春疾風が薄紅の花びらを舞い上げていく。
桜吹雪。幻想的な光景に少年は見入り、そして腕を伸ばして舞う花びらを手にしようと追いかけ始めた。
一年前熱で魘され、生死の狭間を彷徨っていたとは想像もできぬ程元気だ。少し離れた場所で様子を伺っている女も、そう思っているのかもしれない。
やがて舞う花びらを手にすることができたのか、少年が歓声を上げる。満面の笑みを浮かべ、女の元へと駆け寄った。
「これ、あげる!」
戸惑う女に手にした花びらを渡す。
七つを過ぎても女が見えるとは、どうやらうまく定着ができたようだ。
「いつも守ってくれているおれい!あと、もうひとつ」
そう言って少年は屈み込み、手近にあった石を持ち何かを地面に書き始めた。
何を書いているのか。その表情はとても真剣だ。
やがて書き終わったのか、少年は顔を上げて女を見た。どこか誇らしげに書いたものを指さし、口を開く。
「あのね、名前がないのはやっぱりよくないと思うんだ。だから僕、たくさん本を読んで調べてね、これが一番似合うと思ったの!」
立ち上がり、地面に書かれたものから目を逸らせないでいる女の手を両手で包み込む。地面から少年へと視線を移した女と目を合わせ、輝かんばかりの笑顔でそれを口にした。
「麗《うらら》……どうかな?僕、今からお姉さんのこと、麗って呼んでいい?」
「あ……」
小さく声を上げ、女はゆっくりと目を瞬いた。
ぱたり、と女の頬を伝い落ちた滴が手に落ち、流れて地面を濡らしていく。
声もなく涙を流す女に、少年の表情が次第に不安そうなものへと変わっていった。
「あ、えっと……気に入らないなら……」
「ありがとう」
言いかけた少年の言葉は、強く抱きしめられたことで止められる。
何度も繰り返される、ありがとうの言葉。
女の在り方が、新しく名付けられたことで変わっていくのを感じる。
思わず、苦笑が漏れた。可能性を考えていなかったわけではない。むしろ、こうなることは見ていて容易に想像がついていた。
けれどここまで平穏に変化を与え、受け入れるとは。まだ幼い純粋さが眩しく感じられた。
在り方は少しばかり変わってしまったが、これならばこの先も二人は問題なく過ごせるだろう。
そう思い、戻ろうと踵を返して。
不意に、手を引かれた。
びくり、と肩を震わせ、燈里《あかり》は目を瞬いた。
目の前には庇うように立つ楓《かえで》の背。その背越しに、見知らぬ男が立っているのが見える。
きゅっと手を繋ぐ温もりを感じ、視線を向ける。そこには燈里と手を繋ぎながら、真っすぐに男を見つめる睦月《むつき》の姿があった。
「おじさんは、どうして燈里ねぇに色々見せるの?」
睦月の問いかけに、男は薄く笑みを浮かべた。
「ヒントがなきゃ、求める答えを出すことができなさそうだったから」
「ヒントねぇ……答えは教えてくれないってわけか」
気に入らないとばかりに、楓が吐き捨てた。男はそんな楓の態度に肩を竦め、溜息を吐いた。
「与えられた答えなんて正誤も、況してやそれが最適解かも判断がつかないだろ?同業者ならまず間違いなく、あの子供ごと封じるか消滅させるかの判断を下す」
お前にそれができるのか。
男は言外にそう告げている。男の背後で幸せそうに笑う少年と女性の姿が視界に入り、燈里は思わず目を伏せた。
「おじさんは、燈里ねぇに答えを出させたいの?」
「いや?答えが出せるのは当事者だけだ。でもあいつは夢見の才能はないから、巻き込まれてたあんたたちの方に干渉してるってだけ」
「情報だけ与えて、そちらは高みの見物を決め込むってつもりかい?随分な趣味だね」
楓の嫌味を意に介さず、男は足元に視線を落とした。
舞い散った桜の花弁が影に落ち、そのまま飲み込まれていく。影が盛り上がり一匹の獣を形作っていく。
「ここまでか。あちらさんが気づいて荒れ始めているみたいだから、戻った方がいいな」
金の毛並みを持つイタチに姿を変えた影。それを見て、楓は僅かに顔を顰めた。
「飯綱《いづな》……ある意味同じ憑き物でありながら、祓い屋か。一番面倒な類の人間だね」
「別に敵対するつもりはない。あんたたちを無理に祓う理由が俺にはないからな」
それは嘘ではないのだろう。楓の目を真正面から見つめ男は断言する。
そしてイタチと目配せをして、男は呟き燈里に視線を向けた。
「どんな行動を起こすのか、何を選択するのかは自由だ。ただ経験上、後悔しないように動き回れば、大体はうまく転がっていく。周りがそれを可能にしてくれるから、心配するな」
柔らかく微笑む男の姿がイタチと共に霞んで消えていく。
「待って――!」
一際強い風が吹いた。桜を散らし、視界を薄紅色に染めていく。
穏やかな日差し。満開に咲き乱れる桜の花。
春爛漫。失われた幸せの記憶が、男が姿を消したことで次第に色褪せ消えていく。
遠くで楽しそうに笑いはしゃぐ声を聞きながら、沈む意識に身を委ねた。
「燈里」
優しく呼び起こされて、燈里は目を覚ました。
繋ぐ手の感覚に視線を向けると、眠りながらも手を離さない睦月の姿。
「燈里」
呼ばれて、燈里はベッドサイドに座る冬玄《かずとら》を見た。安堵が滲む目を見て、そっと手を伸ばす。
「冬玄」
触れる愛しい熱。鼻腔を擽る蝋梅の香りに、目を細めた。
