sairo

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8/5/2025, 6:43:30 AM

鮮やかな青と白のコントラスト。
煩いくらいの蝉の鳴く声。時折混じる、涼やかな風鈴の音。
縁側で寝そべりながら、ぼんやりと空を見上げていた。
手探りでラムネの瓶を探る。
指先が濡れた瓶に触れ、その感覚に思わず眉が寄る。
いつの間にか随分と時間が経ってしまったらしい。手に取った瓶は、すっかりぬるくなってしまっていた。
小さく溜息を吐いて、のそのそと起き上がる。口をつけた瓶の中身はやはりぬるく、すっかり炭酸が抜けてベタつく甘ったるさしか感じられなかった。
ラムネだったものを飲みながら、ちらりと視線を隣に向ける。
細く青白い二本の足が見えて、どうしたものかとまた頭を悩ませた。



足が見え始めたのは、数日前の病院からの帰り道だったように思う。
日頃の不摂生が祟り、連日の暑さもあって気づけば病院に運ばれていた。
点滴を打たれた帰り道、背後からひたひたと裸足の足音がついてくるのに気づいた。
足を速めれば後ろの足音も速くなり、立ち止まれば足音も止まる。
意を決して振り返れば、すぐ後ろに足がいた。
子供の細い足。どこへ行っても追いかけてくる。
初めこそは怖がっていたが、ただついてくるだけの足に、いつからか興味の方が強くなった。
誰の足なのか。何故ついてくるのか。
側にいるだけで、何かを訴える様子もない。
監視するかのように側を離れない足との意思疎通を、本気で悩んでいた。



瓶の中身を飲み干して、再び横になる。
夏の陽射しは容赦なく周囲の温度を上げていくが、家の中に戻るのは億劫だった。
幸い、見上げた空に浮かぶ陽は傾き始めている。あと数時間後くらいには、陽は陰ってくれることだろう。
そんな楽天的な考えで空を見上げていれば、視界の端で隣にいたはずの足が寝転ぶ頭の上に移動するのが見えた。
相変わらず、細くて白い足だ。膝から上はどんなに目を細めても見えない。
どうすれば、側から離れない足の意図を知れるだろうか。

「――ねえ……っ!?」

無駄だと知りながら声をかけようとして、不意に額に感じた冷たい感覚に息を呑んだ。
熱を奪う冷たい何か。それが小さな手だと知って、途端に動けなくなる。
ぺたぺたと顔面を触られる。小さな手に頬を包まれ、首筋に触れられ。
そして最後に、頭を叩かれた。

「痛っ!?」

意味が分からず目を瞬いていれば、置いた瓶が倒れ、ごろりとひとりでに転がった。庭に落ちるのではなく、家の中へと転がる瓶を体を起こしてただ見つめ。
唐突に、すべてを理解した。

「――マジか」

思わず苦笑する。
ふらつきながらも立ち上がり、転がる瓶を追って家の中へと歩き出す。
向かう先は台所だろう。足早に瓶に追いついて回収し、そのまま台所へ向かった。



台所に入り、冷蔵庫を開ける。
中から作り置きの麦茶を取り出して、コップを出し注いだ。
一気に飲み干せば、体の内に籠もる熱が冷えていくような気がした。残っていた熱を吐き出すように息を吐いて、もう一杯、麦茶を注ぐ。
かたん、と不意に音がした。
振り向くと、テーブルの椅子が引かれている。椅子に座る幼い少女の下半身を見て、小さく笑った。
麦茶のボトルを冷蔵庫に戻し、代わりにラムネの瓶を取り出した。
テーブルに麦茶のコップと瓶を置いて、瓶の栓代わりのビー玉を落として蓋を開ける。
無言でこちらを見つめる半透明の少女の前に瓶を置き、その正面の椅子を引いて自分も座った。

「なんていうかさ……その……」

気恥ずかしさに、上手く言葉が出てこない。
誤魔化すように笑ってみせれば、瓶に口をつけた少女がじとり、とこちらを睨み付けた。
その目の強さに口籠もり、おとなしく黙って麦茶を飲んだ。
無言。だがその空間に少しも気まずさを感じないのは、少女の優しさを知っているからだ。
お節介だなとは思うが、それが自分の自堕落さ故のことだと思うと、申し訳なさが勝る。
こうして成長しても世話を焼かせている自分に呆れて、自然と言葉が出た。

「いっつも迷惑かけてごめん……でもありがとう、お姉ちゃん」

呆れた溜息。
かたん、と椅子を鳴らして立ち上がり、姉はこちらに近づくと容赦なく足を叩いた。

「痛っ!」

痛がる自分を見上げて笑い、姉は静かに消えていく。
残ったのは、半分残ったラムネの瓶。

「少しくらい手加減してくれてもいいのに」

ぼやきながら、瓶を手に取る。残ったラムネを口にして、口の中で弾ける感覚に笑みが溢れた。
縁側で飲んだぬるさはない。
きんと冷えた、少しだけ炭酸の抜けたラムネに、姉の優しさを感じてほんの少しだけ視界が滲む。
炭酸が苦手で、それでも興味のあった幼い頃。こうして姉が半分残してくれたラムネだけは、残さず飲み干せたのを思い出す。
思えば調子が悪いことに、いつも最初に気づくのは姉だった。寝込んでいる自分の世話を焼くのも、両親よりも姉の方が多かった。

