「あれ……?」
彼女と二人、映画を見た帰り道。知らない路地に迷い込んだ。
いつもは通らない道。好奇心に任せて、彼女と手を繋いだまま歩いていく。
ふと、彼女が立ち止まった。
「どうしたの?」
「ここ。甘い香りがする。木と、草と……知らない水と風の匂い」
「水と風?」
首を傾げながら視線を向ける。そこは雑貨屋ともカフェともつかない、小さな店のようだった。
看板には、不思議な文字で「Aisling」と書かれている。
「入ってみる?」
彼女が感じた香りは、自分には分からない。でも彼女の様子から、嫌なものではないと分かる。
声をかけると、彼女は少し迷ったようにしてから、小さく頷いて扉に手をかけた。
店の扉を開けると、ちりんと軽やかな鈴の音がした。
店の中は外からは想像できないほど広く、不思議な色をした木材の柱や棚が並んでいる。
色とりどりのドライフラワー、布細工や木彫りの雑貨、ハーブティーの香り。
「すごい……」
「雑貨屋さん、なのかな?」
棚に並べられた、手作りの小さな人形たちを見ながら首を傾げる。
不思議な店。見慣れないものしかないのにとても落ち着く空間に、肩の力が抜けていく。彼女の前では格好よくいたくて気を張っていたのがなくなって、どこか夢見心地で彼女に視線を向けた。
少し離れた場所で、彼女は店の柱を見ていた。そっと手を伸ばして、柱に触れる。
「すごく、きれい」
柱をなぞるその指の爪が、次第に鋭くなっていく。
慌てて彼女の側に寄ってその手を取るが、彼女は柱を見たまま、爪も鋭いままでいいなぁ、と小さく呟いた。
「その柱で爪を研ぐのは止めとくれね。猫のお嬢さん」
店の奥から声がした。びくりと肩を揺らして声のする方を見ると、奥から不思議な雰囲気を纏った女の人が現れた。
「その柱は、あたしの故郷のオークで作られてるんだ。店の匂いで酔っちまってるとこ悪いんだがね、ちっと奥においでな」
穏やかな笑みを浮かべる女の人に、焦りながら頭を下げる。
奥へと促されて、まだぼんやりしている彼女の手を引いた。
奥にはいくつかの机と椅子、そしてカウンターの席があった。どうやらここはカフェでもあったらしい。
カウンター席に座る。隣に座った彼女はおとなしく座ってはいるが、まだ視線は柱を向いたままだ。
「心配はいらないよ。猫は鼻がきくからねぇ。ハーブやアロマの匂いに酔っちまったんだよ。少し落ち着けば元に戻るさ」
女の人はそう言って、カウンターの向こうへ行く。店主なのだろうか。手際よく棚からガラスの瓶を選び、ハーブやドライフラワーを手早くブレンドしていく。不思議な模様の描かれたポットに入れて、お湯を注いだ。
ふわり、と湯気と共に甘い香りが立ちこめる。その香りに、彼女は柱からポットへと視線を移して、目を瞬いて首を傾げた。
「〝special day〟のブレンドをどうぞ。特別な日だけに振る舞われる、特別な一杯さ」
テーブルに置かれたカップの中には、色とりどりの花びらが浮かぶ琥珀色のお茶。
惹かれるように彼女の手がカップに伸びる。湯気を吸い込み、カップに口を付ける。
「――美味しい」
小さく呟いた彼女の爪は、元の綺麗に整えられた爪に戻っていた。
「よかった」
カップを両手で持つ彼女の指先を見て、小さく安堵の息を吐く。
初めてのことだ。祖先に猫がいたらしい彼女が、猫のように喉を鳴らしたり、動くものを追いかけることはよくある。
でもそれだけだ。彼女はちょっとだけ猫に近い人間の女の子で、猫ではない。そう考えていると安心した気持ちが萎んでいって、また不安が込み上げてくる。
「ごめん。迷惑かけて」
「だ、大丈夫だよ!迷惑じゃなくて、心配しただけだから。えっと、その……彼女が、いつもと違うって、ほら、心配になる、し……」
カップを手に肩を落とす彼女に、慌てて気にしないでと声をかけた。
迷惑なんてまったく思っていない。その気持ちが少しでも伝わればと、カップを持つ彼女の両手を包んで眼を合わせて告げる。
「迷惑なんかじゃない。僕は彼氏なんだから、彼女の心配はさせてよ」
「――うん」
頷いて俯く彼女の頬が赤い。つられて自分も顔が熱くなり、恥ずかしくなって同じように俯いた。
お互い何も言えず。でも手は離せずにいれば、カウンターの向こうから、くすくすと忍び笑いが聞こえた。
「仲睦まじいことは、とってもいいことさね。素直なのが一番だ」
視線を向ければ女の人が自分の前にカップを置きながら、楽しそうに囁いた。
「ようこそ、Aisling《アシュリン》へ。特別な日に訪れた、とても幸運なお客さん」
人差し指を口にあてる女の人――店主は、そう言って少女のようにも老婆のようにも見える目をして笑った。
「さて折角の〝special day〟だからね。魔法のフォーチュンクッキーでも如何かな?」
ことり、と小さな白のお皿が自分と彼女の間に置かれる。
「フォーチュンクッキー?」
「この国で言うところの、おみくじみたいなものさ。ひとつ取って割ってごらん?」
彼女と顔を合わせ、首を傾げる。彼女がカップを置くのをみて手を離し、代わりにクッキーに手を伸ばした。
鳥の形をしたクッキーを取り、力を入れて半分に割る。中から出てきた小さな紙片に目を瞬きながら、紙片を開いて中の文字を読んだ。
