「いいなぁ」
流れていく笹舟を見つめながら、無意識に呟いていた。
たくさんの願いを込めた形代が笹舟に乗って川を流れていく。
その一つに、懐かしい気配を感じた。大好きだった人と守りたかった人の血を継ぐ幼い子の無邪気な願い。吸い寄せられるようにふらふらと、笹舟を追って歩き出す。
幸せでいるのだろう。離れていても暖かな思いが伝わってくる。
「いいなぁ」
繰り返して、その言葉の響きの可笑しさに笑う。
まるで羨んでいるみたいだ。妹の側にいた時、いつも口にしていたことを思い出す。
お姉ちゃんなのだからと母に言われるたびに、何度も反発していた。妹ばかりずるいと駄々をこね、母を困らせていたのも今では大切な思い出だ。
そんなことを思いながら笹舟を追いかけていれば、いつの間にかその笹舟は他と離れてしまっていた。川の流れに乗り、時折逆らうようにふらふらと笹舟は揺れ、浅瀬に乗り上げて止まってしまう。
苦笑して、笹舟を拾い上げる。どこまでも自由な舟に、妹の姿が重なった。
「そういうところはお母さんじゃなくて、お父さんに似たらよかったのに」
妹ではなく先輩に似ていれば、しっかりとしてくれていただろうに。笹舟に対して思うことでもないが、つい考えてしまう。小さく溜息を吐いて、そっと笹舟を拾い上げた。
川の流れに戻してやらねば。形代に移した穢れが戻っていってしまう。
手のかかった妹の、手のかかる子。くすくす笑いながら川下へ移動し、身をかがめた。
「行ってらっしゃい。気を付けてね」
玄関先で見送る彼女に、いつものように笑ってみせる。
「分かってるって。行ってきます」
心配そうな彼女に背を向け、家を出る。
いつもの光景。いつもと変わらないやりとり。
足早にバス停まで向かうのも、いつもと同じ行動だ。
「いつまで続くんだろう」
バスを待ちながら嘆息する。
義姉になるはずだった、兄の婚約者である彼女。
兄がいなくなってからもこうして一緒に暮らしているのは、お互いに身寄りがないからでしかない。
「いつまで……」
彼女から離れるたびに考える。
いつまで彼女はいるのか。いつまで兄の行方は分からないままなのか。
いつまで自分は何も言わないのか。
彼女は優しい。まだ親の庇護がなければ生きていけない自分の世話を焼き、兄の、両親の代わりをしてくれる。
けれどそれが苦しい。彼女の笑顔を見るたび、家を出る時のあの不安げな表情を見るたび息が詰まる。
おそらく彼女は、自分に兄を重ねて見ているのだろう。
「言いたいなぁ」
呟いて苦笑する。
彼女には言えないこと。気づいていて黙っていること。
本当は気づいている。どうすればいつまでが終わるのかを。
兄がいなくなってしばらくして、偶然見てしまった。
夕暮れに伸びる彼女の影が、人ではない何かの姿をしていたことに。
「まだ言えないよなぁ」
近づくバスを見遣りながら、小さく息を吐いた。
兄はもう帰らない。自分が何も言わない限り、彼女はずっと自分の側にいる。
そして自分はまだ、彼女に全てを告げる勇気はない。
「早く言いたいなぁ」
ふふ、と笑いながらバスに乗る。
言ってしまえば、終わってしまうだろう。もしかしたら自分は兄と同じ末路を辿るのかも知れない。
自分にとってそれはとても魅力的で、たった一つの希望であり、救いだ。
一人で生きていくには、自分はあまりにも弱すぎる。彼女がいたことで、踏み留まれているだけに過ぎない。
だから、と思う。彼女がまだこの関係を望んでいる限りは、何も言わないでおこうと。
救いを与えてくれる彼女への、せめてもの恩返しだ。
いつまで。そう不安になるたびに、大丈夫だと自分自身に言い聞かせる。
そう遠くない先に、終わりが来るのだろう。
時折見るようになった、彼女の目の奥の光。まるで肉食の獣のように鋭さを孕んだそれが伝えてくれている。
最近は夢を見るようにもなった。誰かに手を引かれて逃げているのに、最後にはその誰かに捕まえられて、近づく獣の影に食べられてしまう夢。
逃げてはいるのに恐ろしさは感じない。まるで鬼ごっこをしているように楽しんですらいた。
早くその時が来ればいい。