「しっかりしないと」

何度目かの決意をしながら、ラムネを飲み干した。
からん、と中のビー玉が音を立てる。

今年の夏は暑くなるらしい。
空になった瓶とコップを片付けながら、縁側で見上げた青い空と強い陽射しを思い出す。
夏が来たのだと、今更ながらに実感した。



20250803 『ぬるい炭酸と無口な君』

8/4/2025, 9:37:51 AM

夕暮れの砂浜に座り、一人海を見つめていた。
穏やかな波の音。磯の匂い。
この海は、昔から何も変わらない。
夕陽を反射して、波が煌めいた。揺らぐ赤に、何故か胸が締め付けられる。

幼い頃。この海で誰かと遊んだ記憶がある。
その誰かを覚えていない。顔も名前も、何もかもを忘れてしまった。
ただ、その子と過ごした時間が、とても幸せだったことだけは覚えている。
時間を忘れて遊び、帰るのを泣いて嫌がることもあった。
はぁ、と小さく息を吐いた。思い出そうとしても、思い出せないことがもどかしい。
こうして何度も海に足を運んでも、一人という空しさばかりが込み上げる。

そっと、砂を掻いてみた。僅かに残る記憶の欠片を手繰り寄せるように、砂の城を築いていく。
大きくなったら、本物の城を築くのだと言っていた。それは自分だったのか、それとも相手だったのかまでは思い出せない。
大きくなったら。大人になったら、大きな城で二人一緒に――。

溜息を吐く。
記憶のそれより拙い城をしばらく見つめ、その側に指で文字を書いた。

――会いたい。

覚えていない誰かに向けた、たった一言だけの手紙。
宛先のないそれを一瞥して、静かに立ち上がる。
海へと視線を戻せば、夕陽はもう海へ沈みかけていた。
帰らなければ。緩く頭を振って、海に背を向けて歩き出す。

ふと、振り返る。
遠く視界の端で、砂の城が波に崩されていく。
ゆっくりと崩れ消えていくその城は、まるで自分の記憶のようも見えた。



中々寝付けずに、何度目かの寝返りを打つ。
夕方、海へ行ったせいだろうか。酷く心が騒ついていた。
浮かぶ海の景色に溜息を吐く。寝ることを諦めて、ベッドから抜け出した。

窓へと歩み寄り、カーテンを開ける。
満天の星空と、窓越しに微かに聞こえる波の音。
いつもと変わらない夜の光景。
ただ一つを除いては。

「何、あれ……?」

僅かに見える海に、淡い光が浮かんでいた。ひしめき合ったいくつもの光が、波に漂っている。

この時期、夜の海に行ってはいけないと言われていることを思い出した。
あの光は、禁止されている理由なのだろうか。
少しだけ悩み、それでも気になって部屋を抜け出した。



生暖かい風が、剥き出しの肌を撫でていく。
その不快さに眉を寄せながら、光の方へと向かった。

波間に漂い、ひしめく光。
ゆらゆらと揺れるそれが、近づくほどに形をはっきりさせ、思わず足を止めた。
囁く誰かの声が聞こえる。波の音と相俟って、辺りに響き渡る。
ふと、夕方に作った砂の城の側で、誰かが立ち尽くしているのが見えた。
こちらを向いて、大きく手を振っている。見覚えのないその人影に、ぞわりと背筋が寒くなった。
無意識に後退る。それに首を傾げて、人影は手を下ろすとゆっくりとこちらに歩み寄ってくる。

「手紙をありがとう」

知らない声が、礼を言う。
覚えのないそれに眉を寄せ、遅れてそれが砂に書いた文字だと気づく。
同時に理解した。
会いたい、と。ただ一言だけの、砂に書いた手紙。
それが波に攫われて、知らない誰かに届いてしまったのだ。
「会いに来たよ。一緒にいこう」

人影が笑う。
逃げなければと、思考は警鐘を鳴らす。けれども、体は少しも動かない。
瞬きすらできず、人影が近づき手を伸ばすのをただ見つめ――。

不意に、目を覆われて何も見えなくなる。
塞ぐそれは、誰かの手だ。びくりと肩を震わせるが、やはり体は動かない。
見えない代わりに鋭くなる聴覚が、波の音を拾う。だが、先ほどまで聞こえていた囁きも、近づく人影の声も聞こえない。
ざざ、と波が寄せ、引いていく。繰り返すその音に耳を澄ませる内に、次第に強張る体から力が抜けていく。
ほぅ、と息を吐いた。後ろにいる誰かが、崩れそうになる体を支え、そのまま後ろに体の向きを変えさせられた。
くすり、と耳元で密かに笑う声がした。どこか懐かしさを感じる声に、恐怖とは違う感情で肩が震える。

