この子はよく泣いている。
お腹が空いては泣き。眠くなっては泣く。
粗相をして下肢を濡らしてしまった時も、泣いていた。
その度に頬を伝って流れ落ちる透明な滴は、光を透かして煌めいて。
綺麗な子だ。たくさん泣いて、笑って。必死に生きている。
憐れな子だった。小さな手を伸ばし助けを求める先が、母を奪ったモノだと気づく事はないのだろう。
また泣いている。いつもよりも力はなく、掠れた声で泣いている。
お腹が空いているのだろう。昨日より、何も口にしてはいない。
小さな体はすぐ飢えてしまう。
この子が口に出来るものを、早く探さなくては。
ああ、それにしても。
本当に腹が減った。
「無茶してる」
傷だらけで横たわる狼を見て、少女は小さく息を吐く。
狼の背後。か細い声で泣く声の方へ向かいたいが、狼が威嚇するためそれは叶う事はない。
「駄目だよ。あの子はお腹が空いているんだ。何か食べないと、人間の子はすぐに死んでしまうよ」
狼の頭を撫でながら、少年は囁く。その言葉に狼は迷うように瞳を揺らし、しばらくして静かに目を閉じ頭を垂れた。
「ちょっと弱っているけれど、大丈夫」
おとなしくなった狼の横を通り抜け、鳴き声の主である赤子の元へと駆け寄った少女が、安堵したように微笑んだ。
赤子を抱き上げ、けれど僅かに眉を寄せる。
「ちょっと臭う。戻ったらお風呂に入れないと」
「川の水で洗ってはいた。粗相をする度に、気持ちが悪いと泣いたから」
目を閉じ、横たわったままで狼は呟く。
酷く凪いだ声音だ。先ほどまでの勢いなど欠片もなく、全てを諦めたかのように身じろぎ一つしない。
「大丈夫だよ。ご飯を食べて、寝て。そうしたらまた、一緒にいればいい」
慰めるような少年の言葉に、けれど狼はゆるく頭を振った。
「いい。一緒にいたら、今度こそ喰ってしまうから」
傷だらけで血に染まった体を起こす。その傷はすべて、赤子を喰らいたいという衝動に抗うため、狼自らがつけたものだ。
道を歩く者を守り、道に伏せる者を喰らう。
遠い過去にいた誰かの望み。その声に応えて目覚めた狼は、誰かがいなくなった後もその望みの通りに在った。
道行く人の背後を歩き、その者が帰れるまで見守る。けれども、足を取られ地に倒れた際には、その身を余す事なく喰らい尽くす。
赤子の母もそうだった。
ふらふらと道を行く、痩せた女。当てもなく彷徨い、そして倒れた。
女の身を喰らい。けれど女の細い腕の中で泣き声を上げていた赤子は、喰らう事は出来なかった。
「この子を助けて、って女が最期に望んだ。それにこの子の涙が、透明できらきらしてて凄く綺麗だったから、応えようって思った。でも」
力なく、狼は笑う。
笑いながら、一筋涙を流した。
「赤子の育て方なんて知らなかったし、この子は弱っていって。ぐったり横になっているのを見てると、道に伏せているように見えて、駄目になりそうだった」
「それ、いつまで応えるの」
「そうだね。望んだ人間はもういないから。新しく望みに応えてもいいと思うよ」
不思議そうに首を傾げた少女が、脱脂綿に含ませた乳を赤子に吸わせながら問いかける。少女に同意するように少年も頷き、優しく狼に告げた。
そんな二人に対し、やはり首を振って狼は否を示す。
「俺はそう在るべきだから。最初の望みが在り方を定めて、人間もそうだと認識している。もう他の望みに応えられない」
たとえその望みが、己の子供をこの地に捨て、戻らなくするためのものであったとしても。
口減らしだったのだろう。歩く事すら覚束ぬ幼子が一人で帰れぬと知りながらも、強く望んでいた。
途中で倒れぬ事のない己が、無事に帰れる事を。まともに歩けぬ子が、ここで終わる事を。
尤も、望んだ者も結局は途中で足を縺れさせ、捨てた我が子と同じように狼に喰われてしまったのだが。
「今回は偶々だから。もう他に応える事はしない。もう、」
「あなたは、この子が泣いている理由が分かるの?」
狼の言葉を遮るように、少女は狼に問いかける。
問われた事の意味を分かりかね首を傾げれば、少女は例えばね、と言葉を続けた。
「さっき泣いていた理由は分かる?他にもたくさん泣いていたと思うけど、その違いは分かる?」
「分かるよ。さっきはお腹が空いていたんだ。他にも眠かったり、寂しかったり。粗相をして気持ち悪いって泣く事も、全部分かる」
少女を見据え、狼ははっきりと告げる。赤子と共にいた時間は決して長いものではなかったが、それでも赤子の事は理解していたつもりだった。
その答えに少女はふわり、と表情を綻ばせ、乳を吸い終わりぐずりだした赤子を狼の前に差し出した。
