木は全てを見ていた。
子供たちの笑い声が響く。
やんちゃ盛りの子が三人、何かを手に駆けてきた。それは綺麗な刺繡を施された、白のハンカチだというのが見て取れた。
明らかに女物のハンカチ。彼らの持ち物でないことは一目瞭然だった。
不意に風が吹き抜け、子供たちの手からハンカチを攫って行く。木の枝にかかるそれを子供たちはしばらく呆然として見ていたが、やがて一人、また一人とその場を去って行ってしまった。背後から聞こえる、泣きながら彼らを呼ぶ声が近づいてくることに気づいて、慌てて逃げ出したのかもしれない。
少しして、今度は白のワンピースを着た少女が現れた。泣き腫らした赤い目をして誰かを追いかけてきたらしいが、限界がきてしまったのだろう。木の根元に立ち尽くし泣き始めてしまった。
その時、風が吹いて木の葉を揺らした。その音に少女は顔を上げ、視線が木の枝に引っかかるハンカチに注がれる。
息を呑む音。見つめる少女の目から、はらはらと大粒の涙が溢れ落ちていく。
木の幹に手を添え、背伸びをしながら手を伸ばすが、到底届くはずもない。けれども諦めきれずに手を伸ばし続けていると、一人の少年が通りがかった。
「どうしたの?」
木に手を伸ばす少女の様子を見て、不思議そうに問いかける。近づきながら手を伸ばす方へと視線を向け、ハンカチに気づいてあぁ、と声を上げた。
「風に飛ばされちゃったんだね。それなら取ってきてあげるよ」
そう言って少年は木に手や足をかけ、器用に上り始めていく。突然のことに驚き見守る少女の前で枝まで辿り着きハンカチを取ると、少女に微笑んでハンカチを振ってみせてから、するすると木を降り始めた。
「はいどうぞ」
笑顔で差し出されたハンカチを、少女は戸惑いながら受け取った。ハンカチを胸に抱き、ようやく今起こったことの理解が追い付いたのか、ふわりと笑みを浮かべた。
「ありがとう」
「どういたしまして。じゃ、僕は行くね」
少女のお礼の言葉に少年は笑って答え、引き留める間もなく去って行ってしまう。
「あ……」
その背が見えなくなるまで、少女はいつまでも見つめていた。
あれから数年が経ったある日。
木の根元で、とある少年が少女へと告白をしていた。
「ずっと前から好きだった。好きの伝え方が分からなくて、ガキの頃はいじわるをしていたけど、好きだったんだ」
真剣な表情の少年は、数年前に白いハンカチを手に笑っていた子供たちの内の一人だった。
少女はかつての少年の行為を責める様子もなく、ただ静かに少年の姿を見つめている。
やがて小さく息を吸って、少女は少年へと答えを返した。
「――ごめんなさい」
静かな声だった。それは少年の想いに対しての否定や拒絶の言葉ではなく、けれど想いを受け入れられないという事実を告げる声だった。
「私も、ずっと好きな人がいるの」
「そっか……」
くしゃりと顔を歪めて、それでも少年は笑った。泣くのを必死に耐えた不格好な笑顔で、震える声で、ありがとうと一言呟く。
そっと風が吹き抜けた。少女の髪を揺らし、耐えきれずに一筋溢れ落ちてしまった滴を拭い、過ぎていく。
「好きな人と、結ばれるといいな」
ぽつりと落ちた言葉に、少女はふわりと微笑みを浮かべた。小さく頷いて、ばいばいと呟いてから去っていく。
その少女の背を、いつまでも少年は見つめ続けていた。
そしてまた数年が経った。
一組の男女が、木の下で見つめ合っている。
「俺と結婚してほしい」
目を見つめ告げる青年に、女性は頬を赤く染めながら頷いた。
途端に笑顔になった青年は、女性を抱き寄せ安堵の吐息を漏らす。青年の腕が微かに震えていることに気づき、女性はくすくすと笑い声をあげた。
「笑うなよ。すごく緊張したんだから」
「あなたでも、緊張することがあるんだなって思ったらおかしくなったの」
青年の腕の中で、少女は木を見上げ目を細める。昔を懐かしむように枝を見つめ、あのね、と囁いた。
「覚えていないかもしれないけど、木の枝に引っかかってるハンカチを取ってくれた時から好きだったの。初恋だったのよ」
「もちろん覚えているよ。ハンカチを胸に抱いて笑う君がとっても綺麗で、恥ずかしくなって逃げ出したんだ。それが俺の初恋だった」
もう一度出会うことができてよかったと、青年は笑う。探したのよと、女性は秘密を打ち明けるように笑い、青年の胸に凭れた。
「背中を押してくれた人がいたから。だから諦めずにいられたの」
「なら、感謝しないとな。背中を押してくれた誰かに」
微笑み合う二人の間を、風が擦り抜けていく。木の葉を揺らし、一枚の葉を落とした。
青年の頭に降ったそれに、女性は手を伸ばす。その手を青年に取られ、間近で見つめ合う二人の距離がやがて零になっていくのを、木だけが静かに見守っていた。
寄り添い去っていく二人の背を見送りながら、木は回想する。
少女に別れを告げ去っていった少年の赤い顔。その背を見つめる少女の甘い溜息。
告白を断った少女の決意の眼差し。それを見送るかつての子供の嗚咽。
そして幸せそうな二人の笑顔。
全てを見てきた。
初恋が芽生えた日も、初恋が散った日も。そして初恋が実った日も、木はここに佇み見守っていた。
初恋が関わるそのどれもが、同じ日で起こったことを。
木だけが知っている。
