夕暮れの砂浜に座り、一人海を見つめていた。
穏やかな波の音。磯の匂い。
この海は、昔から何も変わらない。
夕陽を反射して、波が煌めいた。揺らぐ赤に、何故か胸が締め付けられる。
幼い頃。この海で誰かと遊んだ記憶がある。
その誰かを覚えていない。顔も名前も、何もかもを忘れてしまった。
ただ、その子と過ごした時間が、とても幸せだったことだけは覚えている。
時間を忘れて遊び、帰るのを泣いて嫌がることもあった。
はぁ、と小さく息を吐いた。思い出そうとしても、思い出せないことがもどかしい。
こうして何度も海に足を運んでも、一人という空しさばかりが込み上げる。
そっと、砂を掻いてみた。僅かに残る記憶の欠片を手繰り寄せるように、砂の城を築いていく。
大きくなったら、本物の城を築くのだと言っていた。それは自分だったのか、それとも相手だったのかまでは思い出せない。
大きくなったら。大人になったら、大きな城で二人一緒に――。
溜息を吐く。
記憶のそれより拙い城をしばらく見つめ、その側に指で文字を書いた。
――会いたい。
覚えていない誰かに向けた、たった一言だけの手紙。
宛先のないそれを一瞥して、静かに立ち上がる。
海へと視線を戻せば、夕陽はもう海へ沈みかけていた。
帰らなければ。緩く頭を振って、海に背を向けて歩き出す。
ふと、振り返る。
遠く視界の端で、砂の城が波に崩されていく。
ゆっくりと崩れ消えていくその城は、まるで自分の記憶のようも見えた。
中々寝付けずに、何度目かの寝返りを打つ。
夕方、海へ行ったせいだろうか。酷く心が騒ついていた。
浮かぶ海の景色に溜息を吐く。寝ることを諦めて、ベッドから抜け出した。
窓へと歩み寄り、カーテンを開ける。
満天の星空と、窓越しに微かに聞こえる波の音。
いつもと変わらない夜の光景。
ただ一つを除いては。
「何、あれ……?」
僅かに見える海に、淡い光が浮かんでいた。ひしめき合ったいくつもの光が、波に漂っている。
この時期、夜の海に行ってはいけないと言われていることを思い出した。
あの光は、禁止されている理由なのだろうか。
少しだけ悩み、それでも気になって部屋を抜け出した。
生暖かい風が、剥き出しの肌を撫でていく。
その不快さに眉を寄せながら、光の方へと向かった。
波間に漂い、ひしめく光。
ゆらゆらと揺れるそれが、近づくほどに形をはっきりさせ、思わず足を止めた。
囁く誰かの声が聞こえる。波の音と相俟って、辺りに響き渡る。
ふと、夕方に作った砂の城の側で、誰かが立ち尽くしているのが見えた。
こちらを向いて、大きく手を振っている。見覚えのないその人影に、ぞわりと背筋が寒くなった。
無意識に後退る。それに首を傾げて、人影は手を下ろすとゆっくりとこちらに歩み寄ってくる。
「手紙をありがとう」
知らない声が、礼を言う。
覚えのないそれに眉を寄せ、遅れてそれが砂に書いた文字だと気づく。
同時に理解した。
会いたい、と。ただ一言だけの、砂に書いた手紙。
それが波に攫われて、知らない誰かに届いてしまったのだ。
「会いに来たよ。一緒にいこう」
人影が笑う。
逃げなければと、思考は警鐘を鳴らす。けれども、体は少しも動かない。
瞬きすらできず、人影が近づき手を伸ばすのをただ見つめ――。
不意に、目を覆われて何も見えなくなる。
塞ぐそれは、誰かの手だ。びくりと肩を震わせるが、やはり体は動かない。
見えない代わりに鋭くなる聴覚が、波の音を拾う。だが、先ほどまで聞こえていた囁きも、近づく人影の声も聞こえない。
ざざ、と波が寄せ、引いていく。繰り返すその音に耳を澄ませる内に、次第に強張る体から力が抜けていく。