「じゃあ、あなたはこの子の望みすべてに応えた。遠い昔の誰かの望みに縛られるのではなく、あなたの意思でこの子に応えられている」
「赤子というのは、泣く事で相手に意思を伝えるんだ。それは何よりも強い望みだよ。生きるための望みに応えたのだから、最初の望みに応えなくてもキミは歪まない」
「応えた。俺、が」
呆然と呟いて。
泣き出してしまった赤子に、狼は慌てて人の姿を取る。少女から赤子を受け取って、慣れた手つきであやせば、泣き止みうとうとと目が閉じていく。
その頬を伝う涙は、出会った時から変わらず透明で、とても綺麗だった。
「この子のために、これからも応えてあげればいい」
「でも、俺とこの子は違う。この子は人間で、俺は妖だから」
だから、と戸惑い視線を彷徨わせる狼に、二人は微笑む。
大丈夫、と囁いて、少女の手が赤子の頬を伝う涙を、少年の手が狼の頬を伝う涙を拭った。
「人も妖も、そんなに違いはない」
「この子とキミの流した涙は、同じ透明だよ」
少女の手と、少年の手と。濡らす涙はどちらも同じ透明だ。
人と妖と。涙の色は同じ。流す涙の意味も、きっとそんなに変わりはない。
穏やかに眠る赤子を見て、狼はくしゃり、と顔を歪ませる。赤子と同じものが一つあるだけで、酷く心が満たされていた。
「同じ。同じ、だ」
「そうだよ。だからね。ここに留まるのは終わりにして、ボクらの屋敷においで」
キミの傷の手当てもしなくてはね、と優しく手を差し伸べる少年に。
蕩々と流れる涙をそのままに。狼は恐る恐るその手を取った。
20250117 『透明な涙』
「あぁ、やはりこちらにいたのですね」
柔らかな声に、俯いていた顔を上げる。
涙で滲む世界で、それでもはっきりと彼女の姿は見えていた。
「どうして、分かったの?」
「あなたはわたくしの特別だからですよ。可愛い子」
微笑んで手を差し伸べられる。白くて綺麗で、作り物のような手は、少し冷たいけれど誰よりも温かい事を知っている。
彼女の手を取り、立ち上がる。服についた埃を軽く払われて、恥ずかしくなって目を逸らした。
「さぁ、帰りましょうか」
「帰りたくない。あたし、悪くないもん」
また滲み出す涙を乱暴に拭いながら、首を振る。
悪くはない、はずだ。
幼い弟がいたずらをして雪見障子の硝子を割り、怪我をしてしまった。止めたのに、弟は止まらなかった。
それなのに、怒られたのは弟ではなかった。側にいただけ、姉だからというだけで、両親に叱られた。
「おとうさんもおかあさんも、あたしの事が嫌いなんだ。だからいつもあたしだけが叱られる。もうあんな家に帰りたくない」
「あら。それは困りましたねぇ」
困ったようには見えない微笑みを浮かべて、彼女はそっと涙を拭う。どこまでも優しく、誰かを非難する事のない彼女が、少しだけ恨めしかった。
「あたし。謝らないし、帰らないから。絶対なんだから」
「そんな事を言っていると、隠されてしまいますよ」
「いいもん。怖くなんかないんだから」
「駄目ですよ」
彼女がどこか悲しそうな顔をする。それだけで決して曲げないと思っていた決意が、簡単に揺らいでしまう。
優しい彼女を悲しませるのは嫌だった。彼女が悲しくなるのであれば、自分が我慢すればいいのではないか。
そう思ってしまうくらいには、彼女の事が大好きだった。
「本当に、帰らないと駄目なの?」
「皆さん、心配されていますから。わたくしと一緒に帰りましょう」
「…分かった。手を繋いでてくれるなら、一緒に帰る」
そっぽを向いて、小さく呟く。手を出せば、綺麗な手が包み込むようにして繋がった。
それだけで何だか嬉しくなってしまう自分は、やはりちっぽけな子供でしかないのだろう。
「覚えていて下さいね。可愛い子」
手を繋いだ、帰り道。
彼女が歌うように囁いた。
「あなたがわたくしを必要としてくれるのならば、わたくしはいつでもあなたのもとへ参りますよ」
本当に、と見上げた彼女の横顔は、とても穏やかで。
「絶対だからね」
素直に嬉しいと言えない、ひねくれた言葉しか返せない自分に、呆れてしまいながらも。
彼女の言葉がいつまでも本当でありますように、と繋いだ手を強く握った。
懐かしい夢を見た。
幼い頃。いつも側にいてくれた、優しい彼女の夢。
「嘘つき」
呟いて、起き上がる。
気分は最悪だった。
彼女はいない。声を上げて泣く事をしなくなった自分の側には来てくれなくなった。
所詮は子供だましの約束だったのだろう。我が儘な子供を宥めるための口約束など、大体がそんなものだ。
