楽しげな笑い声が聞こえた。
それが友人の声だと気づいて、その声の方へと歩み寄る。
何か楽しいことがあるのだろうか。近づいて、でも誰かと一緒にいることに気づいた。
「――でね。これは秘密なんだけど」
友人の囁く声に、時折誰かの相づちが混ざる。鈴を転がしたような、水が流れていくような、そんな綺麗な声。
無意識に音を立てないようにしながら、ゆっくりと近づいた。
「凄いでしょ。優しいし、真面目だし……」
くすくすと笑う声。木の後ろに隠れながらそっと覗き込む。
綺麗な水辺で、友人が誰かと話していた。けれど友人の視線の先には誰もいない。
誰と話しているのだろうか。じっと目を凝らしていると、不意に、差し込む光が何かを反射した。
透明な、人の姿。綺麗な長い髪の女の人が、友人の話に相づちを打っていた。
その姿に見覚えがあった。それが誰か記憶を辿っていれば、見えない女の人と目が合った。
「――ぁ」
思わず小さく声を上げた。
その声と女の人の様子から、友人が弾かれたように振り返る。友人の驚き見開かれた目が私を認めて、くしゃりと泣きそうに歪んだ。
「な、んで……」
呆然と呟く声に、何か言わなければと口を開く。
けれども何かを言う前に、友人はこちらに背を向けて走り去ってしまった。
「待って……!」
追いかけようとしても、足の速い友人には追いつけない。
気づけば女の人もいなくなってしまったようだ。
一人きり、水辺に座って揺れる水面を見つめ溜息を吐いた。
「どうしよう」
意味もなく不安になる。このまま友人と離れてしまうのではないかと苦しくなって、じわりと涙が滲んだ。
今度こそ、会えなくなってしまったら。
ふとそんな思いが込み上げ、同時に疑問が浮かぶ。
前にも、こうして会えなくなる不安になることがあった。
記憶を辿り、揺れる水面を見つめて思い出す。
「あの時……川遊びの……」
すべてを思い出して、水辺をぐるりと見渡した。
数年前のことだ。
川遊びをしていた友人が、流されてしまったことがあった。
止める私を気にせず川の中に入り、笑いながら手を差し出す。怒られるよとしか言えない私の腕を取ろうとした友人の体がぐらつき、そのまま流れてしまう。
一瞬でいなくなった友人を追いかけることもできず、ただ泣きじゃくっていた。その声に気づいた大人たちが、何人も集まって探したけれど、友人はすぐには見つからなかった。
見つかったのは、翌日だ。
流されたのとまったく同じ場所で、友人は倒れていた。
「女の人……あの時、一緒にいた……助けてくれた」
思い出す。その時の光景を。
川辺で倒れていた友人。急いで駆け寄れば、朝の光が煌めいて、友人の側にいる見えない誰かの姿を浮かばせた。
長い髪の、綺麗な女の人。優しく、けれどどこか悲しく微笑んで朝霧と共に消えていった誰か。
あれからずっと、女の人は友人の側にいたのだろう。そしてそれは、他の誰かに知られてはいけない秘密だったのかもしれない。
もしも、もっと早く、あるいは遅くに来たのなら。そもそも近づこうとしなければ、このまま何も気づかないで友達でいられたのだろうか。今更な後悔に、唇を噛みしめ俯いた。
「あなたは、いつもタイミングが良い時に現れてくれる」
不意に声がした。顔を上げると、陽の光を反射して浮かぶ、女の人の姿が見えた。
「大丈夫。あの子、知られることを怖がっていただけなの。本当は知ってほしかったのに、それを言えなかった。だからあなたが来てくれて、知ってくれて嬉しい」
「――本当に?」
「えぇ。あの子、いつもあなたの話をしてくれるのよ。自慢の友達ですって。優しくて、真面目で、可愛くて……悪いことをしても、いつも側にいてくれる。怖い時、寂しい時、悲しい時……一人でいたくないと思った時に、必ず来てくれる」
くすくすと、綺麗な声で女の人が笑う。
「あの日から、周りは皆気味悪がって離れたのに、あなただけは変わらず側にいる。助かった命を喜ばれないなんて、とても悲しいから。変わらないあなたがいてくれるだけですくわれる」
笑いながら、あの川辺で見た時と同じ目をする。
優しいのに、どこか悲しげな目。寂しそうな微笑みに、気づけば手を伸ばしていた。
「悲しいの?寂しいの?」
息を呑む音がした。すり抜ける手を掴んで、女の人の姿がはっきりとし出す。
「少しだけね。でも大丈夫」
手を引かれて、抱きしめられた。頭を撫でられて、いい子と囁かれる。
「優しくて、可愛い子……もしもあの子が戻らないなら、このまま連れていってしまおうか」
「なに?」