「――二人の恋は、前途多難……?」
思わず眉を寄せる。そんなこと、自分が誰より知っている。猫の祖先を持つ彼女と、雀の妖の自分。どんなに楽観的に見ても相性はとてもよろしくない。
小さく溜息を吐きながらクッキーをかじる。何だか悲しくなって彼女に視線を向けた。
彼女の指が猫の形をしたクッキーを手に取る。半分に割って中の紙片の文字を読んだ彼女が、そのまま動きを止めた。
「どうしたの?」
聞いても彼女は何も答えない。
ただ頬が先ほどよりも赤くなっていく。
「何が書いてあったの?」
気になって彼女の手元を見れば、小さな紙片には一言。
「――好きをキスで伝えれば、すべて大丈夫……?」
目を瞬く。
「キス……」
遅れて意味を理解して、顔が熱くなっていく。
「好きを……キス、で……」
彼女のクッキーから出てきた紙片。彼女の占いの結果。
つまりは、彼女が、自分に――。
ぽんっ、と情けない音を立てて、雀に戻る。忙しなく辺りを飛び回っていれば、店主に声を上げて笑われた。
「なんだい、なんだい。初々しいったらありゃしない」
笑いながらも、店主はカウンターの下から綺麗な青い缶を取り出す。
「キスが駄目なら、人間になれるチョコレートもあるが、どうするかい?」
「え?」
人間になれる。その言葉にカウンターに下りて、恐る恐る店主へと近づいた。
「まあ、これは別料金になるがね。雀の坊ちゃんが食べれば、猫の嬢ちゃんも安心だろう?」
どうする?と問われて、心が騒ついた。
もしも。もしも彼女と同じ人間になれたのならば。
彼女ともっと近く、隣にいられるのかもしれない。
「――やだ」
けれどそんな淡い期待で近づく足は、彼女の小さな呟きによって止まる。
「このままがいい。このままが好きなの。人の姿も、雀の姿も……全部が好きだから」
真っ赤になった彼女のその言葉に、急いで彼女の隣へと飛んだ。人の姿になって、泣きそうな彼女の背をそっとさする。
「僕も……僕も、そのままの君が好き。猫のような君が、大好き。ごめんね」
小さく謝ると、彼女は俯いたまま首を振る。顔を上げた彼女と目を合わせ、涙の膜が張ったその目を見て、力なく笑った。
彼女もまた眉を下げて笑い。その可愛い姿に惹かれて、自然とその頬に手を当てて、唇を寄せた。
「――っ!?」
「おやまあ」
店主のからかい混じりの声に、今更になって恥ずかしさが込み上げた。
力が抜けて席に座り、温くなったカップに口を付ける。仄かな甘みに息を吐いて、そっと横目で彼女を見た。
濡れた目と視線が合う。深い、森の奥にいるような緑色が真っ直ぐにこちらを見つめている。
その緑色が近づいて、見えなくなる。
代わりに頬に触れたのは、温かくて柔らかな――。
気づけば彼女の手の中で、雀の姿に戻っていた。
「どうやら心配はなさそうだ。なあに、どんな恋にだって、障害がつきものさ。それに悪い魔法を解くのはいつだって、好きな人のキスだって決まっているからねえ」
楽しげで穏やかな店主の声。
妖で在ることも、妖の衝動が残ることも、悪い魔法なんかではない。そう反論したいけれど何も言えず、力が入らず上手く動くこともできない。
「悪い魔法……」
小さく呟いて、彼女は目を瞬いた。指先で頭を撫でながら、彼女はひとつ頷いて。
「あ、戻った」
額に感じた熱。
人の姿を取り、額を抑えて後退った。
「分かった。頑張る」
「何を!?」
静かに何かを決意する彼女に、悲鳴混じりに問いかける。
色々なことがありすぎて、感情が追いつかない。思いが溢れて、じわりと視界がぼやけていく。
「さあさ、お二人とも席にお戻りな。〝special day〟はまだ始まったばかりだ。この魔女の隠れ家Aislingの、美味しい魔法をたあんと召し上がれ」
それでも、頬を染めて笑う彼女と、店主のにんまりとした笑みははっきりと見えた。
20250718 『special day』
森の中を彷徨い歩いて辿り着いたのは、一本の大きな木だった。
ひんやりとした風が吹いて、痛み疲れた体を冷やしてくれる。ふらふらと惹かれるようにして木の根元、揺らぐ木陰へ近づいた。
そこにはすでに誰かがいた。幹に凭れて、目を閉じている。
眠っているのだろうか。涙で滲む視界ではよく分からない。
乱暴に涙を拭って、恐る恐る近づいた。
誰かは目覚めない。黒く長い髪が地面に広がって、まるで昔のお姫様のようだった。
「――何用だ」
低い声がした。目の前の綺麗な誰かから。
びくり、と肩を揺らして一歩後退る。冷たささえ感じられる静かな眼差しに、止まりかけていた涙がまた溢れ出した。
男の人は苦手だ。特に年上の男の人はとても怖くて、痛い。
手がこちらに伸ばされるのを見て、反射的に目を閉じ身を竦めた。
しかし、痛みは来なかった。
優しく触れられる感触に、そろりと目を開ける。
頭を撫でられている。初めて知る優しく慈しむような撫で方に、恐怖とは違う涙が零れた。
「おいで」
呼ばれて、促されるまま男の人の隣に座る。頭をもう一度撫でる指は、そのまま黒い木の陰を差した。
指差す方を眺めていれば、風もないのに木が揺らめき、小さく影がいくつか別れた。
