sairo

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荒れた獣道を掻き分けて進む。
長時間歩き続けたため、喉が渇く。暑さに喘ぎ、疲労に体が悲鳴を上げるが、それでも足は止まらない。
幼い頃に一度だけ迷い込んだ水辺。ただそれだけを求めていた。
過ぎ去っていく周りに、耐えきれなかった。原因不明の病で声を失って、自分の世界は一変した。
心配する周囲。誰もが自分を気にかけて、腫れ物のような扱いをされた。
けれど次第に、それもなくなり。時折自分がいないように扱われている気がして、苦しかった。
だから逃げ出すように、記憶の中の水辺を探し求め始めた。
優しい微笑みと声。口にした水は甘く、不安も悲しさも溶けてなくなった。
美しく、澄んだ水の匂いのするオアシス。疲れた体も心も癒やす憩いの場。
その一度きりを最後に、水辺に辿り着くことはなかった。
都合の良い、ただの夢だったのかもしれない。それでも、それ以外に今は縋るものがなかった。


朧気な記憶を辿り、足を進める。いっそ途中で倒れ、そのまま終わってしまっても構わないなと、自虐的なことすら考える。
声を失った自分は、いてもいなくても変わらない存在。声がなければ、意味がないのだから。


喉が渇く。
疲れで覚束ない意識の中、ただ前へと進む。
歪み出す世界。気づけば周囲から音が消えていた。
息苦しさは感じない。暑さもなく、逆に冷えた空気が火照った体を覚ましていくようだ。
どこからか、水音が聞こえた気がした。本物か幻聴か判断ができぬまま、音を目指して進み続けた。

そして薄暗い木々の中を抜け、開けた場所に出た。
水音がする。眩む視界で水音を辿れば、小さな滝が見えた。
澄んだ空気。記憶の中の光景と変わらないその水辺。
疲れた体を引き摺って、ゆっくりと歩き出す。
静かな水面に映る自分の姿に、崩れるように膝をつく。恐る恐る手を差し入れれば、疲れを癒やすような冷たさを感じて小さく息を吐いた。

「――どうしたの?」

不意に背後から声が聞こえて、ぎくりと身を強張らせた。
近づく足音。隣で屈む誰かの白の着物の端を見て、咄嗟に目を閉じた。
何故か、否定されることが怖かった。声が出ないことを詰られるかもしれないと思うと、体が震える。
あれだけ求めていた場所だというのに、今はただこの場から逃げ出したくて堪らなかった。

「大丈夫。ほら」

想像とは異なる、柔らかな声音。
手を取られ何かを持たせられた感覚に、そっと目を開けた。
小さな木の器。それを満たす水が、陽の光を反射してきらりと煌めいた。
喉が鳴る。器に口をつけて、一口水を飲み込んだ。
冷たく、どこか甘い味。体の中に広がって、不安や悲しみ、寂しさもすべて溶かしていく。
気づけば無心で水を飲み干していた。あれだけ乾いていた喉は潤い、夢見心地で隣に座る誰かへと視線を向けた。
自分よりもいくつか年上らしき少女。白い着物。長い黒髪。浮かべる微笑みも、どこか懐かしい。

「また、歌って」

促されて、喉が震えた。
声は出ない。そう思うけれど、求めるように口を開いた。
紡がれるのは、なくしたはずの旋律。驚き目を見張りながらも止まらない。
ざわりと空気が揺らめいた。複数の人の気配に応えるように、高らかに歌い上げる。
視界が滲む。溢れ出す涙を止めることも、歌を止めることもできず、泣きながら歌う。声が震える。もはや歌なのか泣き声なのかも分からないまま、ただ歌い上げた。


「上手。いい子」

歌い終えて、嗚咽を漏らす自分の頭を優しく撫でながら、少女は微笑む。そっと抱きしめられて、静かに目を閉じた。
また歌えた。嬉しくて、幸せで笑みが浮かぶ。

「ありがとうございます」

体を離し、少女に礼を言う。ゆっくりと立ち上がり、改めて深く頭を下げた。

「癒やしが欲しくなったら、またおいで」

少女に見送られながら、来た道を戻る。
軽い足取りで、跳ねるように家路に就いた。





しかし奇跡は長く続かなかった。
十日経ち、声が掠れた。二十日経ち、途切れた音しかでなくなり。
そして一月経って、また声は失われた。

記憶を辿り、獣道を掻き分け進む。
またあの水辺に行くために。癒やしを得て、声を戻すためにと、気が逸る。
早く行かなければ。早く声を取り戻さなければ、また誰もが自分を見なくなる。そんな脅迫めいた感情に突き動かされ、茂る葉が肌を裂いても止まることはなかった。