「――もう、大丈夫」

柔らかな声と共に、目を覆う手が外される。
代わりに手を繋がれて、海から離れるように歩き出した。



「あれだけ、夜の海に行ってはいけないと大人たちから言われたのに」

どこか呆れを滲ませた声に窘められる。

「ごめん」

軽く俯いて、小さく謝った。
少し先を行く、誰かの背中。知らないはずなのに、何故こんなにも懐かしいと思うのか分からず困惑する。
自分よりも高い背。大きな手。記憶にはないはずだというのに、懐かしい。
切なくて、苦しくて。名前を呼べないことが、ただ寂しかった。

「お城と手紙、ありがとう。忘れても、会いたいって思ってくれて、約束を僅かでも覚えてくれていて、嬉しかった」

振り返りも、立ち止まりもせずに、誰かは言う。

「だから会いに来た。一人残されて苦しいままで終わった君を、連れていくために」

思わず立ち止まる。
手を引く誰かも立ち止まり、ゆっくりと振り返った。

「――ぁ」

懐かしい面影。
彼を知っていた。忘れていた記憶の底に、彼はいた。
一緒に遊んだ、海の記憶。一夏だけの、大切な思い出。

「お兄、ちゃん……」
「それにしても、随分と酷いことをする。この子は何も知らなかったのに。無知すら罪だとするなんて……なんて傲慢なんだろうか」

彼が悲しく笑う。
繋いでいた黒に染まった手を、慈しむように撫でられた。

「苦しかったね。でも、もう大丈夫だ」

彼が触れる黒が色をなくしていく。反対の手も取り黒をなくして、彼はまた手を繋いだ。

「行こうか」

そう言われて首を傾げた。
家に帰るのだろうか。そう思い辺りを見渡して、いつの間にか知らない場所を歩いていたことに気づく。
困惑して彼を見れば、優しく頭を撫でてからある一点を指差した。

「――お城?」
「約束したからね」

白い道の先に、黒の城が建っていた。陽炎のように揺らぐ城は、いつか二人で作った砂の城によく似ていた。

「あの擬きが馬鹿なことをしなければ、もっと時間をかけて作ってあげられたのだけど。足りない所は、二人で作っていこうか」
「作る?……ここに、一緒に住むの?」

問いかければ、彼は頷いて歩き出す。

「そう。人として終を迎えたら、一緒にいるって約束を交わしたから」

そういえばと、掠れた記憶を思い出した。
指切りをしたのだ。海を統べる兄と慕った彼と、遠い未来の約束を。
離れたくないと駄々をこねた自分に、僅かでも覚えていたのならと条件をつけて、優しい彼は約束をくれたのだ。
思い出して、笑みが浮かぶ。

「――ようやく、死ねたんだ」

呟いた言葉は、自分でも驚くほどに穏やかだ。

「報復を望むかい?人間に作られた存在でありながら、祟りを引き起こしたその愚行……巻き込まれた君には、裁く権利がある」

彼の言葉に首を振る。
これ以上、関わりたくはない。
どんな形であれ、縁《えにし》を結びたくなかった。

「忘れてしまいたいからいい。ただ、一緒にいてほしい」
「そうか。なら一緒にいよう。これからずっと……どちらにせよ、あれは朽ちる先しかない」

繋ぐ手に、力が籠もる。

「会いに来てくれて、ありがとう」
「どういたしまして。こちらこそ、書いてくれてありがとう。波がさらった手紙は、ちゃんと届いたよ」

微笑んでこちらを見る彼に、笑みを返す。

心は酷く穏やかだ。
苦痛に苛まれながら、一人置いて行かれた寂しさに耐える日々は終わったのだから。



20250802 『波にさらわれた手紙』

8/3/2025, 8:14:29 AM

蝉時雨響く、八月の初め。
山門を潜り、今年もまた幼馴染みの元へ来た。
照りつける陽射しが境内の石畳を灼いている。その熱さから逃げるように、旅行鞄を抱えて足早で奥へと向かった。
寺務所や母屋へは向かわない。避けるように迂回して、直接離れへと足を向ける。

「――来たよ」

小さく呟きながら、玄関を開ける。
ひやりとした空気が吹き抜ける。沈香の荘厳な香りが鼻腔を擽る。
戸を閉めると、奥から幼馴染みが現れた。

「久しぶり。今年も来たんだね」

浮かべる微笑みは、どこか悲しげだ。

「暇だったからね」

それに気づかない振りをして嘯く。
靴を脱いで上がれば、幼馴染みはそれ以上何も言うことはなかった。
先導するように廊下を歩く。
その変わらない背を見ながら、今年も会いに来てしまったことに、そっと目を伏せた。



