楽しげな笑い声が聞こえた。
それが友人の声だと気づいて、その声の方へと歩み寄る。
何か楽しいことがあるのだろうか。近づいて、でも誰かと一緒にいることに気づいた。
「――でね。これは秘密なんだけど」
友人の囁く声に、時折誰かの相づちが混ざる。鈴を転がしたような、水が流れていくような、そんな綺麗な声。
無意識に音を立てないようにしながら、ゆっくりと近づいた。
「凄いでしょ。優しいし、真面目だし……」
くすくすと笑う声。木の後ろに隠れながらそっと覗き込む。
綺麗な水辺で、友人が誰かと話していた。けれど友人の視線の先には誰もいない。
誰と話しているのだろうか。じっと目を凝らしていると、不意に、差し込む光が何かを反射した。
透明な、人の姿。綺麗な長い髪の女の人が、友人の話に相づちを打っていた。
その姿に見覚えがあった。それが誰か記憶を辿っていれば、見えない女の人と目が合った。
「――ぁ」
思わず小さく声を上げた。
その声と女の人の様子から、友人が弾かれたように振り返る。友人の驚き見開かれた目が私を認めて、くしゃりと泣きそうに歪んだ。
「な、んで……」
呆然と呟く声に、何か言わなければと口を開く。
けれども何かを言う前に、友人はこちらに背を向けて走り去ってしまった。
「待って……!」
追いかけようとしても、足の速い友人には追いつけない。
気づけば女の人もいなくなってしまったようだ。
一人きり、水辺に座って揺れる水面を見つめ溜息を吐いた。
「どうしよう」
意味もなく不安になる。このまま友人と離れてしまうのではないかと苦しくなって、じわりと涙が滲んだ。
今度こそ、会えなくなってしまったら。
ふとそんな思いが込み上げ、同時に疑問が浮かぶ。
前にも、こうして会えなくなる不安になることがあった。
記憶を辿り、揺れる水面を見つめて思い出す。
「あの時……川遊びの……」
すべてを思い出して、水辺をぐるりと見渡した。
数年前のことだ。
川遊びをしていた友人が、流されてしまったことがあった。
止める私を気にせず川の中に入り、笑いながら手を差し出す。怒られるよとしか言えない私の腕を取ろうとした友人の体がぐらつき、そのまま流れてしまう。
一瞬でいなくなった友人を追いかけることもできず、ただ泣きじゃくっていた。その声に気づいた大人たちが、何人も集まって探したけれど、友人はすぐには見つからなかった。
見つかったのは、翌日だ。
流されたのとまったく同じ場所で、友人は倒れていた。
「女の人……あの時、一緒にいた……助けてくれた」
思い出す。その時の光景を。
川辺で倒れていた友人。急いで駆け寄れば、朝の光が煌めいて、友人の側にいる見えない誰かの姿を浮かばせた。
長い髪の、綺麗な女の人。優しく、けれどどこか悲しく微笑んで朝霧と共に消えていった誰か。
あれからずっと、女の人は友人の側にいたのだろう。そしてそれは、他の誰かに知られてはいけない秘密だったのかもしれない。
もしも、もっと早く、あるいは遅くに来たのなら。そもそも近づこうとしなければ、このまま何も気づかないで友達でいられたのだろうか。今更な後悔に、唇を噛みしめ俯いた。
「あなたは、いつもタイミングが良い時に現れてくれる」
不意に声がした。顔を上げると、陽の光を反射して浮かぶ、女の人の姿が見えた。
「大丈夫。あの子、知られることを怖がっていただけなの。本当は知ってほしかったのに、それを言えなかった。だからあなたが来てくれて、知ってくれて嬉しい」
「――本当に?」
「えぇ。あの子、いつもあなたの話をしてくれるのよ。自慢の友達ですって。優しくて、真面目で、可愛くて……悪いことをしても、いつも側にいてくれる。怖い時、寂しい時、悲しい時……一人でいたくないと思った時に、必ず来てくれる」