別れた影がずるりと地面から抜け出して、小さな生き物の形を取る。兎やリスなどの小動物になった影が辺りを駆け回り、小鳥になった影は自由に空を飛び、男の人の肩に留まる。
駆け回る小動物たちが膝に乗り、側に寄り添う。男の人の肩に留まっていた小鳥が、こちらに飛んで今度は私の肩に乗った。
不思議な感覚。温かいような、冷たいような。けれど少しも嫌な感じはしない。
思わず小さく笑みが溢れた、笑ってから、慌てて男の人の反応を覗う。感情の読めない目。少なくとも、気分を害してはいないようで安堵した。
「気に入ったか」
問われて、少し考える。
すべて初めてのこと。嬉しかった。そして楽しかった。
男の人の反応を覗いながら、小さく頷いた。
「そうか」
そう言って男の人は、また指を差す。今度は木の根元。ちょうど私の足下を指し示す。
「掘るといい」
静かにそう言われて、そっと地面に手を触れた。
土を掻く。直前に掘り起こしていたのか、あまり力を入れなくても簡単に掘ることができた。
そのまま掘ると、小さな箱が現れる。閉まりきっていない蓋がかたり、と音を立てた。
「開けてみろ」
男の人の指示で、そっと箱の蓋を持ち上げる。中を覗けば、そこには溢れんばかりのお菓子が入っていた。
それを見て、小さくお腹が鳴った。慌てて男の人を見るが、気分を害した様子はない。
「それはすべてお前のものだ」
私のもの。その意味を理解するとほぼ同時に、箱の中のお菓子に手が伸びた。
夢中で袋を破り、手当たり次第にお菓子を口に運ぶ。初めて知る甘さが、心まで満たしていくようだった。
久しぶりにお腹が満たされ、段々と眠気が訪れる。
頭が揺らぐ。それを見て男の人は手を伸ばして私の頭を引き寄せ、膝に乗せてくれた。
大きな手で目を塞がれる。一瞬だけ体が強張るが、すぐに力が抜けて、意識も遠くなる。
「おやすみ」
静かだけれど穏やかな声に、小さく頷いて目を閉じた。
ふと、目が覚めた。
まだぼんやりする意識で、ゆっくりと体を起こす。辺りはすっかり陽が落ちて、暗闇が森の姿を一層怖ろしいものに見せていた。
「起きたのか」
静かな声に視線を向けた。昼間と変わらない位置に、男の人は座っている。
暗闇の中でも、その姿は何故かはっきりと見えた。
男の人が指を差す。昼間、お菓子が出てきた場所だった。
「掘れ」
男の人の指示に従い、土を掘る。昼間とは違い、硬い土の感触。力を込めて土を掻いた。
そうして土の中から出てきたのは、昼間の箱よりも一回り小さな白い壺。しっかりと蓋が閉められて、中に何が入っているのか分からない。
壺を掘り出し、男の人へ差し出す。男の人は壺を受け取ると蓋を開き、中から小さな丸いものをひとつ取り出した。
「食べろ」
手渡されたそれは、透明な黄色い色をした飴のように見えた。少しだけ戸惑って、飴を手にしたまま男の人へ視線を向ける。
男の人は何も言わない。けれど長い黒髪がゆらりと蠢いた気がして、びくりと肩を震わせた。慌てて視線を飴へと戻し、覚悟を決めて飴を口に入れる。
甘くも、苦くもない味。口に入れた瞬間にとろりと溶け出して、小さく喉を鳴らして飲み込んだ。
「――ぁ」
最初に感じたのは、熱だった。体の内側からじわりと広がっていく。
次に感じたのは、知らない記憶。小さな木の根元に、複数の大人たちが何かを埋めていた。
知らない記憶が流れる度、私の記憶が消えていく。消費されるだけ、苦しいだけの日々の記憶が書き換えられていく。
小さな木が長い年月を経て、生長していく。木と埋められた何かが混じり合い、目の前の男の人になっていく。
「良い子だ」
記憶の書き換えに意識が揺らぎ、体が傾ぐ。それを抱き留めて、彼は優しく背を撫でる。
「眠れ……次に目覚めた時には、お前は私と同等になる」
そっと耳元で囁かれ、意識が深く沈んでいく。
落ちていく。どこまでも深く、静かな場所へ。
「苦しめ、傷をつけるだけの生ならば、いっそ書き換えて在り方すら変えてしまえ」
静かな声が聞こえ。
記憶が変わり、私は彼になった。
鳥の囀る声に、目が覚めた。
体を起こし、辺りを見る。
変わらず綺麗な森だ。ここにいるすべてが愛おしい。
ゆっくりと立ち上がる。木陰を抜けて、陽の光の下で振り返った。
榧《かや》の巨木。共に長く森を見届けてきた、半身ともいえる存在。
その木陰が揺らぐ。影が形を変え、長い黒髪の男の姿を取った。
柔らかく微笑んで、ゆるりと手を振られる。
「いっておいで」
その言葉に小さく頷いた。
榧から離れられない私の代わりに、森を見て回る。それが私の新しい役目だった。
「いってきます」
呟いて、私と榧に背を向け歩き出す。
新しい始まりに、知らず笑みが零れ落ちた。
20250717 『揺れる木陰』
差すような強い陽射しの下、陽炎に揺らぐ道を歩いていく。軽率に買い物に出たことを後悔するが、今更戻るのわけにもいかない。
田んぼを横目に、ただ前を見て進む。
夏の陽射しに揺らめく空気の先で、近づく雑木林の木陰が滲んで見えた。
木陰に座り、額の汗を拭う。暑いことには変わりがないが、陽射しが遮られている分、吹き抜ける風が涼しく感じられた。
ぼんやりと陽炎に揺れる田んぼを見つめる。
蝉時雨が響き渡る。視界と相俟って、一段と暑くなったようだ。
思わず溜息を吐く。涼を求めても、これではあまり意味がない。