「もう、こんな時間」
時計を見る。
止まる事も、況してや戻る事もなく動き続ける針を睨み付け、ベッドから抜け出した。
本当に最悪だ。夢でも現実でも、悪い事しかない。
溜息を一つ溢し。準備をするために、部屋を出た。
「おはようございます。お迎えに上がりました」
「おはようございます」
微笑む男に、作った笑みを浮かべ挨拶を返す。
自分より十も年上の男。紳士的な態度を取りながらも、その目に劣情を隠す事なく浮かべた、自分の夫となる男。
「ようやく貴女と夫婦になる事ができるのですね」
頬に触れる男の手に耐えながら、笑みを貼り付ける。
下手に機嫌を損ねては、後が厄介だ。
逃げられはしない。今日の結納を済ませてしまえば、このまま妻として男と暮らす事になるのだから。
「それでは行きましょうか」
「はい」
男の後に続く。
脳裏に浮かぶ彼女を微笑みを思い出し、唇を噛んだ。
今更だ。見合いの時も、婚約の時にも彼女は来てくれなかった。
どんなに求めても彼女は来ない。助けて、なんて言えるはずがないのに。
「どうしました?」
「いえ、何でもありません」
振り返る男に、慌てて笑みを貼り付け、何でもないのだと首を振る。
諦めなければ、と気持ちを切り替えて、外に。
「わたくしの特別。悲しいのですか?」
声が、聞こえた。
「可哀想に。泣けなくなってしまったのですね」
背後から抱き竦めるように回された、白い腕。
白く、細い。血の通わぬ、冷たい手。
「ひっ!?化け物!」
男が怯えたように後退る。恐怖を強く宿した目が、自分の背後を凝視し、耐えられなくなり外へと逃げていく。
「姉ちゃん!」
弟の声が遠い。同じ家の中にいたはずなのに、何かで仕切られたように声がくぐもって聞こえる。
「どうして」
小さく零れた声に、背後の彼女は笑ったようだった。
「あなたがわたくしを必要としてくれるのならば、わたくしはいつでもあなたのもとへ参ります。今回は少しばかり遅れてしまいましたが」
申し訳ありません、と囁く彼女の声は悲しげで。
ゆっくりと振り返る。彼女の姿を確かめたくて。
「駄目だ!振り返るな!」
誰かの声が聞こえた気がした。けれどその声より早く、彼女の姿を認め。
瞬間。世界ががらりを色を変え、暗く冷たい水の底で彼女に抱かれていた。
「これで。ようやくあなたと共にいられる。永遠を共にできる」
歌うような囁きが、気泡と共に上っていく。
あぁ、そう言えば。酷く虚ろな意識で思い出す。
幼い頃住んでいた家にあった小さな井戸。水の底でこちらを見上げる彼女を見たのが始まりだった。
寂しそうな目をしていた。不思議と怖いとは感じられず、だから一人寂しそうな彼女へと向けて、手を差し出した。
あの井戸はもう、埋めてしまってなくなったのだと両親は言っていた。
「可愛い子。わたくしの愛おしい特別。あなたを愛したが故に堕ちてしまったわたくしを、決して許さないで下さいね」
彼女の泣くような声に、少し前に読んだ小説を思い出す。
――妖と深く関われば、いずれ妖は意思を持ち、望む事を知るだろう。応えるもののないそれに、妖は狂い堕ちるのだ。
思い出して、悲しくなった。優しい彼女を悲しませるのは、何よりも嫌だった。
身じろいで、振り返る。彼女と正面から向き合う形で、彼女の白い髑髏となった頬をそっと撫でた。
「約束守ってくれたから、一緒にいてあげてもいいよ。その代わりに、ずっと手を繋いでいてね」
「ありがとう。愛しい子」
頬を撫でていた手を取り、彼女はそっと手を繋ぐ。小さな頃とは違い包み込むようにではなく、指を絡めて離れないようにしっかりと。
繋いだ手を見て、笑う。嬉しくて笑い、幸せで泣いた。
あの頃のように。我慢をする事なく声を上げて笑いながら泣いていた。
20250116 『あなたのもとへ』
手を差し入れて、そっと水を掬い上げる。
手の端から溢れ落ちる水をただ眺め。少なくなってきた水を注ぎ足すように、再び水の中に手を差し入れる。
繰り返す。何度も、いつまでも。
「何をしているの?」
繰り返す少年を不思議に思い、少女が声をかける。
見かけたのは偶然だ。足腰の弱くなってきた祖母の手伝いの帰り。寄り道で訪れた小さな淵に、少年はいた。
淵の水を掬い、流れ落ちる水を眺めてまた水を掬う。
その手つきは壊れ物でも扱うかのように、優しく。それがまた少女の興味を引いて、思わず少年に声をかけた。
「別に。何かいるかなって、暇つぶしに」
そっけなく返る声に、少女はおや、と首を傾げる。
聞き覚えのある声だった。さらに興味を引かれ、少年の隣に歩み寄る。