夢の内容を思い起こす。幼い繩手《なわて》と、麗と名付けられた憑き物。名付けの瞬間に、きっと二人の関係は変わった。
憑き物から、守り神へ。そしてそれはもしかしたら、燈里と冬玄のような関係へとなっていったのかもしれない。
だから、堕ちた。繩手を奪われそうになり、執着が麗を堕としてしまったのだろう。
「冬玄は、例えば私の中に封じられたとして、その封印を無理矢理にでも解きたいと思うのはどんな時?」
「そりゃあ、燈里が傷つけられそうになった時だろうな」
迷いなく答えた冬玄に、燈里は小さく笑う。その笑みに冬玄も表情を綻ばせ、だがすぐに真剣な目をして燈里に問いかけた。
「あの人間と憑き物がそうなんだな」
頷く燈里に冬玄はそうか、とだけ呟いた。名残惜し気に手を離し、静かに立ち上がる。
「一番簡単なのは、人間ごと完全に封じることだ。けれど燈里は嫌だろう?」
柔らかな微笑み。真っすぐに冬玄を見つめ頷く燈里に、穏やかに告げる。
「ならばあの人間を連れて、憑き物の本体がある屋敷に行こうか」
後悔しない選択を。
夢の中の男の言葉を思いながら、燈里は迷いなく冬玄に頷いて見せた。
「無茶苦茶だな」
ファイルに目を通した後、冬玄《かずとら》はただ一言呟き、嘆息した。
どういうことかと視線を向ける燈里《あかり》と東に、冬玄はほんの僅か言いよどむ。それは二人に告げてよい内容なのか判断に迷ったからではなく、どう噛み砕いて説明するかを悩んだからだ。
「全ての元凶はあの人間の祖父の家なんだが、そこが代々執り行っていることが間違っている……いや、この家の憑き物筋という前提が間違っているというべきか」
「南も言っていたわ」
首を傾げ、東は言う。
「何がしたいのかよく分からないって。それから、燈里をしっかり守るようにって念を押されたわ。どういう意味なのかしら?」
「そのままの意味だ……憑き物が権力と富の象徴として扱われている所から、よく分からん儀式まで、全部が矛盾と妄想が入り混じって、訳が分からないことになっている」
「矛盾と、妄想?」
眉を寄せる燈里に、冬玄は手元のファイルを開いて見せる。
いくつかの写真と事細かに記された資料は、どうやら繩手《なわて》の祖父のいる村と屋敷について書かれているようだ。どこか寂れた感じのある村には、広大な敷地に建つ豪勢な屋敷は異様に見える。
富の釣り合いが取れていない。そう燈里は感じた。
「権力や富の象徴って言ってたけど、他の人からは妬まれたり避けられたりしなかったのかな?」
一般的に憑き物筋と呼ばれるのは、人の妬み嫉みなどの暗い感情が起因していることが多い。
憑き物を使役して、他者から財を奪っている。だから裕福なのだろうという僻みがあるからこそ、憑き物筋と呼ばれる家は忌み嫌われ、差別され、閉鎖的になっていくのだ。
しかし燈里の疑問に対して、冬玄は首を振る。資料のある一部を指さし、不可解だと言わんばかりに眉を顰めた。
「どうやら避けられるよりも、信仰に近い形で敬われていたらしい。この家の言葉は絶対で、何よりも尊ぶべきものだと思われていると資料にはある」
「認識を歪めたのかしら。村の人間全てに影響があるなんて、憑き物だとしても、とても力があるのね」
資料を覗き込みながら東は呟く。不思議そうに文字を追っているものの、その纏う気配はどこか鋭さを秘めている。
それに冬玄は気づいていたが、特に何かを言うことなく資料のページを捲った。
「まあ、そういう理由で、当然憑き物という象徴を家は失わないように模索する訳だが……その方法が、儀式というか呪法というべきか……よく分からない何かになっているな」
そこには白い壷と、同じように白い面の写真が添えてあった。
燈里の脳裏に、応接室で繩手が話していた内容が思い浮かぶ。
――蓋を開けて中を覗いてしまえば、もう戻れないんだ。
これが繩手のいう壷だろうか。
中には何が入っているのか。何のために用いられたものなのか。
資料を読み進め、書かれている内容に燈里は軽く吐き気を覚えた。
「これって……」
「燈里、無理に読まなくてもいい」
「そうよ、燈里。憑き物の一部を壷に入れて、それを一族の子供に覗かせて憑かせようとするなんて、読んでいてあまり気持ちのいいものではないわ」
憑き物の一部と書いてはあるものの、繩手に憑いているモノは女性だと書かれていた。
想像して顔を顰める燈里の背を東が撫でる。しばらくして椅子に深く座った燈里が深く息を吐くのを見て、冬玄は話を再開した。
「こういうものにはある程度決まった手順があるんだが、それをことごとく無視した方法だ。当然憑くことはないはずだが、どうやら奇跡的に憑いたらしいな。ここまでなら、まだ理解はできるんだが」
そこで冬玄は一度話を区切り、眉間にできた皺を伸ばすように揉み解した。
できることならば、ここから先の話は燈里に聞かせたくはない。だが巻き込まれてしまっている以上、対策を取る意味でも知らなければならないことでもあった。
冬玄の思いを察して、燈里は大丈夫だというように笑って頷く。右手の薬指に嵌る指輪に触れれば、冬玄もまた同じように指輪に触れ、続きを語り始めた。
「これは憑き物を広める目的で行われるわけではないようだ。憑いた子供がある程度成長したら、今度は逆に当主に憑くモノに与えるらしい」
