sairo

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蝉時雨響く、八月の初め。
山門を潜り、今年もまた幼馴染みの元へ来た。
照りつける陽射しが境内の石畳を灼いている。その熱さから逃げるように、旅行鞄を抱えて足早で奥へと向かった。
寺務所や母屋へは向かわない。避けるように迂回して、直接離れへと足を向ける。

「――来たよ」

小さく呟きながら、玄関を開ける。
ひやりとした空気が吹き抜ける。沈香の荘厳な香りが鼻腔を擽る。
戸を閉めると、奥から幼馴染みが現れた。

「久しぶり。今年も来たんだね」

浮かべる微笑みは、どこか悲しげだ。

「暇だったからね」

それに気づかない振りをして嘯く。
靴を脱いで上がれば、幼馴染みはそれ以上何も言うことはなかった。
先導するように廊下を歩く。
その変わらない背を見ながら、今年も会いに来てしまったことに、そっと目を伏せた。



毎年八月になると、この村では寺の離れに子供を滞在させる風習があった。
生者と死者が交わる時期。
時間と空間が歪むのを、正しく留めるためだと大人たちは言っていた。

「長旅、お疲れ様。少し休んできたら?」
「そうする。早く荷物を置きたいし」

苦笑しながら幼馴染みと別れ、毎年使う部屋へと向かう。

障子戸を開けて中へ入り、鞄を投げ出すように降ろした。
横になり、深呼吸をする。い草の匂いに混じり、沈香の香りがして目を閉じる。

「今年も、来た」

確かめるように呟いた。
何度も悩み、今年こそはと思った。それでも気づけば電車を乗り継ぎ、バスを待っていた。
誰もいない道を寺に向かい歩きながら、引き返そうと何度も思った。
もしかしたら、今年こそは他の子供たちが担うのかもしれない。そんな淡い期待を最後まで捨てきれなかった。
そんな期待など無意味だと、誰よりも知っているというのに。
一人自嘲し、村の様子を思い出す。
昼間だというのにしんと静まりかえった村は、まるで死んでいるようだった。
子供の姿もどこにも見えない。
ここにいるのは、大人ばかりだ。

「少し、寝よ」

緩く首を振って思考を散らす。
この離れで過ごす夜は長いのだ。今の間に、少しでも休んでおきたかった。



ふと目が覚めると、外はとっくに陽が落ちて、夜の闇に沈んでいた。
急いで起き上がり、時計を確認する。
二十一時。

「――寝過ごした」

軽く舌打ちして急いで部屋を出る。
灯り一つない廊下は暗く沈んでいるが、一時とはいえ何年も過ごした場所だ。向かうべき奥座敷へは苦もなく行ける。
急がなければ。
幼馴染みの悲しい笑みが脳裏に過る。逸る心を抑えながら、廊下を駆け抜けた。



襖を開け、奥座敷へと足を踏み入れる。
暗く静かな部屋とは対照的に、縁側に続く障子の外からは複数の声が聞こえた。
何かを嘆く声。苦悶に呻く声。
怒る声。恨む声。

「ごめん。寝過ごした」

それを気にせず戸を閉めて、座敷の中心に座る幼馴染みの元へ足早に近づく。
俯く幼馴染みは、体を震わせながらきつく手を握り締めている。声が聞こえる度に小さく声が漏れ、身を屈めて自身の肩を抱きしめた。
悲鳴を噛み殺し、何かに必死に耐えている幼馴染みに、唇を噛みしめた。
遅れた後悔に、ごめんと繰り返し。膝をついて、そっと幼馴染みへ手を伸ばした。

「そのまま、寝ていてくれても良かったのに」
「ばか」

か細い声に眉が寄る。言いたいことを飲み込んで、自身の腕に爪を立てている冷たい手を剥がし、自分の手と繋いだ。

「――っ」

途端に脳裏に流れ込む映像に、顔を顰めながら耐える。

それは、どこかの部屋。
床に伏せる自分の周りを取り囲む、大人たち。

「財産は……」
「こんな田舎……」

障子の向こうの声が、映像と重なる。
険しい顔をした周りが、声を抑えようともせず、金銭のことについて話している。
不意に、その内の一人がこちらを見下ろした。
侮蔑や嘲りを隠そうともしないその表情。苛立ちながら口を開いた。

「何の価値もない。家にも、親父にも……せめて、周りに迷惑かけず、さっさとくたばっちまえばいいのに」

伸びる手を視界に入れて、避けるように幼馴染みの手を離した。

「――っ、あ……ぅ……」

荒い息を吐きながら、額に滲む汗を拭う。
きつく目を閉じ、今見た記憶を散らす。
ゆっくりと呼吸を繰り返す。
まだ、一つ目だ。日付も変わらない内から、休んでいる暇はない。
そう自分に言い聞かせ、滲む涙を乱暴に拭う。
目を開けて、もう一度幼馴染みの手を取った。
拒むように引かれる手を、離れないように強く繋ぐ。そっと寄り添って、目を閉じた。

流れてくる誰かの記憶。
顔を顰め耐えながら、それでも今度は手を離さないようにと指を絡めた。

「――離して」

流れる記憶の合間に聞こえる幼馴染みの声に、首を振る。
返事の代わりに、幼馴染みの肩に凭れた。
こうして自分がいくつか受け入れなければ、記憶のすべてが幼馴染みを苛むのだろう。そんなこと、認められはしなかった。

「大丈夫だから。だって……」

それ以上を言わせないように、強くしがみつく。言われた所で自分の思いは変わらないが、この不安定な関係が請われてしまうのが怖かった。
幼馴染みは知らない。自分が全部知っていることを。
知らないから離そうとする。一人きりで、この地獄を耐えようとしている。
けれど、知っているのだと告げることはできなかった。

「ばか」

一言だけ告げて、新たに流れてきた記憶に耐える。
赤い空。鳴り響くサイレン。
手を繋ぎながら、必死に炎から逃げ続けた。
その手だけは、最後まで離すことはなかった。

手を強く握る。この手を離してはいけない。
すべて知って、敢えて自分はここにいるのだから。

「ごめんなさい」

謝る幼馴染みの言葉に、謝るのは自分の方だと口には出さず思う。

知っている。
この時期、子供が離れにいなければならない、本当の意味を。
大人の言葉はすべてでたらめだ。
自分たちは身代わり。
こうして訪れる、死者の記憶の受け皿だ。

沈香の香りが鼻につく。
幼馴染みの冷たい体に熱を奪われ、体が震え出す。

知っている。
幼馴染みが、もうこの世にはいないことを。
流れてくる記憶の中で見てしまった。
精神を病んでいた。長く受け皿として在り、死の記憶に晒されて、苦しんでいた。
奥座敷で揺れる体。その手には、二人で取った写真が握られていた。
けれど幼馴染みは、死んだ後も解放されなかった。受け皿として、今もこの離れに留められている。

すべて知っている。
知っていて、何も言えないでいる。言ってしまえば、二度と幼馴染みに会えなくなるかもしれない。その不安から、気づかない振りを続けている。


ここに来ることを、何度も迷った。いなくなった幼馴染みの幻と共にいることの意味を考え続けていた。
一年間。迷って、悩んで。そしてここにいる。
来年もまた、訪れるのだろう。
幼馴染みのためではない。況してや村のためなどでもない。
ただ、幼馴染みに会いたい。

その想いで、来年の八月もこの離れを訪れるのだろう。



20250801 『8月、君に会いたい』

8/3/2025, 8:14:29 AM