sairo

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森の中を彷徨い歩いて辿り着いたのは、一本の大きな木だった。
ひんやりとした風が吹いて、痛み疲れた体を冷やしてくれる。ふらふらと惹かれるようにして木の根元、揺らぐ木陰へ近づいた。
そこにはすでに誰かがいた。幹に凭れて、目を閉じている。
眠っているのだろうか。涙で滲む視界ではよく分からない。
乱暴に涙を拭って、恐る恐る近づいた。
誰かは目覚めない。黒く長い髪が地面に広がって、まるで昔のお姫様のようだった。

「――何用だ」

低い声がした。目の前の綺麗な誰かから。
びくり、と肩を揺らして一歩後退る。冷たささえ感じられる静かな眼差しに、止まりかけていた涙がまた溢れ出した。
男の人は苦手だ。特に年上の男の人はとても怖くて、痛い。
手がこちらに伸ばされるのを見て、反射的に目を閉じ身を竦めた。
しかし、痛みは来なかった。
優しく触れられる感触に、そろりと目を開ける。
頭を撫でられている。初めて知る優しく慈しむような撫で方に、恐怖とは違う涙が零れた。

「おいで」

呼ばれて、促されるまま男の人の隣に座る。頭をもう一度撫でる指は、そのまま黒い木の陰を差した。
指差す方を眺めていれば、風もないのに木が揺らめき、小さく影がいくつか別れた。
別れた影がずるりと地面から抜け出して、小さな生き物の形を取る。兎やリスなどの小動物になった影が辺りを駆け回り、小鳥になった影は自由に空を飛び、男の人の肩に留まる。
駆け回る小動物たちが膝に乗り、側に寄り添う。男の人の肩に留まっていた小鳥が、こちらに飛んで今度は私の肩に乗った。
不思議な感覚。温かいような、冷たいような。けれど少しも嫌な感じはしない。
思わず小さく笑みが溢れた、笑ってから、慌てて男の人の反応を覗う。感情の読めない目。少なくとも、気分を害してはいないようで安堵した。

「気に入ったか」

問われて、少し考える。
すべて初めてのこと。嬉しかった。そして楽しかった。
男の人の反応を覗いながら、小さく頷いた。

「そうか」

そう言って男の人は、また指を差す。今度は木の根元。ちょうど私の足下を指し示す。

「掘るといい」

静かにそう言われて、そっと地面に手を触れた。
土を掻く。直前に掘り起こしていたのか、あまり力を入れなくても簡単に掘ることができた。
そのまま掘ると、小さな箱が現れる。閉まりきっていない蓋がかたり、と音を立てた。

「開けてみろ」

男の人の指示で、そっと箱の蓋を持ち上げる。中を覗けば、そこには溢れんばかりのお菓子が入っていた。
それを見て、小さくお腹が鳴った。慌てて男の人を見るが、気分を害した様子はない。

「それはすべてお前のものだ」

私のもの。その意味を理解するとほぼ同時に、箱の中のお菓子に手が伸びた。
夢中で袋を破り、手当たり次第にお菓子を口に運ぶ。初めて知る甘さが、心まで満たしていくようだった。


久しぶりにお腹が満たされ、段々と眠気が訪れる。
頭が揺らぐ。それを見て男の人は手を伸ばして私の頭を引き寄せ、膝に乗せてくれた。
大きな手で目を塞がれる。一瞬だけ体が強張るが、すぐに力が抜けて、意識も遠くなる。

「おやすみ」

静かだけれど穏やかな声に、小さく頷いて目を閉じた。



ふと、目が覚めた。
まだぼんやりする意識で、ゆっくりと体を起こす。辺りはすっかり陽が落ちて、暗闇が森の姿を一層怖ろしいものに見せていた。

「起きたのか」

静かな声に視線を向けた。昼間と変わらない位置に、男の人は座っている。
暗闇の中でも、その姿は何故かはっきりと見えた。
男の人が指を差す。昼間、お菓子が出てきた場所だった。

「掘れ」

男の人の指示に従い、土を掘る。昼間とは違い、硬い土の感触。力を込めて土を掻いた。
そうして土の中から出てきたのは、昼間の箱よりも一回り小さな白い壺。しっかりと蓋が閉められて、中に何が入っているのか分からない。
壺を掘り出し、男の人へ差し出す。男の人は壺を受け取ると蓋を開き、中から小さな丸いものをひとつ取り出した。

「食べろ」

手渡されたそれは、透明な黄色い色をした飴のように見えた。少しだけ戸惑って、飴を手にしたまま男の人へ視線を向ける。
男の人は何も言わない。けれど長い黒髪がゆらりと蠢いた気がして、びくりと肩を震わせた。慌てて視線を飴へと戻し、覚悟を決めて飴を口に入れる。
甘くも、苦くもない味。口に入れた瞬間にとろりと溶け出して、小さく喉を鳴らして飲み込んだ。

「――ぁ」

最初に感じたのは、熱だった。体の内側からじわりと広がっていく。
次に感じたのは、知らない記憶。小さな木の根元に、複数の大人たちが何かを埋めていた。
知らない記憶が流れる度、私の記憶が消えていく。消費されるだけ、苦しいだけの日々の記憶が書き換えられていく。
小さな木が長い年月を経て、生長していく。木と埋められた何かが混じり合い、目の前の男の人になっていく。

「良い子だ」

記憶の書き換えに意識が揺らぎ、体が傾ぐ。それを抱き留めて、彼は優しく背を撫でる。

「眠れ……次に目覚めた時には、お前は私と同等になる」

そっと耳元で囁かれ、意識が深く沈んでいく。
落ちていく。どこまでも深く、静かな場所へ。

「苦しめ、傷をつけるだけの生ならば、いっそ書き換えて在り方すら変えてしまえ」

静かな声が聞こえ。
記憶が変わり、私は彼になった。



鳥の囀る声に、目が覚めた。
体を起こし、辺りを見る。
変わらず綺麗な森だ。ここにいるすべてが愛おしい。
ゆっくりと立ち上がる。木陰を抜けて、陽の光の下で振り返った。
榧《かや》の巨木。共に長く森を見届けてきた、半身ともいえる存在。
その木陰が揺らぐ。影が形を変え、長い黒髪の男の姿を取った。
柔らかく微笑んで、ゆるりと手を振られる。

「いっておいで」

その言葉に小さく頷いた。
榧から離れられない私の代わりに、森を見て回る。それが私の新しい役目だった。

「いってきます」

呟いて、私と榧に背を向け歩き出す。
新しい始まりに、知らず笑みが零れ落ちた。



20250717 『揺れる木陰』

7/18/2025, 9:51:22 PM