sairo

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「あれ……?」

彼女と二人、映画を見た帰り道。知らない路地に迷い込んだ。
いつもは通らない道。好奇心に任せて、彼女と手を繋いだまま歩いていく。
ふと、彼女が立ち止まった。

「どうしたの?」
「ここ。甘い香りがする。木と、草と……知らない水と風の匂い」
「水と風?」

首を傾げながら視線を向ける。そこは雑貨屋ともカフェともつかない、小さな店のようだった。
看板には、不思議な文字で「Aisling」と書かれている。

「入ってみる?」

彼女が感じた香りは、自分には分からない。でも彼女の様子から、嫌なものではないと分かる。
声をかけると、彼女は少し迷ったようにしてから、小さく頷いて扉に手をかけた。



店の扉を開けると、ちりんと軽やかな鈴の音がした。
店の中は外からは想像できないほど広く、不思議な色をした木材の柱や棚が並んでいる。
色とりどりのドライフラワー、布細工や木彫りの雑貨、ハーブティーの香り。

「すごい……」
「雑貨屋さん、なのかな?」

棚に並べられた、手作りの小さな人形たちを見ながら首を傾げる。
不思議な店。見慣れないものしかないのにとても落ち着く空間に、肩の力が抜けていく。彼女の前では格好よくいたくて気を張っていたのがなくなって、どこか夢見心地で彼女に視線を向けた。
少し離れた場所で、彼女は店の柱を見ていた。そっと手を伸ばして、柱に触れる。

「すごく、きれい」

柱をなぞるその指の爪が、次第に鋭くなっていく。
慌てて彼女の側に寄ってその手を取るが、彼女は柱を見たまま、爪も鋭いままでいいなぁ、と小さく呟いた。

「その柱で爪を研ぐのは止めとくれね。猫のお嬢さん」

店の奥から声がした。びくりと肩を揺らして声のする方を見ると、奥から不思議な雰囲気を纏った女の人が現れた。

「その柱は、あたしの故郷のオークで作られてるんだ。店の匂いで酔っちまってるとこ悪いんだがね、ちっと奥においでな」

穏やかな笑みを浮かべる女の人に、焦りながら頭を下げる。
奥へと促されて、まだぼんやりしている彼女の手を引いた。


奥にはいくつかの机と椅子、そしてカウンターの席があった。どうやらここはカフェでもあったらしい。
カウンター席に座る。隣に座った彼女はおとなしく座ってはいるが、まだ視線は柱を向いたままだ。

「心配はいらないよ。猫は鼻がきくからねぇ。ハーブやアロマの匂いに酔っちまったんだよ。少し落ち着けば元に戻るさ」

女の人はそう言って、カウンターの向こうへ行く。店主なのだろうか。手際よく棚からガラスの瓶を選び、ハーブやドライフラワーを手早くブレンドしていく。不思議な模様の描かれたポットに入れて、お湯を注いだ。
ふわり、と湯気と共に甘い香りが立ちこめる。その香りに、彼女は柱からポットへと視線を移して、目を瞬いて首を傾げた。

「〝special day〟のブレンドをどうぞ。特別な日だけに振る舞われる、特別な一杯さ」

テーブルに置かれたカップの中には、色とりどりの花びらが浮かぶ琥珀色のお茶。
惹かれるように彼女の手がカップに伸びる。湯気を吸い込み、カップに口を付ける。

「――美味しい」

小さく呟いた彼女の爪は、元の綺麗に整えられた爪に戻っていた。

「よかった」

カップを両手で持つ彼女の指先を見て、小さく安堵の息を吐く。
初めてのことだ。祖先に猫がいたらしい彼女が、猫のように喉を鳴らしたり、動くものを追いかけることはよくある。
でもそれだけだ。彼女はちょっとだけ猫に近い人間の女の子で、猫ではない。そう考えていると安心した気持ちが萎んでいって、また不安が込み上げてくる。

「ごめん。迷惑かけて」
「だ、大丈夫だよ!迷惑じゃなくて、心配しただけだから。えっと、その……彼女が、いつもと違うって、ほら、心配になる、し……」

カップを手に肩を落とす彼女に、慌てて気にしないでと声をかけた。
迷惑なんてまったく思っていない。その気持ちが少しでも伝わればと、カップを持つ彼女の両手を包んで眼を合わせて告げる。

「迷惑なんかじゃない。僕は彼氏なんだから、彼女の心配はさせてよ」
「――うん」

頷いて俯く彼女の頬が赤い。つられて自分も顔が熱くなり、恥ずかしくなって同じように俯いた。
お互い何も言えず。でも手は離せずにいれば、カウンターの向こうから、くすくすと忍び笑いが聞こえた。