捲られたページに書かれた内容と冬玄の説明に、東が不可解だと言わんばかりに眉を顰めた。
何度も資料を読み返し、それでも何一つ理解できなかったのか、答えを求めるように顔を上げて冬玄を見た。
「何なのそれは?与えて、戻すの?何のために?」
「さあな。憑き物の力を増すためや、人身御供のようにも見えるが、完全に憑き物筋の在り方から逸脱している……寄せ集めの知識で効果がありそうなものを試してみたと言われても、納得できる気がするな」
肩を竦め冬玄は答えた。資料を閉じ、今度は日記帳のあるページを開く。
「実際に、ほぼ攫われた形であの人間は当主の元へ連れて行かれたらしいな」
そこには酷く乱れた字で、文字が書き連ねてあった。
繩手の身を案じる言葉と、憑き物や書き手の父に対する憎しみ、恨みの言葉で埋め尽くされたページは見ているだけでも息が詰まる。
日記のページが捲られる。しばらく続く乱れた文字の羅列がページを捲る度に過ぎていき、あるページでそれは唐突に収まった。
――生き汚い男。あれだけのことがあっても、まだ生にしがみつくのか。
直前の乱れた字とはかけ離れた、丁寧に書かれた一文。
字と書かれた内容の差異に強い侮蔑や嘲笑を感じて、燈里は肩を震わせた。
「そこで何があったのかは分からない。だが、おそらくここで起きた何かが、後に憑き物を封じるという判断になったのだろう」
捲られた次のページには、書き手の困惑や不安、恐怖が綴られていた。
――女がいる。本当の化け物に成り下がったくせに、どうしても式貴《しき》から離れない……何で、どうしてこの子なのか。この子はお前のせいで誰よりも、ずっと苦しい道を辿ってきたというのに、まだ解放してくれないのかっ!
そこから先は、繩手と憑き物を切り離す方法を模索している文面が続いていた。
無茶苦茶だ。それが燈里の正直な感想だった。
聞きかじった知識を、情報の精査もしないで、繩手に試している。これでは書き手の父が行っていたこととさほど変わりはない。
眉を寄せる燈里を見て、冬玄は日記の最後のページを開いて見せた。そこには簡潔に、しかし安堵が滲んだような文面でこう書かれていた。
――時間稼ぎではあるけれど、封じてくれる人を見つけることができた。ようやく式貴を幸せにしてあげられる。
酷く穏やかな文字だった。
それが燈里には悲しく見えていた。
「これで封じられたのね。けれど時間稼ぎということは、最初から解けてしまう術だったのかしら」
「だろうな。時間経過か、それとも何か切っ掛けがあったのか。ともかく封が解けかけている状態で、燈里が巻き込まれている訳だ」
「困ったわね。大本を断てば、燈里は助かるのかしら」
そう言いながら東は冬玄からファイルを受け取ると、ぱらぱらと流し読んでいく。
ふと、ファイルから一枚の写真が滑り落ちた。足元に落ちたそれを、燈里は特に気にすることなく拾い上げる。
そして何気なく写真に視線を落とした時だった。
「――っ」
周囲から音が消えた。
弾かれたように顔を上げる。だがそこに冬玄や東の姿はない。
「――い」
目の前で俯いて座っているのは、見知らぬ女性。
長い黒髪。白装束から覗く細い手は鱗に覆われている。
「ゆるさない」
ゆっくりと、女性が顔を上げた。髪の間から見えるその肌も鱗に覆われ、強い怒りや憎しみを孕んだ金の眼が燈里を睨みつけている。
「ゆるさない……あの子を、苦しめる……」
ゆっくりと女性が立ち上がるのを、燈里は瞬きすらできずただ見つめていた。
体が動かない。視線を逸らすことができない。
向けられる強い感情に、呼吸すらうまくできなくなっていく。
「誰より……何より、優しい子……守る……ずっと、ずっと」
腕が伸ばされる。
その手が、燈里に触れる寸前。
「燈里ねぇ!」
強く腕を引かれ、視界を塞がれた。
しゃん、と、聞こえたのは錫杖の音。
視界を塞ぐ誰かの手が離れた時、そこには女性の姿はなく。
険しい顔をした、冬玄と東。そして腕を掴む睦月《むつき》と背後に立つ楓《かえで》が、燈里を見つめていた。
後日。燈里《あかり》は冬玄《かずとら》と東と共に、繩手《なわて》の家へと向かっていた。
「あの人間、許せないわ。あんな卑怯な手で燈里を無理矢理巻き込んだのですもの!」
「煩い。少しは静かにしろ」
燈里の腕に抱き着き怒りを露にする東を、冬玄は一瞥し窘める。しかしその目は鋭く凍てついて、纏う空気すら張りつめていた。
「どうしてそんなに落ち着いていられるのかしら!北は燈里のことが心配ではないの?」
「だからといって、燈里にしがみついて耳元で喚くな。燈里の迷惑だろうが」
「私は、別に迷惑だなんて思ってないから……でも、できればもっと穏便に……」
腕に抱き着く東に大丈夫だと微笑みかけてはいるものの、燈里の表情はどこか固い。それはこれから繩手に会いに行くことも原因の一つではあるが、どちらかと言えば、冬玄と東の会話の内容に対しての方が大きいからだった。
「それよりも分かっているだろうな」
「もちろんよ!あの人間がまた混じって燈里に危害を加える時には、人間ごと封じればいいのでしょう?ちゃんと南に札は貰っているわ」
「ちゃんとすぐに取り出せるようにしておけ。時間との勝負だ。相手が燈里に干渉する前に終わらせるぞ」
