ずっと、後悔していることがある。
幼い頃、大切な友人と喧嘩をした。
切っ掛けは覚えていない。いつ、どこで喧嘩をしていたのかさえも、はっきりしない。
ただそれを最後に、友人とは二度と会うことはなかった。
――大嫌いっ!
その時の友人は、悲しんでいただろうか。それとも怒っていたのだろうか。何故、喧嘩をしたきり会えなかったのか。
掠れた記憶では、友人の姿でさえ曖昧だった。
「もしも過去へ行けるなら……どうする?」
手にした不思議な色合いの羽根に唇を寄せて、少女は笑う。
見知らぬ少女。見知らぬ教室。
気づけば一番前の席に座り、教壇に立つ少女の話を聞いていた。
「短い人生の、どの選択に戻りたい?」
過去に戻る。選択をやり直す。
思いつくのは、ただひとつだ。
思い出せない過去の後悔を、やり直す。喧嘩をした友人と仲直りをするために。続く苦しさから解放されるために。
「――友達と喧嘩をした、その日に戻りたい」
「それでいいの?」
小首を傾げて、少女は問う。それに迷わず頷いた。
やり直したい。仲直りをして、もう一度。
いや、違う。過る思考に首を振った。
「なんで喧嘩をしたのか……どうして会えなくなったのかを、知りたい」
するりと零れ落ちた言葉に、納得した。
やり直したいのではない。後悔しか残らないこの記憶を、すべて思い出したいのだ。
「そう。分かった」
少女の笑みが優しくなった気がした。まるで提示した問題に正しく答えられた生徒を褒める教師のように、少女は頷いて教壇を降りる。
自分の目の前に立ち、手にしていた羽根を差し出した。
「あなたの望む答えが得られますように」
羽根を受け取った瞬間。
視界が暗転した。
「ねえ、聞いてる?」
幼い子供の声が聞こえて、はっとして顔を上げた。
「もう、ぼんやりしてないで、ちゃんと聞いてよ」
怒った顔をした幼い少女が、顔を近づけ囁いた。
どこか見覚えのあるその姿。懐かしいと込み上げる感情に、彼女は自分の大切な友人だと思い出す。
「わたし、山に入るわ」
線香の匂い。カーテンを閉めた暗い部屋に、立ち込める熱気。遠く聞こえる、大人たちの話し声。
掠れた記憶が、形を明確にしていく。友人との最後の夏の夜を、思い出す。
「大人の後をこっそり着いていって、お母さんを連れ戻すの」
友人と喧嘩をした日。
それは友人の母の葬式の夜のことだった。
この村の墓地は、山の奥にある。
その山に、子供は入れない。大人もまた、決まった時期以外に、足を踏み入れることは許されなかった。
盆と彼岸の時期。そして誰かがなくなり墓に入れる時。
身を清め、白装束を纏い、そして特別な提灯を手にして山に入る。山に入った後も、いくつかの決まりがあると言われている。
決まりを破ることはできない。破った者は、二度と山から出られない。
その山は死に近いからだと、教えて貰ったことを思い出した。
「シジュウクニチは、まだお母さんがここにいてくれるんだって。だからどこかに行く前に、お母さんに行かないでってお願いするの。良い子にするって約束したらきっと、起きてくれるはず」
まだ幼かった自分たちは、死の意味を正しく理解してはいなかった。
だから、その山の怖ろしさを知らなかった。
「ねえ、一緒に行こう?お願い。お母さんと離れたくないの」
声を震わせ、静かに泣いて頼み込む友人から、目を逸らしたくなる。
思い出す。喧嘩となった原因を。
その最初の言葉も、すべてを思い出してしまった。
「だめだよ。お山には、子供は入っちゃいけないんだよ」
同じ言葉を、選択を繰り返す。
例え友人と二度と会えなくなるとしても、この選択だけは違えてはいけないものだ。
「なんで!?なんでそんな酷いことを言うの。こんな時まで、なんで大人の言うことを聞かないといけないのよっ!」
「だめ。お山は危険なんだよ。子供が行ったら、戻って来れなくなるよ」
止められないことは知っている。
この後の友人の言葉は、ずっと心に残り続けている。
「もういい!友達だって思ってたのに。信じていたのに……大嫌い!」
泣きながら部屋を飛び出す友人の表情は、酷く傷ついた表情をしていた。
「この後も続ける?」
背後から聞こえた声に、振り返る。
羽根をくれた少女が、静かにこちらを見つめていた。
「続けない。すべて思い出したから、もう大丈夫。続けても、私は同じ選択肢かできないから」
笑って首を振る。
この後のことも、すべて思い出した。
友人を追いかけて、山へ入った。
そこで見たのは、恐怖で立ち尽くす友人の背と、近づく不気味な黒い人影。
咄嗟に友人と影との間に割り込んで、腕を掴んだ影を思い切り突き飛ばした。
幼い子供の力でも、簡単によろめき距離を取る影。その間に、友人の手を掴んで走り出した。
「何度繰り返しても、私は友達を止めるし、追いかける。その先で襲われそうになるなら、何度だって助けに入るよ」
その代償に、死に感染したとしても。
あの影は、死だった。
魂とか、亡者とも違う、純粋な死。
その死に掴まれた腕は熱を持ち、その熱は全身に回り苦しんだ。
七日、意識は夢と現を彷徨い。
そして七日の晩に、自分は死んだのだと思う。
「思い出させてくれてありがとう。それから……夏祭りに行く約束、破ってごめんね」