20260507 『初恋の日』
「明日世界が終わるとしたら、何がしたい?」
いつもと変わらぬ口調で彼女は言った。
まるで休日の予定を聞くように。ただの例え話だと言うように。
「どうしたの、急に?」
「何となく。明日が最後ならどんなことをするのか興味があったから」
ふふ、と笑う。その笑顔もいつもと変わらないように見えた。
「そうだなぁ……」
だから、自分も深く考えることなく。
明日のその先が、当たり前に来るのだと疑いもせずに、彼女と過ごす、最後の明日を考えたのだ。
「それで、なんて答えたの?それから世界はどうなったの?おじいちゃんは今も元気だから、世界は終わらなかったんだよね?」
身を乗り出して問いかける孫娘に、男は目を細めて微笑む。
刻まれた皺が、男が過ごしてきた時間の長さを物語る。いつ会いに来ても元気な祖父の笑みに、孫娘は益々話の結末が気になって仕方がなかった。
――後悔のないように生きなさい。明日世界が終わってしまっても悔いがないように。
祖父は会う度に、そう口にする。その理由が気になり尋ねると、祖父は懐かしそうにどこか遠くを見ながら、昔明日世界が終わったとしたらと友人に聞かれたのだと答えた。
いつも穏やかな祖父が、その質問に何と答えたのか。そして世界が終わりを迎えたのか。
孫娘は祖父の話を一言も聞き漏らすまいと、視線を合わせて話の続きを待った。
「どんなに考えてもじいちゃんには世界が終わる想像ができなくてね。そもそも世界を具体的に想像できなかったから、何も特別なことはしないと答えたよ。いつものようにご飯を食べて、学校に行って、放課後に図書室で好きな本を読んでから帰る……いつもと同じ過ごし方を答えた」
そして明日が来て、祖父は友人と共にいつもと同じような一日を過ごしたのだと語る。その声音は祖父の人柄を表すように穏やかで、けれど孫娘はその中にどこか悲しみを感じ取り少しだけ表情を曇らせる。
「おじいちゃん……」
「じいちゃんには、明日のその先も終わることなく続いていた。彼女も終わりはなかったけど……世界は終わってしまった」
息を呑んだ。無意識に孫娘の視線は窓の外へと向けられるが、青空が広がる外はいつもと変わった様子はない。
「世界が……終わっちゃったの?」
「そうだよ。真っ暗で、何もかもが壊れてね。それでいて、あちこちで炎が上がって……じいちゃんと彼女が朝を迎えられたのは、奇跡みたいなものだった」
そこで孫娘は思い出した。祖父が住んでいるこの辺りでは、昔とても大きな地震が起こったのだということを。
建物は崩れ、あちらこちらで火災が起きたのだという。その光景はまさに世界の終わりと言っても過言ではないのだろう。
「明日世界が終わったとしたらなんて、ただの偶然だったのかもしれない。けれど彼女の言葉通りに世界が終わってしまったって、街を見て呆然としたよ……じいちゃんにとって、日常こそが世界だったんだろうな」
帰る家があり、迎えてくれる家族がいて、そして毎日変わらない生活ができる。
子供にとっては、それが世界のすべてだったのだろう。想像して、孫娘は確かにと納得した。
同時にそれが崩れてしまった時のことを考えて、その恐ろしさに身震いする。どんな悪夢よりも恐ろしい光景を前に、平気でいられることなど孫娘にはできそうになかった。
「おじいちゃんは、世界が終わっても頑張れたんだね」
自分には絶対に無理。そう呟く孫娘の頭を優しく撫でながら、祖父は目じりの皺を濃くして微笑みかける。
「じいちゃんも、きっと一人だったなら頑張れなかった。周りに大切な人たちがいたから、前に進めたんだよ」
「それって、彼女って人のこと?」
首を傾げ孫娘は問うが、祖父は微笑むだけで答えをくれる様子はなかった。
どんな人なのか。けれどある程度の予想ができて、孫娘は思わずふふ、と笑い声を上げた。
「それってさ。もしかして――」
その時、部屋の戸が開いて祖母が入ってきた。
手にはお茶とお菓子が乗った盆を持ち、祖父のような穏やかな微笑みを浮かべ二人に声をかけた。
「おしゃべりもいいけれど、そろそろおやつにしませんか?」
「そうだね。続きはまた後で」
「分かった!でも後で答え合わせをさせてね」
孫娘はそう言うと祖母の手から盆を取り、テーブルに置いた。礼を言ってお茶の準備をし始める祖母は、ふと手を留めて二人を見て少しだけ首を傾げる。
「何の話をしていたの?答え合わせってなんのことかしら?」
「あぁ、それはね」
「明日世界が終わったって言ってくれた彼女が誰なのかの答え合わせだよ。私の予想ではおばあちゃんだと思うんだけどな」
笑いながら孫娘は祖母を見る。驚いたように目を瞬いて、祖母は祖父を見ながら懐かしそうにくすくすと笑いだした。
「そんな昔の話をしていたの?」
「どうしていつも後悔のない毎日を過ごせと言うのか聞かれたからね」
視線を逸らしながら言う祖父を、孫娘は面白そうに見つめた。
祖父は祖母のことをいつも大切に思い、愛している。素朴でありながら幸せな日々を過ごしている二人を見るのが、密かに孫娘にとっての楽しみだった。両親と負けないくらいの仲睦まじさは、見ているだけでも嬉しくなる。
「そうなの?なら、私もとっておきの話を教えてあげようかしら」
「え?どんな話?」