それならば少しでも早く買い物を終わらせて、部屋で涼んでいた方がいいだろう。もう一度溜息を吐いて、ゆっくりと立ち上がった。
見据える先もまた、陽炎に揺らいでいる。仕方がないと覚悟を決めて、一歩足を踏み出した。
「――っ!?」
纏わり付く熱気とは違う、冷たい何かが手に触れた。
反射的に足を止め、視線を落とす。何かに触れたと思った手には、しかし何もない。
ゆっくりと手を上げる。何かの名残を探すように目を凝らす。
一瞬だけ、揺らめきの中に誰かの手を見た気がした。
「……?」
見えない手に自分の手が繋がれる。ひやりとした感覚に、咄嗟に振り解こうとして。
その瞬間、音が消えた。
煩いと感じられる程の蝉時雨も、風に騒めく木々の音も、遠く微かに聞こえていた車の音さえも。何もかもが聞こえない。
いつの間にか、繋がれた手の感覚はなくなっていた。視線を巡らせ背後を振り返り、視界に映ったものに息を呑んだ。
雑木林の中に、細い道ができていた。その奥から、誰かがゆっくりと近づいてくる。
揺らぐ陽炎が、誰かの姿を曖昧にさせる。そこにいるようでいないような、そんな違和感に何故か胸が痛くなっていく。
ぴしゃん、と。どこからか、微かに水の落ちる音がした。
一定の間隔で落ちていく水音。誰かが近づく度に、まるで足音のように音が大きくなっていく。
ぱしゃん。
一際大きく水が跳ねる音を響かせ、誰かが目の前で止まる。
その顔はやはり揺らいで分からない。
ぼんやりと立ち尽くしている自分に、目の前の誰かは笑ったように見えた。
手を差し出される。大きく角張った手が、取られるのを静かに待っている。
「おいで」
低くもなく、高くもない声音。記憶にない声が痛みとして全身を巡り、一筋涙が頬を伝った。
ゆっくりと誰かの手に自分の手を重ねる。ひんやりと冷たい手に、優しく繋がれていく。
来た道に向き直り、誰かはこちらに視線を向ける。それに頷きを返して、足を踏み出し――。
雑木林の中で、蝉時雨が響き渡った。
はっとして顔を上げた。
「――っ?」
目の前は陽炎に揺らぐ道。
自分の他には誰もいない。ただ、煩いほどに辺りを蝉の鳴く声が満たしている。
直前の記憶が思い出せない。誰かと一緒だったと思っても、その誰かの姿が思い出せない。
はぁ、と溜息を吐く。意識を切り替えるために軽く頭を振って、何気なく背後を振り返る。。
誰もいない雑木林の中の道を一瞥して、前に向き直る。
早く帰ろうと覚悟を決めて、足を踏み出した。
手を繋ぎ、歩いて行く。
とても静かだ。誰の声も、何の音も聞こえない。
繋いだ手に視線を向ける。大きな手。冷たくて、とても心地が良い。
横目で見上げる彼は、やはり揺らいで顔が見えない。少しだけ寂しさを感じながら、視線を前に向ける。
遠く、誰かの影が見えた。こちらに向けて手を大きく振っている。
ばしゃん、と水の跳ねる音。誰かがこちらに駆け寄る度に、ばしゃばしゃと水音がした。
まるで浅い川の上を渡っているようだ。ふとそんなことを思い、近づく誰かの揺らぐ姿を見つめていた。
「おいで」
彼が囁く。駆け寄る誰かを待って立ち止まり、繋いでいた手を強く引いた。
倒れてしまう。傾ぐ体に、思わず目を閉じて。
蝉時雨が響き渡る。
びくり、と肩を揺らして目を開けた。
いつの間にか、雑木林の中の道の前に佇んでいた。
手には白い買い物袋。中の汗をかいたジュースの缶が、がさりと音を立てる。
酷く記憶が曖昧だ。いつ買い物を終えて、ここまで戻ってきたのか。今が現実なのか、それとも夢の中なのかがはっきりとしない。
白昼夢。陽炎の中に、誰かの幻を見ていたような気もする。あまりの暑さに、疲れが溜まっているのかもしれない。
軽く息を吐く。空を見上げれば陽が傾いて、空が青から赤へと色を変え始めていた。
帰らなければ。緩く首を振って、家の方へと歩き出す。
ばしゃりと、足下の水たまりが小さく音を立てた。
それからも夏の陽射しに陽炎が揺らぐと、時折あの夢を見た。
誰かに手を引かれ、雑木林の道を進む夢。夢を見る度に、人が増えていく。
最初に手を繋いだ誰かは手を離し、代わりに両手をそれぞれ違う誰かに繋がれていた。顔は揺らいで見えないが、同年代の同じ格好をした少年少女。もしかしたら双子なのかもしれない。
周りを小さな子供たちが駆け回り、気まぐれに腰に抱きついては離れていく。楽しそうな笑い声。ばしゃばしゃと跳ねる水音。
蝉の鳴く声を聞きながら、玄関を開ける。途端に入り込む熱気に眉を顰め、外に出ることを躊躇した。
玄関先から見える外は、今日も陽炎が揺らいでいる。周りの景色が揺らいで、水の底のように滲ませている。
あぁ、そういえば。ふと、思い出す。
白昼夢を見る時は、いつも陽炎が揺らいでいた。
不意に、音が消えた。
蝉の声も、車の音も、何もかもが聞こえなくなる。
また白昼夢を見ている。そう思いながら、玄関を出て外に出た。
彼が迎えに来る。手を繋いで、一緒に帰るために。
ふらふらと歩き出す道の先に、彼がいた。いつものように黒い着流しを来て、自分が来るのを待っている。
「おいで」
手を差し伸べられる。迷わずその手に自分の手を重ねた。
手を繋いで歩き出す。進む先には、皆が待っている。
