猫がいなくなった。
時々あること。猫は死期を悟ると姿を消してしまうのだという。
理解はできても、寂しいことには変わらない。冷たいベッドに触れて、唇を噛みしめた。
「――そうだ」
ふと思い立ち、外に出た。
せめて供養をしてあげたい。そう思い、近くの寺や神社へと足を運んだ。
この辺りは昔、養蚕で栄えていたという。そのため鼠を退治するための猫を飼う家庭が多く、猫を祀る神社も多いと聞いた。それならば、猫の供養塔があってもおかしくはないはずだ。
しかしどれだけ探しても、猫の供養塔は見つからない。それどころか、猫を祀ると言われる神社は、どれもが閑散としていて、社が朽ちている所もあった。
はぁ、と溜息を吐く。
目の前の社の惨状に、ただ悲しさだけが込み上げる。
誰もいない社。長い期間を風雨に晒され柱は腐り、一部屋根が崩れ落ちて閉まっている。
不意に、社の脇に何かが落ちているのが見えた。
近づいて拾い上げると、それは猫を描いた古ぼけた絵馬と、猫を模した木像だった。どちらも雨による浸食で変色し、顔の筋はまるで涙の跡のようにも見えた。
養蚕業が廃れ、信仰が薄れた結果の成れの果てに、遣る瀬なさが込み上げる。土を払い、一度社の脇に置くと、ハンカチを取り出した。
手水場は枯れてしまっていたが、裏に沢があったはずだ。
拭いた所で然程変わりはないだろうが、それでもこのままにはしておきたくなかった。
汚れを拭き取り、ほんの僅かに綺麗になった絵馬と木像を社の前に並べ、そっと指でなぞってみる。
「寂しいね」
涙の跡のような筋は消えない。慰めるように木像の頭を撫でた。
「奉納されたのに、大切にしてもらえないのは悲しいね」
「そうだね」
小さな声に、手が止まる。
息を呑んで木像を見つめていると、緩慢に木像の首が動き、こちらを見上げた。
「寂しいし、悲しいよ。昔はあんなにも大切にしてくれたのに。蚕がいなくなったら、途端に見向きもされない」
木像の虚ろな目と視線が交わる。
その視界の隅で、絵馬から白い猫がするりと抜け出すのが見えた。
甘い声で鳴きながら、止まったままの手に擦り寄る。
「あなたも寂しいのね。置いて行かれて、とても悲しいのね……なら、一緒に行きましょうか」
どこに、と小さな呟きに、答える声はない。
動く木像。絵馬から抜け出した猫。
恐怖のようで、違う思いに戸惑っていれば、背後から近づく誰かの足音が聞こえた。
振り返ろうとして、その前に目を塞がれる。大きな手。身を強張らせ、ひっと声を漏らせば、宥めるように頭を撫でられた。
「怖くない。猫は怖くないだろう」
低めの声。聞き覚えのないその声音に、何故か安心して体の力が抜けていく。
「良い子。じゃあ、今から十数えるよ。そうしたら、二度と寂しくはなくなるから」
優しく告げられて、誰かはゆっくりと数を数え始める。
一、二、とゆっくりと数が増えていく。
次第に意識が揺らいで、背後の誰かに凭れかかった。
懐かしい匂い。日向にいるような暖かな匂いに、目を閉じる。
「――九、十。ほら、もう寂しくない」
目を覆う手を離される。
ゆっくりと目を開けて、視界に入る光景に息を呑んだ。
そこはあの朽ちた社の前ではなかった。
大きな木。楠《くすのき》だろうか。その木の根元に、たくさんの猫が思い思いに休んでいた。
呼びかけようとして、けれど口から零れ落ちたのは嗚咽だけ。
視界が滲む。背中を押されて、よろめくように前に出た。
ふらふらと歩き出す。大切な猫たちの元へ。
「――皆、ここにいたの」
見間違えるはずなどない。ここにいるのは、私の大切な家族だ。
家から姿を消した子も、家で帰りを待っているはずの子も、一匹を除いて皆いた。いないのは、いなくなったばかりの子だけだった。
猫たちの側に寄る。途端に回りを囲われて、甘えるように足に擦り寄ってくる。
崩れ落ちるように膝をついた。膝に乗られ、背にじゃれつかれ、その温もりに涙が零れ落ちる。
何匹かの猫の姿が揺らぐ。猫から人の姿になって、強く抱きしめられた。
いなくなった猫たちだ。いなくなったのは、死期を悟ったのではなく、妖になったからだとようやく気づいた。
「これで寂しくないな」
すぐ後ろで声がした。目を塞ぎ、ここに連れてきた誰かの声。
聞き覚えのない、懐かしい声音にそっと顔を上げる。こちらを見下ろす青年と視線が交わり、あぁ、と小さく声を上げた。