真剣な二人に、燈里は何度目かの溜息を吐いた。できるだけ繩手に危害を加えたくはない燈里ではあるが、どちらも聞き入れる様子はない。
人と妖の感覚の違いなのだろうか。救いたい燈里と違い、二人は自己責任として切り捨てることを厭わない。
「燈里。そんなに不安がらなくても、失敗なんてしないわ。速さには自信があるもの」
「いえ、そういうことではなくてですね……」
「燈里」
できることならば封じないでほしい。そう言いかけた燈里を、冬玄の静かな声が止める。
窘めるような響きに眉を寄せ、燈里は視線だけを冬玄に向けた。
「そもそもあの人間が祀り方を誤ったから、憑き物が暴れているんだ。それに巻き込まれただけの俺たちが、心を砕く必要はない」
「そうよ!富を得ようと迎え入れたのに、正しく祀らなかったのだから自業自得だわ。無理矢理封じたせいで混じってしまった後始末をしてあげるのを感謝してほしいくらいよ」
怒りが収まらない二人からそっと視線を逸らし、肩を落とす。
憑き物筋がどういうものか。その末路を燈里も知らないわけではない。しかし繩手の場合は、自ら望んで受け入れたようには思えなかった。
「会って早々、手荒な真似はしないって約束してね」
これまた何度目かになる忠告を二人にしながら、教えられた繩手の家へと足を速めた。
「いらっしゃい。まさか本当に来てくれるとは思わなかった」
出迎えた繩手は変わらず青白い顔をしながらも、その表情はどこか安堵が滲んでいる。
「あんたが無理矢理約束をしたんだろうが」
「あ……そう、だね……俺が……」
不機嫌な冬玄の言葉に、繩手の表情は途端に暗くなる。
無理もない。繩手は燈里に巻き込まれてほしいと言ったことを覚えてはいなかったからだ。
助けを得られるのはありがたい。だがその理由が自身の脅すような言動にあること、そしてそれが両腕の痣の原因であろう憑き物の仕業であることは、繩手にとって恐怖でしかなかった。
「こっち。両親の部屋はそのままにしてあるんだ」
繩手の案内で部屋の奥へと向かいながら、燈里は冬玄と東の様子を伺う。纏う空気は鋭いものの、問答無用で手を出す気配がないらしい。そのことに少しだけ安堵して、燈里は繩手に話しかけた。
「あれから、何か思い出せたことはある?」
「いや、なにも……」
答える声は沈んでいる。
「麗《うらら》って名前にも、やっぱり心当たりはないよ」
それは応接室での話し合いの際、繩手が口にした名だった。
あの時、繩手は燈里と麗の目が合ったと言っていた。ならば、それは繩手の中にいる憑き物の名である可能性が高かった。
「ごめん。巻き込んで」
「気にしないで。とにかく今は手がかりを見つけないと」
大丈夫だという燈里の微笑みに、繩手もほんの少し表情を緩めた。
そして、ある部屋の前で立ち止まり、ゆっくりと扉を開ける。
「ここが両親の部屋。何か見つかればいいんだけれど」
「見つかればじゃなくて、見つけないといけない……それじゃ、手分けして探そうか」
その部屋はカーテンを閉め切っているせいか、暗く湿った匂いがした。
カーテンを開け日差しを取り入れてもなお暗さが残っているようで、振り切るように燈里は頭を振り部屋の中から手がかりになりそうなものを探し始めた。
「宮代《みやしろ》さん。これ……」
暫くして繩手が燈里に見せたのは、何冊もの分厚い日記帳だった。
日記の一つを手に取りぱらぱらと捲る。どうやら繩手の成長記録のようで、彼の幼い頃の様子が事細かく書かれていた。
思わず笑みを浮かべながら燈里は文字を追うが、ある日付に書かれていた内容にその表情は一気に険しさを増す。それに気づいた冬玄が日記を覗き込み、同じように眉を顰めた。
「宮代さん?」
「北?何か見つけたのかしら?」
近づく東と繩手に、冬玄は無言で日記のページを見せた。その内容に表情を険しくする東とは対照的に、繩手はただ困惑する。
――やっぱり父の家に行くべきではなかった。式貴《しき》にもしものことがあったら、私は絶対に父を許さない。どんな手を使ったとしても必ず、報いてやる。
憎しみに近い、怒りを綴った言葉。日付を見ると、どうやら繩手の六歳の頃の出来事のようだ。
その日にはそれ以上のことは書かれてはいない。しかし後の日記には、しばらく高熱が続いている様子が書かれている。
「そんなことがあったんだ……ごめん、記憶にない」
申し訳なさげに首を振る繩手を、冬玄は鼻で笑う。それを燈里が窘めようとするのを手で制し背に庇いながら、冬玄は繩手の眼を見据え告げた。
「黄昏時だ。巻き込んだのだから、ある程度の情報を寄越せ」
「冬玄?何言って……」
言いかけて、ふと差し込む光に朱が混じり始めていることに気づき、燈里は口を噤んだ。
黄昏時。逢魔が時とも呼ばれる夕暮れは、人と魔が混じり合う時間帯だとされている。
繩手は答えない。応接室で見たような歪な笑みを浮かべ、冬玄の目を見返している。
沈黙。息苦しさすら感じる重く張りつめた空気から逃げ出すように、燈里はそっと窓の外に視線を向けた。
朱に染まる空。沈んでいく、燃えるような夕日はまるで目のようだ。
「燈里、駄目よ」
瞬きも忘れるほど魅入っていれば、不意に視線を覆われた。
「心を傾けてはいけないわ。惹かれてしまわないように、今は北のことだけ見ていなさい」