こちらに向けて手を振る皆。駆け寄ってくる友人たちに、彼は小さく笑って手を離し、友人たちの方へと軽く背を押した。
するりと、それぞれ両手を繋がれる。同じように駆け寄ってきた子たちに囲まれながら、ゆっくりと歩き出す。
ばしゃり。水音がした。視線を落とすと、いつの間にか地面ではなく水の中を歩いていた。
足首までの深さの水を、ぱしゃぱしゃと跳ねながら歩いていく。顔を上げると、近所の景色ではなくいつもの雑木林の中にいた。
「待ってたよ」
誰かが囁く。
「早く帰ろう」
皆が笑い、友人たちが手を引いて急かす。
進む先が開けてきた。揺らぐ陽炎の向こう側に、記憶にない懐かしい景色が広がっている。
手を引かれ歩いて行く。水が跳ねて音を立てる。
雑木林を抜ける、その瞬間。
また、蝉時雨が――。
「――ぁ」
背後から耳を塞がれた。
冷たくて大きな手の感触。ゆっくりと顔を上げれば、耳を塞ぐ彼がいた。
目が、合った。
「おかえり」
耳を塞がれていても、彼の声ははっきりと聞こえた。今まで聞いていた声ではない、彼の声。
低い、落ち着いた声色。あぁ、と思わず声が漏れる。
両手を引かれ、耳を塞がれて、雑木林を抜ける。
ばしゃんと大きな水音がして、視界が黒く染まっていく。
「おかえり」
友人たちが、子供たちが笑う。
帰ったことを喜ぶ声に。
「ただいま」
低くもなく、高くもない。自分の声が静かに答えた。
「ねえ、聞いた?またあったらしいわよ、神隠し」
「またなの?本当に怖いわよねぇ。いくら数日経てば戻ってくるからといっても、親御さんは心配でしょうね」
ひそひそと、今日もまた噂話が囁かれる。
「それがね、今回はちょっと違うみたいなのよ。何年か前の夏祭りを覚えてる?兄妹が神隠しにあった時の事件」
「もちろんよ。踊りがとっても上手だった子たちでしょう?確かまだ、お兄さんの方は見つかってなかったって……もしかして」
「そう、そのもしかしてよ。また妹さん、いなくなったみたい。玄関から出てすぐいなくなったよううなの。家族の誰も気づかなかったんですって」
「確か、ショックであまり声が出なくなったって前に聞いたことがあるわ。助けを求めようにも、声が出ないんじゃあどうしようもないわよね」
「そうよね。でもショックで声が出なくなるくらい、仲が良かったみたいだし……もしかしたら、お兄さんが連れていってしまったのかもしれないわね」
「あらやだ。じゃあ、お兄さんと同じように戻ってこないかもしれないわね」
怖いわ、と言いながら、楽しそうな噂話は続いていく。
「祭の神様に攫われちゃったのかもしれないわね。本当に踊りの上手な子たちだったもの」
「本当の神隠しだってこと?それなら、もう神隠しは起きないのかしら。考えて見れば、今まで戻ってきた神隠しは、皆女の子だったし」
「そうね。親御さんは可哀想だけれど、気に入られてしまったのなら仕方がないわ」
「可哀想だけれど、これで神隠しが起こらなくなるなら、私たちにとってはありがたい話よね」
可哀想にと繰り返し、よかったと安堵する。そしてすぐに別の噂を話し始める。
一時の哀れみ。噂話など所詮は他人事でしかない。
蝉時雨が響き渡る。
陽炎が揺らぐ。
その揺らぎの先で、楽しそうに笑う子供たちの声が聞こえた。
20250716 『真昼の夢』
「あれ?」
ひらり、と落ちたそれを視線で追って、目を瞬いた。
手帳からこぼれ落ちたのは、一枚の写真。拾い上げながらも、見覚えのないそれに眉を寄せる。
写真に写っていたのは、一人の少年。田んぼの畦道を、こちらに背を向けて歩いている。水を張った田んぼに青々と育った苗が植えられていることから、どうやら夏の頃に撮った写真なのだろう。
何気なく裏返す。隅に小さく書かれていたのは、去年の日付だった。
「なんだろうなぁ、これ」
普段使っている手帳から、前触れもなく現れた写真。
怖い気持ちはない。ただどこか切なさを感じて、胸が苦しくなる。
この場所はどこで、写っている少年は誰なのだろう。
記憶を探れど、浮かんではこない。
――大丈夫、心配ないよ。
でも確かに覚えている。
手を引いて。迷わぬように、前を歩いて。
――まいごの、まいごの……。
戯けた歌。
初夏の、あの切り取られた場所。
思い出せない少年は、去年、確かに――。
迷い、帰れぬ自分の手を引いてくれた。
ぽたり、写真の上に涙が落ちる。
忘れてしまった悲しみが溢れ、止めようもなく写真に滲む。
乱暴に涙を拭い、シャツの裾で写真を拭う。
手がかりを求めて、写真を見つめる。
青空。田んぼの畦道。背を向けている少年の顔は、いくら目をこらしても見えない。
「でも、この姿……どこかで……」
妙な既視感がした。
細い肩。少しだけ丸まった背。小さな歩幅。
「――もしかして」
思いついた想像を、首を振って否定する。
あるはずのないことだ。この写真は去年に撮られたと書いてある。
この少年が、幼い頃の自分だなんて。
そんな不可思議なことが、あるはずなんてない。
――また来年。覚えていたら。
誰かの声を思い出す。
それはこの少年の声なのか。それとも自分の声なのか。
――大丈夫。ちゃんと帰ってくるから。
鍵のかかる音。離れていく寂しさに泣いたのは、誰だったのだろう。
ふっと息を吐く。