「仲睦まじいことは、とってもいいことさね。素直なのが一番だ」

視線を向ければ女の人が自分の前にカップを置きながら、楽しそうに囁いた。

「ようこそ、Aisling《アシュリン》へ。特別な日に訪れた、とても幸運なお客さん」

人差し指を口にあてる女の人――店主は、そう言って少女のようにも老婆のようにも見える目をして笑った。

「さて折角の〝special day〟だからね。魔法のフォーチュンクッキーでも如何かな?」

ことり、と小さな白のお皿が自分と彼女の間に置かれる。

「フォーチュンクッキー?」
「この国で言うところの、おみくじみたいなものさ。ひとつ取って割ってごらん?」

彼女と顔を合わせ、首を傾げる。彼女がカップを置くのをみて手を離し、代わりにクッキーに手を伸ばした。
鳥の形をしたクッキーを取り、力を入れて半分に割る。中から出てきた小さな紙片に目を瞬きながら、紙片を開いて中の文字を読んだ。

「――二人の恋は、前途多難……?」

思わず眉を寄せる。そんなこと、自分が誰より知っている。猫の祖先を持つ彼女と、雀の妖の自分。どんなに楽観的に見ても相性はとてもよろしくない。
小さく溜息を吐きながらクッキーをかじる。何だか悲しくなって彼女に視線を向けた。
彼女の指が猫の形をしたクッキーを手に取る。半分に割って中の紙片の文字を読んだ彼女が、そのまま動きを止めた。

「どうしたの?」

聞いても彼女は何も答えない。
ただ頬が先ほどよりも赤くなっていく。

「何が書いてあったの?」

気になって彼女の手元を見れば、小さな紙片には一言。

「――好きをキスで伝えれば、すべて大丈夫……?」

目を瞬く。

「キス……」

遅れて意味を理解して、顔が熱くなっていく。

「好きを……キス、で……」

彼女のクッキーから出てきた紙片。彼女の占いの結果。
つまりは、彼女が、自分に――。
ぽんっ、と情けない音を立てて、雀に戻る。忙しなく辺りを飛び回っていれば、店主に声を上げて笑われた。

「なんだい、なんだい。初々しいったらありゃしない」

笑いながらも、店主はカウンターの下から綺麗な青い缶を取り出す。

「キスが駄目なら、人間になれるチョコレートもあるが、どうするかい?」
「え?」

人間になれる。その言葉にカウンターに下りて、恐る恐る店主へと近づいた。

「まあ、これは別料金になるがね。雀の坊ちゃんが食べれば、猫の嬢ちゃんも安心だろう?」

どうする?と問われて、心が騒ついた。
もしも。もしも彼女と同じ人間になれたのならば。
彼女ともっと近く、隣にいられるのかもしれない。

「――やだ」

けれどそんな淡い期待で近づく足は、彼女の小さな呟きによって止まる。

「このままがいい。このままが好きなの。人の姿も、雀の姿も……全部が好きだから」

真っ赤になった彼女のその言葉に、急いで彼女の隣へと飛んだ。人の姿になって、泣きそうな彼女の背をそっとさする。

「僕も……僕も、そのままの君が好き。猫のような君が、大好き。ごめんね」

小さく謝ると、彼女は俯いたまま首を振る。顔を上げた彼女と目を合わせ、涙の膜が張ったその目を見て、力なく笑った。
彼女もまた眉を下げて笑い。その可愛い姿に惹かれて、自然とその頬に手を当てて、唇を寄せた。

「――っ!?」
「おやまあ」

店主のからかい混じりの声に、今更になって恥ずかしさが込み上げた。
力が抜けて席に座り、温くなったカップに口を付ける。仄かな甘みに息を吐いて、そっと横目で彼女を見た。
濡れた目と視線が合う。深い、森の奥にいるような緑色が真っ直ぐにこちらを見つめている。
その緑色が近づいて、見えなくなる。
代わりに頬に触れたのは、温かくて柔らかな――。

気づけば彼女の手の中で、雀の姿に戻っていた。


「どうやら心配はなさそうだ。なあに、どんな恋にだって、障害がつきものさ。それに悪い魔法を解くのはいつだって、好きな人のキスだって決まっているからねえ」

楽しげで穏やかな店主の声。
妖で在ることも、妖の衝動が残ることも、悪い魔法なんかではない。そう反論したいけれど何も言えず、力が入らず上手く動くこともできない。

「悪い魔法……」

小さく呟いて、彼女は目を瞬いた。指先で頭を撫でながら、彼女はひとつ頷いて。

「あ、戻った」

額に感じた熱。
人の姿を取り、額を抑えて後退った。

「分かった。頑張る」
「何を!?」

静かに何かを決意する彼女に、悲鳴混じりに問いかける。
色々なことがありすぎて、感情が追いつかない。思いが溢れて、じわりと視界がぼやけていく。

「さあさ、お二人とも席にお戻りな。〝special day〟はまだ始まったばかりだ。この魔女の隠れ家Aislingの、美味しい魔法をたあんと召し上がれ」

それでも、頬を染めて笑う彼女と、店主のにんまりとした笑みははっきりと見えた。



20250718 『special day』

7/20/2025, 6:54:13 AM