そんなことを思いながら、また同じ一日を繰り返している。
「行ってらっしゃい」
姿が見えなくなったあの子に向けて、そっと呟いた。
今日も大丈夫。あの子はここにいて、笑ってくれている。
心の奥底で暴れる衝動を抑え込みながら、無理やりに笑みを形作る。
あの子は自分にとって最後の、たった一つの希望だ。彼とは違う。
数年前、好きだった人間を喰らった。
その時までは彼を信じていた。本来の姿を晒したとしても、彼なら受け入れてくれる。変わらない日々を過ごせるのだと、疑いもしなかった。
けれど彼も他の人間と同じ。醜く悍ましい姿を見た瞬間に彼は逃げてしまった。
その時の怒りと絶望は、決して忘れられはしない。
衝動が収まった後、最初に考えたのはあの子のこと。
まだあの子は年若く、家族の庇護が必要だった。それなのに、衝動に任せて彼を襲ってしまった。
あの子は戻らぬ兄を思い、悲しむのだろうか。その時にはすでに彼に対する思いは消え、あるのはあの子の未来に対しての不安だけ。どうすればいいのかを悩み、そしてあの子の姉として守ることに決めた。
「いつまで続けられるのかしら」
部屋の掃除をしながら考える。
いつまでこの日々を続けられるだろうか。いつまで黙っていられるだろうか。
いつまであの子はここで守られてくれるのだろうか。
優しいあの子。寂しさや不安で苦しいだろうに、それを隠して微笑み自分を姉と慕ってくれる。
全て気づいているだろうに何も言わず、気づかない振りをし続けてくれている。
「いつまでも続けばいいのに」
ほぅ、と息を吐いた。
夕暮れに伸びた本来の自分の姿を映した影を、あの子が見ていると気づいたのはいつだったか。
驚くでも、怯えるでもなく無心で見つめるあの子を見た瞬間、あの子は守るべき存在から、唯一の希望に変わった。
彼とは違い、あの子は受け入れてくれている。ずっと願っていたこの平穏な日々をこれからも続けていくことができる。
とても幸せで、だからこそ不安が込み上げる。
「大丈夫。ここはあの子の家だもの」
そう言い聞かせるも、このまま家に帰って来ないのではないかと考えてしまう。考える度に衝動が込み上げ、あの子に手を伸ばしそうになる。
だからだろうか。ここ最近、同じ夢を見るのは。
夢の中で、誰かに手を引かれ逃げるあの子を追いかけている。そして最後には、彼のようにあの子を喰らってしまう。
不思議なのは、あの子が怯えた様子を見せていないこと。そして手を引く誰かが、あの子を捕まえてしまうこと。
誰かの姿は目が覚めてしまえば忘れてしまう。影のように曖昧で、それでも笑っていたようにも思う。
これで一緒と囁くのは、誰だったのだろうか。
思わず苦笑して、頭を振った。
所詮は夢。あの子はいつもと変わらなかった。だからいつものように帰ってくるのだろう。
くだらない考えを、溜息と共に吐き出す。あの子が帰ってくる前に、家のことを終わらせておかなければ。
夕飯の内容を考えながら、いつもと変わらない一日を繰り返していた。
20260302 『たった1つの希望』
「またそんな隅にいたのか」
部屋の片隅で微動だにせず座る少女に、男は呆れたように溜息を吐いた。
少女は男の言葉に視線を向けるものの、答える様子はない。感情の灯らない静かな目に男は舌打ちし、大股で少女へと近寄った。
「何をお求めでしょうか」
「それを止めろ。あんたはもう屋敷を出ているんだ。記録としての役目はとうに終わってる」
苛立つ男の様子にも、少女は表情を変えることはない。ただほんの僅か、戸惑うように瞳を揺らした。
それを見て男は嘆息し、動かない少女を抱き上げ外へ向かう。少女はやはり動くことなく男を見つめていた。
少女はかつて、とある一族が記録を保管するための道具として長く屋敷の奥に隠され繋がれた存在だった。男により解放されたものの、少女の在り方が変わることは難しい。
「欲を持てと言っているだろうに。自由になれたのだから、他者のために在ろうとするな」
ここにきてから何度も繰り返し言われた欲の言葉に、少女は目を瞬いた。