「おい。まさか」
祖母の言葉に孫娘は興味を引かれ、祖父はどこか焦ったような顔をする。正反対の反応を見せた二人を見て笑いながら、祖母はあのね、と内緒話をするように声を潜めて語り始めた。
「おじいさんのプロポーズの言葉なんだけどね。『世界は終わってしまったけれど、君のおかげでいつまでも立ち止まらずに前に進むことができた。だからどうか、僕の新しい世界になってください。幸せにすると誓うから、いつまでも僕を導いていてほしい』だったのよ」
「へぇ……僕の世界に、ねぇ……」
赤くなった祖父を、孫娘はにやにやとした含みのある笑みを浮かべて見つめた。うぅ、と呻き声を上げる祖父の反応を楽しみながら、チョコレート菓子に手を伸ばす。
口にいれたチョコレートはいつもより甘く感じられ、胸焼けがしそうだと孫娘は言葉には出さずそうぼやいた。
「誓ってくれたから、私はいつも幸せよ。あんたも、そういういい人を見つけなさいね」
「いい人、か。いるかなぁ。おじいちゃんやお父さんみたいな、一途で素敵な人」
孫娘の父も、祖父に負けず劣らず母を愛している。そんな姿を見て育ってきたからか、孫娘は未だに好きな人ができたためしがない。
溜息を吐く孫娘を見つめ、祖母はふと何かに気づいたように目を瞬いた。笑みを濃くし、二つ並んで包装紙の中に収まるキャンディーを手に取ると、孫娘へと手渡す。
「心配しなくても、もうすぐ素敵な人に出会えるわよ。だからそんなに落ち込むことはないわ」
「――それって、予言?」
「さぁ、どうかしらね?」
答えをはぐらかされ、釈然としないながらも孫娘はキャンディーを受け取った。袋の中で、赤と青の四角いキャンディーが光を反射する。
宝石のように煌めくキャンディーを見ながら、孫娘はふっと笑みを浮かべた。
祖母の言葉はよく当たる。何度も目にしてきたそれを、今更疑う余地はない。
「なら、その人に会った時、後悔する結果にならないように頑張らないと」
「そうね。後悔しないように」
「明日、突然世界が終わってしまうかもしれないんだ。迷ってもいいが自信がないからと、いつまでも動かないことがないようにな」
祖母と祖父の言葉に頷いて、孫娘はお茶を飲み干すとキャンディーを手に立ち上がった。
「ちょっと出かけてくる!」
「はい、いってらっしゃい」
「気を付けるんだぞ」
祖父母に見送られながら、孫娘は勢いよく部屋を飛び出した。
一度自室に戻り、鞄を手に家を出る。お守りのようにキャンディーを鞄の中に入れると、気の向くままに駆け出した。
「明日世界が終わるなら……」
祖父の言葉を思い出す。
孫娘にとっての世界は何であるかは分からない。けれどそれが突然に終わってしまったとしても祖父のように新しい世界が始まることもある。
孫娘は笑みを浮かべて、祖母から貰ったキャンディーを鞄越しにそっと撫でた。
20260506 『明日世界が終わるなら……』
今思えば、彼女との出会いがすべての始まりだったと思う。
好奇心旺盛で、人懐っこい。寂しがりでありながら常に境界線を引いて、決してそこから内側には入らせようとしない。
それが彼女の優しさだと気づいた時には、世界の何もかもが変わってしまっていた。
正確には、今まで見えなかったものが見えるようになってしまったというべきか。
獣の耳や尾を生やした通行人。道の端に佇むうっすらと透けた学生。いつまでも遊び続ける子供の形をした影。壁や地面から生える、人の手足。
初めてそれらを見てしまった時には驚き、怖がりもした。何故こんな訳の分からないものを見ることになったのかと、混乱もした。
けれどそれだけだ。原因を恨むこともなく、しばらくすれば順応して、今はそれを日常として自然と受け入れられている。
後悔はない。例えあの日に戻れるのだとしても、きっと自分は同じことをしただろう。
そうでなければ、彼女は階段から落ちて怪我をしていた。下手をすれば頭を打っていたかもしれない。
それに見えるようになって、何もかもが悪いことに繋がる訳ではないのだ。記憶を手放してまで、元に戻りたいとも思わない。
「つまり、気にするなってことだよ」
そう言って、あれからずっと元気のない彼女に向けて笑ってみせた。
「馬鹿みたい」
俯いたまま、彼女は小さく呟いた。
夕暮れの教室内。外からは部活に励む生徒たちの声が聞こえるものの、自分たち以外に誰もいないここはとても静かだ。
「お人好し。単純。鈍感。楽観主義」
次々と溢れる言葉を否定しようとして、しかしその言葉が案外間違いでもないことに気づく。
周りから言われたことのある言葉ばかりだ。自分では誰にでも誠実にいようとしているだけなのだが、周りからは時にお人好しや鈍感そうに見えるのだろう。
楽観主義とは言われたことはまだないが、おそらくそう時間をかけずに見えるものを受け入れたのが関係しているのかもしれない。彼女とは違い、見えるだけで害がないのだからという理由では納得できないようだ。
「変態」
「それは……っ!」
方向性の違う悪口に、さすがに否定しようと声を上げかける。けれども不意に彼女を助けた時の状況が思い浮かび、言葉の代わりに顔がじわじわと熱を持ち始めた。
「あの時は、怪我をさせないようにって必死で……べ、別に下心があった訳じゃ!」