写真を見てから、何だか落ち着かない。手帳の適当なページを開いて写真を挟み、そっと閉じる。
気晴らしに、少し出かけてみようか。そう思い立って、手帳を机の上に置き、外へ歩き出した。
何気なくズボンのポケットに手を入れる。
「――え?」
左の指先に触れる、硬く冷たい感触。
細い何かを掴んで、ゆっくりと目の前に出す。
小さな真鍮の鍵。入れた覚えのないものだ。
手帳に視線を戻す。青空の下、先を行く少年の姿が、ふと脳裏をよぎる。
鍵をポケットにねじ込み、手帳を鞄に入れて部屋を出る。
行く当てはない。けれども、行かなければならない。
その想いだけで外に出る。
近くのバス停まで向かいながら、ポケット越しに鍵を握りしめた。
懐かしい、忘れてしまった記憶の扉を開けるための鍵。
何故か、そんな気がした。
バスと電車を乗り継いで辿り着いたのは、田んぼの広がる小さな村にある、褪せた鳥居の前だった。
背後を振り返る。広がる田んぼはあの写真の景色に似ている気もしたが、ここがそうなのかは分からない。
前へ向き直る。鳥居の先には石段が続いていて、上の様子は見えない。
ひとつ深呼吸をして、石段をゆっくりと上っていく。
この石段の先に、祠はあるはずだ。
――去年は君だった。だから今年は……。
根拠のない確信に目眩がする。記憶にない感情が渦を巻いて、今にも倒れそうだ。
――賭けに勝ったのは自分の方。早く行かなければ。
ゆっくりだった足が、次第に速くなっていく。最後には一段飛ばしに駆け上がっていった。
息を切らせながら辿り着いた、石段の終わり。視界に映り込む懐かしい光景に息を呑んだ。
思い出す。なぜ忘れていたのかも、すべて。
縺れる足を動かして、社の脇、小さな祠へと駆け出した。
ポケットから真鍮の鍵を取り出して、逸る気持ちを抑えながら錠に差し込む。かちり、と軽い音を立てて開いた錠をもぎ取るように外して投げ捨て。
震える手で、扉に手をかけた。
「――一年ぶり。ただいま」
小さな祠の中。その暗がりの中に、あの写真の少年が膝を抱えて蹲っていた。
閉じていた瞼が震えて、静かに開いていく。
虚ろな目が焦点を結び、自分の姿を捉えると、困ったような顔をして笑った。
「あのまま、忘れてくれればよかったのに」
「ばか。一年ずつの約束だろ」
手を伸ばし、少年の手を掴んで祠から連れ出す。
幼い自分と同じ顔。同じ姿。
元はひとつだった。それを切り離され、こうして二人になった。
同じ血と肉を分けた半身。
「今年は僕の番だから。ほら交代しよう」
「でも……」
「だめ。賭けだっただろ?僕はこうして思い出したんだから」
忘れていた記憶が、戻ってくる。
去年した賭け。すべてを忘れた状態で、一年過ぎる前までに思い出せるか、忘れたままか。
その賭けに、自分は勝ったのだ。
十年も前だっただろうか。神社と田んぼを守るため、村の大人たちは自分たちの片方を柱に据えた。
どちらかはもう覚えていない。
けれど、一人だけで生き続けるのは、お互いに望まなかった。
少年――半身の両手を包み、目を閉じる。
半身と自分。一年毎の交換。
僕が君になり、君が僕になる。大切な二人だけの儀式。
そうして一年を、中身を変えて生きてきた。
目を開ければ、さっきまでの自分が目の前に見えて、思わず笑う。
何度繰り返しても、この瞬間は不思議で可笑しくて堪らない。
「さ、現《うつつ》に戻るよ。今年は僕が手を引いてあげる」
半身の手を引く。去年とは逆の立ち位置。
けれど半身は動かない。迷うように、恐れるように視線を彷徨わせ、ねえ、と泣くような声を上げる。
「賭けは、しないよね?」
ぱちり、と目を瞬かせる。賭けをしようと持ちかけたのは自分ではなく半身であることを忘れてしまったのだろうか。
「僕だけは不公平じゃないか。ちゃんと君も忘れないと、賭けにならない」
頬を膨らませながらそう告げれば、引いていた手を逆に引かれ、強く抱きしめられた。
「じゃあ、戻らない。ずっとこのまま、きみとここにいる」
「それは……むりだよ。祠は小さいんだから、きっと二人だととっても狭いよ」
ちらり、と背後の祠を一瞥し、首を振る。子供の大きさに合わせて建てられた祠だ。特に成長してしまったその体では、一人でも入らないだろう。
「やだ。祠の外でもいい。置いていくくらいなら、よっぽどいい」
抱きしめる腕の力が強くなる。額を合わせて、距離がゼロになる。
目の前の半身の姿が揺らいで、時計の針を巻き戻す。二人同じ姿に戻って、泣きながらも笑った。
「ねえ、いいでしょう?ぎゅって、くっついていたら祠にも入れるよきっと。だからお願い」
距離はない。このまま溶け合って行きそうだ。
泣く半身へと、手を伸ばすべきかを迷う。
今年は自分が柱になる番だ。このまま半身を現まで送り届けて、祠で一人眠るのが役目だ。
けれども心は、魂は迷い続ける。
生まれた時のように、手が繋がっていたのなら。ひとつであったのならば、こんなにも迷うことはなかったのに。
もう一度ひとつになれたのならば。余分な体だけを置き去りに、共に生きていけるのに。
どうして。何度も繰り返し思う。
切り離した大人たちを、少しだけ恨む。
ひとつを切り離して、二人にして。その不完全な僕/君で、一柱を作ったのか。