静かだが、有無を言わせぬほどの強さを湛えた言葉。小さく肩を揺らし、少しして燈里は深く息を吐き出し脱力する。
凭れかかる燈里の体を抱き留め、東は視界を覆う手を外しながら顔を顰めて動きのない冬玄の背を見つめた。
「北」
「そうだな。これ以上無駄に時間をかけるつもりもない。だんまりを続けるならば、こちらも少しばかり手荒にいかせてもらうぞ」
険を帯びた低い声に、繩手の笑みが深まった。
静かに腕が持ち上がる。冬玄の手にしている日記を指さし、掠れた声が答えた。
「その日記に書かれていることが、あなたたちの知りたい情報の全てだ。持ち帰ってくれて構わない」
それ以上は何も語らず、冬玄は小さく舌打ちをして日記帳を纏めて持ち、立ち上がる。
帰れと言外に告げられたのは、夜が来るからなのだろう。意図を汲んで東も立ち上がり、燈里を伴い部屋を出る。冬玄もそれに続くが部屋を出る寸前繩手を振り返り、無感情に問いかけた。
「あんたは何だ?燈里に何をさせようとしている?」
色を暗くする朱に染められた部屋に落とされた影が揺れ動く。
繩手は動いてはいない。表情の読めない繩手とは違い、影は冬玄の問いに小さく首を傾げたように見えた。
「繩手式貴。ただ違うのは、昼間固く閉じている記憶の蓋がほんの僅かに開いていること……宮代さんには、これ以上蓋を開かせない方法を一緒に探してほしい」
「――俺は、嘘は嫌いだ」
その言葉に、繩手は小さく笑った。
貼り付けたものではない、困ったような笑みだった。
「本当でもないけど、嘘でもない。昼間の何も知らない俺は、思い出すことを恐れている。箱に閉じてくれた両親の献身を、意味のないものにはしたくないから……けれど今の俺は、開いた隙間から出ていってしまった麗の一部を取り戻したいと思っている」
冬玄の表情が歪む。
警戒ではなく、心底面倒だと言わんばかりの顔をして、何も言わず部屋を出て行った。
「ごめんなさい。あなたまで巻き込んでしまう」
泣きながら謝罪を繰り返す女の背を、夫らしき男が撫でている。
「式貴《しき》を守るためだ。むしろこの子のために役に立てるのなら、これほど嬉しいことはないよ」
二人の前には、昏々と眠り続ける青年の姿。
まだ十代半ばくらいの、まだ大人の庇護を必要とする青年は、二人の献身を知らない。目覚めた後の悲しみと苦難はどれほどのものだろうか。
「もう泣かないでくれ。形は違うがこれからも、ずっと一緒にいられるのだから不安はない……それが、たとえ時間稼ぎでしかないとしても」
「っ……ありがとう、あなた」
微笑み合う二人は、果たしてどこまでを正しく理解しているのだろうか。
青年が眠り続けている原因であるモノ。封じ込めるための対価と期間のつり合いが取れていると、本当に思っているのだろうか。
誤った手順で迎え入れてはいるが、だとしても憑き物として迎え入れたことには変わりがない。不完全な憑き物を封じ込めるなど誤った方法を取ることの危険性を、どう思っているのか。
「――そろそろ、始めようか」
「えぇ、そうね……式貴。愛しているわ。あの時は守ってあげられなかったけれど、今度こそ守るから」
青年の頭を、二人は優しく撫でる。
二人に気づかれぬように、密かに息を吐いた。
あれこれ考えた所で二人の考えが変わるわけでもなく、その結果も何一つ変わらない。
どんなに手を尽くそうと、猶予が伸びるだけで結末は一緒なのだ。
二人の手が、青年の腕にそれぞれ添えられる。この状況で似つかわしくない穏やかな微笑みを浮かべ、目を閉じた。
――人とは、どうしてこんなにも面倒な生き物なのだろうか。
そんな戯れ事を考えながら、同じように青年へと手を伸ばした。
次の朝。
抱き着く誰かの腕を感じて、燈里《あかり》は目を覚ました。
東だろうか。幼いようでいて、しっかりと道理をわきまえている彼女にしては珍しいこともあるものだと、未だ微睡む意識で考えながら布団を捲る。
「睦月《むつき》……?」
予想外のことに、燈里は目を丸くする。いつもはどこか遠慮しがちで素直に甘えることの少ない睦月が、こうして布団の中に潜りこんでいる。何か良くない夢でも見たのだろうかという心配と、拠り所にしてくれているという愛しさに、燈里は嬉しくなった。
「ん……燈里ねぇ?」
名を呼んでしまったことか、それともしばらく見ていたからか、睦月の瞼が震えゆっくりと目を覚ました。
焦点を合わせるように何度か目を瞬き燈里の姿を認めると、ぼんやりとしていた表情がふにゃりと笑顔に変わる。
「おはよう、燈里ねぇ」
「おはよう。どうしたの?嫌な夢でも見た?」
不安そうな燈里に、睦月は首を振った。
腕を伸ばし、燈里の頭を撫でる。突然の行動に戸惑う燈里に、睦月は懐かしむように目を細めて呟いた。
「夢を見た時、燈里ねぇがこうして頭を撫でて一緒にいてくれたから」
してもらって嬉しかったことを、同じように燈里にしているのだと睦月は言う。一度強く抱き着いてから離れると、するりとベッドを抜け出した。
「燈里ねぇは、やらなきゃいけないことがあるんでしょ?お家のことはわたしと楓《かえで》ねぇに任せて、頑張ってね」
「睦月……ありがとう」
睦月の優しさに、燈里はふわりと微笑んだ。
部屋を出て行った彼女に続いてベッドから抜け出し、身支度を整えていく。
「そうだね、頑張らないと……これからも、ずっと皆と一緒にいるためにも」