階段から落ちてしまいそうになった彼女を助けるためとはいえ、確かに抱き留めたのは少しばかり問題だったのかもしれない。けれど今まで彼女は、間近で目が合ったことで見えるようになってしまったのを何度も謝ったことはあっても、抱き留めたことに文句を言われたことはなかった。
何で今更、と半ば不思議に思って彼女を見る。俯く彼女の耳が微かに赤いのを見て、何も言えなくなってしまった。
顔がさらに熱を持つ。もう彼女のことを見られなくて、窓の外の景色を意味もなく眺めていた。
「女たらし。鈍感」
「なっ……!?弄んでもないし、そもそも遊び目的で近づいてないから!誤解だから!」
どんどんと不穏になっていく言葉。これ以上は止めなければと、逸らしていた視線を彼女に向ける。
一歩、距離を詰める。腕を伸ばせば触れられる距離。
彼女はまだ顔を上げない。しばらく彼女を見つめ、そっと手を伸ばす。
「触らないで」
拒絶の言葉に手が止まる。
深呼吸を一つ。まだ動かない彼女に向けて、さらに手を伸ばした。
「触らないでよ、お願い。今度は見えるだけじゃなくなっちゃう」
泣きそうな声だった。彼女の優しさが本心を隠してそれを言わせているのだと思うと、苦しくて堪らなくなる。
「――いいよ」
彼女に向け、告げる。
思ったよりも落ち着いた声が出たことに、密かに安堵した。
「君と出逢って、後悔なんて一度もしていない。君を助けたことも、見えなかったものが見えるようになったことも、全部後悔なんてしていないんだ」
きっと彼女が求めているのは、こんな言葉ではない。そう思いながらも、上手く言葉が出てこなかった。
鈍感だと言われたが、本当は彼女の気持ちも自分自身の気持ちも理解しているのだ。
ただ勇気が出ないだけ。彼女が敷いている境界線を踏み越えることが、今まではできなかった。
「あのね」
深呼吸をして囁いた。中途半端に止まったままの手を伸ばし、そっと彼女の手に触れる。
境界線を越えた合図。今まで見えていただけのものが、現実感を伴って存在し出す。
「あ……」
弾かれたように顔を上げる彼女と目を合わせ、微笑んだ。
「君が好きだよ。だから同じ世界にいさせてほしい」
ようやく言えた。安堵しながらも、緊張は解けることはない。
目の前の彼女は、驚いたように目を見張ったまま動かない。手が振り解かれていないことに一抹の期待を寄せて、彼女の返事をただ待った。
「――ずるい」
しばらくして彼女の唇から溢れたのは、直接的な返事ではなかった。
睨む目。しかしその頬を伝う滴は、それは拒否ではないのだと告げている。
「馬鹿。変態。のろま」
鈍感がのろまになった。思わずふふ、とかみ殺せなかった笑い声が漏れる。
睨む目が鋭さを増すが、彼女の悪口は不思議と心地が良かった。
「もう戻せないから。後悔したってしらないよ」
「後悔しないから大丈夫」
悪口の中に紛れる彼女の優しさが、愛おしい。嬉しい気持ちが抑えられず、触れていただけの手をそっと繋いでみた。
小さな手。彼女が近くなるなら、もっと早く境界を越えるべきだったとほんの少し後悔する。
そんな浮ついた気分を冷ますように、ふと鼻腔を人工的な香りが掠めていった。
クラスメイトの女子が使用している制汗剤の強い香り。視界の端、隅の席に座っていた影の話し声がしていることに今更ながらに気づく。
「――つまりは、どういうことよ?」
「だからぁ、彼氏が彼女をラッキースケベしながら助けてぇ、でもってきっといい感じのことを彼女に言いながら何にもしなくてぇ」
「うわ、さいてー」
「だよねぇ……んで、我慢できなくなった彼女が記憶を消すぞって別れを切り出したら、彼氏が慌てて告白したって感じ?」
思わず顔が引きつった。
彼女を見ると、うんうんと力強く頷いている。その反応から、影の話が傍から見た自分の行動だと知って肩を落とした。
「でもま、破局しないでよかったじゃん?」
「そうだけどさ、ずっと待たせといて、ようやくの告白の言葉が好きだよってのはなくない?愛してるくらい言えっつぅの」
遠慮のない会話に恥ずかしくなり、俯いた。
彼女もそう思っているのだろうか。気まずくて手を離そうとするが、固く繋がれて離すことができなかった。
逆に繋いだ手を引かれ、驚いて彼女を見る。意地悪そうに笑って真っすぐにこちらを見る彼女が何を期待しているかなど、一つだけだろう。
「――あ、あの、さ」
「しっかりしなよ、彼氏。男なら、がつんといきな!」
口籠ると、容赦なく影からの応援という名の叱責が飛ぶ。
声が聞こえるようになったから声が届くのだろうと、頭の隅で関係のないことを考えた。しかし現実逃避すら、影たちは許してくれないらしい。早くと急かされて、半ば涙目になりながら、口を開いた。
「君のこと……愛して、ます」
最後はほとんど消えそうな声ではあったが、しっかりと彼女には届いたようだ。途端に顔を赤くして、視線を忙しなく辺りに彷徨わせている。
影の歓声を聞きながら、今度はこちらが彼女を真っすぐに見た。すぐに何を思っているかを察して、彼女は微妙に目を逸らしながら囁いた。
「わ、私、も」
それ以上は続かず、ずるいなと思ってしまう。
けれど自分も彼女に酷いことをしていたようであるし、仕方がない。