「水に引かれた子は、戻らないのが普通だもの。だから――」
女の人の話を最後まで聞く前に、強く後ろに体を引かれた。
目を瞬いて後ろを見る。険しい表情をした友人が女の人を睨み付け、次いで私を見て強く抱きしめられる。
「駄目。私の友達は渡さない」
「いいタイミング。でも少し力を緩めないと、苦しそうよ」
そう言われても、友人の腕の力は緩まない。眉を寄せて、はっきりと首を振った。
「どこまで話したの?」
「そうね。自慢の友達だって、いつも話していることくらい。大切で、大好きな――」
「それ以上言わないで!怒るよ」
もう怒ってる。
現実逃避気味に口には出せないことを思いながら、友人から目を逸らす。けれどそれに気を悪くしたのか、抱きしめる腕の力がさらに強くなった。
ひゅっと息を呑む。痛みすら感じる強さに僅かに顔を顰めれば、それに気づいた友人に慌てて解放された。
「ご、ごめんね。苦しかったよね」
「ん、大丈夫。平気」
笑ってみせれば、友人は泣きそうな顔をする。宥めるために背を撫でて、大丈夫だと繰り返した。
「ごめん……逃げたのも、秘密にしてたのも。いろんなことに無理矢理巻き込んできたことも、全部。本当にごめん」
「気にしてない。友達だから……秘密は少し寂しいけど、仕方ないこともあるし」
「――っ、大好き!」
泣きながら抱きしめられる。痛さや苦しさのない程度の力加減。それでも離れない強さに、苦笑しながら、同じようにそっと抱きしめる。
不意に、風が吹き抜けた。見えなくなった女の人の声を残して遠くへと去って行く。
「またね。今度は三人で」
再会の約束に、穏やかな気持ちで笑う。またねと呟いて、友人の背を軽く叩く。
ゆっくりと離れていく友人に、手を差し出す。
「そろそろ帰ろ?今日も泊まりにおいでよ。お母さんが夕飯作って待ってるから」
「――うん!」
友人の目から涙が零れ落ちるのを見ない振りして、手を繋ぐ。
「いっつも、側にいてほしい時に来て、欲しい言葉をくれるよね。タイミングが良すぎる」
「友達だからね」
小さな呟きに、笑って返す。
友達なのだから、変化に気づくのは当然だ。気にかけていれば、すぐに分かる。
それに、きっとそれはお互い様だ。怖がりで、一歩を踏み出せない私の手をいつも引いてくれるのは友人なのだから。
「早く帰らないと。ご飯が待ってる」
「そうだね。お腹すいちゃった」
笑いながら、手を繋いで一緒に帰る。
タイミング良くお腹が鳴った。顔を見合わせ、くすくす笑う。
帰ったら話してくれるだろうか。タイミングを見て、聞いてみるのもいいかもしれない。
あの女の人のこと。話していた内容のこと。
「今日もたくさんおしゃべりしよっか」
期待を込めて、繋いだ手を軽く振った。
20250729 『タイミング』
雨上がりの午後。空に虹が架かったのを認めて、学校の裏山へと駆け出した。
虹のはじまりを探す遊び。
誰が言い始めたのか。いつからか流行っていた遊び。数年前のあの日も、友人たちは虹のはじまりを探して裏山へ遊びに行ったのだという。そしてそのまま、誰一人帰っては来なかった。
その日は、熱を出してしまい遊びに行けなかった。数日後、熱が下がり学校に行った時に話を聞いた。
今も帰らない友人たち。誰もが皆の存在を忘れていく中で、自分だけは忘れず覚えている。
――虹のはじまりには宝がある。見つけてもらうのを待ってるんだ。
誰かが言った言葉。宝を求めて、虹の始まりを探しに行った友人たち。
今も、見つけてもらうのを待っているのかもしれない。
そう思うと、心が騒めき落ち着かない。見つけなければという焦燥感に胸が苦しくなる。
だから虹が出る度、友人たちを探して裏山へ向かう。
あれからずっと、虹のはじまりを探している。
何度も足を運んだ裏山は、今日は何故だかひっそりと静まりかえっていた。
虹を一瞥し、辺りを見渡しながら進んでいく。
秘密基地を作った広場を抜け、奥へと向かう。木登りを競い、木の実を探して探索をした裏山で、知らない場所などはない。
木々の合間を抜け、ただ虹を目指す。思い起こされる過去の楽しかった日々に、唇を噛みしめた。
早く行かなければ。今度こそ見つけなければ。
見上げる虹は、まだ鮮明な輪郭を保ったままだ。
今日は何かが違う。
静けさ。澄んだ空気。光の加減。
木々の合間から、七色に煌めく光が差し込んでいた。
――虹の始まりで、待っている。
鼓動が跳ねる。ようやく会える期待に、知らず駆け出していた。
光を追って向かう木々の向こう。
山道の先に、見覚えのない鳥居が立っていた。