「祠には、一人しか入れない」
静かに告げる。
見開かれた半身の目から涙が零れ落ちるのを見ながら、そっとその背に手を伸ばす。
「交代もしない。帰りもしない……ねえ、ひとつに戻ろう?一番最初の、正しい形になればいい」
驚く半身の表情が、幸せそうに綻んでいく。
どちらからともなく背に回した手を下ろし、一歩だけ下がる。自分は右手を、半身は左手を差し出し、離れないように強く繋いだ。
「うれしい。やっとひとつに戻れる」
「うん。僕も嬉しい。欠けていたのが、ようやく満たされる」
指の欠けた不完全な互いの手が、正しいひとつになっていく。
もう離れない。引き離す者は誰もいない。
笑い合いながら祠へ向き直る。
「おやすみ。良い夢を」
「おやすみ。ずっといっしょだよ」
寄り添い目を閉じる。
扉の閉まる音がして、それきり何も聞こえなくなった。
二人だけの儀式は、もうおしまい。
これからは、ひとつだけの揺り籠で眠り続けていく。
20250715 『二人だけの。』
夏になると、あの夜のことを思い出す。
茜色に染まる夕暮れの空の下。広がる田んぼには、もう誰の影も見えない。
蝉の声が遠ざかり、代わりに低い太鼓の音が風に乗って流れてくる。
やがて、村の奥から小さな影がいくつも現れる。
村の子供たち。松明の火を頼りに、細い畦道を一列に歩いていた。
――虫送り。
あの日。私は友人と一緒に、初めて列に加わったのだった。
「緊張してる?」
「うん。ちょっとだけ」
太鼓の音に身を竦める私を、友人は楽しそうに見ていたのを覚えている。
「虫よ、外へ出て行け」
そう皆で唱えながら、暗い畦道を歩いていく。
ふと田んぼを見れば、子供たちの影が水面に伸びて揺れている。
松明の炎が揺れるたび、影もまたゆらゆらと揺れて。それがまるで生きているように思えて、怖かった。
「ちゃんと前を見てね」
繋いだ手を揺らしながら、友人は忠告する。
「絶対に後ろを振り返っちゃだめだよ」
「どうして?」
「怖いモノが着いてきちゃうから」
怖いモノ。びくりと肩を揺らして、繋いだ手に力が籠もる。
後ろには今、何かがいる。振り返ってくれるのをずっと待っている。
そんな想像をして、余計に後ろが気になった。怖くて泣きそうになるのを、友人は笑って見ていた。
やがて、歩く先に小さな川が見えてくる。
田んぼの端。この行列のおしまいだ。
川の手前には、すでに大人たちが待っていた。
子供たちは皆立ち止まり、大人に促されるまま手にしていたものを川に流していく。
小さなわら人形。紙の船。虫の象徴に見立てたものたち。
太鼓の音が止んだ。
「さあ、虫を送ろう」
松明の炎を川に向けて掲げる。合図を送れば、皆が声を揃えて唱えだす。
「虫よ、遠くに流れていけ。村には戻ってくるな」
炎が揺れる。影が揺れて、流れていく虫の象徴を惜しんでいるように見えた。
誰かが松明の火を落とした。それに続いて、次々に火が落とされていく。
急な暗闇。思わず小さな声を漏らせば、友人が繋いだ手を引き、そっと側に寄り添った。
皆に続いて、友人に手を引かれ、ゆっくりと村へ帰る道を歩いて行く。
「暗いけど、月明かりがあるから大丈夫だよ……でも、絶対に後ろは振り向いちゃだめだからね」
念を押されて頷いた。
今になって思い返せば、友人の声はどこか固かったようにも思う。
暗がりを友人に導かれながら歩いていく。
皆の声が遠い。夜道に慣れていない私とは違い、皆の歩く速度は松明があった時と然程変わらない。
暗闇の中、二人きり。何の音も、声もしない。
不意に、友人の歩みが遅くなった。私に合わせているからではない。どこか落ち着かず、後ろを気にしているように思えた。
「どうしたの?」
「うん。ちょっとね」
言葉を濁しながらも、やはり後ろを気にしている。
後ろに何かいるのだろうか。何か得体の知れない、怖いモノ。
想像して怖くなり、足が止まってしまう。
「――あ」
するり、と。友人と繋いでいたはずの手が解けた。
数歩先で、友人も立ち止まる。慌てて追いかけようとして、けれど友人の様子がおかしい事に気づいた。
俯いている。何かに耐えるように、両手で耳を塞いで首を振る。
「いや……違う。だめ。振り返ったら……」
普段とは違う友人の姿。呆然と見ていることしかできない私の前で、だめだと泣きそうに声を震わせ否定する。
そして友人の動きが止まり。
嫌な予感に、友人の元へと駆け寄る前に。
ゆっくりと、振り返ってしまった。
「――あぁ」」
友人の見開かれた目から一筋涙が零れ、月明かりを反射して煌めいた。
手を伸ばす。縋るように抱きしめた友人は、私が見えていないかのように後ろだけを見て。
「ごめん、なさい」
たった一言。
小さく呟いて、その姿は黒い影になって消えてしまった。
「っ、やだ……!」
反射的に振り返った。
後ろにいる何かが、友人を連れて行ってしまう。
それが怖かった。怖いモノが着いてくるよりも余程。
「待って!」
川の手前に、友人と手を繋ぐ黒い影がいた。
こちらに背を向けて歩き出す二人を、必死になって追いかける。
けれどどれだけ走っても、二人には追いつけない。段々と離れて、その姿が暗闇に溶け込んでいってしまう。
「いやだ、待って。置いてかないで」
