夏になると、あの夜のことを思い出す。
茜色に染まる夕暮れの空の下。広がる田んぼには、もう誰の影も見えない。
蝉の声が遠ざかり、代わりに低い太鼓の音が風に乗って流れてくる。
やがて、村の奥から小さな影がいくつも現れる。
村の子供たち。松明の火を頼りに、細い畦道を一列に歩いていた。
――虫送り。
あの日。私は友人と一緒に、初めて列に加わったのだった。
「緊張してる?」
「うん。ちょっとだけ」
太鼓の音に身を竦める私を、友人は楽しそうに見ていたのを覚えている。
「虫よ、外へ出て行け」
そう皆で唱えながら、暗い畦道を歩いていく。
ふと田んぼを見れば、子供たちの影が水面に伸びて揺れている。
松明の炎が揺れるたび、影もまたゆらゆらと揺れて。それがまるで生きているように思えて、怖かった。
「ちゃんと前を見てね」
繋いだ手を揺らしながら、友人は忠告する。
「絶対に後ろを振り返っちゃだめだよ」
「どうして?」
「怖いモノが着いてきちゃうから」
怖いモノ。びくりと肩を揺らして、繋いだ手に力が籠もる。
後ろには今、何かがいる。振り返ってくれるのをずっと待っている。
そんな想像をして、余計に後ろが気になった。怖くて泣きそうになるのを、友人は笑って見ていた。
やがて、歩く先に小さな川が見えてくる。
田んぼの端。この行列のおしまいだ。
川の手前には、すでに大人たちが待っていた。
子供たちは皆立ち止まり、大人に促されるまま手にしていたものを川に流していく。
小さなわら人形。紙の船。虫の象徴に見立てたものたち。
太鼓の音が止んだ。
「さあ、虫を送ろう」
松明の炎を川に向けて掲げる。合図を送れば、皆が声を揃えて唱えだす。
「虫よ、遠くに流れていけ。村には戻ってくるな」
炎が揺れる。影が揺れて、流れていく虫の象徴を惜しんでいるように見えた。
誰かが松明の火を落とした。それに続いて、次々に火が落とされていく。
急な暗闇。思わず小さな声を漏らせば、友人が繋いだ手を引き、そっと側に寄り添った。
皆に続いて、友人に手を引かれ、ゆっくりと村へ帰る道を歩いて行く。
「暗いけど、月明かりがあるから大丈夫だよ……でも、絶対に後ろは振り向いちゃだめだからね」
念を押されて頷いた。
今になって思い返せば、友人の声はどこか固かったようにも思う。
暗がりを友人に導かれながら歩いていく。
皆の声が遠い。夜道に慣れていない私とは違い、皆の歩く速度は松明があった時と然程変わらない。
暗闇の中、二人きり。何の音も、声もしない。
不意に、友人の歩みが遅くなった。私に合わせているからではない。どこか落ち着かず、後ろを気にしているように思えた。
「どうしたの?」
「うん。ちょっとね」
言葉を濁しながらも、やはり後ろを気にしている。
後ろに何かいるのだろうか。何か得体の知れない、怖いモノ。
想像して怖くなり、足が止まってしまう。
「――あ」
するり、と。友人と繋いでいたはずの手が解けた。
数歩先で、友人も立ち止まる。慌てて追いかけようとして、けれど友人の様子がおかしい事に気づいた。
俯いている。何かに耐えるように、両手で耳を塞いで首を振る。
「いや……違う。だめ。振り返ったら……」
普段とは違う友人の姿。呆然と見ていることしかできない私の前で、だめだと泣きそうに声を震わせ否定する。
そして友人の動きが止まり。
嫌な予感に、友人の元へと駆け寄る前に。
ゆっくりと、振り返ってしまった。
「――あぁ」」
友人の見開かれた目から一筋涙が零れ、月明かりを反射して煌めいた。
手を伸ばす。縋るように抱きしめた友人は、私が見えていないかのように後ろだけを見て。
「ごめん、なさい」
たった一言。
小さく呟いて、その姿は黒い影になって消えてしまった。
「っ、やだ……!」
反射的に振り返った。
後ろにいる何かが、友人を連れて行ってしまう。
それが怖かった。怖いモノが着いてくるよりも余程。
「待って!」
川の手前に、友人と手を繋ぐ黒い影がいた。
こちらに背を向けて歩き出す二人を、必死になって追いかける。
けれどどれだけ走っても、二人には追いつけない。段々と離れて、その姿が暗闇に溶け込んでいってしまう。
「いやだ、待って。置いてかないで」
叫んでも手を伸ばしても、友人には届かない。
そのまま友人と黒い影は暗闇に溶け込んでいき。
その後のことを、私はほとんど覚えてはいない。
「さあ、戻るぞ。最後まで後ろは振り返るなよ」
誰かの声にはっとして顔を上げた。
気づけば虫の象徴は川を流れて、他の大人や子供たちは村へと帰っていく。
今年の虫送りも終わりを迎えた。
もう参加することはないと思っていた虫送り。友人の存在を消してしまった怖ろしい風習に、どうしてか、私は再び子供たちの列に加わっていた。