そう告げれば、少女はくしゃりと顔を歪めてばか、と小さく呟いた。
「全部わたしのせいなのに、なんでそんなことを言うの。どうして、見捨てる選択をしてくれなかったの」
どうして、と静かに泣く少女の姿が揺らいでいく。時計の針を巻き戻すようにその姿は幼くなり、やがてあの日の友人の姿になった。
「やり直して、お願い。わたしのことなんか見捨ててよ……死なないで」
「見捨てない。大切な友達なんだから」
手を伸ばし縋り付く友人の背を撫でながら、はっきりと告げる。
これだけは譲れない。ごめんねと呟けば、友人はとうとう声を上げて泣き出した。
「ずっと後悔してたの。山を出た後、倒れて、目を覚まさなくて……一週間、同じ部屋で、熱が引かなくて。それなのに、朝起きたら、急に体が冷たくて。息をしてなくて」
怖かったのだと友人は繰り返す。
ごめんねと謝ることしかできないでいれば、抱きしめる腕の力が一層強くなった。
「怖かった。寂しかった……後悔してたの。もしもやり直せたらって、いつも思って……そうしたら、過去に戻れる羽根を見つけて……それなのに、何度戻っても変わらなくて」
だから、自分に託すことにしたと友人は言った。けれど結果は変わらないことに、友人は泣きながらどうしてと涙に濡れる目で自分を睨み付けた。
「ごめんね。でもこれだけは譲れない。大好きな友達を守ることを諦めたくなんてないよ」
「ばか。わたしだって、大好きな友達を失いたくなかったのに」
周囲の景色が色を失っていく。
終わりが近いのだろう。別れを察して離れようとするが、友人の腕は離れない。
逆に痛いほどに抱きしめられる。離れないと睨む目が告げて、その強さに思わず息を呑んだ。
「わたしも一緒に行くから。結果が変わらなくても離れないつもりで、ここにいるの……今、あなたの墓の前にいるんだよ」
色を失い、音もなく崩れていく景色の向こう側に、鬱蒼と茂る木々が見えた。呆然と見つめる先にある墓標の前で倒れ伏す友人の姿に、呻きにも似た声が漏れる。
「山に入ったから、わたしも死に感染してたの。だから最期は一緒にいたいって……迷惑だった?」
「ばか」
どこか不安に表情を曇らせる友人に、仕方がないと笑いかける。
「迷惑なんて、一度も思ったことはないよ」
「よかった……じゃあ、行こうか」
途端に笑顔になる友人が、体を離して手を差し出す。戸惑いもなくその手を繋げば、一瞬で辺りは暗くなった。
何もない黒の空間。見えるのは手を繋いだ友人の姿と、遠く小さく見える星のような灯りだけ。
お互いに頷いて、灯りの方へと歩き出す。
「次も一緒にいられたらいいね」
「一緒にいる。絶対に手を離したりしないし、もう馬鹿なことを言ったりもしない」
真剣で必死な友人に、小さく笑みを浮かべた。
あの先にあるのは、後悔しで繰り返した過去ではない。
まだ見ぬ未来へ向けて、振り返らずに歩いていく。
20250724 『もしも過去へと行けるなら』
誰もいない廃駅で、来ない汽車を待っていた。
針の止まった駅舎の時計。錆びつき、文字の読めなくなった看板。
アスファルトの割れ目からは、名も知らぬ草が茂っている。
小さい駅でありながらも、隅々まで手入れが施され、賑やかだった面影はどこにもない。
汽車が来る度に、はしゃいでいた幼い頃。幼馴染みと、よく未来について話していたことを思い出す。
夏休みになったら、何をしたいか。
大人になったら、何になりたいか。
あの汽車に乗って、どこへ行きたいか。
明日のことから、何年も先のことまで。
たくさんのことを話した。どんな些細なことでも、真剣に向き合ってくれた。
二つ年上の幼馴染み。彼は自分の憧れであり、唯一恋をした相手でもあった。
遠く、微かに警笛の音が聞こえた気がした。
ぼんやりと視線を向ける。電灯も潰えた暗いこの場所からは、闇に呑まれた線路の先に何も見ることはできない。
ほぅ、と吐息を溢した。光を求めて見上げる空もまた暗く、僅かに星々が瞬くのみ。
新月だ。だからこんなにもくらいのだと、今更なことを思い笑う。
汽車を待って、どれだけの時が過ぎたのだろう。時間の感覚さえ忘れてしまった。それほど長く、ここに留まっていた。
後悔しているのだ。あの日、素直になれなかったことを。
幼馴染みがこの駅から汽車に乗って旅立った日。
自分は幼馴染にただ一言だけ告げて、背を向けた。
――またいつか。
さよならの代わりの言葉。素直になれなかった自分の、精一杯の強がりだった。
何かを言いかけた幼馴染みから逃げるように、見送ることもなく駅を出た。
泣くのが怖かった。縋り付いて行かないでと言ってしまいそうで、それが怖ろしくて堪らなかった。
もう二度と幼馴染みは戻ることはないのだと。それを知りながら敢えて告げた言葉は、まるで呪いのようだ。
こうして長い間、自分を駅に縛り付けている。
幼馴染みを縛る呪いでなかったのだけは、唯一の救いだった。
遠く、警笛の音が聞こえた。
かたん、かたん、と線路の鳴る音。
はっとして立ち上がる。ふらふらと線路に近づいて、どこか祈るような気持ちで視線を向けた。
「――あぁ」
暗い線路の先で、光が見えた。
汽笛。静寂を切り裂くように響き渡る。
駅舎の屋根が眩い光に揺らいだ。光の向こうに煙が見える。
