「あれ?」
ひらり、と落ちたそれを視線で追って、目を瞬いた。
手帳からこぼれ落ちたのは、一枚の写真。拾い上げながらも、見覚えのないそれに眉を寄せる。
写真に写っていたのは、一人の少年。田んぼの畦道を、こちらに背を向けて歩いている。水を張った田んぼに青々と育った苗が植えられていることから、どうやら夏の頃に撮った写真なのだろう。
何気なく裏返す。隅に小さく書かれていたのは、去年の日付だった。
「なんだろうなぁ、これ」
普段使っている手帳から、前触れもなく現れた写真。
怖い気持ちはない。ただどこか切なさを感じて、胸が苦しくなる。
この場所はどこで、写っている少年は誰なのだろう。
記憶を探れど、浮かんではこない。
――大丈夫、心配ないよ。
でも確かに覚えている。
手を引いて。迷わぬように、前を歩いて。
――まいごの、まいごの……。
戯けた歌。
初夏の、あの切り取られた場所。
思い出せない少年は、去年、確かに――。
迷い、帰れぬ自分の手を引いてくれた。
ぽたり、写真の上に涙が落ちる。
忘れてしまった悲しみが溢れ、止めようもなく写真に滲む。
乱暴に涙を拭い、シャツの裾で写真を拭う。
手がかりを求めて、写真を見つめる。
青空。田んぼの畦道。背を向けている少年の顔は、いくら目をこらしても見えない。
「でも、この姿……どこかで……」
妙な既視感がした。
細い肩。少しだけ丸まった背。小さな歩幅。
「――もしかして」
思いついた想像を、首を振って否定する。
あるはずのないことだ。この写真は去年に撮られたと書いてある。
この少年が、幼い頃の自分だなんて。
そんな不可思議なことが、あるはずなんてない。
――また来年。覚えていたら。
誰かの声を思い出す。
それはこの少年の声なのか。それとも自分の声なのか。
――大丈夫。ちゃんと帰ってくるから。
鍵のかかる音。離れていく寂しさに泣いたのは、誰だったのだろう。
ふっと息を吐く。
写真を見てから、何だか落ち着かない。手帳の適当なページを開いて写真を挟み、そっと閉じる。
気晴らしに、少し出かけてみようか。そう思い立って、手帳を机の上に置き、外へ歩き出した。
何気なくズボンのポケットに手を入れる。
「――え?」
左の指先に触れる、硬く冷たい感触。
細い何かを掴んで、ゆっくりと目の前に出す。
小さな真鍮の鍵。入れた覚えのないものだ。
手帳に視線を戻す。青空の下、先を行く少年の姿が、ふと脳裏をよぎる。
鍵をポケットにねじ込み、手帳を鞄に入れて部屋を出る。
行く当てはない。けれども、行かなければならない。
その想いだけで外に出る。
近くのバス停まで向かいながら、ポケット越しに鍵を握りしめた。
懐かしい、忘れてしまった記憶の扉を開けるための鍵。
何故か、そんな気がした。
バスと電車を乗り継いで辿り着いたのは、田んぼの広がる小さな村にある、褪せた鳥居の前だった。
背後を振り返る。広がる田んぼはあの写真の景色に似ている気もしたが、ここがそうなのかは分からない。
前へ向き直る。鳥居の先には石段が続いていて、上の様子は見えない。
ひとつ深呼吸をして、石段をゆっくりと上っていく。
この石段の先に、祠はあるはずだ。
――去年は君だった。だから今年は……。
根拠のない確信に目眩がする。記憶にない感情が渦を巻いて、今にも倒れそうだ。
――賭けに勝ったのは自分の方。早く行かなければ。
ゆっくりだった足が、次第に速くなっていく。最後には一段飛ばしに駆け上がっていった。
息を切らせながら辿り着いた、石段の終わり。視界に映り込む懐かしい光景に息を呑んだ。
思い出す。なぜ忘れていたのかも、すべて。
縺れる足を動かして、社の脇、小さな祠へと駆け出した。
ポケットから真鍮の鍵を取り出して、逸る気持ちを抑えながら錠に差し込む。かちり、と軽い音を立てて開いた錠をもぎ取るように外して投げ捨て。
震える手で、扉に手をかけた。
「――一年ぶり。ただいま」
小さな祠の中。その暗がりの中に、あの写真の少年が膝を抱えて蹲っていた。
閉じていた瞼が震えて、静かに開いていく。
虚ろな目が焦点を結び、自分の姿を捉えると、困ったような顔をして笑った。