そっと溜息を吐く。辺りに誰の姿も見えなくなってから、村へと続く道に足を向けた。
あの後。友人の姿が見えなくなって、気づけば自室のベッドで朝を迎えていた。
どうやって戻ってきたのか、まったく覚えてはいなかった。それどころか、友人のことを誰一人覚えてはおらず、記録にも残っていなかった。
二人で撮ったはずの写真は、私一人だけが写っている。
俯きながら、ゆっくりと道を歩いていく。
友人と手を繋いで歩いていたはずの道。暗闇を怖がる私の手を引いてくれた友人は、どこにもいない。
時折、不安になる。友人は本当に存在していたのだろうかと。
もしかしたら、友人とは私の作り出した幻なのではないだろうか。
忘れられないあの夏の記憶がそれを否定するのに、どうしても考えてしまう。
私はもう、友人の顔も声も、名前すらも覚えていないのだから。
「――ねぇ」
不意に、後ろから声をかけられた。
ぎくりと体が強張る。虫送りに参加した子供たちも大人たちも、私より先に歩いていってしまっている。
後ろから声をかける誰かはいないはずだった。
「待って」
どこかで聞き覚えのある声。
そんなはずはないと、首を振る。
気のせいだ。もしくは誰かのいたずらだろう。
だから振り返ってはいけないと、歩く足を少しだけ速めた。
「行かないで。置いていかないでよ」
声は着いてくる。
一定の距離を保って、泣きそうに声を震わせて、私を呼び止める。
振り返ってはいけない。何度も繰り返し、自分自身に言い聞かせる。
「酷い。忘れてしまったの?」
思わず足を止めた。
忘れているものは、何もない。
ないはずだ。
「ずっと一緒だったのに。暗闇の中で、手を引いてあげたのに……本当に酷い」
「いや……違う。だめ。忘れてなんか……」
耳を塞ぎ、首を振る。
これ以上は聞きたくない。早く家に帰りたい。
それなのに、足は少しも動かない。声は手をすり抜けて、直接鼓膜を震わせる。
「酷い……ずっと待ってたのに。一年後、迎えに来てくれるって信じてたのに……友達だって、そう思ってたのに」
「あ……あぁ」
びくりと肩が震え、崩れ落ちた。
膝をついて項垂れる。涙が溢れて頬を伝い、地面を濡らす。
もう、誤魔化せない。
今、私の後ろにいるのは、あの日消えてしまった友人だ。
「待ってたの。あなたもあの日、振り返って私を追いかけてくれたから。禁忌を破って穢れを取り込んで、溜め込み続けていたから、来てくれるって思ってた」
するりと、後ろから伸びるのは白い腕。
左手は腰を抱いて、右手は顎に添えられる。
「私もね。あなたと参加する何年か前に、振り返ってしまったの。その時は兄さんと一緒で。兄さんは私を守るために振り返って……一年後、消えてしまった」
添えられていた右手が顎を掬い、強制的に上を向かされる。
抵抗はできない。
友人が言うように、私はあの日、振り返ってしまった。禁忌を破ってしまったのだから。
だから、きっともう逃げられない。
「あの日、ずっと兄さんの声が聞こえていた。責める声じゃなくて、心配する声。そして顔が見たいって、誘う声」
見上げる夜空が陰っていく。
長い黒髪が頬にかかり、滑り下りて。
「――おかえり。私の大切な人」
嬉しそうに笑う友人と、目が合った。
「兄さん!」
川の手前で待つ兄に、妹は笑顔で歩み寄る。
その右手は、彼女の友達である少女と硬く繋がれていた。
「ごめんね。この子、怖がりだから。振り返るまでに時間がかかっちゃった」
笑顔を浮かべる妹とは異なり、少女は何の表情も浮かんではいない。
ただ虚ろに開いた目で、ぼんやりと兄を見つめていた。
「嬉しいなぁ。大好きな兄さんと、大好きな友達と。これからずっと一緒なんだもの。兄さんもこの子のこと、気に入ってたものね。兄さんも嬉しい?」
兄は何も答えない。
そもそも、兄は人ですらなかった。
川面に映るその影の輪郭だけが、僅かに人の形を留めている。
その周囲を、時折、夏草を揺らす羽音と小さな緑の影が舞う。
近づくと、微かにイナゴの羽音が耳元を擽った。
「よかった。兄さんもこの子のことを好きになって、この子もきっと兄さんのことを好きになって……皆好きになるって、とっても幸せ」
それでも妹は聞こえる羽音に破顔して、左手を兄に差し出した。
兄はその手を取り繋ぐ。
「本当に嬉しい。二人がいてくれれば村に帰れなくてもいいし、他には誰も、何もいらない……ずっと、三人一緒にいようね」
妹は笑う。
兄も少女も、何一つ語らない。
ただ妹と手を繋ぎ、寄り添って。
そうして三人。
流れていった虫の象徴を追うように。
川の向こう。誰も知らない夜の中へ。
手を繋いで、ゆっくりと歩いて行く。
20250714 『夏』
7/15/2025, 1:21:57 PM