彼女の吹く篠笛の音色は、夜の闇に溶けていく。
花の咲かない百日紅の木に凭れ、静かにその音色を聴いていた。
夜はまだ明けない。
朝が来れば、別れの時が訪れる。近づくその時を拒むように、体は僅かにも動こうとしなかった。
不意に音が途切れる。見上げれば、木の枝に座りこちらを見下ろす少女と目が合った。
「帰らないの?」
静かな声が、問う。
視線を逸らし、無言で首を振る。この際後の夜は、彼女と共にいたかった。
彼女はそれ以上、何も言わず。篠笛の音もなく、不思議な静けさが辺りに満ちていく。
何も聞こえない。虫の音も、夜啼く鳥の声も、何一つ。
まるで世界から、彼女と自分だけが切り離されてしまったようだ。
空を見上げる。瞬く星々に、このまま時が止まってしまえばと願いかけ、自嘲した。
「月日が経つのは早いものだ。あの生意気そうな少年が、瞬きの間にこんなにも立派に成長するのだから」
楽しげな、懐かしむような声に、彼女へと視線を向ける。穏やかな笑みを浮かべて遠くを見る彼女は、何一つ変わらない。
「あんたは、変わらないな」
姿も、笛の音も。誰かを想い、切なげに揺れるその目も何もかもが、出会った時のままだ。
「初めて会った時から、何も変わらない……結局、花は咲かないままだったか」
目を伏せて、昔を思う。初めて彼女と出会った時も、夏の陽気を引き摺った、こんな暑い夜だったと思い出した。
丘の上の百日紅の木。
花の咲かないその木には、ある噂があった。
――夜になると、女のか細い悲鳴が聞こえてくる。
学校の生徒や、大人たちも聞いたことがあるという。
幽霊などいるはずがない。ならばそれは風の音など、何か別の音を聞き間違えたのだろう。
しかし何人もの人が聞いたというのが、興味を引いた。
その時の自分は、何も考えてはいなかった。ただその正体を見破りたくて、とある夏の夜に百日紅の木へと向かったのだ。
熱く湿った空気が纏わり付く、そんな暑い夜だった。
離れていても、耳を澄ませば微かに聞こえる高い音。それは悲鳴ではなく、祭などで聞く笛の音だと気づいた。
甲高く、それでいてもの悲しい旋律。訳もなく胸が苦しくて、気づけば木の元へと走り出していた。
「――ぁ」
見つめる先の光景に、思わず立ち尽くす。
木の枝に座り、笛を吹いていたのは、自分よりもいくつか年上に見える少女。
夜に浮かぶ白の着物。長い黒髪。
幻想的な光景に目を奪われる。ふらふらと彼女に近づけば、笛の音が止んだ。
「誰?」
見下ろす彼女の目は、揺らぐ炎のように赤い。
「こんな夜更けに外に出ているなんて、とっても悪い子なんだね」
くすり、と笑われて、見入っていた自分に赤面した。
「あんたは、誰だ?」
彼女の問いに答えず、逆に問い返す。
恥ずかしさから睨み付けるような格好になってしまったが、彼女は気にする素振りを見せない。穏やかに微笑みを湛えて、座る枝をそっと撫でた。
「この百日紅の木だよ」
あぁ、と納得する。
幽霊など信じていなかったが、彼女は木の精だと心から思えるほどに美しく、そして儚かった。
「夜になると聞こえる女の悲鳴は、あんたの笛の音のこと?」
きょとり、と彼女の目が瞬いた。悲鳴、と首を傾げながら呟いて、次第にくすくすと声を上げて笑い出す。
「悲鳴……悲鳴かぁ。私もまだまだだということだな」
可笑しくて堪らないというように、ただ笑う。
けれどその笑みが、どこか悲しげに見えて、意味もなく胸が苦しくなった。
耐えきれず、何も言わずに家へと駆け出す。背後から彼女の驚いた声が聞こえた気がしたが、足は止まることがなかった。
今でも鮮やかに思い出せる。
彼女の姿も、あの時の思いも、何もかもが胸を熱くさせる。
「最初に会った時が、昨日のことのようだよ。急に駆け出すものだから、気を悪くさせてしまったかと驚いた……もう来ないかと、そう思っていたのにな」
目を閉じ、夜風に吹かれながら、確かにと密かに同意する。
正体を見破ったのだから、彼女の元へ通う必要はどこにもなかった。
それでも通わずにはいられなかった。あの悲しげな笑みを、夜に一人、篠笛を吹く意味を知りたかった。
「あんたの奏でる音色が、気に入ったからな」
正しくも謝りでもない言葉を紡げば、彼女の密やかな笑い声が聞こえた。
ややあって、笛の音が聞こえ始める。その音色を聴きながら、今まで彼女と過ごしたこの夜の一時に思いを馳せた。
何度も彼女の元へと足を運んだ。
彼女は呆れた目をしながらも、笑って何も言うことはなかった。