鳥居を潜ると、空気が変わった。
微かに水音がする。木漏れ日のように降り注ぐ七色の光が、誘うように煌めいた。
水音に向かい進んだ一番奥に、小さな淵があった。
その前に、誰かが静かに立っている。白い着物を着た少年。まるで死に装束のようなその姿に、思わず足を止めた。
「やっと、来てくれた」
振り返る少年に、見覚えはない。けれども何故か懐かしさを覚え、胸が苦しくなる。
「虹の……はじまり?」
「そう。でもまだ不完全」
柔らかく微笑んで、少年は手を差し伸べた。
白く、細い腕。光を反射して鱗が浮かび、息を呑んだ。
「おいで。君は僕の霓《げい》だ。君がいなければ虹にはなれない」
穏やかでありながら、有無を言わせぬその響き。
行かなければという衝動と、行ってしまえばもう戻れない恐怖に、立ち尽くすことしかできない。
「私……私、友達を探して……だから……」
「その友達とは誰のこと?」
問われて、愕然とした。
「どんな容姿をしているの?名前は?」
口を閉ざし、首を振る。
誰一人、思い出せなかった。顔も、声も、名前すらも何もかも。
じわりと涙が浮かぶ。何かひとつでもと思い出そうとすればするほど、何も思い出せなくなっていくのが怖ろしい。
友人のことだけではない。住んでいた場所のこと。家族のこと。自分のことも思い出せない。
あるのはただ、目の前の少年に対する懐かしさと、満たされない欠落だけ。
「ちゃんと全部消化したみたいだね……これで準備は整った」
動けない自分の側に少年は歩み寄り、手を取った。涙を拭われ、目を合わせられる。
蛇のような細い瞳孔が、慈しむように歪んだ。
「さあ、食後の微睡みから、そろそろ目覚めておいで?」
歌うような囁きに、ゆっくりと瞼が閉じていく。力が抜けて、少年に凭れながら意識が落ちていく。
「まったく。一人で捧げられた時にはどうしようかと思ったけど、君が迷い込んできてくれてよかった……これでようやく虹に成れる」
長かった、と喜びを露わにする少年の声が聞こえた。
その声に重なるようにして、朧気に人影が浮かぶ。
こちらに手を伸ばす誰か。逃げてという声はもう届かない。
意識が落ちる。人影が消えていく。
そうして何もかもが暗闇に消えて、自分すらもなくして冷たい腕の中へ身を委ねた。
小さく気泡が上がる。
虚ろに漂いながら気泡を見上げていれば、背後から伸びた腕に引き寄せられる。
虹色に煌めく鱗に覆われた腕。着物の白もまた七色に揺らいでいる。
「おはよう。しっかりと馴染んだようだね」
直接鼓膜を震わせる、穏やかな声音。
彼の指先が腕を伝って手を取った。彼と同じように浮かぶ虹色の鱗をなぞっていく。
周囲で煌めく七色の光が、囲うように集まってくる。揺らぐふたつの影をひとつに溶かし、それは大きな龍の姿へと形を変える。
「行こうか。恵みの雨を降らし、約束の虹を架けに」
その言葉に振り返る。彼を見上げて小さく頷いた。
こぽりと気泡が上がる。言葉はすべて気泡に変わり、大地を求めて水面へ上がっていく。
水面から光が差し込んだ。七色に煌めく光は階《きざはし》となって、向かうべき道を指し示す。
ざわり、と体中の鱗が揺れる。彼に寄り添い、階を辿って。
彼と二人。天へと舞い上がる。
柔らかな雨を呼び。過ぎる後には、虹霓を残して。
どこまでも高く、昇っていく。
20250728 『虹のはじまりを探して』
荒れた獣道を掻き分けて進む。
長時間歩き続けたため、喉が渇く。暑さに喘ぎ、疲労に体が悲鳴を上げるが、それでも足は止まらない。
幼い頃に一度だけ迷い込んだ水辺。ただそれだけを求めていた。
過ぎ去っていく周りに、耐えきれなかった。原因不明の病で声を失って、自分の世界は一変した。
心配する周囲。誰もが自分を気にかけて、腫れ物のような扱いをされた。
けれど次第に、それもなくなり。時折自分がいないように扱われている気がして、苦しかった。
だから逃げ出すように、記憶の中の水辺を探し求め始めた。
優しい微笑みと声。口にした水は甘く、不安も悲しさも溶けてなくなった。
美しく、澄んだ水の匂いのするオアシス。疲れた体も心も癒やす憩いの場。
その一度きりを最後に、水辺に辿り着くことはなかった。
都合の良い、ただの夢だったのかもしれない。それでも、それ以外に今は縋るものがなかった。
朧気な記憶を辿り、足を進める。いっそ途中で倒れ、そのまま終わってしまっても構わないなと、自虐的なことすら考える。
声を失った自分は、いてもいなくても変わらない存在。声がなければ、意味がないのだから。