「高遠くん」
見知った横顔に、少女が小さく名を呼んだ。同じクラスの、人気者。サッカー部のエースだとも言われている少年が、何故こんな寂れた場所にいるのだろう。
呼ばれた事で、少年は手を止め少女に視線を向ける。驚いたように目を瞬き、泉宮、と少女の名を呼んだ。
「え。何してんの、こんな所で」
最初に少女が少年にかけた言葉と同じ言葉を言われ、少女は苦笑する。
意外な場所で見知った顔に出会ったのだ。その疑問も当然ではある。けれども普段教室で見慣れている、しっかりとした印象の彼と今の彼との差異に面白くなってしまい、少女はくすくす笑いながら、少年の隣に腰を下ろした。
「おばあちゃん家の帰り。高遠くんはどうしてここにいるの?」
「興味本位、かな」
薄く笑い、少年は再び淵に視線を向け、同じように水を掬い上げる。
「前に見た雑誌で、ここの事が書いてあったから…取り替え淵。何かと何かを取り替えてくれるって書いてあった」
「この前、教室で話してた雑誌の事?」
「そう。ちょっと気になって」
掬った水が手から溢れ落ちる様を、少年は口元だけで笑いながら見つめる。
やはり今日の少年はどこか普段と違う。それとも今の彼が取り繕う事のない姿だとでも言うのだろうか。
不思議に思いながらも、少女はそれを言葉にする事なく、少年の言葉の続きを待った。
「誰が言い始めたんだろうって。最初に取り替えた誰かは、知ってて取り替えるために沈めたのかな。それとも偶然?偶然取り替えたいものがあって、ここに来て、偶然沈めたの?」
「昔話なんて、皆そんなものじゃない?」
少しばかり興が冷めたように、少女は言う。
現象が先か、物語が先かの違いなど今となっては分かりようがないからだ。どちらが先でも変わらない。
ここは何かと何かを取り替える淵であるという認識は、変わりようがない。
「泉宮って、あんまりこういう都市伝説的な話って興味ないんだ。何か意外。よく小説とか読んでるのに」
「別に。卵が先か鶏が先かの話をしても意味がないって思ってるだけだよ」
「そっか。まあ確かに、そういう事になるのか」
ぱしゃ、と掬った水を落とす。
少女に視線を向けて、少年はねぇ、と囁いた。
「取り替えるために沈められた皆は、どこにいるんだろう。まだ、この淵の底にいるのかな?もしも、一度取り替えるために沈めた誰かを、別の誰かと取り替えようとしたら、戻ってくるのかな?」
おや、と少女は僅かに眉を潜める。
何か、ではなく誰か、になっている事に違和感を覚えた。
「水の底に沈んだものは、二度と上がってこないよ。穏やかに見えるけど、水の流れは複雑だから」
「現実的。取り替えの話だよ」
くすり、と少年は笑い。少女に寄り添うようにして距離を縮めた。
楽しそうな、哀しそうな。複雑な色を乗せた目が、少女を見つめ柔らかく笑む。
「もしもの話だ。もしも、戻ってくるのなら。還ってくるためには、何と取り替えてもらえばいいんだろう?」
「戻ってこないよ。還ってくる事もない」
「本当に現実的だな。じゃあ、試してみる?」
とん、と。
優しく、そっと、少年は少女の背を押した。
強い力ではない。さほど力を入れずとも抗えるほどの、触れているといえるくらいの弱い力だった。
だが、背を押す力に抗う事なく、少女の体は淵へと倒れ込む。ぱしゃん、とやけに軽い音を立て、そのまま静かに沈んでいく。
水の中。くるり、と体を動かし水面を見る。
ゆらり揺らめく水面越しに、手を伸ばす少年の姿を認めて、少女はこぽり、と空気を吐き出した。
後悔しているのか。自分が押したというのに。
それとも、ようやく普段の少年に戻れたのか。
水の中に差し入れられる手から逃れるように、少女は静かに沈んでいく。
暗い。とても静かだ。少年の姿が見えなくなって、少女は水面から水底へと体の向きを変えた。水の流れなど気にもせず、底に向かい泳いでいく。
「戻った方がいいわ。彼、今にも沈んでしまいそうだから」
不意にかけられた言葉に、少女は視線を向ける。暗闇の中でもはっきりと見える、揺れる女の長い髪に、戯れるようにして手を伸ばした。
「凄く驚いている。自分が何をしたのか、その理由が分からないみたい」
目を瞬いて、上を見る。だがここからは水面は遠く、少年の姿は欠片も見えなかった。
「彼は化生になってしまったの?」
「いいえ。遠い昔の夢を見て、引き摺られてしまっただけ。ここにはもう何もないけれど、記憶はまだ焼き付いているから」
哀しげに笑い、女は少女に小さな石を手渡した。石から伝わる幻に、少女はゆるく首を振る。