呟いて、一つ深呼吸をする。
決意を新たに、部屋を出た。
ぱらぱらと日記帳を捲る。
流し読むだけではあるが、それでも熱が下がった後の繩手《なわて》の奇妙な行動が目についた。
――式貴《しき》以外誰もいない部屋で、二人分の話し声が聞こえる。
――夕暮れ時に、ふと影を見たら知らない女の影が見えた。一瞬だけですぐに消えてしまったけれど、見間違いではない。
――式貴の腕の痣が濃くなってきている。女の気配が強くなっている。家が裕福になっても、この子が犠牲になるのなら、そんなものいらない。
繩手に付きまとう女性の影と、物理的に裕福な家庭。
憑き物筋として憑くのは、一般的に狐や蛇などだ。人が憑き従うことはありえない。
女性を慕い、敬っていたという繩手。与えられていた加護。
憑き物筋というよりも、燈里と冬玄《かずとら》の関係に酷似していた。
「冬玄。もしかして、繩手くんは……」
「言いたいことは予想がつくが、この人間の家は憑き物筋だ」
燈里の言葉を遮り、冬玄はそう断言する。顔を上げ、困惑する燈里の目を見つめて問いかける。
「燈里にとって、俺は何だ?」
「え?」
目を瞬き、遅れて何を問われたかを理解したのか、燈里の頬が赤く染まる。
視線を彷徨わせ、俯きながら、消え入りそうなほどか細い声で答えた。
「……私の……た、大切で……大好き、な……人……」
冬玄の動きが止まった。
俯く燈里を凝視したまま、ゆっくりと手を伸ばす。
しかしその手が燈里に触れる寸前冬玄は我に返り、誤魔化すように咳ばらいをしてそっと手を引いた。
「そうなんだが……いや、そうじゃなくてだな。宮代《みやしろ》の……まぁ、俺も宮代になるわけなんだが……あぁ、いや、その……」
ここに楓《かえで》がいればまず間違いなく呆れ、冬玄を蹴ってでも話を進めただろう。
しかし幸か不幸か、楓は睦月と共に買い物に出てしまっている。そのため、甘酸っぱい空気の漂う部屋で、二人はしばらく赤面しながら無言のまま固まることとなってしまった。
「燈里!」
そんな気まずい沈黙を吹き流すかのように、一陣の風と共に東が部屋に飛び込んでくる。
慌てる二人を気にすることなく、東はどこか誇らしげに胸に抱いたファイルを掲げてみせた。
「南が調べたものを持ってきたわ!そちらの進捗はどうかしら?」
慌てている二人に、東は不思議そうに首を傾げる。掲げた資料と机の上の日記帳を交互に見て、あぁ、と得心がいったように頷いた。
どうやら慌てている理由を、まだ十分に日記を読み進めていないからだと思ったようだ。
「心配しなくても大丈夫よ。わたしも手伝うわ」
「問題ない。だいたいの理由は把握している」
東の持つファイルを受け取りながら、冬玄は不愛想に答えた。だがファイルの表紙に手をかけた時、ふと思いついて東に視線を向ける。
「あの人間の家に憑いていたモノは女だったらしいが、俺たちと同じだと思うか?」
「違うわ。あれは憑き物よ」
冬玄の問いに、東は迷わず断言する。
「何故そう思う?」
「だって憑き物だもの。憑いているモノが何であれ、人間がそれを憑き物だと認識しているのだから憑き物にしかならないわ」
何故、そんな当然のことを聞くのか。真意を測りかねて、東の眉が寄る。だが燈里の困惑した表情に大方の事情を察し、柔らかく微笑んだ。
「燈里。わたしたちはね、望みを映す鏡みたいなものよ。燈里が望んでくれたから、わたしは今までも、そしてこれからもずっとわたしでいられるの」
「そういうことだ。だから、というわけでもないが、色々と突拍子なことをしているようだな。詳細は分からないが全ての始まりとなった家でまた何かがあり、憑き物が変質して封じるに至ったようだ」
そう言って、冬玄は先程までの甘い気配などなかったかのように、眉を顰め手にしたファイルを開いた。
「燈里《あかり》。話す時は目を見るな」
囁かれる忠告に、燈里は横目で隣に座る冬玄《かずとら》を見た。
表情のないその横顔からは、何を考えているかは分からない。逆隣りに座っている東の刺すような警戒も感じられず、それが燈里の不安を掻き立てる。
視線を前に向け、正面に座る夏煉《かれん》と繩手《なわて》を見た。
夏煉の表情は普段と変わらない。しかしその目はどこか鋭く、繩手の言動を監視しているのだろう。
警戒されていることを感じているのか、それとも囲まれているからか、繩手の表情は青白い。記憶の中に朧気に残る彼の姿とかけ離れた姿に、燈里は僅かに目を細めた。
目を合わせてはいけない。目を合わせ取り込まれないよう忠告されたということは、縄手には確実に何かが憑いているということだろう。
それを守り、視線を落とした繩手のかさついた唇を見ながら、燈里はゆっくりと口を開いた。
「ごめんね、物々しくて」
「あ、いや。同窓会の後の話を聞いたんなら、それも仕方ないっていうか……あ。お、俺が何かした訳じゃないんだ!それは、信じてほしい」
酷く掠れた声だった。記憶の中の繩手の声との差異に、燈里は表面上は穏やかに微笑みを浮かべながら、内心で警戒を強める。
「うん、そんなこと思ってないから心配しないで。それより、私に話があるって聞いたけど」
繩手の唇が震える。目を見れないため、彼が何を考えているのか察することは難しい。だが震える体や唇は、何かを恐れているように燈里には感じられた。
