sairo

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差すような強い陽射しの下、陽炎に揺らぐ道を歩いていく。軽率に買い物に出たことを後悔するが、今更戻るのわけにもいかない。
田んぼを横目に、ただ前を見て進む。
夏の陽射しに揺らめく空気の先で、近づく雑木林の木陰が滲んで見えた。

木陰に座り、額の汗を拭う。暑いことには変わりがないが、陽射しが遮られている分、吹き抜ける風が涼しく感じられた。
ぼんやりと陽炎に揺れる田んぼを見つめる。
蝉時雨が響き渡る。視界と相俟って、一段と暑くなったようだ。
思わず溜息を吐く。涼を求めても、これではあまり意味がない。
それならば少しでも早く買い物を終わらせて、部屋で涼んでいた方がいいだろう。もう一度溜息を吐いて、ゆっくりと立ち上がった。
見据える先もまた、陽炎に揺らいでいる。仕方がないと覚悟を決めて、一歩足を踏み出した。

「――っ!?」

纏わり付く熱気とは違う、冷たい何かが手に触れた。
反射的に足を止め、視線を落とす。何かに触れたと思った手には、しかし何もない。
ゆっくりと手を上げる。何かの名残を探すように目を凝らす。
一瞬だけ、揺らめきの中に誰かの手を見た気がした。

「……?」

見えない手に自分の手が繋がれる。ひやりとした感覚に、咄嗟に振り解こうとして。

その瞬間、音が消えた。

煩いと感じられる程の蝉時雨も、風に騒めく木々の音も、遠く微かに聞こえていた車の音さえも。何もかもが聞こえない。
いつの間にか、繋がれた手の感覚はなくなっていた。視線を巡らせ背後を振り返り、視界に映ったものに息を呑んだ。
雑木林の中に、細い道ができていた。その奥から、誰かがゆっくりと近づいてくる。
揺らぐ陽炎が、誰かの姿を曖昧にさせる。そこにいるようでいないような、そんな違和感に何故か胸が痛くなっていく。
ぴしゃん、と。どこからか、微かに水の落ちる音がした。
一定の間隔で落ちていく水音。誰かが近づく度に、まるで足音のように音が大きくなっていく。
ぱしゃん。
一際大きく水が跳ねる音を響かせ、誰かが目の前で止まる。
その顔はやはり揺らいで分からない。
ぼんやりと立ち尽くしている自分に、目の前の誰かは笑ったように見えた。
手を差し出される。大きく角張った手が、取られるのを静かに待っている。

「おいで」

低くもなく、高くもない声音。記憶にない声が痛みとして全身を巡り、一筋涙が頬を伝った。
ゆっくりと誰かの手に自分の手を重ねる。ひんやりと冷たい手に、優しく繋がれていく。
来た道に向き直り、誰かはこちらに視線を向ける。それに頷きを返して、足を踏み出し――。

雑木林の中で、蝉時雨が響き渡った。


はっとして顔を上げた。

「――っ?」

目の前は陽炎に揺らぐ道。
自分の他には誰もいない。ただ、煩いほどに辺りを蝉の鳴く声が満たしている。
直前の記憶が思い出せない。誰かと一緒だったと思っても、その誰かの姿が思い出せない。
はぁ、と溜息を吐く。意識を切り替えるために軽く頭を振って、何気なく背後を振り返る。。
誰もいない雑木林の中の道を一瞥して、前に向き直る。
早く帰ろうと覚悟を決めて、足を踏み出した。





手を繋ぎ、歩いて行く。
とても静かだ。誰の声も、何の音も聞こえない。
繋いだ手に視線を向ける。大きな手。冷たくて、とても心地が良い。
横目で見上げる彼は、やはり揺らいで顔が見えない。少しだけ寂しさを感じながら、視線を前に向ける。
遠く、誰かの影が見えた。こちらに向けて手を大きく振っている。
ばしゃん、と水の跳ねる音。誰かがこちらに駆け寄る度に、ばしゃばしゃと水音がした。
まるで浅い川の上を渡っているようだ。ふとそんなことを思い、近づく誰かの揺らぐ姿を見つめていた。

「おいで」

彼が囁く。駆け寄る誰かを待って立ち止まり、繋いでいた手を強く引いた。
倒れてしまう。傾ぐ体に、思わず目を閉じて。

蝉時雨が響き渡る。


びくり、と肩を揺らして目を開けた。
いつの間にか、雑木林の中の道の前に佇んでいた。
手には白い買い物袋。中の汗をかいたジュースの缶が、がさりと音を立てる。
酷く記憶が曖昧だ。いつ買い物を終えて、ここまで戻ってきたのか。今が現実なのか、それとも夢の中なのかがはっきりとしない。
白昼夢。陽炎の中に、誰かの幻を見ていたような気もする。あまりの暑さに、疲れが溜まっているのかもしれない。
軽く息を吐く。空を見上げれば陽が傾いて、空が青から赤へと色を変え始めていた。
帰らなければ。緩く首を振って、家の方へと歩き出す。
ばしゃりと、足下の水たまりが小さく音を立てた。