水面を覗く子供の背を、そっと誰かの手が押していた。
取り替えたのだろう。だが人を取り替える事など出来るはずがない。
きっと夢を見たのだろう。取り替える事の出来ない代わりに、優しく、残酷な夢を。
「空しいね。あまりにも哀しい夢でしかない」
「ええ。だから早く戻りなさい。それから人前で沈んではいけない。妖混じりから、人混じりに認識が変われば、人間として生きて行けなくなるから」
どちらも変わらない気はするが、と少女は声に出さずに呟いて。
「分かってる。じゃあ、もう行くね」
水を強く蹴り、水面へと向かい浮上する。
水面の向こう側に、小さく少年の姿が見えた。静かに立ち上がり、その体が傾いていく。
「ちょっ、待って!」
さらに強く水を蹴り。そのまま飛び出す勢いで、淵へと倒れ込む少年の体を押し戻す。
「ぁ。なん、で。俺、俺は」
「危ないよ。一度沈んだら戻ってこれないって言ったでしょ?」
「でも、泉宮が。泉宮が、俺のせいで」
混乱し、泣く少年の背を撫でながら、大丈夫、と少女は繰り返す。驚かせてしまった事を少しばかり悔やみながら、少女は少年の手を取り、己の頬に触れさせた。
「ほら、ちゃんと生きているよ。ちょっと怖い夢を見ただけ。沈んでないよ。濡れてないでしょう?」
「ほんと、だ…あれ?でもさっき。確かに背中を押して、泉宮が水の中に落ちて」
「居眠りしてたでしょ。今日は暖かいけど、こんな所で昼寝なんかしないでよね」
次第に落ち着いてきた少年に、すべては夢だと言い聞かせる。少し無理はあるが、少女の衣服は濡れてはいない事を確かめさせれば、少年は首を傾げながらも納得し始めた。
手を離し少年に気取られぬよう、小さく息を吐く。
「私、そろそろ帰るから。また明日、学校でね」
「っ、待って!」
手を取られ、立ち上がりかけた体はバランスを崩し、少年の方へと倒れ込む。押し倒してしまった形になった事に、少女の頬は真っ赤に染まり、硬直する。
「あ、ごめん。でも、もう少しだけ一緒にいてくれない?何かよく分かんなくて。どこから夢で、どこか現実なのか。教えてほしいんだけど」
「な、に。え?何。なんで?」
「大丈夫?ちょっと落ち着いて」
宥めるように今度は少年の手が、少女の背をさする。それに頬だけでなく耳までを赤くして、少女は泣きそうに声を上げた。
「全部!全部夢だから。だから全部忘れてっ!」
「だ、大丈夫だって。ほら、深呼吸して」
暴れ出す少女を抑えながら、少年は笑みを浮かべて、次第に声を上げて笑い出す。
動きを止めて、涙目で睨む少女に、ごめん、と謝りながらも少年は笑い続ける。
「ちょっと!笑わない、で」
「ごめんって。でも何ていうか、泉宮が思っていたより可愛くて。もっと落ち着いたイメージがあったんだけど」
とんとん、と背を叩き。少年は体を起こすと、硬直する少女の隣に座り直す。
「少しだけ、話を聞いてもらえると嬉しいんだ。泉宮は夢だって言ったけど、どうしても現実にしか思えなくて」
「…今の、全部忘れてくれるなら」
視線を逸らし、小さく答える少女に笑いを堪えながら。
少女に向き合い、確かめるように、そっと少女と手を繋いだ。
「忘れるから、少しこのまま手を繋いでいていい?今、ちょっと変な感じだから、誰かに手を繋がれていたくて」
「いい、けど。本当に忘れてね!」
ありがとう、の言葉に、一つ息を吐き、少女は少年と目を合わせた。
そっと手を握り返す。少年が誰かの背を押してしまわぬように。
20250115 『そっと』
六畳の和室。それが己の世界の全てだった。
和室の中心に座り込み、虚ろな目で前を見る。
四肢の自由はなく、意思もない。
空であるが故に、言葉も持たない。
ただそこにあるだけの、人形。
「よぉ、イイコにしてたか?」
目の前の障子戸が開き、男が音もなく入り込む。
俯く顔を上げ、視線を合わせられる。
「いいねぇ。ちゃんと出来上がってる。今までの中で最高の仕上がりだ」
上機嫌に男は笑う。抱き上げられ、背後の襖戸へ歩み寄るとそのまま戸に手をかけた。
静かに戸を開く。男に抱き上げられている今は見る事は叶わぬが、その先の部屋に何があるのかは知っている。
「さて、今日はどんな衣装を着て遊ぼうか。俺のお人形さん?」
衣装部屋。或いは、歪な子供部屋。
衣桁にかけられた無数の打掛や振り袖を横目に、男は足取り軽く奥へと向かう。部屋の最奥。古めかしい三面鏡の前に己を座らせ、男は再び着物の向こうへと消えていった。
今日の遊びに使う衣装を取りに行ったのだろう。
人形遊び。