毎年八月になると、この村では寺の離れに子供を滞在させる風習があった。
生者と死者が交わる時期。
時間と空間が歪むのを、正しく留めるためだと大人たちは言っていた。

「長旅、お疲れ様。少し休んできたら?」
「そうする。早く荷物を置きたいし」

苦笑しながら幼馴染みと別れ、毎年使う部屋へと向かう。

障子戸を開けて中へ入り、鞄を投げ出すように降ろした。
横になり、深呼吸をする。い草の匂いに混じり、沈香の香りがして目を閉じる。

「今年も、来た」

確かめるように呟いた。
何度も悩み、今年こそはと思った。それでも気づけば電車を乗り継ぎ、バスを待っていた。
誰もいない道を寺に向かい歩きながら、引き返そうと何度も思った。
もしかしたら、今年こそは他の子供たちが担うのかもしれない。そんな淡い期待を最後まで捨てきれなかった。
そんな期待など無意味だと、誰よりも知っているというのに。
一人自嘲し、村の様子を思い出す。
昼間だというのにしんと静まりかえった村は、まるで死んでいるようだった。
子供の姿もどこにも見えない。
ここにいるのは、大人ばかりだ。

「少し、寝よ」

緩く首を振って思考を散らす。
この離れで過ごす夜は長いのだ。今の間に、少しでも休んでおきたかった。



ふと目が覚めると、外はとっくに陽が落ちて、夜の闇に沈んでいた。
急いで起き上がり、時計を確認する。
二十一時。

「――寝過ごした」

軽く舌打ちして急いで部屋を出る。
灯り一つない廊下は暗く沈んでいるが、一時とはいえ何年も過ごした場所だ。向かうべき奥座敷へは苦もなく行ける。
急がなければ。
幼馴染みの悲しい笑みが脳裏に過る。逸る心を抑えながら、廊下を駆け抜けた。



襖を開け、奥座敷へと足を踏み入れる。
暗く静かな部屋とは対照的に、縁側に続く障子の外からは複数の声が聞こえた。
何かを嘆く声。苦悶に呻く声。
怒る声。恨む声。

「ごめん。寝過ごした」

それを気にせず戸を閉めて、座敷の中心に座る幼馴染みの元へ足早に近づく。
俯く幼馴染みは、体を震わせながらきつく手を握り締めている。声が聞こえる度に小さく声が漏れ、身を屈めて自身の肩を抱きしめた。
悲鳴を噛み殺し、何かに必死に耐えている幼馴染みに、唇を噛みしめた。
遅れた後悔に、ごめんと繰り返し。膝をついて、そっと幼馴染みへ手を伸ばした。

「そのまま、寝ていてくれても良かったのに」
「ばか」

か細い声に眉が寄る。言いたいことを飲み込んで、自身の腕に爪を立てている冷たい手を剥がし、自分の手と繋いだ。

「――っ」

途端に脳裏に流れ込む映像に、顔を顰めながら耐える。

それは、どこかの部屋。
床に伏せる自分の周りを取り囲む、大人たち。

「財産は……」
「こんな田舎……」

障子の向こうの声が、映像と重なる。
険しい顔をした周りが、声を抑えようともせず、金銭のことについて話している。
不意に、その内の一人がこちらを見下ろした。
侮蔑や嘲りを隠そうともしないその表情。苛立ちながら口を開いた。

「何の価値もない。家にも、親父にも……せめて、周りに迷惑かけず、さっさとくたばっちまえばいいのに」

伸びる手を視界に入れて、避けるように幼馴染みの手を離した。

「――っ、あ……ぅ……」

荒い息を吐きながら、額に滲む汗を拭う。
きつく目を閉じ、今見た記憶を散らす。
ゆっくりと呼吸を繰り返す。
まだ、一つ目だ。日付も変わらない内から、休んでいる暇はない。
そう自分に言い聞かせ、滲む涙を乱暴に拭う。
目を開けて、もう一度幼馴染みの手を取った。
拒むように引かれる手を、離れないように強く繋ぐ。そっと寄り添って、目を閉じた。

流れてくる誰かの記憶。
顔を顰め耐えながら、それでも今度は手を離さないようにと指を絡めた。

「――離して」

流れる記憶の合間に聞こえる幼馴染みの声に、首を振る。
返事の代わりに、幼馴染みの肩に凭れた。
こうして自分がいくつか受け入れなければ、記憶のすべてが幼馴染みを苛むのだろう。そんなこと、認められはしなかった。

「大丈夫だから。だって……」

それ以上を言わせないように、強くしがみつく。言われた所で自分の思いは変わらないが、この不安定な関係が請われてしまうのが怖かった。
幼馴染みは知らない。自分が全部知っていることを。
知らないから離そうとする。一人きりで、この地獄を耐えようとしている。
けれど、知っているのだと告げることはできなかった。