喉が渇く。
疲れで覚束ない意識の中、ただ前へと進む。
歪み出す世界。気づけば周囲から音が消えていた。
息苦しさは感じない。暑さもなく、逆に冷えた空気が火照った体を覚ましていくようだ。
どこからか、水音が聞こえた気がした。本物か幻聴か判断ができぬまま、音を目指して進み続けた。
そして薄暗い木々の中を抜け、開けた場所に出た。
水音がする。眩む視界で水音を辿れば、小さな滝が見えた。
澄んだ空気。記憶の中の光景と変わらないその水辺。
疲れた体を引き摺って、ゆっくりと歩き出す。
静かな水面に映る自分の姿に、崩れるように膝をつく。恐る恐る手を差し入れれば、疲れを癒やすような冷たさを感じて小さく息を吐いた。
「――どうしたの?」
不意に背後から声が聞こえて、ぎくりと身を強張らせた。
近づく足音。隣で屈む誰かの白の着物の端を見て、咄嗟に目を閉じた。
何故か、否定されることが怖かった。声が出ないことを詰られるかもしれないと思うと、体が震える。
あれだけ求めていた場所だというのに、今はただこの場から逃げ出したくて堪らなかった。
「大丈夫。ほら」
想像とは異なる、柔らかな声音。
手を取られ何かを持たせられた感覚に、そっと目を開けた。
小さな木の器。それを満たす水が、陽の光を反射してきらりと煌めいた。
喉が鳴る。器に口をつけて、一口水を飲み込んだ。
冷たく、どこか甘い味。体の中に広がって、不安や悲しみ、寂しさもすべて溶かしていく。
気づけば無心で水を飲み干していた。あれだけ乾いていた喉は潤い、夢見心地で隣に座る誰かへと視線を向けた。
自分よりもいくつか年上らしき少女。白い着物。長い黒髪。浮かべる微笑みも、どこか懐かしい。
「また、歌って」
促されて、喉が震えた。
声は出ない。そう思うけれど、求めるように口を開いた。
紡がれるのは、なくしたはずの旋律。驚き目を見張りながらも止まらない。
ざわりと空気が揺らめいた。複数の人の気配に応えるように、高らかに歌い上げる。
視界が滲む。溢れ出す涙を止めることも、歌を止めることもできず、泣きながら歌う。声が震える。もはや歌なのか泣き声なのかも分からないまま、ただ歌い上げた。
「上手。いい子」
歌い終えて、嗚咽を漏らす自分の頭を優しく撫でながら、少女は微笑む。そっと抱きしめられて、静かに目を閉じた。
また歌えた。嬉しくて、幸せで笑みが浮かぶ。
「ありがとうございます」
体を離し、少女に礼を言う。ゆっくりと立ち上がり、改めて深く頭を下げた。
「癒やしが欲しくなったら、またおいで」
少女に見送られながら、来た道を戻る。
軽い足取りで、跳ねるように家路に就いた。
しかし奇跡は長く続かなかった。
十日経ち、声が掠れた。二十日経ち、途切れた音しかでなくなり。
そして一月経って、また声は失われた。
記憶を辿り、獣道を掻き分け進む。
またあの水辺に行くために。癒やしを得て、声を戻すためにと、気が逸る。
早く行かなければ。早く声を取り戻さなければ、また誰もが自分を見なくなる。そんな脅迫めいた感情に突き動かされ、茂る葉が肌を裂いても止まることはなかった。
微かに水音が聞こえ、駆け出した。
木々を抜けて、開けた場所に出る。
滝の音。澄んだ空気。けれどそれを堪能し落ち着くよりも、早く水が飲みたかった。
喉が渇く。
水辺に駆け寄り、手を差し入れる。水を掬って口を付けた。
冷えた水。けれど満たされない。
何度も何度も、水を掬っては飲んだ。飲んだ先から乾きを覚え、最後には掬う手間すら惜しんで直接口を付けた。
「――どうしたの?」
後ろから声がして、弾かれたように振り返る。
白の着物を来た黒髪の少女。差し出された手に、泣きながら縋りついた。
酷く喉が渇いていた。声が出ない不安よりも、満たされない乾きが苦しくて、助けてほしかった。
「可哀想に……癒やしてあげる。だからまた歌って?」
微笑みと共にいつの間にか手にしていた白い器で、少女は水を汲む。それを手渡され、すぐに口を付けて水を飲み干した。
どこか甘さのある、不思議な水。体の内側に染み込み広がって、満たされていく。
乾きも不安も、何もかもが消えていく。ほぅと息を吐いて、少女の手に凭れるようにして目を閉じた。
「歌って」
小さく頷いて、目を閉じたまま旋律を奏でていく。
歌いながら、ふと幼い頃を思い出した。
初めてこの場所に迷い込んだ幼い頃。どんなに練習しても、上手く歌えないことに悩んでいた。
水辺に座り、ぼんやりと滝を見つめていた時、目の前の彼女に声をかけられたのだ。
――どうしたの?