「じ、実は、その……助けて、ほしくて」
「助ける?」
「話を聞いてくれるだけでもいいんだ!これ以上はもう、本当に……っ!」
がたがたと繩手の体が激しく震え出す。痩せた手が顔を覆い、呻くように声が漏れる。
最初に反応したのは東だった。警戒を露わに立ち上がる彼女を、夏煉は短く名を呼ぶことで制止する。それでも納得がいかないのか繩手に鋭い視線を向け、ややあって元の通りに座り小さく鼻を鳴らした。
「繩手くん?」
「ごめん。もう、どうすればいいのか……蓋を開けて中を覗いてしまえば、戻れないんだ。忘れたままにできない……どうすれば……これ以上は……」
呻くように言葉を続ける繩手には、周囲の様子を気にかける余裕はないように見えた。燈里のことすら認識していないのかもしれない。
思わず身を乗り出す燈里の体を、冬玄の手が止める。視線を向けると、やはり感情の読めない目をして、冬玄は静かに口を開いた。
「あんたのその両腕は、誰が封じたんだ?」
「え……?」
震えていた繩手の動きが止まる。
のろのろと顔を覆う手を離し、袖を捲る。痩せこけたその両腕には、うっすらとだが黒く何かが巻き付いているように見える痣が浮き出ていた。
「これ、は……」
「徴《しるし》を消し、記憶を消して封じていたようだが、それが綻びかけているな。助けを求めるのは燈里ではなく、その封をしたやつの所だ。これ以上関わろうとするな」
「封じた……そんな……そんな人、知らない。何で、こんな痣……今朝はなかったのに」
声を震わせ腕をさする繩手には、痣のことも、封を施した誰かのことも記憶にないのだろう。目の前の不可解な現象に怯えている。
ふと、燈里は学生時代の卒業までの数か月のことを思い出した。
そこに繩手の姿はない。覚えてないのではなく、ある理由で学校に来ていなかったはずだ。
「そういえば、繩手くん。事故で入院してたよね?確か……両腕を怪我したって、聞いたけど」
「あ……入院……」
燈里の言葉に恐慌をきたしかけていた繩手が、落ち着きを取り戻す。深く息を吐いて、ソファの背に凭れながら当時を思い出すように宙を見る。
「入院、してた……あぁ、そうだ。確かに入院して、その時に記憶をなくしたって、皆が言ってた。今までの全部の記憶じゃなくて、事故のこととか、小さかった子供の頃のこととかだったから、そんなに不便はなくて……あぁ、いや、思い出してはいけないって感じて、だから気にしないように……」
「それなら、あんたの両親に聞けば済むことだな」
無感情にそれだけを告げて、冬玄は燈里を促し立ち上がる。
退室しようとするが、数歩歩いた所で燈里は何かを思い出したように足を止めた。
「待って。間違ってたら申し訳ないんだけど、繩手くんのご両親って卒業式の前日に……」
振り返る燈里に、繩手は力なく笑う。肩を落とし、燈里の言おうとしていたことを肯定した。
「うん。俺の両親は亡くなってる。それに親戚とも疎遠になっていたから、当時のことを知っている人はいない……だから、もう閉じられない」
冬玄の表情が歪んだ。
燈里を縄手の視界から隠すように、一歩前に出る。一気に張り詰めた空気に、燈里は冬玄の腕を軽く引いた。
「冬玄」
「燈里、下がっていろ」
「でも……」
固い声に戸惑いながら、燈里は繩手に視線を向けた。
「え……?」
先程から、繩手は無言のまま微動だにしていない。殺気にも似た鋭い空気に怯えているのかと思っていたが、それは間違いだと気づく。
「繩手、くん?」
笑っていた。
唇が歪に弧を描き、頬を涙が伝い落ちていく。
「宮代《みやしろ》さん」
声を震わせ、繩手は燈里を呼ぶ。
縋るような、祈るような響きを湛え、囁く。
「視線が合わないのは、警戒しているからだよね。目を見つめると、囚われると理解しているから……でも、遅い。さっき宮代さんは麗《うらら》の眼を見てしまった」
「燈里っ!」
びくり、と燈里の体が震えた。意思とは無関係に、繩手と眼を合わせようと視線が動く。
「燈里、止めろ」
肩を引かれ、燈里の目が冬玄の手に覆われる。それでも時間稼ぎ程度にしかならないことを理解して、忌々しいと冬玄は舌打ちした。
「宮代しか頼れる人はいないんだ。どうか、巻き込まれてくれ」
険しさを増す周囲を感じながら、燈里は冬玄の腕の中で小さく頷いた。
「宮代《みやしろ》。少しいいか」
編集長である夏煉《かれん》に呼ばれ、燈里《あかり》は彼女と共に応接室へと移動した。
「宮代に会いたいという連絡が来た」
「それって……」
燈里の脳裏に繩手《なわて》という同級生の姿が浮かぶ。事情は話してはいないが何かを察しているのだろう。普段よりも険しい表情で、夏煉は燈里の目を見据え告げた。
「繩手という男だ。あれは何かが憑いているな。断ろうとも思ったが、他所で接触されるよりはここの方が安全だと判断して、仕事終わりに約束を取り付けた。北に連絡して、来るように伝えてくれ」
予想もしていない言葉に燈里は目を丸くする。
北とは冬玄のことだ。かつて小さな村で祀られていた時の呼び名であった。
そしてその名で呼ぶ夏煉もまた、冬玄と同じ存在だった。
夏煉に無言で促され、燈里は慌てて冬玄に連絡を取る。事情を説明するより早く、すぐに行くとだけ告げられ切れた電話に、燈里はただ困惑する。