「ばか」

一言だけ告げて、新たに流れてきた記憶に耐える。
赤い空。鳴り響くサイレン。
手を繋ぎながら、必死に炎から逃げ続けた。
その手だけは、最後まで離すことはなかった。

手を強く握る。この手を離してはいけない。
すべて知って、敢えて自分はここにいるのだから。

「ごめんなさい」

謝る幼馴染みの言葉に、謝るのは自分の方だと口には出さず思う。

知っている。
この時期、子供が離れにいなければならない、本当の意味を。
大人の言葉はすべてでたらめだ。
自分たちは身代わり。
こうして訪れる、死者の記憶の受け皿だ。

沈香の香りが鼻につく。
幼馴染みの冷たい体に熱を奪われ、体が震え出す。

知っている。
幼馴染みが、もうこの世にはいないことを。
流れてくる記憶の中で見てしまった。
精神を病んでいた。長く受け皿として在り、死の記憶に晒されて、苦しんでいた。
奥座敷で揺れる体。その手には、二人で取った写真が握られていた。
けれど幼馴染みは、死んだ後も解放されなかった。受け皿として、今もこの離れに留められている。

すべて知っている。
知っていて、何も言えないでいる。言ってしまえば、二度と幼馴染みに会えなくなるかもしれない。その不安から、気づかない振りを続けている。


ここに来ることを、何度も迷った。いなくなった幼馴染みの幻と共にいることの意味を考え続けていた。
一年間。迷って、悩んで。そしてここにいる。
来年もまた、訪れるのだろう。
幼馴染みのためではない。況してや村のためなどでもない。
ただ、幼馴染みに会いたい。

その想いで、来年の八月もこの離れを訪れるのだろう。



20250801 『8月、君に会いたい』

8/2/2025, 9:26:17 AM

彼女の吹く篠笛の音色は、夜の闇に溶けていく。
花の咲かない百日紅の木に凭れ、静かにその音色を聴いていた。
夜はまだ明けない。
朝が来れば、別れの時が訪れる。近づくその時を拒むように、体は僅かにも動こうとしなかった。
不意に音が途切れる。見上げれば、木の枝に座りこちらを見下ろす少女と目が合った。

「帰らないの?」

静かな声が、問う。
視線を逸らし、無言で首を振る。この際後の夜は、彼女と共にいたかった。
彼女はそれ以上、何も言わず。篠笛の音もなく、不思議な静けさが辺りに満ちていく。
何も聞こえない。虫の音も、夜啼く鳥の声も、何一つ。
まるで世界から、彼女と自分だけが切り離されてしまったようだ。
空を見上げる。瞬く星々に、このまま時が止まってしまえばと願いかけ、自嘲した。

「月日が経つのは早いものだ。あの生意気そうな少年が、瞬きの間にこんなにも立派に成長するのだから」

楽しげな、懐かしむような声に、彼女へと視線を向ける。穏やかな笑みを浮かべて遠くを見る彼女は、何一つ変わらない。

「あんたは、変わらないな」

姿も、笛の音も。誰かを想い、切なげに揺れるその目も何もかもが、出会った時のままだ。

「初めて会った時から、何も変わらない……結局、花は咲かないままだったか」

目を伏せて、昔を思う。初めて彼女と出会った時も、夏の陽気を引き摺った、こんな暑い夜だったと思い出した。



丘の上の百日紅の木。
花の咲かないその木には、ある噂があった。

――夜になると、女のか細い悲鳴が聞こえてくる。

学校の生徒や、大人たちも聞いたことがあるという。
幽霊などいるはずがない。ならばそれは風の音など、何か別の音を聞き間違えたのだろう。
しかし何人もの人が聞いたというのが、興味を引いた。
その時の自分は、何も考えてはいなかった。ただその正体を見破りたくて、とある夏の夜に百日紅の木へと向かったのだ。

熱く湿った空気が纏わり付く、そんな暑い夜だった。
離れていても、耳を澄ませば微かに聞こえる高い音。それは悲鳴ではなく、祭などで聞く笛の音だと気づいた。
甲高く、それでいてもの悲しい旋律。訳もなく胸が苦しくて、気づけば木の元へと走り出していた。

「――ぁ」

見つめる先の光景に、思わず立ち尽くす。
木の枝に座り、笛を吹いていたのは、自分よりもいくつか年上に見える少女。
夜に浮かぶ白の着物。長い黒髪。
幻想的な光景に目を奪われる。ふらふらと彼女に近づけば、笛の音が止んだ。

「誰?」

見下ろす彼女の目は、揺らぐ炎のように赤い。

「こんな夜更けに外に出ているなんて、とっても悪い子なんだね」

くすり、と笑われて、見入っていた自分に赤面した。

「あんたは、誰だ?」

彼女の問いに答えず、逆に問い返す。
恥ずかしさから睨み付けるような格好になってしまったが、彼女は気にする素振りを見せない。穏やかに微笑みを湛えて、座る枝をそっと撫でた。