言葉としては知っている。だが形として、少女はそれを理解できなかった。
理解できないからこそ持ちようがない。少女は自身が保有する記録と経験の差異に気づき、微かに吐息を溢した。
「欲、とは何でしょうか?」
か細い声に、男の足が止まった。少女を見つめ、何かを考え込むように眉を寄せる。
ややあって男は視線を外すと、庭に植えられた一本の白梅の木に近寄った。
蕾は膨らみ、あと数日もすれば咲き始めるのだろう。咲き誇る白梅の姿を思い描き、少女の表情が僅かに綻んだ。
「この梅を咲かせるには何が必要だ?」
男に問われ、少女は首を傾げながらも、求められるままに口を開く。
「水と、陽の温もり」
「そうだな。俺たちが手を加えなくとも、花は咲くだろう。だが、この花を美しく咲かせようとしたら、俺たちには何ができる?」
できること。少女は目を瞬きながら空を見上げた。
雲ひとつない快晴。ここ数日、空には青が広がっていた。
陽の光は十分だろう。ならばと、少女は男に視線を戻しながら答えた。
「水を与えること。肥料を与え、周囲の不必要な草を抜き、剪定する」
「それが欲だ」
少女の目を見据え、男は告げた。一輪咲いていた花を愛でるように指先で触れ、静かに語る。
「望みのため行動を起こすこと。人間は欲を抱くことで生きている。無欲だといわれる聖人ですら持ち得る、必要不可欠なものだ。欲を持つことに善悪はない」
だが。そう続けながら、男は愛でていた花を躊躇なく手折る。無言で男の行為を見つめる少女の髪に花を挿し、悲しく微笑んだ。
「欲に呑まれた瞬間、それは煩悩に変わる。得たことに満たされず、手放せずに執着し、澱む感情が抑えきれなくなった時……俺みたいな化け物が出来上がる」
ひゅっと、少女は息を呑んだ。何かを言いかけ、けれども言葉が思いつかず、少女はただ男の目を見続ける。
ある日突然現れ少女を連れ出した男には、かつて出会った頃の面影は残っていなかった。目に激しい憎悪を宿し、破壊し傷つけることに躊躇をしない。少女の知る心優しく勤勉だった少年は僧として生きるのではなく、人から逸脱し獣に堕ちてしまっていた。
望みが断たれたのだと男は語った。謀反の兆しありという、たった一言ですべてを失ったのだと、冷たい目をして嗤っていた。
それ以上を少女は知らない。男も語ることはなく、歪な平穏の日々を共に過ごしている。
「一度呑まれてしまえば止まらない。本懐を遂げたというのに飢えが消えることはなく、こうしてあんたを今も繋ぎ留めている」
白梅の木の根元に座り込み、男は少女を掻き抱く。淡々とした声音と表情とは真逆の激しさに、少女はほんの僅か表情を歪めた。
少女の内に宿る、記録や知識とは違う何か。男から視線を逸らし、そっと胸に手を当てる。
「どうした?」
「分かりません。これは知らないもの、です」
眉を寄せ、少女は呟く。
男と共に過ごすようになり、時折感じることのあった気配。それが形になろうとしているような気がして、少女は目を閉じ意識を集中させる。
「あなたについて話を聞くと、感じるのです。もっと聞きたい、知りたいと強く思う……記録する必要はないと理解しているのに」
再び目を開けた少女は明らかに困惑した表情をして男を見た。
まるで迷子の幼子のようだ。そんなことを思いながら、男は少女の手を取る。自らの頬に触れさせ、柔らかく微笑んだ。
「聞きたいなら、いくらでも聞かせてやる。だが今はあんたの話を聞かせろ。こうして俺に触れて、何を感じる?」
伝わる熱に僅かに体を強張らせていた少女は、男の問いに小さく首を傾げた。触れている手に視線を向け、そしてゆっくりともう片方の手を反対の頬に添え、表情を綻ばせた。
「あたたかい」
微かな呟きに男は頷き、少女の頭を撫でる。その手つきはどこまでも優しく、幼子を褒めるような慈しみに満ちて少女はほぅと吐息を溢し男に凭れた。
「ずっと、あなたを知りたかった。思うのはあなたとの記憶だけだった……もう一度、会いたいと思っていた」
「何だ。ちゃんと欲を持ててるじゃないか」
「欲?」
目を瞬き、少女は内に宿るものについて考える。