記憶と変わらないその姿。
呆然と立ち尽くす自分の前で、ゆっくりと汽車は止まった。
暗い車両の中では、いくつかの影が揺らいでいるのが見える。
何も変わらない。
あの日、幼馴染みを乗せて去って行った汽車が、長い時の果てに帰ってきていた。
ゆっくりと扉が開いていく。中の影が揺らぐのを見て、静かに扉の脇へと避けた。
影が下りる。迎えの火を目印に、家に帰っていくのだろう。
帰ってきた彼らを見送って、汽車へと向き直った。
夜よりも黒いその色。懐かしさに口元が綻んだ。
やがて汽笛を鳴らして、汽車は再び動き出す。次の駅に向かい、線路を鳴らして去って行く。
遠ざかる汽車を見つめ、小さく手を振った。幼い頃と同じように、一度も乗ることのなかった汽車に思いを馳せながら。
やがて汽車は見えなくなる。静寂が場を満たして、駅は再び眠りについていく。
笑みを浮かべたまま、静かに歩き出す。どこか満たされた充足感を抱きながら、また汽車を待つためベンチへと向かい。
不意に、腕を引かれた。
突然のことに抵抗ができぬまま体が傾ぐ。倒れる体を抱き留めて、腕を引いた誰かは声を震わせた。
「こんな所にいたのか」
びくりと肩が跳ねた。
耳に馴染むその低めの声を、忘れたことは一度もない。
「随分と遅くなった。すまない」
抱き留める腕の力が強くなる。声と同じく震えるその腕に、そっと触れた。
「――どうして?」
辛うじて紡ぐことのできた言葉は、消え入りそうなほど微かに震えて。
だが伝わったのだろう。腕に触れた手を取り指を絡め、誰か――幼馴染みは、耳元に唇を寄せた。
「迎えに来た……約束を果たさせてほしい」
約束。記憶にないそれに、顔を上げる。視線を向ければ、泣くように微笑む幼馴染みの顔が、暗闇の中でもはっきりと見えた。
「行こう」
肩を抱かれ、歩き出す。
駅舎を出て、自分と幼馴染みの家のある方向へと向かう。
「またいつか」
不意に幼馴染みが呟いた。
強がり、素直になれなかった言葉。自分を駅に留めた呪いの言葉に、僅かに眉が寄る。
「俺を待ってくれる。それが救いだった……家にいるのかと思っていたから、気づかなくて悪かった」
「――え?」
いつの間にか離れた幼馴染みの手の上には、精霊馬が乗せられていた。馬は手のひらの上で跳ね、宙を駆けて去って行く。
「今回は汽車に乗って正解だった。還る時も汽車に乗ろうか。今度は一緒に」
微笑む幼馴染みに、戸惑いながらも小さく頷いた。
何故だが気恥ずかしくなって、視線を前へ向けた。
向かう先に見える火は、自分の家のものだろうか。
火を前に、腕を組んで待つ懐かしい姿を認め、思わず息を呑んだ。
「お父さん」
幼馴染みと同じく帰ってこなかった父の姿に、僅かに涙が滲む。
父だけではない。母や弟たち、家族が家の前で待っていた。
「行こう。お前の来世を貰う挨拶をさせてくれ」
穏やかな声に、目を瞬いて幼馴染みを見る。穏やかな笑みに遅れてその言葉の意味を理解して、声にならない悲鳴が漏れた。
頬が熱い。視線の行き場に迷い、逃げるように再び繋がれた手に視線を落とした。
「左様ならなど、仕方がないと別れるのでなく。またいつかと、再会の約束をくれてありがとう」
縛り付ける呪いではなく、再会を約束する言葉。
優しく囁かれて、幼馴染みの胸に凭れ、一筋涙を流した。
20250722 『またいつか』
縁側に座り、少女はぼんやりと空を見上げていた。
夏休みに入り、初めて一人で泊まった祖父母宅。どこか落ち着かない気持ちに、少女は溜息を吐く。
学校の宿題は、絵日記と自由研究を残すのみ。初日に両親に連れられてから、三日目にはすでに殆どの宿題が終わってしまっていた。
田舎には娯楽が少ない。テレビは退屈な大人向けの番組ばかりで、子供用のゲームなどもありはしない。そも、少女はテレビやゲームよりも読書を好んでいた。
しかし、祖父母の家の書架には本があるものの、幼い少女にはまだ難しい内容のものばかり。故に現時点でできる宿題を終えた後は、こうして縁側の片隅で空を見上げている事が多かった。
「――ごめんください」
不意に、玄関から声がした。
子供特有の、高めの声音。少女は玄関の方へ顔を向けながら、意味もなくおろおろと視線を彷徨わせた。
今、この家にいるのは少女だけだ。祖父は畑仕事に出てしまったし、祖母は先ほど買い物に出たばかりだ。
「おじゃまします」
その言葉に、少女は益々狼狽える。
誰かが許可もなく家の中に入ってくる。都会暮らしの少女には理解できない田舎特有の感覚に、どうすればいいのか分からない。
近づく足音に、少女の目には次第に涙の膜が張る。縁側の先に小さな人影を認めて、耐えきれなくなった涙が一筋、少女の頬を伝い流れていた。
「あぁ、やっぱりいたんだ。返事がないから勝手に上がったけど」
影が少女に近づき、その姿を明確にする。
少女と然程変わらない年頃の少年。人好きの笑みを浮かべて、少女の側に歩み寄る。
「怖がらないで。大丈夫、君のお祖母ちゃんに言われて来たんだ。一緒に遊んで欲しいって」
小さく蹲る少女の頬に手を伸ばし、流れる涙を拭いながら少年は優しく告げる。祖母の名が出たことで、少女の警戒はいくらか緩くなった。
目を瞬いて涙を溢しながら、少年を見つめる。