「この百日紅の木だよ」

あぁ、と納得する。
幽霊など信じていなかったが、彼女は木の精だと心から思えるほどに美しく、そして儚かった。

「夜になると聞こえる女の悲鳴は、あんたの笛の音のこと?」

きょとり、と彼女の目が瞬いた。悲鳴、と首を傾げながら呟いて、次第にくすくすと声を上げて笑い出す。

「悲鳴……悲鳴かぁ。私もまだまだだということだな」

可笑しくて堪らないというように、ただ笑う。
けれどその笑みが、どこか悲しげに見えて、意味もなく胸が苦しくなった。
耐えきれず、何も言わずに家へと駆け出す。背後から彼女の驚いた声が聞こえた気がしたが、足は止まることがなかった。



今でも鮮やかに思い出せる。
彼女の姿も、あの時の思いも、何もかもが胸を熱くさせる。

「最初に会った時が、昨日のことのようだよ。急に駆け出すものだから、気を悪くさせてしまったかと驚いた……もう来ないかと、そう思っていたのにな」

目を閉じ、夜風に吹かれながら、確かにと密かに同意する。
正体を見破ったのだから、彼女の元へ通う必要はどこにもなかった。
それでも通わずにはいられなかった。あの悲しげな笑みを、夜に一人、篠笛を吹く意味を知りたかった。

「あんたの奏でる音色が、気に入ったからな」

正しくも謝りでもない言葉を紡げば、彼女の密やかな笑い声が聞こえた。
ややあって、笛の音が聞こえ始める。その音色を聴きながら、今まで彼女と過ごしたこの夜の一時に思いを馳せた。



何度も彼女の元へと足を運んだ。
彼女は呆れた目をしながらも、笑って何も言うことはなかった。

夏の夜に始まり、秋を過ぎ、冬を越えて。春が来て、一年が過ぎ、気がつけば何年もの年月を彼女と共に過ごした。

あれは夏の終わりの頃だっただろうか。
彼女に花が咲かない理由を聞いてみたことがある。

「そうだねぇ。どうしてだろうな。気づけば花が咲かなくなっていたから、よく覚えてはいないな」
「病気なのか?どこか悪い所があったりするんじゃないのか?」
「違うさ。見ての通り、体の方はこんなにも丈夫で立派だろう……問題があるとすれば、木じゃなくて心の方だろうね」

目を細めて、彼女は遠くを見る。自分の知らない誰かを思い描いているのだろうか。
胸が苦しくなる。その痛みが恋だと知ったのは、ずっと後になってからだった。

「忘れられれば、正しく思い出にできるのなら、また花は咲くのだろうけどね」

そう呟いて、彼女は笛を吹く。
その旋律は、変わらずどこかもの悲しさを含んでいた。



不意に明るさを感じ、目を開け顔を上げた。
遠く東の空が白んでいる。
朝が訪れようとしていた。

「さて、そろそろお別れだ。楽しい時間をありがとう」

笛の音が止まり、彼女が囁く。
見上げる彼女の姿は薄れ、朝陽に消えようとしている。
立ち上がり、手を伸ばした。目を瞬く彼女の手を掴んで、強く引き寄せた。

「なっ、ちょっと……!」
「最後くらい、一緒にいてほしい」

呟けば、彼女の抵抗が弱くなる。
羽根のように軽い彼女を抱き上げ、歩き出す。丘の上、朝陽が一番近くで見える場所へと向かい、彼女を抱いたまま白む空を見上げた。

「――聞いてもいいか?」
「なに?」
「なんで、朝陽を嫌うんだ」

それは、ずっと気になっていたことだった。
彼女は陽の沈んだ後に現れ、陽が昇る頃に消える。
陽を厭う理由は、自分の知らない誰かと関係があるのだろうか。

「――戻ってこなかったからね」

小さく呟く彼女の声は、震えていた。

「別に、約束をしていた訳じゃないんだ。ただ、私に水を与え、篠笛を教えて……いつものように朝陽と共に去って、そのまま」

彼女の頬を、滴が伝う。その目は悲しみを湛えながらも、愛しげに揺れる。
今も待っているのだろう。戻らぬと知りながら、思いを止められずにいる。
愛おしいと思う。彼女のその一途さは、とても美しい。だが同時に、今を見ようとしない彼女の頑なさを憎らしくも思った。

「――そろそろ、陽が昇る」

込み上げる思いを押し殺し、呟いた。
白から赤、そして青へと変わっていく空を一瞥し、そっと彼女を覗いみた。
消えずに色を戻した彼女は、静かに空を見上げている。
その目は涙の痕跡を僅かに残しながらも、穏やかに凪いでいる。目を細め、昇る陽を見つめた。