これで全員だ。
「うん。寂しくない」
頭を撫でられる。
満たされていく思いに笑みを浮かべ。
涙を拭われて、静かに目を閉じた。
着飾られ、髪を梳かれながら、ぼんやりと遠くの木々を見つめていた。
楠を囲うように生い茂る桑《くわ》の木。まるで檻のようだと、僅かに残された思考が囁く。
「お腹が空いたの?」
膝の上で微睡んでいた猫が身を起こす。人の姿を取って、側に置かれた籠から木の実をひとつ摘まみ上げた。
「はい、どうぞ」
口を開き、差し出された桑の実を受け入れる。仄かな甘みが広がって、目を細めた。
ここに来てから、どれだけの時間が過ぎたのか。あれから猫たちに世話をされながら、過ごしていた。
「可愛いね。白の着物が似合っているよ」
私の猫たち以外の声に、ゆるゆると顔を上げる。楠の枝に座る木像の猫が、こちらを見下ろしゆらりと尾を揺らした。
「猫は祟ると怖いんだって、人間はすぐに忘れてしまうね。可哀想に……人間だって供養をしなければ祟るのに」
くすくすと笑い声が響く。
「元の世界が気になるかな。それとも、もうそれすら分からなくなっちゃったかな。せっかくだから教えて上げるけれど、皆いなくなっちゃったよ」
楽しそうな声音。少し遅れてその言葉の意味を理解して、小さく息を呑んだ。
「可愛い蚕さん。キミのようにボクたちを愛してくれる子はこうして助けてあげたけどね。他は鼠が運んだ病で倒れたり、逃げ出したりして、今あの町は空っぽだよ」
込み上げる恐怖は、けれど背や頭を撫でられて消えていく。
思い浮かんだ家族や友人の顔が掻き消えて、残るのは猫だけに戻る。
ふと、遠く楽しそうにはしゃぐ子供の声が聞こえた。ここと同じように、誰かも猫に愛されているのだろうか。
「それくらいにしてくれ。この子に余計なことをあまり吹き込むな」
「聞く権利くらいはあると思うけど……本当に過保護だね。そんなに執着されて可哀想に」
後ろから回された腕が耳を塞ぐ。それに何かを言いかけて、何も思いつかずに目を閉じた。
必要ないこと。私には猫がいればいい。
そう言えば、と。木像の猫の姿を思い出す。
最初に見た、風雨に朽ちた姿ではない綺麗な姿。あれが作られた当初の姿なのだろうか。
その顔に、涙の跡はなかった。寂しくも、悲しくもなくなったのだろうか。
ゆっくりと消えていく思いの中、そうであれと密かに願う。
いいなぁ。
誰かの声が聞こえた気がしたけれど、すぐに消えてなくなってしまう。
私には猫がいればいい。ここにいることが、何よりの幸せだ。
だからきっと、頬を伝い落ち跡を残すこの滴は、嬉しいからなのだろう。
20250726 『涙の跡』
※ おまけ
少女の華奢な体を引き寄せる。
籠の中から桑の実をひとつ摘んで、少女の唇に軽く触れさせる。
僅かに開く唇。実を差し入れれば、逆らうことなく実を喰み白い喉を鳴らして飲み込んだ。
本当に蚕のようだ。世話を焼かねば何もできなくなった少女を見て思う。
猫神の怒りに触れた町に住む、愛しい飼い主。元より隠すつもりで動いてはいたが、こうして猫神の神域の一部を与えられたのは僥倖だった。我ら猫のために心を砕く少女の優しさに、愛しさばかりが募っていく。
幸せだと、同胞が鳴く。少女の手に擦り寄れば、頭を撫でられ機嫌良く同胞の喉が鳴った。
同胞にするように少女の髪を撫でてみる。心地良さげに目を細める少女は、けれどもその目にかつての煌めきはない。
虚ろに開いた、ガラス玉のような目。それを少しだけ惜しく思う。
少女は我らの飼い主ではなくなり、我らの蚕となった。
故に、その目が自発的に我らを見ることはない。その唇で名を呼ぶことも失われてしまった。
だかそれでも。
「好きだよ」
「うん。私も好き。大好き」
蚕が糸を紡ぐように、少女は言葉を紡ぐ。
他の猫の所にいる人間のような、上辺だけの言葉ではない。
心から我らを思い紡がれる、極上の絹糸のような言葉。
「皆のことを愛してる」
ふわりと微笑む少女の体を抱いて、額に口付ける。
可愛い、愛しい飼い主。
猫神に目をつけられ、人間から逸脱した哀れな蚕。
我らの唯一。誰かに取られることも、死の別れを怖れることもない。
一筋零れ落ちる滴の跡を舐め取って、幸せだと囁いた。
7/27/2025, 11:07:55 PM