少女よりも頭一つ高い背丈。笑顔を浮かべながらも、少しだけ下がった眉。優しく涙を拭う手つき。
恐怖とは違う鼓動の高鳴りを感じた。切なく胸を締め付ける知らない感情に、少女は戸惑うことしかできない。
懐かしい。
ふと込み上げた思いに、少女は何故だか無性に泣きたくなった。
「ここを案内してあげる……おいで」
差し出された手を取って、泣く代わりに少女は控えめに微笑んだ。
少年に手を引かれ訪れた場所は、まるで別世界のように少女を魅了した。
神社でのかくれんぼ。小川での水遊び。
蝉やザリガニを捕まえるのも、何もかもが初めての経験だった。
「ほら」
駄菓子屋で買ったアイスを、ぱきんと二つに割って、少年はその片方を少女に手渡した。
「――ありがとう」
軽く俯いて礼を言う少女の頬が赤い。誰かとこうして何かを分けるということすら、少女は初めてだった。
少年の隣に座り、少女はそっとアイスに口を付ける。
ほんのり甘く、冷たい氷の味。
初めての味に、しかし少女の胸を不思議な懐かしさが過る。
既視感、とでもいうのだろうか。少年と過ごし経験するすべてが懐かしく、そして愛おしくて堪らなかった。
横目でアイスを囓る少年を密かに覗う。
お互いに初対面であるはずだ。だというのに、何故こんなにも懐かしく思うのだろうか。
少女には分からない。痛みすら覚える、切ない感情の名を、幼さ故に少女は知らなかった。
「アイス、溶けるよ?」
少年の指摘に、少女は慌ててアイスを囓る。
きん、とした頭の痛みに、笑い合った誰かのいつかの記憶が過ぎた気がした。
「最後に、とっておきの場所に連れて行ってあげる」
そう言って笑う少年に手を引かれ、少女が最後に訪れたのは、小さな廃駅だった。
「ここ?」
「そうだよ。今日は特別なんだ」
困惑し立ち止まる少女に、少年は穏やかに告げる。
少年らしからぬ、何かを想う達観した大人のような目をして廃駅を見つめていた。
少女は少年と繋いでいた手に力を込めた。何かに縋っていなければ、今にも崩れてしまいそうだった。
懐かしい。
覚えのないその感情に、呼吸が乱れていく。泣き叫びたいような、笑いたいような、そんな不思議な感覚に目眩がした。
少年に手を引かれ、駅舎の中に入り込む。
廃駅となって幾分か傷みはあるものの、中は大分綺麗だ。
慣れた様子で改札に向かう少年に、少女は何かを言いかけ。結局何も言えずに、少年に手を引かれるままに改札を抜けた。
「――え?」
改札を抜けた瞬間に、すべてが変わった。
高く昇っていたはずの陽は何処にも見えない。
月のない夜空を、少女は呆然と見上げた。
「大丈夫、今日は特別だから」
少年に促され、歩き出す。
駅には、夜の闇よりも黒い汽車が静かに止まっていた。
「汽車……」
不思議と恐怖はなかった。
ただ込み上げる名前の知らない思いに、少女の目には涙の膜が張りだした。
一筋、頬を伝う。その涙を拭う少年の姿に、誰かが重なって見えた気がした。
「行こう」
そっと囁かれて、少女は小さく頷いた。
手を引かれるまま、車両に乗り込む。音もなく扉が閉まり、汽笛が鳴った。
少年と少女、二人だけを乗せて汽車は走り出す。
「この汽車、どこに向かっているの?」
少年の向かいに座り、少女は窓の外を見ながら呟いた。
「特別な場所……ほら、線路を越えて海に出るよ」
少年の言葉とほぼ同時、車両内が小さく揺れた。
ふわりと小さく浮かんだ汽車が、音もなく海の上に降り立った。線路のない、凪いだ水面を走り抜けていく。
星を映した水面が煌めいた。まるで夜空を走っているようだ。
どこかで、微かに鈴の音のような音が聞こえた。それは汽車の車輪が水面にさざめく音だったのかもしれない。
遠く、いくつも連なる灯が海に浮かんでいた。初めて見るはずのその火の名が、少女の唇から溢れ落ちる。
「――不知火」
本来ならば、夏の終わりと共に見られる現象。
海辺に座り、遠く連なり揺らぐ火を見た記憶が過ぎていく。
少女のものではない記憶。隣に座り、その火の名を教えてくれたのは、誰だっただろうか。
「渡したいものがあるんだ」
静かな声に、少女は少年へと視線を向ける。
「左手、出してくれる?」
真剣な面持ちの少年に、少女はゆっくりと左手を差し出した。
少女の前で膝をついた少年は、恭しくその手を取る。薬指に軽く唇を触れさせて、そっとその指に何かを嵌めた。
「――指輪?」
それは小さな赤い石のついた、玩具の指輪だった。
「本物じゃなくてごめん。でも、今の俺にはこれしか渡せないから」
眉を下げてはにかんで、少年は手を離す。
膝をついたままで少女を見上げ、強い目をして今日を忘れてもいいけれど、と静かに思いを口にする。
「覚えていなくても構わない。ただこれだけは知っていてほしい……お前がくれた約束を、俺は決して忘れはしない。前世も今世も、そして来世も。俺はお前だけを愛している。例え結ばれなくとも、俺の愛はお前だけのものだ」
ひゅっと、少女は息を呑んだ。
少年の姿に、学生服を着た青年の姿が重なる。
遠い過去、少女が少女となる前の記憶が弾けて、涙となって落ちていく。
少女は震える手を伸ばした。少年に引き寄せられるままにその胸に飛び込んで、強くしがみつく。
