sairo

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笑いながら道を駆けていく子供たちを横目に、伯父の家を目指す。
今年もまた、夏が来た。じっとりと張り付くような熱気に、立ち止まり汗を拭いながら空を睨む。
強い陽の煌めきに目を細める。どこまでも広がる空の青と白が、周囲に響く蝉時雨と混じり合って、暑さをより一層際立たせていた。
課題があると誤魔化して先延ばしにしていたが、結局今年も来てしまった。伯父たちや、先に待っているだろう弟を思うと気が重い。
幼い頃から夏の間過ごしてきたこの町を、どうしても好きにはなれなかった。だというのに、毎年必ず訪れるのは何故なのだろう。
何度も考え、答えの出ないそれに溜息を吐く。視線を下ろし、何気なく道路脇の小川に視線を向けた。

「――え?」

小さな人影を認めて、目を瞬く。
白の半袖と紺の短パン。
まだ幼い少年が、一人川辺で遊んでいた。
辺りを見渡しても、少年の他には誰もいない。いくら小さく浅い川だとはいっても、子供が一人で川遊びをするのは危険すぎる。
止めるべきだろうか。そう思い足を向けるが、不意に顔を上げた少年と目が合い足が止まった。
視線を逸らせない。目を瞬いて、そして破顔する少年に、何故か胸が苦しくなった。
離れたこの場所からでもはっきりと分かる。あどけない顔。白くほっそりとした手足。川の中にいるのに濡れている様子はない。

――気づいたことに、気づかれてはいけない。目を合わせてはいけない。

ふと、昔聞いた怪談話を思い出した。
この町には、気づいてはいけない誰かがいるらしい。夏の間だけ現れる、その誰か。目を合わせ、言葉を交わし、そして触れてしまえばその誰かと入れ替わってしまうという。
よくある子供だましの怪談だと思った。聞いた時には気にも留めなかった話が、少年と目を合わせたことで思い起こされる。
ゆっくりと目を瞬いた。知らず溜まっていた涙が目を閉じたことで零れ落ち、頬に跡を残していく。
瞬く度に少年の姿が揺らぐ。三度瞬いた後、その姿は霞のように消えてしまった。
詰めていた息を吐き出す。緩く頭を振って残っていた涙を拭い、もう一度だけ小川に視線を向ける。

「――お姉ちゃん」

か細い声が聞こえた。思わず振り返ろうとして、止める。

――目を合わせてはいけない。

今更なことを思いながら、振り返らずに歩き出す。
懐かしいなどと、そんな感情はきっと気のせいだろう。



「姉ちゃん。遅かったな」

こちらに歩み寄る彼に、曖昧に笑みを浮かべて誤魔化しながら玄関を抜けた。

「連絡くれれば、駅まで迎えに行ったのに」

さりげなく荷物を持つ彼に礼を言いながら、さりげなく視線を逸らす。
無邪気に好意を向けてくるこの弟のことを、いつからか苦手に思っていた。
苦手、というよりも違和感に近いその思い。込み上げる溜息を呑み込みながら、先を行くその背を、数歩遅れて追いかける。

「先に挨拶に行っちゃえよ。その間に荷物運んどくから」
「分かった。ありがとう」

彼と別れ、居間に足を向ける。
密かに溜息を吐く。これから一週間、伯父の家で伯父たちと彼と過ごすことを思うと、足が重くなる。

良くできた弟だとは思う。姉である自分に懐き、何かと助けてくれる。
自慢の弟。けれどそう思う度に、心のどこかで違うのだと否定する自分がいた。
いつからなのかは覚えてはいない。幼い頃は違ったようにも思うが、それがいつだったのか。何一つ思い出せるものはなかった。

――お姉ちゃん。

不意に、先ほど見た少年を思い出す。
あの子が弟であったならば。あり得ないもしもを想像して、自嘲した。



蝉時雨を聞きながら、弟と二人川で水遊びをしていた。
きゃあ、と笑いながら水飛沫を上げる。浸る水の冷たさは、火照った肌を冷やしてとても心地が良かった。
弟に水をかけ遊びながら、自分の中の冷静な部分がこれは夢だと告げている。改めて辺りを見渡し、そして弟を見て確かにと納得した。
隣ではしゃぐ弟は、違和感しかない彼ではなかった。昼間ここで見た少年。違和感などは感じず、少年こそが弟なのだと嬉しくなった。
ふと、弟の動きが止まった。河原の先を見つめて、首を傾げながら指を差す。