ほぅ、と息を吐いた。後ろにいる誰かが、崩れそうになる体を支え、そのまま後ろに体の向きを変えさせられた。
くすり、と耳元で密かに笑う声がした。どこか懐かしさを感じる声に、恐怖とは違う感情で肩が震える。
「――もう、大丈夫」
柔らかな声と共に、目を覆う手が外される。
代わりに手を繋がれて、海から離れるように歩き出した。
「あれだけ、夜の海に行ってはいけないと大人たちから言われたのに」
どこか呆れを滲ませた声に窘められる。
「ごめん」
軽く俯いて、小さく謝った。
少し先を行く、誰かの背中。知らないはずなのに、何故こんなにも懐かしいと思うのか分からず困惑する。
自分よりも高い背。大きな手。記憶にはないはずだというのに、懐かしい。
切なくて、苦しくて。名前を呼べないことが、ただ寂しかった。
「お城と手紙、ありがとう。忘れても、会いたいって思ってくれて、約束を僅かでも覚えてくれていて、嬉しかった」
振り返りも、立ち止まりもせずに、誰かは言う。
「だから会いに来た。一人残されて苦しいままで終わった君を、連れていくために」
思わず立ち止まる。
手を引く誰かも立ち止まり、ゆっくりと振り返った。
「――ぁ」
懐かしい面影。
彼を知っていた。忘れていた記憶の底に、彼はいた。
一緒に遊んだ、海の記憶。一夏だけの、大切な思い出。
「お兄、ちゃん……」
「それにしても、随分と酷いことをする。この子は何も知らなかったのに。無知すら罪だとするなんて……なんて傲慢なんだろうか」
彼が悲しく笑う。
繋いでいた黒に染まった手を、慈しむように撫でられた。
「苦しかったね。でも、もう大丈夫だ」
彼が触れる黒が色をなくしていく。反対の手も取り黒をなくして、彼はまた手を繋いだ。
「行こうか」
そう言われて首を傾げた。
家に帰るのだろうか。そう思い辺りを見渡して、いつの間にか知らない場所を歩いていたことに気づく。
困惑して彼を見れば、優しく頭を撫でてからある一点を指差した。
「――お城?」
「約束したからね」
白い道の先に、黒の城が建っていた。陽炎のように揺らぐ城は、いつか二人で作った砂の城によく似ていた。
「あの擬きが馬鹿なことをしなければ、もっと時間をかけて作ってあげられたのだけど。足りない所は、二人で作っていこうか」
「作る?……ここに、一緒に住むの?」
問いかければ、彼は頷いて歩き出す。
「そう。人として終を迎えたら、一緒にいるって約束を交わしたから」
そういえばと、掠れた記憶を思い出した。
指切りをしたのだ。海を統べる兄と慕った彼と、遠い未来の約束を。
離れたくないと駄々をこねた自分に、僅かでも覚えていたのならと条件をつけて、優しい彼は約束をくれたのだ。
思い出して、笑みが浮かぶ。
「――ようやく、死ねたんだ」
呟いた言葉は、自分でも驚くほどに穏やかだ。
「報復を望むかい?人間に作られた存在でありながら、祟りを引き起こしたその愚行……巻き込まれた君には、裁く権利がある」
彼の言葉に首を振る。
これ以上、関わりたくはない。
どんな形であれ、縁《えにし》を結びたくなかった。
「忘れてしまいたいからいい。ただ、一緒にいてほしい」
「そうか。なら一緒にいよう。これからずっと……どちらにせよ、あれは朽ちる先しかない」
繋ぐ手に、力が籠もる。
「会いに来てくれて、ありがとう」
「どういたしまして。こちらこそ、書いてくれてありがとう。波がさらった手紙は、ちゃんと届いたよ」
微笑んでこちらを見る彼に、笑みを返す。
心は酷く穏やかだ。
苦痛に苛まれながら、一人置いて行かれた寂しさに耐える日々は終わったのだから。
20250802 『波にさらわれた手紙』
8/4/2025, 9:37:51 AM