いつの間にか集まってきていた人ではないモノたちの気配を感じながら、大変になるだろうこれからを思い深く溜息を吐いた。
20260505 『君と出逢って、』
見上げる空には、綿菓子のような雲が浮かんでいる。
「今日……だったよ、ね?」
何度目かの不安の言葉が溢れ落ちる。視線を下ろし周囲を見るが、待ち人の姿はどこにも見えない。
溜息を吐いて、凭れていた榎の幹を撫でた。ごつごつとした表面は、記憶の中のそれよりも逞しい。
当然だ。あれから十年もの長い時間が過ぎている。木も、恐らくは待ち人も成長しているはずだ。
「忘れちゃったのかな」
十年前の今日、友達と約束をした。ここに埋めた宝箱を一緒に掘り出すという、二人だけの秘密。
あの時、自分は宝箱の中に何を入れたのだったか。忘れてしまった思い出の答え合わせを楽しみにこの日を待っていたというのに、肝心の友達が訪れる様子はない。
けれどそれは仕方がないことだと諦めてもいた。
友達と一緒にいたのは、宝箱を埋めた時が最後だ。次の日には友達は引っ越してしまっていて、今まで連絡一つも取ってはいなかった。
「もう少し待って、来ないようなら一人で開けてもいいよね」
誰もいないと分かってはいるが、それでも声に出して確認する。
寂しいなと思いながらも、幹に凭れかかり目を閉じた。
肌寒さを感じて目を開ける。
気づけば夕暮れ時。赤く染まる周囲は、段々と暗い影を落とし始めている。
「やっちゃった」
溜息を吐きながら体を起こす。何気なく隣に視線を向け、目を瞬いた。
気のせいだろうか。一瞬だけ、木の向こう側に誰かが立っていたように見えた。
立ち上がり、ゆっくりと近づく。幹の裏を覗くものの、やはり誰の姿もない。
「あれ……?」
しかし何か違和感があった。周囲を見、幹を見て、そしてそのまま視線を下ろし、息を呑む。
土が盛り上がっている部分がある。屈んでそこに触れれば、明らかに周りの土と違い柔らかさを感じた。
つい先ほど掘り起こされたみたいだ。何故、と思いながらも、興味を引かれ土を掘り起こしていく。
その近くの根に、うっすらと何かが刻まれているのに気づいた。目を凝らして見てみると、それは小さな三角形の図形だった。
三角の図形は友達が宝箱を埋めた場所の目印だ。あぁ、と納得すると同時に、友達がここに来ていた可能性に困惑する。
何故声をかけてくれなかったのだろう。いくら寝ていたとはいえ、起こしてくれればよかっただろうに。
無意識に眉間に皺を刻みながら、地面を掘り返していく。不思議と友達の宝箱はまだここにあると確信していた。
「――あった」
指先が固いものに触れ、土を払っていく。現れた箱を取り出して、そっと蓋に手をかけた。
けれど自分の宝箱を、まだ掘り返していないことを思い出し、立ち上がる。急いで宝箱を埋めた場所まで戻り、地面を掘り返し始めた。
「疲れた」
額に滲む汗を拭いながら、荒い呼吸を整えていく。
固い地面は簡単には掘ることができず、近くの枝を探して必死に掘り起こした。それでも中々宝箱は見つからず、気づけば辺りは夜の暗がりに沈んでしまっている。
「何を埋めたんだったかな」
目の前の二つの箱に視線を落とす。
十年経っているとは思えぬほど、箱はとてもきれいな状態で残っていた。そのことを少し不思議に思うが、それよりも箱の中身が気になって仕方がない。
記憶は曖昧だが、この箱が宝箱だとは分かる。けれど箱を見ても、やはり中身は思い出せない。
本当に、自分は何を埋めたのだろう。
「まぁ、思い出せなくても、開ければいいだけか」
思い出せないもどかしさに眉を寄せながら、箱の蓋に手を伸ばした。
「――瓶?」
抵抗なく開いた箱の中身。手のひらほどの小瓶を見て、首を傾げた。
透明な瓶の中で、青白い何かが揺らめいているのが見える。取り出して月の光に翳すと、それは小さな焔だった。
「提灯。忘れてきちゃった……」
無意識に出た言葉に驚くが、すぐに納得する。
この焔は提灯に入れて使うものだ。一つ思い出して、次々に約束したことを思い出す。
友達と二人でお参りに行く約束。帰りは暗くなるだろうからと、自分は灯りをいれたのだ。
けれどここに友達はいない。置いて行かれてしまったことに肩を落とす自分の横を、不意に風が吹き抜けていく。
その冷たさに思わず体を震わせた。暖かくなってきたとはいえ、この辺りは日が暮れるとまだ寒い。辺りも暗く、お参りに行くなら明日にしよう。
そんなことを思っていると、風に葉が揺れる音に紛れてくすくすと小さく笑う声がした。
上の方。顔を上げると、枝に座りこちらを見下ろす楽しげな目と視線が合った。
「あ……」
懐かしさを感じるその笑顔。十年という時間が過ぎても変わらない。
どうして、と問おうとした喉は震えて吐息しか出てこない。懐かしさと、疑問と、嬉しさが体中を駆け巡り、思考が停止する。
硬直する自分の横にふわりと降り立って、彼はもう一つの――友達が埋めた箱の蓋に手を伸ばした。
自分のものよりも大きな箱。中には萌黄色の布が入っているようだった。
それを取り出し広げると、彼はまだ動けない自分の肩にそっと羽織らせる。ちょうど今の自分に合わせたような大きさの羽織物。さらに困惑していると、彼は耐えきれなくなったように声を上げて笑い出した。
「笑わないでよ」