「お姉ちゃん、あそこに誰かがいるよ」

視線を向ける。だがそこには誰の姿もない。
途端に背筋を駆け上がる嫌な予感に、思わず弟へと手を伸ばした。

「だめ。誰もいないから」

けれどその手をすり抜けて、弟は河原へと歩み寄り。

「どうしたの?迷子になったの?」

そう言って、何もない場所に手を伸ばした。

「だめっ!」

止める間もなく、弟の姿が掻き消える。
その代わりと言わんばかりに現れたのは、見知らぬ子供。
長袖と長ズボンを履いた、弟とは似ても似つかない彼。

「おねえちゃん」

笑いながら、伸ばしたままだった手を繋がれる。
軽く揺すって、呆然とする自分に囁いた。

「お家に帰ろう?」

手を引かれ、川から出る。
入れ替わった彼の仄暗い笑みを見ながら、消えた弟を思い一筋涙が零れ落ちた。



「――っ!」

悲しみと苦しさに飛び起きた。
乱れた呼吸を整えながら、辺りを見渡す。
暗い部屋。少し遅れて、伯父の家に泊まりに来ていたことを思い出した。
深く息を吐く。怖い夢を見ていた。

――目を合わせ、言葉を交わし、そして触れてしまえば。

気づいてはいけない誰かの怪談が脳裏を過る。
今見ていた夢。弟が入れ替わる悪夢。
もしもそれが、本当に入れ替わりだったとしたら。
あの夢の中で、弟は誰かを見ていた。心配そうに声をかけて、手を伸ばして何かに触れようとしていた。
自分には見えない誰かと入れ替わった。ならば、今も弟はあの川にいるのだろうか。
あり得ないと否定しながらも、体は布団から出ていた。窓を開けて、身を乗り出す。
ただの夢。あるいは入れ替わりたいあの少年が、弟だと思い込ませているだけなのかもしれない。少年が弟だと思うのは、夢とこの衝動にも似た思いだけだ。
窓枠に手をかけながら、一度だけ考える。けれどすぐに意味がないと自嘲して、外へと飛び出した。
このまま違和感しかない彼と、気づかない両親と暮らしていくのは耐えられない。
おそらくすべてに気づいていながら、見て見ぬ振りを続ける伯父たちの側にはいられない。
自分を偽ってこれからも過ごすよりは、いっそ終わってしまった方が楽だった。



暗い河原に座って空を見上げる少年に、震える足に力を入れて駆け寄った。

「お姉ちゃん」

きょとりと目を瞬かせて、少年は笑う。しかしその笑みが悲しそうに見えて、苦しくなった。
荒い息を吐きながら、少年を見据える。

「ずっと、ここで遊んでたの?」

少年は何も答えない。言葉を交わすことを嫌がるように、背を向けて去って行こうとする。
咄嗟にその手を掴んで、引き寄せた。

「もう、一緒に遊んではくれないの?」
「――お姉ちゃん」

少年に姉と呼ばれるのに、泣きたい気持ちで目を閉じる。
離れたくない。置いていきたくない。一人は嫌だ。
込み上げる思いは、もう止まらない。
どうか、と祈る気持ちで呟いた。

「変わりたい。嘘ばかりの世界に、これ以上いたくない」

あ、と小さく声がした。
そっと小さな手が背に回る。背を撫でる手の温かさに、耐えきれず涙が零れ落ちた。

「お姉ちゃん」

弟が呼ぶ。返事の代わりに繋いだままの手をぎゅっと握る。
「一緒にいる?二人だけになっちゃうけど、それでもいいの?」

静かな声に、必死に頷いた。

「二人だけでいい。嘘ばかりの他は、いらないの」

泣きながら答えれば、繋いだ手に何かが巻き付く感触がした。
視線を向ければ、繋いだ手に幾重にも絡む赤い糸。離れないように、解けないように複雑にがんじがらめに繋がれる。
その自分の手が次第に小さくなっていく。
手だけではない。まるで時計の針を戻して行くかのように、あの日の姿に戻っていく。

「あの日の、続きをしよう。離れていた分、たくさん遊ぼう」
「うん。ずっと一緒に遊ぼうね、お姉ちゃん」

見下ろしていたはずの弟が近くなって、互いに泣きながら笑った。





その小さな田舎町では、夏になると子供の幽霊が出るらしい。
白の半袖と紺の短パン姿の少年。
白の袖のないワンピースを着た少女。
少年の右手と少女の左手は肘の辺りまで赤い紐で括られ、離れないように繋がれているという。
川や森、学校や神社の裏手など。不意に楽しそうな笑い声がすると、二人仲良く遊ぶ姿を見たと町の者は皆噂をしていた。
二人の姿を見たとしても、とくに害はない。
ただ、見ていることに気づいた二人が、笑顔で手を振ると。
手を振られた町の者は、後悔と罪の意識に泣き崩れてしまうらしい。
何を後悔しているのか。罪とは何なのか。
詳しくを皆語らない。
それでも慟哭しながらも手を伸ばし、姉を呼び続けたある青年は。
入れ替わりの後悔を綴った手紙を残し、姿を消してしまったといわれている。



20250725 『半袖』 

7/27/2025, 6:47:22 AM