「ずっと、言えなかったことがあるの」
小さくしゃくり上げながら、必死で言葉を紡ぐ。背を撫でる少年の優しさに泣きながらも笑い、別れの日に言えなかった本当の思いを打ち明けた。
「行かないでほしかった。ずっと、側にいてほしかった……私のこと好きだって、お嫁さんにしてくれるって。子供の頃の約束を守ってほしかった」
少女の言葉に、少年は目を閉じ、あぁと声を溢した。
一度強く抱きしめてから、体を離す。額を合わせて、そっと囁いた。
「今度は必ず守る。結婚の約束も、俺の船で不知火を探しに行く約束も……前世でできなかったことをすべて、今世で叶えよう」
夜の海を、汽車が走っていく。
重なった二人の影を乗せて。
ただひとつの、永遠とも言える愛を内に抱いて。
少女が目覚めた時、そこは汽車の中ではなく、見慣れた祖父母の家だった。
体を起こし、部屋を見回す。少年の姿はどこにもない。
夢だったのだろうか。少女は小さく息を吐いて、何気なく左手に視線を落とした。
「――っ」
左薬指に嵌められた、赤い煌めき。
夢ではない確かな約束に、少女は泣くように微笑んだ。
20250723 『true love』
緩やかな流れに、手を浸す。
夜の小川。川上から止めどなく流れてくる星の欠片を、掬い上げては空へと還していく。
求める星は、まだ見つからない。
どれだけ掬い上げても、その煌めきは求めるものではなかった。
煌めく星は剥き出しの感情。還ることを忘れ漂う魂の一部。
死を前にした恐怖や悲嘆、絶望の塊だった。
「――っ」
掬い上げる度、触れる度に手に傷が増えていく。誰かの死を痛みごと垣間見て、苦痛に手が止まりかける。
それでも手を止める訳にはいかない。手を止めた間に流れ去る星が、求めるものであったとしたら。その懸念が、手を止めることを許さない。
そうしてまた、知らぬ誰かの死の痛みを掬い上げることを繰り返す。
求める星は、まだ見つからない。
「何をしているの?」
ふと、声が聞こえた。聞き馴染みのあるような、まったく聞き覚えのないような、不思議な声音。
答えず、手も止めずにいれば、そっと隣から両手を包まれ止められる。
細く、白い手。簡単に振り解けそうな小さな手を、けれども何故か離すことができなかった。
「何を探しているの?」
問われて、どう答えるべきかを迷う。
「――友達」
かつての関係を答えてみる。変わらぬはずだと思っていた言葉は、空しく滑稽に響いた。
自嘲して、傷だらけの手に視線を落とす。
「友達、だった人。勝手に疑って、手を離して。そして置き去りにして……星に攫われた、大切な人」
目を閉じる。
決して忘れることはない自分の罪は、今でもはっきりと思い出すことができる。
星の降り頻る夜。友人の手を引いて、丘の上へと向かった。
そこで、手を引かなければどこにも行けない友人の手を離した。星を追いかける振りをして、置き去りにした。
後悔してもしきれない自分の罪。姉が神隠しに遭い、その場に友人がいた。ただそれだけで神隠しの原因を、友人だと疑った。
「離れて、少し頭が冷えて……慌てて戻ったけど、間に合わなかった。手を取る前にあいつは星に貫かれて、そのまま消えてしまった」
痛みに泣く声。恐怖に流れる涙。助けを求めて伸ばされた手。
忘れたことなどなかった。何度も悪夢に見て、何度もその丘へと足を運んだ。
神隠しに遭った者は、七日を過ぎれば戻る。
姉は戻ってきた。心が壊れた状態で、山の中で見つかった。
友人も帰ってくるのだと信じていた。それだけが希望だった。
しかし、友人は最後まで帰ることはなかった。
「だから、あいつの星を探している。一人ではどこにも行けないあいつは、きっとここにいるはずだから」
「いないよ」
静かな否定の言葉に目を開ける。そうしてようやく声の方へと視線を向けた。
長い黒髪。白の病衣から除く痩せた手足。
見覚えのない、けれども懐かしい空気を纏う少女がいた。
「ここにはあなたの求める人はいない。朝陽を追いかけて、先に進んでしまったから」
「朝陽……?」
呟いて空を見上げた。月が傾き、遠くで微かに白み始めた空に、何故だか泣きたい気持ちになった。
「そういえば、陽の光はまだ微かに感じられるって言ってたっけ」
「うん。だからここで星を追いかけ掬い上げていても、あなたの傷が増えるだけだよ」
「そうか。一人でも行けるのか……ここに留まるだけの未練は、持ってくれなかったのか」
身勝手にも、それを寂しいと思った。
恨みでも何でも持ってくれれば、もう一度手を引けたのに。
友人の心など考えもしない、どこまでも浅ましい自分自身に吐き気がした。
「大丈夫」
優しい声が囁いた。
「朝陽の向こう側で待ってる。一人で、短い生を足掻いている……だから行って」
ふわりと微笑むその姿が、次第に揺らぎ形を失っていく。
そうして少女の姿は消え、手の中にはひとつの小さな星の欠片だけが残った。
小さな、弱い光を纏った星。川を流れて行くどの星とも違う、温かな光を纏う星。
伝わる思いもまた、とても温かだ。
目を閉じずとも、浮かぶ記憶。一夏の、まだその眼が星の光を捕らえることができていた頃の、友人の思い出。
その中に常に自分がいることに、妙な気恥ずかしさと切なさを覚えた。