優しく微笑まれて、涙が滲む。半ば縋る形で、歌が上手く歌えないことを打ち明けた。
友人にも、家族にも打ち明けられなかった本音を、何故初対面の彼女に話せたのかは分からない。彼女が終始優しかったからか、それとも人でなかったからなのか。
すべてを聞いて、彼女は白い器を取り出した。水を汲んで、器を差し出し。
その時に、ひとつだけ告げられたのを思い出す。
――この水は、不安や恐れ、負の感情を取り除いてくれる。でも飲み過ぎてしまえば、この水がなければ生きられなくなる。この水でなければ乾きは癒えず、呼吸すら侭ならなくなってしまうから気をつけて。
一筋涙が零れ落ちた。
歌い終えると、途端に喉が渇きを訴える。
息が苦しい。水が欲しくて器を持つ手に力が籠もる。
目を開いても、視界は暗く何も見えない。
「可哀想に」
囁きと共に、器が手から離れていく。怖くて、縋るものが欲しくて彷徨う手が冷たい手に取られ、唇に何かが触れた。
器の縁。理解すると共に流れ込んで来る水を、躊躇いもなく飲み込んだ。苦しさが次第に落ち着いて、暗い視界が色を取り戻していく。
「歌って」
請われるまま、再び歌う。
歌い終え、息苦しいほどの喉の渇きに水を求め。
与えられた水の対価に、また歌う。
「とても上手よ。昔から上手。皆そう思ってる」
優しく囁かれ、髪を撫でられる。
いつしか体は白く太い蛇の胴に巻き付かれ、少しずつ水の中へと引き込まれていく。
抵抗はできない。逆らえば水を与えられない恐怖から、ただ従順に歌を歌い続ける。
「本当に可哀想な子。あなたのその乾きは、あなたしか癒やせないのに……偽りに縋って逃げられなくなるなんて」
彼女は笑う。どこか悲しげに。
水の中へと引きずり込みながらも、哀れみを浮かべて呟いた。
「自分自身を認めてあげれば、大地の上で生きられたのに。愛してあげれば、太陽の下で笑えたのに……ここは楽園ではないわ。人間の欲でできた檻の中よ」
彼女の言葉を、声なく肯定する。
そうだ。ここは癒やしを与えるオアシスではない。欲を餌に獲物を捕らえる、大蛇の巣穴だ。
今更理解しても、もう遅い。
水に沈む。まやかしの癒やしを与えられ、再び歌うために息を吸い込んだ。
20250727 『オアシス』
猫がいなくなった。
時々あること。猫は死期を悟ると姿を消してしまうのだという。
理解はできても、寂しいことには変わらない。冷たいベッドに触れて、唇を噛みしめた。
「――そうだ」
ふと思い立ち、外に出た。
せめて供養をしてあげたい。そう思い、近くの寺や神社へと足を運んだ。
この辺りは昔、養蚕で栄えていたという。そのため鼠を退治するための猫を飼う家庭が多く、猫を祀る神社も多いと聞いた。それならば、猫の供養塔があってもおかしくはないはずだ。
しかしどれだけ探しても、猫の供養塔は見つからない。それどころか、猫を祀ると言われる神社は、どれもが閑散としていて、社が朽ちている所もあった。
はぁ、と溜息を吐く。
目の前の社の惨状に、ただ悲しさだけが込み上げる。
誰もいない社。長い期間を風雨に晒され柱は腐り、一部屋根が崩れ落ちて閉まっている。
不意に、社の脇に何かが落ちているのが見えた。
近づいて拾い上げると、それは猫を描いた古ぼけた絵馬と、猫を模した木像だった。どちらも雨による浸食で変色し、顔の筋はまるで涙の跡のようにも見えた。
養蚕業が廃れ、信仰が薄れた結果の成れの果てに、遣る瀬なさが込み上げる。土を払い、一度社の脇に置くと、ハンカチを取り出した。
手水場は枯れてしまっていたが、裏に沢があったはずだ。
拭いた所で然程変わりはないだろうが、それでもこのままにはしておきたくなかった。
汚れを拭き取り、ほんの僅かに綺麗になった絵馬と木像を社の前に並べ、そっと指でなぞってみる。
「寂しいね」
涙の跡のような筋は消えない。慰めるように木像の頭を撫でた。
「奉納されたのに、大切にしてもらえないのは悲しいね」
「そうだね」
小さな声に、手が止まる。
息を呑んで木像を見つめていると、緩慢に木像の首が動き、こちらを見上げた。
「寂しいし、悲しいよ。昔はあんなにも大切にしてくれたのに。蚕がいなくなったら、途端に見向きもされない」
木像の虚ろな目と視線が交わる。
その視界の隅で、絵馬から白い猫がするりと抜け出すのが見えた。
甘い声で鳴きながら、止まったままの手に擦り寄る。
「あなたも寂しいのね。置いて行かれて、とても悲しいのね……なら、一緒に行きましょうか」
どこに、と小さな呟きに、答える声はない。
動く木像。絵馬から抜け出した猫。
恐怖のようで、違う思いに戸惑っていれば、背後から近づく誰かの足音が聞こえた。
振り返ろうとして、その前に目を塞がれる。大きな手。身を強張らせ、ひっと声を漏らせば、宥めるように頭を撫でられた。
「怖くない。猫は怖くないだろう」
低めの声。聞き覚えのないその声音に、何故か安心して体の力が抜けていく。