煌びやかな衣を着付けられ、紅を差されて遊ばれる事を何度繰り返したのだろうか。
思考する事が許された始めの数回以降は、記憶に留めてすらいない。
当然だ。男のための人形遊びなのだから。
中身のない、人形としてある己には何度、など思考するのは無意味だ。
己は人形遊びのために、男の手によって作られたのだから。
六畳の和室で一人、男の訪れを待ち続ける。
虚ろな目が、僅かに開いた障子戸の隙間の先を見ている。
その先は己の世界の外側だ。
見る事の叶わぬ景色。今の己にはまだ遠い、かつて見ていたような。
指先が、痙攣する。
四肢の自由はない。そのはずだ。
中身のない己には、四肢を動かす事は出来ない。
だが、手が動いた。
隙間の先に誘われるように、手が、そして足が動く。
酷く緩慢な動きで、己の意思で立ち上がった。
一歩。歩き出す。
一歩。また一歩と。障子戸へと歩いて行く。
腕を伸ばし、戸に触れて。
「何、してんだ」
己が開く前に、戸が開く。
表情を削ぎ落とした男が、戸の先に立っていた。
「何で動いてんだよ。お前の中身は全部抜き取っただろう?うまくいっていたのに、また作り直しか」
感情の乗らない男の声が、鼓膜を揺する。
揺れる。男に抜かれ、僅かにしか残らない脳が、思考する事を強要する。
あぁ、そうだ。己は人形などではない。
己は。私は。男は。
恐怖が背筋を駆け上がる。
奪われる前の穏やかな日常と、今のこの牢獄に似た永遠の箱庭の中の非日常と。
記憶が巡る。じり、と足が後退する。
逃げなければ。ここから、この男から。
私は、人形ではなく、人間なのだから。
「脳幹の一部を残したのが駄目か。調整が難しいな…にしても、中身伽藍堂でも動くもんだな。気持ち悪い」
冷たく吐き捨てられた言葉に、足が止まる。
中身がない。外側しかない己は、果たしてまだ人間なのだろうか。
あぁ、私は、本当の私、は。
「もういいわ。お前、いらない」
とん、と軽い音と共に、世界が回る。
とさり、と地に落ちて、それきり体は完全に動きを止める。
呼吸も、鼓動も、最初からなく。戻ってきた思考も直ぐに止まるのだろう。
見開いたままの目だけが、嘆息しこちらに手を伸ばす男の姿を捉えていた。
「最初からやり直しか。今度こそ仕上がったと思ったのにな」
男に引き摺られ、廊下を行く。
角を曲がり、暗がりの先の戸を開けた。
狭い部屋に積み重なるのは、人の形をした抜け殻。
男がこれまで作り続け、廃棄した人形の成れの果て。
「次はどんな人形にするか。女は衣装映えするが、脆くて直ぐに壊れるからな」
部屋の中に放られる。それを冷めた目で見ながら、男は踵を返し。
男の目が何かを捉え、歪んだ笑みを浮かべた。
「あんたでもいいな。少し草臥れてはいるが、着飾れば映えそうだ。きっと今までの人形よりも美しい、まだ見た事のない姿を見せてくれる」
甘く、熱や狂気を孕んだ声音で囁いて。
「それにあんたなら、俺も大切に出来る。永遠に遊んでいられる」
これまでを見てきた彼に近づき、頬を撫で上げる。
その瞬間、込み上げる怒りと赤く染まる視界に、弾かれるようにして飛びかかり。
衝動のまま、男の喉笛に噛み付いた。
「まったく。こんな所で油を売っていていいんですかねぃ、先生」
「こいつらがネタをくれるというから、着いてきただけだ」
提灯を手にした子供の呆れた問いかけに、男は僅かに眉を寄せ答える。
視線は目の前の二人に向けたまま。手には黒い手帳を持ち、時折何かを書き付けている。
「何ですかい、これは。随分と大層な仕掛けですが」
「ここにいた化生の趣味。壊す前にせんせに見せてあげようと思って」
人形役の少年が起き上がり、くるり、と一回転して狐の姿になる。化生役の男も起き上がると、一度体を伸ばしてから赤く染まった喉元を撫でさすった。
「本気で噛みに来る奴があるかよ。あぶねぇな」
「せんせにちょっかいかける兄貴が悪い」
「ちょっとくらいいいじゃねぇか。アレならこれくらいはするぜ」
さする先から赤が消え、噛み痕一つそこにはない。
それを見て、先生と呼ばれた男の目元が僅かに綻ぶ。どうやら心配されていたようで、それに気づいた狐の兄は、破顔して擦り寄ろうと男に飛びついた。
最もそれは、間に入った子供と、弟である狐によって叶う事はなかったが。
「お触り禁止だよ。馬鹿兄貴」
「先生は見かけの通り、細っこくて直ぐに折れてしまいやす。お手を触れないでくだせぇ」
「さすがに抱きつかれたくらいで折れんだろう」
男の呆れた言葉に、答えるモノはない。
子供と弟、そして兄。