微かに水音が聞こえ、駆け出した。
木々を抜けて、開けた場所に出る。
滝の音。澄んだ空気。けれどそれを堪能し落ち着くよりも、早く水が飲みたかった。
喉が渇く。
水辺に駆け寄り、手を差し入れる。水を掬って口を付けた。
冷えた水。けれど満たされない。
何度も何度も、水を掬っては飲んだ。飲んだ先から乾きを覚え、最後には掬う手間すら惜しんで直接口を付けた。

「――どうしたの?」

後ろから声がして、弾かれたように振り返る。
白の着物を来た黒髪の少女。差し出された手に、泣きながら縋りついた。
酷く喉が渇いていた。声が出ない不安よりも、満たされない乾きが苦しくて、助けてほしかった。

「可哀想に……癒やしてあげる。だからまた歌って?」

微笑みと共にいつの間にか手にしていた白い器で、少女は水を汲む。それを手渡され、すぐに口を付けて水を飲み干した。
どこか甘さのある、不思議な水。体の内側に染み込み広がって、満たされていく。
乾きも不安も、何もかもが消えていく。ほぅと息を吐いて、少女の手に凭れるようにして目を閉じた。

「歌って」

小さく頷いて、目を閉じたまま旋律を奏でていく。
歌いながら、ふと幼い頃を思い出した。
初めてこの場所に迷い込んだ幼い頃。どんなに練習しても、上手く歌えないことに悩んでいた。
水辺に座り、ぼんやりと滝を見つめていた時、目の前の彼女に声をかけられたのだ。

――どうしたの?

優しく微笑まれて、涙が滲む。半ば縋る形で、歌が上手く歌えないことを打ち明けた。
友人にも、家族にも打ち明けられなかった本音を、何故初対面の彼女に話せたのかは分からない。彼女が終始優しかったからか、それとも人でなかったからなのか。
すべてを聞いて、彼女は白い器を取り出した。水を汲んで、器を差し出し。
その時に、ひとつだけ告げられたのを思い出す。

――この水は、不安や恐れ、負の感情を取り除いてくれる。でも飲み過ぎてしまえば、この水がなければ生きられなくなる。この水でなければ乾きは癒えず、呼吸すら侭ならなくなってしまうから気をつけて。

一筋涙が零れ落ちた。
歌い終えると、途端に喉が渇きを訴える。
息が苦しい。水が欲しくて器を持つ手に力が籠もる。
目を開いても、視界は暗く何も見えない。

「可哀想に」

囁きと共に、器が手から離れていく。怖くて、縋るものが欲しくて彷徨う手が冷たい手に取られ、唇に何かが触れた。
器の縁。理解すると共に流れ込んで来る水を、躊躇いもなく飲み込んだ。苦しさが次第に落ち着いて、暗い視界が色を取り戻していく。

「歌って」

請われるまま、再び歌う。
歌い終え、息苦しいほどの喉の渇きに水を求め。
与えられた水の対価に、また歌う。


「とても上手よ。昔から上手。皆そう思ってる」

優しく囁かれ、髪を撫でられる。
いつしか体は白く太い蛇の胴に巻き付かれ、少しずつ水の中へと引き込まれていく。
抵抗はできない。逆らえば水を与えられない恐怖から、ただ従順に歌を歌い続ける。

「本当に可哀想な子。あなたのその乾きは、あなたしか癒やせないのに……偽りに縋って逃げられなくなるなんて」

彼女は笑う。どこか悲しげに。
水の中へと引きずり込みながらも、哀れみを浮かべて呟いた。

「自分自身を認めてあげれば、大地の上で生きられたのに。愛してあげれば、太陽の下で笑えたのに……ここは楽園ではないわ。人間の欲でできた檻の中よ」

彼女の言葉を、声なく肯定する。
そうだ。ここは癒やしを与えるオアシスではない。欲を餌に獲物を捕らえる、大蛇の巣穴だ。
今更理解しても、もう遅い。
水に沈む。まやかしの癒やしを与えられ、再び歌うために息を吸い込んだ。



20250727 『オアシス』

7/29/2025, 9:45:07 AM