「ばかな奴。恨んでくれれば良かったのに」
呟いて、今更ながらにそれはないなと笑った。
穏やかで怒ることを知らないような友人が、自分を恨む姿など想像ができない。
見上げる空は、暗い紺から淡い赤へと色を変え始めている。
東雲色。いつだったか、友人から教えてもらった言葉を思い出した。
「――行くか」
立ち上がり、ゆっくりと朝陽の方へと歩き出す。
いつの間にか手の傷はすっかり癒えて、知らない誰かの死の痛みなど欠片も残ってはいない。
本当に優しい友人だ。その友人に報いるために、自分ができることを考える。
病衣。痩せた手足。温かな記憶に僅かに混じっていた、無機質な病室。
間に合うかは分からない。けれどどうか、と祈りにも似た気持ちで朝陽を追いかけた。
朝の光に消えていく夜空に一筋、星が流れていく。
その煌めきに気づかずに、ただ朝陽だけを求めて駆け抜けた。
その星の煌めきが、優しい奇跡を起こしていたことを。
朝陽の向こう側。友人との出会いの場で知った。
20250721 『星を追いかけて』
朝は遠い。
カーテン越しの暗い空を思いながら、密かに息を吐いた。
「夢か」
夢を見ていた。目覚めた時にはその殆どが零れ落ち、夢を見ていたという感覚だけが残っている。
同じ夢だ。覚えてはいないが、ここ数日同じ夢を繰り返し見ている。そんな根拠のない確信に目を伏せた。
かちかちと、時計の秒針の音がやけに大きく聞こえる。
規則正しいその音を聞きながら、静かに目を閉じた。
まだ朝は来ない。もう一眠りするべきだと、微睡み始めた意識に身を委ねていく。
時計の音。近くで、あるいは遠くから響く、無機質な音。
かち、かち。かち――。
――どぉん。
時計の音に、別の音が混じる。
低い音。時計のように一定の間隔で鳴らされ続ける音は、次第に時計の音を呑み込んで、成り代わる。
聞き覚えのある音だ。体の内側まで響くような音は、夜祭で聞いた、太鼓の音によく似ていた。
もっとも、自分は夜祭に行ったことはないのだが。
太鼓の音が響く。意識がゆっくりと沈んでいく。
そしてまた。
記憶に残らない、夢の中へと落ちていく。
太鼓の音。それに混じる笛の音。
目を開ければ、目の前には夜祭の光景が広がっていた。
たくさんの出店。甘く香ばしい、食欲をそそる匂いが辺りを満たす。
楽しげな談笑。はしゃぐ子供の声がする。自分の横を、子供たちが笑いながら駆け抜けて行く。
何気なく、子供たちが気になった。
駆け抜けるその背を追って、奥へと歩き出す。
辿り着いたのは、神社の社の前。
子供たちが、手にした食べ物やおもちゃを見せ合っている。
辺りには、大人の姿はない。いつの間にか、太鼓や笛の音も聞こえなくなっていた。
一人がこちらに気がつき、大きく手を振った。
「お前も早く来いよ!」
知らない子供。けれどよく知っている。
そんな違和感に、思わず目を閉じた。
水の流れる音がして、目を開けた。
陽の光を反射して煌めく水面に目が眩む。
いつの間にか、真昼の川縁に立っていた。
楽しげな声と水音が聞こえ、視線を向ける。川上で、子供たちが水遊びをしていた。
笑い声。跳ねる水しぶき。川のせせらぎと相俟って、とても涼しげだ。
ゆっくりと歩き出す。子供たちの側まで歩み寄り、立ち止まった。
川の流れは緩やかで、浅い。けれども川の中に入ることを躊躇していれば、目の前に小さな手が差し出された。
「怖くねぇよ。ほら、大丈夫だから」
笑みを浮かべる少年を、どこかで見た気がした。
思い出せない。欠けた記憶のもどかしさに、目を閉じた。
風鈴の音が聞こえた。
目を開ければ、知らない家の縁側に座っていた。
空を見上げる。眩いばかりの陽は、容赦なく辺りを照りつけ、それに負けじと蝉時雨が響き渡る。
時折吹く風が、風鈴を鳴らす。涼やかな音は、それでも完全に暑さを静めてはくれそうにはなかった。
不意に、隣に誰かが座る気配がした。
視線を下ろし、隣へ向ける。
スイカの乗った盆を置き、スイカを手にする友人。
大胆に齧り付くその姿を見ていれば、友人はこちらに視線を向けて、不思議そうに首を傾げた。
「食わねぇの?」
自分と友人の間に置かれた盆を指差す。そこには、もう一切れ、瑞々しいスイカが置かれていた。
手を伸ばす。しかしスイカに触れる前に手を止め、もう一度友人を見た。
静かにこちらを見つめる目と視線が交わる。何もかもを見透かすような、呑み込んでしまいそうなその眼。
くらりと、目眩にも似た感覚に、咄嗟に目を閉じた。
目を開ける。
黄昏に染まる空。影を落とした神社の社の前。
そこに友人と二人、立ち尽くしていた。
「なぁ、話があるんだけどさ。大事な話」
真剣な眼差しの友人に、静かに向き直る。
「俺さ。本当は――」
「ねぇ」
友人の言葉を遮って、一言告げる。
「戻るつもりはないよ」
その言葉に、友人は凪いだ声音で問いかけた。
「なぜ?」
「今を、生きたいから」
答えたその瞬間。
世界が、崩壊した。
一瞬の暗闇。
思わず閉じていた目を開ける。
暗がりに浮かぶ、見慣れた天井。ベッドで横たわっていることに、混乱する。
体を起こそうとして、胸の痛みに倒れ込んだ。息苦しさに、体を丸めて必死で呼吸を繰り返す。
この苦痛は現実のものか。ならば夢から覚めたのだろうか。