「良い子。じゃあ、今から十数えるよ。そうしたら、二度と寂しくはなくなるから」
優しく告げられて、誰かはゆっくりと数を数え始める。
一、二、とゆっくりと数が増えていく。
次第に意識が揺らいで、背後の誰かに凭れかかった。
懐かしい匂い。日向にいるような暖かな匂いに、目を閉じる。
「――九、十。ほら、もう寂しくない」
目を覆う手を離される。
ゆっくりと目を開けて、視界に入る光景に息を呑んだ。
そこはあの朽ちた社の前ではなかった。
大きな木。楠《くすのき》だろうか。その木の根元に、たくさんの猫が思い思いに休んでいた。
呼びかけようとして、けれど口から零れ落ちたのは嗚咽だけ。
視界が滲む。背中を押されて、よろめくように前に出た。
ふらふらと歩き出す。大切な猫たちの元へ。
「――皆、ここにいたの」
見間違えるはずなどない。ここにいるのは、私の大切な家族だ。
家から姿を消した子も、家で帰りを待っているはずの子も、一匹を除いて皆いた。いないのは、いなくなったばかりの子だけだった。
猫たちの側に寄る。途端に回りを囲われて、甘えるように足に擦り寄ってくる。
崩れ落ちるように膝をついた。膝に乗られ、背にじゃれつかれ、その温もりに涙が零れ落ちる。
何匹かの猫の姿が揺らぐ。猫から人の姿になって、強く抱きしめられた。
いなくなった猫たちだ。いなくなったのは、死期を悟ったのではなく、妖になったからだとようやく気づいた。
「これで寂しくないな」
すぐ後ろで声がした。目を塞ぎ、ここに連れてきた誰かの声。
聞き覚えのない、懐かしい声音にそっと顔を上げる。こちらを見下ろす青年と視線が交わり、あぁ、と小さく声を上げた。
これで全員だ。
「うん。寂しくない」
頭を撫でられる。
満たされていく思いに笑みを浮かべ。
涙を拭われて、静かに目を閉じた。
着飾られ、髪を梳かれながら、ぼんやりと遠くの木々を見つめていた。
楠を囲うように生い茂る桑《くわ》の木。まるで檻のようだと、僅かに残された思考が囁く。
「お腹が空いたの?」
膝の上で微睡んでいた猫が身を起こす。人の姿を取って、側に置かれた籠から木の実をひとつ摘まみ上げた。
「はい、どうぞ」
口を開き、差し出された桑の実を受け入れる。仄かな甘みが広がって、目を細めた。
ここに来てから、どれだけの時間が過ぎたのか。あれから猫たちに世話をされながら、過ごしていた。
「可愛いね。白の着物が似合っているよ」
私の猫たち以外の声に、ゆるゆると顔を上げる。楠の枝に座る木像の猫が、こちらを見下ろしゆらりと尾を揺らした。
「猫は祟ると怖いんだって、人間はすぐに忘れてしまうね。可哀想に……人間だって供養をしなければ祟るのに」
くすくすと笑い声が響く。
「元の世界が気になるかな。それとも、もうそれすら分からなくなっちゃったかな。せっかくだから教えて上げるけれど、皆いなくなっちゃったよ」
楽しそうな声音。少し遅れてその言葉の意味を理解して、小さく息を呑んだ。
「可愛い蚕さん。キミのようにボクたちを愛してくれる子はこうして助けてあげたけどね。他は鼠が運んだ病で倒れたり、逃げ出したりして、今あの町は空っぽだよ」
込み上げる恐怖は、けれど背や頭を撫でられて消えていく。
思い浮かんだ家族や友人の顔が掻き消えて、残るのは猫だけに戻る。
ふと、遠く楽しそうにはしゃぐ子供の声が聞こえた。ここと同じように、誰かも猫に愛されているのだろうか。
「それくらいにしてくれ。この子に余計なことをあまり吹き込むな」
「聞く権利くらいはあると思うけど……本当に過保護だね。そんなに執着されて可哀想に」
後ろから回された腕が耳を塞ぐ。それに何かを言いかけて、何も思いつかずに目を閉じた。
必要ないこと。私には猫がいればいい。
そう言えば、と。木像の猫の姿を思い出す。
最初に見た、風雨に朽ちた姿ではない綺麗な姿。あれが作られた当初の姿なのだろうか。
その顔に、涙の跡はなかった。寂しくも、悲しくもなくなったのだろうか。
ゆっくりと消えていく思いの中、そうであれと密かに願う。
いいなぁ。
誰かの声が聞こえた気がしたけれど、すぐに消えてなくなってしまう。
私には猫がいればいい。ここにいることが、何よりの幸せだ。
だからきっと、頬を伝い落ち跡を残すこの滴は、嬉しいからなのだろう。
20250726 『涙の跡』
※ おまけ
少女の華奢な体を引き寄せる。
籠の中から桑の実をひとつ摘んで、少女の唇に軽く触れさせる。
僅かに開く唇。実を差し入れれば、逆らうことなく実を喰み白い喉を鳴らして飲み込んだ。
本当に蚕のようだ。世話を焼かねば何もできなくなった少女を見て思う。
猫神の怒りに触れた町に住む、愛しい飼い主。元より隠すつもりで動いてはいたが、こうして猫神の神域の一部を与えられたのは僥倖だった。我ら猫のために心を砕く少女の優しさに、愛しさばかりが募っていく。
