ずっと、後悔していることがある。
幼い頃、大切な友人と喧嘩をした。
切っ掛けは覚えていない。いつ、どこで喧嘩をしていたのかさえも、はっきりしない。
ただそれを最後に、友人とは二度と会うことはなかった。
――大嫌いっ!
その時の友人は、悲しんでいただろうか。それとも怒っていたのだろうか。何故、喧嘩をしたきり会えなかったのか。
掠れた記憶では、友人の姿でさえ曖昧だった。
「もしも過去へ行けるなら……どうする?」
手にした不思議な色合いの羽根に唇を寄せて、少女は笑う。
見知らぬ少女。見知らぬ教室。
気づけば一番前の席に座り、教壇に立つ少女の話を聞いていた。
「短い人生の、どの選択に戻りたい?」
過去に戻る。選択をやり直す。
思いつくのは、ただひとつだ。
思い出せない過去の後悔を、やり直す。喧嘩をした友人と仲直りをするために。続く苦しさから解放されるために。
「――友達と喧嘩をした、その日に戻りたい」
「それでいいの?」
小首を傾げて、少女は問う。それに迷わず頷いた。
やり直したい。仲直りをして、もう一度。
いや、違う。過る思考に首を振った。
「なんで喧嘩をしたのか……どうして会えなくなったのかを、知りたい」
するりと零れ落ちた言葉に、納得した。
やり直したいのではない。後悔しか残らないこの記憶を、すべて思い出したいのだ。
「そう。分かった」
少女の笑みが優しくなった気がした。まるで提示した問題に正しく答えられた生徒を褒める教師のように、少女は頷いて教壇を降りる。
自分の目の前に立ち、手にしていた羽根を差し出した。
「あなたの望む答えが得られますように」
羽根を受け取った瞬間。
視界が暗転した。
「ねえ、聞いてる?」
幼い子供の声が聞こえて、はっとして顔を上げた。
「もう、ぼんやりしてないで、ちゃんと聞いてよ」
怒った顔をした幼い少女が、顔を近づけ囁いた。
どこか見覚えのあるその姿。懐かしいと込み上げる感情に、彼女は自分の大切な友人だと思い出す。
「わたし、山に入るわ」
線香の匂い。カーテンを閉めた暗い部屋に、立ち込める熱気。遠く聞こえる、大人たちの話し声。
掠れた記憶が、形を明確にしていく。友人との最後の夏の夜を、思い出す。
「大人の後をこっそり着いていって、お母さんを連れ戻すの」
友人と喧嘩をした日。
それは友人の母の葬式の夜のことだった。
この村の墓地は、山の奥にある。
その山に、子供は入れない。大人もまた、決まった時期以外に、足を踏み入れることは許されなかった。
盆と彼岸の時期。そして誰かがなくなり墓に入れる時。
身を清め、白装束を纏い、そして特別な提灯を手にして山に入る。山に入った後も、いくつかの決まりがあると言われている。
決まりを破ることはできない。破った者は、二度と山から出られない。
その山は死に近いからだと、教えて貰ったことを思い出した。
「シジュウクニチは、まだお母さんがここにいてくれるんだって。だからどこかに行く前に、お母さんに行かないでってお願いするの。良い子にするって約束したらきっと、起きてくれるはず」
まだ幼かった自分たちは、死の意味を正しく理解してはいなかった。
だから、その山の怖ろしさを知らなかった。
「ねえ、一緒に行こう?お願い。お母さんと離れたくないの」
声を震わせ、静かに泣いて頼み込む友人から、目を逸らしたくなる。
思い出す。喧嘩となった原因を。
その最初の言葉も、すべてを思い出してしまった。
「だめだよ。お山には、子供は入っちゃいけないんだよ」
同じ言葉を、選択を繰り返す。
例え友人と二度と会えなくなるとしても、この選択だけは違えてはいけないものだ。
「なんで!?なんでそんな酷いことを言うの。こんな時まで、なんで大人の言うことを聞かないといけないのよっ!」
「だめ。お山は危険なんだよ。子供が行ったら、戻って来れなくなるよ」
止められないことは知っている。
この後の友人の言葉は、ずっと心に残り続けている。
「もういい!友達だって思ってたのに。信じていたのに……大嫌い!」
泣きながら部屋を飛び出す友人の表情は、酷く傷ついた表情をしていた。