望みはあった。だが自身は求めるのみで行動を起こしてはいない。
それに、と少女は思う。男と再会し、知ることで、果たして満たされるのだろうか。
ふっ、と笑みが浮かぶ。答えなど、考えずとも出ていた。
「欲、ではありません」
「違うのか?」
「これは、煩悩です。知れば知るほど、あなたに触れたいと思う。あなたを私に繋ぎ止められるのであれば、もう一度記録として在ることを望むほどに」
少女の微笑みに、頬を伝い落ちる滴に、男は息を呑んだ。
痛みを堪える目をして笑いながら、強く少女を掻き抱く。
「馬鹿な奴め。鼠に執着するなんざ、記録としての禁忌だろう。見境なく喰い散らかされて、何も残らなくなるぞ」
「私はもう、記録ではありませんから」
男の背に腕を伸ばし、少女もまた強く男を抱きしめた。
「それにあなたになら、すべて無くしても惜しくはありません」
「酷い殺し文句だな……ならば、あんたの未来を俺に寄越せ。俺の側で飢えを満たしてくれ」
「はい。あなたの側で教えてください。あなたのことを、その先もずっと」
寄り添う二人の影が、陽の光を浴びて伸びていく。
鼠の影と、一冊の本の影。だが二つの影は重なり解けて形を失っていく。
不意に風が吹き抜けた。少女の髪を揺らし、挿さる白梅を舞い上げる。
影が揺らぐ。空を舞う白梅が、ふわりと影に降り。
二人の影は獣と物ではなく、正しく男女の姿を取っていた。
20260301 『欲望』
誰もいない公園のベンチに座り、何をするでもなく辺りをぼんやりと見ていた。
幼い頃によく遊んでいた公園も、今ではすっかり寂れてしまっている。人口が減るばかりの故郷に残っているのは、年寄りばかりだ。
寂しいなとは思う。けれど同時に仕方がないことだとも理解している。
何もないこんな辺鄙な場所よりも、何でも揃っていてどこにでも行ける街の方がいい。それにここに居続けたくはないと、口には出さないだけでほとんどの人が思っていることだろう。
少なくとも自分たちの世代で残っている者はいない。刻まれた恐怖や喪失感が、ここに留まることを拒ませ、皆遠くの街へと引っ越してしまっていた。
自分も戻るつもりはなかった。今回は祖母の葬式による一時的な帰省だ。
すでに葬儀は終わり、同じように帰省していた人は皆、自家用車でここを出て行ってしまった。自分もすぐに出ていくつもりではあった。
「もーいーかい?」
無意識に溢れ落ちた言葉に、返事はない。
当然だ。他に遊ぶ子供たちはおらず、あの日遊んでいて残った友人たちは今も遠くの街で暮らしているはずだ。
「もう、いいかい?」
目を閉じて、繰り返す。繰り返し思い出す。
いつもと変わらない日だった。いつものように皆と遊び、最後に隠れ鬼をした。
ゆっくりと十数えて、振り返る。遊具の裏、草むらの陰、木の上まで探して、次々と皆を見つけていく。
けれど最後の一人が見つからなかった。皆でどれだけ探しても、見つかることはなかった。
「もう、いいかい?」
繰り返しながら立ち上がり、のろのろと遊具の方へと歩き出す。滑り台の向こう側、小山の作られたトンネルの前で、立ち止まる。
このトンネルに入っていったと、見かけた子たちは言っていた。けれど覗いてみてもトンネルの中には、誰の姿もなかった。
屈んでトンネルを覗き込む。丸く切り取られた向こう側が見えるばかりで、人影は見えない。
目を伏せ、溜息を吐いた。このトンネルが人喰いトンネルと恐れられるようになった経緯を思い出し、気持ちが沈んでいく。
その隠れ鬼を最初に、トンネルと潜り抜けた子がいなくなるということが度々起こるようになった。
手を繋いでトンネルを潜った子の一人が消えた。順にトンネルを抜けたというのに、真ん中の子だけがいなかった。
噂は広がり、面白半分でトンネルを潜った上級生も、噂を検証すると他所からきた大人もいなくなった。それだけではなくあの日遊んでいた子たちもまた、十日、一月と過ぎる度に姿を消してしまっていた。
残った子たちは家族で引っ越し、連絡も取れない。遠くの街で暮らしていると思っているが、今も元気でいるのかは分からなかった。
「もう、いいかい」