幸せだと、同胞が鳴く。少女の手に擦り寄れば、頭を撫でられ機嫌良く同胞の喉が鳴った。
同胞にするように少女の髪を撫でてみる。心地良さげに目を細める少女は、けれどもその目にかつての煌めきはない。
虚ろに開いた、ガラス玉のような目。それを少しだけ惜しく思う。
少女は我らの飼い主ではなくなり、我らの蚕となった。
故に、その目が自発的に我らを見ることはない。その唇で名を呼ぶことも失われてしまった。
だかそれでも。
「好きだよ」
「うん。私も好き。大好き」
蚕が糸を紡ぐように、少女は言葉を紡ぐ。
他の猫の所にいる人間のような、上辺だけの言葉ではない。
心から我らを思い紡がれる、極上の絹糸のような言葉。
「皆のことを愛してる」
ふわりと微笑む少女の体を抱いて、額に口付ける。
可愛い、愛しい飼い主。
猫神に目をつけられ、人間から逸脱した哀れな蚕。
我らの唯一。誰かに取られることも、死の別れを怖れることもない。
一筋零れ落ちる滴の跡を舐め取って、幸せだと囁いた。
笑いながら道を駆けていく子供たちを横目に、伯父の家を目指す。
今年もまた、夏が来た。じっとりと張り付くような熱気に、立ち止まり汗を拭いながら空を睨む。
強い陽の煌めきに目を細める。どこまでも広がる空の青と白が、周囲に響く蝉時雨と混じり合って、暑さをより一層際立たせていた。
課題があると誤魔化して先延ばしにしていたが、結局今年も来てしまった。伯父たちや、先に待っているだろう弟を思うと気が重い。
幼い頃から夏の間過ごしてきたこの町を、どうしても好きにはなれなかった。だというのに、毎年必ず訪れるのは何故なのだろう。
何度も考え、答えの出ないそれに溜息を吐く。視線を下ろし、何気なく道路脇の小川に視線を向けた。
「――え?」
小さな人影を認めて、目を瞬く。
白の半袖と紺の短パン。
まだ幼い少年が、一人川辺で遊んでいた。
辺りを見渡しても、少年の他には誰もいない。いくら小さく浅い川だとはいっても、子供が一人で川遊びをするのは危険すぎる。
止めるべきだろうか。そう思い足を向けるが、不意に顔を上げた少年と目が合い足が止まった。
視線を逸らせない。目を瞬いて、そして破顔する少年に、何故か胸が苦しくなった。
離れたこの場所からでもはっきりと分かる。あどけない顔。白くほっそりとした手足。川の中にいるのに濡れている様子はない。
――気づいたことに、気づかれてはいけない。目を合わせてはいけない。
ふと、昔聞いた怪談話を思い出した。
この町には、気づいてはいけない誰かがいるらしい。夏の間だけ現れる、その誰か。目を合わせ、言葉を交わし、そして触れてしまえばその誰かと入れ替わってしまうという。
よくある子供だましの怪談だと思った。聞いた時には気にも留めなかった話が、少年と目を合わせたことで思い起こされる。
ゆっくりと目を瞬いた。知らず溜まっていた涙が目を閉じたことで零れ落ち、頬に跡を残していく。
瞬く度に少年の姿が揺らぐ。三度瞬いた後、その姿は霞のように消えてしまった。
詰めていた息を吐き出す。緩く頭を振って残っていた涙を拭い、もう一度だけ小川に視線を向ける。
「――お姉ちゃん」
か細い声が聞こえた。思わず振り返ろうとして、止める。
――目を合わせてはいけない。
今更なことを思いながら、振り返らずに歩き出す。
懐かしいなどと、そんな感情はきっと気のせいだろう。
「姉ちゃん。遅かったな」
こちらに歩み寄る彼に、曖昧に笑みを浮かべて誤魔化しながら玄関を抜けた。
「連絡くれれば、駅まで迎えに行ったのに」
さりげなく荷物を持つ彼に礼を言いながら、さりげなく視線を逸らす。
無邪気に好意を向けてくるこの弟のことを、いつからか苦手に思っていた。
苦手、というよりも違和感に近いその思い。込み上げる溜息を呑み込みながら、先を行くその背を、数歩遅れて追いかける。
「先に挨拶に行っちゃえよ。その間に荷物運んどくから」
「分かった。ありがとう」
彼と別れ、居間に足を向ける。
密かに溜息を吐く。これから一週間、伯父の家で伯父たちと彼と過ごすことを思うと、足が重くなる。
良くできた弟だとは思う。姉である自分に懐き、何かと助けてくれる。
自慢の弟。けれどそう思う度に、心のどこかで違うのだと否定する自分がいた。
いつからなのかは覚えてはいない。幼い頃は違ったようにも思うが、それがいつだったのか。何一つ思い出せるものはなかった。
――お姉ちゃん。
不意に、先ほど見た少年を思い出す。
あの子が弟であったならば。あり得ないもしもを想像して、自嘲した。
蝉時雨を聞きながら、弟と二人川で水遊びをしていた。
きゃあ、と笑いながら水飛沫を上げる。浸る水の冷たさは、火照った肌を冷やしてとても心地が良かった。
弟に水をかけ遊びながら、自分の中の冷静な部分がこれは夢だと告げている。改めて辺りを見渡し、そして弟を見て確かにと納得した。