くすくすと、綺麗な声で女の人が笑う。
「あの日から、周りは皆気味悪がって離れたのに、あなただけは変わらず側にいる。助かった命を喜ばれないなんて、とても悲しいから。変わらないあなたがいてくれるだけですくわれる」
笑いながら、あの川辺で見た時と同じ目をする。
優しいのに、どこか悲しげな目。寂しそうな微笑みに、気づけば手を伸ばしていた。
「悲しいの?寂しいの?」
息を呑む音がした。すり抜ける手を掴んで、女の人の姿がはっきりとし出す。
「少しだけね。でも大丈夫」
手を引かれて、抱きしめられた。頭を撫でられて、いい子と囁かれる。
「優しくて、可愛い子……もしもあの子が戻らないなら、このまま連れていってしまおうか」
「なに?」
「水に引かれた子は、戻らないのが普通だもの。だから――」
女の人の話を最後まで聞く前に、強く後ろに体を引かれた。
目を瞬いて後ろを見る。険しい表情をした友人が女の人を睨み付け、次いで私を見て強く抱きしめられる。
「駄目。私の友達は渡さない」
「いいタイミング。でも少し力を緩めないと、苦しそうよ」
そう言われても、友人の腕の力は緩まない。眉を寄せて、はっきりと首を振った。
「どこまで話したの?」
「そうね。自慢の友達だって、いつも話していることくらい。大切で、大好きな――」
「それ以上言わないで!怒るよ」
もう怒ってる。
現実逃避気味に口には出せないことを思いながら、友人から目を逸らす。けれどそれに気を悪くしたのか、抱きしめる腕の力がさらに強くなった。
ひゅっと息を呑む。痛みすら感じる強さに僅かに顔を顰めれば、それに気づいた友人に慌てて解放された。
「ご、ごめんね。苦しかったよね」
「ん、大丈夫。平気」
笑ってみせれば、友人は泣きそうな顔をする。宥めるために背を撫でて、大丈夫だと繰り返した。
「ごめん……逃げたのも、秘密にしてたのも。いろんなことに無理矢理巻き込んできたことも、全部。本当にごめん」
「気にしてない。友達だから……秘密は少し寂しいけど、仕方ないこともあるし」
「――っ、大好き!」
泣きながら抱きしめられる。痛さや苦しさのない程度の力加減。それでも離れない強さに、苦笑しながら、同じようにそっと抱きしめる。
不意に、風が吹き抜けた。見えなくなった女の人の声を残して遠くへと去って行く。
「またね。今度は三人で」
再会の約束に、穏やかな気持ちで笑う。またねと呟いて、友人の背を軽く叩く。
ゆっくりと離れていく友人に、手を差し出す。
「そろそろ帰ろ?今日も泊まりにおいでよ。お母さんが夕飯作って待ってるから」
「――うん!」
友人の目から涙が零れ落ちるのを見ない振りして、手を繋ぐ。
「いっつも、側にいてほしい時に来て、欲しい言葉をくれるよね。タイミングが良すぎる」
「友達だからね」
小さな呟きに、笑って返す。
友達なのだから、変化に気づくのは当然だ。気にかけていれば、すぐに分かる。
それに、きっとそれはお互い様だ。怖がりで、一歩を踏み出せない私の手をいつも引いてくれるのは友人なのだから。
「早く帰らないと。ご飯が待ってる」
「そうだね。お腹すいちゃった」
笑いながら、手を繋いで一緒に帰る。
タイミング良くお腹が鳴った。顔を見合わせ、くすくす笑う。
帰ったら話してくれるだろうか。タイミングを見て、聞いてみるのもいいかもしれない。
あの女の人のこと。話していた内容のこと。
「今日もたくさんおしゃべりしよっか」
期待を込めて、繋いだ手を軽く振った。
20250729 『タイミング』
7/31/2025, 6:53:24 AM