トンネルに向けて、呼びかける。他の子のようにトンネルを怖がるよりも寂しさが勝るのは、きっとあの隠れ鬼でいなくなった子が自分の初恋の子だったからだろう。
明るく活発で、誰よりも優しかった子。困っている時には必ず一番に気づいてくれて解決してくれる、ヒーローのような子だった。
彼がいないことが寂しくて、何度もこのトンネルを潜り抜けた。家族と共にここを出るまで公園に通い、今になってもまだ彼を想っている。
もう一度トンネルを潜り抜ければ、今度こそ会えるだろうか。正しく終わらせることのできなかった恋は、じりじりと胸を焦がし今も消えることがない。一目だけでもいい、会うことができたならと、熱に浮かされたような曖昧な思考で、トンネルを潜ろうとさらに身を屈めた。
「もう、いいかい」
呟いて、足を踏み出す。トンネル内で声が反響し、幾重にも重なり歪んでいく。
もう一度、呼びかけようとした時だった。
「もう、いいよ」
不意に、耳元で声がした。びくりと肩が震え、硬直する。
聞こえた声を、懐かしいと感じた。振り返り声の主を確かめたいのに、確かめるのが怖くて動けない。
「もう、いいよ」
腕を掴まれ、後ろに引かれる。突然のことにバランスを崩し、そのまま後ろへと倒れ込んだ。
咄嗟に目を瞑り、衝撃を待つ。けれど固い地面の感覚は訪れず、代わりに暖かな何かに包み込まれていた。
「――え?」
「大丈夫?ごめんね、ちょっと強く引っ張っちゃった」
恐る恐る目を開けると、目の前には心配そうな顔をした彼がいた。じわりと涙が浮かび、彼が戸惑うのにも構わず強くしがみつく。
「そんなに恐かった?本当にごめんね。ようやく見つけられたから、必死だったんだ」
「見つけ……られた……?」
意味が分からず、顔を上げて彼を見る。彼は優しく笑って、そうだよと囁いた。
「いつまで経っても探しに来ないから出てきてみれば、皆が行き違いになったって言ったから、色々な所を探してたんだ。手分けして、まだ見つかってなかった子たちは全員見つかったけど、鬼だけが見つからなくて大変だったよ」
見つかってよかったと、彼は笑う。そこに違和感を感じるのに、宥めるように頭を撫でられればすぐに分からなくなってしまう。
首を傾げて辺りを見る。心配そうに、安心したように笑う友人たちの顔を見て、さらに分からなくなってくる。
いなくなったのは彼ではなかっただろうか。それにここにいるのは、いなくなったはずの人たちだったような。
「ようやく全員見つかったけど、次は何して遊ぼうか?もう探さない遊びがいいだけどな」
混乱している自分を置き去りに、彼が友人たちに声をかける。ブランコや追いかけっこなど、皆がそれぞれ好きな遊びをあげていくのを彼の腕の中でただ聞いていた。
夢でも見ていたのだろうか。遠くの街へ引っ越して、大人になって戻ってきた。彼がいない寂しさを抱きながら、終わらない隠れ鬼をしていた。そんな長い夢を起きたまま見ていたのか。
「どうしたの?少し疲れちゃったかな……じゃあ、ベンチで休もうか」
背を撫でられ、促されてベンチへと一緒に歩いていく。周りの揶揄い混じりの視線に恥ずかしくなって、頬が熱くなるけれど、今は彼と離れたくはなかった。
「大丈夫。一緒にいてあげるから。眠いなら寝てもいいからね」
ベンチに座り、彼の膝に頭を乗せられる。頭を撫でられれば、すぐに眠気がやってきて、ゆっくりと瞼が閉じていく。
何か大切なことを忘れている気がした。けれど眠気には勝てずに、沈む意識と共に焦りも端から解けて消えていく。
「起きたらまた、たくさん遊ぼうね」
楽しそうな笑い声。皆の声が重なり合い反響する。
まるでトンネルの中にいるみたいだ。そんなことを夢現に思う。
トンネルなど入ったことはないのに。この村にはトンネルはなく、村を出ない自分は実際に見たことはない。
この公園には昔、遊具のトンネルがあったと聞くが、今は埋められて遊べない。
「ようやく捕まえた……おやすみ。大好きだよ」
そんな思考も、囁く声と頬に触れる熱に解かされ消える。
後にはもう、何も残らない。