睨み合い、隙を窺い。けれども男へと飛びつく事が出来ぬのに焦れた兄は、狐の姿へと戻るとその場でじたじたと転がり出した。
「何だよ。少しくらいいいじゃん。アレの思考を真似るの、めんどかったんだぜ。お前はただ黙って座ってるだけだから、楽だっただろうけどさぁ」
化生の行動を再現したごっこ遊び。
たまには話を聞くのではなく、実際に見た方が面白いのではないかと、狐の兄弟が考えたものだ。
化生の姿を真似、行動を真似た二人の芝居は中々に新鮮なものであったと男は充足した気持ちで手帳をしまった。
「楽しんでたんだろ。途中までせんせで想像してたくせに、この変態兄貴」
「だって、お前で人形遊びしても楽しくねぇもん」
子供のように駄々をこね出す兄に、誰かが嘆息する。
仕方がない。楽しませてくれた対価は払わなければ。
冷めた目で見下ろす子供と弟の横を通り抜け、男は転がる兄の側で膝をついた。
「せんせ、甘やかさないで」
「話のネタをもらった礼だ。これくらいなら構わない」
「やっぱせんせぇ大好き。最高」
男の膝に乗り思う存分擦り寄る兄の背を、男は無言でなで続ける。ふん、と不機嫌に鼻を鳴らす弟に視線を向け、手招いた。
「別に、おれは甘やかさなくていいんだけど。せんせが言うなら撫でていいよ」
「じゃあ来んな。あっち行け」
「うっさい。そこどいて、我が儘兄貴」
兄を蹴り落とし、弟は空いた男の膝に乗る。
頭を撫でられ、ゆるり、と尾が揺らめいた。
「先生。前にも言いましたがね。手前共を甘やかしすぎると、欲が出て堕ちてしまいやすよ」
はぁ、と息を吐いて。子供は狐を膝から下ろし、男の手を取り立ち上がらせた。
締め切りはまっちゃあくれやせんよ、と男を急かし、歩き出す。
「堕ちた手前共の手で、こんな薄暗い所に閉じられるのは、先生も嫌でしょうに」
「お前らは堕ちんだろう。この空間はお前らには似合わん」
男の言葉に、子供は笑う。狐の兄弟もにたり、と唇を歪めた。
「先生がまだ見ていないだけで御座いますよぅ。先生が見ているのは、手前共の一部だけ。綺麗な部分だけですよ」
男の手を引く。どろり、と溶け出した空間を後に提灯の明かりだけを頼りに歩く。
ですからね、と子供は甘く優しく囁いた。
「先生は、これからも締め切りを守って、綺麗な手前共の話を書いていてくだせぇ」
そのためにも、早く戻って原稿を仕上げましょうねぇ。
くすくす笑う子供に、男は何も言わず。
ただ締め切り、原稿の言葉に、嫌そうに顔を顰めた。
20250114 『まだ見ぬ景色』
ぱちん、と火の爆ぜる音。
ぐつぐつと、鍋の煮える音。
美味しそうな香り。
心地の良い、温もり。
夢見心地で目を開けた。
「おやまあ、雑煮の匂いで起きっとは。食い意地さ張っとんば、昔っから変わんねな」
「ばばさま?」
囲炉裏を挟んだ向こう側。婆と呼び慕う女性が、鍋を混ぜているのが見えた。
口元が緩む。彼女がこの囲炉裏で作ってくれる料理は、どれも絶品だった。
彼女が見えなくなってしまってから、食べる事が出来なかった特別。その味を思い出しながら、背後の暖かな何かに擦り寄る。日向にいるみたいな温もりと匂いが、とても心地好い。
此処は夢の中なのだろう。懐かしく、愛おしい昔の夢の続きを見ているのだ。
「出来るまでまだかかる。それまで婆と話すっか」
「うん。ばばさまとお話する」
「そうかい。なら、何さ望んだか、婆に教えてけんねか」
「望んだ事?」
ぼんやりとする意識の中で、考える。
少し前に同じ事を誰かに言われた気もするが、心当たりはまったくない。
望み。彼女の言うそれは、妖に対するものだろう。そしてそれは、私の知る誰かに対してではなく知らない誰かに対してなのだろう。
知らない誰かに、何かを望む。皆から、してはいけない事として教えられてきた事だ。
その忠告を破ってまで、何かを誰かに望んだ記憶はなかった。
「お天道さんさ見て、何思った」
「太陽を、見て?」
考えすぎて重くなってきた瞼を擦りながら、思い出す。
太陽。初日の出。金の翼を広げた烏。
彼と一緒に日の出を待って、昇る太陽を見て。
「丸くて、欠けた所がなくて、いいなぁ、って。私、丸くもなれないし、欠けた所ばっかりだから。大人になって皆が見えなくなる事を、仕方ないって思えないし。さよならが寂しいって素直に言えないし。全部仕方ないって言う彼に、嫌だなって思ってしまうし」
嫌いな自分を指折り数える。
大人にならなければいけないのに、出てくるのは我が儘な子供の部分ばかりだ。
泣きたくなって俯くと、背後の何かが宥めるように優しく背を撫でてくる。