夏の夜に始まり、秋を過ぎ、冬を越えて。春が来て、一年が過ぎ、気がつけば何年もの年月を彼女と共に過ごした。
あれは夏の終わりの頃だっただろうか。
彼女に花が咲かない理由を聞いてみたことがある。
「そうだねぇ。どうしてだろうな。気づけば花が咲かなくなっていたから、よく覚えてはいないな」
「病気なのか?どこか悪い所があったりするんじゃないのか?」
「違うさ。見ての通り、体の方はこんなにも丈夫で立派だろう……問題があるとすれば、木じゃなくて心の方だろうね」
目を細めて、彼女は遠くを見る。自分の知らない誰かを思い描いているのだろうか。
胸が苦しくなる。その痛みが恋だと知ったのは、ずっと後になってからだった。
「忘れられれば、正しく思い出にできるのなら、また花は咲くのだろうけどね」
そう呟いて、彼女は笛を吹く。
その旋律は、変わらずどこかもの悲しさを含んでいた。
不意に明るさを感じ、目を開け顔を上げた。
遠く東の空が白んでいる。
朝が訪れようとしていた。
「さて、そろそろお別れだ。楽しい時間をありがとう」
笛の音が止まり、彼女が囁く。
見上げる彼女の姿は薄れ、朝陽に消えようとしている。
立ち上がり、手を伸ばした。目を瞬く彼女の手を掴んで、強く引き寄せた。
「なっ、ちょっと……!」
「最後くらい、一緒にいてほしい」
呟けば、彼女の抵抗が弱くなる。
羽根のように軽い彼女を抱き上げ、歩き出す。丘の上、朝陽が一番近くで見える場所へと向かい、彼女を抱いたまま白む空を見上げた。
「――聞いてもいいか?」
「なに?」
「なんで、朝陽を嫌うんだ」
それは、ずっと気になっていたことだった。
彼女は陽の沈んだ後に現れ、陽が昇る頃に消える。
陽を厭う理由は、自分の知らない誰かと関係があるのだろうか。
「――戻ってこなかったからね」
小さく呟く彼女の声は、震えていた。
「別に、約束をしていた訳じゃないんだ。ただ、私に水を与え、篠笛を教えて……いつものように朝陽と共に去って、そのまま」
彼女の頬を、滴が伝う。その目は悲しみを湛えながらも、愛しげに揺れる。
今も待っているのだろう。戻らぬと知りながら、思いを止められずにいる。
愛おしいと思う。彼女のその一途さは、とても美しい。だが同時に、今を見ようとしない彼女の頑なさを憎らしくも思った。
「――そろそろ、陽が昇る」
込み上げる思いを押し殺し、呟いた。
白から赤、そして青へと変わっていく空を一瞥し、そっと彼女を覗いみた。
消えずに色を戻した彼女は、静かに空を見上げている。
その目は涙の痕跡を僅かに残しながらも、穏やかに凪いでいる。目を細め、昇る陽を見つめた。
「眩しいな」
優しい声音。そっと彼女を地に降ろす。
「約束でもするか」
そう告げれば、驚いたように彼女は振り返る。
「あんたが待つ誰かは、何も言わなかったんだろう?なら、俺はあんたと約束してやる」
「約束……」
彼女の顔が泣きそうに歪む。それに気づかない振りをして、彼女の前に跪いた。
「俺は必ず戻ってくる。どんなに時間がかかろうと、どんな形になろうと……陽を連れて、あんたの元に戻ってきてやるよ」
真っ直ぐに彼女を見上げる。ひゅっと息を呑む彼女の手を取り、笑ってみせた。
「いつの間に、狡さを身につけたのやら」
呆れたように微笑みながら、彼女はまた一筋涙を溢した。
立ち上がり、その涙を拭う。そっと抱き寄せれば、彼女は小さく息を吐いた。
「私には陽の光は眩しすぎるよ……眩しくて、咲いてしまいそうだ」
その言葉と同時、強く風が吹き抜けた。
思わず目を細める。彼女の姿が掻き消えて、はっとして、背後を振り返った。
「――あぁ、綺麗だ」
風に吹かれ、満開の薄紅が揺れていた。
篠笛の音。高らかに澄んだ音色を響かせる。
胸が苦しくなる。泣くのを耐えて微笑んで、ただ花を見つめる。
記憶に焼き付けるように。戻る時の導となるように。
陽の光を浴びて煌めく、百日紅の花に改めて誓う。
「必ずかえってくる。だからどうか、この美しい花と旋律で、俺を導いてくれ」
襟を正し、深く礼をする。
「いってくる」
微笑んで彼女に背を向けた。
陽は昇り、朝が訪れた。
心は酷く穏やかだ。心残りなどはなく、足取りに迷いはない。
不意に空を見上げた。眩い陽に目を細め。
だが彼女の笑顔の方が余程眩しいと、柄にもないことを思い、一人笑った。
20250731 『眩しくて』
8/2/2025, 9:26:17 AM