「笑わずにいられるか。起こしても起きない。起きても気づかない。気づいたと思えば、いつまでもお間抜けな顔をしてるんだから」
一つ一つ指摘され、思わず頬が熱くなる。視線を逸らして俯くと、いつの間にか彼の手に明かりのない提灯が握られていることに気づく。
しっかりしている。自分が提灯を忘れてしまうこともお見通しだったようだ。
少しだけ悔しく思いながら、瓶の蓋を開ける。こちらに手渡された提灯に焔を入れ、手に持った。
「準備は整ったな。それじゃあ、行くぞ」
「これから?」
すっかり夜も更けている。明日の方がいいのではと思ったが、彼は大丈夫だと意味ありげに笑う。
「遅くなることは、約束した時から分かってたからな。宝箱を埋めた後、しっかりとお参りが遅くなることは伝えてある」
「うわ……」
準備の良過ぎる彼に、何とも言えない声が出る。けれども彼は気にかけることもなく、提灯を取り、先を歩き出した。
「ここまで察しが良過ぎると、さすがに少し気持ち悪いかも」
「何か言ったか?」
慌てて何でもないと首を振り、彼に少し遅れて歩き出す。
十年前の約束。二人だけの秘密。
そっと胸を手で押さえた。
「どうした?胸が痛いのか?」
「大丈夫。ちょっと苦しいだけ」
途端に心配そうに立ち止まる彼の横を擦り抜け、先を行く。慌てて隣に並ぶ彼の視線に気づかない振りをして、心の中だけでこっそりと笑った。
ようやく今日を迎えられたことが嬉しくて胸が苦しいなんて、流石の彼にも察することができないようだ。
この秘密は、もう少しだけ自分の中に隠しておくことにしよう。
20260503 『二人だけの秘密』
「ねぇ」
微かな呼ぶ声に、本のページを捲る手が一瞬だけ止まった。
すぐに何もなかった振りをして、ページを捲る。けれどもう本の内容など頭には入らず、体は勝手に耳を澄ませ始めた。
耳から入り込む外の音。遠くで電車が過ぎていき、それを掻き消すように風が窓を叩いていく。
「ねぇ」
しかしどんなに強い風が周囲の音を掻き消しても、呼ぶ声ははっきりと聞こえてくる。
位置的に、右側の壁の向こう側。二階にある部屋はここだけで、壁の向こうに部屋はない。
「ねぇ」
耐えきれずに立ち上がる。がたがたと椅子が揺れ倒れそうになるが、気にする余裕などはなかった。
机の上の時計を一瞥する。まだ祖母が起きている時間だと確認すると、足は部屋の外へと向かいだした。
これ以上は駄目だ。我慢できそうにない。
階段を駆け下り、祖母の部屋へ足早に歩いていく。いつもの廊下の暗がりですら何か得体のしれないものが潜んでいるような気がして、必死に前だけを見つめていた。
「お祖母ちゃん!」
すぱん、と声もかけずに襖戸を開ければ、祖母はちょうど寝るために電気を消そうとしていた所だった。
「どうしたんだい?こんな時間に血相を変えて」
不思議そうに祖母は首を傾げているが、何も言わずに部屋へと足を踏み入れる。
どうしてそんなに呑気にしていられるのか。そんな理不尽な思いが沸き上がってくるのを抑えながら祖母の前に立ち、一度深く呼吸をした。
「私、明日の朝一で帰るから」
きょとん、と祖母の目が瞬く。
少しだけ眉を寄せ、壁掛けのカレンダーに視線を向けながら口を開いた。
「お迎えは明後日だったはずじゃあなかったかい?あたしには何の連絡もなかったよ」
「自分で帰る。絶対に帰るから」
両親の迎えなど、待ってなどいられない。叶うのならば、今すぐにでも家に帰りたいくらいだ。
前々から、この家は何かがおかしいとは思っていた。
誰もいないはずの部屋から聞こえる笑い声。振り返るとほんの少しだけ開いている、閉めたばかりの扉。
夜に白い手が廊下の奥から手招いていることもあった。全部気のせいなんだと誤魔化し続けてきたが、それもそろそろ限界だ。
「もう耐えられない!ねぇ、ねぇってずっとそれだけ繰り返してさ!気が散るし、怖いしで、ほんっとにサイアク!」
今までの鬱憤も込めて祖母に今までの恐怖体験を語るものの、彼女は何故か穏やかに微笑みを浮かべて、うんうんと頷きながら話を聞いている。どこか楽しそうに見えることを不思議に思いながら、同時に理不尽さも感じてさらに不満が止まらなくなった。
祖母は長くここに住んでいるから、当たり前になってしまったのだろうか。そう思い眉を寄せると、祖母はまるで秘密を打ち明けるように手を口元に持っていき、囁いた。
「呼びかけられる時にはね、三回目に返事をしなさい」
「三回目?どうして三回じゃないとダメなの?」
「それがちょうどいいからね」
ふふ、と笑う祖母は少女のように無邪気で可愛らしい。思わず毒気を抜かれてしまい、段々と何に怒っていたのかさえも分からなくなってくる。
小さく溜息を吐く。言いたいことはまだあったものの、そうやって笑えるくらいであるならば、大げさに怖がるほどでもないのかもしれない。布団に入り出した祖母のため部屋の電気を消しながら、何となく思う。
「おやすみ」
「はい。おやすみ。帰るのは返事をしてからにしてあげてちょうだいね」
念を押されるように繰り返され、そういえば帰ると話したことを思い出した。何も言えず、曖昧に笑いながら電気を消す。
帰る前に一度くらいは試してもいいのかもしれない。そう思いつつ、来た時とは違い軽い気持ちで部屋を出た。