「すぐ、来るそうです。それで、その……」
「ならば、北が来るまではここで仕事をしていてくれ。東を呼んでいるから問題はないだろう」
繩手について話をしようとするが、夏煉はそれだけを言って応接室を出て行ってしまう。呆然とその背を見送っていると、不意に背中に誰かが抱き着く感覚がした。
「燈里!久しぶりね。わたしが来たからには、もう安全よ」
ふわりと鼻を掠める沈丁花の香り。聞き覚えのある声に振り返ると、長い黒髪の少女がにこにこと笑いながら燈里に抱き着いていた。
「お久しぶりです。でもどうしてこちらに?」
夏煉に東と呼ばれている少女は冬玄と同じ村に祀られていた存在だった。冬玄が宮代の守り神として祀り直されたように彼女もまた他の場所で祀り直され、先日のある出来事を切っ掛けに縁ができた。
「南が燈里が危険だから今すぐ来るように言ったのよ。堕ちた憑き物に狙われているのでしょう?」
「堕ちた、憑き物?」
状況が良く理解できず、燈里は首を傾げる。それを真似するように東も首を傾げ、不思議そうに目を瞬いた。
「違うのかしら?」
「いえ、憑き物筋らしき男性には心当たりがあるのですが、堕ちた、というのは?」
「西のような澱みを感じたのですって。また南は何も説明しなかったのね」
分かりやすく頬を膨らませ、東は怒る。燈里に抱き着いたまま、仕方がないと溜息を吐いた。
あのね、と聞いた情報を説明しようと燈里を見つめた東の動きが止まる。次の瞬間には険しい表情で部屋の扉を睨みつけた。
「来る……」
警戒を露にした呟きと同時、扉がじわりと端から黒く染まり出す。光沢のない、どこまでも暗く底のない黒。息を呑む燈里に抱きつく腕を強め、しかし片手だけを離して、指先を扉に向けた。
ぶわりと風が巻き起こる。春疾風よりも強く鋭い風の刃が扉に突き刺さるが、それはすべて黒の中へと吸い込まれてしまう。
「燈里。離れないでいてね」
小さく舌打ちする東の手には、いつの間にか翁の面があった。躊躇なく面をつけると、もう一度、鋭さを増した風が扉に向けて放たれる。
びしり。扉に刻まれるいくつもの傷から、どろりとした黒が流れ落ちてくる。血のようにも、涙のようにも見えるそれから燈里は目を逸らせないでいた。
痛み、悲しみ、あるいは怒りが黒を通して染み込んでくる。食い入るように見つめる黒の奥底。
金の眼と視線が合った。
気づけば星空の下、庭先に一人佇んでいた。
月のない、暗い夜だ。風もなく、生き物の声もなく、辺りは静謐で満たされている。
――がたん。
ふと、音がした。立て付けの悪い戸を開けた時のような、そんな少しばかり乱暴な音。
気になって視線を向けた。
ちょうど屋敷から誰かが這い出てきていた。黒い面をつけた子供。同じように黒く染まった両腕を動かし、必死になって部屋から出ようとしている。
ひゅうひゅうと、か細い呼吸音が聞こえる。体を引き摺り、縁側から庭先まで転がるように降りてきた子供は、けれどもそこで体力が尽きたのか動く様子はない。
――また、すべて失敗か。
部屋の中から、低い声が聞こえた。感情を抑えてはいるものの、その声音には隠し切れない落胆や苛立ちが滲んでいる。
また意味のないことを繰り返している。手順を誤っているのだから、正しく定着するわけはないだろうに。
倒れ伏す子供に近寄った。辛うじて生きてはいるが、それも時間の問題だろう。
そっと腕を伸ばす。黒い面に手が触れる、寸前。
吹き抜けた風に乗った花びらと雪に視界を覆われ、意識は暗転する。
「燈里」
名を呼ばれ、燈里はゆっくりと目を開けた。
「冬玄」
目の前には心配そうに顔を覗き込む冬玄の姿。燈里はどこか冷静に、自分が冬玄の膝に頭を乗せソファに横たわっていることを理解した。
「燈里!目を覚ましたのね!」
燈里が目覚めたことに気づいた東が、ほっと息を吐く。
だがその表情は翁の面に隠れ、分からない。
まだ安心はできないのだろう。夢の余韻を振り切るように、燈里は一度強く目を閉じた。
「無理をするな。もう少し横になっていろ」
「大丈夫。少し夢を見ただけだから」
目を開け安心させるように燈里は微笑み、ゆっくりと体を起こす。状況を理解しようと周囲に視線を巡らせ、応接室の扉を見て眉を寄せた。
刻まれ凍りついた扉の破片が部屋の隅に申し訳程度に集められているだけで、大方の事情が察せられる。無言で二人に視線を向ければ、それぞれ仕方がなかったと口にしながらも視線を逸らした。
「まあ、あの状況だと仕方ない部分はあるだろうけど、南方《みなかた》編集長にはちゃんと説明しないと」
「大丈夫よ、燈里。南にはもう叱られたもの」
「胸を張って言うことではないな」
呆れた声がして、燈里は応接室の入口に視線を向けた。同時に、東が燈里を庇うように前に立ち塞がる。
東の肩越しに見えるのは夏煉の姿。そしてその後ろに誰かの影が僅かに見えた。
「客人を連れてきた。彼の中のモノが動けない間に話をしてしまおう」
そう言いながら夏煉は応接室に入り、机を挟んで燈里の正面に座る。
それに続けて入ってきた男性は、目に濃い隈を作りやつれた顔をしていた。
おどおどと夏煉の隣に座り、警戒を露わにする周囲に怯えながらも、男性――繩手は燈里を見て深く頭を下げた。