮らしていた。
しかしある日、一人の少女が月を連れて逃げ出した。人のままでは空を飛べぬと体を捨て去り、月と共に空へと消えていった。
残された村人は大慌て。急いで追いかけるも、すでに月と少女は天高く昇り、もう二度と届くことはない。
怒った村人は、今度は少女の妹を使って金を得ようとした。少女と妹は村の中で一等美しく、元より月の全てを金に換えたら姉妹を使おうと企んでいた。
それに困った姉は、月と共に妹を守るため策を講じることにした。
数日後、村の様相は一変する。
あちらこちらで喧騒が起き、色々なものが飛び交い壊れていく。村人たちは互いを疑い、罵り合い、そうして村は壊れていった。
不和の種は、一つの噂。
妹を連れて金を独り占めしようとする者がいるらしい。そんなちっぽけな種は、だが金より大切なものを知らなかった村人にとって何よりも脅威だった。
種は芽となり葉を広げ、蕾をつけて花を咲かせた。黒々とした欲にまみれた花は村に毒を撒き、全て狩りつくしてしまった。

こうして誰もいなくなった村で、妹は姉と月と共にいつまでも幸せに暮らしましたとさ。
めでたし、めでたし。



20260308 『お金より大事なもの』

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