隣ではしゃぐ弟は、違和感しかない彼ではなかった。昼間ここで見た少年。違和感などは感じず、少年こそが弟なのだと嬉しくなった。
ふと、弟の動きが止まった。河原の先を見つめて、首を傾げながら指を差す。
「お姉ちゃん、あそこに誰かがいるよ」
視線を向ける。だがそこには誰の姿もない。
途端に背筋を駆け上がる嫌な予感に、思わず弟へと手を伸ばした。
「だめ。誰もいないから」
けれどその手をすり抜けて、弟は河原へと歩み寄り。
「どうしたの?迷子になったの?」
そう言って、何もない場所に手を伸ばした。
「だめっ!」
止める間もなく、弟の姿が掻き消える。
その代わりと言わんばかりに現れたのは、見知らぬ子供。
長袖と長ズボンを履いた、弟とは似ても似つかない彼。
「おねえちゃん」
笑いながら、伸ばしたままだった手を繋がれる。
軽く揺すって、呆然とする自分に囁いた。
「お家に帰ろう?」
手を引かれ、川から出る。
入れ替わった彼の仄暗い笑みを見ながら、消えた弟を思い一筋涙が零れ落ちた。
「――っ!」
悲しみと苦しさに飛び起きた。
乱れた呼吸を整えながら、辺りを見渡す。
暗い部屋。少し遅れて、伯父の家に泊まりに来ていたことを思い出した。
深く息を吐く。怖い夢を見ていた。
――目を合わせ、言葉を交わし、そして触れてしまえば。
気づいてはいけない誰かの怪談が脳裏を過る。
今見ていた夢。弟が入れ替わる悪夢。
もしもそれが、本当に入れ替わりだったとしたら。
あの夢の中で、弟は誰かを見ていた。心配そうに声をかけて、手を伸ばして何かに触れようとしていた。
自分には見えない誰かと入れ替わった。ならば、今も弟はあの川にいるのだろうか。
あり得ないと否定しながらも、体は布団から出ていた。窓を開けて、身を乗り出す。
ただの夢。あるいは入れ替わりたいあの少年が、弟だと思い込ませているだけなのかもしれない。少年が弟だと思うのは、夢とこの衝動にも似た思いだけだ。
窓枠に手をかけながら、一度だけ考える。けれどすぐに意味がないと自嘲して、外へと飛び出した。
このまま違和感しかない彼と、気づかない両親と暮らしていくのは耐えられない。
おそらくすべてに気づいていながら、見て見ぬ振りを続ける伯父たちの側にはいられない。
自分を偽ってこれからも過ごすよりは、いっそ終わってしまった方が楽だった。
暗い河原に座って空を見上げる少年に、震える足に力を入れて駆け寄った。
「お姉ちゃん」
きょとりと目を瞬かせて、少年は笑う。しかしその笑みが悲しそうに見えて、苦しくなった。
荒い息を吐きながら、少年を見据える。
「ずっと、ここで遊んでたの?」
少年は何も答えない。言葉を交わすことを嫌がるように、背を向けて去って行こうとする。
咄嗟にその手を掴んで、引き寄せた。
「もう、一緒に遊んではくれないの?」
「――お姉ちゃん」
少年に姉と呼ばれるのに、泣きたい気持ちで目を閉じる。
離れたくない。置いていきたくない。一人は嫌だ。
込み上げる思いは、もう止まらない。
どうか、と祈る気持ちで呟いた。
「変わりたい。嘘ばかりの世界に、これ以上いたくない」
あ、と小さく声がした。
そっと小さな手が背に回る。背を撫でる手の温かさに、耐えきれず涙が零れ落ちた。
「お姉ちゃん」
弟が呼ぶ。返事の代わりに繋いだままの手をぎゅっと握る。
「一緒にいる?二人だけになっちゃうけど、それでもいいの?」
静かな声に、必死に頷いた。
「二人だけでいい。嘘ばかりの他は、いらないの」
泣きながら答えれば、繋いだ手に何かが巻き付く感触がした。
視線を向ければ、繋いだ手に幾重にも絡む赤い糸。離れないように、解けないように複雑にがんじがらめに繋がれる。
その自分の手が次第に小さくなっていく。
手だけではない。まるで時計の針を戻して行くかのように、あの日の姿に戻っていく。
「あの日の、続きをしよう。離れていた分、たくさん遊ぼう」
「うん。ずっと一緒に遊ぼうね、お姉ちゃん」
見下ろしていたはずの弟が近くなって、互いに泣きながら笑った。
その小さな田舎町では、夏になると子供の幽霊が出るらしい。
白の半袖と紺の短パン姿の少年。
白の袖のないワンピースを着た少女。
少年の右手と少女の左手は肘の辺りまで赤い紐で括られ、離れないように繋がれているという。
川や森、学校や神社の裏手など。不意に楽しそうな笑い声がすると、二人仲良く遊ぶ姿を見たと町の者は皆噂をしていた。
二人の姿を見たとしても、とくに害はない。
ただ、見ていることに気づいた二人が、笑顔で手を振ると。
手を振られた町の者は、後悔と罪の意識に泣き崩れてしまうらしい。
何を後悔しているのか。罪とは何なのか。
詳しくを皆語らない。
それでも慟哭しながらも手を伸ばし、姉を呼び続けたある青年は。
入れ替わりの後悔を綴った手紙を残し、姿を消してしまったといわれている。
20250725 『半袖』