sairo

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朝は遠い。
カーテン越しの暗い空を思いながら、密かに息を吐いた。

「夢か」

夢を見ていた。目覚めた時にはその殆どが零れ落ち、夢を見ていたという感覚だけが残っている。
同じ夢だ。覚えてはいないが、ここ数日同じ夢を繰り返し見ている。そんな根拠のない確信に目を伏せた。

かちかちと、時計の秒針の音がやけに大きく聞こえる。
規則正しいその音を聞きながら、静かに目を閉じた。
まだ朝は来ない。もう一眠りするべきだと、微睡み始めた意識に身を委ねていく。
時計の音。近くで、あるいは遠くから響く、無機質な音。
かち、かち。かち――。

――どぉん。

時計の音に、別の音が混じる。
低い音。時計のように一定の間隔で鳴らされ続ける音は、次第に時計の音を呑み込んで、成り代わる。
聞き覚えのある音だ。体の内側まで響くような音は、夜祭で聞いた、太鼓の音によく似ていた。
もっとも、自分は夜祭に行ったことはないのだが。

太鼓の音が響く。意識がゆっくりと沈んでいく。

そしてまた。
記憶に残らない、夢の中へと落ちていく。





太鼓の音。それに混じる笛の音。
目を開ければ、目の前には夜祭の光景が広がっていた。
たくさんの出店。甘く香ばしい、食欲をそそる匂いが辺りを満たす。
楽しげな談笑。はしゃぐ子供の声がする。自分の横を、子供たちが笑いながら駆け抜けて行く。
何気なく、子供たちが気になった。
駆け抜けるその背を追って、奥へと歩き出す。

辿り着いたのは、神社の社の前。
子供たちが、手にした食べ物やおもちゃを見せ合っている。
辺りには、大人の姿はない。いつの間にか、太鼓や笛の音も聞こえなくなっていた。
一人がこちらに気がつき、大きく手を振った。

「お前も早く来いよ!」

知らない子供。けれどよく知っている。
そんな違和感に、思わず目を閉じた。



水の流れる音がして、目を開けた。
陽の光を反射して煌めく水面に目が眩む。
いつの間にか、真昼の川縁に立っていた。
楽しげな声と水音が聞こえ、視線を向ける。川上で、子供たちが水遊びをしていた。
笑い声。跳ねる水しぶき。川のせせらぎと相俟って、とても涼しげだ。
ゆっくりと歩き出す。子供たちの側まで歩み寄り、立ち止まった。
川の流れは緩やかで、浅い。けれども川の中に入ることを躊躇していれば、目の前に小さな手が差し出された。

「怖くねぇよ。ほら、大丈夫だから」

笑みを浮かべる少年を、どこかで見た気がした。
思い出せない。欠けた記憶のもどかしさに、目を閉じた。



風鈴の音が聞こえた。
目を開ければ、知らない家の縁側に座っていた。
空を見上げる。眩いばかりの陽は、容赦なく辺りを照りつけ、それに負けじと蝉時雨が響き渡る。
時折吹く風が、風鈴を鳴らす。涼やかな音は、それでも完全に暑さを静めてはくれそうにはなかった。

不意に、隣に誰かが座る気配がした。
視線を下ろし、隣へ向ける。
スイカの乗った盆を置き、スイカを手にする友人。
大胆に齧り付くその姿を見ていれば、友人はこちらに視線を向けて、不思議そうに首を傾げた。

「食わねぇの?」

自分と友人の間に置かれた盆を指差す。そこには、もう一切れ、瑞々しいスイカが置かれていた。
手を伸ばす。しかしスイカに触れる前に手を止め、もう一度友人を見た。
静かにこちらを見つめる目と視線が交わる。何もかもを見透かすような、呑み込んでしまいそうなその眼。
くらりと、目眩にも似た感覚に、咄嗟に目を閉じた。