ただ深く深く、沈んでいく。
20260228 『遠くの街へ』
目を閉じて、ゆっくりと落ちていく。
布団の中、ベッドの上で体は眠っている。けれど心はどこまでも深く、地の底を目指すかのように沈んでいく。
静かだ。外の音も部屋の中の音も、何もかもが聞こえない。それほどにまで深く沈み落ちているのだろう。
不意に、足裏に冷たい地面の感覚がした。横になっていたはずの体は、いつの間にか地に足をつけて立っている。目を閉じていても、誰かと対峙しているのを感じていた。
一つ深呼吸をして、そっと目を開ける。
何もない部屋の真ん中に、自分は立っていた。
目の前には、大きな姿見が一つ。そこに映る自分と目を合わせていれば、鏡の中の自分は唇の端を上げ、意地悪く笑った。
「また?最近多いねぇ。今度は何から逃げてきたのかな?」
相変わらず鏡の中の自分は意地悪だ。分かっていて聞くのだから、本当にタチが悪い。
「テストのための勉強?進路が決まらないこと?それとも……先輩が目の前で好きな子の特徴を話したこと?」
くすくすと笑われ、何も言い返せずに俯いた。
本当に酷い。この子は自分自身だと言うが、未だに信じることができない。
けれどそれを口にすれば、また嬉々として自分だという証拠に隠し事を曝け出すのだろう。信じるからそれ以上は止めてほしいと願っても最後まで語る姿が容易に想像できて、気分が沈む。ここにいたくはないのにここしか逃げ場がないことに、耐えきれなかった溜息が溢れ落ちた。
「何でそんなに嫌がるかな。というか嫌なら逃げなきゃいいだけの話なんだけど」
「――うるさい」
「毎日しっかり授業を聞いて、予習復習をしていればテストなんて難しくもないし、将来どうなりたいかを考えれば進路も決まる。先輩のことは……ちゃんと気持ちを伝えないと、いつまで経っても変わらないよ。今日も顔見て話してたら、とっても面白いことになってたのに」
「うるさいってば!」
耳を塞ぎ、目を閉じる。
彼女が言っていることは正しい。全部後回しにして、こうして今現実から逃げ出している。
分かっているのだ。けれどやりたいことがたくさんあって勉強などは後回しになるし、今が忙しすぎて将来という先のことを考える余裕はない。先輩に対してはそもそも思いを口にした所で何も変わらないだろう。
楽しそうに好きな子の話をする先輩を、どんな顔をして見ればいいというのか。
泣きそうになるのを手を強く握り締めることで必死に耐える。泣いても彼女は慰めない。ただ淡々と事実を突きつけられて、苦しくなるだけだ。
「そうやって逃げ続けても意味がないって分かっているでしょうに。何で私がここにいるのか、もう一度教えてあげようか?」
耳を塞いでも聞こえる彼女の言葉。これ以上は逃げられないのだと突き付けられて、のろのろと手を離し顔を上げた。
ここが底なのだ。改めて実感する。
自分が逃げることのできる一番奥底。自分の本心であり、影である彼女と顔を合わせて話せる場所がここだと、忘れてはいない。
小さく息を吐いて目を開ける。鏡の向こうの自分は、呆れた顔をしながらも笑ってくれた。
「そんな顔ができるなら、現実逃避を止めて上がることができるね」
「仕方ないからね。ここにいても酷いことを言われるだけだから、それよりはマシ」
「相変わらず素直じゃない……じゃあ、起きて学校に行ったら、放課後に図書室で勉強しな。先輩が来たら勉強を教えてもらうついでに、進路の相談をすればいい」
現実の話に思わず顔を顰めた。特に先輩と話す勇気が出ずに、底から上がることを躊躇してしまう。
「話さなきゃ、ダメなの?」
「そりゃあね。ちゃんと顔を見て話さないと鈍感な私は気づかないから、仕方がない」
態とらしく、彼女は溜息を吐いた。揶揄うような仕草に悪いことにならない予感がして、体の力が抜けていく。
力が抜ければ体が軽くなり、ふわふわと上へ浮き始める。
目が覚めるのだろう。遠くなる鏡の向こう側で彼女は手を振り、にこにこと笑っていた。
「現実逃避の時間は終わり。ちゃんと頑張っておいで」
優しい声に頷いて目を閉じる。