温かい。嫌な気持ちが溶けていって、何だか眠ってしまいそうだ。
夢の中にいるのに、さらに夢の中へと行ってしまう。
その前に答えなければと、目を擦り、閉じそうになる瞼を必死に開ける。
「私、嫌いな所ばっかりで、太陽が羨ましくなって。でも羨ましいって思う弱い私が、嫌で、嫌いで。それで、だから」
目を瞬く。
思い出した。ようやく気づいた。
「大嫌いな私なんて、このまま消えてしまえばいい、って思った」
太陽の熱で溶かされてしまえばいいと、あの時確かに思ったのだ。
それが望みになったのか、分からないけれど。
「そうかい。じゃあ今のおめは、残った一欠片の好きで出来てんだな」
「好き?」
好き、なのだろうか。
目を閉じ、背後の誰かに凭れながら思う。
温かくて、眠くて。考えがまとまらないけれど。
「うん、好き。皆が好き。大好きな皆が好きだって言ってくれる私は、好き」
それだけは、胸を張って言えた。
夢の中でしか逢えなくなってしまった彼らに微笑んで、大好きと繰り返した。
すうすう、と穏やかな寝息が聞こえ、少女を抱いた男は詰めていた息を吐き出した。
「今の話さ聞いて、どうすんだ」
婆と呼ばれた、乙女のようにも老婆のようにも見える女は、鍋を混ぜながら男に問う。
「どうするもなにも。先ずは不安定な存在を確立しなければならないだろう」
寝入る少女を見る。こうして触れていなければ揺らいでしまう程に、少女の存在は薄い。
起こしてしまわぬよう、そっと少女の頬に触れる。熱も感触も感じられぬ事が、口惜しかった。
「一欠片でも、残ってくれて良かった」
男の隣。赤い振り袖の少女が、微笑む。振り袖の少女に賛同するように、囲炉裏端に集まった妖達が、それぞれに頷いた。
「大丈夫。この子はわたしたちを好きだと言った。それなら、わたしたちで満たしてあげればいい」
「そうさな。わしらが好きな自分が好きだ言ったんだ。簡単な事さ」
「そう、か。そうだな」
満たされた少女は、人ではなくなるのだろうけれど。
このまま一人、消えてなくなるよりは、と男は哀しげに笑った。
元より、二度と現世に返さぬ覚悟で、妖の領域に少女の住み慣れた屋敷ごと隠したのだ。今更引き返せはしない。
「家族はどうだ」
男の言葉に、誰かが鼻で笑った。
「そりゃあ、血眼になって探しているよ。屋敷の方をな」
キジトラ柄の猫が、憎々しげに吐き捨てる。
思い出すだけでも忌まわしいと言わんばかりに、しなやかな尾が床を激しく打ち据えた。
「この子は死んだ事になってるよ。山神様《あんた》に娘は見初められたって嘯いて。何か残るものがあればって、屋敷に残った金目の物を探してんだから、全くもって笑える」
笑える、というが、猫の纏う気配は鋭く、冷たい。
猫の話に、周囲の妖達も騒つき、不穏な気配を漂わせていく。
実の両親に欠片も愛されていない事実に、少女が愛し、愛された妖達は、皆己の事のように怒りを露わにした。
「どうする?このまま何もしないという訳にもいかないだろ?」
したん、と激しく尾を打ち鳴らし、猫は男に問う。
だが男は緩く笑みを浮かべ。その瞳に冷たい激情を宿しながらも、否を答えた。
「何もするつもりはない」
「何故だ?あんな腐った人間でも、情がわくのか?」
誰かが、咎めるように、嘲るように問いかける。
男はそれには何も答えず。口元を歪めたまま、くつり、と喉を鳴らした。
「そうさね。なあんもせんでいいだろうよ。それが似合いだ」
ひひ、と女が嗤う。
「そう言えば、あそこは忌地ね」
振り袖の少女が、然も今気づいたとばかりに呟いた。
「そうか」
「それならば、黙するままが正解か」
「長く苦しませる事になるだろうな。末恐ろしい」
ざわり、と妖達が嗤う。
誰しもが、眠る少女の両親の先に訪れるであろう悲劇を思い、愉しみだと囁いた。
そんな周囲を、男は肩を竦めて見渡した。
「酷い言い様だ。俺はただ、人の望みに応えるまでだ。以前あれらが望んだだろう?山を切り開くのに、我らはいらぬと。手を出すなと望んだのだから」
かつては少女の望みに応えて、山が切り開かれていくのを阻んでいた。
だが少女が此方側に来たのだから、山を守り、人を守る必要はなくなった。
忌地。かつて山には深い沼地が広がるばかりであり。雨が続く度に水が村を押し流していた事を、今を生きる人は誰一人覚えていないのだろう。
「望みには応えてやるべきだ。我らは妖なのだから」
嗤う。
低く、冷たく。嘲りを孕んだ嗤い声が響く。
ただ一人。男の腕の中で眠る少女だけは、穏やかに微笑みを浮かべていた。
20250113 『あの夢のつづきを』