それからも夏の陽射しに陽炎が揺らぐと、時折あの夢を見た。
誰かに手を引かれ、雑木林の道を進む夢。夢を見る度に、人が増えていく。
最初に手を繋いだ誰かは手を離し、代わりに両手をそれぞれ違う誰かに繋がれていた。顔は揺らいで見えないが、同年代の同じ格好をした少年少女。もしかしたら双子なのかもしれない。
周りを小さな子供たちが駆け回り、気まぐれに腰に抱きついては離れていく。楽しそうな笑い声。ばしゃばしゃと跳ねる水音。

蝉の鳴く声を聞きながら、玄関を開ける。途端に入り込む熱気に眉を顰め、外に出ることを躊躇した。
玄関先から見える外は、今日も陽炎が揺らいでいる。周りの景色が揺らいで、水の底のように滲ませている。
あぁ、そういえば。ふと、思い出す。
白昼夢を見る時は、いつも陽炎が揺らいでいた。

不意に、音が消えた。

蝉の声も、車の音も、何もかもが聞こえなくなる。
また白昼夢を見ている。そう思いながら、玄関を出て外に出た。
彼が迎えに来る。手を繋いで、一緒に帰るために。

ふらふらと歩き出す道の先に、彼がいた。いつものように黒い着流しを来て、自分が来るのを待っている。

「おいで」

手を差し伸べられる。迷わずその手に自分の手を重ねた。
手を繋いで歩き出す。進む先には、皆が待っている。
こちらに向けて手を振る皆。駆け寄ってくる友人たちに、彼は小さく笑って手を離し、友人たちの方へと軽く背を押した。
するりと、それぞれ両手を繋がれる。同じように駆け寄ってきた子たちに囲まれながら、ゆっくりと歩き出す。
ばしゃり。水音がした。視線を落とすと、いつの間にか地面ではなく水の中を歩いていた。
足首までの深さの水を、ぱしゃぱしゃと跳ねながら歩いていく。顔を上げると、近所の景色ではなくいつもの雑木林の中にいた。

「待ってたよ」

誰かが囁く。

「早く帰ろう」

皆が笑い、友人たちが手を引いて急かす。

進む先が開けてきた。揺らぐ陽炎の向こう側に、記憶にない懐かしい景色が広がっている。
手を引かれ歩いて行く。水が跳ねて音を立てる。
雑木林を抜ける、その瞬間。
また、蝉時雨が――。

「――ぁ」

背後から耳を塞がれた。
冷たくて大きな手の感触。ゆっくりと顔を上げれば、耳を塞ぐ彼がいた。
目が、合った。

「おかえり」

耳を塞がれていても、彼の声ははっきりと聞こえた。今まで聞いていた声ではない、彼の声。
低い、落ち着いた声色。あぁ、と思わず声が漏れる。
両手を引かれ、耳を塞がれて、雑木林を抜ける。
ばしゃんと大きな水音がして、視界が黒く染まっていく。

「おかえり」

友人たちが、子供たちが笑う。
帰ったことを喜ぶ声に。

「ただいま」

低くもなく、高くもない。自分の声が静かに答えた。





「ねえ、聞いた?またあったらしいわよ、神隠し」
「またなの?本当に怖いわよねぇ。いくら数日経てば戻ってくるからといっても、親御さんは心配でしょうね」

ひそひそと、今日もまた噂話が囁かれる。

「それがね、今回はちょっと違うみたいなのよ。何年か前の夏祭りを覚えてる?兄妹が神隠しにあった時の事件」
「もちろんよ。踊りがとっても上手だった子たちでしょう?確かまだ、お兄さんの方は見つかってなかったって……もしかして」
「そう、そのもしかしてよ。また妹さん、いなくなったみたい。玄関から出てすぐいなくなったよううなの。家族の誰も気づかなかったんですって」
「確か、ショックであまり声が出なくなったって前に聞いたことがあるわ。助けを求めようにも、声が出ないんじゃあどうしようもないわよね」
「そうよね。でもショックで声が出なくなるくらい、仲が良かったみたいだし……もしかしたら、お兄さんが連れていってしまったのかもしれないわね」
「あらやだ。じゃあ、お兄さんと同じように戻ってこないかもしれないわね」

怖いわ、と言いながら、楽しそうな噂話は続いていく。

「祭の神様に攫われちゃったのかもしれないわね。本当に踊りの上手な子たちだったもの」
「本当の神隠しだってこと?それなら、もう神隠しは起きないのかしら。考えて見れば、今まで戻ってきた神隠しは、皆女の子だったし」
「そうね。親御さんは可哀想だけれど、気に入られてしまったのなら仕方がないわ」
「可哀想だけれど、これで神隠しが起こらなくなるなら、私たちにとってはありがたい話よね」

可哀想にと繰り返し、よかったと安堵する。そしてすぐに別の噂を話し始める。
一時の哀れみ。噂話など所詮は他人事でしかない。


蝉時雨が響き渡る。
陽炎が揺らぐ。

その揺らぎの先で、楽しそうに笑う子供たちの声が聞こえた。



20250716 『真昼の夢』

7/17/2025, 9:15:29 PM