「この後も続ける?」
背後から聞こえた声に、振り返る。
羽根をくれた少女が、静かにこちらを見つめていた。
「続けない。すべて思い出したから、もう大丈夫。続けても、私は同じ選択肢かできないから」
笑って首を振る。
この後のことも、すべて思い出した。
友人を追いかけて、山へ入った。
そこで見たのは、恐怖で立ち尽くす友人の背と、近づく不気味な黒い人影。
咄嗟に友人と影との間に割り込んで、腕を掴んだ影を思い切り突き飛ばした。
幼い子供の力でも、簡単によろめき距離を取る影。その間に、友人の手を掴んで走り出した。
「何度繰り返しても、私は友達を止めるし、追いかける。その先で襲われそうになるなら、何度だって助けに入るよ」
その代償に、死に感染したとしても。
あの影は、死だった。
魂とか、亡者とも違う、純粋な死。
その死に掴まれた腕は熱を持ち、その熱は全身に回り苦しんだ。
七日、意識は夢と現を彷徨い。
そして七日の晩に、自分は死んだのだと思う。
「思い出させてくれてありがとう。それから……夏祭りに行く約束、破ってごめんね」
そう告げれば、少女はくしゃりと顔を歪めてばか、と小さく呟いた。
「全部わたしのせいなのに、なんでそんなことを言うの。どうして、見捨てる選択をしてくれなかったの」
どうして、と静かに泣く少女の姿が揺らいでいく。時計の針を巻き戻すようにその姿は幼くなり、やがてあの日の友人の姿になった。
「やり直して、お願い。わたしのことなんか見捨ててよ……死なないで」
「見捨てない。大切な友達なんだから」
手を伸ばし縋り付く友人の背を撫でながら、はっきりと告げる。
これだけは譲れない。ごめんねと呟けば、友人はとうとう声を上げて泣き出した。
「ずっと後悔してたの。山を出た後、倒れて、目を覚まさなくて……一週間、同じ部屋で、熱が引かなくて。それなのに、朝起きたら、急に体が冷たくて。息をしてなくて」
怖かったのだと友人は繰り返す。
ごめんねと謝ることしかできないでいれば、抱きしめる腕の力が一層強くなった。
「怖かった。寂しかった……後悔してたの。もしもやり直せたらって、いつも思って……そうしたら、過去に戻れる羽根を見つけて……それなのに、何度戻っても変わらなくて」
だから、自分に託すことにしたと友人は言った。けれど結果は変わらないことに、友人は泣きながらどうしてと涙に濡れる目で自分を睨み付けた。
「ごめんね。でもこれだけは譲れない。大好きな友達を守ることを諦めたくなんてないよ」
「ばか。わたしだって、大好きな友達を失いたくなかったのに」
周囲の景色が色を失っていく。
終わりが近いのだろう。別れを察して離れようとするが、友人の腕は離れない。
逆に痛いほどに抱きしめられる。離れないと睨む目が告げて、その強さに思わず息を呑んだ。
「わたしも一緒に行くから。結果が変わらなくても離れないつもりで、ここにいるの……今、あなたの墓の前にいるんだよ」
色を失い、音もなく崩れていく景色の向こう側に、鬱蒼と茂る木々が見えた。呆然と見つめる先にある墓標の前で倒れ伏す友人の姿に、呻きにも似た声が漏れる。
「山に入ったから、わたしも死に感染してたの。だから最期は一緒にいたいって……迷惑だった?」
「ばか」
どこか不安に表情を曇らせる友人に、仕方がないと笑いかける。
「迷惑なんて、一度も思ったことはないよ」
「よかった……じゃあ、行こうか」
途端に笑顔になる友人が、体を離して手を差し出す。戸惑いもなくその手を繋げば、一瞬で辺りは暗くなった。
何もない黒の空間。見えるのは手を繋いだ友人の姿と、遠く小さく見える星のような灯りだけ。
お互いに頷いて、灯りの方へと歩き出す。
「次も一緒にいられたらいいね」
「一緒にいる。絶対に手を離したりしないし、もう馬鹿なことを言ったりもしない」
真剣で必死な友人に、小さく笑みを浮かべた。
あの先にあるのは、後悔しで繰り返した過去ではない。
まだ見ぬ未来へ向けて、振り返らずに歩いていく。
20250724 『もしも過去へと行けるなら』
7/25/2025, 11:07:42 PM