「眩しいな」

優しい声音。そっと彼女を地に降ろす。

「約束でもするか」

そう告げれば、驚いたように彼女は振り返る。

「あんたが待つ誰かは、何も言わなかったんだろう?なら、俺はあんたと約束してやる」
「約束……」

彼女の顔が泣きそうに歪む。それに気づかない振りをして、彼女の前に跪いた。

「俺は必ず戻ってくる。どんなに時間がかかろうと、どんな形になろうと……陽を連れて、あんたの元に戻ってきてやるよ」

真っ直ぐに彼女を見上げる。ひゅっと息を呑む彼女の手を取り、笑ってみせた。

「いつの間に、狡さを身につけたのやら」

呆れたように微笑みながら、彼女はまた一筋涙を溢した。
立ち上がり、その涙を拭う。そっと抱き寄せれば、彼女は小さく息を吐いた。

「私には陽の光は眩しすぎるよ……眩しくて、咲いてしまいそうだ」

その言葉と同時、強く風が吹き抜けた。
思わず目を細める。彼女の姿が掻き消えて、はっとして、背後を振り返った。

「――あぁ、綺麗だ」

風に吹かれ、満開の薄紅が揺れていた。
篠笛の音。高らかに澄んだ音色を響かせる。
胸が苦しくなる。泣くのを耐えて微笑んで、ただ花を見つめる。
記憶に焼き付けるように。戻る時の導となるように。
陽の光を浴びて煌めく、百日紅の花に改めて誓う。

「必ずかえってくる。だからどうか、この美しい花と旋律で、俺を導いてくれ」

襟を正し、深く礼をする。

「いってくる」

微笑んで彼女に背を向けた。

陽は昇り、朝が訪れた。
心は酷く穏やかだ。心残りなどはなく、足取りに迷いはない。
不意に空を見上げた。眩い陽に目を細め。
だが彼女の笑顔の方が余程眩しいと、柄にもないことを思い、一人笑った。



20250731 『眩しくて』

8/1/2025, 6:29:37 AM

暗闇の中、太鼓の音が鳴り響いていた。
その音に導かれるようにして、少年はそっと目を開く。
いくつも連なる提灯の灯り。夜道を淡く照らし、奥へと誘う。
夜祭りだろうか。左右に並ぶ屋台からは、香ばしい匂いが漂っていたが、不思議なことに、どの屋台にも人影はない。
祭を楽しむ気配すら感じられなかった。

ふと、太鼓に混じり、甲高い笛の音が聞こえた。
どこか不安を誘う、その旋律。鼓動のように一定の間隔で響く太鼓の音と混じり合う。
その音の方へ、少年はじっと視線を向ける。
その目は恐怖を色濃く浮かべながらも、強い意志を湛え。
やがて少年は目を閉じ、深く呼吸をする。心の中でゆっくり十数えて、再び目を開けた。
静かに歩き出す。
まだ幼いはずの少年にしては、不釣り合いなほどしっかりとした足取りだった。



太鼓と笛の音に誘われ辿り着いたのは、大きな神楽殿のある開けた場所だった。
大勢の顔の見えない観客が、舞台を取り囲む。面を被った奏者たちが、途切れることなく音を奏でている。
その中心で、男が一人舞っていた。
だが、その動きは酷く鈍い。呼吸は荒く、今にも倒れてしまいそうなほどだ。
男が動く度に、汗が舞台に滴り落ちる。あるいはそれは、男の涙だったのだろうか。
笛が一際高く、鋭い旋律を奏でる。
太鼓が力強く打ち鳴らされるが、男の体はもう持たない。
膝をつき、地面に手をついた。
太鼓の音が止まる。
笛が、悲鳴のような高音を一つだけ響かせ、沈黙する。
聞こえるのは、男の荒い呼吸のみ。
それすらも、次第に浅くか細くなっていく。

不意に、舞台の暗がりが蠢いた。
ぞわり、と黒い影が男の足に絡みつき、沈めていく。

「あ……あぁ、まだ……いやだっ……!」

男は怯えた様子で、這いずりながら舞台から逃げようと踠く。
だが沈む足は止まらず、男の体はゆっくりと舞台に呑まれていく。

「助けて……助けてくれ……まだ、終わりたくない……誰か……」

男の悲痛な叫びを、誰一人聞こうとしない。
必死に伸ばされた手を取るモノはない。
走者も観客も、微動だにせず。
ただ、男の終焉を静かに見つめていた。

「どうして……こんな……」

小さな嘆き。
掻き消すように一度だけ、太鼓の音が響く。
それを最後に、男は舞台に呑まれて消えた。



「次は坊主の番だな。舞台に上がってくれ」

不意にかけられた声に、少年の肩が小さく震えた。
ゆっくりと視線を巡らせる。
舞台の上の奏者が、観客が、少年が舞台に上がるのを待っていた。
震える足に力を入れて、少年は舞台に歩み寄る。
階段に足をかければ、太鼓の枹を手にした男が目の前に立った。