叫んでも手を伸ばしても、友人には届かない。
そのまま友人と黒い影は暗闇に溶け込んでいき。
その後のことを、私はほとんど覚えてはいない。
「さあ、戻るぞ。最後まで後ろは振り返るなよ」
誰かの声にはっとして顔を上げた。
気づけば虫の象徴は川を流れて、他の大人や子供たちは村へと帰っていく。
今年の虫送りも終わりを迎えた。
もう参加することはないと思っていた虫送り。友人の存在を消してしまった怖ろしい風習に、どうしてか、私は再び子供たちの列に加わっていた。
そっと溜息を吐く。辺りに誰の姿も見えなくなってから、村へと続く道に足を向けた。
あの後。友人の姿が見えなくなって、気づけば自室のベッドで朝を迎えていた。
どうやって戻ってきたのか、まったく覚えてはいなかった。それどころか、友人のことを誰一人覚えてはおらず、記録にも残っていなかった。
二人で撮ったはずの写真は、私一人だけが写っている。
俯きながら、ゆっくりと道を歩いていく。
友人と手を繋いで歩いていたはずの道。暗闇を怖がる私の手を引いてくれた友人は、どこにもいない。
時折、不安になる。友人は本当に存在していたのだろうかと。
もしかしたら、友人とは私の作り出した幻なのではないだろうか。
忘れられないあの夏の記憶がそれを否定するのに、どうしても考えてしまう。
私はもう、友人の顔も声も、名前すらも覚えていないのだから。
「――ねぇ」
不意に、後ろから声をかけられた。
ぎくりと体が強張る。虫送りに参加した子供たちも大人たちも、私より先に歩いていってしまっている。
後ろから声をかける誰かはいないはずだった。
「待って」
どこかで聞き覚えのある声。
そんなはずはないと、首を振る。
気のせいだ。もしくは誰かのいたずらだろう。
だから振り返ってはいけないと、歩く足を少しだけ速めた。
「行かないで。置いていかないでよ」
声は着いてくる。
一定の距離を保って、泣きそうに声を震わせて、私を呼び止める。
振り返ってはいけない。何度も繰り返し、自分自身に言い聞かせる。
「酷い。忘れてしまったの?」
思わず足を止めた。
忘れているものは、何もない。
ないはずだ。
「ずっと一緒だったのに。暗闇の中で、手を引いてあげたのに……本当に酷い」
「いや……違う。だめ。忘れてなんか……」
耳を塞ぎ、首を振る。
これ以上は聞きたくない。早く家に帰りたい。
それなのに、足は少しも動かない。声は手をすり抜けて、直接鼓膜を震わせる。
「酷い……ずっと待ってたのに。一年後、迎えに来てくれるって信じてたのに……友達だって、そう思ってたのに」
「あ……あぁ」
びくりと肩が震え、崩れ落ちた。
膝をついて項垂れる。涙が溢れて頬を伝い、地面を濡らす。
もう、誤魔化せない。
今、私の後ろにいるのは、あの日消えてしまった友人だ。
「待ってたの。あなたもあの日、振り返って私を追いかけてくれたから。禁忌を破って穢れを取り込んで、溜め込み続けていたから、来てくれるって思ってた」
するりと、後ろから伸びるのは白い腕。
左手は腰を抱いて、右手は顎に添えられる。
「私もね。あなたと参加する何年か前に、振り返ってしまったの。その時は兄さんと一緒で。兄さんは私を守るために振り返って……一年後、消えてしまった」
添えられていた右手が顎を掬い、強制的に上を向かされる。
抵抗はできない。
友人が言うように、私はあの日、振り返ってしまった。禁忌を破ってしまったのだから。
だから、きっともう逃げられない。
「あの日、ずっと兄さんの声が聞こえていた。責める声じゃなくて、心配する声。そして顔が見たいって、誘う声」
見上げる夜空が陰っていく。
長い黒髪が頬にかかり、滑り下りて。
「――おかえり。私の大切な人」
嬉しそうに笑う友人と、目が合った。
「兄さん!」
川の手前で待つ兄に、妹は笑顔で歩み寄る。
その右手は、彼女の友達である少女と硬く繋がれていた。
「ごめんね。この子、怖がりだから。振り返るまでに時間がかかっちゃった」
笑顔を浮かべる妹とは異なり、少女は何の表情も浮かんではいない。
ただ虚ろに開いた目で、ぼんやりと兄を見つめていた。
「嬉しいなぁ。大好きな兄さんと、大好きな友達と。これからずっと一緒なんだもの。兄さんもこの子のこと、気に入ってたものね。兄さんも嬉しい?」
兄は何も答えない。
そもそも、兄は人ですらなかった。
川面に映るその影の輪郭だけが、僅かに人の形を留めている。
その周囲を、時折、夏草を揺らす羽音と小さな緑の影が舞う。
近づくと、微かにイナゴの羽音が耳元を擽った。
「よかった。兄さんもこの子のことを好きになって、この子もきっと兄さんのことを好きになって……皆好きになるって、とっても幸せ」
それでも妹は聞こえる羽音に破顔して、左手を兄に差し出した。
兄はその手を取り繋ぐ。
「本当に嬉しい。二人がいてくれれば村に帰れなくてもいいし、他には誰も、何もいらない……ずっと、三人一緒にいようね」
妹は笑う。
兄も少女も、何一つ語らない。
ただ妹と手を繋ぎ、寄り添って。
そうして三人。
流れていった虫の象徴を追うように。
川の向こう。誰も知らない夜の中へ。
手を繋いで、ゆっくりと歩いて行く。
20250714 『夏』