「可哀想に」
すぐ側で聞こえた声に、身を強張らせる。
「今を生きるとか、意地を張って……ただ逃げたいだけだろう?お前がお前である前の過去から」
冷たい指が髪を撫でる。頬に触れて、滲んだ涙を拭っていく。
これは現実なのか。それともまだ夢の中なのか。
痛みで朦朧とする意識の中、残酷なほどに優しい声が囁いた。
「大丈夫だ。あのまま、何も知らない子供のままを繰り返せば、何も怖くないだろう?余計なことを考えずにいれば、俺も今度は間違えない」
背に触れられる。無理矢理に体を起こされて、一瞬呼吸が止まった。
「――っ」
「意地を張るな。今を生きるといっても、こんな出来損ないで壊れかけた体じゃあ、何もできないだろうに。生きる前に、体が朽ちて死んでいく」
甘い誘惑に、必死で首を振る。
分かっている。自分はあと、数年しか生きられない。
それでも過去に、それも前世にしがみつくつもりはなかった。
前の自分は、とうの昔に終わってしまったのだ。ならば、短い生でも今を生きるしかない。
目を閉じ、耳を塞いで夢に逃げるのは、それこそ逃げでしかないのだから。
「強情だな。そんな所は前と何も変わらない」
小さな呟きに、痛みに顔を顰めながらも顔を上げる。
悲しげな微笑み。滲んだ視界でもはっきりと見えるのは、その微笑みを覚えているからだろうか。
ごめん、と声にならない呟きが、唇から溢れ落ちた。
自分のせいで過去に囚われたままの友人に、痛みとは違う涙が零れ落ちた。
「――仕方がない。もう少し待ってやるよ」
優しい声と共に、起こされていた体を横たえさせられる。
涙を拭われ、そのまま目を塞がれた。
「お前の終わる時に、また迎えに来る。それまで精々苦しみながら、今を生きることだ」
苦しみ生きろと言いながら、その声はどこまでも優しい。
素直でない友人の変わらない優しさに、過去の自分を少しだけ羨ましく思った。
「じゃあ、またな」
意識が落ちていく。
痛みも苦しさも感じない、夢も見ないほど深い眠りへ、沈んでいく。
明るい陽射しに目が覚めた。
気づけばカーテンは開けられて、晴れやかな青空が窓越しに見えた。
小さく息を吐き、ベッドを起こす。痛みは感じない。普段よりも呼吸が楽にできている気がした。
「おはようござます」
検温に来た、馴染みの看護師が声をかける。
それに答えながら、いつものように思い出せない夢を辿った。
「今日は調子がいいみたいですね。昨日からいらした先生の、新しい処方が効いているみたい」
首を傾げた。
そういえばと、新しく赴任した医師が挨拶に来たことを朧気に思い出す。
「朝食後には、先生が回診に来られますからね」
そう言って去って行く看護師の背を見送りながら、医師の姿を思い浮かべる。
ぼんやりとした輪郭が、一瞬だけ懐かしい誰かの姿を伴って消えていく。
緩く頭を振って、目を閉じた。無理に思い出そうとしなくても、すぐに会うことになる。
窓越しに、蝉の鳴く声がした。どこかで子供たちの笑う声が聞こえる。
今年の夏も暑くなりそうだ。
20250720 『今を生きる』
人の絶えた校舎の中を、一人の青年と一羽の青い鳥が歩いて行く。
「ここか?」
軽く翼を広げて鳥が示す棚の中に、青年は手を差し入れる。奥を探り、しばらくして青年は手を引いた。
その手の中には、錆び付いた小さなキーホルダー。埃を拭えば、龍が巻き付いた剣が鈍く光を反射した気がした。
「――また見つけたな」
小さく呟いて、青年は教室の窓に歩み寄る。差し込む月明かりにキーホルダーを晒すと、それは丸い光となって教室の中を漂いだした。
――見ろよ!この前旅行に行った時に、母ちゃんが買ってくれたんだぜ。
――すげぇ。格好いいじゃん!
――いいなぁ。俺も欲しかったけど、買ってくんなかったんだよなぁ。
楽しげな声が教室内に響き渡る。
在りし日の一場面。光が淡く照らす場所に、楽しげに話す子供たちの影が浮かび、消えていく。
漂う光もやがて消え、後には静寂だけが残った。
ふっと、青年は笑みを溢した。しかしその目はどこか寂しそうに、悲しそうに揺らいでいる。
そんな青年を見上げ、鳥は小さく鳴き声を上げた。
「あぁ、大丈夫だ……全部、見つけてやらないとな」
身を屈め、青年は鳥の頭をそっと撫でる。目を細める鳥に微笑んでから、教室内を一瞥した。
廃校になり、誰も訪れなくなった校舎。かつてここで、青年は教師として働いていた。
青年がいつからこの校舎で失せもの探しをし始めたのか、青年自身も覚えてはいない。気づけばここにいて、青年に懐く飛ばない鳥と共に失せもの探しを始めていた。
「そろそろ次に行くか」
呟いて、静かに立ち上がる。
鳥は小さく鳴いて、先導するように青年の前を歩き出した。
「まだ飛べないのか?……それとも飛ばないのか」
青年の言葉に鳥は振り返らない。教室を出る姿に苦笑して、青年もその後に続いて教室を出た。
使いかけの消しゴムを、月明かりに晒す。
ふわりと丸い光が教室を漂い、密かな声が聞こえてきた。
――皆には、内緒にしてよね。
――分かってるよ。おまじないの相手は、誰にも言わないから。
くすくすと笑い声がする。
――それにしても、先生かぁ。予想はしてたけどね。
――な、なんで。知って!?