「坊主はまだ七つになってないのか。なら、舞台に上がらなくてもいいぞ」

そう言われて、逡巡する。だが静かに首を振り、少年は足を進めた。

「そうか。なら励むことだ……よく聞け。オレの打ち鳴らす音は、坊主の鼓動だ。途中で止まれば、オレも手を止める。そうすれば終わり。一回きりだ……もし、苦しくて諦めそうになるなら、笛の音を聞け。あの音は、坊主が聞いている音だからな」

ちらりと枹を持つ男が、笛を持つ男に視線を向ける。
笛の男はひとつ頷いて、旋律を奏で始めた。
柔らかな音色。しかしもの悲しい旋律に、少年はそっと胸に手を当て目を閉じる。
聞こえる音は次第に少年の中で形を変え、声になった。
ぼんやりとして、言葉として聞き取れない。それでも悲しみ祈る声が、少年の鼓動に熱を持たせた。
笛の音が止まり、少年は目を開ける。
階段を上がり、舞台に立つ。
枹を持つ男もまた、太鼓の前に立ち。
枹を構えながら、不意に少年へと視線を向けて、言葉をかけた。

「坊主。約束はあるか。何でもいい。未来の約束だ」

問われて、少年は首を傾げる。
ややあって、はっきりと頷いた。

「じゃあ、問題ない。坊主は戻れるだろうよ――さぁ、始めるぞ」

力強く、太鼓の音が打ち鳴らされ。
少年は静かに舞い始めた。



太鼓と笛の音に合わせ、少年の手足が動く。
正しい舞い方などはない。心の赴くまま、鼓動の示すままに、只管舞い続ける。
息が上がる。体が重くなり、足が縺れそうになる。
それでも止まらない。少年の目は光を失わず、強く足を踏み鳴らした。

――元気になったら、海を見に行こうか。

両親の言葉を思い出す。
海を見たことのない少年のための約束。
元気になると答えた、あの日の鼓動の高鳴りは、今も忘れたことがなかった。

笛が高らかに旋律を奏でる。
息苦しさに視界が滲む。動きが次第に鈍くなる。
歯を食いしばり、重だるい腕を上げて、くるりと回った。

――誕生日プレゼント。楽しみにしてろよ。

兄の笑顔がよぎる。
明日に控えた誕生日を、兄は祝ってくれると約束した。
ケーキとお菓子と、そしてプレゼント。聞いても教えてくれなかった中身が、楽しみだった。
その時に感じた温かな熱が、じわりと胸に広がる。

一層力強く、太鼓が打ち鳴らされる。
少年の動きはもはや舞うというよりも、辛うじて動いているといった方が正しい。
震える足が何度も止まりそうになり、眩む視界は何も映さない。
胸が痛む。呼吸ができない。
それでも――。
浅い呼吸を繰り返し、限界を訴える体を動かして、少年は必死で踠き続けた。

――また、明日ね。

少年よりも幼い少女との約束が思い浮かぶ。
たくさんの管に繋がれ、それでも笑みを絶やさない少女。一日の終わりに必ず交わす指切りが、痛みとは違う鼓動となって少年を奮い立たせた。
些細な約束。けれどそれは、互いにとって決して破ってはいけない、生きるための楔だった。

いくつもの未来の約束が、少年の中で熱を持つ。それは体中に広がり、熱い鼓動となって少年に力を与えた。
笛の音が響く。太鼓が打ち鳴らされる。少年が力強く舞う。
舞台に光が差し込んだ。提灯の淡い灯りとは異なる、鋭い光。その暖かさに、少年は最後の力を振り絞り手を伸ばす。
見えない誰かが少年の手を掴み、引いた。光はさらに強くなり、その眩しさに耐えきれず少年は目を閉じた。
強く、激しく。太鼓が打ち鳴らされる。
抗うこともできず、そのまま意識は深く沈んでいった。





目が覚めると、少年は病室のベッドでたくさんの管に繋がれていた。
涙で赤くなった目をして、兄が笑う。その後ろでは、静かに泣く母の肩を抱いて、父が目元を潤ませながら微笑んでいた。

「おかえり。頑張ったな」

兄に頭を撫でられて、少年は目を細めた。
とくとくと、自身の鼓動が強く感じられる。それは太鼓の音のように聞こえて、少年は目を瞬いた。
長い夢を見ていた気がする。しかし夢から覚めてしまった今はもう、何も思い出せない。

「七歳の誕生日、おめでとう。プレゼント、楽しみにしてろよ」

兄の言葉に、あ、と小さく声を上げる。
誕生日。今日で七つになったのだ。
とくん、と鼓動が跳ねる。遠くで、力強く太鼓が打ち鳴らされた気がした。
胸に手を当てる。ふわりと微笑んで、少年は家族を見つめ。

「――ただいま」

神の手を離れ、現世に戻ってきたのだと、誇らしい気持ちで帰還の言葉を告げた。



202507230 『熱い鼓動』

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