「あのまま、忘れてくれればよかったのに」
「ばか。一年ずつの約束だろ」
手を伸ばし、少年の手を掴んで祠から連れ出す。
幼い自分と同じ顔。同じ姿。
元はひとつだった。それを切り離され、こうして二人になった。
同じ血と肉を分けた半身。
「今年は僕の番だから。ほら交代しよう」
「でも……」
「だめ。賭けだっただろ?僕はこうして思い出したんだから」
忘れていた記憶が、戻ってくる。
去年した賭け。すべてを忘れた状態で、一年過ぎる前までに思い出せるか、忘れたままか。
その賭けに、自分は勝ったのだ。
十年も前だっただろうか。神社と田んぼを守るため、村の大人たちは自分たちの片方を柱に据えた。
どちらかはもう覚えていない。
けれど、一人だけで生き続けるのは、お互いに望まなかった。
少年――半身の両手を包み、目を閉じる。
半身と自分。一年毎の交換。
僕が君になり、君が僕になる。大切な二人だけの儀式。
そうして一年を、中身を変えて生きてきた。
目を開ければ、さっきまでの自分が目の前に見えて、思わず笑う。
何度繰り返しても、この瞬間は不思議で可笑しくて堪らない。
「さ、現《うつつ》に戻るよ。今年は僕が手を引いてあげる」
半身の手を引く。去年とは逆の立ち位置。
けれど半身は動かない。迷うように、恐れるように視線を彷徨わせ、ねえ、と泣くような声を上げる。
「賭けは、しないよね?」
ぱちり、と目を瞬かせる。賭けをしようと持ちかけたのは自分ではなく半身であることを忘れてしまったのだろうか。
「僕だけは不公平じゃないか。ちゃんと君も忘れないと、賭けにならない」
頬を膨らませながらそう告げれば、引いていた手を逆に引かれ、強く抱きしめられた。
「じゃあ、戻らない。ずっとこのまま、きみとここにいる」
「それは……むりだよ。祠は小さいんだから、きっと二人だととっても狭いよ」
ちらり、と背後の祠を一瞥し、首を振る。子供の大きさに合わせて建てられた祠だ。特に成長してしまったその体では、一人でも入らないだろう。
「やだ。祠の外でもいい。置いていくくらいなら、よっぽどいい」
抱きしめる腕の力が強くなる。額を合わせて、距離がゼロになる。
目の前の半身の姿が揺らいで、時計の針を巻き戻す。二人同じ姿に戻って、泣きながらも笑った。
「ねえ、いいでしょう?ぎゅって、くっついていたら祠にも入れるよきっと。だからお願い」
距離はない。このまま溶け合って行きそうだ。
泣く半身へと、手を伸ばすべきかを迷う。
今年は自分が柱になる番だ。このまま半身を現まで送り届けて、祠で一人眠るのが役目だ。
けれども心は、魂は迷い続ける。
生まれた時のように、手が繋がっていたのなら。ひとつであったのならば、こんなにも迷うことはなかったのに。
もう一度ひとつになれたのならば。余分な体だけを置き去りに、共に生きていけるのに。
どうして。何度も繰り返し思う。
切り離した大人たちを、少しだけ恨む。
ひとつを切り離して、二人にして。その不完全な僕/君で、一柱を作ったのか。
「祠には、一人しか入れない」
静かに告げる。
見開かれた半身の目から涙が零れ落ちるのを見ながら、そっとその背に手を伸ばす。
「交代もしない。帰りもしない……ねえ、ひとつに戻ろう?一番最初の、正しい形になればいい」
驚く半身の表情が、幸せそうに綻んでいく。
どちらからともなく背に回した手を下ろし、一歩だけ下がる。自分は右手を、半身は左手を差し出し、離れないように強く繋いだ。
「うれしい。やっとひとつに戻れる」
「うん。僕も嬉しい。欠けていたのが、ようやく満たされる」
指の欠けた不完全な互いの手が、正しいひとつになっていく。
もう離れない。引き離す者は誰もいない。
笑い合いながら祠へ向き直る。
「おやすみ。良い夢を」
「おやすみ。ずっといっしょだよ」
寄り添い目を閉じる。
扉の閉まる音がして、それきり何も聞こえなくなった。
二人だけの儀式は、もうおしまい。
これからは、ひとつだけの揺り籠で眠り続けていく。
20250715 『二人だけの。』
7/16/2025, 4:11:54 PM