目を開ける。
黄昏に染まる空。影を落とした神社の社の前。
そこに友人と二人、立ち尽くしていた。

「なぁ、話があるんだけどさ。大事な話」

真剣な眼差しの友人に、静かに向き直る。

「俺さ。本当は――」
「ねぇ」

友人の言葉を遮って、一言告げる。

「戻るつもりはないよ」

その言葉に、友人は凪いだ声音で問いかけた。

「なぜ?」
「今を、生きたいから」

答えたその瞬間。
世界が、崩壊した。



一瞬の暗闇。
思わず閉じていた目を開ける。
暗がりに浮かぶ、見慣れた天井。ベッドで横たわっていることに、混乱する。
体を起こそうとして、胸の痛みに倒れ込んだ。息苦しさに、体を丸めて必死で呼吸を繰り返す。
この苦痛は現実のものか。ならば夢から覚めたのだろうか。

「可哀想に」

すぐ側で聞こえた声に、身を強張らせる。

「今を生きるとか、意地を張って……ただ逃げたいだけだろう?お前がお前である前の過去から」

冷たい指が髪を撫でる。頬に触れて、滲んだ涙を拭っていく。
これは現実なのか。それともまだ夢の中なのか。
痛みで朦朧とする意識の中、残酷なほどに優しい声が囁いた。

「大丈夫だ。あのまま、何も知らない子供のままを繰り返せば、何も怖くないだろう?余計なことを考えずにいれば、俺も今度は間違えない」

背に触れられる。無理矢理に体を起こされて、一瞬呼吸が止まった。

「――っ」
「意地を張るな。今を生きるといっても、こんな出来損ないで壊れかけた体じゃあ、何もできないだろうに。生きる前に、体が朽ちて死んでいく」

甘い誘惑に、必死で首を振る。
分かっている。自分はあと、数年しか生きられない。
それでも過去に、それも前世にしがみつくつもりはなかった。
前の自分は、とうの昔に終わってしまったのだ。ならば、短い生でも今を生きるしかない。
目を閉じ、耳を塞いで夢に逃げるのは、それこそ逃げでしかないのだから。

「強情だな。そんな所は前と何も変わらない」

小さな呟きに、痛みに顔を顰めながらも顔を上げる。
悲しげな微笑み。滲んだ視界でもはっきりと見えるのは、その微笑みを覚えているからだろうか。
ごめん、と声にならない呟きが、唇から溢れ落ちた。
自分のせいで過去に囚われたままの友人に、痛みとは違う涙が零れ落ちた。

「――仕方がない。もう少し待ってやるよ」

優しい声と共に、起こされていた体を横たえさせられる。
涙を拭われ、そのまま目を塞がれた。

「お前の終わる時に、また迎えに来る。それまで精々苦しみながら、今を生きることだ」

苦しみ生きろと言いながら、その声はどこまでも優しい。
素直でない友人の変わらない優しさに、過去の自分を少しだけ羨ましく思った。

「じゃあ、またな」

意識が落ちていく。
痛みも苦しさも感じない、夢も見ないほど深い眠りへ、沈んでいく。





明るい陽射しに目が覚めた。
気づけばカーテンは開けられて、晴れやかな青空が窓越しに見えた。
小さく息を吐き、ベッドを起こす。痛みは感じない。普段よりも呼吸が楽にできている気がした。

「おはようござます」

検温に来た、馴染みの看護師が声をかける。
それに答えながら、いつものように思い出せない夢を辿った。

「今日は調子がいいみたいですね。昨日からいらした先生の、新しい処方が効いているみたい」

首を傾げた。
そういえばと、新しく赴任した医師が挨拶に来たことを朧気に思い出す。

「朝食後には、先生が回診に来られますからね」

そう言って去って行く看護師の背を見送りながら、医師の姿を思い浮かべる。
ぼんやりとした輪郭が、一瞬だけ懐かしい誰かの姿を伴って消えていく。
緩く頭を振って、目を閉じた。無理に思い出そうとしなくても、すぐに会うことになる。
窓越しに、蝉の鳴く声がした。どこかで子供たちの笑う声が聞こえる。

今年の夏も暑くなりそうだ。



20250720 『今を生きる』

7/21/2025, 11:03:55 PM