「ねぇ」
その機会は、案外すぐに訪れた。
朝食の時間。祖母と向き合いながらご飯を食べていると、不意に背後から声がした。
振り返りそうになるものの、祖母の言葉を思い出し耐える。
まだ一回目だ。返事をするのに、あと二回待たなくては。
「ねぇ」
二回目。心の中で数を数える。
目の前の祖母に変わった様子はない。聞こえていないのか、それとも気にしていないだけなのかは分からなかった。
耳を澄ます。今日も朝から風が強いのか、かたかたと窓が揺れている音がする。
トラックが過ぎていく音。食器が立てる音。
まだ声は聞こえない。
「――ねぇ」
躊躇うように声がした。控えめな、おずおずとした声音。
かちゃ、と手にしていた食器を置く。
かたん、と椅子を引いて立ち上がり。
「あのさぁ、言いたいことがあるなら、はっきり言いなよね!」
勢いよく振り返れば、ずっと後ろにいたらしい小さな少年の驚きに見開かれた目と視線があった。
「――つまり、庭で藤が咲いたから、それを見せようと声をかけてたと」
こくこくと頷く少年の純粋さに、込み上げた溜息を飲み込む。
朝食後。少年と祖母から話を聞いた所、彼はどうやらこの家の屋敷神らしい。
小さい頃から度々祖母の家を訪れる自分のことを気にかけてくれていたようで、今回花が綺麗に咲いたから見せたくて声をかけていたのだと、主に祖母が教えてくれた。
「え?じゃあ、夜中の白い手とか、誰もいない部屋の笑い声も神様の仕業?」
「それはきっと、別の子たちだろうねぇ。この家は古いから色々と集まってくるんだよ」
お茶を飲みながら呑気に答える祖母の言葉に、思わず口元が引きつってしまう。
やはりこの家には、よく分からないモノがたくさんいるようだ。その事実が確かになり、頭の隅に今すぐ帰りたいという選択肢が浮かぶのを感じた。
「悪戯好きな子もいるけれど、皆いい子だよ。仲良くしてあげておくれね」
正直に言わせてもらえれば、無理である。
今まで気のせい、見間違いで何とか耐えてきたのだ。祖母のように恐怖を恐怖と思わない、強い人と同じ扱いをしないでほしい。
「よろしく」
くい、と袖を引かれた。視線を向けると小さな屋敷神と目が合い、にこりと微笑まれる。
可愛い。
直前の怖いという感情が掻き消えていく単純さに、自分のことながら呆れつつも屋敷神に対して小さく頷いた。
袖を引かれるままに立ち上がり、藤棚の所へ向かうのだろう屋敷神に続いて歩き出す。
「楽しんでおいで。皆、あんたが好きで、喜んでもらおうと庭の手入れは欠かさないからねぇ」
自分のため、という言葉に悪い気はしない。
怖がり帰ろうとしたことなどすっかり忘れて、上機嫌でいってきますと祖母に告げた。
外に出て、耳を澄ますと聞こえてくる車や電車の日常の音。
けれど今朝はやけに遠い。代わりに耳を澄まさなくとも聞こえてくる、誰かの楽しげな声。
「こっち」
屋敷神が笑顔で手招く。周囲の花や木が風もないのに揺れている。
「こういうのなら、結構悪くないかも」
ざわり、と嬉しそうに揺れる周囲に、自分まで嬉しくなってしまう。
本当に単純だなと、美しい庭を見渡して思った。
20260504 『耳を澄ますと』
彼女が姿を消したのは、まだ辺りを雪が白く染めていた頃のこと。
家に帰ってくると、まだ幼い弟妹たちがどこか不安そうに家や庭で何かを探し回っていた。
「どうした?」
庭にいた上の弟に声をかけると、途端に泣きそうに顔を歪める。そのまま抱き着かれ、背を撫で落ち着かせながらもう一度何があったのかを尋ねると、どうやら彼女の姿がどこにも見当たらないのだという。
「――弟とけんかをしたんだ」
あぁ、そういえばと、数日前のことを思い出す。
出かける前に、弟たちの部屋が騒がしいことには気づいていた。しかし同じく彼女の声も聞こえていたから、どうにかなると然程気にも留めてなかった。
実際に夕方帰った時には、何も変わらなかったように思う。彼女はいつも通り笑みを浮かべ、弟妹たちも落ち着いていたはずだった。
「その時に、酷いことを言っちゃって」
泣きながら弟が訴える。それを辺り障りのない言葉で慰めながら、彼女ならばどんな言葉をかけるかを考えた。
きっと陽だまりのように優しい言葉なのだろう。穏やかに微笑みを浮かべ、大丈夫だよと頭を撫でてくれるのかもしれない。
そんなことをすぐに思いついてしまうほど、彼女は優しい子だった。怒っている所など一度も見たことはない。理不尽な八つ当たりでさえも、少し困ったように笑うだけで何も言うことはなかった。
「帰ってくるよね……?」
縋るような弟の言葉に、けれど何を返せばいいのか分からず曖昧に笑う。
彼女の優しさを知っているからこそ、自分たちに何も言わずにいなくなることはないと思っている。けれど彼女の在り方を思うと、突然消えてしまったかもしれない可能性を否定できない。
彼女は、例えるのならば座敷童のような存在なのだろう。家が何かと恵まれているのは、彼女が自分たちの知らない所で何かと助けてくれているからだ。彼女がいるからこそ両親が仕事で長く家を空けている状態でも、自分たちだけで生きていける。
「本当にいなくなってしまったのなら、この庭は枯れてしまうよ」
雪に埋もれた庭を見ながら、それだけを答えた。