――だって、分かりやすかったし?たぶん皆知ってるよ。
声にならない悲鳴。仄かに光が浮かばせる影が、顔を覆って机に伏した。
――頑張って。両思いになれるといいね。
――うぅ……がんばる。
慰めるように机に伏した影の頭を撫でる、もう一人の影。
密やかな日常が、光と共に消えていく。
「おまじない、か」
何もない手に視線を落とし、青年は小さく笑みを浮かべた。
「何かこそこそやっているとは思ってたが……本当に女子はそういうのが好きだな」
笑う青年に、咎めるように鳥が鳴く。嘴で足を突けば、痛がりながらも青年は楽しそうに鳥を見た。
「悪かった。じゃあ、次に行こうか」
いつものように、鳥に告げる。だが鳥は動かない。
澄んだ瞳が青年を見上げる。ややあって、すべてを理解した青年は静かに微笑んだ。
「そうか……これで、全部なのか」
鳥は鳴く。
それに頷いて、青年はそっと鳥を抱き上げた。
「屋上に行こうか。そこが一番空に近い」
鳥を撫で、青年は歩き出す。
その表情は、微笑みながらも泣いているように見えた。
柔らかな風が吹き抜ける。
「良い風だ。旅立ちに相応しい」
穏やかに呟いて、青年は鳥を抱いたままフェンスの側まで歩いていく。
屋上から見下ろす景色は、青年の知るものとまったく様子が異なっていた。
遠くで瞬くいくつもの灯り。夜だというのに昼と変わらぬ明るさに、青年は目を細める。
「全部探すのに、随分時間がかかっちまったな」
苦笑しながら、鳥を抱く腕を空へと伸ばす。青年を見つめる鳥に向けて、一言告げた。
「飛べ」
ぱちり、と鳥の目が瞬いた。
「後はお前だけだ。今まで、長く付き合わせて悪かったな。もう自由になっていいぞ」
鳥は鳴かない。翼を広げることも、青年に擦り寄ることもなく、ただ青年を見つめていた。
まるで、自分が飛び去った後の、青年のその後を尋ねるように。
「大丈夫だ。お前たちを全員送り出したら、先生もいくから」
だから、と続ける青年の言葉を、強く吹いた風が掻き消した。
――うそつき。
誰かの声がした。
――先生は、いつもうそつきだ。
囁く声と共に、いくつもの丸い光が辺りに浮かぶ。
「これは……?」
目を見張る青年と静かに見つめる鳥を囲うように、光が揺らぎ形を変えていく。
小さな子供たちの姿。青年のかつての教え子たちが、笑いながら囁いた。
――ここから動かないくせに。
――一人で残ろうとしてるの、ばればれだよ。
――先生、寂しがり屋なのに、素直じゃないんだから。
――一緒に行けばいいじゃん。
囁く声に合わせて、鳥が鳴く。
「先生。先生も一緒に卒業しようよ」
鳴き声が言葉になる。
青年の頬を一筋の涙が流れ落ちた。
「――いいのか?」
微かな呟きに、鳥は翼を広げ応える。青年の腕から肩へと移り、その頬に擦り寄った。
「先生が皆の忘れものに祈ってくれたから、皆帰ってこれた。だから、皆で還ろうよ」
鳥の言葉に目を伏せる。しかしその口元は緩く笑みを浮かべて。
「そうだな。先生も皆と一緒に行こうか」
きゃあ、とあちこちで歓声があがる。
子供たちに抱きつかれた青年の体が、少しずつ揺らぎ始めていく。
鳥が鳴く。翼を広げ飛び立ち、青年の周りをぐるりと旋回した。
その声に応えるように、青年が鳴き声を上げた。
低い鳥の声。揺らぐ姿もまた、鳥の姿となり。
「行こうか。途中で逸れないでくれよ?失せもの探しは先生、苦手なんだ」
戯ける黒の鳥が、いくつもの蛍のような光に囲まれ、傍の青の鳥と共に夜空を飛び去っていった。
その学校が何故廃校になったのか、今となって正しく知る者はいない。
とある教師が、自分のクラスの生徒を道連れに死んだ。
その当時流行ったおなじないが、生徒と教師を巻き込んで異界へと連れ去った。
裏山に封じられた祟り神に、生徒と教師が喰われてしまった。
様々な噂が流れた。それのどれが本当で、あるいはすべてが偽りなのかも、最早知りようがない。
やがて、時代に取り残された校舎は取り壊された。そこに学校があったことも、消えた生徒と教師がいたことも、すべて忘れ去られてしまった。
それでも――。
「ちょっと男子!もう少し離れなさいよ」
「なんでだよ。あいつだけ先生の側にいて狡くねぇ?」
「いいの!ちょっとだけでも恋人っぽいことさせないと……デートよ、デート」
「デートぉ!?先生とあいつ、付き合ってんの?マジで?」
「じゃあ、結婚式やろうぜ!誓いのちゅーしよう!ちゅー」
「さいてー。本当に男子ってデリカシーにかけるんだから」
番のように寄り添う二羽の鳥が、消えた生徒のために長い間彷徨っていたのを。
夜に吹き抜ける風だけは、忘れることなく覚えている。
20250719 『飛べ』