沈んでいた体が地上に向けて上がっていく。足の裏の地面の感覚がなくなり、代わりに体を包み込む暖かい布団の重さを感じ始める。
深呼吸をひとつ。瞼の向こうの明るさに、そっと目を開ける。
見慣れた天井。勉強机や本棚。いつもの自分の部屋に戻ってきていた。
カーテンの向こうが明るい。枕元の時計は、そろそろ起きる時間を指し示していた。
ゆっくりと起き上がる。眠る前と違い、体も気持ちもとても軽い。
「――頑張ろう」
呟いてベッドを抜け出す。
身支度を整え、いい一日になればいいと思いながら迷いなくカーテンを開け、朝の陽ざしを浴びながら目を細めた。
「珍しいな。こんな所で勉強してるなんて」
聞こえた声に、思わず顔を上げた。
ノートを覗き込む先輩の姿に、肩が跳ねる。突然のことに何も言えずに固まっていると、彼はノートの一点を指さした。
「ここ、スペルが間違ってる。お前よくケアレスミスをするから、ちゃんと見直さないともったいないぞ」
「あ……気をつけます」
指摘された単語を直し、見直すふりをしながら俯く。
話をする。今までは当たり前にできていたことが、とても難しい。
前はどのように勉強を教えてもらっていたのか。考え込む自分に刺さる先輩の視線が、さらに落ち着かなくさせる。
不意に、隣の椅子が引かれる音がした。視線を向けると隣に座った先輩と目が合い、息を呑む。
「そういや、進路は決めたのか?」
「あ、えと……まだ全然決まってなくて……」
しどろもどろになりながらなんとか答えると、先輩は目を細めて笑う。
何か悪戯を思いついたような笑い方。この表情をする時の先輩は、突拍子もないことを言い出すことが多い。
何を言い出すのか身構えれば、先輩は顔を近づけて囁いた。
「決まらないなら、俺の所にくるか?」
「――え?」
何を言われたのか、すぐには理解できなかった。
つまりは、先輩が進む大学を選べばいいということだろうか。先輩はどこへ進学したのだっただろうか。
それにしても距離が近い。このままでは触れてしまいそうだ。少しは離れた方がいいだろう。先輩が近すぎて、心臓が痛いくらいに暴れている。
頭の中で色々なことがぐるぐると回る。考えすぎて、何もできない。答えなければ、距離を取らなければと考えてはいるのに体は動かず、ただ先輩を見ているだけ。
「本当に鈍感だな。そこが可愛いけど、影は大変だってぼやいてたぞ」
「え、何……言って……?」
「遠まわしじゃなくてはっきり言ってくれってアドバイスをもらったからな」
影、と言われて、鏡の中の自分を思い出す。
そんなはずはない。先輩が彼女を知るはずはないのだとすぐに否定するものの、それ以外に影に思い当たるものはなかった。
先輩は何を言っているのだろうか。問いかけようとした瞬間、腕を掴まれ強く引き寄せられた。
「ひゃっ……」
「好きだ。真面目な所も、少し天然な所も。優しくて鈍いお前が大好きだ」
「せ、先輩っ!?」
「だから俺の所に来い。幸せにしてやるから」
囁かれる言葉に、心臓が跳ねる。じわじわと顔が熱を持ち、呼吸の仕方が分からなくなってくる。
先輩の腕の中。ふと、不自然に伸びる影が目についた。
先輩と抱き合い、寄り添う影。けれどこちらを見つめ、軽く手を振られた。
――ほら、面白いことになったでしょ?
楽しげな声が、頭の中で響く。にやりと笑う姿が脳裏に浮かび、思わず声にならない悲鳴を上げていた。
「――っ!!」
「相変わらず仲がいいな、お前ら。そろそろ返事がほしいんだが」
悪戯めいた声が降る。視線を向ければ至近距離で先輩と目が合い、咄嗟に目を閉じた。
見えない分強く感じる温もりに、彼の腕の中にいるのだと思い知る。逃げ出すことも、況してや言葉を返すこともできず、混乱した思考は無意識に先輩の背中に腕を伸ばす行動をとった。
「ちゃんと言葉で返事がほしかったが……まあいいか」
面白がっているような彼の声。そして頭で響く彼女の笑い声。
いつものような逃げ場はもうない。
向き合わなければいけない現実。せめてもの抵抗に、目を閉じたまま目の前の温もりに強くしがみついた。
20260227 『現実逃避』