誰も手入れをしていないはずなのに、美しく整えられた庭。春になるといつも色とりどりの花が咲き、甘い香りが庭や家を満たしていた。
「っ、そう、だよね。いなくなったりするはずない、よね」
無理矢理に作った笑みを浮かべ、弟は体を離すと家の中へと駆けこんでいく。おそらく他の弟妹たちに伝えに行ったのだろう。
小さく息を吐く。家に入る前に庭を見渡した。
けれどいくら目を凝らしても、彼女の痕跡を見つけることはできなかった。
冬が過ぎ、春が訪れても、彼女は姿を見せなかった。
誰もが不安に思いながらも、彼女のことについて何も言わない。気づかない振りをして、作った笑顔を浮かべ穏やかに過ごしている。
仲良くしていれば彼女はまた戻ってくると、願をかけているかのように。
「桜、散っちゃったね」
縁側に座り、庭を駆け回る弟妹たちを見るともなしに見る。
「でも梅は実をつけ始めたよ」
「そうだよ。それに薔薇や藤が咲き始めているよ」
その言葉に、庭へと視線を巡らせた。桜や梅は青々とした葉を茂らせ、藤棚では白や紫の花房が見事に垂れている。
奥では鮮やかな薔薇や牡丹が咲き始めており、庭に美しい色を添えていた。
「今年も、皆綺麗に咲いたね」
妹の小さな呟きが、吹き抜けた風に攫われていく。葉が擦れる音を聞きながら、静かに目を伏せた。
春が来ても、庭は枯れなかった。
暖かな家も、いつの間にか作られている食事も、彼女がいなくなった後も何一つ変わらない。
それがただ悲しい。
彼女がいてくれた時は、感謝の言葉を伝えられた。何も言わず、けれど嬉しそうにはにかむ彼女の顔を見るのが好きだった。
彼女のいない今、誰に感謝を伝えればいいのだろう。この恵まれている状況がいつしか当たり前に感じてしまいそうで、恐ろしくて堪らない。
家の中に戻り、一番奥の部屋へと向かう。
彼女がよく過ごしていた部屋。薄暗く、どこか湿っぽさを感じるのは、彼女がいなくなった後からだった。
窓を開け、空気を入れ替える。そっと押入れを開け、中から箱を取り出した。
中を開ければ古びた書物や巻物がいくつも収まっている。そこから巻物を一つ取り出した。
以前父が教えてくれた、この家の家系図。紐解いて、畳の上に広げていく。
その中で目を引くのは、墨で塗りつぶされた部分だった。何人かいる子供の中の一人。一番右側に書かれていることから、長子だったのだろう。
男か女かも分からない誰か。何故その子だけが消されているのかは分からない。
ただ、何となくではあるが、これが彼女なのだと思う。
いなかったことにされている彼女。彼女は何を思ってこの家に留まっているのだろうか。
不意に、窓から柔らかな風が吹き込んだ。広げた家系図を控えめにはためかせていく。
控えめな主張は、まるで彼女のようだ。笑おうとして失敗し、泣くのを耐えた顔で家系図を元の通りに片付けていく。
「ここに、いるんだね」
答えはない。けれど一瞬だけ、ふわりと土の匂いがした。
「弟が優しくするなと言ったから、見えなくなってしまっただけなんだね」
弟が言っていた。宥めようとしてくれた彼女に、八つ当たりをしたのだと。
その時の弟たちは、優しさが欲しかった訳じゃない。
叱ってほしかったのだ。くだらないことで争っている自分たちを、親のように窘めてほしかった。
けれど彼女にはそれができなかった。唯一与えられる優しさを否定され、そのせいで見えなくなってしまったのだろう。
「きっと皆がまた優しさを求めたら、見えるようになるんだろう」
根拠はないがそう思う。
けれどそれを弟妹たちに伝えられてはいない。伝えれば、皆は喜んで求めるはずだ。だがそれが本当に正しいことなのか、分からないでいる。
彼女が知っているのは優しさだけで、きっとその他は何も分からない。そしてその優しさが、彼女をこの家に縛り付けている。
「怒っていいんだ。勝手に存在しなかったことにされていることを、こうしていつまでも利用されていることを悲しんで、憎んでほしい」
きつく握り締めた手が震える。込み上げてくる感情に突き動かされるまま、願った。
「そうすればきっと、この家から解放されるはず。自分を犠牲に優しさを与えるならいっそ、憎んで恨んで自由になってほしい」
彼女が優しさ以外を知って本当にいなくなった後、この家は朽ちていくのだろう。
世話をしなくなった庭は荒れ、家の中も立ち行かなくなるはずだ。
けれどそれでいい。いつまでも彼女の優しさに甘えるよりもずっと、正しいことだと強く想う。
風が吹く。髪を揺らし、包み込むような温もりを感じた。
部屋を見回しても、誰の姿もない。開いた窓からは、微かに弟妹達の声が聞こえている。
この部屋には、自分一人しかいない。
――あなたが優しさ以外を与えてくれたら、私はそれを知ることができるわ。
声がした。懐かしくて、どこまでも優しい声音。
「優しさ以外を……与える……」
繰り返して、眉を寄せる。何が与えられるかを考えて途方に暮れた。
「どうしよう……」
風がそっと頬を撫でていく。誰かに頭を撫でられている懐かしい感覚に泣きそうになった。
自分には、彼女に悲しみや怒りを与えることができない。
与えられるものなど優しさだけで、きっとそれ以外に与えたいものなど愛しかない。
20260502 『優しさだけで、きっと』